小泉八雲 環中流轉相 (金子健二譯) / 作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」~完遂
[やぶちゃん注:本篇(原題は“ WITHIN THE CIRCLE ”。「円環の内部にて」)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“ Gleanings in Buddha-Fields STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST ”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の掉尾に配された第十一話である。この底本の邦訳では殊更に「第〇章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。
本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月8日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本篇の大標題はここ、本篇本文はここから。
訳者金子健二(明治一三(一八八〇)年~昭和三七(一九六二)年)氏は新潟県中頸城郡新井町出身の英文学者。高田中学校から東京の郁文館中学校・第四高等学校を経て、明治三八(一九〇五)年、東京帝国大学英文科卒。一九〇七年から一九〇九年まで米国のカリフォルニア大学バークレー校大学院に学び、帰国後、広島高等師範学校教授、大正一三(一九二四)年、在外研究員として渡欧、大正一五(一九二六)年、文部省督学官、後に東アジア・インドに調査旅行をした。昭和八(一九三三)年、旧制静岡高等学校校長・姫路高等学校校長を務め、日本女子高等学院教授(校名変更で日本女子専門学校教授)、学校法人「東邦学園」理事となり、校名変更後の昭和女子大学の初代学長・理事を務めた。中世英文学が専攻であったが、インドや夏目漱石など、関心は広かった(ウィキの「金子健二」に拠った)。
傍点「﹅」は太字に代えた。
なお、個人的にはネタ晴らし的な、こういう標題の意訳は、私は好まない。真の作家であられた平井呈一氏は恒文社版(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では「環中語」と訳しておられる。それでこそ!]
第十一章 環中流轉相
私達の一身上の苦痛や觀樂は言葉で實際的に發表することは出來ぬものである。これをその儘の形で告げることは全く困難のものである。ただこれを惹起するに至つた事情を鮮明に描寫して、同情のある人の心に同種類の性質の感情を幾分なりと喚起させることが出來得るのみである。併し若しその苦痛なり歡樂なりを惹起した事情其物が全然一般の人間經驗と沒交涉の性質の物であるならば、如何にこれを表現したところで、それが惹起したところの感じ其儘の物を充分に他人に知らしめることが出來ぬ。故に私は私の前生[やぶちゃん注:「ぜんしやう(ぜんしょう)」。]を見る苦痛の實感を語らうとしてもそれは見込の無い企[やぶちゃん注:「くはだて」。]である。私の言ひ得ることは各個人に起り來る苦痛は如何にこれを結合してみても、このやうな苦痛――無數の生命の錯綜した苦痛とは別種の物であるといふことである。それは言はば、私の凡ゆる神經が伸される[やぶちゃん注:「のばされる」。]だけ伸されて、百萬年を通じて織られに織られた感覺の或る驚くべき織物に成りあがつた樣なものであつた。――又それは、言はば、その無限無量の經緯(たてよこ)の絲の全部が、その凡ての震へる絲にわたつて、過去の深淵の中から私の意識の中へ名の無い或る凄愴の物を――人間の頭腦の中に入れるには餘りに大き過ぎる恐怖を注ぎ込んでをるやうである。と言ふのは私は過去の世を眺めた時私自身が二倍、三倍、乃至八倍になつたからである。――私は等差級數によつて增加した。――私は百となり千となつた。――千の恐怖を以て畏れた。――千の苦悶を以て失望した。――千の惱を以て戰慄した。併し如何なる歡樂も知らなかつた。一切の快樂は霧の如く又夢の如く現れたが、ただ苦痛と恐れのみは事實であつた。――然もいつも、いつもこの苦とこの恐怖のみが增していつた。感覺が消滅したその刹那に一つの神聖な或者が俄然として現れて來てその恐怖に滿ちた幻影を滅し、ただ一つの實在の意識を私に再び與へてくれた。このやうに忽然として複雜の我(が)より縮小して單一の我(が)に復歸することの心地よさは到底言語に盡し得ざるものがある。嗚呼あの廣大無限の我(が)が潰崩して個性の盲目的、健忘的麻痺性に還るその有樣の心地よさよ!
かくの如くにして私を救濟してくれた神聖な者の聲は言うた、『他人にも――同じ狀態に在るところの他の人達にも彼等の前生についで或物を見ることが許されてあつた。併し彼等の中の何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]といへども遙に遠いその前生を見渡すことに耐へ得なかつた。凡ゆる前生を見渡すことの出來る力は、我(が)の束縛から永劫に脫離した人のみに與へらる〻力である。かくの如き力を所有してをる人は迷ひの外に住するのである――形と名を脫却して住するのである。故に苦痛は彼等に近寄ることが出來ぬ。
『併し汝は迷ひの中に住してをるが故に佛陀といへども汝にただ手近の道以外に後を顧みる力を與へ得ぬのである。
[やぶちゃん注:以下、二重鍵括弧の閉じるが、最後のそれを除いて、ないのは、ママ。
「ただ手近の道」自我という空しい仮象が持つ、不完全な智や、果敢ない記憶のみを頼りとして仮定された過去(世)を、貧しく想像する力しか有さない、ことを言っていると、私は読む。]
『汝は依然として美術、詩歌、音樂の戲事[やぶちゃん注:「ざれごと」。]に迷はされてをる――色と形の迷ひに――淫らな言葉、淫らな音に迷はされてをる。
『自然と呼ぶ幻影――空寂と陰影の別名である――は依然として汝を欺き汝を迷はし、且つ物慾を熱愛する夢を以て汝の心を滿す。
『然れども眞に識を愛する者はこの幻の自然を好愛してはならぬ――晴れたる天空の耀映を歡喜してはならぬ。――海の眺めにも――水の流る〻音にも――山、林、谷の形にも――是等の物の色に於ても歡喜悅樂を見出してはならぬ。
『眞に識を愛する者は人類の事業を企圖することに、或は人類の會話を聞くことに、或は人類の感情的遊戲を觀察することに興味を持つてはならぬ。是等の凡ては煙の棚引けるが如く、蒸氣の薄くかがやくが如きものである――凡ては一時的で――凡ては幻影である。
『人類が高尙崇高と呼んでをる快樂は淫逸の大なる物と、虛僞の巧妙なる物に外ならぬ――利己の心は形のみ美しく見ゆる有害の花に過ぎぬ――凡ては慾情の古き粘土に根を張つたものである。晴れたる日の耀映を悅び――山の色の日輪の𢌞轉によつてその色を變ずるを見て樂み――波のうねりの消えてゆく跡を見、タ陽の消えてゆくのを見――草木の花の中に魅力を見出すことは皆これ感覺の迷ひである。亦人間の行爲の大なるもの、或は美なるもの、或は英雄らしきものを見て歡喜することも等しくこれ感覺の作用である――何が故にと問へば、かくの如き歡樂は人類がこの憐れむべき世界に於て淺間敷くも手に入れようとして努力するところの事物を空想することの快樂と同一の物であるが故である。人類の欲して止まざる物とは何か、束の間の愛と名聲と榮譽――是等の凡ては束の間の水泡の如く空虛である。
『天、太陽、大海――山、森、平野――美しく輝ける物、形をなせる物、色ある物の凡ては――幻である。人間の感情、思想、行爲――上下貴賤は何れに考へたにせよ――永久の目的以外の爲に考へられ又は爲されたところの一切の事柄は夢から生れた夢であつて、空虛を生むより外に何事をも爲すことが出來ぬ。明かな目には一切の自我の感じは――一切の愛惜、歡苦、希望乃至悔恨は等しく陰影である――老少、美醜は其の間に差別が無い――生死は一にして同、空間と時間は不斷の影遊びの舞臺乃至順序としてのみ存在するものである。
『時の中に存在する凡ての物は消滅しなくてはならぬ。目覺めた者には時も無く所も無く變化も無い――夜も無く晝も無く――暑も無く寒も無く――月も無く季節も無く――現世も過去も亦未來も無い。形及び形の名は等しく無である、知識のみは事實である、故に知識を得る者にとりて宇宙は實體の幽靈と映ず。併しかう書いてある――「過去と未來に於て時に打勝つた者は卓越した純知識の人たらざるべからず」と。
『かくの如き知識は汝の有する物では無い。汝の目には影は依然として實質と映じ――闇黑は光明と寫り――空虛は美として映じてをる。故に汝の前生を見ることは汝に苦を與へるに過ぎぬ』
私は問うた――
『では、若し私が起原に溯つて――時といふもの〻發端迄溯つて觀察するだけの力が見出されたとしたならば――私は果して宇宙の祕訣を読破することが出來得るだらうか』
[やぶちゃん注:「宇宙の祕訣」原文“the Secret of the universe”。]
答は與へられた、『否、その祕訣を讀み得るものは無限力のみである。若し汝は汝の有つてをる力以上に遙に遠くの過去を眺め得たにしても、その目に映じた過去は汝に未來となつて映じ來るであらう。その時汝はなほこれに耐へ得たならば、その未來は轉𢌞し來つて現在となるであらう』
私は驚きながら私語した、『でもそれは又何が故に?――圓とは何か?』
答はかうであつた、『圓とは別な物に非ず――圓とは生死の大きな幻の渦卷に外ならぬ――無知の徒は彼等自身の考へと行爲によりこの幻の渦に身を墮して[やぶちゃん注:「おとして」。]其所に留つてをる。併しこれは時の中に於てのみ實在を有つてをる。併しこれは時の中に於てのみ實在を有つてをる。然かもそれ自身に於て迷ひである』
[やぶちゃん注:「圓」“the Circle”。「円環」或いは「循環」。ここは最終段落の謂いからして「輪廻」に置換して認識してよい。]
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