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2020/01/13

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 叶へる願 (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“A WISH FULFILLED”。「成就されたる願い」)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の第九話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。なお、本篇は本作品集発行の二ヶ月前の『大西洋評論』(Atlantic Monthly)一八九五年一月号を初出とする。このタイミングを見るに、ハーンは作品集として送った原稿をダブって雑誌に公開した可能性が高いように思われる。ハーンは実はこの版元の一つである「ホートン・ミフリン社」とは、後に版権を独占したいと言われて怒り、一悶着ある。彼自身が自由人であろうとしたように、自作品の自由も、彼には欠かせないものであったであろう。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 なお、この前に配されている「赤い婚禮」(原題“THE RED BRIDAL。戶澤正保訳)は既に昨年の夏、個別に電子化注してある。なお、以上のリンク先のものは底本が後のもので異なるものの、確認したところ、そのデータ自体が本底本を親本としていると推定され、有意な違いは認められなかったので再電子化は行わない。

 訳者戶澤正保は前の「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)」を参照されたい。

 引用や原注・訳者注(後者は全体が四字下げポイント落ち)は、上方或いは行頭まで引き上げて同ポイントで示し、注や引用の前後を一行空けた。最初の古代ギリシャの詩句は、ややポイント落ちの六字下げで連続して二行で表示されてあるが、ブラウザの不具合を考え、三字下げで恣意的に改行し、同ポイント四行で示した。

 言わずもがなであるが、本篇は日清戦争勃発直後(明治二七(一八九四)年七月二十五日から翌年四月十七日まで。正式な宣戦布告は一八九四年八月一日)に書かれた作品(作中の最初の原注参照)である。]

 

  叶へる願

 

   汝肉體を去り自由なる精氣の中に入る時、

   汝は恒久不滅の神となるべし

   ――死も最早汝を領することなかるべし。

                  希臘古詩

 

      

 街(まち)には白い軍服と喇叭の音と砲車の轟きとが充ち滿ちて居た。日本軍が朝鮮を征定したのは歷史上これが三度目だ、そして支那に對する宣戰の詔勅は市の新聞に依つて、眞赤な紙へ印刷して布告された。帝國の陸軍は悉く動員された。第一豫備兵も召集された。そして兵士は隊をなして熊本へ溢れ込みつつあつた。幾千人かは市民の宿へ割り當てられた。兵舍と旅館と寺院だけでは、通過の大軍を宿すことが出來なかつたからである。併しそれでも尙ほ足りなかつた、いくら特別列車が全速力で、下ノ關に待たせてある運送船指して、北へ北へと輸送しても。

[やぶちゃん注:「支那に對する宣戰の詔勅」「淸國ニ對スル宣戰ノ詔勅」。冒頭注に示した明治二七(一八九四)年八月一日のそれ。「帝国電網省」内の「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅 (日清戦争開戦の詔勅 明治27年8月1日)」(リンクをホームページにしか許可されていないので以下にアドレスを貼り付けておく。http://teikoku-denmo.jp/history/kaisetsu/other/nisshin-kaisen-shousho.html)で新字であるが、原文・訓読文・現代語訳が読める。]

 それにも拘らず、大軍の移動といふことを考へて見ると、市は驚くべき程靜かであつた。兵士は授業時間中の日本の學生の如く靜肅で從順で、威張り散らす者もなければ、けばけばしい擧動をする者もない。佛敎の僧侶は寺院の庭で彼等に說敎して居る。練兵場ではわざわざ京都から來た眞宗の法主に依つて既に大法會が擧行された。數千の兵士は彼に依つて阿彌陀の保護に託せられた。一々若い頭顱[やぶちゃん注:「とうろ」。頭。]の上に剃刀を載せるのは、進んで現世の欲望を棄てるといふ象徵で、それが兵士の授戒であつた。神道の神社では到る處神職と市民に依つて、昔國の爲めに戰死した者の靈と、軍神とに祈願が籠められつつあつた。藤崎神社譯者註

 

譯者註 熊本の古社八幡宮。

[やぶちゃん注:現在の熊本県熊本市中央区にある藤崎八旛宮(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。熊本市域の総鎮守。応神天皇を主祭神とし、神功皇后・住吉三神を相殿に祀る。社名は「幡」ではなく「旛」と書く。これは天文一一(一五四八)年)の後奈良天皇宸筆の勅額に基づくものである。参照したウィキの「藤崎八旛宮」によれば、承平五(九三五)年、『敕願により藤原純友の乱の追討と九州鎮護のために、国府の所在地であった宮崎庄の茶臼山に石清水八幡宮から勧請を受けて創建された』。『九州の石清水五所別宮の一社で』、『鎮座のとき、勅使が馬の鞭としていた石清水の藤の枝を地面に刺したところ、芽を吹き枝葉が生えたので、「藤崎」を社名としたという伝承がある。国府八幡宮として国司や朝廷の崇敬を受けた。鎌倉時代以降は歴代領主の崇敬を受け、江戸時代には熊本城の鎮守社とされた』が、明治一〇(一八七七)年、西南戦争で社殿を焼失し、現社地に移転して復興した』とある。当時の小泉八雲の居住地はこの中央付近(現在の復元された小泉八雲旧居は熊本で最初に住んだ場所でここからは少し南のこちらである)で神社の西北西七百メートル付近で、ごく近い。]

 

では守札を兵士に配付しつつある。併し一番莊嚴な儀式は、日連宗の名刹本妙寺のそれであつた。これは朝鮮の征服者、ジエシユイツトの敵、佛敎の擁護者であつた、加藤淸正の靈が三百年間眠れる處である。――此處は參詣人の唱へる南無妙法蓮華經の題目が大浪の樣に響く處だ――又此處は神と祀られる淸正公の小さい肖像を入れた寺院形の珍らしい護符を賣つて居る處である。此寺の本堂幷びに長い並木路に沿ふ兩側の末寺では、特別の法會が行はれ、淸正の宦へ神助を仰ぐ特別の祈禱が上げられた。三百年間本堂に保存された淸正の甲冑、兜、太刀は姿を隱して了つた。これは或る人の說では軍紀を鼓舞する爲めに朝鮮へ送られたのだと云ふ。又夜な夜な寺の庭でも蹄の音が聞こえて、再び日の御子の軍を勝利に導かんと、墓穴(おくつき)より出現せる淸正の幽靈が過ぐるを見たなどといふ者もある。疑ひもなく田舍の素朴な勇剛な靑年兵士の中には、それを信じた者も多からう――恰もアゼンの兵士がマラソンでセシウス將軍の在陣を信じた如くに。殊に多數の新募の兵には熊本その者が既に偉人の傳說で神聖化された驚愕の市と見え、其城は朝鮮で立て籠もつた城砦の設計に倣つて淸正が築いたもので、世界の不思議とも見えたのであらうから、尙ほ更の事である。

[やぶちゃん注:「本妙寺」熊本市西区の熊本城北西にある日蓮宗発星山本妙寺。日蓮宗の熱心な信者であった肥後熊本藩初代藩主加藤清正の墓であって彼を祀ったところの浄池廟(じょうちびょう)があることで知られる。

「ジエシユイツト」“Jesuit”。ジェスイットは文字列を見れば判る通り、イエズス会士のことで、ジェズイット教団、即ちイエズス会の異称である。

「アゼン」“Athens”。ギリシャの首都アテネ(Athens)の英語読みであるが、であれば「アゼンス」の方が一般的。

「マラソン」“Marathon”。地名。ギリシャ・アッティカ地方のアテネ北東にある村マラトン(ラテン文字転写:Marathṓn)。古代ギリシア時代の紀元前四九〇年に発生した「マラトンの戦い」(アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシアの遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦い)で知られる。陸上競技マラソンはこの戦いでの故事に由来する。

「セシウス」“Theseus”。テーセウス。ギリシア神話に登場する伝説的なアテーナイの王にして国民的英雄。ミノタウロス退治などの冒険譚で知られ、ソポクレースの「コローノスのオイディプース」では憐み深い賢知の王として描かれる。ヘーラクレースほどではないが、大岩を持ち上げるほどの怪力を誇る。プルタルコスの「英雄伝」では古代ローマの建国の父ロームルスとともに、アテーナイを建国した偉大な人物として紹介されている。「マラトーンの戦い」ではアテナイ軍の先陣に立ってペルシア軍に突っ込み、アテナイ軍の士気を大いに高めたという伝説があり(ここまではウィキの「テーセウス」に拠った)、ここはそれに付随した伝承の一つ(軍神としてのテーセウスが来臨していると信じたこと)と思われる。]

 こんな騷ぎの最中に市民は不思議に靜かにして居た。外見だけでは外人には迚も一般の感情は推測されぬ。

 

註 此一文は一八九四年(明治二十七年)の秋、熊本で書いたのである。國民の熱誠は凝聚して靜肅となつた。其外見上の靜けさの下には封建時代の獰猛さが燻(くすぶ)つて居た。政府は幾千とも知れぬ義勇隊――重に劍客の申し出を謝絕せざるを得なかつた。若しそんな義勇隊を召集したなら一週日の中には十萬人の應募者は得られたらうと思ふ。然るに敵愾心は意外な、又更に痛ましい方法で顯はれた。出陣を謝絕されたので自殺した者が多數ある。地方の新聞紙から手當たり次第に二三の奇怪な實例か引用しよう。京城に居む某憲兵は大島公使を日本に護送することか命ぜられたので、戰場へ行くことが出來ぬので無念の餘り自殺した。又石山といふ一士官は病氣の爲め所屬の聯隊が朝鮮に向け出發する日に、行を共にすることが出來ぬので病床から立ち上がり、天皇の聖影を拜した後、劍を拔いて自刄した。大阪の池田といふ兵士は何か軍紀に背いた廉で出征を許されぬと聞き、我れと我が身を銃殺した。混成旅團の可兒大尉に、彼の聯隊が忠州附近の一要塞攻擊中病氣で卒倒し、無意識の狀態で病院に收容されたが、一週間後に意識を恢復すると卒倒した處へ行つて(十一月二十八日)自殺した――其時の遺書は「ジヤパン デーリー メール」がつぎの如く飜譯した。「予は病氣の爲め此處に停まり、予が部下の要塞襲擊に參加するを得ざりしは、終生拭ふ可からざるの恥辱なり。此恥辱を雪がんが爲めに余はこゝに死す――予が哀情を語るべく此一書を遺して』

東京にある一中尉は、己が出征後、母のない一人の少女を世話する者もないので、其幼兒を殺して、發覺せざる中に己が隊と共に出征した。彼は其後戰場に、我が子と冥途の旅を共にすべく、死を求めて遂に之を得た。此一事は封建時代の殺伐な氣象を思ひ起こさしむる。武士(サムラヒ)が勝算なき職場に出る時、妻子を豫め殺して出陣した話がある。それは武士が戰場で思うてはならぬ三つの物を忘るゝに都合がよいからである――卽ち家、妻子、及び我が命。妻子を殺した後の武士は死に物狂ひに働く事が出來る――敵に情(なさけ)をもかけねば、敵の憐れみをも乞はずに。

[やぶちゃん注:冒頭に明治二七(一八九四)年秋に執筆した旨の記載があるが、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の同年の一月の条に『二十五日(木)付で、チェンバレンより、依頼しておいた「熊本籠城の唄」の翻訳が送られる。後に「願望成就」』(本篇のこと)『のなかで利用されることになる』とあって、実際に最後の章にその歌(軍歌)が出現する。私は本篇と全く無関係にこれが成されたとは思い難いことから、実は本篇の漠然とした構想は実際にはこの頃か、或いはこの前の年辺りにあったのではなかろうかとも思われるのである。無論、日清戦争勃発前に当たるわけであるが、熊本の第六師団が住まいに近かったこと、戦争のキナ臭ささは半島や中国との関係の中で漂い始めていたことから、私はそう(戦争の予感から、若き兵の出陣と、その中に自分の嘗ての教え子が含まれるであろうことを想定しての漠然たる予感的構想設定をすること)考えて構わないように感じている。

 公衆の靜肅さは特に日本的であつた。民衆は個人の樣に、感動すればする程、外見上は益〻自制的になるのである。天皇は在鄕の兵士に酒肴と、慈父の如き愛憐の詔書を下賜された。國民も之に倣つて便船每に酒、食糧、果物、菓子、烟草其他各種の寄附品を送りつつある。高價の寄附に堪へぬ輩は、草鞋を贈りつつある。全國民は軍事資金に献金しつつある。熊本は決して富める市ではないが、尙ほ貧富とも全力を盡くして其忠誠を證明せんと力めつつある[やぶちゃん注:「つとめつつある」。]。商人の小切手、職人の紙幣、勞働者の銀貨、車夫の銅貨、雜然混淆して、何れか同胞の爲めに微力を致さんと奢侈を戒め、冗費を省きたる結果にあらざるはない。子供すら献金した。そして其同情ある小献金は謝絕されなかつた。それは普遍的な愛國心の動きは決して挫折されぬ樣にとの注意からである。併し又豫備兵の家族の爲めに特別の寄附金募集が町々で企てられた。――豫備兵は既に結婚して、大部分は低級の職業に從事して居るのだが、突然召集されたので、妻子は糊口の道を失うたから、其糊口の道を立ててやらうと、市民が自發的に嚴然と誓つて努力しつつあるのである。こんな非利己的な同胞の愛を背後に有する兵士が、兵士としての義務を十二分に盡くすべきは疑ふの餘地がない。

 そして彼等は盡くしたのである。

 

        

 自分に逢ひたいといふ兵士が玄關に來て居ると萬右衞門が云つた。

 『萬右衞門、それは兵隊の宿を此家(ここ)へ割り附けようといふのではあるまいな――此家は狹過ぎるから。何の用だか聞いてお吳れ』

 『聞きました』萬右衞門が答へた。『あの兵隊は貴君(あなた)を御存じ申して居ると申します』

[やぶちゃん注:「萬右衞門」しばしば小泉八雲の作品に登場する家の老僕とするが、概ね実際にはセツ夫人のことであることが多いようである。但し、同居していたセツの養祖父は稲垣万右衛門という名であり、実際、別な作品では年譜と照合すると時に彼であることもあるが、この場合はセツの方がしっくりくるように思われる。特に第二章の本篇の終わりのシークエンスは本当は彼女でなくてはならないと感ずる。]

 自分は玄關へ出て行つて見ると、軍服姿の好靑年が、自分の現はれたのを見て微笑して帽子をとつた。自分には見覺えがない。併し其微笑には覺えがある。一體、何處で見たのだらう。

 『先生眞(まこと)に私をお忘れになりましたか』

 又暫くいぶかりながら自分は彼を凝視した。すると彼は穩かに笑つて名を名乘つた――

 『小須賀淺吉です』

 自分が兩手を差し出した時、自分の心臟まで彼の方へと躍つた。

 『さあお上がりお上がり』自分はどなつた。『併し君は實に大きく立派になりましたね。分からなかつたのに不思議はない』

 彼は靴を脫ぎ劍を外づしながら、小娘のやうに赤面した。彼は授業中間違つた時も、賞められた時も、此通りに顏を赧く[やぶちゃん注:「あかく」。]した事を想ひ出した。明らかに彼は松江の中學で十六歲の羞恥(はにかみ)がちの少年であつた時と同樣に、今でも尚ほ淸新な心を有して居るに相違ない。彼は暇乞ひの爲め、自分を訪問する許可を得て來だのだが、彼の聯隊は明朝、朝鮮へ出發するのだといふ。

 自分は彼を引き留めて會食した。そして往事を談じた。――出雲の事、杵築の事、其外色々愉快な事を話した。初めは知らずに渠に酒を勸めたが、彼は決して飮まなかつた。軍隊に在る間は、決して飮酒せぬと母に約束して來たといふことを後(あと)で知つた。それで酒の代りに珈琲を進めて彼が身上話を引き出さうと力めた。彼は卒業後富める農家である一族に助力する爲め故鄕へ歸つたのであつたが、學校で學んだ農學が大分役に立つたといふ。一年後に十九歲に達した村の凡ての靑年と共に、徵兵候補として寺へ召集され、規定の檢査を受けた。處が檢査官の軍醫と司令部の少佐との會議で一番に合格し、つぎの入營期に引き出された。そして十三箇月の勤務の後伍長に昇進した。彼は軍隊が好きであつたのだ。初めは名古屋に居たが、つぎに東京へ轉じた。併し名古屋の聯隊は朝鮮に出征せぬのを知つて、熊本師團へ轉勤を願ひ出でて許されたのであつた。『私は非常に嬉しいです』と彼の顏は軍人らしい喜びを以て輝きつつ叫んだ。『我々は明日立つのです』そして喜びを露骨に發表したのを恥づるが如く又顏を赧くした。自分はカーライルの、誠實な心を誘ふものは快樂でなくて、苦難と死だと云つた深い言葉を思ひ出した。自分は又――これは日本人には云へない事だが――此靑年の眼中の喜悅は、自分が今迄に見た何物よりも、婚禮の日の朝の花婿の眼の色に髣髴たるものであると思つた。

[やぶちゃん注:「カーライル」イギリスの歴史家・評論家トーマス・カーライル(Thomas Carlyle 一七九五年~一八八一年)。出典未詳。]

 『君は覺えて居ますか』自分は問うた。『君は學校で陛下の爲めに死にたいと云つた事がありましたね』

 『ハイ』笑ひながら彼は答へた。『そして其機會が來たのです。私にばかりではない。級友の多くにも』

 『みんな何處に居ます』自分は問うた。『君と一緖かね』

 『いや、みんな廣島師團に居ました。今はもう朝鮮に往つて居ます。今岡(先生御記憶でせう。身長(せい)の高い男です)と長崎と石村――これだけは皆、成歡の戰爭に參加しました。それから敎練の先生であつた中尉――御記憶ですか』

[やぶちゃん注:「成歡の戰爭」「成歓(せいかん/ソンファン)の戦い」は日清戦争の最初の主要な陸戦。「成歓・牙山(がざん/アサン)の戦い」とも呼ぶ。ウィキの「成歓の戦いによれば、一八九四年六月八日、葉清国軍(北洋陸軍・歩兵約二千五百名・山砲八門)が牙山に上陸し、七月二十四日には三千八百八十名に達した。七月二十三日午前二時、日本軍の混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が郊外の駐屯地龍山から漢城に向かった。民間人を徴用して『電信線を切断し、歩兵一箇大隊が朝鮮王宮を攻撃し、占領した。日本は国王高宗を支配下に置き、大院君を再び担ぎだして新政権を樹立させた』。二十五『日、朝鮮の新政府は清国の宗主権破棄を宣言、大鳥圭介公使に対して牙山の清国軍撃退を要請した』七月二十六日には混成第九旅団に『その旨が伝達されて』いる。七月二十八日に『日本軍は牙城に』籠る『清国兵を攻撃するため』、進発、七月二十九日午前三時二十分、『佳龍里おいて清国兵の攻撃により』、歩兵第二十一連隊第十二『中隊長松崎直臣歩兵大尉が戦死し(日本側初の戦死者)、他数名が死傷した(安城の渡しの戦い)』。午前八時三十分、日本混成第九『旅団は成歓の敵陣地を制圧』した。『大島旅団長は清国軍の主力が牙山にあるとし』て、七月二十九日『午前に全旅団に牙山へ向け出発を命じた。午後』三『時頃、牙山に到達したが、清国軍は敗走していた』。『この作戦の日本側の死傷者は』八十八『名なのに対して、清国兵は』五百『名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡』していた。また、この「安城の渡しの戦い」で歩兵第二十一連隊の『木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る』とある。最後の知られたエピソードについては、「小泉八雲 戦後雑感 (石川林四郎訳)」の「二」の本文と原注及び私の注を参照されたい。

 『藤井中尉か、覺えて居る。退職士官だつたね』

 『併し豫備でした。彼(あ)の人も朝鮮へ行きました。先生が出雲を去られてから、男の子をも一人儲けられました』

 『僕が松江に居た時は、女の子が二人、男の子が一人ありましたね』

 『さうでした。今は二人男の子があります』

 『そんなら家族は大分心配して居ませう』

 『中尉自身は心配しません』靑年は答へた。『戰爭で死ぬのは名譽です。戰死者の家族は政府で世話して吳れます。だから士官邊は少しも心配がありません。ただ――子息がなくつて死ぬのは一番悲むべきです』

 『僕には解せない』

 『西洋ではさうでありませんか』

 『却つて我々は子供があるのに死ぬのが尤も悲むべきだと思ひます』

 『どういふ理由でせう』

 『善良な父は凡て子供等の將來を心配しませう。若し突然父親が居なくなつたら、子供等は色々の難儀をしようぢやありませんか』

 『日本の士官の家族はさうでありません。子供は親戚で世話するし、政府からは扶助料が下がります。だから、父親は心配するに及びません。だが子供が無くて死ぬ者は氣の毒です』

 『といふのは妻と其他の家族が氣の毒だといふのかね』

 『いや當人が氣の毒です、夫自身が』

 『それはどうして。子供があつたつて死人には何の役にも立つまいぢやないか』

 『子供があれば後を繼ぎます。家名を保存します。そして供養を致します』

 『死者への供養ですか』

 『さうです。お分かりになりましたか』

 『事實は分かつたが、感情が僕には分からない。軍人は皆、今でもこんな信念と有(も)つて居ますか』

 『有つて居ますとも。西洋にはそんな信念はありませんか』

 『今はないね。昔の希臘人や羅馬人はそんな信念を有つて居ました。祖先の靈は家に遺つて居て、供養を受け、家族を守護すると思つて居ました。彼等が何故さう思つたか我々にも幾分分かります。併し彼等が何う感じたか、それは判然(はつきり)分かりません。それは我々自分[やぶちゃん注:ママ。]が經驗しない、若しくは遺傳しない感情といふものは、分かるものでありませんから。同じ理由で僕には死者に對する日本人の其の感情は分かりません』

 『そんなら先住は、死は凡ての終はりだ、とを考へですか』

 『いや僕の不可解(わからない)のはさう考へるからではない。或る感情が遺傳する――或る思想も多分遺傳する。死者に就ての君の感情と思想、又死者に對する生者の義務感といふものは、西洋のとは全然違ひます。我々には死といふ槪念は生者からのみならず、此恍からの全き別離を意味するのです。佛敎も死者は長い暗い旅行をせねばならぬ事を說いてるぢやありませんか』

 『冥途の旅ですか。さうです、みんな其旅を致します。併し我々には死を全き別離とは考へません、我々は死者も我が家に居る如く考へて、每日言葉をかけます』

 『それは知つてます。僕に分からぬのは其事實の背後の思想です。若し死人が冥途へ行くのなら、何故佛壇の祖先に供物を供へ、實際在す[やぶちゃん注:「ます」。そこにおられる。]が如くに祈禱をしますか。一般俗衆はかうして佛敎の敎と神道の信念を混同して居ませんか』

 『多分混同して居る者も澤山ありませう。併し全くの佛敎信者にも死者への供養と祈禱は、同時に異る場處でなされます。――檀那寺でも又家庭の佛壇で島』

 『併しどうして靈魂が冥途に在ると同時に、此世の樣々な場處に在ると考へられるでせう。たとひ靈魂は分割されると信ずるにしても、それだけでは此矛盾を說明し盡くされません。佛敎の敎へに從ふと、死人は後世で裁判を受けて、居處を決せられるやうになつて居ますから』

 『我々は靈魂は一にして又二に又三にもなるものと信じて居ます。我々は靈魂は一人のものとして考へますが物質的のものとは考へません。丁度空氣の動く樣に同時に幾箇處にも居られるものと考へます』

 『或は電氣の樣に』と自分は補つた。

 『さうです』

 

 此の若き友の心には明らかに冥途と家庭の供養といふ二つの槪念は、調和し得ぬものとは思はれぬのであつた。多分如何なる俤敎哲學の學者にも、此二つの信念が重大な矛盾を含むものとは見えねだらう。『妙法蓮華經』は佛の境界は廣大無邊――大氣の涯(はて)なきが如しと說いて居る。又久しく涅槃に入りたる佛に就ては『其完全なる滅後と雖も、十方世界を徘徊す』と宣べて居る。又同じ經は凡ての佛達の同時に出現せし由を說きたる後、釋迦をして宣せしむらく、『是皆我が分身なり。其數は恒河の砂の如く千萬無量なり。彼等は妙法を實現せんが爲めに現はれたり』併し平民の無邪氣な心に、神道の原始的な思想ともつと的確な佛敎の靈魂裁判の敎義との間に、眞の調節が出來て居ない事は、自分には明らかに見ゆる。

[やぶちゃん注:「恒河の砂」「ごうがのすな」。「恒河沙(ごうがしゃ)」。「恒河」はガンジス川を意味するサンスクリット語「ガンガ」を漢音訳したもので、「恒河沙」とは「ガンジス川にある無数の砂」の意であり、もともと「無限の数量」の例えとして仏典で用いられていた。例えばここでハーンが引く「法華経」の「堤婆達多品」(だいばだったほん)」の中の「恒河の砂ほど多くの衆生が仏の教えを聴く」がよく知られ、漢字文化圏に於いてはこれが数の単位の一つとなった。その数量は時代・地域により異なり、人によって解釈が分かれるが、一般的には1052或いは1056とも言う(以上はウィキの「恒河沙」に拠った)。]

 

 『君はほんとに死を生と同樣に、又光と同樣に考へますか』

 『さうですとも』微笑しながら答へた。『我々は死後も家族と一緖に居ると思ひます。兩親や友達にも逢ふでせう。卽ち此世に遺つて居るでせう――今と同樣に光を見ながら』

 (此處で突然自分には或る學生が義人の未來を論ずる作文の中で『彼の靈は永久に宇宙を翺翔[やぶちゃん注:「かうしやう(こうしょう)。空高く飛ぶこと。]と書いた言葉が新しい意味を以て、思ひ出もれた)

 『ですから』淺吉は續けて云つた。『子供のある人は元氣好く死ねるのです』

 『飮食物の供物を子供が靈魂に供へるからですか。そしてそれがないと靈魂は困るのですか』と自分は問うた。

 『そればかりではありません、供養よりも、もつと重大な義務があります。それは誰れでも死後に、自分を思慕して吳れる者を要求するからです。お分かりになりましたか』

 『君の言葉だけは分かりました』自分は答へた。『君の信念の事實だけは分かりました。感情は僕には解せません。僕には僕の死後、生きてる[やぶちゃん注:ママ。]者から思慕されても幸福になるとは考へられません。いや僕は死後に何等の愛をも感知し得るとは想像されません。して君はこれから戰爭に遠くへ往くのだが――子供のないのは不運だと思ひますか』

 『私が。いや、私自身が子供です――末の方の子供です。兩親はまだ生きて居て丈夫です。そして、兄が世話をして居ます。私が殺されたら、私を思つて吳れる者が澤山あります――兄弟や姉妹やそれから幼い者もあります[やぶちゃん注:底本は「ありす」。特異的に補った。]。我々兵士は別です。我々はみな、極若いですから』

 『何年間程』自分は尋ねた。『供物は死人に供へられるのかね』

 『百年間です』

 『たつた百年間』

 『ハイ、寺でも百年間だけしか、祈禱と供養は致しません』

 『そんなら死人は百年で追懷されずともよくなるものですか。それとも彼等は遂に消滅するのかね。魂魂の死滅といふ事があるのかね』

 『いや、百年後にはもはや家に居なくなるのです。生まれ更はるのだとも云ひますが。又或る人は彼等は神になるのだと申します。そして神として尊敬し、一定の日に床の間で供へ物を致します』

 

 (これは普通行はれて居る解釋であるが、これと不思議にも相反せる思想に就て聞いた事がある。非常に德望のある家では、祖先の靈が物質的の形態を取つて、數百年の間、折折現はれるといふ傳說があるのである。昔、或る千箇寺參詣者(まゐり)[やぶちゃん注:前三文字へのルビ。]が、遠い或る邊鄙の地で二人の靈魂を見たといふ記錄を遺して居る。彼等は小さい朦朧たる形態で『古銅器の樣に黑い』と云つてある。彼等は口はきけないが、低い呻く樣な聲を發する。又每日供へられる食物を食ひはせぬが、ただ暖かい湯氣を吸入する。彼等の子孫の云ふ處に依ると、彼等は年々益〻小さく、益〻朦朧となるといふ)

 

註 これは日蓮宗の名ある寺を千箇處巡拜する信者の事で、此旅行を終はるには數年を要するのである。

[やぶちゃん注:このハーンの言う伝承やそれを記録したものを私は寡聞にして知らない。識者の御教授を乞う。]

 

 『我々が死者を思慕するのは甚だ變とお考へですか』淺吉は啓ねた。

 『いや』自分は答へた。『それは美しい事だと思ひます。併し西洋の一外人としての僕には、其慣習は今日のものらしくない、寧ろ昔の世界のものらしく思はれます。古希臘人の死者に對する考は、現代の日本人に大分似て居つたらうと思ひます。ペリクレスの時代のアゼンの兵士の感情は、多分明治時代の君等と同じであつたらう。君は學校で、希臘人が死者に犧牲[やぶちゃん注:「いけにへ」と訓じておく。]を供へた、英雄や愛國者の靈に敬意を拂つた事を讀んだでせう』

[やぶちゃん注:「ペリクレス」(紀元前四九五年?~紀元前四二九年)は古代アテナイの政治家でアテナイの最盛期を築き上げた政治家として知られるのことである。

「アゼン」「一」に既出既注。“Athens”。アゼンス。ギリシャの首都アテネ(Athens)、アテナイのこと。]

 『讀みました。彼等の習慣の中に我々のに似て居るのがあります。我々の中で支那と戰つて倒れる者も同樣に敬意を拂はれるでせう。神として崇められるでせう。天皇陛下すら敬意を寄せられるでせう』

 『併し』自分は云つた。『先祖の墳墓の地を遠く離れて、外國で戰死するのは、西洋人にすら、甚だ氣の毒に思はれます』

 『いやいや。鄕里の村や町には戰死者の爲めに記念碑が建てられませう。そして屍骸は燒いて骨にして日本に送ります。少くともそれが出來る處ではさう致します。ただ大戰の後ではむつかしいでせう』(突然ホーマーの詩の記憶(おもひで)が胸に漲(みなぎ)つて、『屍の山が其處にも此處にも絕え間なく燒かれた』といふ古戰場の幻影(まぼろし)が自分の眼に浮かんだ)

[やぶちゃん注:「ホーマー」“Homer”。紀元前八世紀後半頃のギリシャの盲目の吟遊詩人ホメロス(ラテン文字転写:Homēros)のこと。小アジア西岸地方に生まれとされ、ギリシャ各地を遍歴したと伝えられる。二大英雄叙事詩「イリアス(イリアッド)」「オデュッセイア」の作者とされ、古来、最高の詩人と称されてきている。その二大詩は古代ギリシャの国民的叙事詩として、文学・教育・宗教・美術などに多大の影響を与えた。以上は「イリアス」の序文一節。英文ウィキソースのこちらで当該箇所(第二パラグラフの最後)が読める。]

 

 『そして此戰爭で殺された兵士の靈は』自分が問うた。『國難の時には、國を護り給へと常に祈られるのだらうね』

 『さうですとも。我々は全圖民に敬愛せられ、崇拜されるのです』渠は既に死ぬと極まつた者の樣に『我々』と云つたが、それは、全く自然に聞こえた。暫し沈默した後で又續けた――

 『去年學校に居る時行軍を致しましたが、其時意字(いう)地方の英雄の靈の祀られてある神社へ參りました。それは丘陵に圍まれた美しい淋しい處で、祠(やしろ)は高い樹木で蔽はれて居ます。そしていつでも薄暗く、冷たい靜(しん)とした處です。我々は祠の前に整列しましたが、一人も物云ふ者はあしませんでした。其時喇叭が、職場への召集の樣に神の森に鳴り響きました。そして私の眼には淚が出ました――何故とも分からずにです。同輩を見ると、みな私と同樣に感じたらしいのです。多分先生は外國人ですから、お分かりになりますまい。併し日本人なら誰れでも知つて居る、此感情をよく表現した歌があります。それは西行法師といふ高僧が昔詠んだものです。此人は僧侶にならぬ前は武士であつて、俗名を佐藤憲淸と云ひました。――

 

 なにことのおはしますかは知らねとも

      ありかたさにそなみたこほるる

 

[やぶちゃん注:「意字(いう)地方」現在の島根県松江市意宇町があるが、ここは「地方」と言っており、これは旧意宇郡(おうぐん)で、現在の松江市の一部(大橋川以南及び大根島・江島)であろう。ウィキの「意宇郡」の地図でその広域一帯が確認出来る。同郡は後の明治二九(一八九六)年四月一日に八束郡となっているから齟齬はない。而して、意宇郡内で最も知られた古い神社は熊野大社で、祭神は「伊邪那伎日眞名子(いざなぎのひまなご)加夫呂伎(かぶろぎの)熊野大神(くまののおおかみ)櫛御氣野命(くしみけぬのみこと)」であるが、これは素戔嗚尊の別名であるとするから本文の「英雄」と一致する参照したウィキの「熊野大社」によれば、「伊邪那伎日真名子」は「イザナギが可愛がる御子」の意で以下、「加夫呂伎」は「神聖な祖神」、「熊野大神」は鎮座地名・社名に大神をつけたもので、実際の神名は「櫛御気野命」ということになり、『「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である』。これは「出雲国造神賀詞」に出る神名を採ったもので、「出雲国風土記」には『「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなぎのまなご くまのにます かむろのみこと)」とある。現代では櫛御気野命と素戔嗚尊とは本来は無関係であったとみる説も出ているが』、「先代旧事本紀』」の『「神代本紀」にも「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、少なくとも』、『現存する伝承が成立した時には』、『すでに櫛御気野命が素戔嗚尊とは同一神と考えられていたことがわかる。明治に入』ってから、『祭神名を「神祖熊野大神櫛御気野命」としたが、復古主義に基づいて神名の唱え方を伝統的な形式に戻したまでのことで、この段階では素戔嗚尊とは別の神と認定したわけではない。後の神社明細帳でも「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」とあり、同一神という伝承に忠実なことでは一貫しており、別の神とするのはあくまでも現代人の説にすぎない』とある。

「なにことのおはしますかは知らねとも」「ありかたさにそなみたこほるる」原文は日本語のローマ字表記四行書きで、「なにごとの」「おわしますかは」「そらねども」「ありがたさにぞ」「なみだこぼるる」となっている。本歌は西行が伊勢神宮に参拝した際に歌ったとされるものであるが、古来、真贋の論争が喧しいものである。整序すると、

 何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに淚こぼるる

である。]

 

 自分がかういふ經驗談を聞いたのは、これが初めてではなかつた。自分が敎ふる學生の多くは、古い神社の緣起と朧氣な嚴肅さとに依つて喚起された感情を語るに躊躇しなかつた。實際淺吉の此經驗は深海の漣と同樣、決して單獨のものではなかつた。彼はただ一民族共有の祖先傳來の感情――神道の漠乎たる併し測り知られぬ深さを有する情緖を述べたに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「深海の漣」はママ。原文は“a fathomless sea”であるから判らぬではないが、「測り知れぬ底知れぬ大海」で「大海」の方が漣(さざなみ)としっくりくる。

「漠乎」(ばくこ)測り知れない広さを指す。「乎」は強調の助字。]

 我々は軟らかい夏の闇が落ちかかる迄話し續けた。星と兵營の電燈が諸共に閃き出した。喇叭が鳴つた。そして淸正の古城から、雷の樣な一萬の兵士の歌ふ太い聲が夜の中へ轉げ出した。――

 

      西も東も

        みな敵ぞ、

      南も北も

        みな敵ぞ。

      寄せ來る敵は

        不知火の

      筑紫のはての

        薩摩潟。

 

 『君もあの歌を習つたかね』と自分が聞いた。

 『習ひました』淺吉が云ふ。『兵士は誰れでも知つてます』

 それは籠城の歌『熊本籠城』といふ軍歌であつた。我々は耳を欹てて[やぶちゃん注:「そばだてて」。]聞き入つた。その偉大な合唱の響の中に、詞の幾分を聞か分くることも出來た。

 

      天地も崩る

        ばかりなり

      天地は崩れ

        山川は

      裂くる例の

        あらばとて

      動かぬものは

        君が御代。

[やぶちゃん注:以上の歌詞は各行が短いので、底本の位置で示した。これは西南戦争に於ける熊本鎮台の籠城作戦(籠城した鎮台軍は三千三百名)を主題とした軍歌「熊本籠城」(作詞者不詳・音源は探してみたが、見当たらない)の一部。前者は冒頭部分で、後者は中間部の一節。全篇はブログ「陸・海軍礼式歌」のこちら(電子化されてある。但し、一部表記に問題がある)、或いは国立国会図書館デジタルコレクションの「新撰軍歌集」(明治二一(一八八八)年・熊本楽善堂刊)のこちらで画像で読めるが、後者で照らし合わせると、前の「筑紫」は「ちくし」とルビし、「薩摩潟」は「薩摩方」となっている(前者は「薩摩潟」)。後の方は「天地も崩る」が「天地も崩るゝ」となっており、「山川」が「山河」、そして「裂くる例の」は「烈(さけ)るためしの」となっている。前者のそれは「裂かる例の」となっているから、折衷して「裂(さけ)る例(ためし)の」が穏当か? 但し、ハーンの原文では「さくる」となっており、個人的には「裂くる例の」がしっくりくる気はする。なお、「薩摩潟」の場合は薩摩国の南方の海上を漠然と言ったものであろう。薩摩潟という潟や入り江及び沿岸地名は実在しない。後者はその事実を意識して「方」としたものかも知れない。]

 

 暫しの間淺吉は歌の强い律(リズム)に合はせて肩を搖りながら聞いて居たが、突然目覺めた者の如く笑つて云つた。――

 『先生、お暇致します。今日はお禮の申し上げ樣もありません、非常に愉快でした。併し先づ』――と胸から小さい包みを出して『どうぞこれを納め下さい。久しい以前に寫眞をと仰しやいましたが、紀念(かたみ)に持つて參りました』

と立ち上がつて劍を着けた。自分は玄關まで送り出して彼の手をぢつと握つた。

 『先生、朝鮮から何をお送り致しませう』彼は問うた。

 『手紙さへ貰へばよい』自分は云つた。『つぎの大勝利の後でね』

 『筆さへ握れましたら、それは屹度』彼は答へた。

 さて銅像の樣に身體を眞直ぐにして、制規の軍人式敬禮を行つて、闇の中へ大股に淸消えて了つた。

 自分は淋しい客間へ歸つて冥想した。軍歌の轟きが聞こえる。汽車の囂音が聞こえる。其汽車は幾多の若き心、幾多の貴い忠義、幾多の立派な誠と愛と勇とを載せて、支那の稻田の疫癘[やぶちゃん注:「えきれい」は「悪性の流行病・疫病」の意であるが、ここは戦争の換喩。]の中へ、死の旋風の眞中央(まつただなか)へと運び去るのであつた。

 

       

 地方の新聞紙に依つて發表された長い戰死者名簿の中に、小須賀淺吉の名を發見した日の夜、萬右衞門は客間の床の間を祭祀用に裝飾して燈明をつけた。花瓶には花を一杯挿し、色々の小さい燈火を並べ、靑銅の小さい鉢に線香を燒‘た)いた。準備が調つた處で自分を呼んだので、床の間へ近寄つて見ると、中に淺吉の寫眞が小さい臺の上に立ててあるのを見た。その前には飯、果物、菓子などが小さく並べてあつた――老人の供物である。

 『多分』萬右衞門がおづおづ云つた。『旦那が何とか物を云つて上げたら、淺吉の靈が喜びませう。旦那の英語が了解(わか)りませうから』

 自分は彼に物を云つた。すると寫眞は線香の煙の中で微笑むやうに見えた。併し自分の云つた事は、彼と神々にばかり分かる事であつた。

[やぶちゃん注:ここに登場する松江中学時代の教え子「小須賀淺吉」なる人物は、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)を見ても、このような教え子の訪問事実が出てこず、ネットで検索をかけても本篇を紹介する記載でヒットするばかりであった。辛うじて「富山八雲会」公式ブログの二〇一〇年三月十五日の「3月例会報告」(「富山八雲会」二〇一〇年三月十三日に行われた例会の報告記事)の『1 輪読会「願望成就」…担当:木下・綿谷』の中に『小須賀浅吉自体は実在しない?』とあるのを見い出せた。或いはモデルの教え子はあるかも知れぬが、実在する人物ではないようだ。議論の内容から見ても、これだけの信仰論議を英語でし得る、この年齢の、この設定の人物というのは、ちょっと考え難い気はする。……にしても……この話……元教師であった私の胸を刺すものがある…………

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