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2019/12/30

芥川龍之介 彰仁親王薨ず 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版・三種テクスト表示)

 

[やぶちゃん注:底本は、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「彰仁親王薨ず」(既に述べたが、本書の「初期の文章」大パートは逆編年配列(小パート内も)という特殊なものである)及び本篇を所収している岩波の新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)のそれ(但し、漢字は新字表記)を校合し、手を加えて、特異的に三種のテクストを示してある。

 その新全集「後記」や平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の関口安義・庄司達也編「芥川龍之介作品事典」及び新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、小学校時代に同級生数人と始めた回覧雑誌『日の出界』の明治三六(一九〇三)年二月二十五日臨時発行の「お伽一束」に掲載されたもの(江東尋常小学校高等科一年次の終り。芥川龍之介満十歳(十一直前)。芥川龍之介は三月一日生まれである)である。関口安義編「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「回覧雑誌」の項によれば、この回覧雑誌『日の出界』は『半紙を紐で綴じた』形態であり、『芥川は編集主幹的立場にあり、毛筆で清書している。ただし、「表紙絵は悉く養父道章の筆になるもの」』(この引用は底本の「芥川龍之介未定稿集」の大パート「初期の文章」の頭にある葛巻氏の注の引用)『だという』とある。現在、『日の出界』は刊行時期(一九〇二年と翌年)の異なる時期の発行になる四冊が見つかっており、他に明治三七(一九〇四)年発行の別な名称の回覧雑誌『實話文庫』の存在も判っている(回覧雑誌癖は府立三中時代も続いている)。

 本篇は明治三六(一九〇三)年二月十八日に満五十七歳で病死した小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王の死を悼むものである。

 小松宮彰仁親王(弘化三(一八四六)年~明治三六(一九〇三)年)は陸軍軍人で官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第八王子。安政五(一八五八)年に仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受けて純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任したが、慶応三(一八六七)年、復飾を命ぜられ、仁和寺宮嘉彰親王と名乗った。明治維新にあって議定・軍事総裁に任ぜられ、戊辰戦争では奥羽征討総督として官軍の指揮を執っている。明治三(一八七〇)年、宮号を東伏見宮に改めた。明治七(一八七四)年に勃発した「佐賀の乱」には征討総督として、また、同十年の西南戦争でも旅団長として出征、乱の鎮定に当たった。明治一四(一八八一)年、維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められ、翌明治十五年に宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで「小松宮」に改称している。親王はヨーロッパの君主国の例に倣って、皇族が率先して軍務に就くことを奨励し、自らも率先して範を示したのであった。明治二三(一八九〇)年には陸軍大将に昇進し、近衛師団長・参謀総長を歴任し、日清戦争では征清大総督に任ぜられ、旅順に出征している。明治三一(一八九八)年に元帥府に列せられた。一方で国際親善にも力を入れ、明治一九(一八八六)年にはイギリス・フランス・ドイツ。ロシア等のヨーロッパ各国を歴訪し、明治三五(一九〇二)年のイギリス国王エドワードⅦ世の戴冠式には明治天皇名代として臨席している。社会事業では日本赤十字社・大日本水産会・大日本山林会・大日本武徳会・高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。その他の功績の一つとしては蝦夷地(北海道)の開拓に清水谷侍従と共に深く関わった(以上はウィキの「小松宮彰仁親王」に拠った)。死因は過労による脳充血発作とされる。「芥川龍之介作品事典」の熊谷信子氏の本篇の解説で、『少年期の芥川がなぜ小松宮彰仁親王に傾倒していたのか、作家論からのアプローチが待たれるところである』と擱筆されておられるが、芥川龍之介は「追憶」(大正一五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載され、後に『侏儒の言葉』に所収された。リンク先は私の古い電子化注サイト版)で、

   *

       畫

 僕は幼稚園にはひつてゐた頃には海軍將校になるつもりだつた。が、小學校へはひつた頃からいつか畫家志願に變つてゐた。僕の叔母は狩野勝玉と云ふ芳涯の乙弟子(おとでし)に緣づいてゐた。僕の叔父も亦裁判官だつた雨谷に南畫を學んでゐた。併(しか)し僕のなりたかつたのはナポレオンの肖像だのライオンだのを描く洋畫家だつた。

 僕が當時買ひ集めた西洋名畫の寫眞版は未だに何枚か殘つてゐる。僕は近頃何かの次手(ついで)にそれ等の寫眞版に目を通した。するとそれ等の一枚は、樹下に金髮の美人を立たせたウイスキイの會社の廣告畫だつた。

   *

と述べている。海軍軍人というのは当時の男児の定番の希望ではあるが、彰仁親王の海外歴訪や活発にして多様な社会事業への参与などが、新時代の人物としての魅力を持っていたものとも言えるのではあるまいか。

 標題脇附の『――つゝしみて 芥川龍之助記――』は新全集の「後記」にも記されてある署名である。但し、新全集では前後のダッシュはないので、それを除いて示した。「芥川龍之助」の「助」表記は当時の彼の自筆署名に見られる。芥川龍之介は後年、この「助」の字を嫌い、その宛名で書かれた書信には返事を出さなかったという伝説もあるが、この「芥川龍之助」は底本の『〔小学時代㈡〕』の葛巻氏の最後の注に、この「助」は芥川家での慣用表記であって、実名はやはり本名「芥川龍之介」であって、この本名は『実父のみではなく、その実母共々の銘々でもあり、「長女初、次女久。長男芥川龍之」』(太字は底本では傍点「○」。以下、この注内引用では同じ)『と明らかに二回暑された、その実母の一冊の「手控え」を編者は今日も所蔵している』とあり、新原家除籍と芥川家への養子縁組のために明治三七(一九〇四)年八月三十日、『本所区役所に届けられた届では、まだ芥川家での慣用のまま、一時「龍之」として届けられ、間もなく彼』(芥川龍之介)『自身の意志も加わり、両親達が名付け、判決正本』(新原家推定家督人廃除の訴訟の判決を指す)『通り、「龍之」と改められた。因に養父道章(みちあき)は、その幼名を「長之助」とも言った』とあることで、芥川家で「助」の字が用いられた慣用名を名乗らされた理由もこれで判り、「芥川龍之介は芥川龍之助が正しい」とする風説はこれで誤謬であることがはっきりするのである。

 底本は各段落一字下げとなっているが、新全集版は字下げがない。後者に従った。また、底本も新全集も孰れも総ルビ(標題と数字を除く)であるが、それだけを示すと、甚だ読み難いことから、まず、①ルビを除去したものを示し、そのあとに、②読みを新全集(「後記」の「凡例」に原稿の読みはそのままに写したとする。現代仮名遣部分が殆んどで誤表記も複数認められる)で示し、その後に③底本の葛巻氏によって補正されたものらしい歴史的仮名遣に従ったそれを附したものを掲げることとした。

 

①ルビ排除版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風は凄颯として草木悲み雲は暗淡として山川憂ふ鳴呼之明治三十六年二月十八日曉天の光景にあらずや

此の日此の時元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下御腦症を以て橋場の御別㙒に薨去せらる

あゝ殿下の功烈かぞへ來れば日も亦た足らず殿下は實に故有栖川大將宮故北白川大將宮と共に明治の三柱とぞとなへられさせ給ふ

天は何故に我が國に幸をさづけざるぞ先に有栖川宮殿下を失ひ次に北白川宮殿下を失ひ今又小松宮殿下を失ふあゝ悲きかな

 

②一九九七年岩波書店刊の新全集「芥川龍之介全集」のルビに従った版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風(かぜ)は凄颯(せいさつ)として草木(そうもく)悲(かなし)み雲(くも)は暗淡(あんたん)として山川(さんせん)憂(うれ)ふ鳴呼(あゝ)之(これ)明治(めいじ)三十六年(ねん)二月(がつ)十八日(にち)曉天(ぎようてん)の光景(くわうけい)にあらずや

此(こ)の日(ひ)此(こ)の時(とき)元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下(げんすゐりくぐんたいしようだいくんいこまつのみやあきひとしんのーでんか)御腦症(ごのーしよう)を以(もつ)て橋場(はしば)の御別㙒(ごべつしよ)に薨去(がうきよ)せらる。

あゝ殿下(でんか)の功烈(こうれつ)かぞへ來(きた)れば日(ひ)も亦(ま)た足(た)らず殿下(でんか)は實(じつ)に故有栖川大將宮(こありすがわたいしようのみや)故北白川大將宮(こきたしらかわたいしようのみや)と共(とも)に明治(めいじ)の三柱(ちう)とぞとなへられさせ給(たま)ふ

天(てん)は何故(なにゆへ)に我(わ)が國(くに)に幸(さいはひ)をさづけざるぞ先(さき)に有栖川宮殿下(ありすがわのみやでんか)を失(うしな)ひ次(つぎ)に北白川宮殿下(きたしらかわのみやでんか)を失(うしな)ひ今(いま)又(また)小松宮殿下(こまつのみやでんか)を失(うしな)ふあゝ悲(かなし)きかな

 

③一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の正仮名ルビ版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風(かぜ)は凄颯(せいさつ)として草木(さうもく)悲(かなし)み雲(くも)は暗淡(あんたん)として山川(さんせん)憂(うれ)ふ鳴呼(あゝ)之(これ)明治(めいぢ)三十六年(ねん)二月(ぐわつ)十八日(にち)曉天(げうてん)の光景(くわうけい)にあらずや

此(こ)の日(ひ)此(こ)の時(とき)元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下(げんすゐりくぐんたいしやうだいくんゐこまつのみやあきひとしんわうでんか)御腦症(ごなうしやう)を以(もつ)て橋場(はしば)の御別㙒(ごべつしよ)に薨去(こうきよ)せらる。

あゝ殿下(でんか)の功烈(こうれつ)かぞへ來(きた)れば日(ひ)も亦(ま)た足(た)らず殿下(でんか)は實(じつ)に故有栖川大將宮(こありすがはたいしやうのみや)故北白川大將宮(こきたしらかはたいしやうのみや)と共(とも)に明治(めいぢ)の三柱(ちゆう)とぞとなへられさせ給(たま)ふ

天(てん)は何故(なにゆゑ)に我(わ)が國(くに)に幸(さいはひ)をさづけざるぞ先(さき)に有栖川宮殿下(ありすがはのみやでんか)を失(うしな)ひ次(つぎ)に北白川宮殿下(きたしらかはのみやでんか)を失(うしな)ひ今(いま)又(また)小松宮殿下(こまつのみやでんか)を失(うしな)ふあゝ悲(かなし)きかな

 

[やぶちゃん注:「橋場」現在の東京都台東区橋場(グーグル・マップ・データ)。

「別㙒」別荘。

「有栖川大將宮」有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう 天保六(一八三五)年~明治二八(一八九五)年一月十五日)。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の長子。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷運動を支持、元治元(一八六四)年に国事御用掛に任ぜられたが、同年の「蛤御門の変」(禁門の変)で長州藩士に荷担した故を以って謹慎を命ぜられた。慶応三(一八六七)年十二月、王政復古とともに総裁職に就任、翌年の戊辰戦争では、二月に東征大総督となり、官軍を率いて東下して江戸に入った。後、兵部卿・福岡県知事・元老院議長を務め、明治一〇(一八七七)年の西南戦争では征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣・参謀本部長・参謀総長を歴任した。日清戦争では広島大本営で軍務をとったが、病を得て没した(以上は小学館「日本大百科全書」他を参照した)。

「北白川大將宮」北白川宮能久親王(よしひさしんのう 弘化四(一八四七)年~明治二八(一八九五)年十月二十八日)か。伏見宮邦家親王第九子。青蓮院・梶井門跡を経て、安政五(一八五八)年十月、親王宣下により、能久の名を受け、得度して公現と称した。慶応三(一八六七)年五月、輪王寺門跡を相続したが、「鳥羽・伏見の戦い」の後、寛永寺で謹慎していた徳川慶喜を救解すべく、駿府城に赴いて、東征大総督熾仁親王に嘆願。その後、彰義隊に擁され、寛永寺に立て籠ったが、新政府軍の攻撃を受け、会津に脱走、奥羽越列藩同盟の盟主となる。明治元(一八六八)年九月、奥州が鎮定されると、謝罪状を提出、親王停止と謹慎処分を受けたが、翌年十月に赦免されて伏見宮に復した。同五年、北白川宮を相続した。一方それに先立つ明治三年十二月より、兵学研究のためにドイツに留学、明治十(一八七七)年に帰国した後、陸軍中佐・少中将と昇進し、明治二十八年には近衛師団長となって日清戦争に出征、台湾鎮定に当たったが、同年三月、台湾で抗日の兵が決起、その鎮圧に当たる中、台南にて病没した(以上は「朝日日本歴史人物事典」他を参照した)。彼は亡くなった時は陸軍中将であったが、死後に贈大将されている。]

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