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2020/01/11

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戸澤正保訳)/その「一」から「五」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“JIUJUTSU”)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の第七話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。なお、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)を見ると、明治二十七年六月に原「柔術」の原稿は出版社に発送されたらしいが、翌七月に原稿が返送されてきたらしい。どうも出版社側がクレームをつけて「これでは出版出来ない」と言ってきたらしいのである。銭本氏曰く、『開港地やキリスト教にかかわる部分に問題があったのではないか』と思われ、ハーンは『「改作する」と伝えている』とある。それに加えての最後の大幅なハーンの追加注を考えると、すこぶる難産な作品であり、同時に彼がどうしても発表したかった作品でもあったということが判るのである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 訳者戶澤正保は前の「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)」を参照されたい。

 最初の引用はややポイント落ちで全体が六字下げであるが、三字下げで連続して二行で示されてあるが、ブラウザの不具合を考慮し、複数回、改行を施し、最後の書名も引き上げて同ポイントとした。また、同文は訓点附きであるが、「也」を前の送り仮名として「ヤ」で送ったりしているため、特異的に白文で示し、後の注で訓読文を示した。原注は全体が四字下げ有意にポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて同ポイントで示し、注や引用の前後を一行空けた。九章とやや長いので、二つに分割する。]

 

  柔  術

 

   人之生也柔弱。其死也堅强。

   草木之生也柔脆。其死也枯稿。

   故堅强者死之徒。柔弱者生之徒。

   是以兵强則不勝。木强則折。

            『老子道德經』

[やぶちゃん注:「老子道德經」は「老子」の異名である。引用は同書の第七十六章であるが、末尾の、

   强大處下。柔弱處上。

の二句が何故かカットされている。以下では、その最後の部分も添えて、それ以外は概ね底本の訓点に従い、訓読文を示す。一部で句点を読点に代え、さらに読点と送り仮名及び歴史的仮名遣で読みを追加した。底本のそれを確認されたい方はこちらである

 人の生(しやう)ずるや、柔弱なり。其の死するや、堅强なり。草木の生ずるや、柔脆(ぢふじやく)なり。其の死するや枯稿(こかう)す。故に、堅强は死の徒(と)、柔弱は生の徒。是れを以つて、兵(へい)、强きときは、則ち、勝たず。木、强きときは、則ち、折れず。强大なるは下に處(を)り、柔弱なるは上(かみ)に處る。

「兵」は「武器」の意であり、それが「硬い」時は「勝てない」とは、「ただ無暗に智を欠いた力ずくでは戦いに勝つことは出来ない」の謂いであろう。パラドキシャルな老荘思想の絶妙な比喩であるが、私はこの引用を冒頭に置いた真の深奥の理由は、ハーンが絶大なる信頼を置いた進化論から考えると、弱肉強食の原則は単なる表面的な見かけ上のものでしかなく、自在に柔軟であり続けることによる適者生存の原則こそ真だ、と謂いたいのであろうと私は推理する。]

 

        

 官立學校の構内に他の校舍とは全く構造を異にする建物がある。紙の代はりにガラスを張つた障子がある外は、純粹の日本建築と云つてよい。長く廣い一階建ての家で、唯だ一つの大きな室があるばかり。床(ゆか)は百枚の疊が、厚に[やぶちゃん注:「こうに」と音読みしておく。厚く広くの謂いでとっておく。]敷かれてある。又此建物には日本名がついて居る――瑞邦館――『聖(きよ)き國の廣間』と云ふことを意味する。其名を表はす漢字は、入口の上の小扁額に、皇族の一親王の手に依つて書かれてある。内には何の家具も無い、も一つの扁顯と二つの繪畫が壁に掛けてあるばかり。繪畫の一は、内亂の折、忠義の爲めに決死隊を組織した十七人の勇敢なる少年より或る、有名な『白虎隊』を描けるもの、他の一は、漢文の敎授、秋月氏の油繪肖像である。氏は會津の人で、老いて益〻敬愛せられるが、若い時には有名な武士であつた。其頃は武士や紳士の養成には今日よりも遙かに大なる敎養を要したのである。も一つの扁額には勝伯の手で漢字が書いてあるが、其文字は『深淵な知識は最上の所有物』なりとの意味を寓する。

[やぶちゃん注:「秋月氏」「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) 九州学生 (田部隆次訳)」に登場したハーンが尊敬した「秋月胤永」秋月韋軒(あきづきいけん 文政七(一八二四)年~明治三三(一九〇〇)年)である。

「勝伯」勝海舟。「深淵な知識は最上の所有物」の原扁額のそれは「入神致用」(「学問を究めるとともに人格をも高めて神のような境地に入って初めて他者や社会の役に立つ大きな働きを成せるようになる」と言った意。出典は南朝梁の劉勰(りゅうきょう)が著した文学理論書「文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)」の「易経」についての釈文か)。「熊本五高記念館」公式サイト内の「五高の歴史~教師~」の後に出る校長加納治五郎の解説の部分に、その扁額の画像が載る。]

 

 併し此大きな空洞(がらんどう)の室で敎へらる〻知識は何であらう。それは柔術と云ふ物である。柔術とは何か。

 ここで自分は斷わつて置かねばならぬが、自分は柔術は殆ど少しも出來ぬのである。この術は少年の時から學び初めねばならぬ。そして先づこれならばと云ふ程度に習得するにも、尙ほ長き間學修を續けねばならぬのである。名手となるには、優れた天分を有するとしても、七年間の不斷の練習を要する。自分は柔術の精しい話は出來ぬが、ただ其原理に就て敢て槪要を語らうとするのである。

 柔術とは武器なくして戰ふ、古武士の術である。門外漢には相撲の樣に見える。柔術演習中、瑞邦館に入るならば、十人若しくは十二人の若い柔輭な[やぶちゃん注:「じうなん(じゅうなん)」。「柔軟」に同じ。]學生が、素足素手で、互に疊の上へ倒し合つてる、其周圍には一群の學友がそれを凝視して居るのを見るであらう。此時ただ妙に思はれるのは室内闃[やぶちゃん注:「げき」。静まり返ったさま。]として聲なきことである。一語も發せられず、讃嘆のけはひも面白さうな素振りも表はさず、微笑する顏さへない。絕對平靜、これが柔術道場の規約の要請する所である。併し此全員の平靜なことと、此大勢の沈默せることのみが多分看者[やぶちゃん注:「みるもの」と訓じておく。]に異常の感を與ふるであらう。

 若し看者が本職の力士[やぶちゃん注:原文は“A professional wrestler”であるから「本職のレスリング選手」。]ならば、もつと目につく事があるに相違ない。彼は稽古中の靑年等は、力を用ふるに非常に用心深くして居る事、又握るのも、制へるのも、投げるのも一風變つて居て、同時に危險な手捌きである事を見て取るだらう。非常に用心深いにも拘らず、彼は全體が危險な稽古であると判斷し、西洋流の『科學的』な規則の採用を忠告したい氣になるだらう。

 併し此術の實行は――稽古でなく――西洋の力士が一見して推察するよりもつと危險なのである。其處に居る師範は、華奢に見えても、普通の力士を、恐らく二分間にして不具にする事が出來るだらう。柔術は決して見せる爲めの術でない、見物人を喜ばす爲めの技術の練習でない。これは尤も嚴密な意味に於ける自衞術である、戰術である。斯道の達人は、術を知らぬ相手に瞬く間に戰鬪力を失はしむる事が出來る。彼は或る恐ろしい早技(はやわざ)で、突然敵の肩を脫臼せしめ、關節を外づし、腱(すぢ)を切々或は骨を折る――それも何等目にとまる努力もせずにである。彼は鬪士であるばかりではない――解剖學者でもある。其上敵を殺す手捌きを知つて居る――恰も電擊に依つての如くに。併し此致命的の祕術は、其濫用を殆ど不可能ならしむる底[やぶちゃん注:「てい」。ここはやや変わった使用法で「特異点の状態」の意。]の條件の下にあらざれば、彼は之を何人にも傳授せざることを誓つて居る。完々な自制心を有し、非難すべからざる道德堅固の人にのみ傳授さる〻といふのが堅い慣例である。

 併し自分が柔術の注意を促したい事實は、柔術の達人は決して己れのたに手緣らぬ[やぶちゃん注:「たよらぬ」。]といふ事である。彼は最大危險に臨んでも、殆ど己れの力を使用せぬのである。然らば何を用ふるか。單に相手の力を用ふるのである。相手の力こそ、相手を倒す唯一の武器である。柔術は敵の力に依つて勝ちを制せよと敎ふる。敵の力が大なれば大なる程敵には不利で、己れには有利である。自分は柔術の大師範の一人から、自分が愚かにも、弟子中の最上の者と想像した强壯な一學生に、此術を敎ふるの甚だ困難なることを聞いて、少からず驚いた事を記憶して居る。其理由を聞けば答へて云ふ、『彼は己れの腕力に依賴し、それを使用するからである』と。柔術といふ名が既に逆らはずして勝つといふことを意味するのである。

 

註 嘉納治五郞氏の事。氏は數年前『亞細亞協會紀要』に、柔術に關する興味ある論文を寄稿した事がある。

[やぶちゃん注:「嘉納治五郎」(万延元(一八六〇)年~昭和一三(一九三八)年)。摂津国御影村(神戸市)の生まれ。東京大学卒。大学在学中から天神真楊流・起倒流の日本古来の柔術・武術を改良して新技術「柔道」を編み出し、明治一五(一八八二)年、東京下谷北稲荷町の浄土宗永昌寺の書院を借り、講道館を開設した。学習院教授・第五高等中学校長(在職期間:明治二四(一八九一)年~明治二六(一八九三)年二月:ハーンの熊本到着は明治二四(一八九一)年十一月十九日で駅頭で加納が出迎えている)・第一高等中学の校長を経て、高等師範(後に東京高師)校長を勤めた。日本初のIOC委員で大日本体育協会初代会長。貴族院議員。日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於ける近現代スポーツの道を開いた人物であり、「柔道の父」・「日本の体育の父」とも呼ばれる。ハーンは彼に出逢うや、強く魅せられたようである。但し、ハーンは、五高を辞めて後に幾つかの行き違いがあって嘉納との間に不幸な溝が生じ、後年はやや疎遠となった模様である(ハーンと嘉納の五高時代の親密な記載はネット上に多くあるが、後年のことは語られているものが少ないので敢えて言い添えておく)。]

 

 自分の云ふ事は恐らく說明にはなるまい、ただ參考になるだけであらう。拳鬪術で『受止め(カウンター)』といふ語は誰れでも知つて居る。が此語を以て柔術の逆らはぬ手にしつくりと當てはめる譯にいかぬ。拳鬪家が受け止める時は、全力を相手の衝擊に對抗せしめるのだが、柔術の達人は正しく其反對に出るのであるから。併しそれでも拳鬪の受け止めと柔術の逆らはぬ手との間にはかういふ似寄りがある――何れの場合に於ても此手を食ふ相手は自ら統制し得ざる己れの攻擊力に依つて負けると云ふ似寄りがある。然らば大體に於て柔術には、あらゆる撚(ひね)り、扭(ねぢ)り、押し、引きなどの場合に、一種の『受止め(カウンター)』を以て之に對抗すると云つても宜からう。ただ達人は此等の攻擊に全然抵抗せぬのである。否、攻擊されるままに委すのである。そればかりではない。巧妙な早技ですかして、相手の力を極度に出させ、それに由つてわれから肩骨む外づし、腕を碎き、甚だしさに至つては、頸、或は脊骨を折らしむるのである。

 

       

 漠然たる說明ではあるが、それでも讀者は之に依つて柔術の眞に驚異すべき點は、其達人の最高の技術にあらずして、全技術が表はす東洋獨得の思想にあることを、既に看取せられたであらう。西洋人の何人か果たして此樣な奇拔な敎へを編み出し得たらう――力を以て力に對抗せず、攻擊し來る敵の力を誘致して利用し、敵の力に依つてのみ敵を倒し、敵の努力に依つてのみ敵に勝てといふ不思議な敎へを案出し得た者が西洋にあらうか。確にそんな者はない。西洋人の心は直線にのみ働き、東洋人の心は驚くべき曲線と圓をなして働くやうに思はれる。けれども暴力を挫く手段としては何たる絕好の智惠の象徵であらう。柔術は自衞の學たるに留まらず、哲學であり、經濟學であた、又倫理學であり、(自分は云ふのを忘れたが、柔術訓練の大部分は全く道義的なのである)そして何よりも、東洋に此上の侵略を夢みつつある强國に依つても未だ看取せられざる、種族的天才の表現である。

 二十五年前――もつと新しくも――外國人はかう考へた。日本は西洋の服裝のみならず風習までも、速力の大きい我等の交通運搬の方法のみならず、我等の建築の原則までも、我等の工業や工學のみならず、我等の哲學や妄斷妄說までも採用するであらうと推定した。そしてそれがいかにも道理(もつとも)らしく思はれた。或る人の如きは實に國を擧げてやがて外國の植民地として開放せられるであらう、外國の資本は、異常な特權が與へられて、種々の產業開發に資するべく誘致せられるであらう、そして國民は遂に我等が基督敎と稱するものに突然改宗することを敕令で公有するであらう、とまで信じた。併しこんな妄信は民族の性格――その深遠な能力、その眼識、その昔ながらの獨立の精神に對する、止むを得ざる、併し完々な無知より來るものである。これも日本がただ柔術を實行しつつあつたのだとは何人も少しも想像しなかつた。實際當時西洋では何人も柔術に就て全く聞く所がなかつたのである。

 併しそれは悉く柔術であつたのだ。日本は佛獨兩國の最高の經驗に基づく軍制を採用し、其結果一朝事あらば二十五萬の精兵と强力な砲兵を召集し得るやうになつた。又强大な海軍を興こし、其中には世界最良の巡洋艦を若干有するに至つた――其組織は範を英佛に取つて。佛人の指導の下に造船所をも建て、汽船を建造し、或は購求し、朝鮮、支那、マニラ、メキシコ印度及び南洋に產物を運搬し初めた。軍用、商用の爲めに鐡道を敷くこと約二千哩[やぶちゃん注:「マイル」。三千二百十九キロメートル弱。]。英米の助力で最安價な、併し恐らく最有効な郵便電信事業を起こした。又日本の海岸は兩半球中尤もよく照明せられたものだと云はれる程巧妙に燈臺を建て、合衆國にも劣らぬ信號設備を調へた。更に米國から電話と電燈の最上の方式を輸入した。公立の學校は獨佛米の諸國に於ける最良の結果を完全に硏究した上に其組織を定めたが、完全に他の諸制度と調和を失はざらしめた。警察制度は範を佛國に取り、而かも日本特殊の社會的要求に完今に適合するやうに按排[やぶちゃん注:「あんばい」。本来は「対象物を具合よく並べる」の意。但し、後に混同されて「塩梅」と同じ意味になった。]した。初めは鑛山、工場、砲兵工廠、鐡道等に機械を輸入し、多數の外人技師を雇ひ入れたが、今やそれ等の敎師を解雇しつつある。併し日本が爲した事及び爲しつつある事は之を列擧するにさへ多くの紙數を要する。詮ずる處日本は我等の工業、我等の應用化學、我等の經濟的、法制的、經驗が提供する、凡ての物の中より最上のものを選擇し採用したといふに盡きる。そしてどの場合にも、ただ最上のもののみを利用し、必らず之を己れの要求に適するやうに按排したのである。

 さてこれは何れも只だ模倣せんが爲めに採用したのではない。之に反して日本の力の增加を助け能ふ物のみを、試して見て取つたのである。日本は今や殆どあらゆる外國の技術上の敎授を受くるを要せざるに至つた。而かも巧妙な法制に依つて、其富源の凡てを確と己が手に保留する。但し日本は西洋の衣服、西洋の生活、西洋の建築、若しくは西洋の宗敎などは採用しなかつた。それは此等の物、特に宗敎は其力を增加せずして却つて減少すべかりしが故である。其鐡道と汽船航路、其電信と電話、其郵便局と通信會社、其鋼鐡砲と連發銃、其大學と工藝學校を有するにも拘らず、日本は今も一千年前と同じく東洋的であるに變りはない。自己は少しも變はらずに居ながら、敵の力を極度に利用し得たのである。未曾有の驚くべき知的自衞法で――驚くべき國民的柔術で、日本は自己を衞りつつああり、又あつたのである。

 

       

 自分の前に三十餘年前の寫眞帖が橫たはつて居る。日本が洋服と外國の制度の實驗を始めた時に取つた寫眞が詰まつて居る。何れも武士(さむらひ)や大名の寫眞である。そして、其多くは、國風の上に外國の感化が及ぼした、初期の結果を反映するものとして、歷史的價値を有する。

 軍人階級が新感化を受けた最初のものであつたのは當然だ。それで彼等は色々に洋服と和服の折衷を試みたらしい。此中の十數枚の寫眞は家來に取り卷かれた藩主の肖像であるが、皆彼等考案の特有の服を着けて居る。外國製の切れ地を用ゐた外國風のフロツクコート、チヨツキ、ずぼんを着ながらも、上衣の下には尙ほ絹地の長い帶を締めて居る。これは全く刀(かたな)を佩(さ)す爲めである。(サムラヒは決して伊達に刀を差す遊蕩兒ではない。又彼等の怖ろしい、精巧な刀は、腰に吊らる〻樣には出來てない[やぶちゃん注:ママ。]。――且つ又大抵西洋風に佩く[やぶちゃん注:ここは「はく」としか読めない。]には長過ぎる)又服の切れ地は羅紗であるが、武士(さむらひ)は家の紋を棄てようとしない。樣々に工夫して新服裝に之を適用しようとして居る。或る者は上衣の裾に白絹をかぶせ、其上に家紋を染め出し若しくは刺繡(ぬひとり)して居る――左右の裾に各〻三つ宛(づつ)。一同が、或は殆ど一同が光る鎖で毆洲製の時計を下げて居る。中に一人は多分最近調へたらしい時計を物珍らしげに眺めて居る。又一同西洋靴を穿いて居る――護謨短靴を穿いて居る。併し一人もまだあの厭はしい歐洲風の帽子を被らない――これは不幸にも後年一般に用ゐられる樣な運命にあつた。彼等は尙ほ陣笠を被つて居るのだ――丈夫な木製の被り物で赤地に金模樣の蒔繪がしてある。そして此陣笠と絹帶とが、彼等の怪奇な制服の中の、唯一の美しい部分である。洋袴(ずぼん)も上衣(コート)もしつくり合つて居ず、靴は徐々に足を痛めつつある。そこで此新裝の人々には云ふに云はれぬ窮屈さうな、だらしない、むさくるしい態度が一貫して居る。彼等は從容さを失つたのみならず、立派に見えぬ事を意識して居る。不釣合も極れば可笑しいものだが、それ程でもなく彼等は只だ醜く痛ましいばかりだ。當時外國人で日本人は永久に彼等の美しい服裝の嗜好を失ふであらうと信ぜざるを得た者があつたらうか。

[やぶちゃん注:最後の部分概ね言っていることは判るが、日本語としては十全にこなれた訳とは言い難い。特に「立派に見えぬ事を意識して居る」はだめだ。原文は、

The trousers and coats are ill fitting; the shoes are inflicting slow tortures; there is an indescribably constrained, slouchy, shabby look common to all thus attired. They have not only ceased to feel free: they are conscious of not looking their best. The incongruities are not grotesque enough to be amusing; they are merely ugly and painful. What foreigner in that time could have persuaded himself that the Japanese were not about to lose forever their beautiful taste in dress?

である。平井呈一氏の恒文社版「柔術」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)の当該部を引用する。

   《引用開始》

ズボンも上着もだぶだぶだし、靴なんかも、そろそろもう、ちっとずつ足くなってきているあんばいだ。さてこそ、この新装束を着た面面、どれを見ても、みな申しあわせたように、なんともいえぬ窮屈そうな、でれりぼうとした、うすみっともない風体をしているわけで、これじゃあ、悠々迫らずなんていう武士の衿度[やぶちゃん注:「きんど」。「襟度」に同じい。立場や考えなどの異なる人を受け入れる心の広さのこと。]はとうのむかしにお蔵(くら)だし、だいいち、面面自身が、いやはや、面目しだいもござらぬの為体(ていたらく)と、みづからもって恐惶頓首しているありさまである。べつにおかしいというほど、グロテスクな不釣合ではないにしても、とにかく、見だてが悪いし、痛痛しいかっこうだ。それにつけても、いったい、この当時、外国人のなかに、日本人は永久に自国の美しい服装の趣味を捨てぬであろうと信じていたものが、はたして何人あったろう?

   《引用終了》

平井氏の訳を後発の英文学者は首肯し得ない訳が多いなどと、文「学者」としてインキ臭い批判をするが、およそこの素敵に文学的な「作家」精神に満ちた訳はどうだろう! 因みに、個人ブログ「ひろむしの知りたがり日記」の「八雲、講道館流柔術との遭遇 《第1部》 嘉納治五郎とラフカディオ・ハーン」に、講道館の機関誌『作興』の昭和四(一九二九)年一月号から翌年六月号にかけて、断続的に掲載された嘉納治五郎の「教育家としての私の生涯」の中の、ハーンの五高時代の思い出や『奇行』(その中での加納の謂い。『ラフカディオ・ハーンを島根県中学校の教師からぬいてこれを招聘したことは特筆すべき一事である。ハーンは何人も知る珍しき人物で、当時英米を通じてもたぐい少なき文豪であり、すこぶる変わった非凡の人であった。自分は親しくしていたが、彼の夫人は島根県の士族で、正しき家庭に育った婦人であった。日常のハーンの生活は日本服を着、日本の煙管で煙草をのみいろいろの点で日本趣味を味わい得た人であった。英語並び英文学の教師として価値の豊かな人であったことは論ずるまでもないが、人間としてまたいろいろの奇行をのこした』と引用されてある)が纏められている中に、『ある時、熊本の第六師団で祝賀行事があり、知事・学校長・裁判所長といった錚々たる』面々『が一堂に顔を揃え』、『当日、武官は制服、文官はフロックコートといずれも洋装に身を包んでいた中で、唯』一『人、和装の紋服姿で出席した紳士がい』『た。それこそが、言わずと知れたハーンだった』とあるのは、ここのハーンの文章に添えるに相応しいエピソードであろう。他にも、熊本到着後に『治五郎の案内で宿に着くなり、ハーンは「日本料理を食べたい」と言って、治五郎を驚かせ』たとか、『ハーンは、五高の敷地内に洋式建築の外国人官舎があるにもかかわらず、「日本の家に住みたい」と言って治五郎を戸惑わせ』、『結局』、『ハーンは自分で旧士族の持ち家だった武家屋敷を見つけてそこに落ち着くことにな』ったことなども記されてあり、ブログ主は、この時未だ三十歳の『若さだった治五郎は、自分より』十歳も『年上の風変わりな外国人に、強烈な印象を抱いたことでしょう』と述べておられる。確かに『奇行』するハーンというのは正直な印象であったことが肯ぜられる。]

 別の寫眞にはもつと一層珍妙な外國影響の結果を示すものがある。ここには西洋服裝の採用は肯んじないが、此新流行熱に讓步して羽織と袴とを英國製の最も厚い最も高價な羅紗――厚いのと彈たのない爲め、日本服には尤も不向きな材料――で仕立てて着て居る武士がある。最早どんな熱した火熨斗[やぶちゃん注:「ひのし」。日本古来からあるアイロンのようなもの。]でも、延ばすことの出來ない皺が表はれて居る。

 此等の肖像から、新流行熱には全く留意せず、最後まで國風の軍服を脫ぎ棄てぬ、二三の奮弊家の肖像に目を轉ずるのは、確に美感の慰藉である。ここには騎馬武者の長袴がある、優れた刺繡のある陣羽織がある、裃がある、鎖帷子(くさりかたびら)がある。完備せる鎧一具がある。ここには又各種の冠(かんむり)がある――昔から諸侯や高級武士が、儀式の折に被つた、奇妙な併し嚴(おごそ)かな被(かぶ)り物で――或る輕い黑布で出來た蛛網[やぶちゃん注:「くものす」。]のやうに薄い珍らしい構造の物である。此等の物には凡て威嚴がある、美しさがある、或は軍戰美がある。

[やぶちゃん注:「軍戰美」原文は“the terrible grace of war”。先の平井氏の訳では『戦陣のきびしい品位がそなわっている』となっている。]

 併し此寫眞帖の最後の寫眞には凡てのものが氣壓(けお)されて了(しま)ふ。――それは鷹のやうな凄い、素暗らしい眼光を有(も)つた美しい若武者で、封建時代の華やかな甲冑姿の松平豐前守である、片手は總のついた大將の采(ざい)を持ち、片手は刀(かたな)のめざましい欛(つか)の上に載つて居る。兜(かぶと)は天工を奪ふ程の逸品である。胸や肩は西洋のあらゆる博物館で有名になつてる[やぶちゃん注:ママ。]鎧師が細工した鋼鐡である。陣羽織の紐(ひも)は金糸を撚(よ)り合はせ、金波金龍を刺繡(ぬひと)つた、驚嘆すべき厚絹の下着は、鎧の腰から脚元まで火衣(ひごろも)のやうに流れて居る。そしてこれは夢ではない――あつた事實なのだ――今自分は中世の實在の一人物の、太陽が燒き附けた寫眞といふ記錄(レコード)を眺めつつあるのだ。此人物は鋼鐡と絹と金を着て、めざましい金綠色の玉蟲の樣に輝いて居る――併しこれは戰鬪甲蟲[やぶちゃん注:“beetle”であるから「かぶとむし」と訓じておく。]で、玉の色彩の眩(まばゆ)さはあつても、全體が角と顎と威嚇だらけである。

[やぶちゃん注:この写真集、見てみたいものだ。ネット上で探してみたが、判らぬ。識者の御教授を乞う。

「松平豐前守」上総国大多喜藩第九代(最後)藩主松平正質(まさただ 弘化元(一八四四)年~明治三四(一九〇一)年:別に大河内(おおこうち)正質とも名乗った)であろう。奏者番・若年寄・老中格で大河内松平宗家十一代であり、官位は豊前守であった。

「總のついた大將の采(ざい)」“the tasseled signal-wand”。采配(さいはい)のこと。戦場で軍勢を率いる際に用いた指揮具で、一尺ほどの柄に、千切りの紙片や獣毛(中国産の「犛(はぐま)」(哺乳綱ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク Bos grunniens)の尾の毛が好まれた)などを細長く垂らしたもの。]

 

       

 松平豐前守が着たやうな、封建時代の服裝の、王侯的絢爛から、過渡時代の言語道斷な服裝への變遷は隨分大なる堕落である。國風の衣服と衣服に對する國民的嗜好とは、確に永久に消滅の運命にあるやうに思はれた。宮廷にさヘ一時巴里風の服飾が行はれた時は、軈て全國民も服制を變更せんとするものと外國人は極めてしまつたのであつた。事實、當時重なる市には一時的ながら洋裝熱が高まつて、夫れが歐洲の繪入新聞に報道せられ、暫しの間美しい日本はけばけばしいスコツチ服や、シルクハツトや、燕尾服の國となり了せりと云ふ印象を惹起した。併し今日では、首府に於てさへ、千人の通行人中洋裝せる者は一人の割りにも達しまい。勿論制服の兵士と學生と警官とは除いてである。往日の熱は實は國民の實驗を示したもの、其實驗の結果が歐洲人の期待に副はなかつたのだ。日本は陸海軍及び警察官に、西洋風の制服の種々な樣式を巧みに剪裁[やぶちゃん注:「せんさい」。布を裁(た)ち切ること。]して採用したが、それはそんな服裝がそんな職業には一番適するからである註一。又外國の平服も日本の官吏社會に採用せられて居る。併しこれは近代風の机と椅子を具へた歐洲風の建物内に於ける勤務時間だけ着らる〻のみだ註二。歸宅すると陸海軍の大將でも、判官[やぶちゃん注:裁判官。]でも、警部でも同樣に着換へる。そして最後に、小學校を除くの外、凡ての學校の敎師も學生も制服を着用する事になつて居る。それは學枚敎育は一部分軍事敎練であるからである。此制服着用の義務は一時甚だ嚴重であつたが、今は大分弛緩した。多くの學校では、敎練の時と何か儀式張つた折のみに服を着る樣に規定せられて居る。九州の學校では師範學校を除き、敎練のない折には、學生が國服[やぶちゃん注:和服。直後に「キモノ」とルビしている。]、草履、大きな麦稈帽子を自由に着用する。併し何處でも授業時間後は、敎師も學生も歸宅して國服(キモノ)を着、白縮緬の帶を卷うつける。

 

註一 此事に關して日本が爲した唯一の重大な過誤は、步兵に革靴を穿かしめた事である。草履の寬濶に馴れた、そして我等の所謂魚の目や肉刺[やぶちゃん注:これで「まめ」と読む。]の存在を知らぬ靑年の柔らかい足に、此不自然な穿(は)き物の爲めに殘刻に苦しめられる。尤も長い旅行には草履を穿くことが許されるから、穿き物の轉換といふ事も出來る。草鞋だと日本人は小兒でさへ、殆ど疲勞せずに一日三十哩[やぶちゃん注:四十八・二八キロメートル。]を樂に步むことが出來るのである。

[やぶちゃん注:前の「穿かしめた」にルビせず、後にルビしているのはママ。こういう文章の不統一が私は生理的に大嫌いである。

「三十哩」を「子兒でさへ」というのは言い過ぎであり、この距離指定も大袈裟過ぎる。江戸時代の宿場間の平均距離からして、八里から十里強(約三十二から四十キロメートル)が成人男子の一日の歩行距離と推定されるからである。]

註二 高き敎育ある日本人が實際自分の友人につぎの樣な事を語つた――眞實の處僕等は洋服が嫌ひだ。僕等は或る動物が或る折に或る色を取る樣に――乃ち保護色を取る樣に只だ一時それを着用するのである。

[やぶちゃん注:「三」の最初の段落に私が附したハーンの『奇行』の注を再度参照されたい。]

 

 然らば、手短に云ふと、日本は正(まさ)しく其國風の服裝に還つたのである。再びそれを棄てる事はあるまいと思はれる。日本服は日本の家庭生活にぴつたり合つてる、唯一の服裝であるのみならず、恐らくは世界中で、尤も重々しい、尤も快適な、又尤も保健的な服裝であらう。或る點に於ては明治年間に、前の時代に於てよりも國服に大なる變化かあつたのは事實だ。併しこれは重に士族階級の廃棄に原由する。それも樣式の變化は僅少で、色合の變化が主なるものである。此民族の優れた嗜好は今でも式服に織られる絹物或は木綿物の美しい色合、色、模樣に現はれる。併し明治以前の着物よりは色合は薄く、色はくすんで居る――樣々の形式を含める一般國民の服裝も、封建時代よりは調子が大分ぢみになつて居る。小兒と若い娘の派手な衣裳とても同樣である。目ざましい色の驚嘆すべき昔の衣服は民衆の生活から消え失せた。それはただ劇場でか、或は過去を保存する日本時代劇の美しい空想的な場面を描ける美し繪本で見るばかりだ。

 

       

 國服を棄てる事は、實に殆どあらゆる生活の樣式を變ふるといふ高價な必要を來たすであらう。洋服は全く日本の屋内生活に適せぬ。國風の跪坐は洋服を着ては非常に苦しく困難である。從つて洋服の採用は洋風の家庭生活の採用を必然の結果とする。休息に椅子、食事に卓、暖を取るにストーブ若しくは煖爐(日本服が暖かいのでばかり、今はこんな洋風の設備が不必要なのである[やぶちゃん注:妙な日本語で半可通である。原文は“(since the warmth of the native robes alone renders these Western comforts at present unnecessary)”(本文中に丸括弧で挿入するというのは、少なくとも来日後の作品では珍しいものである)。「(元来、和服というものが確かな暖かさを持っているから、現在、これらの西洋の快適な装置が不要になるため、である)」の意。」])床(ゆか)に絨毯、窓に玻璃(ガラス)――要するに從來日本人が無くとも濟まされた無數の贅品を家庭に入れねばならぬ事になる。一體日本の家庭には家具といふものがない(歐洲人の所謂家具)――寢臺も卓子(テーブル)も椅子もない。小さな書棚、或は寧ろ本箱が一つ、又襖で隱されり或る隅に簞笥が一對は大抵ある。併しこんなものは西洋の家具とは似ても似つかぬものだ。槪して日本室には、喫煙の爲めに靑銅か陶器かの小さい火鉢、季節に從つて[やぶちゃん注:「よつて」。]藺草の敷物或は座布團、の外何もない[やぶちゃん注:読点位置はママ。]。ただ床(とこ)にのみ畫幅か花瓶がある。數千年間日本人の生活は床(ゆか)の上にあつた。毛布團の樣に軟らかで塵一つ留めぬ淸らかな床(ゆか)は、寢臺でもあり、食卓でもあり、そして往々机でもあるのだ。尤も高さ約一尺の小さい綺麗な机があることはある。こんな生活法の非常に經濟的であるのを考へると、之を棄てる事は萬[やぶちゃん注:「よろづ」。]あるまいと思はれるし、殊に人口の夥多と生活難が增しつつある限りは。且つ又、高き文化を有する國民が――西洋侵入以前の日本人の如き――單なる模倣の精神から、祖先の風習を棄てたといふ樣な、前例がないといふことも忘れてはならぬ。日本人をただ徒に模倣的だと考へる者は又日本人を野蠻人だと考へるものである。處が事實彼等は少しも模倣的でない。彼等は只だ同化、適合の才に富むのみで、それも天才と云ひ得る程度に達して居る。

 西洋の防火的建築材料の經驗を丹念に硏究した結果、日本都市の建築に、多少の變化を來たすことはありさうに思はれる。既に東京の或る方面には門並煉瓦建ての街路がある。併し此等の煉瓦造りの家屋にも古來の疊が敷いてある、そして其住人は祖先の家庭生活を續けて居る。未來の煉瓦造り若しくは石造の建築は、單に西洋建築の模倣たるに留まらず。[やぶちゃん注:句点はママ。]甚だ興味ある、新しい、そして純な東洋味を展開せしむべきことは殆ど確實である。

 日本人は何でも西洋の物なら盲目に讃嘆すると信じて居る人は、内地でよりも開港場では純粹な日本品(骨董を除く)を見ることが少いであらう、日本風の建築、日本風の衣服、風俗、さては古來の宗敎、神社佛閣などは滅多に見られぬであらうと思ふかも知れない。併し事實は正反對である。外國風の建物はあるが、それは槪して外國人の居留地で外國人の使用の爲めである。但し防火的設備を要する郵便局、稅關、及び少數の釀造所と製絲場は普通除外例である。併し日本建築は凡ての開港地で立派に幅を利かして居るのみならず、内地の何の市でよりも立派である。建前が高く廣く、伸びて居る。其癖一層東洋風を發揮して居る。神戶、長崎、大阪、橫濱などでは、本質的に、完全に、日本風な點が(精神的の特質は別として)洋風の侵入に挑戰するかの如く、悉く强調せられて居る。或る高い屋根或は露臺(バルコニー)から神戶を見渡した人は、誰れでも自分の意味する所のものの最適の例を見たであらう――十九世紀に於ける日本の港の高さ、雅味、魅力。白い條を交じへて波狀に起伏する靑灰色の瓦の海。破風、桟敷其外筆舌を絕する建築上の突飛な氣紛れな設計の杉材の世界がそれである。それから京都の聖部以外では、開港場に於けるよりももつと美しく古來の宗敎上の祭事を見る事は出來ぬ[やぶちゃん注:何だか訳がおかしい。原文は“And nowhere outside of the Sacred City of Kyōto, can you witness a native religious festival to better advantage than in the open ports”で、「いや、寧ろ、神聖な京都の町の以外の場所では、開港場よりも手ごろな地元の宗教的な祭りを見ることはちょっと出来ないと言ってよいほどである」の謂いである。]。又神社、寺院、鳥居、凡て神道佛敎の建設物の多くは日光と奈良、西京の古都を除いては、内地の都市に於て開港場に比肩し得る處はない。否、開港地の特質を硏究すれぱする程、日本民族の精神は、柔術の規約を超越してまで洋風の侵入に進んで屈從するものでない事を感ずる。

 

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