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2019/12/29

芥川龍之介 暑中休暇の日誌 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』の最初に載る「暑中休暇の日誌」に拠った。既に述べたが、本書の「初期の文章」大パートは逆編年配列(小パート内も)という特殊なものである。

 本篇は明治三七(一九〇四)年の七月二十一日(木曜)から同年八月三十一日(水曜)までの、当時、芥川龍之介が在学していた江東尋常小学校(現在の墨田区立両国小学校の前身であるが、明治四十一年に江東小学校は相生尋常小学校を併合して相生尋常小学校に変わり、校名変更が四度あった後、昭和二六(一九五一)年三月一日に東京都墨田区立両国小学校と校名変更している。「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)によれば、芥川龍之介在学当時の校名「江東」の読みは「こうとう」であり、また、関東大震災によって校舎が全壊・全焼したため、芥川龍之介の学籍簿等は、現在、残っていないとある)高等科(同小学校入学は満六歳の明治三一(一八九八)年四月で、高等科入学は明治三十五年四月)三年次の夏季休暇中の日記である。

 しかも、この年と、この日記の期間は芥川龍之介にとっては忘れられぬ年であったはずである。何故なら、先立つ同年三月九日、実家新原(にいはら)家では親族会議が行われ、龍之介を新原敏三の推定家督相続人から廃除する訴訟の請求が決せられ、五月四日、東京地方裁判所民事部法廷に十二歳の龍之介が当該訴訟の被告として出廷させられ、裁判長の尋問を受け、六日後の五月十日に推定家督相続人から廃除の判決を受けているからである。しかも、当該日には何らの記載もないが、実は夏季休暇の終わる直前、八月三十日、新原家から除籍され、芥川道章と養子縁組して(本所区役所へ届出)龍之介は芥川家の養嗣子となって、新原龍之介は芥川龍之介となったのであった。なお、本日記当時の芥川家は本所区小泉町十五番地(現在の墨田区両国三丁目二十二番十一号。グーグル・マップ・データ)にあった。

 平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」によれば、原稿が現存し、山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集」(一九九三年刊)に載り、新全集の宮坂覺氏の年譜の同年の記載の多くは、それ、則ち、本篇の原稿に依って記載されてある。私は「芥川龍之介資料集」の現物さえ見たことがないので、ここでは宮坂年譜の記載と内容を校合した

 標題脇には葛巻氏による、

   〔――満十二歳――〕

と言う添え辞があるが、除去した。

 読点は一切ない。〔 〕は葛巻氏による補正挿入で、多数ある。踊り字「〱」は正字化した。日録の間は行空けがないが、一行空けた。]

 

   暑中休暇中の日誌

 

 七月二十一日 曇後晴

 下女に搖り起されて 折角樂しく進んで居た夢の國を離れたのは 丁度五時三十分でした いやなセピア色をした雲が二ツ三ツ 御用[やぶちゃん注:右に葛巻氏による『〔五葉〕』の補正注がある。]の松の木のかげから靜かに吹き透る朝風にあほられて面白いよー[やぶちゃん注:ママ。以下、同様の箇所が何度も出てくるが、注しない。]に流れて行くのを眺めながら 朝飯をしたゝめました 食後一定の復習を完へ 二三の友人を訪れたり 地圖の制作や 作文の原稿を作つたりして 十時迄費しました

 十時半頃 弟と叔母とが來たので 折角樂しみにして居た讀書も 十二分に出來ませんでした 晝頃 弟が晝寐をしてゐる中に又々地圖や圖畫をかきました が 起きはしないかと氣づかふ有樣は とんだ賴山陽先生でありました 今夜 叔母と弟〔は〕自分の家に泊る事になりました 寢床九時二十分

 

[やぶちゃん注:今時の中一生も、当時の私も、自らを歴史家・漢詩人で画人としても知られた頼山陽(安永九(一七八一)年~天保三(一八三二)年)に擬するような仕儀は成し得ない。早くも芥川龍之介の自負が垣間見える。但し、事実、小学校入学時の芥川龍之介は洋画家志望であったことは余り知られていないであろうから、言い添えておく。

「弟」芥川龍之介の異母弟で七つ下の新原得二(にいはらとくじ 明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)。芥川の実父新原敏三と、実母フクの妹(芥川龍之介の叔母)であったフユとの間に生まれた。この当時は、未だ満五歳。龍之介がやさしい気遣いをしているのが微笑ましい。彼は父敏三に似た野性的な激しい性格の持ち主で、後、上智大学に進学したが、中退した。岡本綺堂について、戯曲「虚無の実」を書いたりもしたが、文筆には満足出来ず、後、日蓮宗に凝りだしたりして、しばしば芥川を悩ませた。芥川は死に際しての妻文(あや)宛の遺書の一つで、実姉ヒサ(底本編者葛巻義敏氏の実母で龍之介より四歲年上)及びこの得二とは絶縁せよと命じていたともされる(推定される当該部分が破棄されているために確言は出来ない)。私の「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」の私の注を参照されたい。

「叔母」新原(旧姓芥川)フユ。芥川龍之介にとっては義母でもあるが、彼は彼女のことを「芝の叔母」と呼んだ。]

 

 七月二十二日 曇後[やぶちゃん注:以下、なし。]

 起床 六時四十分

 今朝はステキに朝寢坊をしたが 復習 地圖共に少し許りやりました しかし 許〔り〕と云つても 決してなまけたのではないので 讀書は弟にかくれて思ふ樣やりました

 夕方弟や叔母とつれ立て叔母の家に赴きました 叔母の家は芝なので三田行の電車に駕して居ねむりを仕い仕い[やぶちゃん注:「しいしい」。]目的地(大げさですが)についたのは八時頃でした 寐床八時三十分

[やぶちゃん注:「寐床」「びしやう(びしょう)」と読んでおく。就寝。]

 

 七月二十三日 半晴半曇後雷雨[やぶちゃん注:土曜日。]

 今朝は昨日の失策を取りかへして臥床をはなれたのは午前四時でありました 直さま [やぶちゃん注:「すぐさま」。]屋根傳[やぶちゃん注:「づたひ」。]に火見に登〔つ〕て 淸らかな朝景色をながめた時の心持は眞に何とも言へない感にうたれて 丁度神樣の前へびざまづいた樣でありました 讀書で一日を暮しました 夕方 霹靂空をつんざき雷光目に燒金をさすが如しの恐しい光景が演ぜられて 自分は蚊帳の中にうづくまり「桑原桑原」をつゞけました 此の日の雷は大凡二十三所ばかりもをちた[やぶちゃん注:ママ。以下、同様の表記が多数出るが、注さない。]と云ふ事です 落雷した所のさけた竹のくづや杉の皮などをもらひに來る者がたくさんあるとは迷信者の多い世の中哉[やぶちゃん注:「かな」。] 但それが雷よけになると云ふので

[やぶちゃん注:「火見」「ひのみ」でこれは「火の見櫓」の略であるが、ここは家の屋根の上の物干し台のような場所であろう。]

 

 七月二十四日 半晴半曇

 晝迄は兼てたづさへて來た敎科書をひもときました 晝過 叔父及姊弟と共に新宿の角力を見物しました

 夕方 そばの草原でとらへた甲虫を御生大事とぶらさげて櫓〔太〕鼓の音に送られながら家に(叔母の)かへつたのは六時三十分でした 寐床七時三十分(頗る早寐です)

[やぶちゃん注:当時の夏場所は新宿で興行されていたものか。因みに面白いことに、先代の国技館は京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。幼少期の芥川龍之介の馴染みの遊び場である。但し、その旧国技館は明治四二(一九〇九)年竣工である。]

 

 七月二十五日 雨後曇

 起き上りざま雨戶を開けばチヨツ失敬な 太陽はザーザーザーザー雨をふらしているので「ひどい奴」と少からず太陽をうらんだが その恨言が聞えたと見えてやがて雨もふりやみました

 晝過 父がむかひに來たのでつれだつて家にかへりました かへりに星の光が二ツ三ツハイ左樣ならとでも云ふよーに雲間からもれていました。

[やぶちゃん注:「父」とは、ここでは未だ養子縁組が行われていない芥川道章(実母フクの兄)のことであることに注意。芥川龍之介は生れて未だ八ヶ月の時に母フクが精神疾患を発症したために、フクの実家であった道章の家に引き取られ、そのままそこで道章とその妻儔(とも)及び伯母フキ(実母フクの姉で道章の妹。芥川龍之介に大きな影響を与えた人物である)に養育されてきたのである。以下での単なる「父」は総て芥川道章である。]

 

 七月二十六日 曇後晴

 今朝起きぬけに日頃愛玩している樫のステツキ(木刀にちかい)をふりまはしながら 大川端を散步しました 綠の糸をたるゝ柳や まつくろな木立や 淸々した川の流れや 蟹の甲らをならべたよーな石崖などが のどかな朝日に照らされて 〔一〕緖によろこびの聲を上げて之をむかへるよーにかゞやき渡つています 此の趣のある氣高い[やぶちゃん注:ここに底本では『〔この間脫字〕』ありと葛巻氏の割注がある。]見とれて暫く往來に立づんで[やぶちゃん注:ママ。]をりました 家にかへつてから父に日記を見せたところが「もう一寸字をきれいに御書き」と云はれました

 

 本日 新宿から攜へてきた甲蟲を標本に製作し 又地圖に[やぶちゃん注:「に」の右横に葛巻氏は『〔は〕』と訂正注を施すが、寧ろ「には」の「は」の脱字とした方がよいようにも思われる。]一日をくれましたが 今日で全部出來ました

[やぶちゃん注:芥川龍之介は昆虫好きの少年であった。後に「昆蟲採集記」(二篇)を電子化する予定である。]

 

 七月二十七日 曇

 今日から二つ役目を〔引〕受けました 曰く庭掃除 曰く掃除 掃除と云ふのは 自分の居間と食堂と寐室とを兼ねている四疊半の一間を片づけるのです 復習讀書 例如

 夕方 のりの强いゆかたを着て庭の松の下の影に涼みました えも云はれぬ涼風に 思はず 夕月と此の秋風を吾一人こゝに占たり[やぶちゃん注:「しめたり」。]菩提樹の影の歌を思ひ出しました 松と菩提樹 夏と秋 ところ違へ 涼しさの甲乙はありますまい

[やぶちゃん注:一首の作者と出所は不明。識者の御教授を乞う。]

 

七月二十八日曇後雷雨

「今日は」と筆をもつてももう書きつゞけることは出來ない次第 一學期の御褒費[やぶちゃん注:ママ。褒美の芥川龍之介の誤字。]として兼て文してあつた蘆花の思ひ出の記がきたので 復習も何もかも休んで之を通讀しました 蓋しこの本は自分にとつては唯一の興奮ざい[やぶちゃん注:「劑」。]で 少なからず「勉强は幸福の基」と云ふ格言をたしかめる事が出來ました

 けれ共 むらむらも〔え〕出た勵[やぶちゃん注:「はげみ」。]の焰は いつ怠惰の水に消される事やら

[やぶちゃん注:「蘆花の思ひ出の記」德冨蘆花(明治元(一八六八)年~昭和二(一九二七)年:彼は「冨」字に拘ったのでここでもその表記を用いた)の自伝的長編小説「思出の記」(おもひでのき:明治三四(一九〇一)年五月民友社刊。初出『国民新聞』明治三三(一九〇〇)年三月から翌年三月連載)。小学館「日本大百科全書」から引くと、『九州の士族、菊池慎太郎は、幼時、家業の破産と父の死に』遇い、『母に家名再興を迫られて』、『発奮』、『やがて出郷』し、『苦難を重ね』て『帝国大学文科を卒業し、愛するお敏(とし)と結婚、在野の評論家として身をたてるまでになる。その間、キリスト教に触れ、自由人的な生き方に目覚める』。作品の終りの『帰省の場面に描かれている新吾の炭鉱経営と松村の農業』の生計の姿は、『蘆花の理想であった。明治前期の時代の上昇気運を明るく描いた浪漫』『主義文学の傑作で』、蘆花はチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens 一八一二年~一八七〇年)の名作で自伝的小説「デビッド・カパーフィールド」(David Copperfield:初出は雑誌連載で一八四九年から一八五〇年)を手本としつつ、『蘆花自身の思い出の断片を生かして書』いたものとされる。さても私も蘆花の大ファンなのだが、最初に「自然と人生」を読んだのは高校二年の時だった。ただ、蘆花の家庭小説は当時、「不如帰」(明治三十三年民友社刊。初出『国民新聞』一八九八年から翌年連載)で爆発的流行作家となり、多くの若者に読まれた。芥川龍之介の「小說を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」(大正八(一九一九)年一月一日発行の『新潮』初出。リンク先は私のもの)では『德富蘆花の「思ひ出の記」や、「自然と人生」を、高等小學一年の時に讀んだ』とある。本日記三年次であるが、これは記憶の錯誤というよりも、初出の『国民新聞』版を幾つか読んでいたものと混同している可能性もあろう。]

 

 七月二十九日 曇後雷雨

 昨日の日記は筆が走つて何だか解らぬ事を書いてしまつたので 後で氣がついたがもう駄目 後の後悔前にたゝずでした

 晝頃から叔母が(但弟をつれずに)來て 雜多な話をしている中にポツリポツリ豆粒(チト誇大なれど)の雨がをちてくると同時に ガラガラガラと前から恐がつていた雷公が 雷獸の皮ではつたらしい太鼓をたゝきはじめました しかしさのみはげしくはないです

 雨が晴れる 叔母が歸る 號外が出る 父が歸つてくる 蛙がとび出す 日が暮る 蚊音樂を奏す 足が赤くふくらがる 蚊張をつる 寐る 後は有耶無耶の鄕

[やぶちゃん注:「號外が出る」この日の号外とは日露戦争に於ける「旅順攻囲戦」の前哨戦のそれである。日本陸軍第三軍は同年七月二十六日に旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始し、その主目標を東方の大孤山とした。三日間続いた戦闘で、日本軍二千八百名、ロシア軍千五百名の死傷者を出し、三十日、ロシア軍は大孤山から撤退している。この明治三十七年七月二十九日附の『報知新聞』の『第二號外』の現物写真をオークション・サイトで見つけた。そこには(「●」は現物では中央が小さく丸く白抜きである。画像は小さかったが、拡大して以下のように全文を判読出来た)、

   *

   ●旅順の大海戰

      (敵艦隊の殲滅)

今朝七時旅順の敵艦は數を盡して突出し我東鄕艦隊と激戰を交へたり

敵艦は我艦隊の大打擊を受けて殆んど殲滅され我艦隊にも多少の損害ありたり

[やぶちゃん注:以上は上段。以下は下段で現物ではポイント落ち。]

右は部下の某所に達したる報道なるが我社の門司特派員より午前七時旅順方面に大砲聲ありたりと急報し來れる特電に照合すれば事實海戰ありしものゝ如し尙ほ確報を得て詳報すべし

   *

と読めた。芥川龍之介が見たものがこれとは限らぬが、まず、この事件の号外であろう。但し、前に記した前哨戦は陸軍によるもので、それと平行して海軍が海戦を行ったとする記載は私は見出せなかった。別にこうした海戦があったものか、それとも陸戦の誤認か、或いは、海軍が陸軍の孤山攻略に援護射撃をした結果としてロシア艦隊との間に小競り合いがあった事実か風説かが、よく判らぬ。]

 

 七月三十日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 今日は兼て入會すると云〔は〕れていた宇田君や 坂口君や 村越君や 深町君へ送りとゞける遊泳協會(自分の行つている水練場)の規則書を 前にも云つた 諸君へとゞけました 但深町君は住所がわからぬので宇田君に托してきました 其他 復習 讀書

 夕方 前の諸君(但深町君を除て)と柳橋の内外裝飾株式會社へ水泳帽子を求めに赴き歸途兩國廣小路の燈籠を見物しましたけれども あンまり面白い繪はなく 大體殘〔酷〕な繪や馬鹿馬鹿しい繪ばかりでした

[やぶちゃん注:成人した芥川龍之介が文字通りの「河童」で水泳が得意であったことはよく知られえいるが、この日記は――河童になる芥川龍之介の記録――でもあるのである。「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「江東小学校」の項のコラムによれば、『龍之介の江東小学校時代の頃の大川(隅田川)は、水は汚れておらず、水泳に適し、川端には水泳場が用意されていた。身体の弱かった龍之介は、級友の清水昌彦・吉田春夫らと、ここに通って水泳を習った』とある。また、芥川龍之介が恋慕した一人佐野花子氏(海軍機関学校英語教官であった時の同僚の若妻。芥川龍之介の研究者は一人残らず、彼女が芥川龍之介に愛されたと主張する当該書は妄想の類いとして全く問題にしないが、私は誤認やある種の病的な錯誤部分はあるものの、佐野花子氏のそれは芥川龍之介研究の中でもっと正当に扱われ、復権されるべき書物であると大真面目に思っている人間である)『「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (三)』のシークエンスが私は忘れられないが(同書は昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊で佐野花子・山田芳子(花子の娘)著)、芥川龍之介の「追憶」(大正一五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載され、後に『侏儒の言葉』に所収された。リンク先は私の古い電子化注サイト版)にも「水泳」の条がある。

   *

       水  泳

 僕の水泳を習つたのは日本水泳協會だつた。水泳協會に通つたのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通つた筈である。當時は水泳協會も蘆の茂つた中洲から安田の屋敷前へ移つてゐた。僕はそこへ二三人の同級の友達と通つて行つた。淸水昌彦もその一人だつた。

 「僕は誰にもわかるまいと思つて水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびつくりしてしまつた。ウンコは水よりも輕いもんなんだね。」

 かう云ふことを話した淸水も海軍將校になつた後、一昨年(大正十三年)の春に故人になつた。僕はその二、三週間前に轉地先の三島からよこした淸水の手紙を覺えてゐる。

 「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併發してゐる。妻は僕と同じ病氣に罹り僕よりも先に死んでしまつた。あとには今年五つになる女の子が一人殘つてゐる。………まづは生前の御挨拶まで」

 僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思ひ、なんとか云ふ發句を書いたりした。今はもう發句は覺えてゐない。併し「喉頭結核でも絕望するには當たらぬ」などと云ふ氣休めを並べたことだけは未だにはつきりと覺えてゐる。

   *

引用に登場する「淸水昌彦」(?~大正一四(一九二五)年)は江東小学校及び東京府立第三中学校時代の芥川龍之介の親友で回覧雑誌仲間の一人。明治三九(一九〇六)年の三中一年次生だった芥川龍之介が書いた、近未来の日仏戦争を描く、夢オチ空想科学小説「廿年後之戰争」(回覧雑誌『流星』に書いたもの)の中で、好戦の末、轟沈する『帝國一等裝甲巡洋艦「石狩」』の最期を報じる「石狩分隊長少佐淸水昌彦氏」として登場している。さらに、芥川龍之介の「本所兩國 附草稿 附やぶちゃん注」(昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回の連載(二日分が休載)で『大阪毎日新聞』の傍系誌『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記」を附して連載されたもの。芥川龍之介は大阪毎日新聞社の社員である)から「大川端」の一部を引用しよう。

   *

僕の水泳を習ひに行つた「日本ゆう泳協會」[やぶちゃん注:「ゆう」のひらがなはママ。]は丁度この河岸にあつたものである。僕はいつか何かの本に三代將軍家光は水泳を習ひに日本橋へ出かけたと言ふことを發見し、滑稽に近い今昔の感を催さない譯には行かなかつた。しかし僕等の大川へ水泳を習ひに行つたと言ふことも後世には不可解に感じられるであらう。現に今でもO君などは「この川でも泳いだりしたものですかね」と少からず驚嘆してゐた。

   *

「柳橋」東京都台東区柳橋(グーグル・マップ・データ)。

「兩國廣小路」中央区東日本橋にある両国橋の両袂を指す(グーグル・マップ・データ)。

「燈籠」名越祭りの燈籠祭りか。鎌倉のぼんぼり祭りみたようなものか。]

 

 七月三十一日 大雨大雷後曇

 本日は二十三日の雷のよーに鳴て鳴り通し をちてをちてをちとーしました なんぼ多く落るにしろ 三十五ケ所迄をちるとは 實に驚くより外はありません

 復習も何も休で 水の中ヘポチャポチャ入て遊びました 寐床八時

 

 八月一日 晴

 今日 朝から大島君が來たので 晝迄二人して遊びました 晝過 宇田 坂口 村越の諸君と水泳を試みたが(大島君も一しよに行つたが 御藏橋の邊に釣を見ていられた)水が獨待つている[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]のと大島君が待つているので 早くかへりました 四時頃大島君歸宅 寐床九時十分

[やぶちゃん注:「大島」大島敏夫。回覧雑誌仲間の一人。]

 

 八月二日 晴

 早朝 庭前で赤蛙を一匹殺しました 蓋し骨格を作る目的で

 復習 讀書 如例 綠のかげをなす柳の下で禁を破つて 晝寐をしました 晝過 いつもの如く水泳 寐床十時二十分前

[やぶちゃん注:「禁を破つて」こう書くからには、これは単に芥川龍之介自身が自身に課したものであったのであろう。]

 

 八月三日 曇小雨

 いやなまつくろな雲が二つ三つ北の方にあたまを出したと思ふともう空一面にひろがつて まるでうすゞみの樣な色になつたので 樂しい水泳も出來ず 復習と讀書とにふけりました。午前小雨がありました

 

 八月四日 曇小雨

 又今日も曇……雨さへショボショボふつてくるし「チエースト天とうの馬鹿野郞め」抔[やぶちゃん注:「など」。]と氣狂のよーにどなつたりしていました 今日も又讀書復習遊戲 寐床八時二十分

 

 八月五日 晴

 上天氣上天氣 紺丈色[やぶちゃん注:「紺靑色」の誤記。]をした限りない大空は 待ち兼ていた僕等にその顏を見せました 讀書復習例如水泳後ザツと湯をあびて いゝこゝろ持に寐たのは 九時十五分

 

 八月六日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 今日晝前は例によつて復習讀書洒掃 童すぎ水泳 夕方友人K生(名前は云はぬが江東學校の人ではない)と 明治座の活動寫眞を見物しました 寢床十一時

[やぶちゃん注:「洒掃」は「さいさう(さいそう)」で、「灑掃」とも書き、「洒」も「灑」もともに「水を注ぐ」の意で、水をかけたり、塵を払ったりして綺麗にすることで、「清掃」に同じい。]

 

 八月七日 晴

 今朝昨夜のつかれで八時迄寐すごしました 復習讀書水泳例如 但し復習はまだ少し寐い[やぶちゃん注:「眠(ねむ)い」の誤記。]ので十分に出來ませんでした 寐床八時十分

 

 八月八日 晴

 今朝? いや大分前から冒頭へ今朝ををく[やぶちゃん注:ママ。]が 今朝 朝の内は散步をし かえるとすぐ復習 と云ひたいが これは今日は休みました 讀書水泳例如

[やぶちゃん注:頭の部分は自分の自動作用に批判を述べているのである。流行作家になった後の芥川龍之介も、自身の創作活動の自動作用的傾向には敏感でよく自己批判をしている。「藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月発行『新潮』初出、リンク先は私のサイト版)の一節で龍之介はこう書いている。

   *

 樹の枝にゐる一匹の毛蟲は、氣溫、天候、鳥類等の敵の爲に、絶えず生命の危險に迫られてゐる。藝術家もその生命を保つて行く爲に、この毛蟲の通りの危險を凌がなければならぬ。就中恐る可きものは停滯だ。いや、藝術の境に停滯と云ふ事はない。進步しなければ必退步するのだ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは藝術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた。

   *]

 

 八月九日 晴

「水泳くらい愉快なものはあるまいよ 海國男子の本分とする云々」と云う議論をはいて大に水ををそれている[やぶちゃん注:「をそれ」「いる」孰れもママ。]所謂 猫また男をしてへこましたのは今朝の九時ごろでした 讀書復習例の如し

 

 八月十日 晴

 今日はもうずつと前に作り完つた地圖を出して見たところが アジア露西亞の部が氣に喰ぬので 新に作〔つ〕たり何かして晝迄を消しました[やぶちゃん注:「過ごしました」「費(ついや)しました」などの誤記か。] 其他無事

 

 八月十一日 晴

今日はひる前から弟と叔母とが來て晝前はまるで遊んでくらしました 晝過水泳 但今日は弟がいるので早くかへつてきました 弟は夕方「今日はおうちの方に花火があンのよ」と云ふてかへりました その日が芝浦の花火があつたので

 

 八月十二日 晴

 今日水練揚にいつて見ると 昨日迄僕と一つ五級生でいた人が四級生になつて居るので その譯をきいて見ると 昨日自分がかへつた後で試驗があつたとの事 自分少なからず否非常に怒り且非常に口悔しがりました 復習讀例如

 

 八月十三日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 水練の事で持ちきりますが 今日自分と靑田君とは四級生の試驗をうけて まづまづ及第しました

 うれしまぎれに直[やぶちゃん注:「すぐ」。]吉田君と協會をとび出して 柳橋へ級章を買に行きました

 

 八月十四日 晴

 晝前は復習讀書

 晝過は水泳

 最も今日は遠泳會を催す筈のが延期して やつぱりいつもの通り水泳があるのです

 

 八月十五日 晴

 復習は今日休で 遊戲と讀書とで晝迄を費し 晝すぎは例の通り水泳ですが 三級生や二級生にもぐらされて二三杯氷の變躰をのまされました

[やぶちゃん注:「氷の變躰」水の洒落。]

 

 八月十六日 晴

 復習水泳讀書等 例〔の〕如し 夕方宇田君と帽子をかひに行きました それから杉江君も訪て

 

 八月十七日 晴

 一寸云てをきますが 日記が七月の三十一日以來短くなつたのは あまり前に長たらしく書たので紙數に缺乏をつげそうなのです

 今朝自分の幼稚園時代の折物や何かをとりだして見ましたが 自分がこんなものを書いたり拵へたりしたかと思と何となく床しいよーな感が起て……その中に目の前へ幼稚園時代の人々の姿が夢のよーにあらはれて「御久しぶり」抔と昔の通な[やぶちゃん注:「とほりな」。]あどけない聲で話かける あゝ昔にかへつたかと顏をあげると矢張自分の部屋 なんにもいない 晝時の號砲にこのくだらない夢想をやぶられました

 水泳讀書共平日の通り 寐床八時十五分

[やぶちゃん注:当初より感じているが、この日誌は学校から提出を命ぜられているのではないかと私は推測している。ここの弁解染みた敬体で書かれたそれも、そうした提出物として教師に読まれることを強く意識しているのとしか思われない。

「缺乏をつげそうなのです」「そう」はママ。「つげそう」(正しくは「つげさう」)は「とげそう(同前「とげさう」)の誤記か、葛巻氏の誤判読ではなかろうか。

「幼稚園時代」実は江東小学校の濫觴は、「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「江東小学校」の項によれば、明治五(一八七二)年に、少年期の芥川龍之介のフィールドであった回向院(グーグル・マップ・データ)の民家を借りて戸枝一(「とえだはじめ」か)が幼育社という寺子屋を起こしたのに始まるそうで、明治八年十月に回向院に隣接した場所に学舎が建ち、小学校となった初めから幼稚園が附属していた。芥川龍之介もその江東尋常小学校附属幼稚園に明治三十(一八九七)年四月五歳の時に入園し、一年間通っている。先に引いた芥川龍之介の「追憶」にも、

   *

       幼稚園

 僕は幼稚園へ通ひ出した。幼稚園は名高い囘向院の隣の江東小學校の附屬である。この幼稚園の庭の隅には大きい銀杏が一本あつた。僕はいつもその落葉を拾ひ、本の中に挾んだのを覺えてゐる。それから又或圓顏の女生徒が好きになつたのも覺えてゐる。唯如何にも不思議なのは今になつて考へて見ると、なぜ彼女を好きになつたか、僕自身にもはつきりしない。しかしその人の顏や名前は未だに記憶に殘つてゐる。僕はつひ去年の秋、幼稚園時代の友だちに遇ひ、その頃のことを話し合つた末、「先方でも覺えてゐるかしら」と言つた。

 「そりや覺えてゐないだらう。」

 僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心もちがした。その人は少女に似合はない、萩や芒に露の玉を散らした、袖の長い着物を着てゐたものである。

   *

とある。或いは……十二歳の芥川龍之介も……まさにその女の子の姿や声を……この時……思い出していたのではなかったろうか…………

「折物」不詳。折(をり)の物の脱字か。]

 

 八月十八日 晴

 起床五時十分前

 起き早々昨夜種板を入れてをいたカメラを小脇にして目的もなく手當次第二三枚うつしてかへりました

 現像もうまくいつてまあまあ ボンヤリ?出來ました 復習讀例如 但水泳も

[やぶちゃん注:「ボンヤリ?出來ました」はママ。「?」の後には字空けはない。

「種板」「たねいた」。写真の感光板。

「カメラ」ピンホール・カメラであろう。]

 

 八月十九日 晴

 今日は別段之と云て記すべき事もないので只明日の花火に使ふと云ふ摸造[やぶちゃん注:「もざう」。「模造」に同じい。]軍艦レトウイザンを見ました 復習讀書水泳例如

[やぶちゃん注:「軍艦レトウイザン」レトヴィザン(Ретвизан:原音音写は「リトヴィザーン」に近い/ラテン文字転写:Retvizan)はこの当時はロシア帝国海軍の戦艦。日露戦争に参加したロシア戦艦中で唯一のアメリカ製の軍艦であった。日露戦争の「旅順攻囲戦」でこの年の十二月六日に旅順港内で日本陸軍(第三軍。司令官乃木希典大将)麾下の二十八センチメートル榴弾砲の曲射砲撃により大破して沈没したが、戦後、引揚げられて修理され、日本海軍の戦艦「肥前」となった。ウィキの「レトウイザン(戦艦)」を見られたいが、勿論、ここはそれを模した、嘗ての両国川開き花火大会用のミニチュアの模造品である。次の日記でそれがどんな目に遇わされたかがよく判るが、まさか、芥川龍之介に限らず、同戦艦が文字通り、四ヶ月に日本軍によってこの模造品同様に沈没させられたばかりか、後に日本の戦艦になって蘇るとは、これ、思っていた者は誰もおるまいよ。

 

 八月二十日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 今日の復習は解〔け〕なかつた「潅槪[やぶちゃん注:「灌漑」の誤字。]」の講義も出來て(これはこの講義が解ぬ[やぶちゃん注:「とけぬ」。]ので五六日前先生の所へうかゞいに上〔つ〕たのでそれが今日又あつたからです)まづ樂になつたので 讀書 晝過水泳 夕方から花火見物をしました しかし折角の軍艦燒打は見ませんでした

[やぶちゃん注:前半の部分は「灌漑」という文字と、その意味する行為がどのようなものであるかを理解し、自分で文章にすることであろう。今時、中学一年生には意味は分かっても、「灌漑」の漢字自体が殆んどの者が書けず、読める者も半分もいないであろう。]

 

 八月二十一日 晴

 復習讀書例如 今日水練場で三級生の試驗をしましたがその結果は十中の九箇九分の八は落第です 寐床九時二十分

[やぶちゃん注:「十中の九箇九分の八」九十九・八%の謂いか。]

 

 八月二十二日 晴

 復習は休んで讀書と遊戲とで一日を完りました 水泳にも行〔つ〕て それから書き落しましたが、一昨日夜になつてから弟が來たので それで復習を休〔ん〕だので言譯のよーですが一寸と云〔つ〕てをきます 今日夕方弟と叔母とは芝へかへりました 寐床十時二十分前

 

 八月二十三日 晴

 今年は昨年のよーに房州にも行〔け〕なければどこへも行〔け〕ないと云ふのは 親類に重病人が出來て食物萬端皆灌腸して腹中にをさめるので 完にはそれさへきかなくなつて仕まつたので親類の事ではあるしするからそれを見合せたのだそうです

 今年は河に飽きた躰を漫々たる夏の大海原にさらし 町に倦〔ん〕だ躰を鬱蒼たる樹林に橫へて仙人然たる境がい[やぶちゃん注:「境涯」。]にせめて休暇の半分もをくる[やぶちゃん注:ママ。]つもりであつたのが悉く破れて矢張東京の塵くさい空氣を呼吸する事になりました 讀書復習水泳いづれも例の如し

[やぶちゃん注:「昨年のよーに房州にも行〔け〕なければ」この前年の明治三六(一九〇三)年の夏には、千葉勝浦の鈴木太郎左衛門(芥川龍之介の実父新原敏三の経営する牛乳業「耕牧舎」の霊岸島支店にいた南雲多吉の親戚)に、新原・芥川両家の人々と一緒に訪れている。参照した新全集の宮坂年譜には『鈴木方には、この年から大正初年まで、ほとおんど毎年出かけた』とある。

「親類に重病人が出來て」不詳。義母である道章の妻儔(とも)の縁者であろうか。]

 

 八月二十四日 晴

 今日は復習を休〔ん〕で讀書と遊戲と水泳で日をくらしました 但今日水泳場で水泳帽子を失したので 今日四級になつた湊君とそれを藏前へ買ひに行きました

 

 八月廿五日 晴

 讀書復習水泳例如 水泳から歸〔つ〕てきて自分の部屋の市區改制を行〔つ〕て 本箱机等を整理しました

[やぶちゃん注:「市區改制」ウィキの「市区改正」より引く。都市近代化政策としてのそれは、明治二一(一八八八)年に『内務省によって東京市区改正条例』『が公布され、東京市区改正委員会(元府知事の芳川顕正が委員長)が設置された。建築物の規制などは当初検討されたものの』、『結局』、『行われなかった』。翌一八八九年には『委員会による計画案(旧設計)が公示され、事業が始まった』ものの、『財政難のため』、『事業は遅々として進まなかった』。しかし急激な『都市化の進展から事業の早期化が必要』となり、本日記の前年である明治三六(一九〇三)年に『計画を大幅に縮小(新設計)し』、『日露戦争後の』明治三九(一九〇六)年には『東京市に臨時市区改正局を設置、外債を募集して、日本橋大通りなどの整備を急速に進め』、大正三(一九一四)年に『ほぼ新設計』通りの『事業が完成した』。『主に路面電車を開通させるための道路拡幅(費用は電車会社にも負担させた)、及び上水道の整備が行われた。現在の日本橋もこの事業で架け替えられた。神田・日本橋・京橋付近では道路拡幅に伴い、従来の土蔵造の商家に交じって、木造漆喰塗の洋風建築が思い思いに建てられるようになり、人目をひいた。これらの建物は当時の建築家から「洋風に似て非なる建築」と評された』(太字は私が附した)とある。則ち、「市區改制」はまさにアップ・トウ・ディトな(或いは遅々として進まぬお役所仕事の皮肉もたっぷりと含んで)流行語であったのである。]

 

 八月二十六日 半晴半曇

 行く筈で無かつた海岸行が急に一日の淸興をむさぼる事にして大森行と定りました 處が此日は暑いどころか寒い(誇大ですが)ので單衣[やぶちゃん注:「ひとへ」。]の二三枚も重着[やぶちゃん注:「かさねぎ」。]をしてガタガタふるへていました 歸途アイルランド御伽噺の二人半助を求〔め〕てこれを見ながら夢の國に赴たのは午後八時四十分

[やぶちゃん注:……「大森」の「海岸」……「御伽噺」を帰りに買って貰う……おお!――あれだ! 芥川龍之介の「少年」だ!(大正一三(一九二四)年四月発行の雑誌『中央公論』に「三 死」までが、また同雑誌五月発行分に「少年續編」の題で「四 海」以下が掲載されたのを初出とする。リンク先は私の古いサイト版)……さてもその「四 海」を読まれたい。

「アイルランド御伽噺の二人半助」この日記よりも後の刊行だが、巌谷小波編「世界お伽噺」第六十編に「二人半助」という作品がある(こちらの書誌データに拠った)。時制の矛盾はあるが、単発の冊子でそれ以前に発売されたものとみて全く違和感はない。僕の少年期まではそんな薄手の御伽話の袖珍本があったものだ。但し、話の中身が判らぬ。識者の御教授を切に乞うものである。何てったって、アイルランドだよ!?! 芥川龍之介が最初に読んだアイルランドだよ! アイルランドは後の龍之介とは、これ、深い深い、縁があるんだ!!!

 

 八月二十七日 半晴半曇[やぶちゃん注:土曜日。]

 讀書復習共例如

 水泳はちと寒そうなので中止にしました 晝すぎ淸水君が訪れられて此間の試驗に君は及第したと云〔は〕れる あやしみながら水練場できくと 眞だと云ふので 淸水君と三級生の帽子を買に行きました 淸水君に本を貸して左樣ならとさけんで家にかへりました 寐床八時五分

 

 八月二十八日 半晴半曇

 今日は水練場に競技會がある日であるが 坂口君や村越君も行かないよーだから出席を見合せました 晝すぎ淸水君が本を返しに來られました すると間もなく淸水君の處の女中が來て淸水君は居ぬかと聞れる 「もうさつき御歸りです」と答へて歸しました さては淸水君は家にかへらぬで途中にどこかで遊んでいるなと思ひました 讀書復習例如

 

 八月廿九日 曇微少雨

 朝ばらばら降てきた雨もやがてやんでしまつて晴の樣な曇のよーな妙手古林[やぶちゃん注:「みやうてこりん」。「へんちくりん」に同じい。]な御天氣になりました 復習は休みました 晝過水泳 さぶいので二囘でかへつて來ました またまた本箱の整理で日を完りました

 

 八月三十日[やぶちゃん注:火曜日。]

 朝から怪しかつた空は晝迄こらへきれずふり出しました 復習讀書 其他無事

 今日荒井先生からいひつかつた粘土細工の「なす」が出來ました 但駄作です

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通り、この日、彼は新原家から除籍され、芥川道章と養子縁組し、龍之介は芥川家の養嗣子となり、晴れて「新原龍之介」は「芥川龍之介」となったのである。それは彼自身理解していた。それを全く日録に書かなかった彼の想いを考えると、私は涙を禁じ得ない。茄子のフィギアをもくもくと作る新生芥川龍之介を想うべし!

 

 八月三十一日

 朝の中は粘土細工の賽[やぶちゃん注:「さい」。骰子(さいころ)。]を作りました 復習讀書例如

 晝すぎ梅田君から借りていた本を返し それから坂口君を訪れました そこへ村越君が來たので 少し寒いかしれないが行つてみよーと水練場へ行〔く〕と今日は休業と大きくかいてありました それから淸水君の家で遊んで三人うちつれて家にかへりました

 但 坂口村越の兩君は家へよつて遊んでゆきました 夕方出校準備をしました 暑中休暇の日記は以上で完ります

 私はこの暑中休暇に於て地圖や圖畫や作文に此迄の休暇にうけない苦〔しみ〕をしましたが 又天造の寶庫 見渡す限り水天一髮の大海や綠の毛氈をしきつめしが如き草原や或は爆布となり或は溪水となる水についてや 種々雜多の事柄を記憶(オボエ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]ました これも休暇の賜物と云はなければなりますまい 休暇 その文字を以ても平日の勞を癒すのに違ないですが その中にあつて遊びつゝ目にふれ耳にきく事物について觀察したならば いと趣味ある事でありませう

[やぶちゃん注:「水天一碧」が知られる。これは「水と空とが一続きになって、一様に青々としていること」を言うが、誤字・誤判読とも断じ得ない。何故なら、「一髮」には遠くの山々等の景色が一本の髪の毛のように幽かに見えることの意があり、また、後の作であるが、明治四一(一九〇八)年刊行の押川春浪・阿武激浪庵(怒濤庵少尉)共著「冒險的壯快譚 水天一髮」があるからである。]

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