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2019/12/16

小泉八雲 保守主義者 (戸澤正保訳) / その「五」・「六」・「七」・「八」/ 保守主義者~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 保守主義者 (戸澤正保訳) / その「一」・「二」・「三」・「四」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 硏究と熟考とは、靑年を、初め彼が思つたよりも、深入りさせた。偉大な宗敎としての基督敎の承認の後から、又別種の承認と、基督敎を奉ずる民族の文明に就ての色々の想像が起こつて來る。當時多くの省察に富む日本人には、否、恐らく國政を指導する敏感の人人にさへ、日本は全く外人の支配の下に移らんとする運命にあるやうに思はれたのである。尤も絕望ではなかつた。そして一縷の望だに殘る限り、國民の義務は明らかであつた。併し帝國に對して用ゐらるべき敵の力は抵抗すべくもない。そして其敵の力の强大さを硏究しながら、若き日本人は、抑も[やぶちゃん注:「そも」。]其力は如何にして何處より得來たつたかと、恐怖に近き驚嘆を以て怪しまざるを得なかつた。それは老牧師の斷言する樣に高級な宗敎に或る神祕的な關係を有するのであらうか。國家の繁榮は、天道の遵守と聖賢の敎に從ふ事の多少に依ると說く支那の古哲學は、確に此說を裏書きする。若し西歐文明の優れたる力は、実際西歐倫常[やぶちゃん注:「りんじやう」。常に守るべき人倫の道。]の優秀さを示すとせば、其高級な宗敎を採用し、全國民の改宗に努力すべきは、苟くも國を愛する者の明らかなる義務ではなからうか。其頃の靑年は支那の學問で敎育せられ、西洋の社會發達の歷史に通ぜざるは必然の理で、最高の物質的進步は、基督敎の理想とは相容れざる、又凡ての大なる道德と相反する、酷薄なる競爭に依つて重に發展したものだとは知るよしもなかつた。西洋に於てさへ今日無數の愚民は、兵力と基督敎の信仰との間に、或る神聖な關係があると想像して居る。そして我々の敎會の壇上から、政治的强奪を神意と認めたり、强力な爆藥の發明を神託と稱したりする說敎が爲されるのである。今でも我々の中には、基督敎を信ずる民族は、他敎を奉ずる民族を掠奪し絕滅せしめる天命を帶びてる[やぶちゃん注:ママ。]といふ迷信が殘つて居る。尤も偶には、我々は今でもトールとオヂン譯者註を信奉するものだといふ、確信を發表する人がある――此人達の說に依るとただ昔と異る所は、オヂンは今は數學者となり、トールの槌ムジヨルナーは、今は蒸氣で運轉せられるといふに過ぎない。併しこんな人は宣敎師からは、無神論者。恥知らぬ生を送る人と罵られる。

 

譯者註 何れも北歐神話中の神、トールは雷神にて、ムジヨルナーと云ふ槌を持つ、オヂンは學問敎化の神。

[やぶちゃん注:「トール」原文“Thor”。北欧神話に登場する主要な神の一柱であり、神々の敵である巨人と対決する戦争神として活躍する。ウィキの「トール」によれば、『考古学的史料などから、雷神・農耕神として北欧を含むゲルマン地域で広く信仰されたと推定されている。アーサソール(アースたちのソール)やオクソール(車を駆るソール)とも呼ばれる』。『北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は Þórr』で、『推定音に近い日本語表記はソール』である。『トールは北欧神話のみならず』、『ゲルマン人の信仰に広く見られる神であり、古英語の文献に見られる Þunor や古高ドイツ語での Donar もトールを指すとみなされている。時代を下ったドイツの民話ではドンナー (Donner) の名で現』われ、十九『世紀の作曲家ワーグナーの歌劇でも』、『この名称が使用されている。これらの語はいずれもゲルマン祖語の *þunraz まで遡ることができると考えられており、その意味は「雷」と推定されている』。『同じく北欧神話に登場する神テュール(Týr)やソール(Sól)とはそれぞれ別の神である』。『アース神族の一員』で、『雷の神にして北欧神話最強の戦神。農民階級に信仰された神であり、元来はオーディンと同格以上の地位があった。スウェーデンにかつて存在していたウプサラの神殿には、トール、オーディン、フレイの』三『神の像があり、トールの像は最も大きく、真ん中に置かれていたとされている』。『やがて戦士階級の台頭によってオーディンの息子の地位に甘んじた。北欧だけではなくゲルマン全域で信仰され、地名や男性名に多く痕跡を残す。また、木曜日を意味する英語 Thursday やドイツ語 Donnerstag などはトールと同一語源である』。『雷神であることからギリシア神話のゼウスやローマ神話のユーピテルと同一視された』。『砥石(他の文献では火打石の欠けら)が頭に入っているため、性格は豪胆あるいは乱暴。武勇を重んじる好漢であるが、その反面少々単純で激しやすく、何かにつけてミョルニル』(トールが持つ稲妻を象徴する柄の短い鎚(つち)で、「トール・ハンマー」という名でも知られる)『を使いながら』、『脅しに出る傾向がある。しかし怯える弱者に対して怒りを長く持続させることはない。途方もない大食漢』。『雷、天候、農耕などを司り、力はアースガルズ』(アース神族の王国の名)『のほかのすべての神々を合わせたより強いとされる。フルングニル、スリュム、ゲイルロズといった霜の巨人たちを打ち殺し、神々と人間を巨人から守る要となっており』、古ノルド語で書かれた歌謡集である『エッダにも彼の武勇は数多く語られている』とある。

「オヂン」原文“Odin”。北欧神話の主神で、戦争と死の神であるオーディン。ウィキの「オーディン」によれば、『詩文の神でもあり』、『吟遊詩人のパトロンでもある。魔術に長け、知識に対し』、『非常に貪欲な神であり、自らの目や命を代償に差し出すこともあった』。『北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は Óðinn (』この日本語音写は『オージンに近い)であり、オーディンは現代英語などへの転写形である Odin に由来する』。『オーディンの名は"oðr"(狂った、激怒した)と-inn(~の主 など)からなり、語源的には「狂気、激怒(した者)の主」を意味すると考えられる。またこうした狂気や激怒がシャーマンのトランス状態を指していると考えれば「シャーマンの主」とも解釈可能である』。『アングロサクソン人に信仰されていた時代の本来の古英語形は Ƿōden(Wōden, ウォーデン)であり、これは現代英語にも Woden, Wodan (ウォウドゥン)として引継がれている。また、ドイツ語では Wotan, Wodan (ヴォータン、ヴォーダン)という』。八『世紀にイタリアで書かれた』「ランゴバルドの歴史」では、『G(w)odan(ゴダン)という名前で言及されている』。『各地を転々とした逸話があることから、本来は風神、嵐の神(天候神)としての神格を持っていたといわれる』。帝政期ローマの政治家・歴史家であったタキトゥスが書いたゲルマニアの地誌・民族誌「ゲルマーニア」(紀元後九七年~九八年)では、『ゲルマン人の最も尊崇する神をメルクリウスと呼んだが、これはギリシア・ローマのヘルメース/メルクリウスと同じく疾行の神であったゲルマンの神ヴォーダン(オーディン)を指すものと推測される』。『オーディンはメルクリウス同様、知恵と計略に長けた神であり、ローマ暦で「メルクリウスの日」にあたる水曜日はゲルマン諸語では「オーディンの日」と呼ばれる』。『例えば、水曜日は英語では Wednesday、ドイツ語では Wotanstag (通常はMittwoch)、オランダ語では woensdag、デンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語では onsdagとなる』。北欧神話に登場する一本の架空の宇宙樹『ユグドラシルの根元にあるミーミルの泉の水を飲むことで知恵を身に付け、魔術を会得する。片目はその時の代償として失ったとされる』。『また、オーディンはルーン文字の秘密を得るために、ユグドラシルの木で首を吊り、グングニル』(槍の名。後にオーディンが持つアイテムとなる)『に突き刺されたまま』、九日九夜、『自分を最高神オーディンに捧げたという(つまり自分自身に捧げた)。この時は縄が切れて助かった。この逸話にちなんで、オーディンに捧げる犠牲は首に縄をかけて木に吊るし槍で貫く』。地上の大宮殿『グラズヘイムにある』彼の宮殿『ヴァルハラに、ワルキューレ』(ドイツ語:Walküre:「戦死者を選ぶもの」の意で、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性及びその軍団を指す)『によってエインヘリャル(戦死した勇者)を集め、ラグナロク』(古ノルド語:Ragnarøk:「神々の運命」の意で、北欧神話世界に於ける「終末の日」を指す)『に備え』、『大規模な演習を毎日行わせるという。この演習では敗れた者も日没とともに再び蘇り、夜は大宴会を開き、翌日にはまた演習を行うことができるとされる』。『愛馬は八本足のスレイプニール。フギン(=思考)、ムニン(=記憶)という二羽のワタリガラスを世界中に飛ばし、二羽が持ち帰るさまざまな情報を得ているという。また、足元にはゲリとフレキ(貪欲なもの』『)という』二『匹の狼がおり、オーディンは自分の食事はこれらの狼にやって自分は葡萄酒だけを飲んで生きているという』。『主に長い髭をたくわえ、つばの広い帽子を目深に被り』、『黒いローブを着た老人として描かれる』が、『戦場においては黄金の兜を被り』、『青いマントを羽織って』『黄金の鎧を着た姿で表』わされる。『また、トールと口論した渡し守ハールバルズの正体は変装したオーディンである』。『最後はラグナロク』で、『ロキ』(古ノルド語:Loki:悪戯好きの神。その名自体が「閉ざす者」「終わらせる者」の意。神々の敵であるヨトゥン(「霜の巨人」)の血を引いている。しかしオーディンの義兄弟となってアースガルズに住み、オーディンやトールと共に旅に出ることもあった)『の息子であるフェンリルによって飲み込まれる(または噛み殺される)結末を迎える』とある。]

 

 それはさておき、やがて若き武士は、親戚の反對あるにも拘らず、基督敎徒たらんと決心した。これは隨分大膽な行爲であつた。併し幼年時代の敎育の結果として、彼は堅い意志を有つて居たから、兩親の悲みに依つてすら、決心を曲げられる事はなかつた。祖先の宗旨を棄つることは。一時の苦痛を意味するばかりでない。廢嫡、舊友の輕蔑、身分の喪失、及び赤貧から來るあらゆる難儀を意味するのである。併し彼は武士敎育に依つて、己れに克つことを敎へられて居た。彼は憂國の士として、眞理の探求者として、己れの義務だと思ふものを見た、そして恐れ悔やずに之に突進した。

 

[やぶちゃん注:原本では次の章番号は「Ⅵ」でなくてはならないのに「Ⅶ」と誤っており、しかもそのまま後の章も「Ⅷ」「Ⅸ」とやらかしてしまっている。底本は無論、以下の通り、正しく「六」に修正され、後も「七」「八」である。]

 

        

 近代科學から借り來たつた知識の助力で、破壞した信仰の跡へ、西洋の信仰をはめ込まうと望む者は、舊信仰破壞に用ゐた議論は、新信仰に對しても同樣の破壞力を有するといふ事に氣が附かぬ。一般の宣敎師は、彼自身近代思想の最高標準に達しもせず、元來彼等自身よりも、より强き東洋人に少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の科學を敎へた結果が、どうならうと豫見する事も出來ぬ。そこで彼の弟子が聰明であればある程、其弟子の基督敎徒たる期間が短いのを發見して、驚き遽てて[やぶちゃん注:「あはてて」。]居る。科學を知らぬ爲めにのみ、佛敎の宇宙說で滿足して居た、優秀な頭腦の再信仰を打破するのは、非常に困難ではない 併し其頭腦の中へ、東洋の宗敎的情緖の代りに西洋のを、儒敎及び佛敎の倫理の代りに、長老敎會(プレスビテリアン)若しくは侵禮敎會(バプチスト)の敎條(ドグマ)[やぶちゃん注:dogma。ここは元来のフラットな「宗教・宗派に於ける教義」の意。]を置き代へようとするのは不可能である。我々の近代の福音布敎師は、此心理學的難關が道に橫はつて居る事に氣が附かぬ。ジエスイツト派や托鉢派(フライアー)の信仰が、其打破せんと力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]他宗敎と同樣に、迷信的であつた昔時に在つても、同樣な障害は存在して居た。されば其偉大な眞摯さと火の樣な熱心さで、驚くべき業積を擧げた西班牙[やぶちゃん注:「スペイン」。]僧も、彼の空想を十分に實現するには、西班牙兵士の劍を必要と感じたに相違ない。改宗の事業に取つては、今日の情態は十六世紀に於けるよりも更に不利である。敎育は宗敎を離れ科學を基礎として改造された。我々の宗敎は倫理上の必要事項として、社會が承認する一形式となりつつある[やぶちゃん注:行末で打たれていないが、句点が必要。]我々の僧侶の職務は、道德の警官と徐々に變更されつつある。そして我々の敎會の尖塔の林立は、信仰の增進を證するのでない、ただ傳統に對する尊敬の增進を意味するばかりである。西洋の傳統が極東の傳統となる筈はない。そして外國宣敎師が、日本に於て、道德警官の役目を演ぜさせられる筈もない。既に我々の敎會中の尤も開化せるもの、尤も廣濶な敎養あるものは、宣敎師の無用なることを認め始めたのである。併し眞理を見る爲めには必らずしも舊い獨斷主義を棄てるにも及ばぬ、完全な敎育は之を示すに十分である。それで最も敎育ある國民獨逸は、日本の内地に一人の宣敎師をも送つて居らぬ。宣敎師努力の結果として、肝腎な改宗者の年々の報告よりも一層著しきは、日本の宗敎の改革と、日本僧侶の敎育程度を向上せよと勸誘する、日本政府の布告であつた。尤も此の布告の出る久しい以前から、富める宗派は、西洋式の佛敎學校を建設した。眞宗の如きは、既に巴里(パリ)や牛津(オツクスフオード)で敎育を受けた學者――其名は世界中の梵語學者に知られて居る――を有して居た。日本は確に其中世紀式の宗敎より一層高き形式の宗敎を要するであらう、併しそれは古來の形式から發展したものであらねばならぬ――外からでなく内から發展したものであらねばならぬ。西洋の科學といふ堅甲[やぶちゃん注:「よろひ」と当て訓しておく。]佛敎こそ、日本人の將來の需要に應ずるものであらう。

[やぶちゃん注:「長老敎會(プレスビテリアン)」“Presbyterian”。長老派教会(Presbyterian Church)。十六世紀の宗教改革運動によって生まれたカルビニズムに基づくプロテスタントの一派。教会組織に長老制度を採用しているところから、この名称が生まれた。則ち、末端の各個教会に於いては、牧師の他に教会員から選出された一定数の長老(presbyter:ギリシャ語で「年長の・古参の」が原義)が運営に有意に参加し、それらの教会が地方ごとにその長老会を組織し、さらに数地方の長老会を以って大会が作られ、その上に全国総会が置かれるという、厳格な階層的教会組織を成しているのを特徴とする(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「侵禮敎會(バプチスト)」“Baptist”バプティスト派。プロテスタントの最大教派の一つ。「幼児洗礼」を認めず、自覚的信仰に基づく「浸礼」を主張して「バプティスト」と称する。信仰と生活の唯一の権威としての聖書・信仰者の洗礼・集められた信仰者の教会・信仰者の祭司性・各個教会の自治・教会と国家の分離などで、特色ある主張に立つ。その起こりは、十七世紀イギリス分離派ピューリタンのジョン・スミスに溯る。彼は迫害からアムステルダムに逃れたが、仲間の一人トマス・ヘルウィスが帰国し、イギリス最初のバプティスト教会をロンドンに組織した(一六一二年)。バプティストのアメリカにおける発展は目覚ましく、黒人の間でも最大の教派となり、ヨーロッパでは、イギリス・ドイツなどに信徒数が多く、その他の大陸でも活発な伝道が行われている。日本では、万延元(1860)年にゴーブルによって伝えられた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「ジエスイツト派」“Jesuits”。ジェスイット(Jesuit)は「イエズス会士」のことで、「ジェズイット派・教団」とは即ち「イエズス会」の異称である。

「托鉢派(フライアー)」“friars”。「托鉢修道会」。ウィキの「托鉢修道会」によれば、『ローマ・カトリック教会における修道会の形態のひとつであり、修道会会則により、私有財産を認めていない修道会をいう。特に、ドミニコ会、フランシスコ会、聖アウグスチノ修道会、カルメル会のことを指す』。『中世中期、荘園領主化した既存の修道会の腐敗に対する反省としてうまれた。元来は修道院が所属する教区内で、修道士が托鉢を行い、善意の施しによって生活して衣服以外には一切の財産をもたなかった。設立当初には修道会自体も一切の財産を保有しなかったが、修道会自体の保有規定はのちに緩和された』。『既存の教会や修道会に対する厳しい批判から、従来の聖職者と激しい衝突を招く場合もあった。しかし、フランシスコ会(フランチェスコ会)、ドミニコ会ともにローマ教皇から認知され、とりわけドミニコ会は異端討伐の先兵になるなど、ローマ教皇を中心としたヒエラルキーの中に徐々に組み込まれていった』とある。

「眞宗の如きは、既に巴里(パリ)や牛津(オツクスフオード)で敎育を受けた學者――其名は世界中の梵語學者に知られて居る――を有して居た」パリに事蹟を残している真宗僧は小泉了諦(りょうたい 嘉永四(一八五一)年~昭和一三(一九三八)年)と善連法彦(よしつらほうげん 慶応元(一八六五)年~明治二六(一八九三)年)であろうか。二人は同行で、インド・セイロンでサンスクリット語・パーリ語を修め、その後でパリ・ロンドン・オックスフォードを巡っている。オックスフォード大学に留学し、サンスクリット語学の権威となったのは南条文雄(ぶんゆう 嘉永二(一八四九)年~昭和二(一九二七)年:詳しくはウィキの「南条文雄」を見られたい)のことであろう。]

 

 橫濱に於ける我が若き改宗者は、宣敎師の失敗の著しい一例となつた。あらゆる物を犧牲に供して、一基督敎徒――或は寧ろ一外國宗派の一員――となつて、一年も經たぬ中に、彼は公然それ程高價に購つた[やぶちゃん注:「あがなつた」。]信仰を抛棄した。彼は宣敎師等よりも遙かによく當代の大思想家の著述を硏究し了解した。其宣敎師等は、彼の提出する問に答へる事も出來ず、ただ最初に其一部分を硏究すべく彼に勸めた書籍は、全體としては信仰に害あることを斷言するに過ぎなかつた。併し彼等は、其の書籍に存在すると稱する誤謬を證明すること能はざるが故に、彼等の警告は何の役にも立たなかつた。彼は初め不完全な理論に依つて、獨斷的敎條に引き入れられたのであつたが、廣く深い理論に依つて、其敎條を超越して仕舞つた。彼は公然と、其敎義は眞の理義、若しくは事實に基づいたものでないといふことを、又彼自身は、宣敎師が基督敎の敵と呼ぶ人々の、意見に從はざるを得ぬといふことを表明して、敎會を去つた。宣敎師等は之を墮落と稱し、それに就いて色々の惡評を立てた。

 併し眞の墮落はまだ遙か遠くにあつた。彼は同樣の經驗を有する多くの人と違つて、宗敎上の問題は、一時彼から退却しただけであつて、彼が今迄學んだ處は、これから學ぶべきもののいろはに過ぎないと承知して居た。彼は宗敎といふものの比較的の價値――保守抑制の力としての宗敎の價値には、全く信を失はなかつた。或る眞理――文明と宗敎との關係に就ての眞理――の曲解が、初めに彼を誤らせて、改宗せしめたのであつた。支那の哲學は、僧侶なき社會は、決して發達せぬといふ。近代の社會學が認むる所の法則を彼に敎へた。又佛敎は、虛說――事實として衆生に示さる〻寓話、形式、記號――も善行の發達を助ける方便として、價値と存在の理由を有することを敎へた。此見解からは基督敎も彼には少しも興味を失はなかつた。そして基督敎民族は、道德優秀だといふ――開港場の生活には少しも實現されていない事實――宣敎師の敎は疑ひながらも、彼は自ら西洋に於ける、宗敎の道德に討する影響を目擊せんと望んだ。卽ち歐羅巴諸國へ行き、彼等の發展の原因と、彼等の强大な理由を硏究せんと望んだ。

 彼はかう思ふと直に實行に取り掛かつた。彼をして宗敎上の懷疑家たらしめた知的活動は、同時に政治上に於ても彼を自由思想家たらしめた。彼は之が爲め、當時の政策に反對な意見を公表して、政府の怒を買つた。それで彼は新思想の刺激の下に、不謹愼な言行を敢てする凡ての者と同樣に、國外退去の止むを得ざるに至つた。かくして彼には、遂に世界中を彷徨するに至るべき放浪生活が始つた。初めには朝鮮に隱れ家を求め、つぎに支那に往つて敎師生活をしたが、最後にはマルセール[やぶちゃん注:“Marseilles”。フランスのマルセーユ。]行の汽船に搭乘する自分を見出した。彼は無一文であつたが、歐羅巴でどうして生活するといふことは考へなかつた。若くもあるし、身長(せい)は高し[やぶちゃん注:「たかいし」。]、力業には長(た)けて居るし、儉約で貧乏には馴れて居るし、自分といふものに十分な自信を有つて居た。それに彼を助けて吳れる樣な、外國人に宛てた紹介狀も有つて居た。

 併し故鄕の地を再び蹈む迄には、長い年月を經過せねばならなかつた。

 

       

 其長い年月の間、彼が見た樣に西洋文明を見た日本人は他にない。彼は毆米二洲を胯にかけ[やぶちゃん注:「またにかけ」。]、多くの都市に住み、色々の職業に働いた――或る時は頭腦で、併し多くは手で――そして彼の周圍の生活の、最高最低、最善燒最惡を硏究することが出來た。併し彼は極東の眼を以て見たので、其判斷の仕方も我々の仕方ではなかつた。西洋が東洋を觀るのも、東洋が西洋を見るのも同じ事である――ただ異る處は、各自が尤も尊重する處のものは、他に尊重されぬがちであるといふことである。そして雙方とも半分は正しく、半分は間違つて居る。又完全なる相互の了解は甞てなかつたが、今後とてもある筈はない。

 西洋は彼には凡ての豫期よりも大きく見えた――巨人の世界の樣に。そして錢もなく友もなく、大きな都會に一人ぼつちで立つ時に、いかな大膽な西洋人をさへ、弱らせる所のものが、此東洋の一浪客を弱らせたに相違ない。それは幾百萬の忙しげに往來する市民には振り返つても見られぬといふ感に依つて、話し聲も聞こえぬやうな小止みなき車馬の轟きに依つて、巨大な建築物といふ生命のない怪物に依つて、心も手も安價な道具として、出來る限りの極度迄虐使する、富の力の偉大なる表現に依つて、喚起される漠然たる不安の感である。恐らく彼はドレイがロンドンを見た樣に歐洲の都市を見たのであらう――薄暗いアーチの重なり合つた陰氣な莊嚴さ、見渡されぬ迄つぎからつぎへと續く花剛岩の洞窟、麓には勞働の海が逆卷く石造建築の山、さては數世紀に跨がつて[やぶちゃん注:「またがつて」。]、徐々に集大成さるろ力の凄さを展開する洪大な場所――かういふ風に見たのであらう。併し日出をも日沒をも、又天(そら)をも風をも斷絕(たちき)つて見せぬ、無限に續く石崖と石崖との間に、彼に訴ふる美といふものは少しもなかつた。大都市に我々を惹き附ける所のものは、悉く彼を厭がらせ若しくは抑壓した。明かるい巴里ですら、間もなく彼を倦き倦きさせた[やぶちゃん注:「あきあきさせた」。]。それでも巴里は、彼が長く逗留した初めての外國都市であつた。佛國の弓術は、歐洲民族中の尤も天才的な國民の、審美的思想を反映するものとして、大いに彼を驚かした、併し少しも彼を樂ませなかつた。尤も彼を驚かしたのは、裸體の習作であつたが、其處に彼は只だ、彼が受けた禁欲主義的の敎育が、不忠不義に次いで、尤も癈棄すべく敎へた、人間の弱點の公然な告白を認むるに過ぎなかつた。近代の佛國文學も又彼を驚かした。彼は小說家の驚くべき藝術を了解し得なかつた。描寫の技巧の價値は、彼には見えなかつた。若し歐羅巴人がそれを了解する如く、彼をして了解せしめ得たとしても、彼はただ、才能をこんな製作に用ふることは、社會的腐敗を意味するものとの確信を棄てなかつたであらう。そして段々巴里の豪奢な實生活中に、當時の文藝に依つて與へられた信念の實證を見出した。彼は娛樂場、劇場、オペラなどへも往き、禁慾主義者と武士の眼を以て之を見た。そして西洋の價値ある生活といふ觀念は、何故に極東の放蕩懦弱[やぶちゃん注:「だじやく」。積極的に物事をしようとする意気込みを持たないこと。]といふ觀念と異る所なきかを怪しんだ。彼は流行社會の舞蹈場へ行つて、極東の淑德感には容すべからざる[やぶちゃん注:「ゆるすべからざる」。]、肉體露出の女禮裝を見た――これは巧みに、日本婦人をして愧死[やぶちゃん注:「きし」。深く恥じて死ぬこと。]せしむるに足る所のものを、暗示するやうに出來て居る。そして甞て日本に在つて、日本人が夏日炎天の下に、自然な、愼ましやかな、健康的な、半裸體で勞働して居るのを、西洋人が非難した言葉を思ひ出して、奇怪の感に打たれた。彼は又多數の大敎會(カシドラル[やぶちゃん注:“cathedral”。英語のそれの発音は実は「カテドラル」ではなく、「キャシードラル」に近い。])や敎會[やぶちゃん注:原文は“churches”。]を見た。そして其の直ぐ側に、惡の殿堂や、怪しげな美術品の密賣に依つて繁榮する商舖を見た。彼は偉い說敎師の說敎も聞いた、僧侶嫌ひの人々が、信仰と愛とを蔑視する暴言にも耳傾けた。富豪社會をも見た、貧民窟をも見た、兩者の裏面に潜む魔窟をも見た。併し宗敎の『抑制力』に至つては、更に見る處がなかつた。西洋の世界には信仰といふものはなかつた。ただ虛僞、假面と快樂追求の自己主義の世界で、宗敎の支配は受けずに警察の支配を受けるのみであつた。要するに人間としてそんな處に生まれたくない世界であつた。

 

註 佛國の畫家。

[やぶちゃん注:フランスの画家ポール・ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré 一八三二年~一八八三年)のこと。アルザス地方のストラスブール生まれ。彼の主な活動拠点はパリであったが、一八六九年にロンドンに開いたドレ画廊は大成功を収め、同年から四年に亙って、イギリス人ジャーナリストで作家のウィリアム・ブランチャード・ジェロルド(William Blanchard Jerrold 一八二六年~一八八四年)とともに、ロンドン市内のスラム街や阿片窟などにも出向き、実に百八十点の版画を描いて、“London: A Pilgrimage”(「ロンドン――巡礼の旅」)を共著で出版している。小泉八雲は恐らくは同書やロンドンで描いた版画群を想起したものであろう。参照したウィキの「ポール・ギュスターヴ・ドレ」にある、ロンドンの悲惨な貧民街セブン・ダイアルズを描いた大英図書館蔵の版画(Seven Dials一八七二年)をリンクさせておく。]

 

 佛國よりも陰氣な、堂々たる力强い英國は、又別種な問題を考へさせた。彼は永久に增長する英國の富と、其陰に永久に增殖する醜汚の堆積を硏究した。彼は大きな港が諸國の貴重品――大部分は掠奪品――で塞(つま)つて居るのを見た。そして英人は今も祖先の如く海賊の國民なることを知つた。そして若し此國が只だ一箇月でも、他國をして食糧を供給せしむることが出來ぬとなつたら、數千萬の住民の運命はどうなるだらうと考へた。彼は又世界最大の都市の夜を醜惡ならしむる賣色、强欲の風を見た。そして見ぬ振りをする傳統的の僞善と、現狀に感謝を述べる宗敎と、必要のない國に宣敎師を送る無智と、病氣と惡德とを傳播せしむるに終はる、莫大な慈善事業とに啞然とした。彼は又諸國を旅行した英國の一偉人が、英國人の一割は常習的罪人か、或は貧民であるとの陳述書を見た。

 

註 「我々は知的修養に於ては野蠻の狀態を遙かに超越したが、道德に於てはそれ程の進步を見ない……我が國民の大多數は全く野蠻人の道德律の上に出でず、多く場合には却つて其下に下つた。道念不足は近代文明の大汚點である……我々の社會的及び道德的の文明は今も野蠻の狀態にある……我々は世界で尤も富める國である。それに我が人口の約二十分一貧民であり、三十分一は明白な罪人である。之に發見されざる罪人と、全然若しくは幾分か個人の慈善(ドクトル・ホークスリーの調査に據ると、ロンドンのみでも、年々七百萬磅[やぶちゃん注:「ポンド」。]の金が此目的に消費される)に依つて生活する貧民を加へて見ると、我が人口の十分一以上に確に實際上の貧民と罪人とであゐと信ぜられる」――アルフレツド・ラツセル・ウレース

[やぶちゃん注:イギリスの博物学者(生物学者・人類学者・地理学者)アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)。彼の事蹟その他は私の「進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマン」の本文及び私の注を参照されたい。以上の本文と「註」での引用はインドネシアとマレーシアに於ける探検と発見の記録である「マレー諸島」(The Malay Archipelago一八六九年刊行)の一節である。「ドクトル・ホークスリー」“Dr. Hawkesley”は不詳。

「七百萬磅」試みに明治三(一八七〇)年の為替レートで換算すると(この年、初めて一円銀貨が作られた)、一ポンドは四・八八円であるから、凡そ五円として、三千五百万円、明治初期の一円は恐らく現在の二万円を軽く越す価値があったと思われるが、それで取り敢えず二万円としても、七千億円という途方もない金額になる。]

 

 無數の敎會と、無數の法律があるのに此有樣である。確に英國の文明は、彼が進步の源泉だと信ずべく數へられた基督敎の力(實際はありもせぬ)を示すこと、他の國々の文明よりも少い。英國の市街は又彼に別種の事實を語つた。佛敎都市にはそんな光景は見られない。此文明は、正直者と狡猾漢との間の、又弱者と强者との間の、不斷の醜い爭鬪を示して居る。暴力と奸智とが結託して、弱者を此世の地獄に突き落として居る。日本にはこんな情況は夢にもなかつた。けれどもこんな狀況の全く物質的な結果及ひ智力的な結果は、ただ驚くべきものであると白狀せざるを得なかつた。そして彼は想像を絕する惡を見たけれども、又貧富兩者の中に多くの善をも見た。之が提供する大きな謎、無數の矛盾は、彼の力には解釋することが出來なかつた。

 彼は彼が足を蹈み入れたどの國の人間よりも英國人を好んだ、そして英國紳士社會の風習は、日本の武士(サムラヒ)、にどこか似て居るといふ感を與へた。彼は彼等の四角張つた冷やかさの後ろに、友愛や永續性の親切――彼が一度ならず經驗した親切――の大なる可能性を、滅多に使用されぬ情の深さを、又世界の半ばを支配し得た大なる勇氣を見透(みすか)す事が出來た。併し人間の功積の現はれて居るもつと大きい世界を見る爲めに、米國へ向け英國を去る前に、單なる國籍の相違といふ事は彼に何の興味をも與へなくなつた。西洋の文明を次第に驚くべき全體として見る樣になつた爲め、國籍の相違は朦朧として見えなくなつて仕舞つた。ただ到る處に――帝國、王國、共和國の何れを問はず――同樣な無慈悲な必要の活躍と同樣に驚くべき結果とが展開され、又到る處に全く極東の思想とは正反對な思想が基礎とされて居るのを見た。こんな文明は、それと唱和する一の情緖をも起こし得ぬもの――其中に住む間は愛すべき何者をも見出し得ず、永久に去らんとしても、悲むべき何者をも見出し得ぬものと考へざるを得なかつた。それは彼の魂と離る〻こと、丁度他の太陽の下にある他の遊星に於ける生物界の如くであつた。併し彼はその文明がどれ程人間の勞力を費やしたかを理解もし、どれ程の强い脅威であるかと感じもし、又其智力がどれ程廣く擴がつて居るかと推察もした。而かも彼はそれを憎んだ――-その恐ろしい全く計算的な機械作用を憎んだ、其功利的な鞏固さ[やぶちゃん注:「きようこさ(きょうこさ)」。強くしっかりして、ゆるがない様子。「強固」に同じいが、強固の場合は歴史的仮名遣は「きやうこ」。]を憎んだ、其習性、其貪欲、其盲目的な殘忍、其の途方もない僞善、其欲望の不正、其富の橫着さを憎んだ。道義的には此文明は言語道斷なものである、常識的には殘忍酷薄なものである。測る可からざる程深い墮落を其中に認めたが、彼が靑年時代の理想に匹敵する理想は少しも認められぬ。要するにそれは大きな餓狼的爭鬪であつた[やぶちゃん注:原文“It was all one great wolfish struggle;”。「それは一つの大きな、狼のように獰猛にして貪欲なる闘争であった」。]――然るに其中にも、實際善と認めざるを得ぬものがあるのは何故か、それは彼にはただ不可思議であつた。西洋の眞の偉大さは只だ知的である。單純な知識の高い高い冷(つめ)たい山の樣なもので、其永久の雪線の下では、情的理想は死滅する。日本の仁と義との文明は其幸福の會得に於て、其道義的憧憬に於て、其大なる信念に於て、其歡喜的な勇氣に於て、其素朴さと其謙讓さに於て、其眞面目(まじめ)な事と、足る事を知る事とに於て、確に西洋の文明よりも比較にならぬ程優つて居る。西洋の優越は倫理的でない。其優越の點は數へ切れぬ苦艱[やぶちゃん注:「くかん/くげん」。「苦難」に同じい。]を經て發達し、そして弱肉强食の道具に用ゐられた知力に存する。

 それにも拘らず、西洋科學の論理は、爭ふ可からざるものと彼も承知して居るのであるが、其科學は彼に其文明の益〻擴大すべきことと、苦惱は抵抗すべくも避くべくも測るべくもなく世界中に氾濫すべきことを告げた。日本は新しい形式の行動を學び、新しい形式の考へ方に熟達するか、然らざれば全然滅亡するか、他に取るべき方法はない。かう考へてる[やぶちゃん注:ママ。]中に疑問中の疑問が湧いて來た。それは凡ての聖賢が一度は考へねばならなかつた疑問で、『宇宙は道義的であるか』といふ疑問であつた。此疑問に佛敎は尤も深遠な解答を與へて居る。

 併し道義的であらうと非道義的であらうと、それは人間の微小な感情で宇宙の進行を測つたもの、[やぶちゃん注:最後に「に過ぎないのであり、別に」ぐらいを補わないと日本語として意味がとりにくい。]彼には論理で破る事の出來ない一の確信が殘つて居た――たとひ日月星辰から抗議を持ち込まれようとも、人間は未知の終點に向つて、全力を書くして最高の道義的理想を追ふべきものであるといふ確信が殘つて居た。日本は必要上外國の科學を習得し、敵の物質文明を、多分に採用するの止むを得ざるに至るであらう。併し如何に必要があつても、日本は其正邪の觀念、義務と名譽の理想を、そつくり棄てる譯には行かぬ。彼の心中にはやがて、徐々に一の成算[やぶちゃん注:成功する見込み。]が形成された――其成算は、後日彼を一國の指導者たらしめ、一世の師たらしめたのであるが[やぶちゃん注:この部分はモデルである雨森信成の事蹟とは好意的に捉えても一致しない。]、それは極力あらゆる國粹を保存し、何物にても國民の自衞に必要ならぬもの、若しくは國民の自己發展に益なきものの輸入には、大膽に反對しようといふのであつた。失敗しても恥にはならぬ上に、少くともそれで價値あるものの幾分かを崩壞の渦から救ふ事が出來よう。西洋の生活の浪費的なる事は、其快樂慾と苦悶過多よりも一層感銘を彼に與へた。彼は自國の赤貧に其强味を認めた。其非利己的な勤儉に、西洋と競爭し得る唯一の希望を懸けた。外國の文明は、それを見るにあらざれば了解し能はざる、自國文明の價値と美點とを了解せしめた。そして彼は故圖歸參の恩命の來る日を待ち焦れた。

 

       

 日出の少し前、曇りなき四月の朝の透明(すきとほ)る暗さの中をすかして、彼は再び故國の山を見た――眞黑な周圍の海から紫がかつた黑色に聳え立つ、遠くの高いきつたりとした山嶺を見た。彼を永の流浪から連れ歸りつつあつた汽船の後の方は、地平線が徐々に薔薇色の光で充たされつつあつた。甲板の上には、もう若干の外人が大平洋上の富士の、最も美はしい初姿を見んものと待ち構へて居た――曉の富士の初姿は、此世で、或はつぎの世までも、忘られぬ物の一であつたから。彼等は山脈の長い行列を凝視した、そして其の朧(おぼろ)げな、ぎざぎざした輪廓の向うの暗がりには、星がまだ微かに光つて居るのを見た――併し富士は見えない。『アー』と一人の船員は問はれて答へた。『貴君方は眼の附け處が低過ぎます。もつと上を御覽なさい、もつと高い處を』それで彼等は空の眞中近くまで眼を上げた。すると曉の色で不思議な幻(まぼろし)の蓮華の樣に、薄赤くなつた偉大なる頂上が見えた。其壯觀に打たれて彼等は沈默して仕舞つた。忽ち萬年の雪は金色に變はり、やがて白色になつた。其時は太陽が地平線の弓形を飛び越し、暗い山脈を飛び越し、一寸見(ちよつとみ)には星の上までも飛び越して、其光線を富士の頂上に投げつけて居たのであるが、巨大な裾野はまだ眞暗であつた。やがて夜は全く明けはなれた。軟らかい靑い光は天空に漲つて、凡ての色彩は眠りから覺めた。――そして來客の眼前には、橫濱の明かるい港が開いて居た。そして麓は見えぬ神聖な峯が、無窮の蒼穹に雪の精の如くに凡てを壓して居た。

 我が流浪者の耳には、尙ほ『アー眼の附け處が低過ぎる。もつと上を御覽なさい、もつと上を』が響いて居た――そして彼の胸に脹れ上がる、大きな抑へ難き情緖と漠然たる節奏を作(な)してゐた。間もなく凡ての物が朦朧となつた。上空の富士も、其下の霞がかつた靑から、綠に變はり行く小山嶺も、さては灣内に群がる船舶も、其外近代日本を形成する何物も見えなくなつた。ただ舊日本だけが見え出した。春の香りを微かに湛へた陸地の風が、彼の面を吹き、彼の血に觸れると、長く閉ぢて居た記憶の室から、彼が一旦抛棄して忘れんと努めた凡ての物の面影が飛び出した。彼は亡き人々の顏を見、年經りたる彼等の聲を思ひ浮かべた。彼は再び父の屋敷に居た時の小兒に歸つた。明かるい室から室へと彷徨(うろつ)き𢌞はり、疊の上に樹影の顫るへる日向(ひなた)で遊んだり、自然の風景を模した庭園の淺綠の夢の樣な平和さに眺め入つたりした。彼は再び邸内の祠へ、又は祖先の位牌の前へと、朝の禮拜に、彼の小さき歩みを導く、母の手の肌觸りを感じた。そして、今思ひついた新たな意味を以て、大人の唇で小兒の單純な祈誓をつぶやいた。

 

[やぶちゃん注:私は『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (六) ――ハーンが最初に行った寺を推定同定する――』の注で、本篇のこの最後の帰国の客船からの富士を見るシークエンスには、小泉八雲自身が来日した際に見た富嶽の感動が強く影響していると考えた。それを証明するために、ラフカディオ・ハーンが日本に着いて最初に記した紀行文“A WINTER JOURNEY TO JAPAN”の一節も原文と訳文(孫引き)を引いておいたので参照されたい。この記事は出版社ハーバー社特派員であったハーンが実に日本到着後、最初に手掛けた仕事として、本社へ送った記事である(但し、この直後に同社の彼に対する不当な扱いへの不満から、ハーンの方が契約を直ちに破棄したことは既に書いた)。]

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