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2019/12/24

小泉八雲 俗唄三つ (稻垣巖譯) / 「八百屋の娘『お七』の唄」 / 「俗唄三つ」~了 / 作品集「心」~了

 

[やぶちゃん注:本篇については、必ず『小泉八雲 俗唄三つ (稻垣巖譯) / (序)と「『俊德丸』の唄」』の冒頭注を読まれて後、お読みになられるよう、お願い申し上げる。

 原題は“ THE BALLAD OF O-SHICHI, THE DAUGHTER OF THE YAOYA ”。英語原本はここから。

 原文では上記の通り、「お七」は「おしち」で、思い人「吉三」は「きちざ」である。新墓地(小僧)で「吉三」という名は不審であるが、本情話を最も知らしめる濫觴となった井原西鶴の「好色五人女」の「卷四 戀草からげし八百屋物語」の原文を確認して見ると、武家の子吉三郎で、寺小姓(住職の側に仕え、雑用を務めた少年。男色の相手ともなった。所謂「稚児」)であるから腑に落ちる。

 なお、「嗟呼!」(「ああ!」)と「あゝ!」の後には字空けがないが、特異的に字空けを施した。本篇は特に後注を附した。

 本篇を以って、作品集「心」は終わっている。]

 

   八百屋の娘『お七』の唄

 

 秋の鹿が仲間の啼き聲に似た笛の音に誘はれれ、獵人の矢玉の屆く所に入つて來る、そこで殺される。

 大方それと同じやうに、江戶で一番美しい五人の娘、其の綺麗な顏は丁度櫻の花のやうに都中殘らずをうつとりさせたのだが、其の五美人の一人が、戀の爲めに眼が眩んで其の刹那自分の命を捨てて仕舞つたのである。

 無分別な事をして仕舞つてから、彼女は江戶の町奉行の前に連れて來られたが、其の時、位の高い役人は若い科人にかう言つて訊問した、『お前は八百屋の娘、お七ではないか。そんな若い身空で。どうしてあんな恐ろしい放火罪を犯すやうな事になつたのだ』

 するとお七は、泣きながらそして自分の手を握り締めながらかういふ答辯をした、「本當に、あれが私の今迄に犯したたつた一つの罪で御座います。あれには特別譯があるのではありません、只だこれだけです、――[やぶちゃん注:以下、陳述の間には、二重鍵括弧閉じるがないのはママ。]

 『何時[やぶちゃん注:「いつ」と読んでおく。]だつたか以前、大火事のあつた時、――隨分大きな火事で江戶中殆ど殘らず燒き盡くされましたが、――私共の家も燒け落ちて仕舞つたのです。それで私共三人――兩親と私――は外に行く所がないと知つたので、或るお寺に身を寄せて、私共の家が又普請の出來るまで其處に泊まりました。

 『若い者達二人を互に近寄せる因緣といふものは確に解らないもので御座います。……其のお寺に若いお弟子の坊さんが居りましたが、私共は思ひ思はれる仲になつたのです。

 『こつそり二人は逢引きして、お互に必らず見捨てないやうにと約束しました、それから私共は小指に附けた小さい斬り傷から血を啜り合つたり、起請[やぶちゃん注:「きしやう」。]を取り交はしたりして、お互にいつまでも可愛がらうと誓ひ合つたのです。

 『私共の枕が未だ定まつて仕舞はない內に、本鄕に新しい家が建てられて私共が何時でも入れるやうになつたのです。

 

註 此の珍らしい言ひ方に戀人同志が「枕を取り交はす」といふ日本の言葉が其の起原である。暗い所では、小さい日本の木枕はよくあつちこつち入れ代はりになる。それ故、「枕が未だ定らない內に」といふのは、二人の戀人が相變はらず夜分こつそりと互ひに會ひ續けてゐたといふ意味であらう。

[やぶちゃん注:小泉八雲は「新枕(にひまくら)」の離れ難くなる絶対的一線を超えるに至る前に、というのをオブラートで包んで注している。いや、お七自身が「新枕」の意味を真には理解していないほどに精神的に幼かったとも謂い得るかも知れぬ。孰れにせよ、この注には、小泉八雲の、乙女お七への哀憐の情を強く感ずる。]

 

 『けれども私が二世[やぶちゃん注:「にせ」。]と契つた吉三樣に悲い[やぶちゃん注:「かなしい」。]お別かれを告げた日からは、其の方に手紙位貰つても私の心は落ち着きませんでした。

 『夜獨りで寢床に入ると、いつも私は考へて考へ拔いたのですが、たうとう或る晚の夢の中で家に附け火をしようといふ恐ろしい考へが浮かんで來ました、愛(いと)しい綺麗な人に又會へるのにはこれより外方法がありませんから。

 『そこで、或る晚、枯草を一束取つて來て、其の中に火の附いた炭を幾つか乘せて、家の裏の物置にそつと其の束を入れました。

 『火事が起こつて、大騷ぎになりました、そして私は逮(つか)まへられて此處へ連れて來られたのです――おゝ。本當に恐ろしい事で御座いました。

 『私は決して、決してもう二度とこんな罪は犯しません。けれどもどうあらうと、おゝ、どうぞ私をお助け遊ばして、御奉行樣。おゝ、どうぞ私を憐れんで下さいませ』

 あゝ! 飾り氣のない言ひ譯だ!……だが彼女は年は幾つだ。十二ではないか。十三ではないか。十四ではないか。十四の後には十五が來る。嗟呼! 彼女は十五だつた、それで助かる譯には行かなかつた。

 それ故お七は掟に從つて宣告された。然し彼女は先づ丈夫な繩で括られて[やぶちゃん注:「くくられて」。]、日本橋と言ふ橋の上で七日間世間の人の眼に晒された。あゝ! 何といふ可哀相な見世物だつたらう。

 彼女の伯母達や從兄弟達、家僕の『べくらい』や角助(かくすけ)までが、淚に濡れた袖を何遍も度々絞つたのであつた。

 けれども、罪は許す事は出來ないので、お七は四本の柱に縛られた、薪に火は附けられた、火は熾え[やぶちゃん注:「もえ」]。上がつた。……そして哀れなお七は火の眞中に!

 

     飛んで火に入る夏の蟲

 

[やぶちゃん注:八百屋お七(やおやおしち 寛文八(一六六八)年?~天和三年三月二十八日(一六八三年四月二十四日:但し、生年や命日に関して諸説がある)は江戸前期の江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし、火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学・歌舞伎・文楽など、芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公となっている。詳しくは参照したウィキの「八百屋お七」を読まれたいが、一部を引いておく。『お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる「天和笑委集」(お七が処刑された天和三(一六八三)年から僅か数年後に板行された実録体小説。作者不明)によると、お七の家は天和二年十二月二十八日(一六八三年一月二十五日)の大火(「天和の大火」)で『焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなか』、『お七は寺小姓生田庄之介』『と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた』。但し、『現在では』、「天和笑委集」自体は概ね『当時の記録に当たって詳細に作られているが、お七の記録に関してだけは』、『著しい誇張や潤色(脚色)が入っているとされている。例えば』、「天和笑委集」には、『火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされるお七は華麗な振袖を着ていることにしているが、放火という大罪を犯して火あぶりになる罪人に華麗な振袖を着せることが許されるはずもないと専門家に指摘されている』。『実はお七の史実はほとんどわかって』おらず、『歴史資料として』は、元武家の僧で歌学者でもあった戸田茂睡著の「御當代記」の天和三年の記録部分に僅かに『「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されているだけである』という。『お七の時代の江戸幕府の処罰の記録』である「御仕置裁許帳」にも西鶴が「好色五人女」を書いた貞享三(一六八六)年『以前の記録にはお七の名を見つけることができ』ず、『お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も事実として知る事はでき』ないばかりか、『お七の家が八百屋だったのかすらも、それを裏付ける確実な史料はない』。『東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は』諸随筆類を『詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものであることを立証している。また、戸田茂睡の』「御當代記」のお七の記述部分も『後から書き加えられたものであり、恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定し、お七の実在にさえ』も『疑問を呈している』。『しかし、大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は』「御當代記」のそれの『後から書き入れられた注釈を含め』、孰れも『戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和』三年に『お七という女が江戸の町で放火したということだけは疑わなくてよいとしている。また、お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が』未だ生きている中で、作者不明ではあるが、『江戸で発行された』「天和笑委集」と大阪の西鶴が書いた「好色五人女」に、違いはあるものの、『八百屋の娘お七の恋ゆえの放火という点で一致しているのは、お七の処刑の直後から東西で広く噂が知られていたのだろうとしている』。『お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も、好色五人女がお七の処刑からわずか』三『年後に出版されている事から』、『少なくとも』、『お七のモデルになった人物はいるのだろうとしている。もしもお七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずの』、お七の事件から僅か三年後の西鶴の作品で『あれほど同情を集めるはずが無いとしている』。

 井原西鶴の浮世草子「好色五人女」は五つの独立した物語で構成されており、総て当時、世間に知られていた実話に基づくものである。書名は「好色」の二字を冠しているものの、各話の女性が現代的な語感で言う「好色」な人物であるわけではなく巻五の「恋の山源五兵衛物語(おまん源五兵衛)」以外は、皆、悲劇的結末を迎える物語となっており、女性たちは、時に、命をも賭けて一途な恋を貫いていると同時に、物語の語り口には滑稽味や露骨な描写なども多く見られ、現代の所謂「純愛物」の雰囲気とも趣を大きく異にしている(ここはウィキの「好色五人女」に拠った)。その卷四「戀草からげし八百屋物語」は、『自ら積極的に恋愛行動に移る町娘という、それまでの日本文学史上画期的な女性像を描き、お七の原典として名高い』。『西鶴の後続への影響は絶大なもので、特に演劇系統は西鶴を下地にした紀海音を基にするものがほとんどであり、西鶴が設定した恋人の名を吉三郎、避難先の寺を吉祥寺とすることを受け継いでいる作品が大多数を占めることからも西鶴の影響の大きさが推測される』。そのシノプシスは、師走二十八日の『江戸の火事で本郷の八百屋八兵衛の一家は焼けだされ、駒込吉祥寺に避難する。避難生活の中で寺小姓小野川吉三郎の指に刺さったとげを抜いてやったことが縁で、お七と吉三郎はお互いを意識するが、時節を得ずに時間がたっていく。正月』十五『日、寺の僧達が葬いに出かけて寺の人数が少なくなる。折りしも雷がなり、女たちは恐れるが、寺の人数が少なくなった今夜が吉三郎の部屋に忍び込む機会だと思ったお七は他人に構われたくないゆえに強がりを言い』、『他の女たちに憎まれる。その夜、お七は吉三郎の部屋をこっそり訪れる。訳知りの下女に吉三郎の部屋を教えてもらい、吉三郎の部屋にいた小坊主を物をくれてやるからとなだめすかして、やっとお七は吉三郎と』二『人きりになる。ふたりは『吉三郎せつなく「わたくしは十六になります」といえば、お七「わたくしも十六になります」といえば、吉三郎かさねて「長老様が怖や」という』というあるように、『西鶴が』「なんとも此戀はじめもどかし」『というように』、『十六歳の恋らしい初々しい契りだった。翌朝』、『吉三郎といるところを母に見つか』ってしまい、『引き立てられる。八百屋の新宅が完成し』、『お七一家は本郷に帰る。ふたりは会えなくなるが、ある雪の日、吉三郎は松露・土筆売りに変装して八百屋を訪ね、雪の』ために『帰れなくなったと土間に泊まる。折りしも親戚の子の誕生の知らせで両親が出かける。両親が出かけた後でお七は土間で寝ている松露・土筆売りが実は吉三郎だと気が付いて部屋に上げ、存分に語ろうとするが、そこに親が帰宅。吉三郎を自分の部屋に隠し、隣室に寝る両親に気がつかれないようにお七の部屋でふたりは筆談で恋を語る。こののち』、『なかなか会えぬ吉三郎の事を思いつめたお七は、家が火事になればまた吉三郎がいる寺にいけると思い』、『火付けをするが』、『近所の人がすぐに気が付き、ぼやで消し止められる。その場にいたお七は問い詰められて自白し捕縛され、市中引き回しの上』、『火あぶりになる。吉三郎は』、この時、『病の床にあり』、『お七の出来事を知らない。お七の死後』百『日に吉三郎は起きられるようになり、真新しい卒塔婆にお七の名を見つけて悲しみ自害しようとするが、お七の両親や人々に説得され』、『吉三郎は出家し、お七の霊を供養する』。

 なお、小泉八雲の本篇「俗唄三つ」の序の部分で、小泉八雲が引いている、「『八百屋お七』の』唄の『最初の四行』とする、

 

こゑによるねの、あきのしか

つまよりみをばこがすなり

ごにんむすめのさんのうで

いろもかはらぬえどざくら

 

の「ごにんむすめのさんのうで」というのは、明らかに西鶴の「好色五人女」を意識した謂いと思われ、後の「さんのう」は「山王」或は「三王」で、恋に命を懸けた「稀の代表格」の謂いであろうか?]

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