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2019/12/02

小泉八雲 日本の民謠に現れた佛敎引喩 (金子健二譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“BUDDHIST ALLUSIONS IN JAPANESE FOLK-SONG)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第八話である。この底本の邦訳では殊更に「第〇章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月6日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本篇の大標題はここ、本篇本文はここから。

 訳者金子健二(明治一三(一八八〇)年~昭和三七(一九六二)年)氏は新潟県中頸城郡新井町出身の英文学者。高田中学校から東京の郁文館中学校・第四高等学校を経て、明治三八(一九〇五)年、東京帝国大学英文科卒。一九〇七年から一九〇九年まで米国のカリフォルニア大学バークレー校大学院に学び、帰国後、広島高等師範学校教授、大正一三(一九二四)年、在外研究員として渡欧、大正一五(一九二六)年、文部省督学官、後に東アジア・インドに調査旅行をした。昭和八(一九三三)年、旧制静岡高等学校校長・姫路高等学校校長を務め、日本女子高等学院教授(校名変更で日本女子専門学校教授)、学校法人「東邦学園」理事となり、校名変更後の昭和女子大学の初代学長・理事を務めた。中世英文学が専攻であったが、インドや夏目漱石など、関心は広かった(ウィキの「金子健二」に拠った)。

 傍点「﹅」は太字に代えた。注は四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「!」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。]

 

      第八章 日本の民謠に現れた佛敎引喩

 

 日本民族の心の土壤が如何なる程度迄佛敎の理想に潤され又肥やされたかを委しく知らうするには、昔のこの國の文化を代表してをる物をただ一つだけ見てもそれで十分であるのだ。ところが歐羅巴人になるとどうしてもこれが出來ぬ。何故かといへば極東の宗敎と極東人の生活の全部的關係を理解するためには、どんな歐羅巴人でもその一生涯を費して然かも到底學ぶことの出來ぬやうな或る種の經驗を必要とするのであつて、この經驗がなければどんな學識があつてもこの問題を了解することが出來ぬからである。併し過去に於て佛敎が如何なる感化を日本に及ぼしたかといふことは日本に來た西洋人の目にも到る所で明かに映じてをることである。一切の美術乃至大部分の工業的作物は象徵主義に訓練された人の目には常に佛敎傳說の表現として映じてをるのである。形式の上に何等かの特色を有してをるもの、或は苟も美しいと思はれるやうな手細工品にして――例へば子供の玩具類から王者の重代の寳物に至る迄――これを造り出した手業その者から考へてみて、或る意味に於ては最初佛敎に負ふところがあつたのだと公言し得ぬ物は一つも無い。大阪の工場から來る安物の更紗の中には京都の西陣織にも劣らぬ佛敎思想が織り込んであるのがわかる。鐡瓶の上の浮彫、番頭さんの火鉢の柄になつてをる唐金の象の頭[やぶちゃん注:恐らくは金属製の火鉢で、移動用にある二箇所の取っ手部分が象が鼻を垂らした形で象形してあるのである。]、紙襖の模樣、或は門口に見らるる極めてあるふれた裝飾用の木細工、金屬製の煙管に施した蝕鏤細工[やぶちゃん注:「しよくらう(しょくろう)」。原文“etchings”。エッチング。]、或は高價な花瓶の上に加へた琺瑯細工――是等は皆同一の雄辯さを以てこの國民の傳統的信仰を物語り得るのである。亦庭園設計の上にも佛敎の反映と反響が見られる。同樣に長くつらなつてをる店看板の無數の象形文字の上にも、或は銀貨や花に與へてあるところの驚嘆すべき適切な名稱に於ても、或は山、岬、瀑布、村落等の名に於ても、或は近代的な鐡道驛の名に於ても悉く佛敎の影響が現はれてをる。故に新文明といへど、ちかくの如く明らかになつてをるところの感化力を大いに動搖させるといふことは出來ぬのである。今や汽車と汽船とに依りて名高い靈廟[やぶちゃん注:特定のそれを指すのではなく、全国の交通手段を用いて参詣する寺社仏閣のこと。]に參詣人を送り出す一箇年間の人數は昔一箇年にあつた數よりは遙に多くなつてをる。お寺の鐘は柱時計や懷中時計の用ひられてをる時代なるにも拘らず依然として數百萬の人達に時の過ぐるを報じてをる。人々の言葉は昔ながらに佛敎口調で詩化されてをる。文學も戲曲も依然として佛敎言葉で滿されてをる。街道で最も普通に響いてをる聲――戲れてをる子供の歌、働きながら歌つてをる勞働者の齊唱、街頭で大聲張り上げて物賣り步く商人の叫び――是等の音ですら私の耳には尊者、菩薩の物語や、お經の句を思ひ出させることが屢〻ある。

 以上のやうな事柄を私は見たり聞いたりしたので、それを機緣に、佛敎徒のいうた事柄や引喩等を含んでをるところの歌謠集でも編んでみようかと最初考へてみた位である。併しその仕事の範圍が餘りに廣汎に亙つてをつて何所から手を下してよいのか直に決定することが出來なかつた。日本の歌謠は私達を當惑させる程種類が多いが――種類が餘りに多いのでそれに名をつけるだけで既に多くの頁をとることになる――次のやうなのが主なる物である。先づ名高い物の一として謠曲がある。謠曲は戲曲的の歌謠であつてその大部分は高僧の作つた物である[やぶちゃん注:誤り。狭義な実際の僧であるわけではない。いや、寧ろ、高僧の能楽師はいないというべきだ。但し、彼らの作詞背景に仏教思想が深く根を張っていることは言うまでもなく、以下の小泉八雲の謂いも正しい。]。恐らくその中の何れの十行をとつて見ても佛敎に關係の無い所は無い。次に長唄といふのがあるが、これには屢〻非常に長い歌がある。又淨瑠璃といふのがある。これは詩句で書いた全部小說的の物であつて、これを專門の謠手達が歌つて、一囘に五時間乃至六時間の長きに亙つて彼等の聽手を樂しませることが出來るのである。併しかういふ長い物は必然的に私の計畫から除外されたのである。だがその殘つた物の中には選擇することの出來るもつと短い形式の物が多かつた。最後に私は主として都々逸に私の計畫を限定することに決定した。都々逸は僅に二十六字を四行に列べた――(七、七、七、五)――小唄である。これは前に論じた街上で歌はれる歌謠よりは形式が正しく出來てをる。併し非常に流行してをる。隨つて都々逸は他の優秀な歌謠の多くに比較してみて佛敎の感化を受けてをる程度が大である。私は私のために集めた非常に澤山な歌謠の中からこの種類の典型として四十乃至五十だけ選擇した。

[やぶちゃん注:「都々逸」(どどいつ)は俗曲の一種。「都々一」「都度逸」「独度逸」「百度一」などとも記す。小学館「日本大百科全書」によれば、『歌詞から受ける印象によって「情歌」(じょうか)ともいう。江戸末期から明治にかけて愛唱された歌で、七七七五の』二十六『文字でさえあれば、どのような節回しで歌ってもよかった。現今のものは、初世都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)の曲調が標準になっていると伝わっている。江戸で歌い出されたのは』一七九〇『年代(寛政期)のことで、「逢(あ)うてまもなく早や東雲(しののめ)を、憎くやからすが告げ渡る」などが残っている。人情の機微を歌ったものが多いが、最盛期に入る』一八五〇『年代(安政期)以降は、さまざまな趣向が凝らされ、東海道五十三次や年中行事、あるいは江戸名所といったテーマ別の歌も現れてくる』。一八七〇『年代(明治期)になると、硬軟の二傾向が明確になる。文明開化を例にとると、「ジャンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」「文明開化で規則が変わる、変わらないのは恋の道」などである。このうち、硬派の路線が自由民権運動と結び付き、思想の浸透に一役買っている。すなわち、高知の安岡道太郎は「よしや憂き目のあらびや海も、わたしゃ自由を喜望峰」といった歌をつくり、『よしや武士』と題する小冊子にした。立志社の活動に用いられたのは、いうまでもない。大阪でも『南海謡集』(なんかいようしゅう)が出版され、「君が無ければ私(わた)しの権も、鯰(なま)づ社会の餌(えさ)となる」と、板垣退助を称賛している。とにかく、都々逸は全日本人の間に行き渡っていたので』、明治三七(一九〇四)年、黒岩涙香は『歌詞の質を高めようと、「俚謡正調」(りようせいちょう)の運動を提唱した。おりから』、『旅順攻撃の真っ最中で、涙香が経営する『萬朝報』(よろずちょうほう)に発表された第一作は、「戟(ほこ)を枕(まくら)に露営の夢を、心ないぞや玉あられ」であったが、都々逸の衰退とともに、この運動も』一九三〇『年代(昭和初期)に消滅した。なお、名古屋の熱田』『で歌われた『神戸節』(ごうどぶし)を都々逸の起源であるとみなす説もある』とある。]

 

 前生觀と未來再生觀を反映してをる歌謠は恐らく西洋人にとりて格段に興味が多からうと思ふ。併しそれは詩歌として價値が多いといふのでは無くて寧ろ比較的に珍らしい思想がその中に含まれてをるからである。この種の想像を宿した詩は英吉利の文學に於ては極めて稀であるが、日本では多ひに過ぎる程澤山あつて寧ろこのやうな思想は陳腐であるとさへ考へられてをる。ロゼッティーの『光りは俄然と』と題した詩のやうな美しい文藝的作品は――この詩が私達の心を魅するのは主として或る一つの透徹した精緻な思想がその中に宿つてをるからであつて、然かもその思想が過去一千八百年の久しきに亙つて私達の凡ゆる正敎固執主義の因習に依つて呪詛されてをつたのであるが――日本人に興味を與へることが出來るが、それはただに日本の最も無智な百姓でも常に起し得るところの空想乃至感情を西洋人が珍しくも飜譯的に改作したのだと思ふ程度に過ぎぬのだ。それにしても何人といへども是等の日本の歌謠の中に――或は寧ろ私自身が頗る無味乾燥的に譯して仕舞つたところの是等の拙譯の中に――ロゼッティーの神韵[やぶちゃん注:「韵」は「韻」に同じい。]漂渺たる思想その物の俤をすら見出すことが出來ぬのは明白である。

[やぶちゃん注:「ロゼッティーの『光りは俄然と』」“Rossetti's "Sudden Light,"”。イギリスの画家で詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 一八二八年~一八八二年)の、詩篇“ Sudden Light ”(「閃く光」)。「梅丘歌曲会館 詩と音楽」のこちらに原詩と藤井宏行氏の対訳「突然の光」が載る。以下、小泉八雲は、その原詩を引いているのであるが、何故か、第三連をカットしている。以下にまず、上記サイトの原詩を引く。

   *

 I have been here before,

   But when or how I cannot tell:

  I know the grass beyond the door,

   The sweet keen smell,

The sighing sound,the lights around the shore.

 

 You have been mine before,――

   How long ago I may not know:

  But just when at that swallow's soar

   Your neck turned so,

Some veil did fall,-- I knew it all of yore.

 

  Has this been thus before?

   And shall not thus time's eddying flight

  Still with our lives our love restore

   In death's despite,

And day and night yield one delight once more?

   *

小泉八雲の引用は以下である。

   *

     I have been here before,—

       But when or how I cannot tell:

     I know the grass beyond the door,

       The sweet, keen smell,

   The sighing sound, the lights along the shore.

 

     You have been mine before,—

       How long ago I may not know:

     But just when at that swallow's soar

       Your neck turned so,

   Some veil did fall,—I knew it all of yore.

   *

 以下の訳詩は全体が四字下げであるが、一字下げで引き上げた。]

 

 是所ぞ、我執その昔(かみ)、住みにし所……

 されど何時? 如何に?

 そは、いかで語りえん。

 草は扉(とぼそ)の彼方に、

 (汐風)は强く、香ばしく、

 (波)の昔、かこつが如く、

 光りは岸に沿うて、

 これぞ、我が知れる物。

 

 汝(いまし)、以前(もと)、我(わ)が有(もの)……

 されど幾年(いくとせ)の昔?

 そは、いかで知りえん。

 燕(つばくら)の高く舞ふ時、

 汝(いまし)の頸(うなじ)動(ゆる)ぎて、

 面掩巾(ヴエール)は地に……

 これぞ皆、我が知ろにしことか、その昔(かみ)。

 

譯者註 この詩は小泉先生が最も愛誦された英詩の一である。詩の大體の意味は二人の新婚の夫婦が靜寂な海岸に佇みながら何とはなしに汐風に吹かれてをる間にふと前世のことを思ひ出したといふ意味なのである。卽ち夫はこの磯邊は遠い遠い昔住んだことのある所だと感じたが、併しそれが何時のことであつたのか判然と記憶してをらぬ。と同時に我が新妻も遠い遠い昔既に我が戀人であつた樣に感じて來たのである。その時燕が一つ高く空中に翔んだ。妻の白い頸筋がその燕の方へと向けられた。その刹那彼は俄然として彼の過去世も明確に意識した。そして彼の眼前に在る一切の物は彼が前世に於て既に知つてをつた物であることを悟つた。面持巾(ヴエール)が地に落ちたといふ句は心の曇りが晴れたことを意味するのであらう。

譯中に(汐風)、(波)等とあるのは小泉先生の解釋を尊重する意味で特に原詩に無い語を挿入した譯だ。

[やぶちゃん注:最後の改行はママ。さて。小泉八雲が最終連をカットした意図は私には分らない。ともかくも、第三連の私の拙訳(文語訳。金子氏に合わせた)を示しておく。

   *

 こは斯くも昔のことなりしか?

 成す能はざるや? 時の渦卷を飛翔し、

 猶ほも亦、我等が生に我等が愛をば甦らせ、

 然(しか)も、死さへ超越し、

 而して晝にも夜にも、今一度――歡喜を齎(もたら)さんことを……

   *]

 

 西洋の夢の神苑(みその)に實(みの)つて然かも神の嚴命に依りて人間の口に入ることを許されてをらぬ果實! そしてこの果實と同じ意味に見られてをつた思想は、今やロゼッティーに依りてかくの如く謎でもかけるやうに巧妙に取扱れたのであるが、この不可解な詩人的態度はかの古い東洋の宗敎から直接に湧いて來るところの日本人の每日の叫びに比して實に明々白々たる事實的相違を持つてをる。例へば日本の歌謠にかういふのがある、

 

譯者註 原文に日本の歌謠を羅馬[やぶちゃん注:ローマ字。]綴りで示してないのは、英詩そのままに直譯することにした。これにその出所が不明であるばかりでなく、小泉先生がこれを耳で聽かれたのか、それとも書物で讀まれたのかそのへんのことも不明だからである。

[やぶちゃん注:以下、歌謡(都々逸)の引用は底本では四字下げであるが、一字下げとした。長いそれ(「(大意)」などと着くもの)はポイントが激しく落ちるが、本文とポイントで示した。]

 

 色は思案の外とはいへど、これも前生(さきせう)の緣であろ、

 

註 緣とは親和といふ意味の佛語(ぶつご)である、生から生への因果關係を表す語。

 

 二つ結んだ纜(ともづな)さへも、遠い前世の契り綱、(大意)

 

 袖觸(す)り合ふのも他生の緣よ、況(まし)て二人が深い仲、

 

 この樣な親切な男と同棲してをるのだからこの世は果報、私は前生の善報をこの世で收穫してをるのだ、(大意)

 

註 佛語の果報は通常カルマ卽ち因果、因緣等と同意義のものとして用ひられてをる。前世の行の惡報よりは寧ろ善報を表す場合が多い。併し時としては善惡兩樣に用ひられることもある。ここでは通俗的に果報の善い人卽ち幸運な人といふ意味に用ひてあるやうだ。

[やぶちゃん注:「カルマ」“Karma”。「業(ごう)」。もとはサンスクリット語で「行為・所作・意志による身心の活動及び意志による身心の生活」を意味する。仏教及びインドの多くの宗教の説では、善または悪の業(ごう)を作ると、因果の道理によって、それ相応の楽又は苦の報い(果報)が生じるとされる。]

 

 この種の歌謠の多くは槪ね情人同志が二世も三世も契らうとする時に誓以合ふ習慣を述べたもので、その源は佛敎の格言に胚胎してをる。卽ち

 

親子は一世、

夫婦は二世、

主從は三世。

[やぶちゃん注:辞書その他で、平然と、この説を一般論のように掲げているが、これは私は思うに、中世から近世の、歴史的には新しい転生縁故認識であって、三番目の「主從」がそれをよく物語っているように思われるのだ。私は、「源氏物語」の「葵」に出る「親子は一世、夫婦は二世」と言った場合、「現世」を数に入れていないのではないか? とずっと昔から思っているのである。則ち、親子であることが可能であるのは、現世と来世までであるが、睦まじい(因果な)夫婦の場合は、現世・来世と、その次の生まれ変わりの来来世まで夫婦でいられるという(調子の度外れした)意味だと考えているのである。だからこそ、以下で述べる「七生」という永遠の思い込みの大願望も生ずるのだと思うのである。そもそもが、来世で輪廻から解脱して極楽浄土に行けば、それで大団円で、親子や夫婦の存在認識そのものが存在しなくなって、一律、「仏(ほとけ)」なわけだ。親子・夫婦という愛欲に拘っていては、輪廻から脱することはないのであって、況や、人を殺す武家社会の場合は、永遠に六道を巡るから「七生報國」どころではない周回エンドレス転生なのである。

 

 夫婦の關係がこのやうに二世だけに限定されてはをるが場合によりては熱烈にも七世までかけて誓つてをる實例も屢〻在る[やぶちゃん注:「七生」はこれ自体が永遠の謂いであり、これも南北朝初期の楠木正成の「七生報國」以降に人口に膾炙するようになったやはり新しいもので、私は正直、甚だ好かぬ言葉である。]。これは日本の戲曲が實際に證明してをるのみならず、戀愛のために自殺した者の書置が事實的に證據だて〻をる。次の例はこの題目を取扱つてをる點で特色のあるものだ――熱情から諷譏[やぶちゃん注:「ふうき」。暗に戒めること。]へと調子が變つてゆく點で――

 

髮は斬つても二世までかけた、深い緣(えにし)は切るものか、

二世と契りし寫眞をながめ、思ひいだして笑ひがほ、

とてもこの世で添はれるならば、蓮の臺(うてな)で新世帶[やぶちゃん注:「あらじよたい」。]、

 

註㈠ 髮を斬るといふことがあるからにはこれは女が主人公である。恐らくこの女の夫又は許婚[やぶちゃん注:「いひなづけ」。]の戀人が死んだのであらう。彼女は佛敎徒の習慣によつて亡夫の菩提を弔ふために己が黑髮を斬つて貞操を守る心をここで表したのである。この題目に關する委しき事柄は私の“Glimpses of Unfamiliar Japan”及び “Of Women's Hair.”を參考して貰ひ度い。

[やぶちゃん注:最後の「及び」は誤訳。原文では、間に、“the chapter,”と入るから「“Glimpses of Unfamiliar Japan”の中の“Of Women's Hair.”の章を」である。『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十八章 女の髮について (一)』から全八回である。但し、死んだ夫へのそれは、一番最後の「八」でやっと出てくるので、言い添えておく。]

註㈡ ここには寫眞といふ言葉が用ひてあるからこの作は時代は古く無い。

註㈢ 二人の情人が一緖に自發的に自殺するといふ思想はここに胚胎してをる。これは情死歌と名をつけることが出來よう。

 

 二世までと約した間ではないか、今離れる位なら私は死に度い、(大意)

 

 さあ何としよう、二世かけた二人であるに、二人坐つた時に、三味線の絲がぷつつり切れて、(大意)

 

註 謠ひ女[やぶちゃん注:「うたひめ」。ここは芸妓。]の間では三味線の絲がこのやうな時に切れて仕舞ふと近い間に離別の悲が來ると考へられてをる。

 

 三世の因果を說いて二人の中の約束を固めるとは實に橫着な僧である、(大意)

 

註 獨身生活か守ることを誓つておきながらその戒を破つた僧侶のあることを歌つたもの。

 

 人間は幾度も幾度も殆ど限り無しに生を易へるやうに運命づけられてをるものである。併しそれかといつてただ一つの生の刹那的幸福はそれ自身に於て貴さが劣るといふことにはならぬ。例へばかうある、

 

 一夜會はぬのは實に悲の原因になる、何故ならばただ一生涯の中に同じ夜は二度と來ぬから、(大意)

 

 だが、例年に無く暑い夏は、例年に無い酷寒の冬を豫言し得ると同樣に、この生に於て餘りに幸福であるのは來世に於て大なる苦を受けることを表す、

 

 いつも私はこの樣に苦しんでばかりをる、恐らく私は前世で幸福が過ぎたのであらう、苦み方が足らなかつたのだ、(大意)

 

 前世と後世の信仰を歌つた歌謠が外來思想(佛敎思想)に依つて影響されたものであることは上述の如くであるが、これにつぐべきものは因果卽ちカルマの敎を說いた歌謠である。私は是等の歌謠の中から數種の自由譯をこ〻に提供すると共に、都々逸よりはもつと手のか〻つた、そして普通はもつと長い形式を有つてをるところの端唄[やぶちゃん注:「はうた」。]の中からも類例を上げることにした。私の選んだ端唄は少くともその原形に於て――螢に關する美しい眞喩(シミリー)[やぶちゃん注:“simile”。直喩。]を含んでをる――非常に立派な物である。

 

 泣かないで私の方を向いて下さい、私の嫉妬心は皆消えて仕舞つた、不親切なことをいうたのを許して下さい、因果の力が私の舌の根を抑へつけました、(大意)

 

 これは明かに嫉妬深い情人が己が罪を後悔して相手の女に許しを請うてをる有樣を歌つたものである。そして次の例は恐らくこの情人のために泣かされた女の返答である。

 

 妾[やぶちゃん注:「わらは」。]は何の因果で貴郞[やぶちゃん注:「あなた」。]の樣な不實な男と戀仲になつたのだらう、(大意)

 

 或は又このやうに叫んでをる、

 

 めぐる緣かや車の私、引くにひかれぬこの因果、

 

註 ここに言葉の戲れがあつて私が特に英譯しないで置いたものである。大體の意味は許婚[やぶちゃん注:「いひなづけ」。]又は結婚した男女の不幸を歌つたもので、遲まきながら女の方からその結婚を語らうとしてをる意がここに現れてをる。

 

 因果の車といふことに關してもつと著しい例は次の如くである。

 

 親の意見であきらめたのを、又も輪𢌞で思ひ出す、

 

註 作詩の輪𢌞又は輪轉車の𢌞りといふ意で、生から生への移りゆきを表す言葉である。ここでいふ輪とは迷ひの大車卽ち因果の輪のことである。

 

 ここに端唄の實例がある、

 

 可愛い可愛いと嗚く蟲よりも、鳴かぬ螢が身を焦す、

 何の因果で實なき人に、しんを明かして嗚呼悔し、

 

 若し以上の歌謠が私達と心理的に全く正反對の立場に在るところの人達のみに依つて作り出さる〻ものとするならば、かの無常轉變の大法を攝取し耀映[やぶちゃん注:「えうえい(ようえい)」。照り輝くこと。時めき栄えること。栄耀。]したところの民謠その物の類聚に於てこれと全く異つたもの〻あるのを認むるのである。例へば一切の物質的事物が悉く不定滅却の相を具へ、現世の快樂は如法空虛の夢であるといふ思想は基督敎も佛敎も大いに一致してをる點である。併し此二者の間に存する大きな相違は、私達が靈的の物についての兩者の敎――特に自我の性質に關しての兩者の說明の方法を比較した場合にのみ見出さる〻のである。但し自我その物が一つの非永遠的の混合體であるとか、或は物我は眞の識に非ずと說いてをる東洋の敎は、是等の流行歌の中に稀に現れてをるのみである。普通の人には自我といふ物がある。自我は一つの眞なる――假令それは增加性を有するものであるにせよ――人格それ自身であつて、生から生へと推移してゆくものである。深遠玄妙な敎は私達が自我であると自ら想像してをる物は實は全部私達の迷ひ――因果に依りて編れたところの闇冥の掩ひ[やぶちゃん注:「おほひ」。]――であつて、無限の自我、永遠の絕對以外に如何なる自我も存在し得ずと說いてをる。併しこれを理解し得る者は僅に敎養のある佛徒のみである。

 次に揭げた都々逸の中には普通の經驗に一致してをるところの思想乃至感情が多分に含まれてゐる。

 

 月に村雲、花には嵐、とかく浮世はま〻ならぬ、

 

註 これは特に不遇の戀愛を歌つたもので、二つの佛敎の諺の月に村雲花に風ままにならぬは浮世のならひ――あてが外れて失望するのはこの物憂き世界のつねである――といふ意を取入れたのである。浮世――飛去る又は不幸なこの世の意――といふ言葉は佛敎で最も普通に用ひられてをる常用語の一つである。

 

 梅の香ばしい花が咲いたかと思つたら無常の風が吹いて來て散つて了つた、(大意)

 明日ありと思ふ心のあだ櫻、夜半に嵐の吹かぬものかは、

 影も形も消ゆればもとの、水とさとるぞ雪達磨、

 

註 達磨は禪宗第二十八代の師祖であつて長い歲月の間面壁禪をやつたために双脚を失つたと傳云。脚の無い多くの玩具の人形に彼の名がついてをる。この玩具の達磨は脚は無いが能く體の平均も保つてゐていくら倒しても、いつも、もと通りに起上る。亦日本の子供の作る雪人形昔から同型を持つてをる。[やぶちゃん注:底本は「こ 玩具」「亦日本 子供」「こ 形」と激しい脱字(これだけ一箇所で落ちているのは、初めて見た。植字工より、校正係、いやいや、訳者の校閲が酷過ぎる!)。原文に徴して、それぞれ特異的に入れた。]

私が是等の歌謠を英語に譯した時、私のために助力してくれた日本の友人があつたが、その人は私に前記の歌謠の中に出て來た影といふ語を說明してきかせたが、それによれば、この語は或る靈的の意味を伴つてをるさうだ。してみるとこの語にこの歌謠の全體に亙つて更に深遠な意味をつけ加へることになる。

 

 十五夜の月の如く、heart は十五歲迄。十五になると光りが衰へて闇が來る、戀ひといふもののために、(大意)

 

註 陰曆に依れば月の十五夜は常に滿月にあたつてをる。この歌謠の中に出て來る佛敎引喩は迷ひ卽ち愛執の迷ひといふことである。そしてこの心の迷ひなるものを更に正道を暗くする闇その物にたぐひたのである。

 

 變る憂世に變らぬ物は、變るまいとの戀の道、

 ほんにつれないあの稻妻は、ふため見ぬうち消えてゆく、

 

註 佛敎で電火(いなづま)の光(ひかり)、石の火――燧石の閃光――をもつて一切の快樂の一時的なることを象徴してをる。ここではこれを戲れに用ひたのである。この歌謠は情人と會ふことの餘りに短いことを嘆じたものでゐる。

 

 可愛がられてつらさはまさる、ほんに憂世は歎きの巷、(大意)

 

註 戀ひはしてをるが嫉妬心の强いところの女が歌つたものである。私の日本の友人はこれを次の如く解釋した。曰く、男が親切であればある程、女の方ではその男が他の女と關係してその女に對しても同樣に親切であるだらうと心配して氣も狂はんばかりになつてをる、その意をこの歌で表したのである云云。

 

 老少不定の身でありながら、時節待てとはきれことば、

 

註 老少不定は佛語である。この歌謠の意は下の如くである。この世の事は皆不定であるのに、私に婚禮することを待てといふのは實際貴殿(あなた)は私を愛してをらぬからだ、何故なら貴殿(あなた)のいはれる時節が來ないうちに私達二人の中の何れかが死なぬとも限らぬから。

 

 會ふは私の原因(たね)とは知れど、會はぬ歎きはなほつらい、(大意)

 

註 生者必滅、會者定離及び哀別離苦の佛書の句に據る。

 

 一つになることを考へて喜んでをるが其の反面に於て夕[やぶちゃん注:「ゆふべ」。]の笑[やぶちゃん注:「ゑみ」。]が曉の淚の源となることのあるのを忘れてをる、(大意)

 

 無常を敎へてをる俗謠が一面にあるかと思へばその反面には次の如き都々逸もある。

 

 あだな笑顏に迷はぬ者は、木佛、金佛、石佛(いしぼとけ)、

 

註 石佛とは特に墓地に置かれてある石の佛像のことである。この俗謠は日本の隨所で流行してをる。私は各地でこれを聽いたことが幾度もある。

[やぶちゃん注:前の「木佛、金佛」は「きぶつ、かなぶつ」と読む。]

 

 然らば何が故に木佛、金佛、石佛がそのやうに無情であるか。それは活佛(いきぼとけ)は次の例にもある如く――これは滑稽的に非禮を犯したものではあるが――木佛、金佛、石佛のやうに無感覺の者で無かつたのは明かであるが故である。

 

 憂世を捨てよとはそれや、釋迦樣(逆さま)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]よ、羅睺羅(らごら)といふ子を忘れてか、

 

 しゃかむに(釋迦牟尼)はさきゃむにを日本風に譯した形である。故に釋迦樣とはさきゃ樣又は佛陀樣といふことになる。併し逆さまは日本語であべこべ又は顚倒の意に用ひられてをる。だから釋迦樣逆さまの發音差にはこの地口[やぶちゃん注:「ぢぐち」。語呂合わせ。]を示すだけの餘地が一寸ある。不安の戀には非禮の罪は免れぬ。

[やぶちゃん注:「しゃかむに(釋迦牟尼)はさきゃむにを日本風に譯した形である」以下は、原本の当該部を見て貰うと判るが(右ページ上部)、論理式かと見紛う(!)“{ }”を用いて書かれてあり、訳者が非常に苦心して訳を書かざるを得ない苦労が、ひしひし伝わってくるのだが、この文章化した意訳は、二箇所が逆となってしまっているのである。特異的に――★私が歴史的仮名遣正字で補足を加えて判り易く示す――と、

   *

――「さきゃむに」は、「しゃかむに」(釋迦牟尼)を日本風に發音表現を變化させて譯した形である。故に「さきゃ樣」とは、「釋迦樣」又は「佛陀樣」といふことになる。併し、この「さきゃさま」は、日本語の「逆(さか)さま」の音と訛った形で一致し、日本語で「あべこべ」又は「顚倒」の意に用ひられてをる。だから釋迦樣逆さまの發音差には、この地口の(=語呂合はせを示すだけの)餘地が一寸あるのである。不安の戀には非禮の罪は免れぬ(=切羽詰まつた戀には、とてものことに佛への畏敬の念なんどは氣にしてゐる暇(いとま)など、ありはしないのである)。

   *

で、意味が通るのである。

「羅睺羅(らごら)」原文“ Ragora ”。原注で“Râhula”。釈迦の実子で、後に釈迦の十大弟子の一人に数えられた人物。サンスクリット語「ラーフラ」(ラテン文字転写:Rhula)の漢音写。羅羅が生まれた時、「障害(ラーフラ)が生じた」と父ゴータマ・シッタルダ(釈迦)が語ったことから、この名がついたと伝えられているが、寧ろ、一男子の出生が、釈迦をして、安心して出家の道に入らせる要因となったとも考えられている。釈迦は、羅羅を、半ば強制的に出家させたが、彼は少しも奢るところなく、二十歳で具足戒を受け、また、戒律の微細な規則まで厳格に守ったことから、「密行(みつぎょう)第一」と呼ばれるに至ったという(小学館「日本大百科全書」をもとに一部を変えた)。]

 

 回向するとて佛の前へ、二人向ひてこなべだて、

 

註 佛とは死者卽ち一人の佛のことである。これは私の“Glimpses of Unfamiliar Japan”及び[やぶちゃん注:この「及び」は不用な誤り。「の」でよい。]“The Household Shrine”に揭げてある[やぶちゃん注:私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の內の宮 (九)』を参照されたい。また、その次の次である同『第十七章 家の內の宮 (十一)』の〈仏(ほとけ)〉と〈新仏(しんぼとけ〉の説明も見られたい。]。こなべだてとは情人同志の祕密會談をやることを表す日本の慣用語である。ちんちん鴨鍋――一つの鍋で鴨を煮て食べること――といふ句から出たものである。相思の男女か同一の膳で食事する樂みを形容したものに外ならぬ。ちんちんとは鴨鍋の液汁が沸騰する時の音を寫した語である。

 

 次に戀の邪魔者に對しては、かう言うてをる。

 

 花を凋落させる風と雨は憎い奴ではあるが、それよりも憎い奴は戀路の邪魔をする者、(大意)

 

 それでも神々のお助けを一所懸命に願つてをる。例へば、

 

 戀の闇路にお百度踏んで、主(ぬし)に會ひ度い神賴み(大意)

 

註 お百度といふことは百度お宮に參拜して一度每にお祈りをすることである。戀の闇路とは愛は迷ひより生ずるものなるが故に心の闇の有樣を表すものだといふ佛敎用語である。主(ぬし)とは主人、持主又は屢〻地主といふ意味に用ひられることがある、戀愛上に關して用ひられる場合には愛着の心を起させた主人公卽ち情人を意味することとなる。

[やぶちゃん注:「主(ぬし)」これだと、女をも指すように見えるが、日本語では、男女関係に於ける夫や情夫を指し、女から自分の男を尊び親しんで呼ぶものである。

 

 次に揭げた戀愛歌謠に於て興味のあるのは佛敎引喩に主として關係してをることである。

 

 賽の河原と主(ぬし)待つ宵は、こひしこひしが山となる、

 

註 この俗謠には實に美妙な語呂合せが仕組まれてをる。こひしは文字に書かないでただ音の上だけで見れば小石又は戀ひしといふことで、ここに言葉の戲れがある。次に賽の河原とは空想上の河床のことであつて、其所へ子供達の亡靈が小石を積みに往かなくてはならぬことになつてをる。ところが可哀相にもその石の重量が彼等の力を極度に緊張させるやうに增加してくるのである。この歌にはこれ以外になほ「地藏和讃」の句、卽ち是等の飢鬼が彼等の父母をもつて父こひし母こひしといつて叫ぶその聲を引用してをる。これは私の“Glimpses of Unfamiliar Japan”の卷一、五九―六一頁にある。

[やぶちゃん注:最後の注記の原本はここ(右ページ)と、ここ(見開き総て)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (九)』を参照されたい。私はその注で「地藏和讃」も引用してある。]

 

 戀の闇路に迷うてゆけば、明るい世界がよく見える、(大意)

 

註 戀の闇路を遠く步いて來た者は俗事がよく分るといふ意である。

 

 冷い心で外部から見れば戀ほど實に馬鹿なものは無いが、迷つた經驗の無い者では戀の味は分らぬ、(大意)

 

 三千世界に男はあれど、主(ぬし)にみかへる人はなし、

 

註 三千世界といふ言葉は佛敎で用ひられてをるものである。

[やぶちゃん注:「三千世界」「三千大千世界」の略称。仏教の宇宙観では、「一世界」とは、須弥山(しゅみせん)を中心として九山八海、四洲(四天下)や日月などを合わせたものであるが、この一世界が、一千個集ったものを「小千世界」という。この「小千世界」が、一千個集ったものが「中千世界」、この「中千世界」が、さらに一千個集ったものが「大千世界」であるとする。この「大千世界」は、小・中・大の各千世界から成っていることから、「三千世界」或いは「三千大千世界」と称する(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

 

 浮氣に見えても操は堅い、泥の中から蓮(はちす)が生える、(大意)

 

註 佛敎で常用してをる直喩(シミリー)に西洋の讀者がこの英譯から想似し得る以上にここで顯著にあらはれてをる。是等の言葉は本職の唄ひ女[やぶちゃん注:「うたひめ」。芸妓。]か又は女郞の言葉であると想像されてをる。女郞の職業は嘲弄的には泥水家業と呼れてをる。女郞が自己辯護のために佛敎で用ひらるる有名な比喩――泥中の蓮――をここで格段に且つ熱心に引用してをるところに興がある。

 

 血の池地獄も劍の山も、二人連れなら厭ひやせぬ、

 

註 血の池地獄は女の地獄である。劍の山は男が特に地獄で罰を受ける場所として一般に佛書に書いてある。

[やぶちゃん注:この男女の地獄での区別は、具体な地獄思想がでっち上げられた中国で生まれたものであろう。平凡社「世界大百科事典」の「血盆経(けつぼんきょう)」の記載を参考にすると、「仏説大蔵正経血盆経」と題して収められている全四百二十余字からなる小経があるが、それは、血の穢(けが)れ故に地獄へ堕ちた女人を救済するための経典であるとする。中国では明・清代にかなり広く流布していたもので、仏教・道教m及び、ある特定結社のものなどが存在しており、内容も、多少、異なってはいるが、孰れも「血に関わる罪を犯した者は血の池地獄に堕ちる」と説かれている。一方、伝来し改変された本邦の「血盆経」では、「出産や月水の血によって地神・水神等を穢した女性のみが血の池地獄に堕ちる」とされているという。仏教伝来以前の古来から、日本には血を忌む思想が存在し、これに仏教の女性不浄観(ブッダの原始仏教自体に、「女は男に生まれ変わらないと往生は出来ない」とする女性蔑視の「変生男子説」(へんじょうなんしせつ)があった)が習合し、女は血を流す存在であるがゆえに不浄、その墜ちる地獄としての血の池という短絡的な形成が見てとれると言えよう。一方の、「劍の山は男が特に地獄で罰を受ける場所」であるが、所謂、「針の山地獄」に相当する「剣林処」にはそのような因縁属性は、ない。しかし、私は、これは「衆合地獄」にあるとする「刀葉林(とうようりん)地獄」のことを指していると考える。ここは好色な人生に生きた男、それこそ、浮気ばかりした男が墜ちる地獄で、高い樹の上に裸体の美女が立っていて木の根元にいるその男の亡者を手招きする。男がむらむらときて、樹にとりついて登り始めると、樹の幹は、総て、刀剣となり、枝葉は鋭い針となる。それでも性欲に任せて男は攀じ登らざるを得ず、結果、男の体は、全身、傷だらけとなる。さても、木の頂きに達すると、美女は、いない。下を見下ろすと、彼女は木の下にいて、再び、手招きする。そして男は、また、体を切り傷つけつつ、木を降りる。しかし、下ると、かの美女は、またしても、樹上にいる、という行為を永遠に続けるのである。男限定の落ちる地獄として、これはヴィジュアルに腑に落ちよう。]

 

 墨の衣に身はやつさねど、心一つは尼法師、

 髮は斬らねど心は佛、こん度會ふ迄尼法師、(大意)

 

 このやうにいうてはをるもの〻、法師でも尼でも迷ひの力から脫却することが困難なこともある。例へば、

 

 墨の衣をつけてはをれど、戀の闇路に迷ひ入る、

 

 私は都々逸の極めて眞面目なもの〻中から主として是等の實例を以上の如く選み出したのである。併し輕い氣持で謠つた都々逸の中には恐らくもつと屢〻佛敎引喩が宿つてをること〻思ふ。次にこの種のものを五組だけ舉げて數百種の見本に代へることにする。

 

 餘りに迅速(あはただしく)に話したので思ひ出すことが出來ぬ、そのために戀人は閻魔顏で願ひを容れる、(大意)

 

註 この意味はこの男が履行しようと思つてをる事柄以上のことを輕率に約束して了つたといふ意に外ならぬ。閻魔――梵語の Yama ――地獄の王又は靈魂の裁判人といふことである。佛典及び佛畫に書いてある閻魔は見るからにそれは恐しいどころの話では無い。この歌謠の中にある句は佛敎の俚言に借りるときの地藏顏返す時の閻魔顏とあるのに明かに關係を持つてをる。

 

 私は佛顏でその願ひを三度聽いてやつたが餘りに願ひが多いのでその後は閻魔顏で聽くでせう、(大意)

 彼等は一緖に樂んでをるが彼等のボートの下は地獄だ、河風よ早く吹け、私のためにつむじ風よ吹け、(大意)

 

註 地獄は種々の地獄を總稱した佛敎用語である。ここで言つてをることは船板一枚下は地獄といふ句、卽ち海上の危險を形容した句に關係してをる。この歌に嫉妬を皮肉つたものである。ここでいふ小船は恐らく屋根のある遊覽で管弦の遊びに用ひられるやうな物であらう。

 

 私は彼をとどまらせるために今鳴いた烏は月夜烏だというたが甲斐が無かつた、暁(あけ)の鐘は淋しくひびく、(うそを)つけない鐘が……(大意)

 (月夜烏といふてはみたが、うそのつけない曉の鐘)

 

註 月夜烏とは普通の烏が曉を告げるのに反して夕陽の沒する頃から旭日の昇る時迄常に嗚いてをる烏である。次に鐘とはお寺の鐘のことである。暁(あけ)の鐘は日本の各地でお寺から響いてをる鐘のことだ、次の句には洒落がゐる。卽ちつけないうそをつけないの意味と鐘をつけないの二つの意味を音の上に於て持つてをると解釋することが出來よう。

 

 三千世界の烏を殺し、主(ぬし)と朝寢がしてみたい、

 

 私はこの最後の歌を珍しい物といふ意味で引用した。その理由はこれには不思議な歷史があるばかりでなく、この歌が直ぐその前に揭げた歌に類似した或る歌で明かに眞意が示されてをるとはいふもの〻、實際は外見と事實とは相違してをるからである。これは勤王の志を歌つた俗謠であつて、その作者は長州の木戶さんであつた。木戶さんはあの將軍家を顚覆して王室の權力を恢復し、日本の社會を造り直し、西洋の文明を輸入し適用するに至らしめたところの大運動の指導者の一人であつた。木戶、西鄕、大久保は明治維新の三傑だといはれてをるのは當然のことである。木戶さんはその友人の西鄕さんと一緖になつて京都で彼の計畫をたて〻をつた間にこの歌を彼の眞情の發露したものとして作り且つ謠つたのである。三千世界の烏といふ句は德川派を表現したものである。主(ぬし)(君主又は心の主)とは天皇を指示したものである。そへねは――共に寢ることであつて、將軍や大名から新たに妨害を加へられること無しに、玉座に對して直接の責任を帶び度いと望んでをる意を示したものである。これはかの率直な言葉で發表したならば暗殺を招いたかも知れぬやうな意見を吐露するための手段としてわざと流行唄を用ひたものであつて、これは日本の歷史上に於て必しも最初の實例では無かつた。

[やぶちゃん注:解説との齟齬で判ると思うが、金子氏は最初に提示した小唄を一般的な本邦でのそれに変えて訳してある。原文ではローマ字で、

    San-zen sékai no

    Karasu wo koroshi

    Nushi to soi-né ga

    Shité mitai

(三千世界の烏を殺し、主(ぬし)と添寝がしてみたい)となっている。

「木戶」木戸孝允(きど たかよし/こういん 天保四(一八三三)年~明治一〇(一八七七)年。和田小五郎・桂(かつら)小五郎とも称し、新堀松輔の変名も用いた)は長門萩藩医和田昌景の次男。桂孝古の養子。嘉永二(一八四九)年吉田松陰の松下村塾に入り、後、江戸に遊学した。慶応元(一八六五)年、木戸と改姓。西郷隆盛と薩長同盟を結び、倒幕を謀る。明治新政府の中枢にあって、「五箇条の誓文」の起草や版籍奉還・廃藩置県を主導した。明治三(一八七〇)年には参議となり、翌年には岩倉遣外使節団の全権副使を務めた。内政重視の立場から征韓論や台湾出兵に反対し、独裁を強めていた大久保利通と対立、政権の主流から離れた。西南戦争の最中の明治十年五月二十六日に四十五歳で病死(推定ではアルコール性肝硬変とも)した。但し、本唄は、一般には、高杉晋作(天保一〇(一八三九)年~慶應三年四月十四日(一八六七年五月十七日:長州藩士。長州藩士高杉小忠太の子。吉田松陰の松下村塾で久坂玄瑞と共に双璧と称され、後、江戸の昌平黌に学んだ。藩命により、奇兵隊を組織し、総監となり、四国連合艦隊の下関砲撃事件では講和に当たった。後に九州に一時亡命したが、挙兵して藩政を握り、藩論を討幕に統一し、第二次長州征伐では全藩を指揮し活躍したが、結核のため二十九歳の若さで亡くなった)の唄とされることが多い。無論、木戸作とする伝承もある。なお、「朝寝」は「あさい」とも読まれる。]

 

 私は木戶さんの歌に關して上の如く說明してをる間に、佛敎用語の三千世界(讀者の知らる〻通りこの集で二囘起つてをるが[やぶちゃん注:「登場しているが」の意。])といふことは私に二三の感じを與へてくれたから、その事柄をこ〻で述べてこの論文を適當に片附けて仕舞ふやうにする。私は數年前に初めて佛敎哲學の大樣を知らうと志した時、特に私の心を刺激した一つの事柄は佛敎の宇宙觀の廣大無邊なことであつたと記憶してをる。私は佛敎を硏究して感じたことは、この宗敎はただに人類の住んでをる一世界に對して救世[やぶちゃん注:「ぐぜ」。]の信仰を授けてくれたのみでは無くて、幾千萬劫の無量恆河沙の世界の宗敎として現れて來たものであつた。故に星辰の進化離滅に關する近世の科學的示現は、私の考によれば、宇宙の原則についての或る佛敎理論の大斷案の如きものである。そして私は今でもなほこの考をもつてをる。

 今日科學者は天體が物語つてをるところの新しい物語の驚くべき暗示を無視することは出來ぬ。今日の科學者は所謂心なるもの〻發達を目して宇宙を通じての惑星の生命成熟の一般的事相乃至出來事であるとして考へざるを得なくなつて來た。彼は私達自身の小さな世界と星辰及び天體の大集團との關係を比較して、恰も、ただ一つの夜光蟲と大海の燐光との關係以上のもので無いと觀察せざるを得ぬのである。東洋人の知力はこの驚くべき示現に接するや、これを以て彼等に悲みを加へるための知識としてよりは寧ろ信仰を促すための知識としてこれを認め得るやうに心の準備が出來てをつた。特にその點では西洋人よりは好都合であつたのだ。私は西洋人の知識と東洋人の思想とが將來何等かの結合をつくり得るやうになつたならば、その結果として、一種の新佛敎が新たに生れて來て、それが一切の科學の力を己れ自らの中に繼承し然かも內部的にはかの『金剛經』第十二章に預言してあるところの報酬を以て、これが眞理を求むる者に報い得ることを思はざるを得ぬ。今この經文をその儘に示せば――註釋家の言はともかくとして――彼等は無上の驚異を授けらるべし[やぶちゃん注:底本では「し」に傍点がなく、「と」にあるが、誤植と断じ、特異的に、以上のように処理した。]いふ句に於て既に約束してあるところの報酬よりも、もつと多くの物が、如何なる精神的敎訓の中からでも果して公平無私に期待し得るや否や。

[やぶちゃん注:「金剛經」原文“the Sutra of the Diamond-Cutter”。大乗仏教の般若経典の一つである「金剛般若經」、正式名称「金剛般若波羅蜜經(こんごうはんにゃはらみつきょう」の略。サンスクリット語ラテン文字転写で「Vajracchedikā-prajñāpāramitā Sūtra」(ヴァジュラッチェーディカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ)。ウィキの「金剛般若経」によれば、原題は「ヴァジュラ」(vajra)が、インドラの武器である「金剛杵」或いは『「金剛石」(ダイヤモンド)、「チェーディカー」(chedikā)が「裁断」、「プラジュニャーパーラミター」(prajñāpāramitā)が「般若波羅蜜」(智慧の完成)、「スートラ」(sūtra)が「経」、総じて「金剛杵(金剛石)のごとく(煩悩・執着を)裁断する般若波羅蜜(智慧の完成)の経」の意』とある。平井呈一氏の恒文社版「日本の俗謡における仏教引喩」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)の訳者注では、同経の第十三章の内容としておられる。但し、私が調べたところでは、「離相寂滅分第十四」の末尾のようである。原文は以下。

   *

須菩提、當來之世、若有善男子善女人、能於此經受持讀誦、則爲如來、以佛智慧、悉知是人、悉見是人、皆得成就無量無邊功德。

   *

平井氏のそれを参考にしつつ、勝手流で訓読しておく。

   *

須菩提(しゆぼだい)、當來の世(せい)に、若(も)し、善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんによにん)有りて、能(よ)く此の經に於いて受持(じゆぢ)し讀誦(どくじゆ)せば、則ち、如來は佛の智慧を以つて、悉(ことごと)く是(この)人を知り、悉く是人を見、皆、無量無邊の功德(くどく)を成就することを得(う)と爲(な)す。

   *

「須菩提」は釈迦十大弟子の一人で解空第一・被供養第一・無諍第一と称される「スブーティ」(Subhūti)のこと。「金剛經」は彼が釈迦に菩薩の在り方について問い、釈迦がそれに答える問答形式をとる。]

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