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« 小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「四」・「五」 / 日本文化の神髄~了 | トップページ | 小泉八雲 阿彌陀寺の比丘尼 (石川林四郞譯) »

2019/12/10

小泉八雲 旅行日記より (石川林四郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“FROM A TRAVELING DIARY”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の第四話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。また、本篇は本作品集ではなく、雑誌『大西洋評論』(Atlantic Monthly)が初出(調べて見たものの、初出クレジットは不詳)である。

 なお、この前に配されてある田部隆次訳「第三章 門つけ」(原題“A STREET SINGER”)は、底本は異なるが、訳文は殆んど異同がないものを既に電子化注してあるので、そちらを読まれたい。但し、本底本版では田部氏の訳者注が附されてあり、それはリンク先底本ではカットされていたため、今回、追記しておいたので、確認されたい。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎(はやし りんしろう 明治一二(一八七九)年~昭和一四(一九三九)年)は東京帝大での小泉八雲の教え子。語学に堪能で、名通訳と呼ばれた。東京高等師範学校講師・第六高等学校教授を経て、東京高等師範学校教授となった。昭和四(一九二九)年の大学制制定とともに東京文理科大学教授(英語学・英文学)となった。その間、アメリカ・イギリスに二度、留学、大正一二(一九二三)年には「英語教授研究所」(ハロルド・パーマー所長)企画に参加し、所長を補佐して日本の英語教育の改善振興に尽力した。パーマーの帰国後、同研究所長に就任、口頭直接教授法の普及にに努めた。また、雑誌『英語の研究と教授』を主宰、後進を指導した。著書に「英文学に現はれたる花の研究」「英語教育の理論と実際」などがあり、この他、「コンサイス英和辞典」・「同和英辞典」の編集にも当たっている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(二〇〇四年刊)に拠る)。

 各パートの冒頭に配されたクレジットと場所は、底本では下四字上げインデントでややポイント落ちであるが、ポイント落ちで引き上げた。

 銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、小泉八雲は明治二八(一八九五)年四月十五日(月曜)に京都へ家族で旅行に出(随伴者は妻セツ、セツの祖母、長男一雄、女中の梅であった)、『武家屋敷をホテルにした』、先の明治二十五年の単身の京都旅行の際、当時の五高校長であった嘉納治五郎に紹介され、京での定宿とした日光屋に泊まり、翌十六日、十七日と『市内見物をする』。十八日から二十日にかけては『内国勧業博覧会を見物』した。当時、ここに出品された『黒田清輝の「朝妝』(ちょうしょう:一八九三年作。後で注するが、本邦画壇に於ける裸婦画の嚆矢とされるが、後、空襲で焼失、現存しない)『の展示をめぐって、裸体画論が論じられ』ていた(本篇の「四」で小泉八雲も取り上げている)。『二十一日、大極殿、東本願寺を見物』し、四月二十二日に『神戸に帰宅』した。本篇はそれを素材としている。

 本篇は全部で七つのパートに別れるが、紀行記録風に体裁を採っていることから、個人的に纏めて全部を示したい。さすれば、私が気になったもののみの注に留め、今までのような神経症的或いは煩瑣な(私にとって)既注の繰り返し注は極力抑えた(既に何度も繰り返しやってきたショーペンハウエルやハーバート・スペンサーの注や彼らの原拠探しなども今回はやめた)。悪しからず。]

 

      第四章 旅行日記より

 

        

   一八九五年四月十五日 大阪京都間の汽車中にて

 乘合の席で睡氣ざした時、橫になると云ふ譯にも往かぬ場合、日本の婦人はその左の長い袂を顏にあててから坐睡する。今この二等客車の中に三人の婦人が並んで睡つてゐる。何れも左の袂に顏を隱して、列車の動搖と共に一齊に搖れながら、緩やかな流に咲く蓮の花の樣に。(左の袂を使ふことは偶然か、それとも本能によるか、大方は本能によるのであらう。强く搖れる時に右手で吊り革か座席に摑まるに都合がよいから)この光景は美しくも亦可笑しい。が、上品な日本婦人が何をするにも、いつも出來るだけあでやかに氣を兼ねて、品よくすることの例として美はしく見える。それは更にいぢらしくもあある。その姿は又悲哀の姿であり、又時には惱ましき祈りの姿でもあるからである。是は皆、出來るだけ愉快な面もちの外は人に見せまいとする、練られた義務の觀念からである。

 この事で自分の經驗を想ひ起こす。

 長年自分の使つてゐた下男が徒にも快活な男と思はれてゐた。物を言ひかけられると何時も笑つてゐる、仕事をする時にはいつも嬉しさうにしてゐる、人世の面倒などといふものは少しも知らぬ顏に見えた。處が、或る日常人が誰れも側に居るものは無いと思つてゐる時に覗きこんで見ると、彼の氣の弛んだ顏に自分は喫驚した。豫(かね)で見た顏とはうつて變つてゐた。苦痛と憤怒の怖はい皺が現はれて三一十ほども老けて見えた。咳拂ひをして自分の居ることを知らせると、顏は忽ち滑らかに、柔らいで明かるくなつた。若返りの奇蹟でもある樣に。是は實に不斷の沒我的自制の奇蹟である。

 

        

          四月十六日 京都にて

 宿屋の自分の室の前の雨戶が押し除けられると、朝日がぱつと障子に射して、金色の地の上に小さい桃の樹の、くつきりした影を申し分なく描き出した。人間の筆では、瑕令日本の畫家の筆でも、この影繪を凌駕することは出來ない。ほつかりと黃色い地色の上に紺色に描き出されたこの不思議の繪は、目に見えぬ庭樹の枝の遠近に從つて、濃淡の差までも示してゐる。家屋の採光のために紙を用ゐる事が日本の美術に影響したのではないかと思はれる點などを考へさせられる。

 夜分障子だけを閉(た)てまはした日本の家は、大きな行燈の樣に見える。外へ繪を寫す代りに内側へ活動する影を寫す幻燈の樣である。晝間は障子に寫る影は外からばかりであるが、日の出る頃、恰も今朝の樣に、その光線が洒落た庭の上を眞橫に射す時には、その影繪は宜に絕妙である。

 藝術の起原を、壁にさした戀人の影を不用意に寫さうとした事に歸してゐる希臘の昔物語にも決して笑ふべきことは無い。大方一切の藝術的意識は、凡ての超自然の意識と等しく、影の硏究にその抑もの[やぶちゃん注:「そも(そも)の」。]發端を開くいてゐる。然し障子に寫る影は如何にも著しいので、原始的どころか、比類なく發達した、他には說明し雖い、或る日本特有の畫才の說明を暗示する。勿論、如何なる磨硝子よりも影の良く寫る日本紙の特質と、影そのものの特質も考察を要する。例へば、歐米の植物は、自然の許す限り恰好をよくするため、幾百年來の丹精によつて作り上げられた、日本の庭樹の樣な趣のある影繪を寫さない。

 自分は、この室の障子の紙が、寫眞の乾板の樣に、樹に射す日の寫した最初のうましき印象に對して、感受性を持つてゐてくれ〻ばよいと切望する。自分は既に形の崩れたのを憾みとしてゐる。美しき影は間延びを見せ初めた。

 

       

           四月十六日 京都にて

 日本に於て特に美しきものの中で、最も美しきは、高い所にある禮拜、休息の場所に到る途中、卽ち、是ぞといふものも無い所へ往く道路や、何があるといふでもない所に登る石段である。

 勿論、その特別な妙味は、人間の造營と、光や形や色に於ける自然の好氣分とが一致した時の感じで、雨の日などには消えて了ふといつた樣な、折にふれての妙味である。然しこれは、斯く氣まぐれなものであるに拘らず、嘆美すべきものである。

 斯ういふ登り口は、先づ石疊の坂道で、巨木の立ち並んだ、七八丁程[やぶちゃん注:七百六十四~八百七十三メートルほど。但し、原文は“half a mile”。八百四メートル強。]の並木路といつた樣なもので初まる。石の怪獸が合間合間に置かれて道を護つてゐる。つぎに鬱蒼たる樹木の間を登つて更に大きな老樹の陰暗い臺地に出る大きな石段がある。其處からまた。何れも陰に浸つた幾つかの石段を登つては幾度か臺地に出る。登り登つて又更に登ると、漸くにして蒼然たる鳥居の彼方に當の目的が見える。小さな空な木造の祠、卽ち一つの『お宮』である。長い參道の莊嚴[やぶちゃん注:「ここは「さうごん」。]を極めた後、この靜寂と陰暗の高處に於て、斯うして受ける空虛の感じは眞に幽玄そのものである。

 佛閣に對する同樣の經驗は、幾百となく、之を得んと欲する者を待つてゐる。一例として京都市内に在る東大谷の寺域を擧げてもよい。堂々たる並木路が寺院の境内に通じ、境内からは幅員優に五十尺[やぶちゃん注:十五・一五メートル。但し、原文は“feet”で十五・二四メートル。]の、重くるしい、苔蒸した。立派な欄干の附いた石段が、壁を取りまはした墓地へ通じてゐる。その光景はデカメロン時代のイタリヤの遊園地へでも出さうに思はせる。が、上の臺地に着くと、唯だ門があるだけで、その中は墓地である。佛者の庭造りが、一切の榮華も權勢も唯だ斯うした寂滅に到る、といふ事を示さうとしたのであらう。

[やぶちゃん注:京都府京都市東山区円山町の親鸞の墳墓である大谷祖廟(通称は「東大谷」)一帯(グーグル・マップ・データ)。]

 

       

    四月十九日より二十日まで 京都にて

 内國觀業博覽會を觀るのに大方三日間を費やしたが、出品の大體の性質と價値とを鑑識するには中々十分でない。主として工部品であるが、其にも拘らず、あらゆる種類の生產物に驚くばかりに藝術の應用がしてあるので、殆ど皆氣持ちのよいものである。外國商人や自分等よりも烱眼な觀察者は、別な今少し變つた意味を見出してゐる。これまで東洋人が西洋の商工業に與へた最も恐るべき脅威が卽ちそれである。ロンドンタイムズ紙の通信員の所論に『英國に比べると凡てが一片[やぶちゃん注:原文“pennies”「ペニーズ」。後注参照。]に對する一ファージング(四分の一片)[やぶちゃん注:“farthings”。英国の小青銅貨で四分の一ペニーに相当する。一九六一年に廃止されて今はない。]の割である。……日本のランカシヤ(の工業)に對する侵略の歷史は朝鮮支那に封する侵略の歷史よりも古い。それは平和の征服で、事實成功せる無痛除血法である……この度の京都の博覽會は生產的企業に於て更に一大進步をなしたことの證明である……勞働者の賃銀が一週三志[やぶちゃん注:「シリング」。]、其他の生活費も之に準ずるといつた樣な國は、外の事が皆同じでも、一切の費用が日本の四倍に當たる競爭者を滅ぼすに極まつてゐる』とある。確に產業上の柔術は意想外の結果を生ずべきである。

[やぶちゃん注:「一片」[やぶちゃん注:「ペニー」(Penny)。通貨単位のそれ。複数形は「ペンス」(Pence)。但し、ここの原文は硬貨の複数形の“pennies”になっている(これは一ペニーを四分割した後の「ファージング」の関係からか?)。当時は十二ペンスで一シリング(shilling:一九七一年廃止)、二百四十ペンス(二十シリング)で一ポンド(pound)であった。

「ランカシヤ」“Lancashire”。僕らは地理の授業で覚えさせられたじゃないか、嘗ては綿産業で栄えたね。

「三志」本文内時制の明治二八(一八九五)年の為替レートでは、一ポンドは九・六円であったから、三シリングは一・四四円となる。現行価値換算(明治三十年代の一円を二万円に換算する資料に拠る)すると、週給で二万八千八百円。

「確に產業上の柔術は意想外の結果を生ずべきである」「柔術」はママ。比喩である。これについては、先行する本邦来日後の第二作品集で本作品集の前年明治二八(一八九五)年に刊行した“Out of the East”(「東の国から」)の“Ⅶ. Jiujutsu”(第七章 柔術)で語られてある。【2020年1月12日改稿】当該作「柔術」の電子化注を終えた。『小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戸澤正保訳)/その「一」から「五」』と同『その「六」から「九」』を読まれたい。]

 博覽會の入場料も亦意義ある事である。唯だの五錢。然しこの少額でも巨額の收入になりさうである。蝟集する觀覽者の數が如何にも多い。多數の農民が每日京都に押し寄せる。多くは徒步で、巡禮でもする樣に。して又この度京へ上ることは、眞宗の大本山の落成式があつて、事實巡禮なのである。

[やぶちゃん注:最後のそれは東本願寺御影堂の落成式を指す。境内のほぼ中心にある堂で、屋根は瓦葺重層入母屋造。間口七十六メートル、奥行き五十八メートル、高さは三十八メートルあり、建築面積に於いては現在も世界最大の木造建築物で、明治一三(一八八〇)年起工、十五年の歳月がかかった。]

 美術部は一八九〇年の東京の美術展覽會[やぶちゃん注:明治二十三年十一月に開催された「明治美術会」第二回展を指すか。西洋油絵の大規模な展覧会の濫觴の一つである。]に比しては遙かに劣つてゐると思つた。結構なものもあるにはあるが、至つて少い。恐らく全國民が熱心にその精力と技術とを有利な方向に傾注してゐる證左かも知れぬ。現に美術が工業と組み合はされてゐる諸部門――陶磁器、象嵌、刺繡等に於ては、甞て無い精巧貴重な作品が陳列されてゐる。たしかに、そこにあつた幾つかの陳列品の眞價は、『支那が西洋工業の方式を採用したら、世界の市場に於て日本品を驅逐する事にならう』と云ふ、友なる日本人の感想に對する答辯を暗示した。

 そこで自分は答へた。『廉價品に於ては或はさうかも知れぬ。併し日本が製品の廉價なことのみを手緣り[やぶちゃん注:「たより」。]にする必要はない。日本は技術と良趣味とに於ける卓越に手緣る方が一層安全であると思ふ。一國民の技術的天才は安價な努力による如何なる競爭も及び難い特殊な價値を有つてゐる。西洋諸國の中では佛蘭西がその一例である。佛蘭西の富は隣國よりも低廉に生產し得ることに基因しては居らぬ。佛國製品は世界中最も高位である。佛國は奢侈品及び美術品を賣り出してゐる。是等の品物はその類の中で最良品であるが故に、凡ての文明國に於て賣れ行きがよい。日本が極東の佛蘭西となつて惡い筈はあるまい』

 

 美術部の中で殊に貧弱なのは油繪、西洋風の油繪の部である。日本人が日本固有の描法による油繪具で見事な繪の描けないと云ふ譯は無い。然し彼等が西洋の描法に倣はう[やぶちゃん注:「ならはう」。]とする企圖は極めて寫實的な取扱ひを要する習作に於てのみ、僅に平凡の域に達したに過ぎぬ。油繪具による理想畫は、西洋美術の法則に從つては未だ日本人の企及し得る所でない。大方油繪に於ても、將來、西洋の方式を國民精神の特殊の要求に適應せしめて、美の殿堂に入る新門戶を自ら發見することもあらう。が、今の處その樣な傾向は見えぬ。

 大きな鏡に向つた全身裸の婦人を描いた一畫面が公衆の惡感を惹起した。全國の新聞紙はその書の撤囘を要求し、西洋の藝術觀に對しては香ばしからぬ意見を吐いてゐた。然しその繪は日本の畫家の作であつた。それは駄作であつたが、思ひ切つて三千弗といふ値段がついてゐた。

[やぶちゃん注:本文内時制の明治二八(一八九五)年の為替レートでは、一ドルは一・九八円であるから、約六千円で、例の現代価値換算の一円二万円を適応するなら、一億二千万円相当である。]

 自分は少時[やぶちゃん注:「しばらく」と訓じておく。]その前に立つた、この繪の衆人に與へる感興を觀察しようと思つたのである。觀衆の大多數は農民で、驚いて見てはせせら笑ひ、何か嘲るやうな言葉を遺して、十圓乃至三十五圓といふ値段附けでこそあれ、遙かに見ごたへのある掛物の方へ往つて了ふ。その人物が西洋人の髮形をして描いてあつたので、批評は主に西洋の好尙に對して向けられてゐた。それを日本の繪と思ふ者は無いらしかつた。それが若し日本婦人の圖であつたなら、公衆はそんな繪を無事に置く事すらも承知すまいと思ふ。

 繪そのものに對する侮蔑は至當であつた。その作には少しも理想的の所がない。單に裸體の婦人が、人目のある所で仕たい[やぶちゃん注:「したい」。]筈のない事をしてゐる姿を描いたに過ぎぬ。而して唯だ裸體の婦人を描いただけの繪は、どれほど巧みに描けてゐても、藝術が何等かの理想を意味するなら、藝術ではない。その寫實的な所がそれの不快な點であつた。理想の裸體は神聖なもので、超自然なるものに對する人間の想像の中[やぶちゃん注:「うち」。]最も神に近いものであらう。が、裸體の人間は少しも神聖ではない。理想の裸體には何も纒ふことは入らぬ。その美妙さは蔽うたり切つたりすることを許さぬ美しき線から來るものである。生きた實物の人體はさういふ神韻ある線や形を有つてゐない。借問す[やぶちゃん注:「しやもん(しゃもん)/しやくもん(しゃくもん)」。試みに問うてみよう。]、畫家はその裸體より實感のあらゆる痕跡を除去し得るにあらずして、裸體そのもののために裸體を描出して可なりや。

 佛敎の格言に、個體に卽せずして物を觀る者のみ賢なり、と道破したのがある。而してこの佛者の見方こそ眞の日本藝術の偉大をなす所以である。

[やぶちゃん注:ここで小泉八雲が見て批評しているのは、冒頭注で示した黒田清輝(せいき 慶応二(一八六六)年~大正一三(一九二四)年)の「朝妝(ちょうしょう)」(「妝」は粧(よそお)い」の意。原題は“Morning Toilette”)である。裸体画の大作で、ウィキの「黒田清輝」によれば、黒田がパリを去る直前の一八九三年に制作され(黒田は一八八四年から一八九三年までフランスに遊学したが、当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったものが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三及び美術商林忠正に出会い、一八八六年に画家に転向することを決意した)、『パリのサロン・ナショナル・デ・ボザールに出品して好評を得』ていた。日本ではこの前年の明治二七(一八九四)年の第六回「明治美術会」展に出品され、翌年のこの京都で行われた「第四回内国勧業博覧会」に出品されるや、『この作品の出展の可否をめぐって論争となり、社会的問題にまで発展した。当時の日本では本作のような裸体画は芸術ではなくわいせつ物であるという認識があったのである』とある。既に述べた通り、この絵は本邦画壇に於ける裸婦画の嚆矢とされるものであるが、後に太平洋戦争中の空襲によって焼失し、現存しない。同ウィキのカラー写真画像をリンクさせておく。また、この小泉八雲観覧時のシークエンスを髣髴させる、かのジョルジュ・ビゴーの戯画「黒田の裸婦像を見る人々」(原題“La femme nue de M. Kuroda”。「ムッシュ黒田の裸婦」)のそれもあるので同じくリンクさせておこう(フランス人画家・諷刺画家のジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot 一八六〇年~一九二七年)は、明治一五(一八八二)年一月に来日、明治時代の日本で十七年間の長きに亙って活動を行い、当時の日本の世相を伝える多くの絵を残したことで知られる。署名は日本名「美郷」「美好」とも記した。明治三二(一八九九)年六月帰国)。本作のその後の数奇な運命は、テツ氏のブログ「てつりう美術随想録」の「焼けなかったコレクション(5)」に詳しい。それによれば、展覧後、スキャンダルの対象となったこの「朝妝」は、結局、住友家十五代当主春翠の手に渡った。『春翠は』、彼の別荘の『近所で起こったこの騒ぎに注目していたにちがいない。開催期間の終了後、実兄の西園寺公望の勧めで春翠は『朝妝』を買い取ったそうであるが、西園寺と黒田は留学中にすでに知り合っており、便宜をはかってあげたのだという見方もできる』。『また、当時の西園寺が文部大臣であったことを考えれば、政府が主催する内国勧業博覧会において持ち上がった騒動の火種を、身内の個人的なコレクションに収めてしまうことで世間の眼から隠してしまった、といえなくもない。要するに彼の行動は新しい芸術の擁護とも取れるし、巧妙な自己保身とも取れるのである。いずれにせよ西園寺公望とは、よほど頭の切れる男であったらしい』。その後、『黒田の』この「朝妝」は『須磨にあった住友家の別邸に飾られていたため』、空襲により『灰燼に帰してしまったのである(別邸跡は須磨海浜公園になっている)』とある。]

 

       

 斯ういふ考が浮かんだ。

 神聖なる裸體、絕對美の抽象である裸體は觀る者に幾分悲哀を交じへた驚愕と歡喜との衝擊を與へる。美術の作品にして之を與へるものは少い、完全に近いものが少いからである。然しさう云ふ大理石像や寶石細工がある。又『藝術愛好會』で出版した版畫の樣な、其等の作品の精巧な模寫がある。視れば視るほど驚歎の念が深くなる。一つの線でも、その一部分でも、その美が凡ての記憶を超絕してゐないものは無い。それ故斯ういふ藝術の祕訣は古來超自然と考へられた。事實又それが與へる美の觀念は人間以上である。現在の人生以外であると云ふ意味に於て超人間である。卽ち人間の知れる感覺の及ぶ限りに於て超自然である。

[やぶちゃん注:「藝術愛好會」“Society of Dilettanti”。「ディレッタンティ協会/ディレッタント協会(Dilettante Society)のこと。ウィキの「ディレッタンティ協会」によれば、『古代ギリシアやローマ美術の研究、およびその様式による新しい作品制作のスポンサーとなったイギリスの貴族・ジェントルマンたちの協会』。一七三四年に、「グランド・ツアー」(Grand Tour:十七~十八世紀のイギリスの裕福な貴族の子弟が、その学業の終了時に行った習慣的な大規模な国外旅行)『経験者のグループによって、ロンドンのダイニング・クラブ(』『Dining club)として結成された』。『ディレッタンティ協会を最初にリードしたのはフランシス・ダッシュウッド』(Francis Dashwood 一七〇八年~一七八一年:男爵)『で、メンバーの中には数人の公爵もいた。後には、画家ジョシュア・レノルズ』(一七二三年~一七九二年)、『俳優デイヴィッド・ギャリック』(David Garrick 一七一七年~一七七九年)、『作家ユーヴディル・プライス』(Uvedale Price 一七四七年~一八二九年)、古典学者・考古学者であった『リチャード・ペイン・ナイト』(Richard Payne Knight 一七五〇年~一八二四年)『なども参加した』。『メンバーが毎年、たとえば結婚式などで棚ぼた的に得た収入の』四%を『出し合うというシステムで、協会は急速に資金と影響力を増していった』。一七四〇『年代からはイタリア・オペラを後援し』、一七五〇『年代からはロイヤル・アカデミー設立の原動力となった。そのうえ、グランド』・『ツアーを続ける若者たちへの奨学金や』、『考古学』や古典研究者の実地旅行の支援や、『イギリスの新古典主義に大きな影響を及ぼすことになる『Ionian Antiquities』を彼らが出版する際に資金を提供した』とある。ここには記載はないが、考古学的古典的芸術遺物の模造などの指示や資金援助も当然、手掛けたことであろう。]

 その衝擊は如何なるものか。

 それは初めての戀の經驗に伴なふ心的衝擊に不思議にも似てをり、たしかにそれに緣のあるものである。プラトーンは美の衝擊を靈魂が神來[やぶちゃん注:「しんらい」神が乗り移ったかのように、突然、霊妙な感興を得ること。インスピレーション。原文は“Divine Ideas”(「神がかった発想」)。]の思想の世界を半ば想ひ起こすのである、と說いてむる。『この世界に於て彼の世界に在るものの姿又はその類似を見る者は、電擊の樣な衝擊を受け、謂はば己の内より取り出される』ショーペンハウワーは初戀の衝擊を全人類の魂の意志力と說いてゐる。現代に於てはスペンサーの實證心理が人間の感情中最も强烈なものは、その初めて現はれるときに、一切の個人的經驗に絕對に先行するものであると斷言して居る。斯く古今の思想が、哲學も科學も、人間の美に對して個人が初めて深く感ずるのは、決して個人的のものでないことを等しく認めてゐる。

 卓絕せる藝術の與へる衝擊に就いても同じ理法が行はれて差支ない。斯かる藝術に表現せられた人間の理想は、たしかに、觀る者の感情の中に祀られてゐる彼の全人類の過去の經驗、卽ち數へ盡くせぬ先祖等から遺傳した或るものに感銘を與へる。

 數へ盡くせぬとは正にその通りである。

 一世紀に三世代の割として、血族結婚が無かつたとすれば、或る佛國の數學者は、現在の佛國人は何れも紀元一千年代の二百萬人の血をその脈管内に藏してゐる割だと計算して

ゐる。若し西曆の紀元から起算すれば、今日の一人の先祖は千八百京(卽ち一八、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇)といふ總數になる。然も二十世紀間くらゐは、人類生存の期間に比しては何程のものでもない。

 さて美の情緖は、人間の一切の情緖と等しく數へ難き過去に於ける、想像もつかぬ程に數知れぬ經驗を遺傳した產物に相違ない。個々の美的感覺にも頭腦の不思議な沃土に埋もれた億兆不可測の幽玄なる記憶の動めきがある。而して各人は己の中に美の理想を有つてゐる。それは嘗て眼に美しく映じた形や色や趣のありし知覺の無限の複合に外ならぬ。この理想は本質に於ては靜能的[やぶちゃん注:原文は“dormant”。「休眠している」の意。]であるが、潛伏してゐて、想像を對象として、任意に喚起することは出來ぬが、生ける感官が何物か略〻相連らなるものを知覺するときに、突如として點火する。その時彼の[やぶちゃん注:「かの」。]異樣な、悲しくも嬉しい身震ひを感ずる。其は生命の流と時の流との急激な逆行に伴なつて起こるものであつて、そこに百萬年千萬代の感動が一瞬時の感激に總括されるのである。而して己の精神から美の民族的理想を分離して、その漾へる[やぶちゃん注:「ただよへる」。]輪廓を珠玉や石に彫みつける奇蹟を行ふことの出來たのは、唯一つの文明に屬する美術家達、卽ち希臘人のみであつた。彼等は裸體を神聖なるものとして、吾人をして彼等が自から感じたと略〻等しく、その神聖を感せしめずには措かぬ[やぶちゃん注:「おかぬ」。]。彼等がその樣な作をすることの出來たのは恐らくエマースンが提言してゐる如く、彼等が完全な感覺を有つて居たからであらう。確に彼等がその彫像の如く美しかつたからではない。如何なる男も女もそのやうに美しくはあり得ぬ。是だけは確である。彼等は眼や眼瞼や頭や頰や口や頤や胴や手足の、今は亡き美しさの幾百萬とも數知れぬ記憶の複合である彼等の理想を觀取して、之を明瞭に定着したのである。

[やぶちゃん注:「エマースン」アメリカの哲学者・作家・詩人ラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson 一八〇三年~一八八二年)。小泉八雲が指示している作品は不詳。]

 希臘の彫刻そのものが、絕對の個性は存在せず、換言すれば肉體が細胞の複合體なるが如く精神も亦複合體なりとの證據を示してゐる。

 

       

           四月二十一日 京都にて

 全帝國に於ける宗敎的建築の最高の典型が丁度落成した。それでこの殿堂の大都會は、今またありし世紀間にその比を見たとは思はれぬ二大建築を加へた。一つは帝國政府の造營で、今一つは一般庶民の寄進である。

 政府の造榮は大極殿で、この聖都を開かれた人皇五十一代桓武天皇の大祭を記念するために建てたものである。この天皇の英靈に大極殿は奉献されたので、是は神道の社殿否凡ての社殿中最も壯麗なものである。然しそれは神社建築ではなくて、桓武天皇の時代の宮殿をその儘の模寫である。この在來の神社の樣式と脫した大建築が國民の感情に及ぼす影響とそれを思ひ立つた畏敬の念の深き詩趣とは、日本が今なほ祖先の靈によつて支配されてゐることを辨へてゐる者でなくては十分に理解することは出來ぬ。大極殿の建物は美しと云ふも愚かである。日本の都會の中で最も古いこの京都に於てすら、この建物は視る眼を驚かす。筓のついた[やぶちゃん注:「筓」は「かうがい(こうがい)」。髪掻きのそれであるが、ここは隠喩(換喩)の意訳。原文は“their horned roofs”で「角張った屋根群」である。]屋根の反りかへつた線によつて、今とは異つた奇想に富んだ時代の物語を蒼空に語つてゐる。就中、殊に軌を逸して奇拔な點は、二階になつた五つの塔のある門である。宛然支那の奇想そのものである、と人は謂ふであらう。色彩や構造に於ても樣式に劣らず奇拔なのに人目を惹く。それは殊に色交りの屋根に綠色の古代瓦を巧みに用ゐたために一層引き立つてゐる。桓武天皇の英靈も、建築の巫術によつて、過去が斯くも面白く呼びかへされてゐるのを、必らずや喜ばれるに相違ない。

 然し庶民の京都市への寄進は更に偉大である。壯麗なる東本願寺(眞宗)がそれである。西洋の讀者はその建築に八百萬弗の巨資と十七年の歲月を費やしたといふ事で、その結構の一斑を知ることが出來る。唯だ大きさの點では粗末な普請の他の日本建築に遙かに凌駕されてゐるが、日本の寺院建築に通じてゐる者は、高さ百二十八尺奧行百九十二尺長さ二百尺餘[やぶちゃん注:原文は総て“feet”。但し、“There are beams forty-two feet long and four feet thick; and there are pillars nine feet in circumference.”とある通り、ここは数字を尺換算して示してある。和訳のそれぞれをメートルに換算すると(丸括弧内はフィートの換算値)、高さ三十八・七八(三十九・〇一)、奥行き五十八・一八(五十八・五二)、長さ六十・六〇(約六十一メートル)メートル超えで先に示した実際のスケール(高さ三十八、奥行き五十八、間口七十六メートル)を間口を除けば、ほぼ正確に示している。]の伽藍を建てることの苦心を直に悟るであらう。その特殊の形狀、殊に屋根の長大な單線輪廓のために、この本願寺は實際よりも遙かに大きく見える。山の樣に見える。然し何處の國に持つていつても、是は驚く可き建築と見倣されるであらう。長さ四十二尺直徑四尺[やぶちゃん注:これも原文はフィートであるが、数値は同じ。同前で示す長さ十二・七二(十二・八)、直径一・二一(一・二一)メートル。]の木材が使つてある。周關九尺[やぶちゃん注:同前。二・七二(二・七四)メートル。]の圓柱がある。内部の裝飾の性質に就いては、正面の護摩壇の後ろに立てた襖の蓮の花の紬を描くだけに一萬弗かかつた、といふのでも推量出來る。斯う云ふ驚く可き造營が、殆ど凡て、勞作してゐる農民から銅貨で寄附された金でなされたのである。それでも佛敎が滅びつつあると考へる連中があらうとは。

 十萬餘の農民等がこの大落成式を見物に來た。廣庭に幾町步といふほど敷き詰めた莚の上に彼等は幾萬の群をなして坐つてゐた。自分は彼等が午後三時に斯うして待つてゐるのを見た。庭は生ある海と謂つてよかつた。併しその雲霞の群集は、儀式の初まるのを午後七時まで食はず飮まず、日の射す所に待たなければならなかつた。庭の片隅に、何れも白い着物を着て綺麗な白い帽子を被つた、二十人程の若い女の一隊が見えた。どういふ人達かと聞くと、側に居た人が『この大勢が幾時間も待つて居なければならぬから、中には病人も出るだらうと懸念される。そこで看護婦が發病者の手當てをする爲めに詰めて居るのだ、擔架も備へてある、それから運搬人夫も、醫者も大勢居ますよ』と答へた。

 この辛抱と信心とを自分は驚歎した。然しそれらの善男善女がこの壯大な寺院を斯く大切に思ふのは當然である。それは事實彼等自身の作り上げたものであつた、直接にも間接にも。と云ふのは、建築の仕事も少からず寄進の積りで行はれ、分けても大きな棟木などは、遠國の山腹から京都まで、信者の妻や娘の頭の毛で作つた綱で曳いて來たのであつた。その綱の一つで寺の内に保存されてゐるのは長さ三百六十呎餘[やぶちゃん注:百十メートルほど。]、直徑約三吋[やぶちゃん注:「インチ」。約七・六センチメートル。]もある。

[やぶちゃん注:この髪の毛は一部が現存する。「真宗本願寺派東本願寺」公式サイト内のこちらに、御影堂・阿弥陀堂『両堂の再建時、巨大な木材の搬出・運搬の際には、引き綱が切れるなどの運搬中の事故が相次いだため、より強い引き綱を必要としました。そこで、女性の髪の毛と麻を撚り合わせて編まれたのが毛綱です』。『当時、全国各地からは、全部で』五十三『本の毛綱が寄進され、最も大きいものは長さ』百十メートル、太さ四十センチメートル、重さ約一トン『にも及びます。いかに多くの髪の毛が必要とされたかがうかがわれます』。『現在、東本願寺に展示されている毛綱は、新潟県(越後国)のご門徒から寄進されたもので、長さ』六十九メートル、太さ約三十センチメートル、重さ約三百七十五キログラムであるとある。毛綱の写真もある。]

 自分には國民の宗敎心のこの二大記念物の敎訓が、國家の繁營の增進と比例して、その宗敎心の倫理的勢力と價値との、未來に於ける確實なる增進を暗示した。一時財力の減少した事が、佛敎が一時衰運に向つたと思はれることの實際の說明である。外に表はれた佛敎の或る形式は衰亡するに相違ない。神道の或る迷信は自滅するに相違ない。併し、中心の眞理と之に對する認容は、擴まり强まり、國民の心に却つて根ざしを深め、今後國民が入らんとする、更に大なる更に困難なる生活の試煉に對して、力强き覺悟を與へるであらう。

 

       

        四月二十三日 神戶にて

[やぶちゃん注:これは京都旅行から神戸へ帰った(明治二八(一八九五)年四月二十二日)翌日の四月二十三日火曜日に「水産物展覧会」を「和楽園」に見物に行ったのを最終章に附録させたものである。和楽園は現在の兵庫県神戸市兵庫区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった遊園地であった。因みに、この二年後の明治三〇(一八九七)年、神戸の和田岬で行われた、これに続く「第二回水産博覧会」では、会期中の期間限定で本格的な「和楽園水族館」が開かれており(ここに出るのはもっと簡易の水槽展示であろう)、これは濾過槽設備を備えた国内初の水族館とされるものである。現在、神戸市須磨区若宮町に「和楽園展示館」があるが、旧和楽園はここの位置でないと思われる。]

 兵庫で、海に近い庭庭にある魚類其他水產の展覽會を見物した。場所の名は和樂園と呼んで『平和の樂みの庭』と云ふ意味である。風景を象どつた昔の庭園風の段取りで、まことその名にふさはしい。その端を越して廣い灣が見え、小舟に乘つた漁師や、照り榮える白帆の沖行く樣や、遙かの彼方には、地平線を塞いで、紫色に霞む山々の高く美しき群ら立ちが見える。

 澄んだ海水を湛へた色々な形をした池があつて、色の美しい魚が泳いてゐる。自分は水族館に入つた。そこには特に變つた魚類が硝子越しに泳いでゐた。紙鳶[やぶちゃん注:「かみだこ」と読んでおく。凧、というより、烏賊昇りで、小泉八雲が見たのは生体のイカであろうか。]樣な形をした魚や、刀身の樣な形をした魚や、裏返しになつてゐる樣な魚や、袖の樣な鰭振りはえて舞妓の振るまひする、蝶の羽色をした妙な可愛らしい魚がゐた。

[やぶちゃん注:それぞれ種を同定したい誘惑に駆られるが、我慢する。]

 小舟や網や釣針や浮子(うけ)[やぶちゃん注:浮子(うき)のこと。]や漁火[やぶちゃん注:「いさりび」。]のあらゆる種類の模型を見た。あらゆる種類の漁獵法の細圖や、鯨を屠つてゐる[やぶちゃん注:「はふつてゐる(ほうっている)」。体を切ってバラバラにする。]模型と細目も見た。一つの畫面は凄いものであつた。太網にかかつた鯨の死の苦悶と、眞紅な泡の逆卷く中に小舟の躍つてゐる樣、裸な男が一人巨獸の背にに乘り、その姿だけが水平線上に飛び拔けて、大きな魚扠[やぶちゃん注:二字で「やす」と読む。先端が数本に分かれて尖った鉄製尖頭を長い柄の先に附けた魚具。但し、原文は“great steel”であるから、「銛(もり)」の方が相応しい。]を以て鯨を突き制すと。それに應じて血汐の噴水が迸つてゐる圖であつた。自分の側に日本人の父親と母親とが幼い男兒にその繪の說明をしてゐるのが聞こえた。母親は言つてゐた。

 『鯨が死にかかる時には、南無阿彌陀佛と唱へて、佛樣のお助けを願ひますよ』

 自分は別な方へ往つた、そこには馴れた鹿が居たり『金色の熊』が金網の中に飼つてあつたり、烏舍に入れた孔雀も居り、手長猿も居た。自分は鳥舍の傍の茶屋の緣に腰をかけて休んだ。すると捕鯨の圖を見てゐた人達が同じ緣にやつて來た。やがて彼の[やぶちゃん注:「かの」。]小兒が斯う言つてゐるのが間こえた。

[やぶちゃん注:「『金色の熊』」確かに““golden bear””とはあるが、何だろう? 平井呈一氏は恒文社版「旅日記から」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では『ひぐま』と訳しておられる。確かにクマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis には、かなり明度の明るい褐色個体がおり、それを「黄色い熊」とは言うておかしくはないが、この時代に神戸の民間施設でエゾヒグマを飼っていた可能性は私は限りなくゼロに近いように思われる。寧ろ、ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus の中に見られる濃褐色の個体の幼体だと、色が薄く見えて「黄色い熊」と見えるようにも思える。或いは、可哀想に狭い檻の中で飼われて、皮膚病で毛が大半落ち、肌が剥き出しになった病気個体ででもあったのかも知れない。無論、別なクマではない四足獣類の可能性も視野には置かねばなるまいが、如何せん、描写がないので特定は不能である。]

 『お父さん、大變お爺さんの漁師がお舟の中に居ますね。あのお爺さんはどうして浦島太郞見たいに龍宮に行かないの』

 父親は答へた。『浦島は龜を捕へたが、それは本當の龜ぢやなくて、龍宮の王樣のお姬樣だつたから、その龜を親切にした御褒美があつたのさ。あのお爺さんは龜を捕へやしなかつたし、捕へたつて、あんまり年を取つてお婿さんになれやしないから、それで龍宮へは往かなかつたのさ』

 するとその子は花を眺め、噴水を眺め、白帆のある日の常たつた海を眺め、一番先きの紫色の山々を眺めて叫んだ。

 『お父さん、世界中にもつと綺麗な所がありますか』

 父親は嬉しさうに微笑んで、何か答へようとするらしかつた。が、まだ何も言はぬ中にその子は大聲を擧げ、飛び上がつて、手を拍つて喜んだ。孔雀が不意にその見事な尾を擴げたからであつた。皆が鳥舍の方へ馳け寄つた。それで彼の可愛い問に對する答は聞くことが出來なかつた。

 併し後になつて自分はつぎの樣に答へてもよからうと思つた。

 『坊や、これは實に美しいが、世界には美しいものは澤山あるから、之より美しい庭が幾つもあるだらう。

 『併し一番美しい庭はこの世には無い。それは西方淨土にある阿彌陀樣のお庭である。

 『生きてゐる間に惡い事をしない者は誰れでも、死んでからそのお庭に住むことが出來る。

 『そこでは天の鳥の尊い孔雀がその尾を日輪の如くに擴げながら、七階〔七菩提分の意か〕五力の法を唱へる。

[やぶちゃん注:〔 〕は訳者石川氏の訳者注。

「七階」調べて見ると、隋から唐にかけて席巻した都会型の仏教の一派である三階教に「七階仏名(ぶつみょう)経」があり、「仏名経」とは、諸仏の名号を受持しつつ、その功徳によって懺悔滅罪すべきことを説く複数の経典の名である。敦煌出土の「七階仏名経」も存在する。まあ、しかし石川氏の割注もそのような意であろう。

「五力」は「ごりき」と読み、悟りを開く方法である三十七道品(どうほん)の一部で、悪を破る五つの力を指す。信力(心を清らかにする力)・念力(記憶する力)・精進力(善に励む力)・定力(じょうりき:禅定する力)・慧力(えりき:真理を理解する力)の五つ。]

 『そこには玉泉の池〔七寳の池の意か〕があつて、その中に名づけ樣のない美しさの蓮華が咲いてゐる。その花からは絕えず虹色の光と、新しく生まれた諸佛の精靈とが昇る。

 『水は蓮の蕾の間をさざめき流れながら、その花の中に宿る魂に無限の記憶と無限の幻想と四つの無限の感情とに就いて語る。

[やぶちゃん注:「四つの無限の感情」「四無量心」(しむりょうしん)のこと。『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「二」』に既出既注。]

 『そこには神と人との差別が無い。阿彌陀の榮光の前には神々も身を屈め、「無量壽光の御佛」といふ句を以て初まる頌歌[やぶちゃん注:「しようか(しょうか)」。讃歌。]を唱へねばならぬ。

 『併し、天上の河の聲は幾千の人の和讃の樣に、「是れ未だ高しとせず、更に高きものあり。是れ現實に非ず、是れ平和に非ず」と歌つてゐる』

 

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