芥川龍之介 長距離競走の記 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)
[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『長距離競走の記』に拠った。本篇には末尾に明治三九(一九〇六)年十二月のクレジットがあり、これは新全集の宮坂覺氏の年譜に於いて、芥川龍之介十四歳の冬十二月二十二(土曜日)の条に、『朝、長距離競走に出場する』とある行事の記録、と言うより、謡曲や狂言の章詞をパロった戯文である。当時の芥川龍之介は東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)二年次生である。れば、この八月頃、『友人七人と深夜、午前』零『時に品川を発ち、横浜方面に向けて徹夜で歩く』とある。記載内容から府立三中の学校行事であったことが判る。]
長距離競走の記
名にし負はゞいざ言問はむ都鳥、我が思ふ人はありやなしやと、之は武藏野の片ほとりに住む學生にて候。さても此度長距離團體競走の擧ありと承り候ふ程に、只今之へと急ぎ候。水淀む「旅所橋(おかりやばし)」を立ち出でて、つきせぬ勳(いさを)とことは[やぶちゃん注:ママ。]に馨る[やぶちゃん注:「かをる」。]も床し、梅の花、天滿宮を橫に見て、行けば程なく中川や、逝く秋降しむ水の色、川添ひ柳淋しげに、眞菰うら枯れ蘆老へる[やぶちゃん注:ママ。]、逆井橋にぞつきにける、逆井橋にぞつきにける。謠にすれば早いものにて、之は早、出發點にて候。能がかりの足どり危く、明治卅九年十二月廿二日朝、一隊四十餘人の健兒と共に、ヒヨロリヒヨロリと逆井橋の出發點に赴きしはかく申す小生なり。
我隊の出發は既に五分を餘すのみなれば列を正して、檀樹下に馳足進めの號令を待つ。二過ぎ、三分過ぎぬ。肥後先生は時計を睨みて立てり、柳先生は指揮杖を上げて立てり。三十秒、四十秒、五十秒、六十秒、驚破!「進め」の號令 耳元にひびきつ。
四十の鐡脚は砂煙りを立て、出發點を出ぬ。
陣々の風、砂をまいて來る。我等はその中を走りぬ。
[やぶちゃん注:「驚破!」の後に字空けはなく、「號令 耳元にひびきつ」の字空けはママ。
「旅所橋(おかりやばし)」現行では「たびしょはし」と音読みしている。東京都墨田区と江東区の間を流れる横十間川に架かる。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在の都立両国高校の東七百七十メートルほどの位置。
「天滿宮」亀井戸天神社。芥川龍之介が直進しているルートから北へ九百七十メートル以上離れるが、「橫に見て」であるから問題ない。但し、実際には旅所橋の東詰から直ぐ左方向となるので、道行文のために距離があったような感じで記してある。
「中川」現在の旧中川。この後の大正一三(一九二四)年に荒川放水路に放水を開始したことによって分断されたもとの中川の下流部分。
「眞菰」」単子葉類植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae族マコモ属マコモ Zizania latifolia。ウィキの「マコモ」によれば、『東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行』とある。
「逆井橋」(さかいばし)は現在の旧中川に架かり、東京都江東区と江戸川区を結んでいる。ポイントしたのは「逆井の渡し跡」であるが、拡大すると、「新逆井橋」の下流直近の首都高の下に今一本架かっているのが見えるはずで、それが「逆井橋」である。
「檀樹下」ダンジユカ」と音読みしていようが、「檀」はニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus hamiltonianus。但し、坂井橋のたもとに事実、「マユミ」の木があったかどうかは判らぬ。本「まゆみ」は真弓とも書き、古くから弓の材として知られた歌語であり、また、冒頭で第九段をパロっ見せた「伊勢物語」の第二十四段に「梓弓(あづさゆみ)真弓(まゆみ)槻弓(つきゆみ)年を經て我がせしがごとうるはしみせよ」という歌があるのを、芥川龍之介は意識したようにも私は感ずる。
「馳足進め」「かけあしすすめ」であろう。]
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