[やぶちゃん注:本篇(原題“The Story of Ming-Y”。平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)では原拠(本文中の私の注で後述)に則り、『孟沂(もうぎ)の話』となっている)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第二話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。
本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。
訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。
途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。「!」の後には字空けはないが、一部で特異的に挿入した。傍点「ヽ」は太字に代えた。
なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで「黒松使者」)。しかしこれは漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるものであるが、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思って、かくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。
また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。]
Ming-Y 秀才の話
詩人Tching‐Kou は歌つた。『Sie-Thao の墓の上には、必らず桃の花が咲く』
[やぶちゃん注:以上の三字下げはママ。平井呈一氏は上記訳本で、
《引用開始》
詩人鄭谷が諷っている。「桃花マサニ開ク薛濤(せつとう)ノ墳」
《引用終了》
「諷っている」は「うたっている」。「鄭谷」(ていこく 八四二年?~九一〇年?)は晩唐の詩人。宜春 (江西省) の人。八八七年に進士に及第し、官位は都官郎中に至った。字(あざな)は守愚。幼少の時から才名が高く、七歳で作詩したと伝えられる。清新な詩風で。写景・抒情に優れる。七言律詩「鷓鴣 (しゃこ)」がとみに知られ、そこから「鄭鷓鴣」とも呼ばれた。詩集に「雲台編」(全三巻) がある。引用は七言律詩「蜀中三首 其三」の第二句。「漢文委員会」の「紀頌之の漢詩ブログ」のこちらで全文と現代語訳が読める。「薛濤」(七七〇年?~八三〇年?)は知られた中唐の女流詩人。字は洪度。長安の良家の出身であったと言われるが、父が任地の蜀で死んだために妓女となった。詩才により、歴代の地方長官から愛顧され、また元稹・白居易・劉禹錫といった当代一流の詩人らとも交遊があったとされる。八一四) 年に浣花渓に隠棲した。魚玄機とともに唐代女流詩人の双璧とされる。現行の中国語では薛濤は「Xuē Tāo」であるが、次の段落に出る「美しき Sie-Thao」の「Sie-Thao」は彼女のことである。
なお、原本を見ていただくと判る通り、これは添え字(斜体となっている)として挿入されたものである。
さらに言っておくと、上記原本画像を見ると、判る通り、本篇の冒頭の前には(左ページ)、
*
THE ANCIENT WORDS OF KOUEI — MASTER OF MUSICIANS
IN THE COURTS OF THE EMPEROR YAO:—
When ye make to resound the stone melodious, the
Ming-Khieou,—
When ye touch the lyre that is called Kin, or the
guitar that is called Ssé,—
Accompanying their sound with song,—
Then do the grandfather and the father return;
Then do the ghosts of the ancestors come to hear.
*
という添え字が認められるが、落合氏はこれをカットしている。因みに、平井呈一氏も訳していない。思うにこれは、中国古代の理想的聖王の一人である「Yao」(現代中国語:Yáo)=堯(ぎょう)を讃えたものと思われる。何を元にしたのかは判らぬが、所謂、堯の伝承の一つである「鼓腹撃壌」(堯の時代に一老人が腹鼓を打って大地を踏み鳴らしては太平の世への満足の気持ちを歌ったという「十八史略」等に見える故事)に通底している内容と読める。一部の中国語ラテン文字転写がよく分からぬが(後注でその正体を示した)、それをごまかして力技で訳してみると、
*
古代のいやさかの詞(ことば)――堯帝の宮廷に於ける伶人たちによる
あなたが石の楽器「ミィン・キュウ」をメロディアスに響かせたとき、
あなたが「キン」と呼ばれる琴、或いは「ススゥ」と呼ばれるギターをつま弾いたとき、
それらの音(ね)に歌を添えると、
それにつれて、祖父と父が帰って来、
それにつれて、先祖の魂が聴きに来ます。
*
石の楽器「ミィン・キュウ」というのは磬(けい)のことのようにも感じられ、「ススゥ」は不明だが、阮咸(げんかん)琵琶か月琴のようなものであろうか。カットされたのは本篇内容と関係がないからであろうが、訳者としては不当な越権行為である。落合氏は他でもこうした恣意的行動をとっている。]
讀者は彼女――美しき Sie-Thao ――は誰のことだかと私に尋ねるだらう。彼女の石の寢床の上では、既に千年以上も樹木が低語いてゐる。して、彼女の名の綴音は、木の葉のさらさらいふ音に伴はれて、多くの指を有する樹枝の戰くにつれ、明暗の翺翔につれ、數限りなき野花の、女の呼吸の如く芳ばしき息と共に、聽者の耳に達する。が、彼女の名を囁くばかりで、その外に樹木の語ることは解らない。また樹木のみが Sie-Thao の年齡を知つてゐる。しかし彼女については、かの講古人――僅々數錢の報酬を得て、謹聽する群衆に向つて、每夜古い物語を話す有名な支那の講談師――の誰からでも、幾分を聽くことが出來る。『今古奇觀』と題する書からも幾許を知ることが出來る。して、恐らくは該書に載つてゐる話の中で、最も驚くべきは、このSie-Thao の物語である――
[やぶちゃん注:「低語いてゐる」「さやめている」と訓じておく。「ざわざわと音をたてている」の意。
「翺翔」(かうしやう(こうしょう))は本来は「鳥が空高く飛ぶこと」或いは「思いのままに振る舞うこと」の意であるが、ここは陽光の気儘に射すことの擬人化。
「聽者」「きくもの」と訓じておく。
「今古奇觀」(きんこきくわん(きんこきかん))は明代の短編小説集(全四十編)。作者は「抱甕(ほうおう)老人」とするが不詳。明代末の成立と推定されている。最後のハーンの解説にある通り、本篇が素材とした原話は同書の「第三十四巻 女秀才移花接木元」である。中文ウィキソースのこちらで全文が読める。]
五百年前、明の孝宗皇帝の治世に、廣州府に Tien-Pelou といふ博學と恭敬を以て著はれた人がゐた。この人には美しい獨り息子があつたが、これ亦學問技藝並びに風采の優雅に於て、儕輩に比ぶものがなかつた。彼の名は Ming-Y といつた。
[やぶちゃん注:「明の孝宗皇帝の治世」第十代皇帝である弘治(こうち)帝。在位は一四八七年から一五〇五年まで。
「廣州府」現在の広東省広州市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「Tien-Pelou」原拠「古今奇観」に従えば「田百祿」である。なお、ここまでもそうだが、ハーンの中国語のラテン文字表記は現行の表記とは孰れも激しく異なる。但し、いちいちそれは指摘しないこととする。これは本底本の落合氏の「あとがき」の「支那怪談」によれば、自分(落合氏)には中国語の知識が全くないため、このラテン文字表記された中国語を何とか漢字表記に換えようとして、日本の『專門の諸人を煩はし、中華民國靑年會の人々に質ね、支那留学生に問ひ、苦心と奔走を重ねたのであるが、得る處は甚だ乏しかった』とされつつ、『それもその筈、本書は半世紀前の』フランスの『支那學先輩の著譯に據つたので』あって、フランスの『學者は南淸の無敎育者の口から耳にしたま〻の發音を』、フランス『語の綴りにて表現』したものが『多く、『北京官話を學べる邦人には解し難』いだけでなく、これは中国語の激しい変異を持つ地方語に精通している中国人にさえも、実は『見當がつかない』異様な『譯である』と、原表記をそのまま用いたことについての弁解をされているのである。しかし、ハーンの解説によって原拠は概ね明らかにされているわけであるから、原拠と照合すれば、かなりの箇所が漢字表記変換出来たはずなのであるが、落合氏は「あとがき」で、その時間がなかった、というようなことをさらに添えておられる。しかし、中身は拾い読みであったが、私は本篇の原拠である「今古奇観」を大学生の時に知っていた。中国文学専攻の学生ならまず知っている作品集であり、いやさ、国文学の学生でも江戸文学にも多大な影響を与えている作品であるからして知っていて当然である。そういい意味でちょっと真面目な学生なら、その「第三十四巻 女秀才移花接木元」の資料やメモを即座に落合氏に提供するだろう。その辺りがどうも不審で、かなり不満が残るところなのである(但し、事実、校了まで時間がなく、一部が漢字に変換できなかったとすれば、却って全篇全部をかく表記せざるを得なかった――一部が漢字表記で一部がローマ字というのは確かに翻訳の美学としてはいただけないとは言える――というのであれば、やや納得は出来る)。されば、本作品集全体を通じて、私は原拠と思われるもの及び平井呈一氏の訳から、可能な限り、漢字表記を注で復元しようと思う。
「著はれた」「あらはれた」。知られた。
「儕輩」「さいはい」。同輩。]
この靑年が十八の歲を迎へたときに、父の Pelou は Tching-tou の市の督學官に命ぜられたので、Ming-Y は父に伴はれて、そこへ赴くこととなつた。市の附近に、Tchang といつて、政府の特別高等なる委員を務め、富貴の身分の人があつた。この人は子弟のために良師を求めてゐた。新任督學官の到着を聞いて、この件について相談しようと思つて、Tchang は親しく彼を訪ねた。すると、たまたま彼の才藝に長ぜる息子に逢つて、談話を交はしたので、早速子供達のために Ming-Y を家庭敎師として招聘した。
[やぶちゃん注:「Tching-tou」原拠「古今奇観」に従えば「成都」、現在の四川省の省都チョンツーである。ここ。
「督學官」原拠では「敎官」。教育行政監察官で日本の旧視学官相当の役である。
「Tchang」原拠「古今奇観」に従えば「張」である。]
さてこの Tchang 卿の邸は、市から數里を隔つてゐるので、Ming-Y はその聘せられたる家に、寄寓するのが、得策であつた。そこで、靑年は始めての淹留のため、一切必要の品を調へた。して、兩親は彼に別を告げるに當つて、賢い訓誡を與へ、老子並ぴに古聖の言を引用して彼に說いた。
[やぶちゃん注:「數里」原文は“several miles”。一マイルは千六十九メートル。明代の一里は五百五十九・八メートル。但し、原拠には距離は示されていない。後のシークエンスで夜出て、翌朝には帰れる距離であるように書かれてあるから、寧ろ、マイルで換算した方が(六掛けで十キロメートル弱)自然である。
「淹留」(えんりう(えんりゅう))は「長く同じ場所にとどまること」。「滞在」に同じい。]
『美しい顏によつて、世界は愛に滿たもれる。しかし天はそれによつて決して欺かれるものではない。汝もし婦人が東から來るのを見たならば、西の方を見るがよい。もし少女が西から近寄つてくるのを認めたならば、汝の兩眼を東方に轉ずるがよい』
後日に及んで、靑年がこの訓誡を注意しなかつたにしても、それはただ彼の若さと、生來愉快なる心の無思慮のためであつた。
かくて、彼は出立して行つて、Tchang 卿の邸に起臥することとなつた。その中に秋が過ぎ、それから、また冬も去つた。
春の二月になつて、支那人が『花朝』と呼んでゐて、百花の誕生日なる、芽出度い日が近づいた時に、Ming-Y の胸には兩親に逢つて見ようといふ眷戀の情が起こつた。そこで彼は Tchang 氏に其心を打明けた。主人は啻に許可を與へたばかりでなく、また銀二兩を强ひて彼の手に握らせた。それは『花朝』の祝節には、親戚朋友に進物を贈るのが、支那の慣習であるから、靑年をして兩親に何かの土產を持つて歸らせようと思つたのであつた。
[やぶちゃん注:「花朝」或いは「百花生日」「花神節」とも呼び、中国古代からあった伝統的な年中行事の一つ。節日は歴代王朝や地域によって異なったが、普通は旧暦二月十二日か十五日であった。その内容も花の種を蒔いたり、美しさを愛でたりなど、地方によって様々である(四方に広大で気候帯も寒帯から亜熱帯までであるから咲く花も開く日も大きく異なるから当然である)。明代の馬中錫は「宣府志」で、「花朝節、城中婦女剪彩爲花、插之鬓髻、以爲應節」(花朝節には、城内の女性たちが美花を剪(き)って髪に挿し、万物到来の春を言祝ぐ節句とする)と記す(中文ウィキの「花朝節」を参考にした)。
「眷戀」(けんれん)は「愛着の思いに惹かれること・恋い焦がれること」の意。
「啻に」「ただに」。]
その日、空氣は花の香で眠氣を催すやうで、また蜂の唸り聲で振動してゐた。Ming-Y に取つては、彼が今通つて行く道は、多年の間、誰人も踏んだことがないやうに思はれた。草は路上に高く茂つて、兩側の巨樹は、彼の頭上に苔の生えた、大きな腕を交はし、道に暗い陰を作つてゐた。しかし葉陰は鳥の歌でそよそよと搖れ、森の深い奧は黃金色の蒸氣で輝き、寺院が抹香に薰ずる如くに、花の呼吸で芳ばしかつた。この日の夢みる如き樂しさは、靑年の心に浸み込んだ。して、彼は靑紫色の空高く搖れてゐる樹枝の下で、若い草花の中へ身を憇はせ[やぶちゃん注:「いこはせ」。「憩」の異体字。]、芳香と光を吸ひ、心地よき靜閑さを味はうとした。かやうに休息してゐる際、或る物音が彼をして野桃の花呪咲く陰の方に眼を向けしめた。すると、彼は淡紅色の花の如くあてやかな妙齡の一婦人が、花叢[やぶちゃん注:「はなむら」。]の裡に隱れようとしてゐるのを看た。僅かに一瞬間の管見であつたけれども、靑年は彼女の顏の美しさ、彼女の肌の黃金のやうな淸らかさ、蠶蛾[やぶちゃん注:「かひこが」。]が翼を伸ばした如く、優美な曲線を描ける眉毛の下に輝く彼女の長い明眸を認めざるを得なかつた。靑年は直ちに視線を轉じて、急に立上つて、行進を續けた。が、彼は木の葉の間から覗いた雙眸の魅惑的な印象に痛く惱まされたので、覺えず彼の袖に入れてゐた銀貨を落としたほどであつた。數分間の後、彼は背後から走つて來る、輕い跫音と、彼の名を呼ぶ女の聲を聞いた。非常に驚いて彼の顏を振向けると、彼は風采賤しからぬ侍婢を見た。その女は『私の女主人は、貴郞が途上に落としなされた、此銀貨を御拾ひ申して、御返しするやう私に申しました』と彼にいつた。靑年は丁寧に女に禮を述べ、女主人に宜しく傳言して吳れるやう賴んだ。それから、彼は芳香馥郁たる閑けさの間を通り、世に忘れられた路傍に夢みてゐる陰を越えて、進んで行つた。彼自身もまた夢心地になつて、枝が見た美しい女のことを考へて、彼は奇異に、心臟の鼓動が早くなるのを感じた。
靑年が歸途、同じ道を通つて、かの優しい姿が瞬間彼の前に現はれたことのある地點で、再び足を停めたのは、また以前のやうな好天氣の日であつた。しかし今囘、彼は窮りなき樹林の遠い奧に、先きには氣のつかなかつた一軒の家――田舍の住宅の、大きくはないが、非常に優雅な――を認めて驚いた。その灣曲せる、鋸齒狀の二重屋根の輝いた碧瓦[やぶちゃん注:「あをがはら」。]は、樹葉の上に聳えて、蒼空の色と交り合ふやうに見えた。その彫刻を施せる玄關の綠黃色の意匠は、日光を詐びたる葉や花の精巧なる藝術的扮擬[やぶちゃん注:「ふんぎ」。対象(ここは花)に似せて形象してあること。]であつた。して、靑年は大きな陶器の龜を兩側に据ゑたる、階段の絕頂に、女主人が立つてゐるのを見た。彼の熱烈なる空想の女は、彼女に彼の感謝の使命を齎し歸つたのと同一の侍女を伴つてゐた。靑年が眺めてゐると、彼等の眼が彼に注がれてゐるのが認められた。彼等は恰も彼のことを語つてゐるかのやうに、微笑したり、話し合つたりしてゐた。して、内氣な彼も、遠くから美人に向つて會釋する勇氣を得た。彼の驚いたことには、若い侍女は彼に近寄つてくるやう手招きをした。そこで彼は赤い花の咲ける匍匐植物で半ば蔽はれた、田園風の門を開いて、階段の方へ通ずる靑々たる小徑に沿つて、驚異と臆病な喜悅の混ぜる感を抱き乍ら步を進めた。彼が接近すると、美しい淑女は退いたが、侍女は廣い階段に立つて彼を迎へた。彼が上つたとき、侍女は云つた――
『私の女主人は、過日主人が私に命じて致させました些かばかりのことに對して、貴郞が御禮を述べようと思つてゐらつしやるだらうと存じまして、どうか貴郞がこの家へ御入り下さるやうお願ひ申上げます。主人は最早御評判で、貴郞を知つてゐますので、御目にかかりますれば仕合せと存じてゐます』
靑年は羞かみ乍ら入つた。彼の足は森の苔の如く彈力を帶びた、柔かな莚の上に、少しの音をも立てなかつた。應接間は廣やかで、凉しく、新たに集めた花の香に薰つてゐた。心地爽かな閑靜が、家の中に遍く[やぶちゃん注:「あまねく」。]行き渡つてゐた。竹の簀戶[やぶちゃん注:「すど」。竹或いは葭(あし)の茎などで編んだ簾を枠にはめ込んだ透過性のある戸。]から洩れる數條の光の上には、空飛ぶ鳥の影が映つた。燃えるやうな色の翅を有てる[やぶちゃん注:「もてる」。]大きな蝶が入りできて、彩畫を施せる花甁の邊に霎時[やぶちゃん注:「せふじ(しょうじ)」。しばらくの間。「暫時」に同じい。]徘徊して、また神祕な森へ去つて行つた。すると、蝶の如く音も立でずに、この邸宅の若い女主人は、別の戶口から入つて、親切に靑年に挨拶した。靑年は胸へ兩手を上げ、低頭恭敬の鐙をした。女は彼が思つてゐたよりも一層丈が高く、美しい百合の如く纎靭[やぶちゃん注:「せんぢん」。しなやかであるが、丈夫で壊れやすい感じはしないこと。]であつた。彼女の黑い髮には、橘の乳白色の花が組み合せてあつた。靑白い絹の衣裳は、彼女の動くにつれて、色合が移り變つて、恰も水蒸氣が光の變化に伴つて色を遍ずるやうであつた。
兩人が慣例の挨拶を了つて、席に就いてから、彼女は云つた。「失禮ながら、貴客は私の親戚、Tchang 氏の子供達を敎へ下さる、Ming-Y と申す、御方では御座いませんか。Tchang 卿の家族は、また私の家族ですから、あの子供達の先生は、私の親類の御一人としか思はれません』
Ming-Y 少からず驚いて答へた。『恐縮ですが、貴家の御名と、また貴女と私の主人の御親類關係を伺はしていただきたいものです』
『私の家は、Pingと申します』とこの貴婦人は答へた。『Tching-tou の市の古い家柄なのです。私は Moun-hao の Sie と申すものの娘でありまして、矢張り Sie と申します。私はこ〻の Ping 家の Khang と申す靑年に嫁いだのです。その婚姻のため貴郞の庇護者と親類になつたのですが、私の夫は結婚後、間もなく亡くなりましたので、私はこの孤獨の地を選んで私の寡居の間、住居することに致しました』
[やぶちゃん注:「Ping」原拠「古今奇観」に従えば「平」である。
「Moun-hao」原拠「古今奇観」に従えば「文孝坊」である。
「Sie」「Ping」原拠「古今奇観」に従えば「薛」である。
「Khang」原拠「古今奇観」に従えば「康」である。則ち、彼女の嘗ての亡き夫の姓名は「平康」である。
と「寡居」(くわきよ(かきょ))は「やもめ暮らし」のこと。]
彼女の聲には、小川の旋律の如く、泉の囁きの如く、睡眠を催すやうな音樂があつた。またその話し振りには、靑年が嘗て聞いたことのないやうな奇異に優美な趣があつた。しかし彼女が未亡人であると聞いたので、靑年は正式の招待がない以上は、長く彼女の前に留まつて居ることを欲しなかつた。そこで、彼に薦められた一椀の銘茶を啜つた後で、彼は立つて去らうとした。が、Sieは、ほど急に去ることを許さなかつた。
『いや、貴郞』と女はいつた。『どうか、今暫く私の家に御留まり下さい。貴郞の庇護者は、折角貴郞がこ〻に御出になつたのに、私が立派な御客扱ひを致さないで、あの人同樣に御もてなし申上げなさつたといふことを萬一耳にしますれば、さぞ非常に立腹しませうたら。少くとも晩餐まで御留まり下さい』
そこで靑年は留まつた。心中では窃かに欣んでゐた。それは彼女が未だ官嘗て見たことのないほど、美しい女と思はれたからであつた。して、彼は兩親以上に彼女を愛する氣持を感じた。かくて彼等が話をしてゐる内に、薄暮の長い影は徐かに[やぶちゃん注:「ゆるやかに」。]一樣の黑紫色に混じた。夕陽の太い檸檬色の光は、消え失せた。して、人間の生と死と運命を支配する三公註三と呼ばれる星宿は、北の空にその冷かに輝く眼を開いた。邸内には紅燈が點ぜられた。晩餐の食
註三 三公――大熊星座の六個の星が、二つづつ一組となつてゐるのを、支那の占星術者及び神話學者が、かく名づけたのである。この三組は更に大公、中公、小公と區別され、是等は北辰星と共に、天空の法廷を組織し、人の壽命及び運勢を支配する。(スタニスラス・ヂュリアン氏譯「太上感應篇」註による)
[やぶちゃん注:「北辰星」北極星の異称。
「スタニスラス・ヂュリアン」エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)はフランスの東洋・中国学者。コレージュ・ド・フランスの中国学教授。
「太上感應篇」南宋初期に作られた道教の経。善行を勧め、悪行を諫める善書の代表的な書物。作者と正確な成立年は明らかでないが、一一六四年よりも以前の成立である。一八三五年にスタニスラス・ジュリアンが“Le livre des récompenses et des peines”(「良き報酬と悪しき応報の本」の謂いか)として翻訳した。フランス語サイトのこちらで同書原文全文が読める(当該部を探すのは時間がかかるのでやめた。悪しからず)。但し、先行する一八一六年のジュリアンの先任者であった夭折の中国学者アベル・レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat:「大鐘の靈」で既出既注)によるフランス語訳がある。]
卓は設けられた。靑年は食卓の彼の席に就いたが、食べようとする氣はあまりに起こらないで、ただ彼と相對する美貌のことをのみ考へてゐた。彼が皿に盛られたる珍味を殆ど味はないのを見て、女は酒を傾けるやう、若い客に强ひた。して、兩人は數杯を共に飮んだ。それは紫色の酒であつた。酒を注がれた杯が一面に露を帶びる程に冷かであつたが、しかも不思議な火を以て、脈管を溫めるやうに思はれた。飮んで行くま〻に、靑年の眼には、一切のものが魔法による如く、一層輝いてきた。部屋の壁は後退り[やぶちゃん注:「あとじさり」。]して、屋根は高くなるやうに見えた。燈火は吊るせる鎖の上で、星の如く輝き、女の聲は遠く睡げな夜の空に聞える、佳調の如く靑年の耳へ浮かんできた。彼の心は擴大してきた。彼の舌は弛んだ。して、彼が敢然口に發し得ないものと思つてゐたやうな言葉が、彼の脣からら輕く飛んで出た。しかし女は彼を抑制しようとはしなかつた。彼女の脣は一つの微笑をも洩らさなかつたが、その長い明かるい双眸は、彼の讚辭に對して愉快さうな笑ひを見せ、またその熱烈なる欽仰嘆慕の凝視に對しては、愛情を籠めたる注意を以て應ずるやうに見えた。
[やぶちゃん注:「欽仰」(きんぎやう(きんぎょう))は「尊敬し慕うこと」。]
女はいつた。『私は貴郞の非凡の御才能と澤山高尙な技藝に御熟達のことを噂に承つてゐます。氾は格別に音樂を修業致したといふのでは御座いませんが、少しばかり歌ふことを習ひました。折角貴郞のやうな專門のお方が御出下さいましたから、私は御遠慮申上げないで、どうか貴郞に私と共に御歌ひ下さるやう大膽にも御賴み申上げます。また私の樂譜を御調べ戴きますれば、非常に滿足に存じます』
『私こそ光榮と滿足を感じます』と靑年は答へた。『かやうな稀有の御厚意に對しては、感謝の申上げやうがありません』
侍女が小さな銀の呼鐘の響に應じて、樂譜を持つて出でて、また退がつた[やぶちゃん注:「さがつた」。]。靑年は女の手書の譜を取上げて、熱心に檢べた。書いてある紙は、淡黃色を帶び、薄紗の地貿のやうに輕くあつたが、文字は古風な美しさで、恰も黑松使者註四――かの蠅ほどの大いさの墨の精――によつて揮毫されたかのやうであつた。また、その譜に附いてゐる落款は、元稹や、Kao-Pien や、Thou-mou ――唐時代の偉大な詩人や音樂家――のものであつた。彼はかほどの貴重無比の寶を見て、欣然絕叫を禁じ得なかつた。また暫しも手から離す氣になれぬ程であつた。
註四 黑松使者――漢の Hiuan-tsong 帝が或る日、書齋にゐたとき、蠅ほどの小さな道士が、卓上の硯から現はれて云つた。『私は墨の精で、黑松使者といふ名のものです。眞に賢明な人が筆を執ると、その度每に、墨の十二神が墨の面に浮かぶものです。私はこのことを告げるために來ました」モウリス・ヤムテル氏著「支那の墨」(一八八二年、巴里出版)參照。
[やぶちゃん注:「元稹」(七七九年~八三一年)中唐の詩人・文学者。洛陽の人。字は微之。八〇六 年に科挙に及第して左拾遺となったが、権臣に憎まれ、河南尉に左遷された。その後も左遷と昇進を経、八二二年に宰相となったが、半年足らずで浙東監察使に転出し、武昌軍節度使に移って亡くなった。白居易と親交があり、唱和した詩も多く、また、ともに李紳の「新題楽府」に刺激された「新楽府」の創作にも熱心であったことから、「元・白」と並称された。唐代伝奇「鶯鶯伝」の作者でもある。ここは珍しく漢字変換されてある。しかし、以下の二人をローマ字表記にしている以上、前に私が好意的に言った統一性の観点からは逆にこれはおかしいということになる。
「Kao-Pien」原拠「古今奇観」から「高駢」である。高駢(こうべん ?~八八七年)は晩唐の詩人。節度使。字は千里、幽州(北京)の人。禁軍の将校から身を起こし、安南都護・静海軍節度使・天平軍節度使・西川節度使・荆南節度使を歴任して功績を挙げた。「黄巣の乱」に際しては、浙東へ侵攻する黄巣軍を撃破し、一時的であったが、福建・広東方面への転進を余儀なくさせ、官軍の総帥となった。しかし後、揚州に居すわったままとなり、長安を占拠した黄巣軍の討伐には積極的ではなかった。
「Thou-mou」原拠「古今奇観」から「杜牧」である。晩唐の著名な詩人杜牧(八〇三年~八五二年)は京兆万年 (陝西省西安市) の人。字は牧之。号は樊川 (はんせん) 。祖父は制度史書として知られる「通典」(つてん)の編者杜佑(とゆう)であった。八二七年に進士に及第して弘文館校書郎となり、比部員外郎を経て、八四二年、黄州刺史に転じた。以後、池州・睦州などの刺史を務め、中央に戻って中書舎人に昇任したが、まもなく没した。生来剛直で「阿房宮賦」を作って敬宗を諌めたり、「孫子」の注を書くなど、政治・兵法にも強い関心を持っていた。唐王朝の退勢挽回を図ったが、努力が実らぬまま、妓楼に遊ぶことが多くなった。晩唐らしい感覚的・退廃的な詩を残し、李商隠とともに「李杜」と並称され、杜甫に対して「小杜」とも呼ばれる。
「黑松使者」唐の筆記録「陶家瓶餘事」に、
明皇御案墨、一日見小道士如蠅、呼萬歲。曰、「臣、墨之精、黑松使者也。凡世有文者、墨上有龍賓十二。上神之、乃以分賜掌文官。」。
とある。「明皇」とは玄宗皇帝の別名である。ここの出る「漢の Hiuan-tsong 帝」を漢ではなく、唐とすれば(原文では“Thang dynasty”で、漢は現行で「hàn」なのに対して「唐」は「Táng」である)、玄宗を現在の拼音で示すと「Xuán zōng」であるから、それっぽい。昔から好きなサイト「寄暢園」のこちらには、唐の滅亡後の五代の後唐に馮贄によって編せれた「雲仙散録」の邦訳が載り、
《引用開始》
『陶家瓶餘事』に言う。
玄宗が使用する墨は「龍香剤」と呼ばれていた。
ある日、玄宗は墨の上に動き回る物を見つけた。蝿かと思ったが、よく見てみるとそれは小さな道士であった。玄宗が叱りつけると、小道士は諸手(もろて)を上げて、
「万歳!」
と叫んだ。そして、こう言った。
「臣は墨の精、黒松使者でございます。およそ文ある者の墨には龍賓(りょうひん、注:墨の神)が十二人おります」
玄宗は霊妙なことと思い、この墨を文官に分け与えた。
《引用終了》
とあるから、間違いなく唐の玄宗の逸話である。なお、本篇末に配された漢語画像はこれである。
「モウリス・ヤムテル」モーリス・ジャメテル(Maurice Jametel 一八五六 年~一八八九年)はフランスの外交官で中国学者。
「支那の墨」原文“L'Encre de Chine”(「中国の墨」)。]
彼は叫んだ。『これは實に帝王の寶に勝さるほど貴重なものです。これこそ私共の生れない五百年の前に、歌つた諸大家の書です。よくも立派に保存されたものです! これはあの有名な「幾世紀後も石の如く堅く殘り、文字は漆の如くならむ」と云はれた墨ではありませんか? また、何といふこの譜の絕妙でせう! 詩人中の王で、五百年前四川省の刺史であつた Kao-pien の歌です』
[やぶちゃん注:「Kao-pien」は先に出た高駢。彼は西川(四川省西部)節度使であったことがあり、節度使は居城(会府)の州の軍事長官である刺史をも兼任し、軍・民・財三権を握る独立軍閥的存在であった。]
『Kao-pien! 好きな Kao-pien!』と女は眼に奇異な光を湛へ乍ら呟いた。『Kao-pien はまた私の愛好作家です。貴郞と諸共に、彼の詩を古曲に合はせて歌ひませうよ――もつと今日よりは、人々が氣高くて賢かつた頃の音樂ですね』
それか樂ら、彼等の聲は相合して、流暢なる美はしい音となつて、芳ばしい夜の中に鳳凰註五
註五 鳳凰――この寓意的の鳥に、幾分亞剌比亞[やぶちゃん注:「アラビア」。]の不死鳥(フヰーニツイクツス)と對應するのであるが、高五キユービツト(一キユービツトは十八吋[やぶちゃん注:「インチ」。]乃至二十二吋)、五色の羽毛を有し。五音の變調に歌ふと稱せられる。雌鳥は不完々なる調子で歌ひ、雄鳥は完々に歌ふ。鳳凰は支那の音樂に關する神話や傳說によく現はれてゐる。――(不死鳥は唯一無二の鳥で、亞刺比亞沙漠に於て六百年間生活する每に。埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]國ヘリオポリス市に行つて自ら身を燒き祭壇の灰と化し、それたら再び其灰燼中から、若返つて美しい姿を以て蘇生し、更にまた六百年を經る。かくして轉𢌞轉生、極まることなしと稱せられる。――譯者)
[やぶちゃん注:丸括弧部分は河合氏による訳注である。
「鳳凰」私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう)(架空の神霊鳥)」を参照されたい。
「キユービツト」cubit(英語:キュービト)は古代(紀元前六千年頃にメソポタミアで生まれたとされる)より西洋の各地で使われてきた長さの単位。今日、キュビットを日常的に使用している文化は存在しないが、宗教的な目的、例えばユダヤ教などでは現在でも使われている。落合の「一キユービツトは十八吋乃至二十二吋」というのは、四十五・七~五十五・八センチメートルに相当する。時代や使用した民族によって微妙に異なるが、四十九センチメートル前後であるようである。詳しくはウィキの「キュビット」を参照されたい。
「ヘリオポリス市」(ラテン文字表記:Heliopolis)は現在のカイロ近郊に存在した古代エジプトの都市。よく知られている都市の名はギリシャ人によって名づけられたもので、ギリシャ語で「ヘリオスの町=太陽の町」という意。古代名では「Iunu」(イウヌ)或いは「On」(オン)と呼ばれていた。ここはヘルモポリスと並んで古代エジプトの創世神話の中心地として有名である、とウィキの「ヘリオポリス」にある。]
の聲の如く立騰つた[やぶちゃん注:「たちのぼつた」。]。しかも、間もなく、靑年は彼の伴侶の聲の魅力に壓せられて、唯無言恍惚のま〻、聞き入つてゐるばかりであつた。同時に室の燈光は朦朧となつて波動する如く見え、愉快の淚は双頰を傳つて流れた。
かやうにして夜の時刻は移つた。それでも猶ほ彼等は話をつゞけ、冷たい紫の酒を飮み、唐代の歌を歌ひ乍ら夜を更かした。彼が立たうとしたのは、一たびではなかつたが、その度每に女は、銀のやうに甘美な彼女の聲で、昔の大詩人達や、また彼等が愛した女の話を始めたので、彼は魅せられたやうになつた。また彼女は非常に珍異怪奇な歌を歌つたので、聽覺の外、彼のあらゆる感覺は死んで了つたやうであつた。たうとう彼女が歌を止めて、彼の健康のために祝杯を學げた時、靑年は彼の腕を彼女の頸に捲きつけ、彼女の纎弱な頭を彼の方に引きよせて、酒よりも赤くて、甘き彼女の雙脣に接吻することを堪へ得なかつた。すると、彼等の脣は最早離れなかつた――夜は更けて行つたが、彼等はそれを知らなかつた。
鳥は目醒め、花は朝暾[やぶちゃん注:「てうとん(ちょうとん)」。朝日。]に眼を開いた。して、靑年はいよいよ彼の可愛らしい妖術者に別れを告げねばならなかつた。女は玄關の壇まで伴いて行つて、懷たしげに接吻して云つた。『どうか、なるべく度々御出下さい。貴郞は祕密を洩らすやうな、信實のない人達と違つてゐることを、私は存じてゐますが、でも、まだお若いから、時としては御注意の足らぬこともありませう。どうは、私共の愛は、ただ空の星が知つてゐるだけだといふことを御忘れ下さいますな。誰人[やぶちゃん注:二字で「たれ」と訓じておく。]にも御話しをしてはいけません。それから、私共の幸福の夜の紀念として、この小さなものを御持ち下さい』
かく云つて、女は精巧珍異の小さな品――孔夫子を崇めて、虹が作つたやうな、黃色の硬玉註六で、蹲踞せる獅子の形に作れる文鎭を――彼に呈した。靑年はやさしく、その贈物とそれを與へた美しい手に接吻して、『もし貴女が私を叱責下さるやうなことを、私が知りつゝ犯しますれば、神罰覿面です』と誓つた。して、彼等は互に誓を交はして別れた。
註六 硬玉――碧玉の一種である。藝術的材料として、常に珍重せられ、支那人は yuh と稱してゐる。「感應篇」に、孔子が孝經を完成してから、天を拜した時、深紅の虹が空から降つて、彼の足下で一片の黃色硬玉と變つたといふ珍らしい傳說がある。スタニスラス・ヂユリアン氏譯四九五頁參照。
[やぶちゃん注:「硬玉」翡翠 (ひすい) 。
「感應篇」註三で既出既注のフランスの東洋・中国学者エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)の一八三五年刊の「太上感應篇」の訳“Le livre des récompenses et des peines”のこと。
「孝經」十三経の一つで、長くは、孔子の作ではなく、孔子が曾子に対して孝について述べたものを曾子の門人が記録した書とされてきたが、最近の研究では戦国時代の偽作とされる。全一巻。儒教の根本理念の「孝」について、その徳たる所以や実践の具体的内容などを述べたもの。]
その朝、Tchang の邸にへ歸つてたら、彼は生まれてから始めての虛言を吐いた。今や氣候も頗る惡くなつたから、母は彼にこれからら夜間自宅に泊つて吳れるやう求めたと告白し、道程は幾分遠いが、彼は强壯活潑であるし、新鮮なる空氣と健康なる運動が必要であると云つた。Tchang は、すべて彼の言を信じ、何等の異議を挿まなかつた[やぶちゃん注:「さしはさまなかつた」。]。そこで、靑年は夜間を美しい Sie の家で過ごすことが出來るやうになつた。每夜彼等はその初會を愉絕快絕たらしめたと同じ娛樂に耽つた。彼等は交る交る歌つたり、物語をした。彼等は碁を圍んだ―― Wang-Wang によつて發明された深遠なる遊戲で、戰爭の模擬である。彼等は花、樹木、雲、鳥、蜂について八十韵[やぶちゃん注:「ゐん」。詩賦・歌曲の総称。]の詩を作つた。が、すべての技藝に於て女は遙かに彼女の若き愛人を凌駕した。圍碁の際には、いつも彼の王將が包圍を受けて敗れた。詩作に當つては、女の詩は詞彩の調和、形の優美、想の古典的高尙に於て、彼のよりも常に勝つてゐた。して、彼等の選んだ題は、いつも最も難かしいものであつた――唐時代の詩人のものであつた。彼等が歌つた歌もまた五百年前のもの――元稹や、Thou-mou や、就中、名詩人で、四川省の刺史であつた Kao-pienの歌であつた。
[やぶちゃん注:「Wang-Wang」伝承では囲碁は聖王堯・舜が発明して息子たちに教えたとする。実際の文献上の初出は「論語」や「史記」である。このような話を私は寡聞にしらないが、この「Wang-Wang」というのは周の武王(拼音:Wǔ Wáng)であろう。平井氏もそのように訳しておられる。]
かやうにして、彼等の戀の上に夏は榮えて、また衰へ、それからら、幻ろしの黃金のやうな霧と、不思議な紫色の影を伴へる、輝ける秋が來た。
すると、偶然彼の父が、その子の主人に逢つたとき、質問を受けた。『最早冬も近くなつたから、貴下の息子さんは每夕市の方へ陷つて行くに及ばないではありませんか。道中は遠くもあるし、それに朝歸つてきた際には、疲れ果てたやうに見えます。雪の降る季節の間、なぜ私の家へ泊らせないのですか』彼の父は非常に喫驚して[やぶちゃん注:「びつくりして」。]、答へた。『閣下、愚息は市へも出でで參りませぬ。また此夏中、私共の宅へ參つたこともありません。多分惡習に陷まして、よからぬ友達と夜を過ごすので御座いませう――恐らくは賭博とか、或は花舫[やぶちゃん注:花街で船を根拠地とした遊女たちの集まる場所の意と思われる。]の女と酒を飮むのではありますまいか』しかし長官は答へた。『いや、そんなことは思ひもよらぬことです。私は未だ嘗て、あの靑年に何等の惡弊を發見しないのです。また、私の附近に酒舖や花舫や道衞の場所とてはありません。屹度同年配の愉快な友達を得たので、それと夜を過ごすために、さもなくば遊びに行くことを私が許さないと思つて、虛僞を云つたのでせう。どうか私が此祕密を發見し得るまでは、彼に何も云はずに置いて下さい。して、今夜私は家僕を遣はして、彼の彼を蹤けさせ[やぶちゃん注:「つけさせ」。]、行先を注意させますたら』
父は直ちにこの提議に同意し、翌朝この提儀に同意し、翌朝 Tchang を訪ねることを約して、家へ歸つた。夜になつて、靑年が邸を出でて行くと、一人の僕が見えないやうに、遠くから彼についで行つた。しかし道の最も暗い處に達してから、靑年は宛然土地に吞み込まれたかの如く、忽然姿が見えなくなつた。長い間、彼を搜索しても無効であつたので、僕は非常に當惑して歸つてきて、そのことを報告した。Tchang は直ちに Pelou の許へ使を遣はした。
一方、靑年は愛人の室へ入ると、彼女が淚を流してゐるのを見て、驚き、且つ困つた。女は彼の頸に兩腕を捲きつけて、咽びながら云つた。『私共は永遠に分たれねばならぬことになりました。その譯は貴郞に云へません。抑もの始めから、私は斯うなるものとは知つてゐました。しかしそれで、も暫くの間は、私にはあまりにも殘酷な損失、あまりにも案外な災難と思はれまして、泣かずには居られないのでした。今晚限りで私共はお互に復た迄ふことはないでせう。して、貴郞は一生私をお忘れ下さることは出來ないだら5うと存じますが、また貴郞は大學者になつて、富貴を授けられ、それたら、或る美しくて、貴郞を愛する女が、私を失ひになつたのに對して、貴郞を慰めるだらうと存じます。で、最早悲しいことはお互に語らないで、この最役の晚を愉快に過ごしませう。さうして、私の思ひ出が貴部郞に取つて、心苦しくならぬやう、また貴郞が私の淚より私の笑ひを記憶して下さるやう致しませう』
彼女は淚の玉滴を拭ひ去り、酒と樂譜と絹糸の七絃琴註七を持出でて、彼をしで瞬間も、やがて來たらんとする別離のことを話させなかつた。して、彼女は夏の湖水が唯碧空のみを映ぜる靜けさと、憂慮悲哀の雲影が心の小さな世界を暗くしない前に於ける、胸裡の沈着平穩を詠ぜる古歌を彼のために歌つた。間もなく、彼等は歌と酒の喜悅に悲しみを忘れた。して、その最終の數時間は、彼に取つては彼等の最初の幸福の折よりも、更に無上のものに思はれた。
註七 琴 Kin ――支那の樂器中、最も完全なもの。「愚者の琵琶」とも稱せられる。Kin といふ語は、また「禁」を意味する。支那人の信仰によれば、音樂は一邪念を去つて人間の情を、正しくする」から、このやうな名をこの樂器に與へむのだと云はれてゐる。ウヰリヤムス氏著「中國」參照。
[やぶちゃん注:「ウヰリヤムス」アメリカの言語学者・外交官・宣教師・中国学者サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams 一八一二年~一八八四)か。中国名「衛三畏」。「中國」は一八九四年刊の“The middle kingdom”であろう。但し、「琴」の語源がハーンの謂うようなものであることには私は留保する。]
が、麗らかな黃色の朝が來ると共に、彼等の悲しみは歸つてきて、兩人は泣いた。再び彼女は愛人を送つて階段まで行つて、別れの接吻をした。その際、彼の掌中へ別れの贈物を押し込こだ――それは瑪瑙の小さな筆筒であつた。驚くべき彫刻が施され、堂々たる詩宗の卓を飾るに適はしいものであつた。かくて、彼等は幾多の淚を灑いで、永久に別れた。
しかし靑年は、それを永遠の別れと信ずることが出來なかつた。彼は『否、明日は彼女を訪問しよう。私は彼女なくては生きて居られないし、また、彼女は屹度、私を迎へることを拒絕し得ないだらう』と考へた。こんなやうな考へに滿たされ乍ら、彼が Tchang の家に達すると、彼の父と彼の庇護者が、玄關に立つて待ち設けてゐるのを發見した。彼がまだ一語を發し得ない内に、父は詰問した。『其方は此頃每夜、何處で泊つてゐたのだ』
彼の虛僞が露見したのを知つて、彼は何等の答をも敢てしなかつた。彼は父の面前で、頭を垂れ、赤面無言のま〻であつた。すると、父は杖を以て激しく彼を鞭撻して、祕密を打明けるやう命じた。たうとう一つには父に對する恐怖と、また一つには『父に違背する子は、百囘の鞭撻を以て罰すべし』と規定せる法律を恐れて、彼は彼の戀愛の歷史を口籠りながら述べた。
Tchang は靑年の物語を聞いて、顏色を變へた。彼は呼んで云つた。『私の親戚に Ping といふ名はない。君が說明したやうな女のことを私は聞き及んだこともない。しかし、君は家大人に虛言を吐く氣にはなれまい。どうも、この事件には奇異な疑はしい點がある』
そこで靑年は、女が彼に與へた財物――黃色硬玉の獅子、瑪瑙に彫刻せる筆筒、また美姬の創作にかかる詩――を示した。Tchang が驚くと共に Pelou も驚いた。二人とも瑪瑙の筆筒と硬玉の獅子は數百年も地中に埋れた趣を有することと、現代の工匠の模し得ない技巧なることを認めた。加ふるに、詩は唐代の詩風で、眞に傑作であつた。
Tchang は叫んだ。「Pelou 君、私兵は察刻令息を伴つて、是等の不思議なものを得た場處へ行つて見て、私共で實際を調べて見ませう。屹度、令息は眞實を話してゐるのでせうが、私の腑に落ちないのです』して、三人相携へて Sie の住家の方へ赴いた。
が、彼等が道中の最も木蔭の多い場所、蘚苔[やぶちゃん注:「こけ」と訓じておく。無論、広義のコケ・シダ類である。]が最も芳ばしく、蘚苔が最も綠色を呈し、且つ野桃の呆賞が最も紅く輝いてゐる場所へ達したとき、靑年は森七廷して凝視して、驚愕の叫を發した。碧瓦の屋根が高く聳えてゐた處には、今は唯靑い空虛があるのみで、綠黃色の家の正面が見えてゐた處には、輝いた秋の光りの下に、唯木葉のちらちらするのみであつた。して、廣い壇が延長してゐた處には、唯古色蒼然、蘇苔に深く蝕せられた一個の癈墳が、認められるのみであつた。その上に刻まれた名は、最早讀むことが出來なかつた。Sie 家は失せてゐたのであつた。
突然 Tchang は手を以て額を叩き、Pelou の方に振今向いて昔の詩人、Tching-Kou の有名な持を誦した――
[やぶちゃん注:「Tching-Kou」冒頭に配された詩句の作者鄭谷である。]
『Sie-Thao の墓上には必らず桃の花が吹く』
彼は續いて云つた。『Pelou 君、令息を魅惑した麗人は、私共の眼前にその墓が立つてゐる彼女に相違ない。彼女は Ping-Khang に嫁ついだと言つたではないか。そんな名の家族はないが、それは實際近く市中にある廣い橫町[やぶちゃん注:主道路の左右に付属する横町の意。]の名です。彼女の云つたすべてのことには、暗黑な謎があつた。彼女は自身を Moun-Hiao の Sie [やぶちゃん注:先に示した通り、原拠の「文孝坊の薛」のことである。]と稱した。そんな人名はない。そんな町名もない。しかし Moun [やぶちゃん注:平井氏は『文』とする。]といふ字と hiao [やぶちゃん注:平井氏は『孝』とする。]といふ字を合はせると、Kiao [やぶちゃん注:平井氏は『教』とする。]といふ字になる。お聽きなさい! Kiao 町にある Ping-Khang といふ橫町は、唐時代の名妓輩の住んでゐた處でした。彼女は Kao-Pien の詩を歌つたのではありませんか。それから、彼女は贈つた筆筒と文鎭には、「Oho-hai 府の Kao 所有の淸翫品」[やぶちゃん注:平井氏は『渤海府、所蔵の清玩品』とある。]といふ文字が刻まれるではありませんか。その府は最早存してゐないが、詩 Kao-Pien の思ひ出は殘つてゐます。彼は四川省の勅史であつて、また一大詩人でしたから。且つ彼が Chou [やぶちゃん注:平井氏は『蜀』と訳しておられる。旧蜀は現在の四川省、特に成都付近の古称である。]の地にゐた時は、彼の寵幸[やぶちゃん注:「寵愛」に同じい。]したのは美しい游妓 Sie ――當時のあらゆる女の中で優雅無雙であつた Sie Thao ――ではありませんでしたか。あの詩稿を彼女に贈つたのは、彼なのです。あの珍重すべき美術品を彼女に與へたのも彼なのです。彼女は死んでも他の普通の女達とは違ふのです。彼女四肢は、灰燼に歸したのでせうが、まだこの深林の中に、何か彼女のものが生きてゐます――彼女の幽靈が依然この森蔭の地に彷徨してゐるのです』
Tcnang は言葉を止めた。漠然いひやうのない恐怖が三人を襲つた。薄い朝霧が、綠色の遠景を朦朧たらしめて、森の怪凄なる美を深めた。一陣の力なげな微風が吹いて、花香の尾を曳いて去つた――枯死せんとする花の最後の薰り――忘れられた衣裳の絹に縋り附く衣薰の微かな名殘りであつた。して、それが過ぎ去る時、樹木は沈靜を破つて、『Sie-Thao』と囁くやうに思はれた。
息子のため、痛く心配して、Pelou は直ちに彼を廣州府にかへした。その土地で、後年 Ming-Yは彼の材能と學問のために榮位髙譽を得た。して、彼は名門の女を娶つて、德藝共に有名なる兒女達の父となつた。彼は決して Sie-Thao を忘れ得なかつた。しかし決して彼女のことを口にしなかつたとのことである。たとひ兒女達が彼の書机にいつも載つてゐた二個の美麗な品――黃色硬玉の獅子と瑪瑙の彫刻の筆筒――の物語をするやう求めることがあつても。
黑松使者
【ハーンによる「解說」】
『Ming-Y 秀才の話』――私のこの話は『今古奇觀』といふ有名なる物語集の第三十四章にある妖怪談に基いて書いたもので、もと博學なるグスタフ・シユレーゲルによつて、初めて該書の第七章と第三十四章は佛譯されたのであった。シュレーゲル、ジユリアン、ガードナー、バアーチ、ダントルコル、バーアチ、ダンドルコル、レミユデ、パヴィー、オリファント、グリゼバッハ、エルヴエ・サン・ドニー、その他の諸家が、該書の第二、三、五、六、七、八、十、十四、十九、二十、二十六、二十七、二十九、三十、三十一、三十四、二十五、三十九章、合計十八篇を歐洲語に譯出してゐる。支那の原著は十三世紀に遡つてゐるが、既に當時に於て最も人口に膾炙してゐた說話を集めたのだから、その多くは更に古い起原に屬するものと思はれる。『今古奇觀』には四十個の物語が載つてゐる。
[やぶちゃん注:「グスタフ・シユレーゲル」オランダの東洋学者・博物学者グスタフ・シュレーゲル(Gustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年)。ライデン大学中国語中国文学講座の初代教授。
「ジユリアン」既出既注のフランスの東洋学者で十九世紀フランスの代表的な中国学者として知られるエニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)。
「ガードナー」原文“Gardner”。不詳。検索したが、ピンとくる人物がいない(以下の「不詳」は同前)。
「バアーチ」“Birch”。不詳。
「ダントルコル」“D'Entrecolles”。フランソワ・ザビエル・デントレコール(François Xavier d'Entrecolles 一六六四年~一七四一年)。中国名「殷弘緖」。イエズス会司祭で中国に伝道し、陶磁器の研究を行った。
「レミユデ」“Rémusat”。フランスの中国学者ジャン=ピエール・アベル=レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat 一七八八年~一八三二年)。
「パヴィー」“Pavie“。既出既注。フランスの旅行家・作家・東洋学者であったセオドア・マリーパヴィー(Théodore Marie Pavie 一八一一年~一八九六年)。
「オリファント」“Olyphant”。不詳。
「グリゼバッハ」“Grisebach”。不詳。
「エルヴエ・サン・ドニー」既出既注。フランスの中国学者マリー=ジャン=レオン・マーキュ・デ・エルヴェイ・ド・サンドニ(Marie-Jean-Léon Marquis d'Hervey de Saint Denys 一七八〇年~一八四四年)。
私は正直、このハーンの作品以上に原拠「今古奇観」の「第三十四巻 女秀才移花接木元」(中文ウィキソースの原拠では相聞される詩篇も載り、雅ではあるけれども)を愛恋々に静かに訳しうる日本の詩人は向後も登場しないではないかと感じている(私はこの漢文を訳せる能力を持ち合わせていない。されば、長い原文を示すこともしないし、況や訳を示すことは出来ない。悪しからず)。しかし、パトスののっぴきならない要求を持たない似非作家ばかりのこの現代には――]