小泉八雲 戦後雑感 (石川林四郎訳)
[やぶちゃん注:本篇(原題“AFTER THE WAR”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の第六話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。また、本篇は本作品集ではなく、雑誌『大西洋評論』(Atlantic Monthly)が初出(調べて見たものの、初出クレジットは不詳)である。
本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。
訳者石川林四郎については、『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳) / その「一」』の私の冒頭注を参照されたい。
言うまでもないが、「戰後」とは、本書刊行の二年前に起こった日清戦争(明治二七(一八九四)年七月から翌明治二十八年四月十七日)で勝利し、清国に李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させて、事実上の半島の権益を我が物とし、割譲された台湾を平定した(同年十一月三十日)日清戦争勝利後の意である。
一部の章の冒頭に配されたクレジットと場所は底本では、ややポイント落ちで下インデント四字上げであるが、ブラウザでの不具合を考え、有意にポイントを落して上方に引き上げた。原注及び訳者注は、底本ではポイント落ちで全体が五字下げであるが、行頭まで引き上げ、注群は前後を一行空けた。また、「四」には楽譜が二枚載るが、底本ではなく(底本では何故か曲想標語が消されているため)、原本のそれを、“Internet Archive”でダウン・ロードしたPDF画像からトリミングし、強い補正を加えて挿入した。]
第六章 戰後雜感
一
一八九五年(明治二十八年)五月 兵庫にて
今朝しも兵庫は、言ひ知れぬ光の澄み渡れる壯麗に浸つてゐる。霞立つ春の光は透かしみる遠景にまぼろしなどの樣な趣を與へる。形はくつきりとしてゐるが、生地の色ならぬ幽けき[やぶちゃん注:「かそけき」。]色調によつて殆ど理想化されてゐる。町の後ろの高き山々は、唯だ靑と言はんよりは靑の精と見ゆる雲なき蒼穹に屹立してゐる。
甍の屋根の紺鼠に續く斜面の上高く、異樣な形せるものの壯大なる搖らぎと閃きとがある。自分には必らずしも初めて見る光景ではないが、いつ見ても愉快である。大きなけばけばしい紙の魚が高い竹竿に繫がれ、到る處に浮いてゐて、生きてゐる樣に見えもし動きもする。多數は高さ五尺から十五尺であるが、其處此處に大きな魚の尾に結びつけられた一尺足らずの小型のがある。中には四五尾の魚がその大きさに比例した高さに着いてゐるのもある、大きいのをいつも一番上にして。この魚の色も形も頗る巧に出來てゐることは、初めて見る外國人には必らず驚歎させる。吊つてゐる絲はロの中に着いてゐて、開いた口から入る風が體を實物の通りに脹らすばかりか、それを絕えずゆらゆらさせる。昇つたり降つたり、向きをかへたり、體をひねつたり、宛然生きた魚の樣に、尾は棚びき鰭はひらひらするさま、何の申し分もない。隣の家の庭には立派なのが二つ見える。一つは腹が樺色[やぶちゃん注:「かばいろ」。赤みを帯びた黄色。橙(だいだい)色を少し暗くした色。]で背が藍鼠、今一つは全身銀色で、双つとも大きな妙な眼をしてゐる。それが風に泳ぐ時の戰ぎは麥畠を渡る風の音の通りである。少し先きの方には今一つ大きなのがあつて、其には小さい眞紅な男の子が背の處に取り附いてゐる。赤い男の子は、赤ん坊の中から態と角力を取つたり怪鳥を捕る羂[やぶちゃん注:「わな」(罠)或は「あみ」(網)。原文は“traps”であるから、前者がよい。]をかけたりした、日本國中に生まれた子供の中で一番强い金時である。言ふまでもなく、この紙の鯉は、五月の男子出生の祝の季節だけ揭げられるので、屋根の上にそれがあるのは男の子の生まれた事を示し、その子が、實物のコヒ、卽ち大きな日本の鯉が瀧と落ちる早瀨を川上に昇る如くに、萬難を排して出世するやうに、との親達の希望の象徵である。
日本の西南地方ではこの鯉を見るのは稀である。その代りに幟と呼ぶ非常に細長い綿布の旗が帆の樣に竪長に、桁[やぶちゃん注:「けた」。]や乳[やぶちゃん注:「ち」。]で竹竿に着いてゐるのを見る。其には激流中の鯉や、鬼共の征服者なる鍾馗や、松の木や龜やなどの何れも緣起のよい圖が彩色して描かれてゐるのである。
[やぶちゃん注:冒頭のクレジットに「一八九五年(明治二十八年)五月」とあるが、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二八(一八九五)年のまさに五月五日(日曜)の条に、『凱旋する兵士をセツ、一雄とともに見物する』とある。
「桁」原文は“spars”。ここは丸い細い木材のこと。
「乳」原文は“rings”。紐や竿を通すための小さな輪のこと。]
二
今日本建國二千五百五十五年の此輝かしき春に當つて、これらの鯉は單に親達の希望を象徵するのみでなく、更に、大なる戰勝によつて再生した國民の抱負を象徵すると觀てよからう、帝國の軍事的復興、新日本の發祥は支那の征服に初まる。戰爭は終つた、未來は幾分曇つて居らぬでもないが、好望を宿してゐる樣に思はれる。更に高大な永續する偉業を爲さんがために、障碍は如何に暗澹たるものであらうとも、日本は恐怖も疑惑も有たぬ。恐らく將來の危險は此大なる自負心に存するのかも知れぬ。是は今囘の戰爭によつて生まれ出でた新しい感情では無い。これは連勝の歷史がいつも强め來たつた民族的感情である。宣戰の初から終局の勝利に就いては些の疑も抱かなかつた。國民全體に行き互つた深い熱誠はあつたが、外に表はれた感慨の兆候はなかつた。或る者は直に戰勝の歷史を書き初めた。寫眞石版や木版の挿畫の入つた週刊月刊の分册として購讀者に頒布せられた此程の歷史が、外固の觀戰者などが戰爭の終局について豫想を試みるにも至らぬ前から、全國に賣れ行いた[やぶちゃん注:「ゆいた」。行き渡った。]。初から終まで日本圖民は自國の實力と支那の無力とを信じて居た。玩具製造者は忽ち、遁げる支那兵や、日本の騎兵に斬り倒されてゐるのや、捕虜となつて豚尾[やぶちゃん注:「とんび」。辮髪のこと。後注を必ず参考されたい。]で繫ぎ合はされてゐるのや、名高い日本の將軍の前に叩頭して慈悲を乞うてゐる支那兵などを現はした、無數の巧妙な新案品を賣り出した。鎧を着た舊式の武者人形などは跡を絕つて、土や水や紙や絹で作つた日本の騎兵步兵砲兵の人形、要塞や砲臺の模型、軍艦の模型などが出て來た。熊本の旅團譯者註が旅順の堅壘[やぶちゃん注:「けんるい」。原文“the defenses”。要塞。]を襲擊した光景を器用な機械仕掛にした玩具があるかと思へば、今一つ同じく巧妙な松島艦と支那の鋼鐡艦幾隻かとの海戰を繰りかへすのもあつた。斯ういふ玩具が、コルクの彈丸をポンポン彈き飛ばす空氣銃や、何萬といふ玩其の劍や數知れぬ小さな喇叭[やぶちゃん注:「ラツパ」。]などと一緖に賣り物に出てゐる。子供等がそれをしきりなしに吹いてゐるのを聽くと、ニュー・オリアンズの或る除夜のブリキの喇叭の騷音を想ひ起こさせられる。捷報の到る每に、新しい色刷の繪が幾つとなく製作されて賣り出される。それらは粗末な安つぽい手際で、大抵は畫家の想像をその儘に描いたものであるが、民衆の自負心を喚起するには適してゐた。將棋の駒の一つ一つが日本か支那の將校兵士になつてゐるのも出來た。
[やぶちゃん注:「今日本建國二千五百五十五年」この明治二八(一八九五)年は皇紀(神武天皇即位紀元:明治五(一八七二)年に明治政府が太陰太陽暦から太陽暦への改暦を布告した、その六日後に国策として神武天皇即位を「紀元」とすることを布告した)で当年とされ、全国で各種の祝祭が行われた。
「行いた」動詞「行く」の連用形である「行き」のイ音便形に過去・完了・存続・確認の助動詞「た」が付いて「ゆいた」となったもの。
「豚尾」原文“their queues”。「辮髪」や「おさげ髪」を指す英語であるが、この「豚尾」は「辮髪(べんぱつ)」を指す差別和語で、福沢諭吉なども盛んに使っている。如何にもおぞましい。
「松島艦」日清戦争及び後の日露戦争で活躍した日本海軍の防護巡洋艦でフランス製。明治二五(一八九二)年竣工。ウィキの「松島(防護巡洋艦)」によれば、もとからして『清国』北洋艦隊『が保有していた戦艦「鎮遠」と「定遠」の』二『隻に対抗する軍艦として建造された』とある。明治二七年九月十七日に『旗艦として 黄海海戦に参加』したが、『この戦いで松島は、副砲砲郭に清国戦艦鎮遠が発射した』『砲弾が命中して大破、死傷者数』百『人を』出している。後、明治三八(一九〇五)年五月二十七日の日本海海戦に参加した。明治四一(一九〇八)年四月三十日、『遠洋航海中に馬公(台湾)で停泊中の午前』四『時頃』、『火薬庫が突然』、『爆発し、ほとんど瞬時に沈没した。爆発が後部寄りだったこともあり、殉難者は艦長、副長以下』二百二十一『名に及び、乗り込んでいた少尉候補生も』五十七『名中』三十三『名が殉難した。爆発の原因は不明である』とある。本艦は「三」で実見するシークエンスが出る。
「ニュー・オリアンズ」“New Orleans”。「ニュー・オリンズ」。小泉八雲(Lafcadio Hearn)は一八七七(明治一〇)年十一月にシンシナティを出て、ニュー・オリンズに向かい、同地で七年に亙って新聞記者として活躍した。
「將棋の駒の一つ一つが日本か支那の將校兵士になつてゐるのも出來た」ウィキの「軍人将棋」に、本書刊行の十二年後の明治四〇(一九〇七)年に『書かれた書物「世界遊戯法大全」』(松浦政泰著・博文館刊)『には』現在の軍人将棋が『「いくさ将棋」の名で紹介されている。その中では『これは日清戦争の頃に出来たものかと思うが、仕組みが中々面白い所から、今は全国に普及して居る』』とあった。]
譯者註 旅順攻防に當つたのは熊本第六師團に屬する第十二旅團で、時の陸軍少將長谷川好道の帥ゐた[やぶちゃん注:「ひきゐた」。]小倉旅團であつた、と岡田哲藏氏の修正を附記する。著者が熊本の旅團と呼んでゐるのは第五高等學校の敎師として熊本の地に特に親しみを有つてゐたため、直に然う[やぶちゃん注:「さう」。]思ひ込んだのであらう。
[やぶちゃん注:「長谷川好道」(よしみち 嘉永三(一八五〇)年~大正一三(一九二四)年)は陸軍軍人(最終官位は元帥・陸軍大将)で韓国駐剳軍司令官・参謀総長・朝鮮総督を歴任した。長州藩支藩岩国藩士長谷川藤次郎の子として生まれ、剣術師範であった父について剣術を修め、「戊辰戦争」では精義隊小隊長として参戦している。明治一九(一八八六)年十二月に陸軍少将・歩兵第十二旅団長に昇進した。歩兵第十二旅団長時代に、日清戦争に出征m旅順攻撃で戦功を立てた。その後、陸軍中将・第三師団長から近衛師団長となり、日露戦争では「鴨緑江会戦」や「遼陽会戦」などで善戦した(ウィキの「長谷川好道」に拠る)。
「岡田哲藏」本底本全集の訳者の一人。『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。]
一方で芝居はもつと完全に戰爭を出し物にして居た。戰役中の挿話が一つ殘らず舞臺に登された[やぶちゃん注:「のぼらされた」と訓じておく。]と云つても過言ではない。役者達は場面や背景の硏究に戰線を見舞ひ、人工の吹雪を利用して滿洲に於ける軍隊の艱苦を寫實的に演出しようとした。あらゆる武勇の事蹟は報告の來るや否や芝居に仕組まれた。喇叭手白神源太郞の最期註、城壁を乘り越えて戰友のために城門を開いた原田重吉の剛勇、三百の步兵に對抗した十四騎の武勇、武器を持たぬ人夫等の支那の大隊に對する奇襲、さういつた樣な事實やその他の事蹟が幾百の劇場で演出せられた。忠君愛國の語句を書き表はした提灯を門並に揭げて、一つには帝國軍隊の快捷を祝し、一つには汽車に乘つて戰地に赴く出征兵士の眼を喜ばせた。軍隊輸送列車の絕えず通過する神戶では、斯ういふ提灯を揭げることが每晚々々幾週間も續いた。各町内の住民は更に醵金[やぶちゃん注:「きよきん(きょきん)」ある目的のために金を出し合うこと。]して旗を揭げ凱旋門を作つた。
註 成歡の戰に白神源次郞と呼ぶ日本の喇叭兵が「進め」の信號を吹けと命ぜられた。彼がその喇叭を一度吹き鳴らした時、宛も[やぶちゃん注:「あたかも」。]彈丸が肺を貫いて彼を倒した。戰友は彼致命傷を被つたのを見てその喇叭を取り上げようとした、彼は却つてそれを奪ひかへして唇にあて、力の限り今一度進軍ラッパを吹いて、バッタリ倒れて死んだ。今日本中の軍人學生に歌はれてゐる彼を題とした軍歌の簡譯を試みに揭げる。〔と前置して彼の[やぶちゃん注:「かの」。]吹き死の喇叭卒の軍歌を、昔の英吉利と蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコットランド」。]との對戰の間に生まれた尙武の歌などの樣な口調に、巧みに飜案したものを紹介してゐる。譯した歌は「白神源次郞」と題し、「日本の軍歌」「喇叭の響」に倣ひて」と註して、最も普通なバラッドの四行を一節としたもの九節にまとまつてゐる。今之を更に和譯するのは詮なきことゆゑ、單に原歌の全文を(是亦岡田哲藏氏の手控ヘより)轉載し、既に忘られんとするこの事蹟の記憶を新たにするに止める。――譯者附記〕
[やぶちゃん注:白神源次郎(しらがみげんじろう 明治元(一八六九)年~明治二七(一八九四)年:満二十五歳)についてウィキの「白神源次郎」から引く。『日本陸軍兵士。備中国浅口郡水江村(現在の岡山県倉敷市)出身』。『貧しい農家に生まれ、高瀬舟の人足などをして暮らしていた』。明治二七(一八九四)年に広島歩兵第二十一連隊に『入営してラッパ手となった。兵役中、源次郎の力強い喇叭は評判が高く』、同『連隊の喇叭手と言えば白神の名がでるくらいであったが』、『満期除隊した』。しかし、『日清戦争で予備役召集され、第五師団の一等卒として出征』、七月二十九日、「成歓の戦い」(せいかん(ソンファン)のたたかい):日清戦争最初の主要な陸戦。現在の朝鮮半島忠清道成歓(グーグル・マップ・データ。以下同じ)付近で戦われた)に『おいて、武田秀山中佐率いる右翼隊第』二十一『連隊第』九『中隊に属し、戦闘中、水濠にはまり』、『溺死した』。『現在、倉敷市船穂町水江東端・堅盤谷地区の墓地に墓がある』。『開戦にともない、戦争報道がなされる中、「死んでも口からラッパを離さなかった」無名戦士の美談が話題となり、この美談の主は誰かということになった。第五師団が白神源次郎の名を挙げたことが、当時の国民に熱狂的に受け止められ、彼をたたえる歌や詩が数多く作られ、当時の小学校教科書にも登場した。源次郎は金鵄勲章を受け』、『上等兵にも進級したと書いたものもあるが、当時の制度として戦死者の叙勲や進級は無かった』。明治二九(一八九六)年には、『高梁川の清流を見おろす墓所近くの小高い丘に地元の募金によって記念碑が建立されたが、後には源次郎にかわって木口小平の名が普及するようになって行った』。『美談の主は白神源次郎であると発表した』一『年後、溺死を公表したため』、『不都合が生じ』、『第五師団本営は「実は喇叭手は白神源次郎ではなく木口小平である」と発表しなおした。教科書も』七『年後に訂正され、美談の主は木口へと移っていったが、その後も源次郎の人気は根強く残り』、昭和七(一九三二)年(年)に軍人勅諭下賜』五十『周年事業で』、この第二十一『連隊が木口顕彰に動いた際には、白神説を否定するために、源次郎の除籍簿を「戦死」から「死亡」に書き直すような強引なことも行われた』とある。
以下、ウィキの「木口小平」を引く。木口小平(きぐちこへい 明治五(一八七二)年~明治二七(一八九四)年:満二十一歳)は『日本陸軍兵士。ラッパ手として、死しても口からラッパを離さなかったとされた。その逸話は明治』三五(一九〇二)年から昭和二〇(一九四五)年まで『小学校の修身教科書に掲載され、戦前の日本においては広く知られた英雄であった』。『小平は現在の岡山県高梁市成羽の農業・木口久太の長男として生まれ』、『小学校に進学するが』、明治一七(一八八四)年十二月に『中退。その後』は『小泉鉱山で鉱山夫として働』いた。明治二五(一八九二)年一二月から、広島歩兵第二十一連隊に『入営し』、『歩兵二等卒となり』、明治二七(一八九四)年六月に『日清戦争に出征する。この時の所属は歩兵第』二一『連隊第』三『大隊第』十二『中隊で、中隊の喇叭(ラッパ)手を務めていた。同年』七『月の成歓の戦いに参加する中』、二十九日、『敵弾を受け』、『戦死したが、歩兵一等卒に進級するという扱いは受けなかった』。『歩兵第』二十一『連隊は宇品港から出発し』同年六月二十七日に朝鮮の『仁川に上陸』、七月二十九日午前三時、『清国軍と成歓で対峙し』、午前七時三十分までの『激戦によって清国軍を壊走させた。この戦いによって木口の属する第』十二『中隊の中隊長松崎直臣大尉は戦死、松崎大尉は日清戦争の戦死者第一号という。この戦闘中に木口は突撃ラッパを吹いている最中に被弾』し、『銃創により』、『出血し』て倒れたが、『絶命した後も口にはラッパがあったという。これは本人の精神力というよりも、死後硬直が原因であると指摘されている』。『死しても尚ラッパを口から離さなかったラッパ手の噂話は、早くに内地に伝えられた。その喇叭手は誰かということが話題となり、軍は調査の結果』、『その喇叭手は実在し、名は「白神源次郎」であると発表した。岡山県浅口郡船穂村(後の倉敷市)出身の歩兵一等卒・白神源次郎の武勇は国民に広く伝えられ、また海外にも発信された。教科書にも採用され』、七『年後に名前を変えられるまで使われた』。『日清戦争後に、第』五『師団司令部は「諸調査ノ結果彼ノ喇叭手ハ白神ニ非ズシテ木口小平ナルコト判明セリ」と発表しなおした。白神は入営当時』二十一『連隊の喇叭手であったが』、『予備役召集の時点では喇叭手ではなかった。木口は喇叭手であり』、『白神と同日の戦死であった。なお』、『白神の死因が戦闘中の溺死であったことも「不都合」とされた。師団発表当時はまったく無名の木口に名前が置き換わったことに国民の間に驚きもあったし、すでに有名になっていた白神源次郎の名前はなかなか改まらなかった』。『白神源次郎の記念碑は』明治三九(一九〇六)年に『立てられたが、木口小平の記念碑』の建立は大正三(一九一四)年に『なってからである。義務教育の無償化と』明治三六(一九〇三)年に『始まった国定教科書制度で、木口の名前が国民全体に徐々に浸透し、木口の顕彰も盛んになった。故郷である岡山県川上郡成羽町(現在の高梁市成羽)に「壮烈喇叭手木口小平之碑」がつくられた。さらに、昭和七(一九三二)年(年)になると、歩兵第』二十一『連隊が軍人勅諭下賜』五十『周年事業として銅像を造った。岡山招魂社に収められた写真の中から、木口らしい写真を選び出して銅像の元にしたが、これは木口の顔ではないとの異論もあった。このころ成羽町の碑の周りは「小平園」として整備された』。第二十一連隊の銅像は昭和二五(一九五〇)年に『濱田護國神社に移転されている』。明治三五(一九〇二)年に発売され、後年、「正露丸」と『改称される胃腸薬の「忠勇征露丸」に描かれているラッパのマークは木口の話を参考にした、との逸話が在るが、これは年代的には白神の話ということになる』。以下、「尋常小学校修身書」より。
*
キグチコヘイ ハ テキ ノ
タマ ニ アタリマシタ ガ、
シンデモ ラッパ ヲ
クチ カラ ハナシマセンデシタ。
*
「英吉利と蘇格蘭との對戰の間に生まれた尙武の歌」一三一四年六月二十四日にスコットランド王国とイングランド王国の間で行われた「バノックバーンの戦い」(Battle of Bannockburn:スコットランドに侵攻したエドワードⅡ世率いるイングランド軍が、スターリング近郊でロバートⅠ世とスコットランド軍と戦って大敗し、イングランドからの独立を勝ち取った)を題材とした、現在もスコットランドの非公式な国歌として広く認められている歌「スコットランドの花」(Flower of Scotland)を指すか。それならば、YouTube のPeter Coia氏の「Flower of Scotland sing-along lyrics」で歌と歌詞(電子化されてある)が聴け、読める。
以下、全体が六字下げで、本文よりやポイント落ち(前の註よりも大きい)で上下二段で組んであるが、引き上げて一段とし、同ポイントで示した。]
喇叭手の最後
渡るにやすき安城の
名はいたづらのものなるか
湧き立ちかへるくれなゐの
血汐の外に道もなく
先鋒たりし我軍の
苦戰のほどぞ知られける。
この時一人の喇叭手は
取り佩く太刀の束の間も
進め、進めと吹きしきる
進軍喇叭のすさまじさ
その音忽ち打ち絕えて
再びかすかに聞こえけり。
打ち絕えたりしは何故ぞ
かすかになりしは何故ぞ
打ち絕えたりしその時は
彈丸のんどを貫けり
かすかになりしその時は
熱血氣管に溢れたり。
彈丸のんどを貰けど
熱血氣管に溢るれど
喇叭放さず握りつめ
左手に杖つく村田銃
玉とその身は碎くとも
靈魂天地 かけめぐり
なほ敵軍をや破るらん
あな勇ましの喇叭手よ
雲山萬里をかけへだつ
四千餘萬の同胞も
君が喇叭の響にぞ
進むは今と勇むなる。
[やぶちゃん注:本歌は加藤義清作詞、荻野理喜治作曲。YouTube の「賽河原幸之助」氏の「喇叭の響(安城の渡)【明治軍歌】」をリンクさせておく。
「安城」大韓民国京畿道の南部にある安城(アンソン)市。安城川は市内に源を発し、西に流れており、先に示した成歓とは南で接していて、安城川は安城の南西端(成歓の北)を流れているのが判る。
「村田銃」陸軍少将村田経芳が考案発明した単発小銃と連発銃。フランスのグラー銃やオランダのボーモン銃を手本にして明治一三(一八八〇)年単発の後装式施条銃を完成し、十三年式村田歩兵銃として制定された。口径十一ミリメートル、全長一メートル九センチ、重量四キログラム、最大射程二千メートル。これは、さらに日本人の体格に適するように改良を加えられ、十八年式村田銃として完成、続いて 明治二二(一八八九)年には無煙火薬を使用する村田連発銃として完成した。これは口径八ミリ、全長一メートル二十二センチ、重量四キログラム、最大射程二千二百メートルであった。十三年式と十八年式は日清戦争に使用されたが、連発銃の方は間に合わなかった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
以下、平井呈一氏の恒文社版「戦後」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)を倣って、小泉八雲の名英訳を以下に掲げておく。
*
SHIRAKAMI GENJIRŌ.
(After the Japanese military ballad, Rappa-no-hibiki.)
Easy in other times than this
Were Anjo's stream to cross ;
But now, beneath the storm of shot,
Its waters seethe and toss.
In other time to pass that stream
Were sport for boys at play ;
But every man through blood must wade
Who fords Anjo to-day.
The bugle sounds ; — through flood and flame
Charges the line of steel ; —
Above the crash of battle rings
The bugle's stern appeal.
Why has that bugle ceased to call ?
Why does it call once more ?
Why sounds the stirring signal now
More faintly than before ?
What time the bugle ceased to sound,
The breast was smitten through ; —
What time the blast rang faintly, blood
Gushed from the lips that blew.
Death-stricken, still the bugler stands !
He leans upon his gun, —
Once more to sound the bugle-call
Before his life be done.
What though the shattered body fall ?
The spirit rushes free
Through Heaven and Earth to sound anew
That call to Victory!
Far, far beyond our shores, the spot
Now honored by his fall ; —
But forty million brethren
Have heard that bugle-call.
Comrade ! — beyond the peaks and seas
Your bugle sounds to-day
In forty million loyal hearts
A thousand miles away !
*]
この外にも戰爭の光輝はこの國の種々の重要な工業によつて、今少し永續する方法で表彰せられた。勝利や獻身的武勇の事蹟は、封筒や便箋の新しい圖案は言ふに及ばず、燒物や金物や、絹織物によつて記念せられた。絹の羽織註一の裏に、女子の縮緬註二の頭巾に、帶の刺繡に、長襦袢や子供の晴着の友禪模樣に描出されてゐる。更紗や手拭地の樣な安い形附物[やぶちゃん注:「かたつけもの」。型染め物。]は言ふまでもない。種々の漆器に、彫つた器の橫や蓋に、煙草入に、カフスボタンに、髮に挿すピンや笄[やぶちゃん注:「かうがい(こうがい)」。]の意匠に、挿櫛や爪楊枝にまでも描出されてゐる。小さい箱に容れた楊枝の一本一本に顯微鏡で見る樣な小文字で、戰爭に因んだ和歌が一首づつ彫りつけてある。斯うして媾和[やぶちゃん注:「講和」に同じい。]の時まで、少くとも媾和談判に來た支那全權を殺さうとした壯士註三の暴舉のあつた時まで、萬事は國民の願望し期待した通りになつたのであつた。
註一 ハオリは男も女も着る一種の上衣。裏の模樣には歎賞の辭もない程美しいのがある。
註二 チリメンは絹のクレープで、品質に差等[やぶちゃん注:「さとう」。等級の違いを意味する名詞。]がある。中には値も高く丈夫なのもある。
註三 壯士に現代日本の厄介物の一つである。彼等は大抵書生上がりで、無賴の狼藉者として雇はれて飯を食ふ徒である。政治家が選舉の折などに强制運動者として、又は反對黨の壯士に對抗して彼等を用ひる。私人が護身の爲めに壯士を雇ふこともある。近年日本の選舉騷動に於て、又度々の名士の襲擊に於ては大抵壯士連が主となつてゐる。ロシヤに虛無主義を胚胎せしめた原因には日本の現代の壯士を作り出した原因と幾多類似の點がある。
併し、媾和條件が發表せられると、日本を威嚇するために、フランス、ドイツ、の援助を得て、ロシヤが干涉した。この三囘の提携に對しては何の抵抗もなかつた。日本は柔術を用ゐ、意想外の讓步によつて期待の裏をかいた。日本はその兵力について不安を感ずる時機を疾に經過してゐた。日本の能力は恐らく從來認められてをたよりも勝さつてゐる。且つ又、二萬六千の學校を有する敎育制度は絕大なる敎練の機關である。國土の中に於ては如何なる强國とも對抗出來る。唯だ海軍だけが弱點であつて、それに就いては十分承知してゐた。小さい輕裝巡洋艦から成る艦隊で操縱にはその人を得てゐた。その司令長官は二度の海戰で一隻を失ふことなく支那の艦隊を全滅させた。併し歐洲の三大强國の聯合海軍に向ふだけの噸數[やぶちゃん注:「トンすう」。排水量。]がない。その上日本陸軍の精鋭は出征中である。干涉の最好機會が巧みに擇ばれたのだ、さうして恐らく干涉以上の事を企ててゐたらしい。大きなロシヤの戰鬪級幾隻は戰鬪準備をしてゐた、その戰鬪艦だけでも日本の艦隊を壓倒したらう、愈〻勝つまでには多大の犧牲を拂ふことにはならうが。併しロシヤの行動は、英國が日本に對する同情を不氣味にも宣言したので、不意に抑へられた。三國で集める裝甲艦を短い海戰で壓伏し得るほどの艦隊を、英國は數週の中にアジヤの海に囘航することが出來るのであつた。この時ロシヤの巡洋艦から唯だ一發でも發砲しようものなら、それこそ全世界を戰爭の渦中に投じて了つたかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「媾和條件が發表せられると、日本を威嚇するために、フランス、ドイツ、の援助を得て、ロシヤが干涉した」所謂、三国干渉。一八九五年四月十七日に調印された日清戦争の講和条約「下関条約」では、①清国は朝鮮が独立自主の国であることを確認すること、②リヤオトン(遼東)半島・台湾全島・ポンフー(澎湖)列島を日本に割譲すること、③二億両(テール:清国税関の銀単位。当時の日本円で三億円相当)の賠償金を支払うこと、④シャーシー(沙市)・チョンチン(重慶)・スーチョウ(蘇州)。ハンチョウ(杭州)の市港を開くこと、⑤揚子江航行権を与えること、⑥日本に最恵国待遇を与えることなどであった。ところが、②の遼東半島領有に反対するロシア・フランス・ドイツが共同でこれに干渉を始めた。調印六日後の四月二十三日、当時、満州への鉄道建設を目指していたロシア政府は、遼東領有の放棄を日本に勧告し、ロシアとの同盟関係にあったフランスと、ロシアの進出方向を極東に逸らすことを狙っていたドイツもこれに倣った。当時の日本の国力では三国に対抗できなかったため、同年五月五日これを受諾し、遼東半島を清国に還付することとした。以後、ロシアは満州に鉄道敷設権を獲得して遼東半島を租借地とし、フランス・ドイツ・イギリスも競って租借地を要求した。日本では「臥薪嘗胆」のスローガンで対ロシア報復の国民感情が扇動され、また逆に外交面での対英接近が進められていった(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」の複数の項目に拠った)。
「司令長官」初代連合艦隊司令長官伊東祐亨(ゆうこう/すけゆき 天保一四(一八四三)年~大正三(一九一四)年)。旧薩摩藩士。ウィキの「伊東祐亨」によれば、日本の連合艦隊と清国の北洋水師(中国北洋艦隊)との間に黄海上で明治二七(一八九四)年九月十七日十二時五十分より行われた「黄海海戦」では、『戦前の予想を覆し、清国側の大型主力艦を撃破し(日本側の旗艦「松島」の』四千二百十七トン『に対し、清国側の旗艦「定遠」は』七千二百二十トン『と、倍近い差があった)、黄海の制海権を確保した。この戦いは日清戦争の展開を日本に有利にする重大な転回点であった。清国艦隊はその後も抵抗を続けたが、陸上での敗色も』濃く、翌明治二十八年一月二十日から始まった二度目の攻防戦「威海衛の戦い」で、『北洋艦隊提督の丁汝昌は降伏を決め』、明治二八(一八九五)年二月十三日、『北洋艦隊は降伏。丁汝昌自身はその前日、服毒死を遂げた。伊東は没収した艦船の中から商船「康済号」を外し、丁重に丁汝昌の遺体を送らせたことはタイムズ誌で報道され、世界をその礼節で驚嘆せしめた』。『戦争後は子爵に叙せられ 軍令部長を務め』、明治三一(一八九八)年には海軍大将となり、明治三七(一九〇四)年二月八日に始まった『日露戦争では軍令部長として大本営に勤め』、翌年の『終戦の後は元帥に任じられた。政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うした』硬骨の軍人である。]
日本の海軍部内には三國を敵として戰はんとする熱烈な希望もあつた。さうなつた曉には偉い戰爭であつたらう.日本の司令官には夢にも降服するなどといふ者は無く、日本の軍艦に艦旗を降ろす樣な事は決してないから。
陸軍も亦等しく戰爭を望んでゐた。從つて國民を抑制するには政府の全力を要した。自由の言論は禁遏[やぶちゃん注:「きんあつ」。禁じてやめさせること。「遏」は「止(とど)める・・絶つ・遮る」の意。]せられ、新聞紙は嚴に緘默せしめられ、曩に[やぶちゃん注:「さきに」。]要求した償金の額を相當に增加する代償として、遼東半島を支那に還附する事によつて、平和は克復せられた。日本の國力發展のこの時期に當つて、國費を竭くして[やぶちゃん注:「つくして」。]ロシヤと戰ふことは工業商業及び經濟上最も慘澹たる結果を生ずるに決まつてゐた。併し國民の自尊心は深く傷けられ、國民は今なほ政府を怨むことを禁じ得ない。
[やぶちゃん注:「曩に要求した償金の額を相當に增加する」ウィキの「下関条約」によれば、既定の賠償金二億両は、『その後の遼東半島還付金』としての三千万両(銀百十一・九万キログラム)を上乗せして合計八百五十七・九万キログラム』(二〇一一年四月現在の日中銀取引相場価格で銀一キログラムは十二万円程度であるから、その相場では一兆二百九十四億円『前後に相当する。当時の金額では日本の国家予算』八千万円の四倍強に当たる三億六千万円前後となる)『以上の銀を日本は清国に対して』三『年分割で英ポンド金貨で支払わせた。日本はこれを軍事費にあてたほか、長年の悲願だった金本位制復帰の資金とした。一方賠償金の支払いは清国にとって大きな負担となった』とある。]
三
五月十五日 兵庫にて
支那から歸つた松嶋艦が和樂園の前に碇泊してゐる。偉大なる勳功を顯はしたに似ず巨艦では無い。が併し、靑い水面から隆起する鋼鐡城塞として澄んだ光の中に橫はつてゐる有樣はたしかに恐ろしく見える。この軍艦を觀覽する許可が出たので人々は大喜びで、お祭にでも往くやうに皆々晴衣を着飾つてゐる。自分もその連中と同行することを許された。港内の船といふ船が皆見物人のために雇はれて來てゐる樣に見える。それほどにも自分等が着いた時この裝甲艦の周圍に群れ寄つた人數が多かつた。これ程多數の見物人が一時に艦に乘ることは出來ない。幾百人宛[やぶちゃん注:「づつ」。]かが交代に乘つては降りる間待たなければならなかつた。併し冷しい海の風の中で待つのは不愉快ではない。人々の喜んてゐる光景も見てゐて惡くはない。順番が巡つて來る時に押し寄せる勢と言つたら無い。押し合ひへしあひ、しがみつく有樣と言つたら、婦人が二人まで海に落ちて、水兵に引き上げられた。そして松島艦の水兵を命の親だと言へると思へば落ちても恨みはないと言つてゐる。實の處船頭連が幾人となくゐたので、溺死するなんて事は仕ようとしたつて出來はしなかつた。
[やぶちゃん注:銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二八(一八九五)年のまさに五月十五日(水曜)の条に、『黄海海戦の旗艦松島を一雄とともに見物する』とある。
「和樂園」「小泉八雲 旅行日記より (石川林四郎訳)」の「七」に既出既注。現在の兵庫県神戸市兵庫区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった遊園地。そこでも注したが、現在須磨区にある「和楽園」とは場所が異なる。]
國民が松島艦の乘組員に負ふ所は、二人の若い婦人の生命よりも更に重要なものがある。それで人々は當然愛を以て之に報いんとしてゐる、――幾千の人がしたいと思つてゐる金品の贈與は軍紀上許されてゐないので。士官も兵士も疲れてゐるに相違ないが、混雜も質問も、嬉しい程愛想よく辛抱してくれる。巨大な三十珊[やぶちゃん注:「サンチ」。センチメートル(原文は正しく“centimetre”)の約のフランス語読み。初期日本海軍の軍艦はフランス製であった。後注参照。]砲とその裝填裝置から斡囘機關に至るまで、速射砲、水雷[やぶちゃん注:所謂、魚雷(魚型(ぎょけい)水雷)である。]とその發射管、探照電燈とその構造など、何もかも見せて細かに說明してくれる。自分は外國人として特別の許可を要するにも拘らず[やぶちゃん注:冒頭注で示した通り、この本文内時制では小泉八雲となる前年で帰化していない。]、上も下も悉く案内してくれ、艦長室に在る兩陛下のお寫眞までも一目見ることを許され、黃綠江[やぶちゃん注:原文“Yalu”で、これは「鴨綠」(現在の北京語で「Yālù」)のラテン文字転写で、石川氏の「鴨綠江」(おうりょくこう:現代仮名遣)の誤字訳。]沖の大海戰の壯快な物語を聞かされる。斯うしてこの港の頭の禿げた老人も婦人も嬰兒も今日を晴れと松島艦を我が物にしてゐる。士官も候補生も、水兵も精一杯もてなしてゐる。お爺さん達に話してゐるのもあり、子供等に劍の柄を弄らせたり、兩手を擧げて『帝國萬歲』を唱へることを敎へてゐるのもある。疲れた母親たちのためには莚が布かれて、彼等は甲板の間の片陰に坐つてゐる。
[やぶちゃん注:「三十珊砲」正確には松島搭載のそれは三十二サンチのカネー砲(フランス語:canon Canet/英語:Canet guns:カネーは開発した技術者ギュスターヴ・カネー(Gustave Canet 一八四六年~一九一三年)の名)である。ウィキの「カネー砲」によれば、カネーはこの三十二サンチ艦載砲を、『主として輸出マーケット向けに開発したが、当時のものとしては非常に強力であった。砲は最初』、一八八四年にスペイン海軍に』、六『隻の戦艦を含む大規模な海軍増強計画の一端として選択された』。『カネーの大日本帝国への売り込みは、さらに成功を収めた。お雇い外国人で艦船設計技師であった、ルイ=エミール・ベルタン』(Louis-Émile Bertin 一八四〇年~一九二四年)が一八八七年に『設計した』『防護巡洋艦』『松島』『の主砲として採用されたのである。これは、圧倒的な火力(強力な艦載砲、魚雷)を比較的小型の艦に実装するという』ベルタンが属した『青年学派』の思想(Jeune École:十九世紀半ばにフランスで提唱された海軍戦略思想の呼称)『に合致するものであった』。『この思想は、当時』、『前弩級戦艦』(ぜんどきゅうせんかん:戦艦の初期の形態を指し、一八九〇年代中頃から建造が始まり、弩級戦艦が登場した一九〇六年までの期間に建造されたプレの大型艦を指す)『を購入する予算を持たなかった帝国海軍の興味を強く引いたのである』。三十二サンチ主砲は「松島」・「厳島」・「橋立」の三『隻に採用され』ている、とある。同ウィキにある「防護巡洋艦松島の32 cmカネー砲」の写真と、小林清親画(明治二七(一八九四)年作)の松島のカネー砲の絵をリンクさせておく。
「速射砲」発射速度の早い砲の通称。ウィキの「速射砲」によれば、『砲の口径や発射速度などにはっきりした定義はない。通常』、『中口径の砲で、毎分』十~四十『発以上を発射可能なものを指すことが多い。装填作業が人間の操作を介さずに全自動で行われる小口径のもの』(四十ミリ乃至五十七ミリ『程度まで)は速射砲とは呼ばれず』、『機関砲と呼ばれる。艦載砲のほか、陸上部隊の対戦車砲なども速射砲と呼ばれることがある』。一八八七年、『イギリスのアームストロング社は』、四・七インチ(十二センチメートル)『砲を速射砲と名付けて発売した。それまでの艦砲の発射速度が毎分』一『発程度であったのに対し』、カタログ。データ上では五・三秒に『一発発射できるとされた。当時』、『弾丸を自動装填する技術はなく、また装薬には黒色火薬を使用していた関係で、これより大口径の砲では発砲後に砲身洗浄が必要とされていたことなどから、弾丸を人力で扱える中口径の砲の速射化が進められた。これ以降、アームストロング社製以外の大砲であっても、駐退機を備えるものは速射砲と呼ばれるようになる』。『アームストロングの速射砲を最初に導入したのは日本海軍で、イギリス海軍よりも早かった。日本で初めて速射砲を搭載したのは装甲巡洋艦千代田であった。日本海軍のアームストロング速射砲は』、まさに『日清戦争における黄海海戦の勝利に大きく寄与したとされている』とある(太字は私が施した)。
「水雷」因みに「威海衛の戦い」では既に水雷艇部隊も活動して有意な戦果を挙げている。
「黃綠江」〔(×)→「鴨綠江」(○)〕鴨緑江(おうりょくこう)は現在の中華人民共和国東北部と朝鮮民主主義人民共和国との国境となっている川。白頭(ペクトゥ)山に源を発し、黄海に注ぐ。水の色が鴨の頭の色に似ていると言われたことからこの名前がある。ここ。「黄海海戦」は、この河口の沖合で行われたことから「鴨緑江海戦」とも呼ばれる。]
是等の甲板は僅二三箇月前には勇士の血に染みて居たのだ。所々に黑い斑點が、磨石で擦つてもまだ落ちずに殘つてゐる。人々はそれを心よりの畏敬を以て視る。この旗艦松島は巨彈を受くること二囘、裝甲の無い部分は小彈の亂射によつて穿孔されてゐる。艦は接戰の衝[やぶちゃん注:「しよう(しょう)」。要(かな)め。]に當つて乘組員の約半數を喪つた。排水量は四千二百八十噸に過ぎない。而も直面した敵は支那の鋼鐡艦二隻で各七千四百噸であつた。外面松島の裝甲は[やぶちゃん注:「外面」は確かに原文は“Outside,”であるが、コンマがあり、これは「見かけ上は、」という意である。石川氏も副詞的そう使ったのであろうが、読点ぐらいは打つべきだった。]、破碎された鋼鐡板は張り替へられて、少しも深い彈痕を示してゐぬ。併し案内者は甲板や砲塔を支へる鋼鐡檣[やぶちゃん注:「かうてつしやう(こうてつしょう)」。]や煙突などの數知れぬ修復の跡や、露砲塔の厚さ一呎[やぶちゃん注:一フートは三十・四八センチメートル。以下、後注参照。]の銅像板に星形の龜裂を殘した恐ろしい彈痕を誇り顏に指し示す。彼は又、下に降りて、艦を貫通した三十半珊[やぶちゃん注:後注参照。]の彈丸の通路を示した。彼は曰ふ『こいつにやられた時には震動で人間がこの位(と甲板から二尺程の處に手をやつて)撥ね上げられた。同時にあたりが眞暗になつて、一寸先きも見えなかつた。その中に右舷前方の大砲が一門粉碎されて、その係りの兵士は皆殺された事が分かつた。卽死四十名負傷多數で、その部分に居たものは一人も助からなかつた。搬出してあつた火藥が爆發したので甲板に火災が起こつた。そこで戰鬪を續けながら火を消し止めるために働かなければならぬ。顏や手の皮を吹き飛ばされた負傷者までが痛さを忘れて働き、死にかけてゐる人までが水を運ぶ手傳ひをした。併し味方の巨砲から更に一發を食はせて鎭遠號を沈默させてやりましたよ。支那の方には西洋人の砲術長が手傳つたのです。西洋の砲術長を向うにまはすのでなかつたら、餘り樂に勝て過ぎまさあ[やぶちゃん注:最後の部分は「よっぽどもっと楽に勝てたに違いありません」という謂いであろう。]』彼の吐く所は事實本音である。この日本晴れの春の日、松島艦の乘組員に取つて何より喜ばしい事は、直に戰鬪準備を開始し、恰も沖に碇泊して居たロシヤの大裝甲巡洋艦を襲擊せよとの命令であつたらう。
[やぶちゃん注:「松島」「排水量は四千二百八十噸」基準排水量は四千二百十七トン。
「支那の鋼鐡艦二隻で各七千四百噸」清国北洋艦隊の「定遠(じょうえん)」(常備排水量七千百四十四/満載排水量七千三百五十五トン)と「鎮遠」(常備排水量七千二百二十トン)。孰れもドイツ製。
「露砲塔の厚さ一呎」当該原文は“the foot-thick steel of the barbette”。一フートは三十・四八センチメートル。「バーベット」(barbette)とは「露砲塔」と訳され、ウィキの「バーベット」によれば(リンク先には自動可動する砲塔全体(但し、近現代のもの)の模式図が示されてあるので参照されたい)、『主に軍艦搭載用の砲台構造の一種で、上甲板に突き出した円筒形の装甲部を指す。その頂部に火砲が設置される。主砲や一部の副砲で用いられた』。『バーベットの内部には、エレベーター状の揚弾筒など、弾薬庫から砲弾・装薬を揚荷するための設備が保護されている。バーベットは、内部に弾薬がある関係で被弾した場合の危険度が高いため、舷側の垂直装甲、甲板の水平装甲とならんで戦艦の装甲では重要視される』。『露砲塔とは、火砲の基部(装填機構や旋回・俯仰角機構)より上がバーベットからむき出しとなる形式を指す。水平方向からの砲撃を受けた際に火砲の基部のみがバーベットによる装甲で守られる。現在の砲塔形式とは違い、完全な砲塔にはなっていない』。十九『世紀後期の装甲艦などに見られた。弾薬の装填は砲を最大仰角にしてから行った』。『この時代の艦砲は現在と異なり、直接照準の水平弾道で撃ち合ったので、防御も砲員を守るため』、『砲部の基部のみとし、水平方向以外からの脅威は考えられていなかった。基部から上は吹き晒しの露天式、もしくは命中弾の断片(スプリンター)に対する防御ができる程度の装甲でできたお椀状の屋根(フード)をつけた』。『しかし、次第にスプリンターの脅威が増すとともに、大砲の射程が伸びて砲弾の落下角度が大きくなり、砲の上部の防御が必須となり、本格的な砲塔に移行した。但し』、『対空砲・両用砲などでは、かなり後年まで使われた』。『露砲塔を主兵装とする軍艦は、バーベット艦、あるいは露砲塔艦とも呼んだ。フランス海軍の装甲艦「ル・ルドゥタブル」やイギリス海軍の前弩級戦艦「ロイヤル・サブリン級」などは露天式だった。清国海軍の「定遠型」やイタリア海軍の「デュイリオ級」はフード付きだった』とある。調べて見ると、防護艦松島のそれは上にフードが附いていたようである。
「艦を貫通した三十半珊の彈丸」三十センチ五ミリ砲弾のことであろう。敵の二艦「定遠」及び「鎮遠」には孰れも三百五ミリ砲が兵装としてあった。打ったのは後に出る「鎮遠」。ウィキの「鎮遠」によれば、一八九四年九月十七日、『黄海海戦中、日本の旗艦「松島」に直撃弾を与えた』が、「松島」は『大火災を生じながらも』、『厚い甲鉄のおかげで主要部を貫徹されず、威海衛に入った』とある。
「鎭遠號」は明治二八(一八九五)年二月十七日に威海衛で鹵獲(ろかく:戦地などで敵対勢力の装備品や兵器・補給物資を奪うこと)され、戦利軍艦として三月十六日に日本海軍に編入され、明治三七(一九〇四)年の「日露戦争」に日本海軍二等戦艦として「黄海海戦」・「旅順攻略戦」・「日本海海戦」に参加した。明治四四(一九一一)年十一月二十四日、装甲巡洋艦「鞍馬」の実験艦として破壊され、海底に没した(ウィキの「鎮遠」に拠る)。]
四
六月九日 神戶にて
去年下ノ關から神戶まで旅行する間に、幾つかの聯隊が、何れも白い軍服を着て、出征の途に上るのを見た。彼等兵士は自分が敎へた學生等と大層同じ樣に見える。(事實幾千かは學校を出たばかりである)それで斯ういふ若い者を出征させるのは可哀さうだと感ぜずには居られなかつた。子供らしい顏は如何にも淡白で快活で、人生の大なる悲哀などは一向知らぬげに見える。
同行の英國人で陣營で生活して來たのが言ふには『何も心配することは無い。皆立派にやつてのけるよ』『それは分かつてゐるさ。然し暑さ寒さや滿洲の冬を案じて居るのだ。その方が支那人の鐡砲よりは恐ろしいからね』と自分は答へた。
[やぶちゃん注:「去年下ノ關から神戶まで旅行する間」「旅行」と言っているが、これは熊本五幸を辞任し、『神戸クロニクル』紙(日刊紙。正しくは“The Kobe Chronicle”)に記者(小泉八雲(Lafcadio Hearn)は若き日より、長く記者として生活してきたのであり、来日も出版社ハーバー社の通信員としてであった。但し、以前から不審を抱いていた同社に対し、到着直後に怒りが爆発、契約を破棄したのである)として勤めるために転居した際のことを言っている。ただ、当時は彼は未だ外国人であったため、政府から国内で移動するための「旅行免状」を必要としたことから、こう言っているものと思われる。銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二七(一八九四)年十月の条に、『上旬、門司から海路で神戸に向かう。途上、多くの出征兵士の列を見る』とある。]
註 實際戰爭で死んだ日本人の總數は、牙山の戰鬪から澎湖諸島の占領に至るまで僅に七百三十七人である。然し他の原因で死んだ者は、臺灣の占領中六月八日といふ最近までに、三千百四十人を算する。その中コレラによる者だけが千六百二人であゐ。是は兎に角、神戶クロニクル紙に發表された公報の數字でもある。
[やぶちゃん注:「牙山の戰鬪」既出既注の「成歓の戦い」の別称或いはその中の一戦闘。七月二十八日に日本軍は牙城に籠った清国兵を攻撃するため進発し、七月二九日午前三時二十分に佳龍里において、清国兵の攻撃により、歩兵第二十一連隊第十二中隊長であった松崎直臣歩兵大尉が戦死し(日本側初の戦死者とされる)、その他数名が死傷した(「安城の渡しの戦い」)。午前八時三十分、日本混成第九旅団が成歓の敵陣地を制圧した。例の先に出た白神や木口のそれは、まさにこの「安城の渡しの戦い」でのことであった。
「澎湖諸島の占領」一八九五年、日清戦争の下関条約により清から割譲を受け、日本が領有した、台湾(島)の西方約五十キロメートルに位置する台湾海峡上の島嶼群。島々の海岸線が複雑で、その総延長は約三百キロメートルにも達する。大小併せて約九十の島々から成るが、現在、有人島はそのうちの十九島である。中華民国の澎湖(ポンフー/ほうこ)県に属する。ここ。]
喇叭の卷、日沒後に點呼したり、消燈の時刻を報じたりする喇叭の響は、幾年か日本の或る師團の所在地[やぶちゃん注:熊本。]に住む自分の夏の夕の娛樂の一つであつた。然し戰爭の期間は最後の一節の引き伸ばした訴ふるが如き音が以前とは異つた感動を與へた。節まはしが特殊なものだとは思はない。が、折々特別な感情をこめて吹奏せられるのだとよく思つた。全一師團の喇叭から一齊に星明かりに向つて發せられる時、百千(ももち)に交じるその音色に忘られ難いあはれさがある。その都度自分は眼に見えぬ喇叭手が年若く力猛き者どもを久遠の安息の暗き寂寞に招くのを夢想したものである。
[やぶちゃん注:以上の楽譜は原本配置箇所相当に置いた。誰もが知っている旧陸軍消灯ラッパのメロディである。曲想標語・速度標語は“con expressione è a volonta.”とあるが、ちょっと綴りが不審。前の部分は「con espressione」(コン・エスプレッシオーネ)で「表情をこめて」の意であろう。後半最後の単語も正しくは「volontà」(ヴォロンタ:意思)ではないか? この「エ・ア・ヴォロンタ」とは「ad.libitum(ad lib.)」(アド・リビトゥム/アドリブ)と同じで、「演奏者がある程度まで自分の意志で自由に速さを決めてよい」という意味ではないかと思う。]
今日はどこかの聯隊が歸るのを見に往つた。神戶驛から『楠公さん』(楠正成の英靈を祀つた大きな社)まで、彼等の通る往來の上に綠門が出來てゐた[やぶちゃん注:植物をあしらった緑の凱旋門で、種々の祭典・式典で作られた常套的な装飾である。]。市民は軍人等の凱旋後最初の食事を饗するの光榮に對して六千圓を寄附した。是までも幾大隊か同樣に親切な歡迎を受けた。彼等が食事をした神社の庭の幄舍[やぶちゃん注:「あくしや(あくしゃ)」。四隅に柱を立てて棟・檐(のき)を渡して布帛(ふはく)で覆った仮小屋。祭儀などの際に臨時に庭に設けるテント様のもの。]は旗や綠葉を以て飾られた。一同に對して寄贈品があつた。菓子や紙卷煙草や、尙武の歌を染め投いた手拭など。神社の門の前には本當に立派な凱旋門が立つて、前後兩面には歡迎の辭句が金文字で記され、頂上には地球の上に翼を擴げた鷹が登つてゐた。
[やぶちゃん注:銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二八(一八九五)年六月九日(日曜)の条に、『帰還する兵士が神戸駅から「楠公さん」まで行進するのを、万右衛門と見に行く』とある。万右衛門とは同居していたセツの養祖父稲垣万右衛門である。
「『楠公さん』(楠正成の英靈を祀つた大きな社)」兵庫県神戸市中央区多聞通にある理想の勤皇家として崇敬された楠木正成を祭る湊川(みなとがわ)神社。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。]
註 一八九四年九月十七日の大海戰の折、日本の巡洋艦高千穗の檣頭[やぶちゃん注:「しやうとう(しょうとう)」。帆柱の先端。]に一羽の鷹が止まつて、おとなしく捕まつて飼はれてゐた。艦内一同の愛撫を受けて後この瑞鳥は、天皇陛下に献上せられた。鷹狩は日本の武家の間に盛んに行はれた遊山であつて、鷹は見事に馴らされたものでゐつた。が、今後は以前にも增して鷹が勝利の徴[やぶちゃん注:「しるし」。]となりさうである。
[やぶちゃん注:「巡洋艦高千穗」日本海軍防護巡洋艦。イギリス・ニューカッスルのアームストロング社製。明治一八(一八八五)年に同巡洋艦「浪速」とともに進水、明治十九年七月に横浜港に到着。明治二三(一八九〇)年、佐世保鎮守府所管の第一種と定められる。日清戦争では「黄海海戦」、大連・旅順・威海衛・澎湖島攻略作戦等に参加した。第一次世界大戦における青島攻略戦従軍中の大正三(一九一四)年十月十八日未明に膠州湾においてドイツ帝国海軍水雷艇の魚雷攻撃を受け、沈没した(以上はウィキの「高千穂」に拠る)。]
自分は最初萬右衞門を連れて神社に遠からぬ停車場の前に待つて居た。列車が着いて、番兵が見物人に步廊を立ち去らせた。外の街路では、巡査等は群集を制し、一般の通行を止めた。數分の後には大隊また大隊が、煉瓦のアーチになつた出口から、きちんと縱隊になつて行進して來た、卷煙草を燻らし[やぶちゃん注:「くゆらし」。]乍ら少し跛[やぶちゃん注:「びつこ(びっこ)」。]を曳いて步く半白の將校を先頭に立てて。群集は自分等の周圍に密集して來たが、喝采もしなければ談話すらもしない。通過する軍隊の步調を取つた跫音の外にこの靜寂を破るものはない。是等が曩に[やぶちゃん注:「さきに」。]出征する時に見た同じ兵士だとは思へなかつた。肩章の數字だけがその事を示した。顏は日に燒けて獰猛に見えた。濃い髯を生やしたのも少くなかつた。紺の冬の軍服は磨れたり切れたり、靴はえたいの知れぬ恰好になつてゐた。然し、勢のよい大胯[やぶちゃん注:「おほまた」。]な足取りは鍊へられた兵士の足取であつた。最早若者ではなくて、世界中のどんな兵隊にでも向ふことの出來る荒武者であつた。殺戮も襲擊もやつて來た者共、筆紙に盡くせない樣な苦勞を重ねて來た者共そあつた。その顏形には喜悅も得意もない。鋭敏なその眼は歡迎の旗も裝飾も、地球を翼の陰にしてゐる武運長久の鷹を戴いた凱旋門をすらも見ない。恐らくは彼等の眼が餘りに屢〻人をして沈默ならしむる光景を目擊したためであらう。唯だ一人通りながら微笑したものがあつた。が自分は、子供の折アフリカから歸る兵隊を見てゐた時、一人のズアーヴ兵譯者註の顏に表はれた、刺す樣な嘲侮の微笑を想ひ起こした。見物人の中には、斯くまでに變化した理由を感じて、眼に見えて感激してゐる者も多かつた。兎にも角にも。彼等は前よりも勝れた兵士となつてゐる。而して歡迎され、慰安を與へられ、贈物を受け、人々の深く溫かい愛を受け、今後は馴れた舊の[やぶちゃん注:「もとの」。]兵營に落ち附くことになつてゐる。
譯者註 ズアーヴ兵は最初(一八三〇年)佛領アルヂェリアに於て募集した土民の輕步兵で、最初はフランス本國の兵士と同一中隊に編成せられてゐたが後にに別個の中隊をなして同一聯隊に屬する樣になつた。一八四〇年以後は全然本國の兵士を以て編成することになつたが、服裝だけに依然土民服を用ゐてズアーヴの名を存して居た。一八五〇年生れの著者が(多分、佛國[やぶちゃん注:「フランス」と読んでおく。]に於て敎育せられた)少年時代に見たといふのは、最早土民兵でなかつたに相違ない。
[やぶちゃん注:「多分、佛國に於て敎育せられた」「少年時代」「の著者」小泉八雲(Lafcadio Hearn)は十七歳の、一八六七年(慶応三年)十月二十八日、彼の面倒を見ていた大叔母サラ・ブレナンの破産により、通っていた聖カスパート校を中退、フランスの神学校に入学したようである(このフランス滞在の辺りは現在も事蹟殆んど判っていない)。その後、一八六八年(明治元年)頃には旧鵜ハーン家の使用人を頼ってロンドンに戻っているらしい。そうして、一八六九年(明治二年)、リヴァプールからニュー・ヨークへ、さらにシンシナティに移ったのであった。
「ズアーヴ兵」“Zouave”。ウィキの「ズアーブ兵」より引く。フランス語「Zouaves」は一八三一年、『アルジェリア人、チュニジア人を基本に編成されたフランスの歩兵』。『当時、北アフリカはフランスの植民地』であった。『第一次世界大戦でも、フランス陸軍の精鋭部隊として活躍した』が、『第二次世界大戦後の北アフリカ植民地の独立により』、一九六二年に『廃止された』(従って石川の注は正しい、というより、廃止後に生き残ったフランス歩兵の中でも特殊なグループに対する俗称ということになる)。『背中の彫り物、髭、ジャケットなど兵士の風俗に特色がある。特にその軍服のデザインは他国の軍隊でも参考にされた。例えば、教皇領の軍隊でも採用され、教皇のズアーブ兵(Papal Zouave)と称してイタリア統一運動に対抗する戦力として用いられた。アメリカ南北戦争でも、南北両軍にズアーブを称する義勇兵部隊があった。民間用のファッションにも取り入れられ、ゆったりとしたズアーブ』・『パンツ、ズアーブ』・『ジャケットなどが生まれている』とある。]
[やぶちゃん注:以上の楽譜は原本配置箇所相当に置いた。先に掲げられた旧陸軍消灯ラッパの譜面が二度繰り返されたものである。消灯ラッパは、世界中で、軍人の墓の前でもその死を悼んでしばしば奏される。]
自分は萬右衞門に話した。『今夜彼等は大阪なり、名古屋なりに着く。彼等は喇叭の響を聞いて、歸らぬ戰友を偲ぶであらう』
老人は眞劍になつて答へた。『西洋の方は死人はもう歸らないと思ふでせうが、私共にはさうは思へません。日本人は死んだつて歸らないことはないのです。歸る途を知らぬ者はありません。支那から、朝鮮から、海の底から、死んだ人は皆歸つて來ました、え〻みんな。私共と一緖に居るのです。日の暮れる度に自分等を呼び戾した喇叭を聞きに集まります。あの人達は天子樣の軍隊がロシヤに向つて召集されるその時にも、亦喇叭の聲を聞くことでせう』