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« 小泉八雲 きみ子 (戸澤正保訳) | トップページ | 小泉八雲 俗唄三つ (稲垣巌訳) / 「『小栗判官』の唄」 »

2019/12/22

小泉八雲 俗唄三つ (稲垣巌訳) / (序)と「『俊德丸』の唄」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“APPENDIX. THREE POPULAR BALLADS”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の本篇全十五話の後に附録として添えられてある。これが本篇でなく、附録であるのは、恐らく以下の冒頭に記されている如く、三篇が本作品集に刊行に先立つ、二年前の明治二七(一八九四)年十月十七日に築地で開催された「日本アジア協会」(Asiatic Society of Japan:明治五(一八七二)年に創立された日本の組織)の会合に於いて、オーガスタ・ウッド博士によって代読された作品という特殊な条件を伴うもの(ハーンはこの時、入りたての英字新聞『神戸クロニクル』紙(The Kobe Chronicle)の記者として仕事に忙殺されており、その場にはいなかった)、更に言えば、その朗読されたものの一部の原型は、これまた、溯る五年前の明治二四(一八九一)年に英字新聞『ジャパン・メイル』紙(Japan Mail)に投稿したものの一部という複雑な淵源を持つものだからであろう。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 底本本文は附録であるからであろうが、ポイント落ちであるが、上方へ引き上げて今までと同じポイントで示した。注は四字下げポイント落ち、引用は七字下げのポイント落ちその他と極めて複雑であるが、行頭或いは上部へ引き上げて本文と同ポイント或いはポイント落ちで示し、注や引用は前後を一行空けた。序の後の本篇原題は“THE BALLAD OF SHUNTOKU-MARU”である。

 訳者稻垣巖(いながきいわお 明治三〇(一八九七)年二月十五日~昭和一二(一九三七)年:パブリック・ドメイン)は小泉八雲の次男で、もと、京都府立桃山中学校英語科教員。明治三四(一九〇一)年九月に母セツの養家であった稲垣家へ養子縁組されて稲垣姓となった。大正九(一九二〇)年六月、岡山第六高等学校第二部甲類卒業後、翌七月に京都帝国大学工学部電気工学科入学、その後、転部したか、昭和二(一九二七)年三月に京都帝国大学文学部英文科選科を修了し、昭和三(一九二八)年四月、京都府立桃山中学校(現在の京都府立桃山高等学校)へ英語教師として赴任している。「青空文庫」で「父八雲を語る」(新字正仮名。初出はラジオ放送「父八雲を語る」で昭和九(一九三四)年十一月十五日とする)が読める。

 なお、本篇訳には旧日本に存在した差別に基づく、現在使用すべきでないおぞましい差別用語が頻出する。そこは、嘗てこのような謂われなき差別が永く存在したこと、今もその亡霊的意識が幾たりかの者の中に生き残っていて時に我々の前におぞましい差別としての侮蔑や表現として醜い姿を現わすという事実を忘れずに、批判的視点を堅持して読まれたい。又、そうした配慮からも、私の注釈も今までと異なり、軽薄な興味本位の差別助長を促すことのないよう、意識的に抑えてあることをお断りしておく。小泉八雲は終始、非常にフラットな意識・書き方を心掛けており、一貫して差別にも批判的であるが、しかしそれでも、中には誤った理解部分もあるように私には思われる(或いは差別の地方差に基づくものかも知れぬが)。さらにまた、稲垣巌氏が邦訳するに際して稲垣氏の当時の時代的限界性に基づく問題のある訳語や表現箇所も見られるわけで、そういう意味でも、何重にも注意を払って読み進められんことを厳に乞うものである。しかし、そうした有意な問題性はあるにしても、当時はまだ異国人であった Lafcadio Hearn が、先細りせんとする貴重な民俗芸能を採取するために、そうした差別された人々と膝を突き合わせて親しく接し、かくも優れた民衆芸能の体験談と詳細な採録を果たし、彼らの差別された歴史に強い同情の感を表わしておられることに、私は頭が下がる思いが同時にするのである。なお、私は高校教師時代、ある学校で人権・同和委員会の委員長を務め、全同協の全国大会にも参加したことがあり、一般的な方々よりは人権・同和問題についての知識や関心は相応に持っているつもりである。しかし、一言言っておくと、一律の「言葉狩り」によって差別がなくなるという単純な楽観的発想や、メディアがただただ指摘や議論を恐れて回避するために「ためにしている」自主規制コードという現象に対しては、強い違和感を持っている人間であることは言い添えておく。差別用語やそうした実際の現象としっかりと直に向き合い、そうした過去形・現在形の差別の病理を厳格に深く考えることこそが、今、求められていることではないかと考える人間である。

 それぞれが相応に分量があるので、歌謡ごとに分割して示す。]

 

    附 錄

 

  俗 唄 三 つ

 

  千八百九十四年十月十七日 日本亞細亞協會に於て讀まれしもの。

 

 千八百九十一年[やぶちゃん注:明治二十四年。]の春、私は出雲の松江に在る部落、『山(やま)の者(もの)』として知られてゐる特殊階級の人達の部落に行つて見た。行つて見て得る所のあつたものの幾分かは其の後『ジャパン・メイル』に手紙の形式で通信され、千八百九十一年六月十三日に出版されたのであるが、其の手紙から幾らか拔萃して、近頃の新聞種に提供の爲め、此處に引用するのも無駄な事ではなからうと思ふ。

 〔部落は松江の南端に位して、ちつぽけな谷に、といふより寧ろ市の後ろの半圓形を成してゐる丘の中の窪地に在る。上流社會の日本人なら殆ど誰れもこんな村に行つた驗しは無いし、普通の人達で貧乏此の上なしといつた者までが傳染病の中心地を嫌ふやうな調子で此の場所を忌み嫌つてゐる、といふのは道德的にも肉體的にも、汚らはしいといふ觀念が、其の住民達の名にさへ常に附き纏つてゐるからである。かかる次第であるから、其の部落は市の中心から步いて三十分以内で行ける所に在るけれども、松江に居を構へる者三萬六千人中其處を訪れた者は恐らく五六人もゐないであらう。

 松江及び其の附近には特殊民の四つの異つた階級がある。卽ち『はつちや』。『小屋の者』、『山の者』、及び菅田(すがた)の『穢多』である。

 『はつちや』の部落は二つある。之等は元(もと)死刑執行人であつて、其筋の役所に勤め種々な地位を得てゐた。彼等は昔の掟によつては穢多非人中最下級の者であつたけれども、役所勤めをしたり上長者に接觸したりして智識は充分に磨かれてゐたので世間の評判では他の特殊民より人間が高尙だといふ事になつてゐた。彼等は今では竹籠や竹行李の製造人である。彼等は平將門、平親王の一族郞黨の末であると言はれて居る。將門とは兵力を以て天皇の御位を奪ふ爲め由々しき謀叛を企てたといふ日本では今まで類のない事をして、有名な平貞盛卿に討ち取られた男である。

 『小屋の者』は獸を屠殺したり、其の皮を賣つたりする事を商賣にして居る人達である。彼等は、下駄履物商人の店以外、松江中何處の家にも入る事を許されない。元は浮浪人だつたが、或る有名な大名に運河の堤の上に小さい家――小屋――を建てて貰つて、松江で永住させられる事になつたのである。『小屋の者』と言ふ名は其の爲めである。本當の『穢多』に至つては、其の身分や職業が頗るよく知れ渡つてゐるから、此の點は說明するには及ぶまい。

 『山の者』は松江の南の外づれの山に住んてゐるからさう呼ばれるのである。彼等は襤褸紙屑業の一手販賣權を持つてゐて、古罎から毀れた機械類に至るまで、有りとあらゆる廢物の買手である。彼等の或る者は富んでゐる。實際、他の特殊階級に較べて、總體が榮えてゐるのだ。それにも拘らず、彼等に向けられる一般の偏見は、彼等に關する特別の法律が撤廢される以前の年と殆ど同じやうに相も變はらず强烈である。想像も附かないやうな事情が無い限り彼等の中誰れ一人奉公人として雇つて貰へる譯には行かなかつた。昔は最も綺麗な娘達がよく『女郞』に成つた。然しいつの時代にも其の娘達は、自分等の町内はもとより、隣町の『女郞屋』にも入る事が出來なかつた、だから遠い土地の遊廓に身を賣られたのである。『山の者』は今日では『車屋』に成る事さへも出來ない。どんな職業にしろ普通の勞働者として雇つては貰へない、尤も自分の素性を隱しおほせる見込みのあるどこか遠くの町へ行けば別だが。然しそんな狀態に在る事が暴露(ばれ)たら最後、彼は勞働者仲間に殺されようといふ容易ならぬ危險を冒す事になる。どんな事情の下にあつても『山の者』に取つては自分を一個の『平民』として通す事はむつかしい。何百年もの孤立と偏見が彼等の社會の風習を、それと見別けの附くやうに固めて仕舞ひ、型に嵌めて仕舞つたのである。其の言葉までが一種特別な奇妙な方言に成つて仕舞つて居る。

[やぶちゃん注:「それにも拘らず、彼等に向けられる一般の偏見は、彼等に關する特別の法律が撤廢される以前の年と殆ど同じやうに相も變はらず强烈である。」原文は“Nevertheless, public prejudice against them is still almost as strong as in the years previous to the abrogation of the special laws concerning them.”。まず、この「法律」とは、明治四年八月二十八日(一八七一年十月十二日)に明治政府が行った、穢多・非人等の卑称や身分の廃止などの旨を記した太政官布告、一般に「穢多非人ノ稱ヲ廢シ身分職業共平民同樣トス」を指す。ただ、英文がやや言葉足らずであるためか、意味がとりにくくなっている。「それにも拘わらず、彼らに向けられる公的な偏見は、彼らに関する特別法による差別呼称・差別身分の廃止以前の時期に於けるそれと、ほぼ同じように強烈なままである。」の謂いである。]

 私はかくも風變りな境遇に在り、特徵づけられて居る社會の事物を何か見たくてたまらなかつた。所が私は運よくも或る日本紳士に出會つた、其の紳士は松江の最も上流社會の人物でありながら、自分でも行つた事のない彼等の村へ私を連れて行く事を新設にも承諾して吳れたのである。其處へ行く途々[やぶちゃん注:「みちみち」。]彼は『山の者』に就いて種々珍らしい事を澤山、私に話して聞かせた。封建時代にはかういふ人達は『侍』に親切に取扱はれた。彼等は屢〻『侍』の邸の庭先きに入る事を許され、或は招かれて唄つたり踊つたりして、其の演技に對する纏頭(はな)[やぶちゃん注:「てんとう/てんどう」。貰った衣服を頭に纏ったところから、歌舞・演芸などをした者に褒美として衣服・金銭などの花(祝儀を)与えること。]を貰つた。彼等がかういふ貴族的な家庭までも樂ませる事の出來た其の唄や踊は他の人達には知られてゐなかつたもので、『大黑舞』と呼ばれでゐた。『大黑舞』の歌は、實に、『山の者』の先祖傳來の取つて置きの藝であつて、美的な情緖的な事柄に對する彼等の最高の理解力を表はしてゐたのである。前の時代には彼等は立派な芝居小屋に入る權利を得る事は出來なかつた。そこで『はつちや』のやうに、自分達だけの芝居小屋を造つたのだ。私の連(つれ)は更に言つた、彼等の唄や踊の出處を知つたら面白からう、彼等の唄は彼等特有の方言ではなく、純粹な日本語で述べるのだから。彼等は此の口で述べる文學を惡化せすに保存する事が出來たのであらうが、それも、『山の者』が讀み書きを決して敎へられなかつたといふ事實から推して考へると殊更奇妙である。彼等は自分等の集團に與へられた好機會に乘ずるといふ事さへ出來なかつた。僻(ひが)み根性は頗る根强くて、自分達の子供を公立の學校に入れて幸福にさせるなどといふ事は未だ及びも附かぬ事である。小さい特別な學校は出來ぬ事もなからう、けれども甘んじて敎師になる人達を得る事は恐らく少小の困難ではあるまい。

 

註 『メイル』に宛てた此の手紙が書かれた時以來、寬大にして偏見を抱かぬ松江市民の恩惠によつて、『山の者』の爲めに小學校が一つ建てられた。此の計畫は縣下の激しい非難を免れなかつたが、うまい具合に實際行つたらしい。

 

 其の村は窪地に立つてゐるが、それは洞光寺の墓地の直ぐ後ろに在る。部落は其の部落だけの神道の社を持つてゐる。私は其の場所の光景に甚く[やぶちゃん注:本篇のずっと後のルビから、「いたく」である。]驚かされた。自分は醜いものや汚いものを可なり多く目擊するだらうと思つてゐたからである。それとは反對に私は幾多の小綺麗な住宅を見た、家々の𢌞はりには立派な庭が附いて居るし、部屋部屋の壁には畫が懸かつてゐる。其處には澤山樹木が在つた。村は灌木や植木で靑々としてゐて、全く繪に描いたやうであつた。といふのは、ちつぽけな街路が地面の高低につれ、種々樣々な角度で山を攀ぢ上つたり下つたり――一番高い街路は一番低いのより五六十尺高い――してゐたからである。大きな湯屋や洗濯屋のあるのは、『山の者』が、山の向う側にゐる、隣りの『平民』のやうに淸潔な布を好むといふ事を證據立てて居た。

 直きに一群(ひとむれ)集つて、自分達の村に入つて來た見慣れぬ人達――彼等に取つては滅多にない出來事――をじろじろ眺めた。私の眼に映つた幾つもの顏は『平民』の顏に頗るよく似てゐたが、只だ違ふのは、醜いのになると一層醜かつたので、綺麗なのが對照上益〻綺麗に見えるやうに思はれた事だつた。私がいつか見た漂浪者共(ヂプシーズ)の顏を思ひ出させるやうな、人相の惡るい顏附も一つ二つあつたが、一方幾人かの小娘達は、それに反して、驚くばかり感じの良い目鼻立を具へてゐた。其處では『平民』同志が出會つた時にするやうな挨拶の交換といふ事が無かつた、上流社會の日本人だつたら、西印度の移住民が土着の黑ん坊にお辭儀するやうに帽子を脫(と)らうと寧ろ考へる事であらう。『山の者』共は自分達が禮をして貰はうとは思つてゐない事を態度で示すのが普通である。男は一人も私達に挨拶しなかつたが、幾人かの女は、優しく話し掛けて、會釋した。他の女共は、粗末な草鞋を編んでゐたが、物を尋ねても『えゝ』とか『いえ』とか答へるばかりで、私達を疑つてゐるらしかつた。私の連[やぶちゃん注:「つれ」。]は、女共が普通の日本の女とは違つた身なりをしてゐる事柄に私の注意を促した。例へば、極めて貧しい『平民』の間にでも服裝の一般法則はある。年齡に應じて、これは着ても良い、或は着てはよくないといふ一定の色合がある。所がかういふ人達の間では、可也年取つた女共までが眞赤な『帶』や種々な色の取り交じつた『帶』を締め、派手な柄の『着物』を着てゐるのであつた。

[やぶちゃん注:「漂浪者共(ヂプシーズ)」原文“gypsies”。“gypsy”は“gipsy”とも綴る。英語圏でも現行では「ジプシー」は差別的意味合いが強いので、今は使用すべきではないとされる。小学館「日本国語大辞典」によれば、バルカン諸国を中心に、アジア西部からヨーロッパ各地・アフリカ・南北アメリカ・オーストラリアなどに広く分布する民族。十世紀頃、故郷であるインド北西部から西に向かって移動を開始し、十五世紀にはヨーロッパ全域に達した。皮膚の色は黄褐色かオリーブ色で、目と髪は黒。馬の売買・鋳掛け・占い・音楽などで生計を営んでいたが、近年は定住するものも多い。その固有の音楽や舞踏は、ハンガリーやスペインの民族文化に影響を与えた。彼等の自称は「人間」の意の「ロマ」である。]

 町の通りで見られる女は、物を賣つたり買つたりしてゐるが、それは年嵩の者ばかりである。若いのは家に引込んてゐる。年嵩の女共はいつも妙な恰好をした大きな籠を携へて市に出て行くので、『山の者』だといふ事がそれで直ぐに解る。かういふ籠が幾つも幾つも、主もに小さい家の戶口に置いてあるのが眼に附いた。籠は背負つて行かれ、『山の者』の買ふ物は全部――古新聞、擦り切れた古着、空瓶、硝子の毀れ、古金屬(ふるがね)等――すつかり其の中に容れられる事になつてゐる。

 一人の女が到頭思ひ切つて私等を家に招き入れた、自分達の賣りたく思つてゐる何枚かの昔の繪双紙を見せやうといふのだ。私達は其處へ入つて、『平民』の家で受けるやうな丁寧な取扱ひを受けた。其の何枚かの繪は――廣重の畫も大分入つてゐたが――買ふだけの値打のあるものだといふ事が解つた。次いで私の連は『大黑舞』を聞かせて貰ふ事は願へまいかと尋ねた。大いに我が意を得た事には其の申し出は快く受け容れられたのである。それで私達が唄ひ手の一人一人に少々纏頭をやるのを承諾すると、前に見掛けなかつた連中だつたが、綺麗な顏をした若い娘達の小さな一隊が現はれて、唄ふ支度をした、片方では一人の婆さんが踊る用意を整へた。婆さんも娘達も藝を演ずる爲めに共に妙な道具を携へてゐる。三人の娘は紙と竹で造られた木槌のやうな形の道具を持つてゐる、これは大黑の槌を表はさうとしたものだが、それを左の手に摑み、右に一本の扇を打ち振つてゐる。

 

註 大黑は、通俗の信仰に於ては福の神。惠比壽は、勞働の守本尊である。かういふ神々の沿革に就いては「亞細亞協會々誌」第三卷にカルロ・プュイニの書いた「七福神」と題された一章(英譯)か見よ。又神道崇拜に於けるかかる神々の地位を記錄したものに就いては「知られぬ日本の面影」上卷を參照せよ。

[やぶちゃん注:「カルロ・プュイニ」(Carlo Puini 一八三九年~一九二四年)はイタリアの東洋学者。

『「知られぬ日本の面影」上卷」『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (九)』のことか。七福神についてちょっと書いてあるが、但し、期待するほどには詳しくはない。]

 

 他の娘達はカスタネツトのやうなもの――一本の紐で結び附けられた、二つの平べつたい堅く黑い木片――を用意してゐた。六人の娘は寂の前に一列を作つた。婆さんは二本の小さい棒を手に取つて、娘達の方を向いて座を占めた、一木の棒には縱の一部分に刻み目が附けてある。もう一本の棒で其の上を擦ると、奇妙なカラカラいふ音がするのであつた。

[やぶちゃん注:「カスタネツトのやうなもの」後に出るが、「四つ竹」のこと。本邦の伝統的打楽器の一つで、長方形の扁平な竹片を両手に二枚ずつ握り、曲節に合わせてカスタネットのように打ち鳴らす。

「二本の小さい棒」「一木の棒には縱の一部分に刻み目が附けてある。もう一本の棒で其の上を擦ると、奇妙なカラカラいふ音がする」これも伝統的打楽器の一つである「棒簓(ささら)」である多数の溝を彫り込んだ木製の棒を、細い棒で擦ることにより、「サラサラ」と音を発する。この音が呼称の由来であるが、一般には秋の稲穂が擦れあうそれの擬音とされる。]

 私の連は、唄ひ手が三人づつ二通り別々の組になつてゐるのを私に指し示した。槌と扇を手にしてゐる連中は大黑組で、彼等は唄を唄ふ事になつてゐた。四竹(カスタネツト)を持つてる[やぶちゃん注:ママ。]連中は惠比壽黨で、囃子方になつた。

 婆さんは小さい棒を擦り合はせた、すると大黑組の咽喉からは朗々たる美音が歌となつて勢よく嗚つて出た、私がこれまで日本で聞いたどんな歌とも全く異つたものであつた、一方四竹(カスタネツト)のカラカラ嗚る音は、極て口早に繰り出される言葉の句切り句切りにピツタリ拍子を合はせてゐた。

 初めの娘三人が何條(くだり)か或る數だけ歌つて仕舞ふと、他の三人の聲がそれに和して、不揃ひではあるが非常に面白い調子を產み出した、そして皆は囃子唄を一緖に唄つた。それから大黑組は別な唄を始めたが、少し經つてから、又合唱をやつた。やがて婆さんは時々可笑(をかし)な文句を二言三言口誦みながら、頗る奇妙な踊りを踊つた。群衆を大笑ひさせた。

 其のくせ、唄は滑稽なものではないのだ。『八百屋お七』と言ふ非常に哀れつぽい小唄である。八百屋お七は綺麗な娘であつたが、或る寺の所化なる、想ふ男と又の會ふ瀨を得んが爲めに附け火をしたのである、燒けたら自分の家の者は其の寺に避難しなければならなくなるだらうと考へて。所が露見して放火罪に問はれ、其の時代の嚴しい掟によつて生きながらの火灸りを言ひ渡された。宣告は實行された。然し犧牲の若さと美しさ。それと罪の動機が、世人の心に同情を呼び起こし、後になつて唄や芝居に仕組まれるやうになつたのである。

 役者達は、婆さんの外、誰れも歌つてゐる間に地面から足を持ち上げる者は居なかつた――然し皆自分の身體を唄に合はせてあちこちに搖り動かした。唄は一時間以上も續いたが、其の間聲の調子は決して惡るくはならなかつた。それで、言つてる[やぶちゃん注:ママ。]言葉は一つも解らなかつたけれども、聞いてゐて疲れるどころか、それがすつかり終はつた時には非常に惜しいやうな氣がしたのである。そして此の外國人の聽き手は、愉快さも覺えると共に、原[やぶちゃん注:「もと」。]の起こりがもう解らない程舊くからの偏見の犧牲にされた年若い唄ひ手に對する强い同情の念も起こつたのであつた〕

 

 以上『メイル』へ宛てた私の手紙からの拔萃は『大黑舞』に對する私の興味の沿革を物語つてゐるのだ。其後私は松江の友人、西田千太郞の好意によつて、『山の者』に歌はれるやうな唄を三つ筆記したものを手に入れる事が出來た、そしてそれらの譯文も後で私の爲めに作られたのであつた。私は、面白味の無いでもない民謠の例として、今思ひ切つて此の三つの唄の散文譯を――上述の譯文に基づいて――試みる事にする。出來るだけ念を入れ、且つ充分註解を加へて、全然文字通りに譯したら、勿論、有識階級の注意を惹くだけの事は尙ほ更あるだらう。とはいへ、かかる飜譯には、多くの時間及び根氣强い努力と共に、私の持ち合はせてゐない日本語の知識が必要である。原文其のものが學者式な飜譯を正當とするに足る價植のあるものなら、私は決して飜譯などを企てはしなかつたらう。然し自由に平易に取扱つても原文の興味は大して薄らぐ事のないやうな種類のものだと私は確信した。原文は、純粹の文學的立場からはどう見てもつまらないものであつて、何等雄大な想像力も示しては居らす、詩歌藝術と眞に稱せらるべきものは何一つ無いのである。私等は、かういふ韻文を讀むと、實のところ日本の本當の詩歌からは、――僅二三句選(と)つて見ても、讀む人の心に、申し分のない色彩畫を創り上ける事も出來るし、身に沁み渡るやうな驚くべき妙味を以て種々な事を想像させ、此の上なく優美な興奮を唆る事も出來るやうな、さうした作物からは――實際、餘程懸け離れたものだといふ事が解る。『大黑舞』は至つてがさつなものである。それが長らく人氣のあるのは、古代の英國民謠に較べてもいいやうな何等かの特質に據るといふよりも寧ろ其の非常に面白い唄ひ方に據るのだ、と私は思ふ。

[やぶちゃん注:西田千太郎(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。郷里島根県で母校松江中学の教師を務め、明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと深い親交を結んだ(当時は同校教頭であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなった(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。彼との交遊は『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」』の中に頻繁に登場する。]

 かういふ唄の基たる昔譚は尙ほ多くの異つた形式で存在してゐる、芝居に仕組んだものも中に在る。之等の昔譚[やぶちゃん注:「むかしばなし」と訓じておく。]が提供した藝術的な暗示は頗る數多いが、それに言ひ及ぶ必要はあるまい。然し數多い點に於て之等の昔譚の及ぼす勢力は今以て無くなつてはゐないといふ事を認め得るのである。ほんの一二箇月前に、私は工場から來たての、綺麗な更紗を何枚か見たが、それには小栗判官が鬼鹿毛[やぶちゃん注:「おにかげ」。]といふ馬を碁盤の上に立たせてゐる繪が附いてゐた。私が出雲で手に入れた三つの唄は其處で作られたのか、それとも餘所でかはつきり解らない、けれども『俊德丸』、『小栗判官』、『八百長お七』の物語は確に日水中到る所でよく知られてゐる。

 之等の散文譯と共に、私は協會に原文を提出する、それには『大男舞』の唄に關する地方の風習や、演技中の合間合間に唱へる滑稽な文句――下卑た剽輕な文句は時には飜譯を差し控へたが、――に就いての面白い說明書きを附け添へて置く。

 どの唄も皆同じ字數で書いてあるが、其の例を『八百屋お七』の最初の四行に取つて見る。

 

こゑによるねの、あきのしか

つまよりみをばこがすなり

ごにんむすめのさんのうで

いろもかはらぬえどざくら

 

 囃子は一節一節の定つた數の終りにではなく、寧ろ吟誦句の或る句切り、句切りに歌はれるらしい。唄ひ手の數もどちらの組にしろ定つた制限はない、隨分大勢でもいいし、ほんの少人數でもいい。私は出雲式の珍らしい折り返しの唄ひ方――一方の組の掛け聲『イヤ』といふ母音の響きと、他方で掛ける『ソレイ』といふ言葉の響とが交じり合ふやうにする仕方――は日本の民衆音樂に興味を持つ人が注意するだけの價値はあるだらうと思ふ。實際、私は確信してゐろ、民衆音樂や俗謠硏究者に對して頗る愉快な全く手を着けてない硏究範圍が日本では提供されてゐると。妙な囃子の附いた『豐年踊』の歌や地方每に違ふ『盆踊』の歌、遠い鄕々(くにぐに)の稻田や山の斜面からひよつくりひよつくり聞こえて來る。大抵は調子が好くて微妙な、あの風變りな歌の一段(くさり)、それらは日本音樂といへば聯想し勝ちなものとは全然違つた特質を持つてゐる、――西洋人の耳さへも、うつとりさせずには措かぬ一種の魅力を持つてゐる、といふのは鳥の囀りや蟬の鳴き聲と同樣に、魅力を感得してゐる自然性に合致してゐるからである。かかる旋律を、特別に纎細な其の音調と共に描き出すのは容易な仕事ではないだらうが、仕遂(しおほ)せたら骨折りだけの報いは充分あるだらうと私は信じない譯には行かない。之等は大昔の、恐らくは原始的の音樂精神を表はしてゐるのみならず、其の民族の或る本質的な特色をも表はしてゐる。乃ち其處には民衆音樂の比較硏究により民族情緖に關して知り得る事が屹度澤山あるに違ひない。

 然し、昔の百姓唄に頗る風變りな情趣を與へてゐる之等の特質が、『大黑舞』の出雲式な唄ひ方の中には殆ど目に附かないといふ事實は、恐らく後者が比較的近代的のものだといふ事を示してゐるのであらう。

 

 

   『俊德丸』の唄

 

   コリヤコリヤ!――面白さうに若い大黑と惠比壽が踊りながら出て來る。

 

 お話をお聞かせ申さうか、それともお祝ひの口上を述べやうか。お話とな。然らば何をお話したら一番よろしかろ。此の結構なお宅で一つ物語をしろとの仰せに與つたる以上、吾々共は俊德の物語を語ると致さう。

[やぶちゃん注:「俊德丸」は俊徳丸伝説(高安長者伝説)で語られる伝承上の人物。河内国高安の長者の息子で、継母の呪いによって失明し落魄するが、恋仲にあった娘乙姫の助けで四天王寺の観音に祈願することによって病が癒える、というのが伝説の筋で、この題材をもとに謡曲「弱法師(よろぼし)」・説教節「しんとく丸」。また浄瑠璃・歌舞伎「攝州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」などで知られる。説教節「愛護若(あいごのわか)」との共通点も多い。ウィキの「俊徳丸」を参照されたい。]

 昔、河内の國に、信吉(のぶよし)と言ふ大金持ちが確に住んで居た。信吉の總領息子は俊德丸と言つた。

 其の總領の俊德丸が僅三歲の時に母親が死んだ。五歲の時に繼母を授かつた。

 七歲の時に、繼母は乙若丸と言ふ男の子を產んだ。そして二人の兄弟は大きく成つた。

 俊德が十六歲になつた時、彼は京都に出掛けて、天神樣の御社にお供物を供へに行つた。

 其處で彼は社に參詣する人達千人と、歸つて行く千人と、殘つて居る千人を見た。三千人の人が集つてゐたのだ。

 

註 かういふ數は日本語では單に大群集を示したものに過ぎないので、正確な意味は持つてゐない。

 

 其の群集の間を萩山と言ふ金持ちの末娘が御社指して駕籠に乘つて行つた。俊德も駕籠で行つた、そして二つの駕籠は道を並んで通つたのである。

 其の娘を見詰めて、俊德は想ひを寄せた。そして二人は眼を見交はし戀文を取り交はした。

 此の事を俊德の繼母に阿諛(おべつか)者の召使がすつかり告げ口した。

 そこで繼母はこんな事を考へ始めた、若しあの若者が此の儘父親の家にゐたならば、東と西の物置倉も、南と北の穀倉も、中に建つてゐる家も、決して乙若丸の物にはなるまいと。

 それ故彼女は或る惡るい事を企んで、夫にかう言つて話し掛けた、『ねえ、旦那樣、家事上の務めを私に七日間は爲(し)なくてもよいといふお許しが願へませんでせうか』

 夫は答へた、『あゝ、いいとも。だが一體七日間に何がしたいといふのだ』彼女は言つた。『旦那樣と婚禮致します前に、私は淸水の觀音樣へ願を懸けました、それで今お寺に參つて願ほどきがしたいので御座います』

 主人は言つた、『よろしい。だがお前の連れて行きたいのは下男か下女かどつちだ』

 すると彼女はかう答へた、『下男も下女も要りません。獨りぎりで參り度う御座います』

 そして旅の事に就いて種々注意されても氣にも留めず、彼女は家を立つて、大急ぎで京都に向つた。

 

 京都の三條邊に着いた時、彼女は銀冶屋町通に行く道を訊いた。そして其處を探し當てたが、見ると鍛冶屋が三軒並んでゐた。

 彼女は眞中の店に入つて、鍛冶屋に挨拶し、かう言つて尋ねた、『鍛冶屋さん。ちよつとした細かい鐡の仕事をして貰へませんか』彼は答へた、『えゝ、奧さん、致しませう』

 そこで彼女は言つた、『頭の先きの無い釘を四十九本どうか拵へて下さい』すると彼は答へた、『家では代々鍛冶屋をやつて私は七代目ですが、頭の無い釘なんて今迄一度も聞いた事はありません、さういふ御注文は請合ひ兼ねます。どこか他でお求めになつたらいいでせう』

 『いゝえ』と女は言つた、『お前さんの店へ最初に來たのだから、他へ行かうとは思ひません。どうかお賴みだから、ねえ鍛冶屋さん、拵へて下さい』彼は答へた、『ぶちまけた話が、そんな釘を拵へるんなら、千兩戴かなくてはなりませんぜ』

 彼女は答へた、『若しすつかり拵へて吳れるのなら、お前さんの欲しいのが千兩だらうと二千兩だらうとそんな事はちつとも構やしません。拵へて下さい。ほんとにお願ひだから、ねえ鍛冶屋さん』さう言はれると鍛冶屋も釘を造る事を、きつぱり斷わる譯には行かなかつた。

 彼は鞴[やぶちゃん注:「ふいご」。]の神樣に禮を正しくする爲め、諸道具を全部きちんと取り並べた。それから、第一の槌を取り上けて、『金剛經』を誦(とな)へ、第二の槌を取り上けて『觀音經』を誦へ、第三の槌を取り上げて『阿彌陀經』を誦へた、――さうした釘は或る惡るい目的に使はれるのかも知れないと氣遺つたからである。

 かくして思ひ煩ひながら彼は釘を造り上けた。釘が出來上がると彼女は非常に喜んだ。そして左手で釘を受け取り、右手で錢を鍛冶屋に拂つて、別かれを告げて出て行つた。

 彼女が行つて仕舞つてから、鍛冶屋は考へた、『此の通り私は金の小判註一で千兩だけ持つてゐる。だが吾々の一生は旅人の休み場所と言つたやうなものに過ぎない、だから私は是非他人に何か憐れみを掛けてやり親切を盡くしてやらなければならない。寒がつてゐる者には着る物を與へてやらう、空腹(ひもじ)がつてゐる者には食べる物を惠んでやらう』

 そして地方地方の境や村々の果てに書札(かきふだ)註二を立てて自分の趣旨を告けたので、彼は大勢の人達に慈悲を施す事が出來たのである。

 

註一 小判は一つの金貨である。珍らしい形や模樣の小判が澤山に在つたものだ。最もありふれた形は楕圓形の平盤で、漢字の印されたものであつた。小判の或るものはたつぷり五吋[やぶちゃん注:「インチ」。一インチは二・五四センチメートルだから、十二・七センチメートル。]の長さがあり、厚さは四吋[やぶちゃん注:十・一六センチメートル。]あつた。

註二 世間一般に告げ知らせるものは通例木の札を柱に附けてそれに書き誌されるのである。田舍では丁度此の唄に示されたやうな告示板が今でも立てられる。

 

 彼女は途中で畫工(ゑかき)の家に足を止めて、一つ繪を畫いて吳れと賴んだ。

 畫工は彼女にかう言つて訊いた、『古い梅の木の繪を畫いて上けませうか、それとも年經た松を描きませうか』

 彼女は言つた、『いゝえ、古い梅の木の繪も、年經た松の繪も要りません。十六歲の男の子の繪姿が欲しいのです、脊は五尺有つて、顏に二つ黑子[やぶちゃん注:「ほくろ」。]の有る子のが』

 『そんなもの畫くのはお易い事ですよ』と畫工は言つた。そしてほんの僅な時間で其の繪姿を畫き上げた。それは俊德丸によく似てゐたので、彼女は喜んで其處を立ち去つた。

 俊德丸の繪姿を携へて彼女は淸水へと急いだ、そして寺の後ろに在る柱の一つに其の繪を貼り附けた。

 それから四十九本の釘の中、四十七本を以て繪姿を柱に打ち附け、殘る二本で兩眼を釘附けにした。

 そこで俊德丸を呪ひ終(おほ)せたとはつきり思ひ込んで惡るい女は家へ歸つた。そして愼(つゝ)ましげに『只だ今歸りました』と言つて、自分がさも貞實であり、正直であるやうに取り繕つた。

 

 さて繼母が俊德の身の上にかうして禍を祈願してから三四箇月經つて彼は重い病氣に罹つた。そこで其の繼母は祕かに喜んだ。

 彼女は夫の信吉に巧みに話し掛けた、『ねえ、旦那樣、俊德の此の病氣は大層惡るい病氣のやうに思はれます、こんな病氣に罹つて居る者を金持ちの家に置く譯には參り兼ねます』

 之を聞いて信吉は非常に驚き、且つ甚く悲しんだ、然しよく考へて見て之はどうにも仕樣のない事だと考へたので、自分の所へ俊德を呼んで、かう言つた――

 『倅や、お前の罹つてゐる病氣はどうも癩病らしいのだ。かういふ病氣に罹つてゐる者は此の家で此の儘ずつと暮らして行くといふ譯にはいかないのだ。

[やぶちゃん注:「癩病」「らいびやう」。ハンセン病。抗酸菌(マイコバクテリウム属 Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「らい予防法」が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く纏った「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か、菌名の方は未だに「らい菌」のままである。おかしなことだ。「ハンセン菌」でよい(但し、私がいろいろな場面で主張してきたように、単に差別の「言葉狩り」をしても意識の変革なしに差別はなくなりはしないのである。ここで私が指摘する差別の問題も実は全く同じものであると私は考えている)。]

 『だからお前の爲めに一番良いのは、佛樣の御利益(ごりやく)で身體が瘉るかも知れないといふ望みを以て、國を殘らず巡禮して步く事だ。

 『物置倉や穀倉は乙若丸にやりはしない、只だお前に、俊德にだけやる、だから屹度私等の所へ歸つて來なければいけないよ』

 哀れな俊德は、繼母がどんなに腹黑い女であるかも知らず、傷ましい姿で彼女に懇願した、『お母さん、私は家を出て巡禮になつてさまよはなければならないと言ひ附けられました。

 『けれども今私は眼が見えないのです、難儀せずに旅する事は出來ません。私は御飯を三度戴かなくても一日一度で滿足します、そして物置か納屋の隅にでも住まはして下されば嬉しいのです。けれども何處か此の家の近くに置いて戴き度う御座います。

 『どうかほんの暫くの間でも私を置いて下さいませんか。ねえお母さん、お願ひです、置かして下さいませ』

 然し彼女は答へた。『お前の今思つてゐるのは惡るい病氣のほんの起こり始めだから、私はお前を置いてやるといふ譯には行きません。さつさと家を出て行きなさい』

 

 それから俊德は、奉公人達に引立てられて、無理やりに家から庭に追ひ出され、激しく悲み嘆いて居た。

 すると獄道な繼母は、後から隨いて來て呶鳴つた、『お父さんのお言ひ附けだ、直ぐに出て行かなきやいけないよ、俊德』

 俊德は答へた、『御覽なさい、私は旅着もありません。巡禮の上着や脚絆が要ります、施しを受ける巡禮の頭陀袋も』

 かういふ言葉を聞いて惡るい繼母は喜んだ、そして彼が吳れといふ物全部を直に與へた。

 俊德は其の品々を受け取つて、彼女にお禮を述べ、痛ましい有樣にありながらも、出立の用意をした。

 彼は上着を着て木で出來たお護符(まもり)を胸に下け、頭陀袋を頸に引掛けた。

 彼は草鞋を穿いて堅く締め、竹の杖を手に取り、菅笠を頭に乘せた。

 そして『御機嫌よう、お父さん。御機嫌よう、お母さん』と言ひながら、哀れな俊德は旅立ちした。

 

註 巡禮及び巡禮着の詳細に就いては、「人類學協會雜誌」(一八九三年)に記載されたるチヤムバレーン敎授著「日本宗敎小行事註解」を見よ。其の論說には立派に圖解が施されてある。

[やぶちゃん注:「チヤムバレーン」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年:ハーンとは同い年)はポーツマス近郊のサウスシー生まれ。参照したウィキの「バジル・ホール・チェンバレン」によれば、『彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり』、日本についての事典や文法書、「古事記」などの英訳、アイヌや琉球の研究でも知られる。『「王堂」と号して、署名には「チャンブレン」と書いた』。彼は若き日、『オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した』という(以下、アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。明治六(一八七三)年『五月二十九日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌一八七四年から一八八二年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。ついで一八八六年からは東京帝国大学の外国人教師となった。ここで彼は"A Handbook of Colloquial Japanese"(『口語日本語ハンドブック』、一八八八年)、"Things Japanese"(『日本事物誌』、一八九〇年初版)、"A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing"(『文字のしるべ』、一八九九年初版、一九〇五年第二版)などの多くの著作を発表した。"Things Japanese"の中で新渡戸稲造の著作』“BUSHIDO”に『触れているが』、『愛国主義的教授(nationalistic professor)と批判的である。さらに彼はW.B.メーソンと共同で旅行ガイドブックの『マレー』の日本案内版である"A Handbook for Travellers in Japan"(一八九一年)も執筆し、これは多くの版を重ねた』(「マレー」(John Murray)はイギリスの出版社。ダーウィンの「種の起源」を出版したことで私でさえも知っている当時の超弩級の出版元である)。『一九〇四年ごろから箱根の藤屋(富士屋)に逗留し近くに文庫を建てて研究を続けていたが、眼病にかかったため、一九一一年離日』し、この時、『東京帝大名誉教師となった。以降はジュネーヴに居住した。箱根宮ノ下では、堂ヶ島渓谷遊歩道を』「チェンバレンの散歩道」『と別称している』と記す。因みにまた、後にドイツに帰化した反ユダヤ主義の政治評論家で脚本家であったヒューストン・チェンバレン(Houston Stewart Chamberlain 一八五五年~一九二七年)は彼の末弟であり、彼は作曲家リヒャルト・ワーグナーの娘を妻としたことから、彼もワーグナー家と晩年、交流があったともある。なお、小泉八雲は親しかったが、晩年にはチェンバレンとは距離を置いたようである。「日本宗敎小行事註解」は原題“Notes on some Minor Japanese Religious Practices”(「幾つかの細かな日本の宗教的慣習に就いての注記」)。]

 

 信吉は悲嘆に暮れて途中まで子息を送つて來て、かう言つた、『どうにも仕方がないのだよ、俊德。けれどもな、此のお護符に籠もつて居る有難い佛樣の御利益で、もしもお前の病氣が癒るやうな事があつたら、其の時は直ぐ私等の所へ歸つておいで、なあ』

 父親の此の優しい別かれの言葉を聞いて、俊德は心が非常に和らいだやうな氣がした、そして近所の人達に知られないやうに、大きな菅笠で顏を蔽つて、獨り步いて行つた。

 然し間もなく、自分の足が大層弱い事が解つて遠くへは行けるかどうか氣遣はれて來たし、又始終自分の家の方へ後髮を引かれる思ひがするので其の爲め度々立ち止まつてそちらの方へ振り向かずにはゐられなかつたやうな始末で、彼は又悲くなつたのであつた。

 

 何處にしろ人の住家に入つて行くなどといふ事は彼にとつてはむつかしい事なので。度々松の木の下や森の中で眠らなければならなかつた、けれども時としては運よくも、佛像の置いてある路傍の御堂などに宿を見つける事もあつた。

 或る時夜明け前の、朝も暗い中、一番鴉が飛び𢌞はつて啼き出す頃だつたが、亡くなつた母親が俊德の夢枕に立つた。

 そして彼女は彼に言つた、『倅や、お前の苦勞するのは獄道な繼おつかさん[やぶちゃん注:「ままおつかさん」と読んでおく。]が惡るいお呪(まじな)ひをしたからだよ。これから淸水樣にお參りして、身體の癒るやうに觀音樣にお願ひ申しなさい』

 俊德は不思議に思ひながら起き上がつた、そして京都へ向つて淸水へ向つて、路を辿つて行つた。

 或る日、旅の途中、彼は萩山と言ふ金持ちの家の門に立つて大聲で、『御報謝! 御報謝!』[やぶちゃん注:前の「!」の後には字空けはないが、特異的に挿入した。後も同じ。]と叫んだ。

 すると其の家の下女が、聲を聞いて出て來て、食物をやつたが、大聲で笑つて言つた、『こんなをかしな巡禮に何か施しをしてやらうと思つたら誰れだつて笑はずにはゐられやしない』

 俊德は尋ねた、『あなたは何故笑ふんです。私は河内の信吉と言ふ、金もあるし、よく人に知られた人の子息なのです。けれども惡るい継おつかさんに呪はれて、御覽の通りの姿に成つたのです』

 其の時、二人の聲を聞き附けて、乙姬と言ふ其の家の娘が出て來て、下女に尋ねた。『どうしてお前笑つたのだい』

 下女は答へた、『あの。お孃樣。河内から來た盲者(めくら)で、二十歲ばかりに見える男なんですが、御門の柱の所で鉦を鳴らして、大きな聲で。「御報謝! 御報謝!」と言ふんで御座いますよ。

 『だから私は綺麗なお米を少々お盆に載せてやらうとしたのです、所が私がお盆を右の手の方に差し出すと。向うぢや左を出すのです、それから私がお盆を左の手の方に差し出すと向うぢや右を出すんですもの。そんな譯で私は我慢が出來なくて笑つたんで御座いますよ』

 下女が年若い姬にかう言つて說明して居るのを聞いて、其の盲者は腹を立てて言つた、『あなたはよその人を莫迦にするなんて權利は有りませんよ。私は河内に居る、金が有つてよく知られてゐる人の子息(むすこ)なのです、俊德丸と言ふのです』

 其の時其の家の娘、乙姬は、不圖彼を思ひ出して、自分も大變に怒つて召使に言つた、『無躾に笑ふものぢやない。他(ひと)を笑ふ者は今に他から笑はれるよ』

 

 けれども乙姬は全く度膽を拔かれて暫くは堪へ切れずにぶるぶる[やぶちゃん注:底本は「ぶるるぶ」。誤植と断じて訂した。]震るへた、そして、自分の部屋に引き下がると、不意に氣を失つて仕舞つた。

 さあ家中大騷ぎになり、大急ぎで醫者が迎へられた。然し娘は、どんな藥もちつとも受け付ける事が出來ず、只だ段々弱つて行くばかりであつた。

 そこで名の有る醫者が大勢遣はされた。彼等は一緖に立ち合つて乙姬を診察した、終ひに皆は姬の病氣は單に何か突然の悲みが原因になつたのだといふ事に診斷を下した。

 そこで母親は病んだ娘に言つた、『若しお前に何か人知れず悲しんでゐる事が有るのなら、隱さずに、私に話してお吳れ。それで何か願ひが有つたら、どんな事であらうと、それがお前に叶ふやうに骨折つて上げるから』

 乙姬は答へた、『ほんたうにお恥づかしう御座いますが、私の願つて居る事をお話し致しませう。

 『いつぞや此處へ參りました眼の見えぬ男は河内の方で俊德と言ふ金の有つて、よく人に知られた人の子息さんです。

 『京都の北野天神のお祭の時、私は御社に參る道で、其の若いお方にお會ひ致しました、其の折私共は戀文を取り交はして、お互にお約束をしたので御座います。

 『ですから私は、あの方が何處に居られやうと、探し當てるまでお尋ねするつもりで旅をしたいのですが、それが許して戴き度くてたまらないので御座います』

 母親は優しく答へた、『それは成る程いいだらう。若し駕籠が欲しかつたら駕籠でもいいし、馬がお好みなら馬で行けるやうにするからね。

 『誰れでもお前の好きな召使を選んで供をさせても構はない、それから欲しいだけの小判を持たして上げるよ』

 乙姬は答へた、『馬も駕籠も要りません、それから召使も。私は只だ巡禮者――脚絆や上着――と施しを貰ふ頭陀袋が有れば結構で御座います』

 乙姬がこんな事を言ふのは、俊德のした通りに全く獨りぎりで出掛けるのが自分の義務だと思つたからである。

 そこで彼女は兩親に別かれを告げ、眼に一杯淚を溜めて、家を後にした、『さようなら』といふ言葉も口の内で。

 

 あの山を越え此の山を越え、又山越えて彼女は進んで行つた、聞こゆるものとては野鹿の啼き聲と溪の流れの水音ばかり。

 或る時は路に迷つた。或る時は嶮しい崖を攀ぢ、進み難い小徑を辿つて行つた、いつも彼女は悲みに沈みつつ旅々續けたのである。

 やがて、彼女は自分の前方に――遙か、遙かのかなたに――『傘松』と言ふ一木の松の木と、『會うた』と言はれる二つの岩を眼に留めた。此の二つの岩を見た時に、彼女は俊德の事を考へて戀しくも思ひ、又望を繫いだのでもあつた。

 急いで先きへ行くと、熊野に行く五六人の人達に出會つたので、彼女は尋ねた、『あなた方は此方へおいでになる路で十六歲位の眼の見えぬ若者にお會ひになりはしませんでしたか』

 彼等は答へた、『いゝえ、未だ會ひません、けれども何處かで會つたら、何なりとあなたのお望みの事をお言傳(ことづて)しませう』

 此の答へを聞いて姬は大いに落膽した、そして戀人を探さうとしていくら骨を折つた所で何の甲斐もないだらうと考へ始めて、すつかり鬱ぎ[やぶちゃん注:「ふさぎ」。]込んで仕舞つた。

 終ひには餘り鬱ぎ込んだ結果、もうこれ以上彼を此の世で探さうとはすまい、だが來世ではあの人に會へようから、ぐづぐづせすに狹山池に身を投げようと心を決めた。

[やぶちゃん注:「狹山池」原文“the pool of Sawara”。平井呈一氏の恒文社版「三つの俗謡」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では『狭原(さわら)の池』と訳しておられる。位置不詳。]

 彼女は其慮へ出來るだけ急いで行つた。池に着くと、巡禮の杖をしつかりと地面に立てて、上着を松の木に引懸け、袋を投け捨て、髮を解いて島田に結つた。

 

註 死んだ女の結ふ簡單な髮型である。「知られぬ日本の面影」の下卷「女の髮に就いて』の章參照。

[やぶちゃん注:『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十八章 女の髮について (七)』である。「草たばね」という簡易な島田髷の髪型である。]

 

 それから、二つの袂に石を一杯詰めて、あはや水中に飛び込まうとした、其の時不意に彼女の前に立派なお爺さんが現はれた、年は見た所八十より少くはなく、白づくめの着物物着て、手には笏を持つてゐた。

 其の老人は彼女に言つた、『そんなに死ぬのを急ぐな、乙姬。お前の尋ねる俊德は淸水さんに居る。其處へ行つて會ひなさい』

 此の言葉は、實に、彼女がこれ以上望めない何より嬉しい報せだつたので、彼女は忽ち嬉しくてたまらなくなつて來た。自分は守護(まもり)神樣の御利益でかやうに救はれたのだ、そしてあゝいふお言葉を掛けて下さつたのは神樣御自らであつたのだと彼女は悟つた。

 そこで袂に入れた石を取り捨て、脫いだ上着を又着込み、髮を結ひ直して、大急ぎで淸水寺指して路を進んで行つた。

 到頭寺に着いた。三つの低い段々を昇りて、廊下の下にちらと眼をやると、戀人の俊德が菰を被つて、其處に橫になつて眠つてゐるのを認めた。で彼女は、『もし、もし』と彼を呼んだ。

 俊德は其の爲めパツと眼を覺まして、側に置いてある杖を摑んで呶鳴つた、『私が盲者だもんだから、近所の餓鬼共奴[やぶちゃん注:「がきどもめ」。]每日每日やつて來て嬲りをる[やぶちゃん注:「なぶりをる」。]』

 乙姬は此の言葉を聞いて、大層情なく思ひ、近寄つて哀れな戀人に手を掛けて言つた。

 『私はそんな惡るい、いたづらな子供ぢやありません、金持ちの萩山の娘です。京都の北野天神のお祭の時お約束しましたから、あなたにお目に懸かりに參つたのです』

 自分の戀人の聲を聞いたので俊德は喫驚して、すばやく起き上がつて叫んだ、『おゝ、あなたは本當に乙姬ですか。久し振りでした――だがあんまり不思議だな。全くうそぢやないんですか』

 それからは、互に撫(さす)り合ひながら、物も言はずに只だ潜々と[やぶちゃん注:「さめざめと」。]泣くばかりであつた。

 俊德は身も世もあらず悲しんでゐたが、然し程なく氣を取り直して、乙姬に向つて聲を强めて言つた、

 『繼おつかさんのお蔭で私の身體には呪ひが掛けられてゐます、それで見られる通り、私姿は變り果てて仕舞つたのです。

 『さういふ次第ですから、私は夫としてあなたと一緖になる事は迚も出來ません。此の儘でゐるとしても、腐(くづ)れて死ぬまでかうやつてゐなければならないのです。

 『だからあなたは直ぐ家に婦つて、そして幸福に華やかに暮らさなければいけません』

 然し乙姬は深い悲みに沈みながら答へた。『どうしてそんな事が出來ませう。あなたは全く眞面目でいらつしやるのですか。本當に正氣でいらつしやるのですか。

 『どうして、どうしてそんな事が。私はあなたの爲めなら命でも捨てようと思ふ程、あなたが戀しいばつかりにこんなに姿を扮(やつ)してゐるのです。

 『これから先きどんな事が起こらうと、今となつでは決してあなたを離しません』

 俊德は此の言葉を聞いて喜んだ、喜びもしたが又女の不敏さに胸が一盃になつて、一言も物が言へずに、泣いたのであつた。

 それから姬は彼に言つた、『あなたの惡るい繼おつかさんはあなたがお金持ちなばつかりにあなたを呪つたのですから、私だつて其の人を呪つてあなたの仇を討つてやる位恐れやしません、私も金持ちの子ですもの』

 さう言つてから、彼女は一心籠めて、寺の中の佛樣に申し立てた――

 『七日七晚の開私は此のお寺にお籠もりして、願を掛けて見ます。若しあなた樣に誠が有り、お慈悲が有りましたならば、どうか私共をお助け下さいまし。

 『藁葺きの屋根なんかはこんな大きな御普請にとつて適はしい屋根ではありません。私は小鳥の羽毛で屋根を附け換へませう、それから屋根の棟には鷹の腿[やぶちゃん注:「もも」。]の羽毛を被せませう。

 『此の鳥居にしても此等(ここら)の石燈籠にしても不細工なもので御座います、私は金の鳥居を建てませう、それから金の燈籠を千個、銀の燈籠を千個拵へませう、そしてそれに每晚明かりを附けませう。

 『こんな廣いお庭に期が無くてはいけません。私は檜を千本、杉を千本、唐松を千本植ゑ附けませう。

 『けれども若しこんなにお願ひしても俊德を癒して下さらなかつたら、さうしたら二人は向うの蓮池に一緖に身を投げます。

 『そして私共は死んだ後で、二匹の大蛇に化けて、此のお寺にお詣りに來る人々皆苦しめてやります、それから巡禮の通るのを路で邪魔してやります』

 所が、不思議な事には、こんな願を立ててから七日日の晚、彼女の夢枕に觀音樣かお現はれなさつて、『汝が祈願の筋は叶へて遣はす』と仰しやつたのである。

 

 忽ち乙姬は眼が覺めた、それで自分の見た夢を俊德に話して、二人で不思議がつた。二入は起きて、一緖に川へ降りて身體を淨め、觀音樣を拜んだ。

 すると、不思議な事には、盲ひた俊德の兩眼はパツと開いて、元のやうにはつきり見えるやうになり、病氣も失くなつて仕舞つた。餘りの嬉しさに二人共潜々と泣いたのであろ。彼等は共に宿屋を探して、其處で巡禮着を脫いで、さつぱりした着物を着た、それから駕籠と駕屁舁きを雇つてそれに乘つて家に歸る事にした。

 

 父親の家に着くと、俊德は大聲で叫んだ、『お父さんお母さん、私歸つて參りましたよ。有難いお札に書いてあるお呪(まじな)ひの功德で、御覽になれば解る通り、私の病氣は癒りました。あなた方は御無事ですか、お父さんお母さん』

 すると俊德の父親は、之を聞いて、馳け出て來て叫んだ、『おゝ、私はどれ程お前の身を案じて居た事か。

 『一寸の暇にもお前の事を思はない時はなかつたのだ。所が今は――お前に會つたり、一緖に連れて來た花嫁御に會つたりするとは、まあ何といふ嬉しい事だ』そして皆共に喜び合つた。

 所が、これに引き換へ、不思議極る事には獄道な繼母がそれと同時に眼が見えなくなり、手足の指が腐れ始めたのであつた、爲めに彼女は大變苦しんだ。

 其の時、花嫁と花婿は其の惡、[やぶちゃん注:読点にしては位置がやや下で薄い。「惡き」かも知れぬが、判読不能。]儘母に向つて言つた、『それ御覽なさい。業病があなたに取り忌いたのですよ。

 『癩(なり)ん坊は金持ちの家に置いとく譯に行きません。どうぞ直ぐに出て行つて下さい。

[やぶちゃん注:ルビの一字目は判読不能。私の知っているハンセン病の古い差別卑称には似たものがない。識者の御教授を乞う。「う」か「を」に似ては見える。【2020年1月7日:削除・追記】橋内武氏の論文「強制隔離政策下の療養所生活 ――長島2園を中心に」(『桃山学院大学総合研究所紀要』第四十四巻第三号・PDFでダウン・ロード可能)によって、ハンセン病患者の古い蔑称(差別呼称)が判った。その中に、原義不詳乍ら、『「なりん坊」(ぶうらぶら)』とあったので、それで補った。]

 『巡禮の上着と脚絆、菅笠と杖は差し上けます、さういふ品は殘らず、此處に用意がして御座いますから』

 其の時継母は、前に大變非道い事を自分でもしたのだから、死なずに助かる事さへ出來ないと悟つた。俊德と妻は大變に喜んだ、どれ程二人は嬉しがつた事だらう。

 一日にたつた一度少しばかりの食事をさせて吳れと繼母は彼等に賴んだ、――丁度俊德の賴んだやうに。然し乙姬は憂き目に會つてる女に言つた、『此處に置いて上ける事は出來ません、――納屋の隅でもいけません。さつさと出て行つて下さい』

 信吉も自分の惡るい女房に言つた、『どういふつもりで處に尻を据ゑて居るんだ。行くのにどれだけ暇が掛かるんだ』

 そして彼は女を追ひ出した、彼女はどうする事も出來ず、泣く泣く出て行つた、近所隣りの者に見られないやうに顏を隱さう隱さうとしながら。

 

 乙若は眼の見えぬ母親の手引きをして、共に京都に行き淸水寺に行つた。

 二人は其處に着くと寺の段々を三つ昇り、跪いて、觀音樣にお祈りして言つた、『もう一つ呪ひが掛けられますやう私共に力をお授け下さい』

 所が觀皆樣は不意に二人の前に姿をお現はしになつて、かう言はれた、『汝の願ひが善い事ならば、叶へても取らさうが、邪まな事とあつては最早一切構ひは致さぬ。

 『汝若し死ぬならば、其處に死に居らう[やぶちゃん注:「をらう」。]。身罷つたる[やぶちゃん注:「みままつたる」。]後は地獄に送り、黑金(くろがね)の大釜の底に落として、煠でて[やぶちゃん注:「ゆでて」。]くれうぞ』

 俊德の物語は之でお終ひ。扇をポンと一つ陽氣に叩いて止(や)める事に致さう。

目出度し、――目出度し、――目出度し。

[やぶちゃん注:最後の一行が行頭なのはママ。但し、この最後の二行はそれまでの本部によりポイント落ちで、事実はエピローグの口上である。]

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