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2020/01/25

三州奇談卷之一 敷地の馬塚

 

    敷地の馬塚

 菅生石部神社(すがふいそべじんじや)は、敷地の天神とて、大聖寺第一の靈社なり。此向に白幣(しろぬさ)を立(たて)たる數尺の地あり。是を「馬塚(むまづか)」といふ。洛(らく)の古俳、此所(ここ)にて

 なり平(ひら)が切(きつ)たといふは雜役(ぞふやく)か

といふ句あり。是に不審して其故を問へば。[やぶちゃん注:句点はママ。]

 むかし富樫(とがし)氏北國に威を振ひ、富樫三郞成衡(なりひら)と云者、京都將軍の命令を請けて西國を征伐し、歸路に及んで此大聖寺を通りしに、其頃十二月の事なれば、北國(ほつこく)寒(さむさ)甚(はなはだ)し。此夜しも大雪降りて、從者隨ふことあたはず。三郞一人駿馬(しゆんめ)に鞭打ちて、風雪を侵して進み行くに、雪降りて丈餘[やぶちゃん注:三メートル越え。]に及ぶ。况や一つの谷に駈落(かけおと)して、出(いづ)ることあたはず。暫く馬より下りて後陣を待つに、雪路(ゆきみち)踏みたがひて、一人も來らず。既に日は暮果て、詮方なく雪中に夜を明さんとするに、半夜の頃飢(うゑ)甚(はなはだ)し。三郞獨り言して

「我(われ)軍機ありて、心大きに急ぐ故に、衆に先達(さきだつ)て此の如きの危難に及ぶ。是又命(めい)[やぶちゃん注:運命。]なり」

といふ。

 時に此馬一たび嘶(いなな)きしが、踊り出(いで)て忽ちに去り、其(その)行く所を知らず。一時[やぶちゃん注:二時間。]許(ばかり)して、此馬又歸り來(きた)る。口に餅貮枚(にまい)をふくめり。

 三郞大きに悅び、此餅を喰いて飢を凌ぐ。夜明けしかば。[やぶちゃん注:句点はママ。]諸軍尋來(たづねきたり)て、終に道を踏開(ふみひら)く。此菅生の神社の前に出で、本道に就きて去(さら)んとす。

 此時三郞が乘(のる)所の馬、一つの藁屋(わらや)の門に至つて一步も動かず。三郞心いらちて頻(しきり)に鞭打つといへども、去らず。元來剛氣の大將なれば、刀を拔きて其馬をきるに、馬一步も動かず。只罪に伏するものの如し。數刀を請けて、馬終に死にけり。

 三郞大(おほき)にあやしみ、此藁屋の内をさがしみるに、この家のあるじと思しき男は食殺(くひころ)されて死してあり。餠の多く引ちらしてありけるにぞ。夜前馬來りて餠を得來りしは此家なり。我ために馬の勤勞せし事を思ふて、稱歎してやまず。終に此馬を此家のあとに埋めて「馬塚」と云ふと、古老の人物語れり。

[やぶちゃん注:「菅生石部神社」現在ではこれで「すごういそべじんじゃ」と読む。国書刊行会本では『菅生礒部の神社』となっており、これならまさに抵抗なく「いそべ」と読める。「近世奇談全集」では「いしべ」とルビするが、従えない。「石川県神社庁」の同神社の解説によれば、現在の加賀市大聖寺敷地町ル乙(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に鎮座し、祭神は菅生石部神で、『延喜式内の古社。敏達天皇禁裏御所に勧請御鎮祭あらせられたのを、用明天皇の御宇、越の江沼の地の農桑励の御思召を以て、御即位の元年』(敏達天皇十四(五八五)年九月(即位の月のようである)、『当地方鎮護の上五穀豊登万民富饒を御立願あらせられた。その後、天武天皇』の治世にも『御願神事』が『始められ、往古から一年両度の居入祭』(おりいさい)『には、勅使を遣して御衣神宝を奉られた等、古来、朝廷の御尊崇格別で、天慶』三(九四〇)『年には正四位下に昇格』し、また、『武門武将の崇敬も篤かった』。明治二九(一八九六)年、『国幣小社に列せられ、北陸道一円鎮護の神として五穀豊穣』・『疫病退散』・『安産育児守護の大神として』信仰されているとある。

「馬塚」菅生石部神社の手前、道を隔てた民家(石川県加賀市大聖寺天神下町)の道に面したところに現存する。大聖寺地区まちづくり推進協議会作成の「大聖寺 十万石の城下町」の「富樫の馬塚」によれば(地図もある)、『言い伝えによると、室町時代、吹雪で一命を失いかけていた冨樫三郎に餅をくわえてきて主人を助けた愛馬を、菅生石部神社の前で誤って切り殺してしまい、その愛馬を弔うため建てた馬塚』とし、また『一説では、菅生石部神社の神事『居入祭』で供えられた衣を埋めた塚ともいわれている』とある(いろいろ調べてみるとこの衣を埋めた場所というのが正しいようである)。同ページの説明版でより詳しい話が読める(クリックで拡大される)。必読。

「洛(らく)の古俳」京都の古い俳諧師。誰かは不明。

「なり平(ひら)が切(きつ)たといふは雜役(ぞふやく)か」ちょっと意味が半可通である。季語もないからまるでダメである。伝承をもとに想像してみるに、

「富樫成衡(とがしなりひら)が斬ったというのは、馬ではなくて雑役をこなす下男だったのではないか?」

という意味だろうか? しかしそれでは五七五の十七音が合っているだけの、捻りも何もない、ただの下らぬ物言いに過ぎなくなる。因みに国書刊行会本では「雜役か」が『敵役か』となっている。これだと、牽強付会すれば、

「動かなくなった馬のシークエンスでは、その馬を一瞬、芝居の『敵役』(かたきやく:但し、この読みでは字余りで締まりがなくなるから「てきやく」と読んでおく)に擬えて話を面白くしたものか?」

の謂いでとれなくもないか。判らぬ。先に言った解説版の最後を見ると、『江沼の総鎮護である菅生石部神社の尊き御神域で不敬な行いをしてしまった富樫は、これより後』、『神社の前を通ることを許されず』、『神社の裏山の小道を通ることとなった。これを富樫の隠れ道という』とある。あるいは、前の解釈では、

「このように後の富樫成衡への罰が相応に重いのは、無実の馬ではなく、実は無実の人を斬ったからなんじゃないか?」

と言っているともとれるか。なお、伝承では、以上の話の通り、彼が足利将軍の命を受けて西国を平定して帰る途中の吹雪の中の単独遭難の出来事となっており、大聖寺はその帰路の途中であるとするものの(即ち、彼の本拠地は北陸ではあるが、恐らくもっと北であるように読めてしまうのだが)、富樫氏は藤原利仁(芥川龍之介の「芋粥」の彼)に始まるとされる氏族で、室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名であるから、この辺りを通ることは日常的にあり得たと考えて何ら不思議ではない。しかし、このシークエンス自体が何となく嘘臭いではないか? 遠征からの帰路で、誰一人として彼に随行することが出来ずに、吹雪の中で餓えるという設定自体が私には明らかに変だと感じられる。だから馬ではなく、やっと一緒に吹雪の中で主人に従うことが出来たのは、雑役の従者一人で、さてもここで彼が飢えと寒さで癇癪を起して、その馬ではなく、その男を斬り殺したとする話もアリか? とも思えてくるのである。武人にとって馬は自分の命より大切であるというのは鎌倉時代からの常識で、癇癪を起して馬を斬り殺すというのは、どうもしっくりこないのだ。だから、前の句のような解釈が私には立ち騰(のぼ)ってきてしまうのである。この句、他の解釈があればお教え願いたい。

 今、耳無山(みみなしやま)の間にも馬塚あり。兩所いづれが實なることをしらず。かゝる變異の地なれども、今は人家と成りて、纔(わづか)に數尺の地を殘して、其事を知れる者も少なし。神靈も幸(さきは)ふ事はありとや。

[やぶちゃん注:「耳無山」不詳。この名の山は現在の大聖寺にはない。ただちょっと気になるのは直前の「長面の妖女」に出てきた「耳聞山」である。現在、この名前のバス停が大聖寺耳聞山町に存在するNAVITIME)。これの誤字ともとれるか。但し、現在の耳聞山町内には馬塚はない模様である。

「神靈も幸(さきは)ふ事はありとや」国書刊行会本では『神霊も幸(さき)ふ事は有(ある)にや』でこの方が意味がとれる。「このようにすっかり忘れ去られてしまったこの馬塚に、今でも神霊が言祝(ことほ)ぐために来臨することがあるのだろうか?」である。]

 此十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]許(ばかり)北に、宮村と云ふ所あり。いつの頃より草鞋大王(とひがみだいわう)のありて、群集(ぐんじゆ)夥(おびただ)し。都(すべ)て病者の宿願叶はずと云ふ事なく、或は久敷(ひさしき)聾(つんぼ)も耳忽ちに聞え、盲目の明(あか)りを得る者もあり。其外難病限りなく直り、近國遠村人押合ひて參る程に、田畑の間の道、四條五條の大路の如し。其參る所の神は森の中にして、大木の二股なる中に挾まりたる巨石なり。石はいつの代(よ)よりかありけん。ふと人の敬(うやま)ひ民(たみ)敬(けい)して、今は猥(みだ)りに馬上には其前を過ぎず。今寶曆の初年[やぶちゃん注:宝暦元年は一七五一年。]よりは、少しいひやみて、森の間(あひだ)人影盡きて、宿鴉(とまりからす/しゆくあ)のみ多く、彼の大王、又いづくにか飛(とば)れけん。國々にもある事にや、倭漢の諸書にも見へたり。餘り盛衰いちじるき故(ゆゑ)爰(ここ)に記す。

 彼馬塚も、富樫在所は甚だ靈驗の地なりしと聞及びしが、今は其所さへしらず。在京の業平にも混じて考へそこなふこともあれば、爰には如斯(かくのごとく)記したるなり。

[やぶちゃん注:「宮村」石川県加賀市宮町。これは同地区の北端にある現在の宮村岩部神社である。玄松子氏のサイトのこちらに本篇の紹介も合わせて資料が載る。それによれば、『創祀年代は不詳』で、『元は、石部薬師と呼ばれており、天神様と通称されている』とあり、「三州奇談」に『よると、いつの頃からか、草蛙(とびかみ)大王の社があ』ったとし、『大木が二股になっている中に挟まれた巨石が御神体。病気平癒に霊験があり、近国遠村の人々が参拝に押し寄せ、田畑の畦道が、まるで四条大路のようであったという』。『かように、薬師信仰と習合して、崇敬を集め、遠く高尾町や小松市にも、当社の遥拝所が存在するらしい』。『また、社殿を築けば』、『雷鳴が鳴ると云われ、古来より本殿はない』。『御神体石を囲む垣の高さは、人の背丈ほどで、ジャンプして』見てみたが、『木が数本あることしか確認できなかった。資料には巨石とあるが、それほど大きなものではないのだろう』とある。

「草鞋大王(とひがみだいわう)」国書刊行会本と「近世奇談全集」のルビから推定した。そのまま「わらぢだいわう(わらじだいおう)」と読んでよく、これはお馴染みの仁王門の左右に配される仁王のことを指す。祈願する人がその前に草鞋をぶら下げたところからの古い別名である。「とびがみ」は当て読みで「飛神」、即ち、他の地から飛来して新たにその土地で祀られるようなった神を指す語である。しかし、今は衰退し、人影も全くなく、カラスの巣くって群がっているばかりで、「彼の大王、又いづくにか飛(とば)れけん」とはかなり皮肉な洒落である。

「宿鴉(とまりからす/しゆくあ)」前者は国書刊行会本の原写本のカタカナの読みから、後者は「近世奇談全集」のルビ。

「在所」ママ。「近世奇談全集」では『在世(ざいせい)』でその方がよい。馬塚は以上の本文で二ヶ所伝承があるが、その孰れもが不確実と筆者は述べているから、ここでの謂いは齟齬しない。

「在京の業平」富樫成衡とは全く時代を異にしているから、「在京の」はおかしい。判読ミスが疑われる。「加越能三州奇談」と国書刊行会本は『在原の』とし、それが正しいものと思われる。]

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