芥川龍之介 雑感 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)
[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『雜感』に拠った。クレジットはなく、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」にも目ぼしい書誌情報は全く載らない。しかし、先の「近藤君を送る記」が東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の最終学年五年の折り(満十七歳)のものであるから、それと同時期かそれよりも前の中学時代の作と葛巻氏は判断しているということになる。末尾に「・・・」(この記号は恐らく葛巻氏による未完を意味する添え記号ととれる(底本の他の未完断片に同じような記号が使用されてある。また、芥川龍之介の未完断片には旧全集でもこうした処理が成されてあるものがある)が、断定は出来ぬのでそのまま示した)とある通り、未刊の断片。
若き芥川龍之介の自負と鬱勃たるパトスが充満している。しかも既にして自らの自己撞着の末の悲劇の最期をさえ「揣摩」(しま:「揣」も「摩」はともに「おしはかる」の意で、ある対象の将来や他人の気持ちなどを推量することを指す)しているかのようにも読めることに、私は慄然とする。]
雜 感
天才の人は撞着の人也。超凡の生涯は撞着の生涯也。
撞着の人、天才の人なるにあらず。天才の人、撞着の人たらざる不能也。時代に撞着するは時代の天才也。凡人に撞着するは平凡なる哲人也。時代の天才を容れず、凡人の哲人を知らずに、𡡅の鵬程に萬里を笑ふ、豈是偶然ならむや。
[やぶちゃん注:「𡡅」は中文サイトを見ても意味不明。
「鵬程に萬里を笑ふ」「鵬程萬里」(ほうていばんり)という熟語は、遙か遠く隔たった旅路・道程の喩え。または限りなく広がる大海の形容。前途が洋々たることの形容に用いられることもある。「鵬」は想像上の巨大な鳥。背中の大きさは何千里あるか判らず、旋風(つむじかぜ)を起こして九万里の上空に飛び上がるという。「程」は「道程」の意。出典は「荘子」の「逍遙遊」。「𡡅」を、例えば、ただの雌鶏(めんどり)ととれば、凡才が天才の驚くべき飛翔、勇躍力を馬鹿にするの謂いか。]
既に時代、天才をいれず。撞着は誤解をうみ、誤解は不安をうみ、不安は猜疑をうみ、猜疑は嫌惡をうむ。於是滔々たる天下の凡人は天才を見て、不羈の狂者と罵り、不伴の鈍物と嘲り、不屈の痴漢と笑ふ。菫花、長松を仰いで「松檜は愚なる哉、花ひらかず。」と云へる古の物語のみ。
[やぶちゃん注:「不羈」(ふき)はここでは単に「並外れた」「とんでもない」の意。
「不伴」「ともに連れ添うことの出来ない」であろう。]
幾多の天才が彼等の轗軻になき、彼等の不遇に哄ひ、しかも混沌たる凡俗の中に墮落する能はざるの、亦是が故にあらずや。
[やぶちゃん注:「轗軻」(かんか)は(「車が思うように進まない」の意から)「世間に認められないこと・志を得ないこと」の意で、後の「不遇」も同じ。
「哄ひ」「わらひ」。]
然れ共、天才の達眼は所謂輿論の外に超越す。同一なる水平線上にある撞着の人より見れば不羈の狂者は一代の天才也。不伴の鈍物は一世の哲人也。是英雄英雄を知るの所以。鐘子期死して伯牙絃を斷てるの所以。荊軻死して高漸離再筑をうたざるの所以也。
[やぶちゃん注:「鐘子期死して伯牙絃を斷てる」春秋時代の楚の人鐘子期(しょうきし)は、琴の名人であった友人伯牙の音楽の理解者として知られ、その死後、伯牙は琴の糸を切って生涯演奏しなかったという故事に基づく。ここから互いによく心を知り合った親友を意味する「知音(ちいん)」の成句が生れた。
「荊軻死して高漸離再筑をうたざる」荊軻(けいか ?~紀元前二二七年)は戦国時代末期の知られた刺客。燕の太子の命を受け、策略を用いて秦王の政(後の始皇帝)を暗殺しようとしたが、失敗し、殺された。高漸離(こう ぜんり)は荊軻の親友。音楽をよくし、楽器の筑(ちく:中国古代の打弦楽器であるが、現物は今に伝わらない。琴に似ているが、弾奏するのではなく、竹(「竹」と「筑」は通音)の棒で弦を叩いて音を出した)を撃つのが巧みであった。荊軻による始皇帝暗殺失敗の後、隠れたが、筑を以って再び知られるようになり、始皇帝に召された。始皇帝は、高漸離が荊軻の友であることを知るが、高漸離の音楽の才を惜しんで、その眼を潰して、側近として置き、筑を撃たせては賞美した。後に荊軻の志を遂げるべく、始皇帝の前で筑を演奏している最中、鉛を仕込んだ筑を投げつけ、殺害しようとしたが、失敗、臣下によって誅殺された(以上はウィキの「荊軻」に拠った)。]
再び云ふ。天才の人は撞着の人也。内なる非凡は常に外なる平凡にかくる。寸蛇を見て、その蛟龍たるを揣摩す、・・・
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