小泉八雲 祖先崇拝に就いて (戸澤正保訳) / その「四」・「五」・「六」 / 祖先崇拝に就いて~了
[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 祖先崇拝に就いて (戸澤正保訳) / その「一」・「二」・「三」』の私の冒頭注を参照されたい。]
四
我々が若し我々の地位を負債者として考へ、又我々は其地位に、如何に處するかと考へるなら、西洋の道德的情操と、極東のそれとの間の著しき相違は明瞭となるであらう。
生といふ事實が初めて十分に我々の自覺に入つた時、不可思議な其生の事實程、我々をして肅然たらしむるものはない、我々は知られざる暗黑の中から、一寸日光の中へ出現する、四邊を見𢌞はす、喜んだり苦しんだりする。我々の存在の震動を他の存在へ移す、そして再び暗黑の中へ歸還する。浪が此通りである。現はれ出る日光を捉へる、其運動を傳へる、そして再び海中に沒入する。植物も共通りに土から現はれ出て、其葉を日光と空氣との中に開き、花咲き、實のり、そして再び土と成る。ただ浪は知識を有たぬ、植物は知覺を有たぬ。人間の生も皆、地から出て地へ還る抛物線的の運動に外ならぬ樣に見ゆる、が人間の生は其短い變化の中間に宇宙を覺知する。此現象の嚴肅味は誰れもそれに就て何事をも知らぬといふ點に在る。凡ての事實中で此尤も平凡な、併し尤も不可解な事實――生其者[やぶちゃん注:「生そのものは」。]は、如何なる人も說明し得ない。それにも拘らず苟くも考へ得る凡ての人間は、自己に關して、早くから之を考へざるを得なかつた。
自分は神祕の中から現はれ出る――自分は空と陸と、男と女と、それから彼等の事業を見る、そして自分は神祕の中へ還らねばならぬことを知る――併しこれが何を意味すもかは、最大の哲學者も――ハアバアト・スペンサー氏すらも――自分に告げる事が出來ない。我々は悉く我々自身に謎であり、又相互に謎である。空間や、運動や、時間や皆謎である[やぶちゃん注:ママ。「時間やも、皆、謎である」の意。]、物質も謎である。以前及び以後に就ては、新たに生まれた孩兒も、死人も、我々に何等の消息を齎さぬ。街兒は默し、髑髏[やぶちゃん注:「どくろ」。]はただ笑ふ。(齒をむき出して)のみである、自然は我我に何の慰藉をも與へぬ。自然の無形の中から有形が現はれ、それが又無形に還る――それだけである。植物は土となり、土は植物となる。植物が土に還る時、其生命であつた震動はどうなるのであらう。それは窓玻璃(ガラス)に結ぶ霜に、齒朶(しだ)の葉形(はがた)を作る力の樣に、目には見えずに存在を續けるのであらうか。
[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者・倫理学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。]
無窮の謎の地平線内に、世界と共に生まれた無數の小さい謎が、人間の來るのを待つて居た。エヂバス[やぶちゃん注:Oedipus。オィディプス(エディプス)。]は一匹のスフインクスに出會つた。人類の出遇つたのは幾千萬匹であつたらう――何れも時の通路に沿う枯骨の中に跼つて[やぶちゃん注:「せぐくまつて」。]、順繰りに前よりも深いむつかしい謎をを提供しつつ。凡てのスフインクスの謎は悉く解かれてはなかつた。尙ほ未來の路には幾億萬のスフインクスが並列して、まだ生まれぬ生命を呑まんとして居る。併し今迄に解かれたのが數百萬ある。我々は我々を導く若干の知識――破滅の顋(あぎと)[やぶちゃん注:原文は“jaws”であるから、肉食獣の顎(あご)・口の意。]から獲來たつた[やぶちゃん注:「とりきたつた」。]知識の故に。今は不斷の恐怖なしに生存する事が出來るのである。
譯者註 希臘神話中の物語、スフヰンクスは人面獅身の怪物、辻に立つて通行人に謎をかけ、解けぬ時は之を喰ひ殺す、偶〻エヂパス此謎を解くと怪物は自殺したと云ふ。
我々の知識は、凡て讓り受けた知識である。死者は彼等自身及び周圍の世界に就て――生死の法則に就て――求めらるべきもの、避けらるべきものに就て――生活と自然が欲するよりも痛ましからぬ樣にする方法に就て――正と不正、悲みと樂みとに就て――我欲の誤謬、親切の賢明、献身の義務に就て――凡て此等に就て學び得たる物の記錄を、我々に遺したのである。彼等は氣候風土季節に就て――日月星辰に就て――宇宙の運行と構成に就て、彼等の發見し得た凡ての物の知識を我々に遺したのである。彼等は又我々に彼等の謬想[やぶちゃん注:「びうさう(びゅうそう)」。誤った想念。原文は“delusions”で、「思い違い・勘違い」・「間違った信念・考え」・「妄想」・「錯覚」の意。]を遺して、我々をしてより大なる謬想に陷る事を免れしめた。彼等は彼等の過誤と努力、彼等の成功と失敗、彼等の苦しみと喜び、彼等の愛と憎み[やぶちゃん注:「にくしみ」。]の歷史を我々に遺して、我我の警告とし若しくは範例とした。彼等は我々の同情を期待した、其故は彼等は我々へ最大の好意と希望とを以て努力したからである。そして又彼等は我々の世界を作つたのであるからである。彼等は國を切り開いた、彼等は怪物を退治した、彼等は我々に尤も有用な動物を馴致[やぶちゃん注:「じゆんち(じゅんち)」。馴(な)れさせること。馴染(なじ)ませること。]し訓練した。『クレルボの母は墓の中で目覺めた。そして深い土の中から彼に叫んだ、「妾[やぶちゃん注:「わらは」。]は其方が獵に連れて行く樣に、犬を木に繫いで其方に遺して置いたぞや」』(フィンラント民謠集『カレバラ』第三十六章)彼等は同樣に有用な樹木草木を養殖した、又金屬の所在地と効用とを發見した。後年に至つて彼等は我々の所謂文明を造り出した――彼等が止むを得ず爲した誤謬の訂正を、我々の爲すに任せて。彼等か努力の總計は無算數である[やぶちゃん注:数えきれないほど巨数であること。]。彼等が我々に與へた凡ての物は、之が爲めに費やした無限の勞苦と考慮とを思ひやつたのみでも、確に非常に神聖であり非常に貴重である。けれども果たして西洋人の何人か、神道信者の如く每日つぎの樣な感謝の跡を述べやうと思ふ者があらう――『我々後裔の先祖、我が家族の先祖、我が血緣の先祖達よ――卿達[やぶちゃん注:「けいたち」。尊敬の二人称複数形。]に我々の家庭の始祖として我我はここに感謝の喜びを申し述ぶる』
[やぶちゃん注:「クレルボ」原文は“Kullervo”(但し、引用全体が斜体)。クッレルヴォ。ウィキの「カレワラ」によれば、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」(Kalevala:音写は「カレヴァラ」に近いようである。これは「英雄の地」の意)に登場する人間的な人物で、カレルヴォ一族の女が産み落とした男子で、怪力の持ち主であるが、まともなことが絶対に出来ない粗暴で残虐な人物(但し、「カレワラ」を採集編纂した医師で博物学者であったエリアス・リョンロート(Elias Lönnrot 一八〇二年~一八八四年)による創作が加えられて悲劇の主人公へとその姿が変えられているとあり、『クッレルヴォの物語は、本来はカレワラのそれ以外の部分とは孤立していたものであ』ったとある。リンク先の第三十一章から第三十三章「クッレルヴォの誕生と成長」、第三十四章から第三十五章「クッレルヴォの帰還」、第三十六章「クッレルヴォの最期」にシノプシスが書かれてあるので参照されたい。
「我々後裔の先祖、我が家族の先祖、我が血緣の先祖達よ――卿達に我々の家庭の始祖として我我はここに感謝の喜びを申し述ぶる」この引用は平井呈一氏の恒文社版「祖先崇拝の思想」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)の平井氏の訳者注によって、やはり、平田篤胤の「玉襷」の「十」にある「拜祖靈屋詞」(訓読するなら「みおやのみたまををろがむことば」か)にあるものを英訳したものであることが判る(原文には注記がない)。ただ、カタカナで絶対にルビが振られているが、非常に読みにくいので、以下にまず、原文(漢字のみである)だけを恣意的に正字化して引かさせて戴き、後にルビに従って訓読した漢字ひらかな混じり文をオリジナルに示す。
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遠都御祖乃御靈。代々能祖等。親族乃御靈。總氐此祭屋爾鎭祭留。御靈等能御前乎愼美敬比。家爾毛身爾母枉事有世受。夜乃守日乃守爾守幸閉宇豆那比給比。彌孫能次々。彌益々爾令榮給氐。息内長久。御祭善志久仕奉志米給閉登。祈白須事乃由乎。平祁久安祁久聞食幸幣給閉斗畏美畏美毛拜美奉留。
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遠(とほ)つ御祖(みおや)の御靈(みたま)、代々(よよ)の祖等(おやたち)、親族(うからやから)の御靈(みたま)、總(すべ)て此の祭屋(まつりや)に鎭(いは)ひ祭(まつ)る。御靈等(みたまたち)の御前(みまへ)を愼(つつし)み敬(ゐやま)ひ、家(いへ)にも、身(み)にも、枉事(まがこと)有らせず、夜(よ)の守(まも)り、日(ひ)の守(まも)りに、守(まも)り、幸(さきは)へ、宇豆(うづ)なひ給ひ、彌孫(いやひこ)の次々(つぎつぎ)、彌益々(いやますます)に榮(さか)えしめ給(たま)ひて、息内(いのち)長く、御祭(みまつ)り、善(うるは)しく仕(つか)へ奉(まつ)らしめ給(たま)へと、祈(いの)ます事(こと)の由(よし)を、平(たいら)けく安(やすら)けく聞(きこ)し食(め)し幸(さきは)へ給(たま)へと、畏(かしこ)み畏(かしこ)みも、拜(をが)み奉(たてまつ)る。
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「宇豆那(うづな)ひ」「珍(うづ)なふ」は「神が承諾する」の意。「彌孫(いやひこ)の」「いやひこ」は本来は日本神話の神の名で「ますます盛んなる男神(おとこがみ)」の意であろうが、ここは後の「彌益々(いやますます」と対で、一種の感動詞として使用している。]
そんな者は一人もない。それはただ我々が死人に耳なしと考へるからばかりではない、我々は代々甚だ狹い範圍内に於ての外――家族といふ範圍内に於ての外、同情的に心で其人を想像する力を揮ふ樣に訓練されて居なかつたからである。西洋の家族といふも東洋の家族と比較して甚だ狹いものである。此十九世紀に在つては、西洋の家族は殆ど崩壞して居る――實際上、それは夫婦と丁年[やぶちゃん注:「強壮の時に丁 (あた) る年」の意で、一人前に成長した年齢の意。]に達する事遠き子供等を意味するに外ならぬ。東洋の家族といふは、啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]兩親と其血を分けたもののみならず、尙ほ祖父母と其血緣、曾祖父母及び其背後のあらゆる祖先を意味するのである。此家族の槪念が、同情的想像力を發達せしめ、遂に想像力に伴なふ情愛の及ぶ範圍は生ける家族の多くの群、及び亞群に迄も擴がり、國家危急の際には、一大家族としての全國民に迄も及ぶのである、これは我々が愛國心と呼ぶものよりも、遙かに深い感情である。更に宗敎的情緖としては、此感情は、あらゆる過去に限りなく擴げられる。愛や忠義や感謝やの混合した感情は、生ける血緣に對する感情に比すれば、漠然として居るのは止むを得ぬが、それと同樣に實在的な感情である。
西洋に於ては古代社會の破滅後は、こんな感情は存在し得なかつた。古代人を地獄に落とし、彼等の事業の嘆美を禁じたる信仰――凡ての物に對する感謝をへブライの神[やぶちゃん注:唯一神ヤハウェ(エホバ)のこと。]に捧げる樣に我々を訓練した敎義――は過去へのあらゆる感謝の念を抑制する思考の習慣幷びに思考せざる習慣を作り上げた。つぎに神學の衰頽と科學の勃興と共に、死せる者は自ら擇んで彼等の事業を爲したのでない――彼等は必然に從つたので、我々はただ彼等から必然の結果を、必然的に承け繼いだのであるといふ敎へが現はれた。そして今日も我々は尙ほ、必然其者[やぶちゃん注:「そのもの」。]も、必然に從つた古人に對する我々の同情を促すことを、又其承け繼いだ結果は、貴重であると同樣に、感銘すべきものであることを、認めやうとはせぬ。そんな考は、我我の爲めに働く生ける人々の事業に關してさへ、我々には起こらぬのである。我々は購求した物、若しくは我々自身の有となした物の代價を考へる――がそれが生產者に費やさしめた努力に就ては、我々は考へる事を決してせぬ。否、ぞんな事に就て良心の表白めいた事を云つたなら笑はれるであらう。そして我々が過去の仕事の感銘的な意義にも、及び現在の仕事のそれにも、同樣に無感覺な事が、我々の文明の浪費を常とする所以を大略說明する――一時間の快樂に、數年の防備を無造作に消費する贅澤――心なしの富豪が幾千人となく、各〻全く不必要の欲望を滿足せしむる爲めに、幾百の生命の代價を蕩盡する不人情等は、之に依つて說明せられる。文明の食人鬼は、無意識的ながら野蠻人の食人鬼よりも一層殘酷で、そして餘計の肉を要する。大なる人間愛――は根本的に無用な奢侈の敵である、そして肉感の滿足、若しくは自己主義の快樂に、制限を設けぬ樣な社會には根本的に反對する。
振り返つて極東を見ると、簡易生活といふ道德的義務は、遠い古から數へられて居る。祖先崇拜は、此廣汎な人間愛を發展させ培養したからである。我々には此愛がない、併し我々は單に我々を滅亡から濟ふ[やぶちゃん注:「すくふ」。]爲めにも、いつかは之を求めざるを得ざるの日が來るであらう。つぎに擧げる家康の二箇條の言は、極東の情操の例證である。此最大の日本の軍將兼政治家は、事實上帝國の主腦であつた時代に、親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]絹の古袴の塵を拂ひ、皺を延しつつ侍臣の一人に云つた、『予は袴が大切故、こんな事をするのではない。ただ此袴を作り出すのに、要せられた勞苦を思ふからするのである。これは一婦人の辛勞の結果で、それを予は大切に思ふ。物を使用しながら、其物を作り出すに要した時間と勞苦とを思はぬならば――それ程の想ひ遣りがなければ我々は禽獸と異らぬではないか』又彼が最も富める時代に、彼の御臺所が、餘り屢〻新衣を彼の爲めに新調するのを叱責して云つた詞がある。『予は周圍の大勢の國民と、子孫の事を思ふと、彼等の爲めに、予が所持品に就ても儉約を守るが予の義務であると思ふ』此簡單の精神は、未だ日本から棄てられてない。天皇皇后でさへ日常の居室では臣民と同じく質素な生活を續けられ、そして皇室費の大部分を災害の救濟に投ぜられる。
[やぶちゃん注:「家康の二箇條の言」これは「家康遺訓」「東照宮御遺訓」「御遺訓」「御遺戒」「成憲百箇条」など別名があり、内容も異なる伝本が残るものの一条か。但し、多くは現在では偽書とされているようである。江戸時代の人々は本物と信じていた。]
五
極東に於て、祖先崇拜が生み出した樣な、過去への義務の道德的承認は、西洋にも遂には進化論の敎へに依つて發達するであらう。今日でさへ新哲學(進化論を意味す)[やぶちゃん注:丸括弧内は二行割注で、戸澤氏が挿入したもの。]の第一の原理[やぶちゃん注:ダーウィンのそれでは「自然淘汰(自然選択)説」である。しかし、この後の小泉八雲の叙述から見て、狭義のそれ、則ち、ダーウィンのそれではなく、ダーウィンも引用している、それよりも前の小泉八雲が私淑するハーバート・スペンサーの「第一原理」、則ち、「社会進化論」、広義の「適者生存」(survival of the fittest)を指しているように私には読める。言っておくが、「適者生存」(survival of the fittest)はダーウィンのではなく、スペンサーの造語である。]に通曉して居る者は、尤も普通な手工品をでも、其進化の歷史の幾分かを認めずに見ることは出來ない。かういふ人には尤も普通な手道具でも、木工若しくは陶工、鍛冶工若しくは刄物師の、個人能力の生產物とばかりは見えず、作法、材料、形態などに就て、數千年間繼續した經驗の造り出したものと見えるであらう。又如何なる器具でも、其の進化に要せられた莫大な年處[やぶちゃん注:「ねんしよ」。歳月。]と勞苦とを考へ、しかも感謝の念を經驗せざることは不可能であるであらう。將來の同胞は過去の物質的遺產を、死せる祖先と聯關して考へるに相違ない。
併し廣汎な人間愛の發展に在つて、過去に負ふ物質的の恩義よりも有力なる要素は心靈的恩義の承認でなければならない。我々は我々の非物質的の世界をも――我々の内部に生きて居る世界をも――美しい衝動や情緖や思想やの世界をも――死者から讓り受けたのである。苛くも人間美が何であるかを科學的に了解する者は、尤も平凡な生活の、尤も平凡な狀態に於てさへ、神々しい美を見出し、そして或る意味に於て、我々の死者は眞に神々しくある事を感ずるであらう。
我々が婦人の靈魂はそれだけで完全な、もの――或る特殊な肉體に適合せしむる爲めに特に作られた物と想像する限り、母性愛の美と驚異とは、十分に我々に知られないであらう。併し深く悟れば、幾萬億の死せる母から傳承した愛が、一人に詰め籠まれたのだと悟るに相違ない――又これでこそ、孩兒が聞かさる〻母の詞の無限の優し味も――又孩兒の眼と出合ふ母の眼の無限の情味も、說明されると悟るに相違ない。こんなことを知らざりし人間こそあはれである。けれども如何なる人間が遺憾なく此情愛に就て語り得よう。眞に母愛は神聖である。人間が認めて神聖と呼ぶ凡てのものは、此母愛に綜合されて居るのである。そして其最高の表明を吐露し傳達する凡ての婦人は、ただ人間の母たるに留まらない、彼女は神の母である。
ここに性愛である初戀といふ幻覺の玄妙は說くを要しない、――何となればそれは死者の情熱と美とが復活して眩惑し欺瞞し蠱惑するのであるから。それは實に實に驚くべきものである、併しそれは悉く善ではない、何となればそれは悉く眞でないから。婦人の眞の美は後に現はれる――凡ての幻影が消失して、其まぼろしの幕の後ろに發展しつつあつた、いかなる幻影よりも美しい實體を現はす時に。かくして曝露された婦人の貴い魅力は何であらう。それは外でもない、死して埋められた幾百萬の心臟の愛情、情味、信義、無欲、直覺等である。それ等が凡て蘇生するのである――それ等が彼女自身の心臟の鮮(さは)やかに、暖かい鼓動の中に新たに鼓動するのである。
最高の社會的生活に現はれる、或る驚くべき性能も、又別種の筋道で、死者に依つて建設される靈魂の構造を語つて居る。驚くべきは、眞に『凡ての人に凡てのら物であり』得る男、或は一身を二十、五十或は百の別の女となし――凡ての人を了解し、洞察し。推量を誤らず――個性的の自己を有せず、其代り無數の自己を有するが如くに見え――相手の心の調子にきちんと合はせた心で、それそれに異つた人に接するを得る女である。こんな性格は珍らしいに相違ない、併し何處の敎養ある社會ででも硏究して見ると、さういふ人間の一人か二人には必らず出遇ふものである。彼等は本質的には複合體の人間なのである――『我』といふものを單體と考ふる人でさへ、彼等を『非常に複雜』と評する程、明らかに複合的なのである。それにも拘らず、同一人間にかく四十五十の性格が現はる〻事は顯著な現象で(一身の經驗が積んで、其原因となる前の、靑年に普通現はる〻が故に顯著である)其意義を正直に認める人のないのを、自分はたた怪しむばかりである。
或る種の天才の『直觀』と名づけられるものに於けるも、又此通りである――取り分け情緖の描寫に關する直觀に於て。沙翁[やぶちゃん注:“Shakespeare”。]の如き天才は古來の靈魂說では、永久に不可解と殘るであらう。テイヌは『完全なる想像力』と云ふ語で彼を說明せんと試みた――そして其語は眞理を穿つて居る。併し完全なる想像力とは何を意味するか。靈魂の無數世代――無數の過去生活が一身に復活したるもの。これを外にして何者ともそれを說明する事は出來ぬ……とはいへ、心靈複體說で尤も顯著なのは認知の世界に於てではない、愛、名譽、同情、任俠等の、尤も質朴な情緖に訴へる世界に於てである。
[やぶちゃん注:「テイヌ」“Taine”。底本では「ヌ」は脱字で白く空いている。フランスの哲学者で批評家・文学史家でもあったイポリート・テーヌ(Hippolyte Adolphe Taine 一八二八年~一八九三年)であろう。]
『併し此學說では』或る批評家は云ふかも知れない、『任俠への衝動の源泉は、又犯罪の衝動の源泉ともなり得る。雙方共死せる祖先に屬する』。それは其通りである。我々は善と同樣に惡をも承認した。複合體――尙ほ進化し、尙ほ發展しつつある――であるから、我々は不完全なものを承認して居る。併し衝動の適者生存は、確に人類の押しならした道德狀態に依つて證明されて居る――ここに『適者』といふ語は倫理的意義で用ゐたのである。我々の所謂基督敎文明の下に、比類なく發展した、あらゆる不幸惡德罪惡にも拘らず、多く生活の經驗を有し多く旅行し多く考へた人には、過去の人類から我々が承繼した衝動の大部分は、善であるといふ事實は、明瞭であるに相違ない。尙ほ又社會の狀況が順當であればある程、人間も善良である事も確實である。過去を通じて善なるカミは惡なるカミが世界を統御することを常に妨げて來た。此眞理を承認すれば、我々の將來の正邪の觀念は非常に擴張せられるに相違ない。任俠の行爲若しくは凡て立派な目的の爲めの純善の行
爲は、從來考へられなかつた程尊重されると同時に――眞の罪惡は現存の個人若しくは社會に對するよりも、寧ろ人類經驗の總額、及び過去の倫理的向上のあらゆる努力に對する犯罪として、見られる樣になるに相違ない。乃ち其の善は一層尊重せられ、其の惡は一層嚴酷に判斷せられるであらう。そこで『倫理的法則は必要でない――人間行爲の正しい規約は常に良心に尋ねて知らるべし』といふ初期の神道の敎へは、現在の人間よりも、もつと完全な將來の人間に、承認せられること疑のない敎へである。
六
讀者は云ふかも知れぬ、『進化論は如何にも其遺傳の說に依つて生者は或る意味で死者に支配せられることを示して居る。併し又死者は我々の内部にあるので、外部にあるのでない事を示して居る。彼等(死者)[やぶちゃん注:丸括弧は戸澤氏のサーヴィス。]は我々の一部分である――彼等は我々以外に別に存在を有して居るといふ證據はない。故に過去への感謝は、卽ち我々自身への感謝である。死者に對する愛は、卽ち自己愛であるであらう。乃ち貴下の類推論は不合理に終はるものである』と。
否。其原始的な形式の祖先崇拜は、ただ眞理の象徵であるかも知れぬ。擴張された知識が、我々に强請するに相違ない新しい道德的義務――人類の倫理的經驗の獻身的な過去への崇敬服從の義務――の指示若しくは前兆に過ぎぬかも知れぬ。併し又それ以上でもあり得る。遺傳の事實は、心理的事實の半分しか說明して居ない。一莖の草木は十、二十、乃至百莖の草木を生じ、しかも之に依つて自己の生命を失はぬ。一匹の動物は多數の兒を生み、しかも其あらゆる肉體の能力と、少許の思考力を少しも滅少せずに生活を續け得る。子供は生まれても兩親は生存する。心的生活は確に肉的住活と同樣に遺傳される、けれども植物に於ても動物に於ても、凡ての細胞中の尤も特殊化せざる生殖細胞は、決して兩親の存在を奪はぬ、唯だそれを繰り返すだけである。絕えず繁殖しつつ各細胞は一種族の全經驗を運び傳へる、けれども其の種族の全經驗を後に殘して置く。ここに說明すべからざる驚異がある――肉的並びに心的存在の自己繁殖――兩親の生命から續々と放出される生命が、各〻完全體となり繁殖的となる事實是である[やぶちゃん注:「これである」。]。兩親の凡ての生命が、其子に與へられるならば、遺傳は唯物論を賛助するとも云ふことが出來る。併し印度傳說の神々の樣に『自己』は繁殖し、しかも十分な繁殖力を保留して舊態を維持する。神道は分裂に依つて靈魂が繁殖すると說く、併し心靈分出の事實は、如何なる說よりも限りなく驚くべきものである。
大宗敎は皆遺傳では自己の全問題を說明し得ぬことを――本源(もと)の殘留せる自己の運命を說明し得ぬことを認めて居る。そこで彼等は一般に内的存在は、外的存在に關係せぬと考へる事に一致して居る。科學も實在の性質を決定し能はぬと同樣に、宗敎が提起し、疑問を決定する事が出來ない。又『死せる植物の生活力を構成して居る力はどうなるか』といふ疑問にも解決を得る事は出來ない。『死せる人間の心的生活を構成して居た感情はどうなるか』といふ問は更に一層難問である――尤も簡單な感情と雖も說明し得る人はないのであるから。我々はただ生存中は植物の體内若しくは人間の體内に於ける或る活潑な力が、絕えず外界の力と自ら調節して居た事を、そして内部の力が外部の力の壓迫に最早應じ得なくなつた後は――其時は内部の力が貯藏せられて居た體は、それを構成して居た幾多の原素に分解されたといふ事を知るに過ぎない。我々は其原素の終極の性質に就ては、幾多の原素を結合させる傾向の終極の性質に就てと同樣に全く無知である。併しながら我々は生の究極的要素は、それが造つた形體の分解後も生存すると信ずる方が、滅亡すると信ずるよりも至當であると考へる。自然發生說(スポンタネアス、ジエネレシヨン[やぶちゃん注:読点はママ。“spontaneous generation”。])(此名は命名を誤つたものである、何となれば、限られたる意味に於てのみ『自然(スポンタネアス)』といふ語は生の起原説に適用せられるものであるから)は進化論者の承認せざるを得ぬ學說であり、又物質それ自身も進化しつつあるといふ化學の證明を知悉して居る人を驚かし得ぬ學說である。眞の自然發生說は(有機體が壜の中へ浸(つ)けた草木から發生すると云ふ說ではなく、遊星の表面に發生する原始的の生命に就ての學說)非常な――否無限な――精神的な意義を有する。それは生命、思想、情緖のあらゆる潜在性は、星雲から宇宙へ、系統から系統へ、恒星から遊星若しくは衞星へ、そして再び逆に原子の旋風的混沌へ、轉々するといふ信念を要請する。又それは傾向性(テンデンシー)[やぶちゃん注:tendencies。]は太陽の酷熱にも殘存し――あらゆる宇宙的進展にも崩潰にも。殘存する事を意味する。原素はただ進化の產物に過ぎぬ、そして一の宇宙と他の宇宙との相違は、傾向性の作爲でなければならぬ――而して此傾向性は巨大複雜想像を絕する一種の遺傳に外ならぬ。其處に偶然はない、法則あるのみである。凡ての新しい進化は、其前代の進化に依つて影響せられる――丁度各個の人間の生が代々の祖先の生の經驗に依つて影響せられる樣に、舊形式の物質の傾向は、將來の新形式の物質に依つて承繼せられるのではなからうか、そして現在人間の行爲思想は、未來の世界の特質を作爲するに與り[やぶちゃん注:「あづかり」。]つつあるのではなからうか。鍊金術者の夢は最早痴人の夢であつたと云ふ事は出來ぬ。同樣に最早我々は古東洋の思想に於ける如く、凡ての物質的現象は、靈魂の傾向に依つて決せられるのでないと主張することは出來ない。
我々の死者は我々の内部に於けると同樣に外部にも生存するにしてもせぬにしても――これは我々の比較的盲目な未開の現狀では決せられぬ問題である――宇宙の事實の證明は、神道の幽玄な信仰と一致することは確である、卽ち凡ての物は亡びたる物に依つて――人間の幽靈に依つてか、或は世界の幽靈に依つてか――決せられるといふ信仰と一致する。我々自身の生命が、今眼には見えぬ過去の生命に支配せられる樣に、疑もなく我が地球の生命及び地球の屬する太陽系統の生命も、無數の天體の幽靈に依つて支配されて居る。亡びたる幾多の宇宙――亡びたる幾多の太陽や遊星や衞星や――形式としては久しく暗闇の中に溶解し去つたが、力としては不死不朽で、永久に活動して居るのである。
實に神道信者の樣に、我々は、我々の系圖を太陽まで遡ることが出來る。けれども我々は、我々の起原は其處にもなかつた事を知る。其起原は時間に於て、百萬の太陽の生命より、遙かに遙かに遠いのであつた――若し起原があつたといふのが、眞理に背かぬとすれば。
進化論は、我々は物質も人間の心も其の常に變はりつつある表現に過ぎない所の、未知の究極と同一物であることを敎へる。進化論は又我々の各個は多くの者であることを、けれども我々の凡ては他の各個及び宇宙と同一物である事を――我々はあらゆる過去の人類を啻に我々自身の中に認めねばならぬのみならず、尙ほ又凡ての同胞の生命の貴さ美しさの中にも認めねばならぬことを――我々は他人に於て我々自身を尤もよく愛し能ふ[やぶちゃん注:「あたふ」。]ことを――形體は遊絲(いとゆふ)や幻(まぼろし)に過ぎぬことを――そして生者死者を問はず、凡ての人間の情緖は眞實(まこと)はただ無形の無窮にのみ屬するといふことを敎へる。
[やぶちゃん注:「遊絲(いとゆふ)」陽炎(かげろう)。小学館の「大辞泉」によれば、語源は未詳で歴史的仮名遣を「いとゆふ」とするのは、平安時代以来の慣用に過ぎない。また「糸遊」という漢字表記は和語である「いとゆふ」が「陽炎」の意の漢語「遊糸(ゆうし)」の影響を受けて出来た表記に過ぎないとし、さらに、晩秋の晴天の日に(ある種の)蜘蛛の子が糸を吐きながら、空中を飛び、その糸が光に屈折して、ゆらゆらと光って見える現象が原義で、漢詩にいう「遊糸」もそれであるされる、とある。]