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2019/12/06

甲子夜話卷之廿七 5/6 八歲の兒その前生を語る事/同前又一册

 

[やぶちゃん注:昨夜公開した「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の参考資料として本二条をフライングする。なお、詳しくはリンク先で注しておいたので、そちらをまず目を通した上で読まれたい。ダブるような注は煩瑣になるだけなので、基本、附さないからである。後の「27-6」では今までと違って「■やぶちゃんの呟き」ではなく特異的に文中注を附して対応した。

 

27-5 八歲の兒その前生を語る事

この頃、生れ替りてこの世に來れる小兒と人の云はやすことあり。

[やぶちゃん注:「云はやす」「云ふ囃す」。以下「付寫」までは底本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

文政六年癸未年四月、多門傳八郞知行所百姓之忰、生替り前世之事共覺居物語致候奇談、所々專之風說故、右百姓親子共、傳八郞方え呼出相糺候所相違無ㇾ之、未曾有之珍事故、同人組頭衆迄耳打申達候書付寫

 

私知行所、武州多摩郡中野村、百姓源藏忰勝五郞、去午年八歲に而秋中より同人姉に向前世生替之始末相咄候得共、小兒之物語故取用不ㇾ申、度々右樣之咄申候に付、不思議成儀に存、姉儀父母え相咄候而昨年十二月中、改而父源藏より勝五郞え相尋候處、前世父者同國同郡小宮領、程窪村百姓久兵衞と申者之枠に而藤藏と申。自分二歲之節、久兵衞儀者病死仕候間、母え後家入に而半四郞と申者後之父に相成居候處、右藤藏儀、六歲之時疱瘡に而病死仕、夫より右源藏方え生替申候由相答、難取用筋に者有ㇾ之候得共、委敷慥成事共申候に付、村役人えも申出、得與相糺候處、世上取沙汰仕候儀故、程窪村半四郞方に而も沙汰及ㇾ承、同人儀、知行所源藏方え尋參り候故、相糺候處、小兒勝五郞申候通相違無ㇾ之、前世父母面體、其外住居等も相咄申候に付、程窪村半四郞方え小兒召連候處、是又少も違無ㇾ之、家内に對面爲ㇾ致候所、先年六歲に而病死仕候藤藏に似合候小兒に有ㇾ之、其後當春迄に折々懇意に仕候内、近村えも相知申候哉、此節者日々右勝五郞を見物に所々より參り候者有ㇾ之候に付、知行所より訴出候間、源藏勝五郞呼出相糺申候通、右之通兩人も相答申候。尤折々世上に而取沙汰仕候間、難取用筋には御坐候得共、御内々御耳打申上置候。以上。

   四月        多門傳八郞

前世、疱瘡に而相煩候節、田舍之儀、殊に貧窮之百姓之事故、藥用も不ㇾ致病死致し候由。尤父は隨分勞り遣し候由。葬送之節、瓶え入棺え入葬候節者、棺之上えあがり見物いたし居、甁計埋候由。夫より大造成廣野原え出候へば、此所に地藏菩薩、幷老人罷在出合、兩人にて所々連步行四季之草花有ㇾ之、山谷海川、絕景言語に難ㇾ及、所々連步行見物致させ、扨三ケ年過、最早生れ替らせ可ㇾ申、拾六歲に相成候はゞ亦々此方へ立戾可ㇾ申、夫迄生替居可ㇾ申爲申聞、野中源藏家之前え連行置候而、地藏老人者歸候間、源藏内え這入候處、其節源藏夫婦、殊之外いさかひ致居候間、胎内え難ㇾ入、暫いさかひも相濟候間、胎内え入候旨、右いさかひ之譯も有增覺居候由。半四郞儀今に繁昌にて、源藏より承候處少も相違無ㇾ之趣申候由。其外色々不思議共有ㇾ之候得共、一夕に承盡兼荒增書寫畢。

右勝五郞儀、賤敷百姓之悴に不似合至而行義能、おとなしく、生付も奇麗之旨、何を申も漸九歲之小兒故、萬端委敷承度、强而尋候得ば大きに恐れ、答出來兼、又者泣出候仕合故、菓子抔與へ遊ばせ置き、だましだまし尋候故、然與難ㇾ分事も多く、前世病死後、地藏之手元に罷在候三ケ年之内之事共は、二度目出生之節、家内騷々敷に紛、多亡却致し候由申ㇾ之。十六歲迄に者死候事故、只今之内親之爲仕事致し溜置候迚、一體籠細工を親共細工に致し候處、勝五郞籠細工上手にて、至て手奇麗に出來候を、晝夜精を出し拵へ、夫而巳かゝり居候由。平生至而小食に而、一度者漸一椀位にて、餘者不ㇾ食。魚類は何にても一切給べ不ㇾ申。菓子類少々喰候由なり。右の體にて、隣宅の梅塢がもとに多門が連れ來れるまゝ、予に見るべしと告たれど、幽冥の談を云者を見るべくも非ざれば往かず。人を遣して見せたるに、書記して復命す。

再生小兒、父差添在ㇾ之。尤何所庭にての儀に有ㇾ之、右の小兒は起居候所常の小兒に聊相替候樣子も無ㇾ之、私を見懸け、恥候體にて少し面をうつぶけ、其邊を立𢌞り候樣子、隨分おとなしく相見得申候。髮はけし坊主にて、毛赤く、面長く、瘦せたる方にて、色黑く有ㇾ之候得共、容儀も見苦しからず、伶俐の小兒と見請申候。年は何歲に相成候やと尋候得共、一向答不ㇾ申。只恥入候樣子に相見へ候而巳に候。着物は古き紺竪じま、木綿袷を着、帶も小倉じま木綿にて、腰に古き金入に緋縮緬の緣を取たる守袋を佩び居、白木綿緖の草履を著き居申候。親は四十五六歲にも可ㇾ有ㇾ之や、素より貧しき百姓の體にて、別に相替儀無ㇾ之候。四月十二日。

■やぶちゃんの呟き

「文政六年癸未」(みづのとひつじ/キビ)一八二三年。

「多門傳八郞」平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年の文政六(一八二三)年板行の「勝五郎再生記聞」では「おかど」と読んでいる。実在した著名人の後裔と考えられることは、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の注で示した。

「生替り」「うまれかはり」。

「專之風說故」「もちぱらのふうせつゆゑ」。

「相糺」「相ひ糺(ただ)し」。

「耳打申達候書付寫」「耳打ち申し達し候ふ書付(かきつけ)の寫(うつ)し」。この場合の「耳打ち」とは、公式な届書き文書としてお上に届け出るものではないが、何らかの不測の事態に対処するために、取り敢えず報告した書き付けを指すのであろう。

「去午年」「いんぬる午年(うまどし)」。文政五壬午(みずのえうま)年。

「に而」「にて」。

「秋中」「あきなか」。秋中旬。旧暦八月。同年は閏一月があったため、新暦では九月中旬から十月上旬に当たっている。

「向」「むかひ」。

「相咄候得共」「相ひ咄(はな)し候得(さふらえ)ども」。

「取用不ㇾ申」「取り用(もち)ひ申さず」。

「存」「ぞんじ」。

「姉儀父母え相咄候而昨年十二月中」「姉儀(ぎ)、父母へ相ひ咄し候ふ。而して昨年十二月中」。同年十二月はグレゴリオ暦では既に一八二三年(同年旧暦十二月一日は一月十二日)。

「改而」「あらためて」。

「久兵衞儀者病死仕候間」「久兵衞儀は病死仕(つかまつ)り候ふ間(あひだ)」。

「母え後家入に而」「母へ、後家入(ごけいり)にて」。「後家入」は後家の家に婿入りすること。未亡人に婿を迎えること。尋常に考えれば婿養子である。

「後之父」「あとのちち」。継父。養父。

「難取用筋に者有ㇾ之候得共」「取り用ひ難き筋(すぢ)には之れ有り候得ども」。

「委敷慥成事共」「委(くは)しく、慥(たし)かなる事ども」。

「得與」「とくと」。

「に而も」「にても」。

「及ㇾ承」「承(うけたまは)り及び」。

「前世父母面體」「前世(ぜんせ)の父母」(=実父藤五郎・継父半四郎・母しづ)「の面體(めんてい)」。

「違」「たがひ/ちがひ」。

「家内に對面爲ㇾ致候所」「家内(かない)に(て)對面致させ候ふ所」。

「似合」「にはひ」。よく似ている。

「相知申候哉」「相ひ知られ申し候ふや」。

「此節者日々右勝五郞を見物に所々より參り候者有ㇾ之候に付、知行所より訴出候」このように人々が出入りすることは尋常でなく、不測の事態が生ずる可能性を知行所の名主等が危ぶんで、訴え出たのである。

「疱瘡に而相煩候節」「疱瘡(はうさう)にて相ひ煩(わづら)ひ候ふ節(せつ)」。

「尤父は隨分勞り遣し候由」「尤(もつと)も、父は、隨分、勞(いたは)り遣(やり)し候ふ由(よし)」。

「瓶え入」「瓶(かめ)へ入れ」。「瓶」は甕棺(かめかん)のこと。小児で遺体が小さいからまず壺様のものに入れたのであろう。

「棺え入」「棺(ひつぎ)へ入れ」。思うに野辺送り用の木棺(丸桶)のそれであろう。

「葬候節者」「葬り候ふ節(せつ)は」。以下の映像「棺之上えあがり見物いたし居、甁計理候由」(「棺の上」へあがって「見物いたし居(を)り、甁(かめ)計(ばか)り理(う)め候ふ由」)は藤蔵(現在の勝五郎)の霊魂からのそれであることに注意。

「夫より」「それより」。

「大造成」「大造(たいさう)成(な)る」。驚くばかりに大層開けた。

「地藏菩薩」これは平田篤胤の「勝五郎再生記聞」には出ず、老人だけである。後に示される「再生勝五郞前生話」にも念仏の語が出、この小児の死後の体験シークエンスに地蔵菩薩が導きとして示現するのはごくごく至って自然なのに、である。「勝五郎再生記聞」では勝五郎が僧を嫌い、憎みさえする章段が出現する。私はこれは平田が吹き込んで作話させたものではないかと私は考えているほどである。則ち、ここに神道家平田によるフラットであるべき聴き取り内容への不正不当な介入、恣意的な創作による変形が見て取れるのである。

「幷」「ならびに」。

「罷在出合」「まかりありいであひ」。

「連步行」「つれありきゆき」。

「夫迄生替居可ㇾ申爲申聞」「それまで生(うま)れ替(かは)り居(を)り申すべく、申し聞(き)かすなり」。

「這入」「はいり」。

「難ㇾ入」「いりがたく」。

「暫」「しばらく」(して)。

「有增覺居候」「有增(あらまし)覺え居り候ふ」。夫婦の言い争いの内容(勝手不如意)についても概ねその内容を記憶しております。

「繁昌にて」今は仕事も上手くいっており。前の争いの原因を受けての謂いであろう。

「一夕に承盡兼荒增書寫畢」「一夕(いつせき)に承り盡(つく)し兼ね、荒增(あらまし)書き寫し畢(をはん)ぬ」。

「賤敷」「いやしき」。

「至而行義能」「至つて行義(儀)能(よ)く」。

「生付」「うまれつき」の容貌。

「何を申も」「なにをまうすも」。何と言っても頑是ない。

「漸」「やうやう」。

「委敷承度」「くはしくうけたまはりたく」。

「强而」「しいて」。

「又者」「または」。泣

「仕合故」「しあひゆゑ」。始末でありますから。

「抔」「など」。

「然與」「しかと」は。

「難ㇾ分事も多く」「わけがたきこと」。勝五郎の話は、聴いてもその意味が理解出来ないことも多く。

「罷在候」まかりありさふらふ」。

「騷々敷に紛」「さうざうしきにまぎれ」。

「多」「おほく」。

「に者」「には」。

「死候事故」「しにさふらふことゆゑ」。

「只今之内親之爲仕事致し溜置候迚」「只今の内(うち)、親の爲(ため)、仕事致し、溜(た)め置き候ふ迚(とて)」。

「一體」副詞で「総じて」「概して」であろう。

「夫而巳」「それのみ」。

「至而」「いたつて」。

「一度者漸一椀位にて」「一度(に)は漸(やうや)う一椀(膳)位(くらゐ)にて」。

「餘者不ㇾ食」「餘(よ)は」(他には)「食せず」。

「給べ」「たべ」。食べ。

「喰」「くひ」。

「右の體」「みぎのてい」。以上の通りであるので。

「隣宅」これは書いている松浦静山の隣りの屋敷であろう。

「梅塢」(ばいう)。恐らくは、幕臣で天守番を勤めた荻野八百吉(おぎのやおきち 天明元(一七八一)年~天保一四(一八四三)年)であろう。仏教学者としても知られ、特に天台宗に精通して寛永寺の僧らを教えた。「続徳川実紀」編修に参加している。彼の号は梅塢であり、静山と親しかった。但し、所持する二種の江戸切絵図で平戸藩上屋敷・下屋敷周辺を彼の姓名は見ても見当らない。

「予」静山。

「幽冥の談を云者を見るべくも非ざれば往かず」松浦の堅実にして慎重な実証的現実主義の一面が窺われる。いいね!

「書記して復命す」静山が命じた者が勝五郎を訪ね、事情聴取をし、その者が内容を書き記したものを報告書として提出させた。以下の段落がそれ、ということである。

「父差添在ㇾ之」「父、差し添ひて、之れ、在り」。

「尤何所庭にての儀に有ㇾ之」「尤も、何所(いづく)庭(には)」(=家庭)「にての儀に之れ有り」。普通の農家の家庭と変わらない、の謂いであろう。

「聊相替」「いささか(も)相ひ替(かは)り」。

「恥候體」「恥(は)ぢ候ふ體(てい)」。

「けし坊主」当時の一般的な子供の髪型の一つで、頭頂だけ、毛を残して、周りを全部剃ったもの。外皮のままの球形のケシの果実に似てることによる。

「伶俐」(れいり)頭の働きが優れていて賢いこと。

「而巳」「のみ」。

「紺竪じま」「こんたてじま」。

「木綿袷」「もめんあはせ」。

「金入」「かねいれ」。財布。

「緋縮緬」「ひぢりめん」。

「守袋」「まもりぶくろ」。

「佩び居」「おびをり」。

「緖」「を」。

「著き」「はき」。

「可ㇾ有ㇾ之や」「これ、あるべしや」。

 

 

27-6 同前又一册

某老侯より一册を示さる。前事なれども、小異、詳文とも覺ゆれば又載す。要するに冥怪のみ。

[やぶちゃん注:以下、「某老侯」則ち、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」で注した因幡国鳥取藩支藩の若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(号は冠山)が記した「兒子再生前世話」(勝五郎再生前生話(さいせいぜんしょうばなし))の初期形かと思われるものの写しである。一行空けた。【 】は底本では二行割注。ポイント落ちの箇所があるが、総て同ポイントで示し、字配も必ずしも再現していない。以下、特異的に挿入注を附した。]

 

  【武藏國中野村】再生勝五郞前生話

    武州多磨郡柚木領中野村小名谷津入(ヤツイリ)

     根津七軒町多門傳八郞知行所

文化一二乙亥年十月十日生 百姓源藏次男〔當未九歲〕

                 勝五郞

父苗字小谷田(コヤタ)〔當未四十九歲〕源藏

母         〔同 三十九歲〕せい

祖母        〔同 七十二歲〕つや

祖父        〔死〕     勘藏

姉         〔同 十五歲〕 ふさ

兄         〔同 十四歲〕乙次郞

妹         〔同 四 歲〕つね

   武州多磨郡小宮領程窪村

    下谷和泉賴通中根宇右衞門知行所

          百姓半四郞忰實父

     藤五郞忰〔六歲に而死〕 藤 藏

右文化二乙丑年生。同七庚午二月四日晝四つ時死。病症疱瘡。葬地同村之山。菩提所同領三澤村禪宗醫王寺。昨文政五午年十三囘忌也。

   藤藏養父苗字須崎 當未五十歲 半四郞

     母      同 四十九歲 し づ

   文化五戊辰年、藤藏五歲之時四十八歲に而死去。

   此跡に半四郞入候由、去文政五壬午年十三囘忌。

            藤藏實父 藤五郞

             初久兵衞と申候

   藤藏種替之兄弟 半四郞忰兩人 同娘兩人

[やぶちゃん注:「種替」(たねがへ)たぁ、おぞましい謂いじゃねえか! 糞野郎! なお、以下、思いの外の注釈のいらない驚くべき口語表現は、既にして当時の口語が現在のそれに極めて近いことを教える格好の実証である。

去午年十一月の頃、勝五郞、姉ふさとたんぼにて遊びながら、勝五郞、姉に向ひ、兄さんはどこからこつちの内に生れて來たととふ。姉どふして生た先がしれるものかといへば、勝五郞あやしげなる體にて、そんならおまへも生れぬさきの事はしらぬかといふ。姉、てまへはしつているのか。おらアあの程久保の久兵衞さんの子で、藤藏といつたよ。姉、そんならおとつさんとおつかさんにいおふといへば、勝五郞泣出し、おとつさんとおつかさんにいつちやうわるい。姉、そんならいふまい。わるい事するといつつけるぞよとて、其後兄弟げんくわなどすれば、かの事をいおふといふとじきにやめる事たびたびなれば、兩親是を聞つけ、いかなる惡事をなせしやとあんじ、娘ふさにせめとひければ、ふさやむ事を得ず、ありのまゝに告るに、源藏夫婦、祖母つやも、尤ふしんにおもひ、勝五郞をすかして、いろいろとせめ尋ねければ、そんならいおふとて、おらア程久保の久兵衞さんの子で、おつかさんの名はおしづさんといつた。おらが五つの時、久兵衞さんは死んで、其蹟に半四郞さんといふが來て、おれをかわゐがつてくれたが、おらアそのあくる年、六つで痘瘡で、それから三年めにおつかさんの腹にはいつて、それから生れたよといふ。兩親、祖母此を聞て大におどろき、どふぞして程久保の半四郞といふものを尋ねて見んとおもへども、身すぎ[やぶちゃん注:「身過ぎ」。暮らしを立てていくこと。また、その手だて。身の境遇。生業(なりわい)。]にまぎれ、そのまゝにうちすておきしに、母しづ[やぶちゃん注:ママ。「せい」でないとおかしい。]は、四つなる娘常に乳をのまする故、勝五郞は祖母つやにだかれて、每夜々々ねものがたりするゆへ、つや、勝五郞がきげんを見合せ、その死せし時の事を尋ね問ふに、勝五郞、四つくらいの時まではよくおぼへていたが、だんだんわすれたが、痘瘡で死んでつぼに入れられ、山にほうむられたとき、穴をほつてつぼをおとした時、どんといつた音はよくおぼへている。夫から内にかへつて、机[やぶちゃん注:ママ。臨終の床の藤蔵の「枕」の誤記であろう。]の上にとまつていたら、なんともしれぬじいさまのやうな人が來て、つれてゆくと、空を飛んであるいて、晝も夜もなしに、いつも日暮がたのやうだつけ。さむくもあつくもひだるくもなかつた。いくらとをくにいつても、内でねんぶつをいふこゑと、なにかはなすこゑが聞えた。うちであつたかいぼたもち[やぶちゃん注:製造過程の動作の「搔ひ餅飯」の音変化であろう。「ぼた」は納得出来る語源説がない。私はもっちりとした、ぼったりとした粘り気のある様態のオノマトペイアではないかと想像する。]をすへると、はなからけぶ[やぶちゃん注:「烟」。ここは湯気であろう。]を吞むやうであつたから、おばアさん、ほとけさまにはあついものをすへなさいよ。そしてぼうさまにものをやらつしやいよ。これがいつち[やぶちゃん注:一番。]いゝ事だよ。それからそのじいさまがつれて、此内の向ふのみちを通るとおもつたが、ぢいさま、もう死んでから三年たつたから、あの向ふのうちに生れろ。われがばアさまになる人は、きのいゝばアさまだから、あそこにやどれといつて、ぢいさまは先にいつてしまつて、おらアこの内にはいろうとおもつて、門口にいたら、内になにかおつかさんが、内がびんぼうで、おつかさんが江戶に奉公に出ずばなるまいといふ相談があつたから、まアはいるまいと庭に三日とまつていたが、三日めに江戶へ出るそうだんがやんだから、夫から其夜、あの窓のふし穴から内へはいって、へつつい[やぶちゃん注:「竈(かまど)」。]のわきに又三日居て、天からおつかさんのおなかにはいつた。おなかのうへのほうにいたら、せつなかろうとおもつて、わきのほうによつていた事もおぼへている。生れた時くろう[やぶちゃん注:「苦労」。]のなかつた事もよくおぼへているが、おとつさんとおつかさんにはいゝが、外の人にはいいなさんなといふ。祖母、此よし源藏夫婦に語る。夫より後は兩親に前生の事共ありのまゝかたり、程久保にいきたい、久兵衞さんの墓にやつておくれと度々いふ事なれば、源藏おもふやう、勝五郞希有なる事なれば、もしもその内に死ぬまじきものにも爲らねば[やぶちゃん注:冥界のことを臆面もなくべらべら語る不吉さからこやつは早晩「死んでしまわないとも限らないから」。]、なるほど程久保に半四郞といふもの、ありなしを尋ねたきものなれど、男の身として、あまりあとさきのかんがへなきやうに、人のおもわく[やぶちゃん注:世間体。]もいかゞなればと、當正月廿日、つやに、勝五郞をつれてゆくべしといゝければ、つや、勝五郞をつれて程久保村にゆき、此家かあの家かといへば、勝五郞まださきださきだといつて先にたつて行ほどに、此家だと、つやにかまはずかけこむゆへ、つやもつゞいてはいり、まづ主じの名を問ふに、半四郞とこたへ、妻の名を問へばしづと答ふ。此うちに藤藏といふ子がありしやといへば、十四年あと、六の年、ほうそうでなくなりましたといふ。つやははじめて勝五郞がいいし事のま事[やぶちゃん注:「誠(まこと)」。以下同じ。]なる事をかんじ、淚せきあへず。勝五郞が前生をおぼへてはなせし事をつぶさに語ば[やぶちゃん注:「かたれば」。]、半四郞夫婦もま事に奇異のおもひをなし、勝五郞をいだき、共になみだにしづみ、前生藤藏といゝて、六ツの時の顏色より、きりよう[やぶちゃん注:「器量」。]一段あがりたりなどいふに、勝五郞は向[やぶちゃん注:「むかひ」、]のたばこや[やぶちゃん注:「煙草屋」。]の屋根にゆびさし、まへかたはなかつたの[やぶちゃん注:「あんな形の屋根ではなかったね」の意。]、あの木もなかつたなどいふに、皆その通なれば、半四郞夫婦もいよいよがおりし[やぶちゃん注:「我折りし」。疑義の思いを断った。]となり。扨其日は谷津入にかへりしが、その後も二三度半四邸かたへつかはし、實父久兵衞が墓へも參らせしとなり。勝五郞、時々、おらアのゝさまだから大事にしておくれといゝ、また祖母にむかい、おらア十六で死ぬだろう。御嶽さま[やぶちゃん注:「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の小泉八雲の原註を参照されたい。]のおしへさしつたが[やぶちゃん注:御教え下さったが。]、死ぬはこはいものではないといゝしとぞ。兩親、勝五郞に、手前はぼうさまにならぬかといへば、おらアぼうさまになるのはいやといひし。近頃村中にては、勝五郞といはずして、ほど久保小僧とあだ名よび、近村より見に來る人もあれば、はづかしがりて、やにはににげかくるゝにより、勝五郞直ばなしは聞ことかなはず。祖母のものがたりにて此を書とむるものなり。扨源藏夫婦、祖母つやのうち、何ぞかねて善根をせし覺へありやと問ふに、何もさのみよき事もせず。祖母つや、明暮ねんぶつをとなへ、出家乞食の門口に立あれば、いつも錢弐文づゝ法捨[やぶちゃん注:ここは普通の「布施」と同義。]をするより外、善事といふほどの事もせざりしといふ。

 

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