フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 三州奇談卷之一 山代の蜈蚣 | トップページ | 三州奇談卷之一 那谷の秋風 »

2020/01/30

三州奇談卷之一 鶴瀧の記事

 

    鶴瀧の記事

 山中四瀧の一つ鶴瀧、【又一名釣ケ瀧】湯元より五十町道、黑谷の城跡を越ゆる峠あり。下りて四十九院と云ふ里に入り、荒谷の道に着く。谿澗の道、山の尾を𢌞(めぐ)りて、漢𤲿中に遊ぶに似たり。澗水は皆鶴が瀧より落て二流に分れ、一つは大聖寺福田川となり、一つは動橋(いぶりばし)の内へ落ち、猶餘流ありて鵜川に分ると云ふ。鵜川合戰と云ふは爰なり。荒谷の河の中に島臺松と云ふあり。水中奇石の上に老松枝をたれ、忽ち白鶴を招くべき氣色(けしき)あり。里人の名づくる所宜(むべ)なり。木曾の寢ざめの床に類して小(ちさ)きものなり。此向ひに大石あり。昔名將の馬上にて登りし跡とて、駒の蹄の跡一尺許落入りて、七八十足跡もつらなり並ぶ一奇觀なり。此躰(てい)の石は所々に有るものにして、吉野の吉水院にもひづめの蹟の石あり。然共如ㇾ此(かくのごとき)足跡の多き大石は見ず。是所謂佛足石の類(たぐひ)成べし。瀧村を出て深森の古社あり。其中を通りて瀧の本(もと)へいたる。水を渡る石徑佳趣あり。兩道皆大斧劈(だいふへき)小斧劈、甚だ觀をなすによし。爰に或る人の作あり。寫を成さずといへる瀑布中の景を寫すに似たり。故に今之を書す。且つ京師名家の和作あり、並(あは)せ書す。

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。読点の後であるのはママ。標題は国書刊行会本と「加越能三州奇談」では「白瀧紀事」である。

「山中四瀧」「圍爐裏の茸」で既出既注。

「鶴瀧」「【又一名釣ケ瀧】」同前で既注したが、再掲すると、サイト「加賀市観光情報センター KAGA旅・まちネット」の「山中温泉 鶴ヶ滝」によれば(滝の地図と動画あり)、『大小』五『段の滝で、一番奥の最大のものは二筋に分けられており、高さ』は『五段』を『合わせて』三十メートルほどとされ』、『広場には鶴ケ滝不動王がまつられており、ここから眺める鶴ケ滝が最も美しく、しぶきをあげる二筋の滝の様は、鶴の足のようであると』いうこと『から』、『滝の名前の由来もここからきていると言われてい』るとある。

「五十町道」道程凡そ五・四五キロメートル相当の意。現在の山中温泉総湯から想定ルートを測ってみると凡そ六キロメートルほどはある。

「黑谷の城跡」「山中の隕石」で既出既注。

「四十九院」山中温泉四十九院町(しじゅうくいんまち)町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「荒谷」現在、鶴ケ滝自体が山中温泉荒谷町(あらたにまち)内にある。

「漢𤲿」南画の水墨画。

「動橋(いぶりばし)」この読みは国書刊行会本による。ここ。因みに、この名前は同じ加賀の小松と大聖寺の間に設けられた北国街道の旧宿場町の名前としてよく知られるが、この川名は下流に近いこの宿場に基づくものであろう。

「澗水は皆鶴が瀧より落て二流に分れ、一つは大聖寺福田川となり、一つは動橋(いぶりばし)の内へ落ち、猶餘流ありて鵜川に分ると云ふ」この記載は現行の地図を見る限りでは不審である。鶴ケ滝の谷水は、すぐに現在の動橋川(いぶりばしがわ)に合流し、動橋川はそのまま下って、柴山潟へ下っており、大聖寺川(「福田川」は異名)は尾根を隔てて西に流れていて、地図上で見る限りでは、現在の動橋川は大聖寺川には分流していないからである。また、ここは国書刊行会本では『猶(なほ)余流有(あり)て湯衆寺鵜川に分(わか)るといふ』とあり、「近世奇談全集」では『猶餘流ありて温泉鵜川に分ると云ふ』とあって、孰れも半可通な表現で、何が何だか判らない。一応、地形から前半を無効とし、「鵜川」は現在の動橋川ととっておく。

「鵜川合戰と云ふは爰なり」の前には国書刊行会本では、「鵜川は石を伐つて出す。土俗にカハ石といふ。『盛衰記』に所謂加州鵜川合戰と云ふもの書(しよす)也(なり)。」とある。個人サイト「北摂多田の歴史」の「多田蔵人行綱公と多田氏の研究」の「鹿ケ谷の変と加賀国鵜川にある叡山末寺」の章に、「鹿ケ谷の陰謀」が発覚(謀議に参加した北面の武士多田行綱(生没年未詳)の密告とされる)する直前に、

   《引用開始》

 鹿ヶ谷の密会後、行綱公が清盛に密告する前に、後白河帝と山門との間に争いごとが起こりました。入道西光の子で加賀守藤原師高と云う者がありました。その弟で藤原師経が目代を勤めていましたが、加賀国鵜川にある叡山の末寺との間で合戦をして寺を焼き払ったと言うのです。『高代寺日記』に次のように記しています。

「安元二年(1176年)四月、賀刕鵜河ノ僧国司ト間アリ、云々、七月、加賀国司藤原師高山徒ト云分アリ、師高カ弟ヲ師経ト云、目代トシ在国シ、山門末寺鵜河ノ僧ト相論シ、坊舎ヲ焼合戦セリ、」(高代寺日記)

「治承元年四月十三日、山門衆徒依白山之訴、加賀守師高並父西光法師、本左衛門尉師光雖訴申此両人、無裁訴之間、奉具神輿、参陣、依官軍禦神輿、後日、射神輿下手人禁獄、日吉祭延引、四月廿八日、夜、自朱雀門北至于大極殿、小安殿、八省院及神祇官焼失、火起樋口冨小路、京中三分之一灰燼、世人稱日吉神火、五月四日以後、座主明雲付使廳使被譴責、大衆張本之間、衆徒弥忿怒、五日、明雲座主解所職等、配流伊豆國之間、衆徒五千余人下會粟津□、奪取座主登山、已朝威如無、六月一日、六波羅相國禅門召取中御門、大納言成親卿已下祇候院中人々、召問世間風聞之説、其中西光法師、依有承伏之子細、忽被斬首畢、成親卿已下、或處遠流、或解官停任、叓起院中人々相議可誅平家之由、結搆之故、云々」(帝王編年記巻廿二)

 末寺は叡山に訴えて、叡山山門は院に師経と師高兄弟の処分を求めて強訴しました。院は師経を備後国に配流しますが、山門はそれでも不承知で、さらに国司師高を尾張国に配流することになりました。ところがあろうことか洛中から火の手が上がり大極殿や関白基房邸ら多数の家屋敷が焼亡すると云う事態になったのです。院はお怒りになり天台座主明雲を解任し伊豆国に配流することになりました。源頼政公に命じて明雲を伊豆に連行する途中、近江国粟津で僧兵等が明雲を取り戻します。その直後のこと、くだんの行綱公の密告があり事態が急変したと言うことです。

   《引用終了》

とある最初の引用が、ここに言う「鵜川合戰」のことである。所持する「源平盛衰記」を調べたところ、「巻第四 涌泉寺喧嘩」がそれであることが判った。涌泉寺は現在の石川県小松市鵜川にあったと比定されている。しかしここはこのロケーションとは全く離れていて話にならない(試みに計測してみても、鶴ヶ滝から二十キロ以上東北、動橋川の河口(柴山潟)からでも十四キロある)から、これは仮に「動橋川」が「鵜川」と呼ばれていたにしても筆者の勘違いとしか思われないのである。

「島臺松」不詳。少なくとも松は現存しない模様である。

「木曾の寢ざめの床」木曽川の水流によって花崗岩が侵食されて出来た自然地形である「寝覚の床」。長野県木曽郡上松町にある景勝地

「此向ひに大石あり。昔名將の馬上にて登りし跡とて、駒の蹄の跡一尺許落入りて、七八十足跡もつらなり並ぶ一奇觀なり」不詳。現存しないか。但し、後の「瀧村を出て深森の古社あり」の注も参照。

「此躰(てい)の石は所々に有るもの」私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の「柳田國男 山島民譚集」の「馬蹄石」のパートが参考になる(但し、全四十七分割と長い)。

「吉野の吉水院にもひづめの蹟の石あり」現在の奈良県吉野郡吉野町吉野山にある吉水(よしみず)神社。元は金峯山寺の僧坊吉水院(きっすいいん)であったが、廃仏毀釈によって神社となった。後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣楠木正成・吉水院宗信法印を配祀する。行ったことがあり、「弁慶の力釘」は見たが、公式サイトを見ても、馬蹄石は見当らない。

「佛足石の類(たぐひ)成べし」と言っているが、自然浸食によるものであろうか。実際見てみないと何とも言えない。なお、次注も参照。

「瀧村を出て深森の古社あり」滝のある手前の動橋川畔に荒谷神社があり、また、滝への流れに沿って遡ると、右岸のより滝近くに鶴ヶ滝不動明王というのもある(パネルを展開して写真を見ると、不動明王なのに、鳥居がばんばん立っている)。さて、この前者の地図の左パネルの写真を見ると、本殿の前に異様に大きな、しかもかなり新しい馬の銅像が奉納されて立っているのが判る。失礼乍ら、この山中の神社にしてこの像はなかなかクるものがある。或いはこれは先の武将の馬の蹄伝説に関わるものではなかろうかなどとちょっと感じたりした。

「大斧劈小斧劈」「劈」は「つんざく・切り裂く」の意で、地形の固有名詞ではなく、大小の崖の切り立ったさまを言っているのであろう。

「寫を成さず」あまりの壮観に絵に写すことが出来ない、という意であろう。

「和作」最初の七言詩に唱和した作の意。

 以下、底本では全体が三字下げで、二段組となっているが、行頭まで引き上げて一段とした。なお、最初の一篇と最後の一篇には底本には題名他がないが、国書刊行会本と「加越能三州奇談」を参考に底本と同じ仕儀で補った。また、諸本を比較し、底本のままでは対句表現として訓読上から納得し難い箇所が幾つかあったため、一部の訓点は底本以外のものを採用した箇所があることをお断りしておく(面倒なので特に指示していない)。各詩篇の間は一行空けた。

 

 鶴瀧遊事

白鶴飛泉白鶴飛

淵源遠上石崔巍

三千餘尺兩流落

四十九院一望微

山霧時晴熊羆窟

水煙常染薛蘿衣

斷崖濺ㇾ沫奔雷下

積翠滿ㇾ空宿鳥稀

劉阮豈無ㇾ求麻屑

許巢或有ㇾ曳牛韈

[やぶちゃん注:「韈」は意味から見て恐らく国書刊行会本の「鞿」が正しいように感ずる。後の訓読ではそれで示した。]

瀧村馬壯臨鳥道

荒谷人空餘釣磯

才不滴仙詩賦就

地如養老郡州遠

猿聲風落靑屛障

犬吠雲深白板扉

丘壑唯容濟勝具

風流誰懷戰勝肥

回ㇾ頭浩笑煙霞痼

遮莫人間萬事非

 

 遙和 前文略   京一品親王内萩野左中元愷

帝濺銀漢此巑𡵻

萬古靑屛馬掛看

山積紫氣天色暝

泉含白日練光寒

雙龍噴玉降陰壑

百電劉雲分重巒

誰挹迢々千仭水

學ㇾ僊跨ㇾ鶴永加餐

 

 同 堂上雲客 大江資衡

聞道賀中山色佳

妙工騰寫堪ㇾ舒ㇾ懷

三千飛瀑源從ㇾ漢

七々幽栖門是柴

白鶴衣霜翔曙嶺

翠屛繡蘚鎖秋崖

丹靑濟勝君兼美

無限賞心豈不ㇾ諧

 

 同 洛大儒篠三彌 武欽繇

名嶽中天映賀陽

憐君登嘯滿奚囊

屛巖重々花作ㇾ𤲿

香臺七々月微ㇾ霜

素龍朝飮紅霞

白鶴夜侵銀漢

勝情兼得丹靑色

千里使人鼓錦膓

 

[やぶちゃん注:一応、訓読を試みてはみるが、自信はない。意味も不明な箇所は不詳とした。本篇

 

 鶴瀧遊事(かくりゆうゆうじ)

白鶴飛泉(はつかくひせん) 白鶴 飛ぶ

淵の源(みなもと)の遠き上 石 崔巍(さいぎ)たり

三千餘尺 兩(ふた)つながら流落す

四十九院 一望 微かなり

山霧 時に晴る 熊羆(ようひ)の窟(くつ)

水煙 常に染む 薛蘿(せつら)の衣(え)

斷崖 沫(しぶ)きを濺(そそ)ぎて 奔雷(ほんらい)の下(もと)

積翠 空に滿ちて 宿鳥は稀れに

劉阮(りゆうげん) 豈(あ)に麻屑(ませつ)を求むる無し 

許巢(きよさう) 或いは牛鞿(ぎうき)を曳く有り

瀧村の馬壯(ばさう) 鳥道(てうだう)に臨み

荒谷(あらだに) 人 空しく釣磯(ちやうき)を餘す

才 滴仙せざるに 詩賦に就き

地 養老のごとくにして 郡州 遠し

猿聲 風落す 靑屛(せいびやう)の障(しやう)

犬吠(けんばう) 雲深くす 白板の扉(とぼそ)

丘壑(きうがく) 唯だ濟勝(せいしよう)の具(ぐ)を容(い)れ

風流 誰(たれ)か戰勝の肥(ひ)を懷かん

頭(かうべ)を回(めぐら)して浩笑すれば 煙霞 痼(こ)たり

遮莫(さもあらばあ)れ 人間(じんかん) 萬事 非なり

〇語釈その他

・「白鶴飛泉 白鶴 飛ぶ」言わずもがなであるが、白鶴は仙人の常用する乗り物である。筆者は瀧の名とともに、それをまず印象づけようとしたものであろうが、起筆の句としては捻りがない感じがする。

・「崔巍」高く聳えること。

・「熊羆」熊の棲み家の岩屋。

・「薛蘿」ツタ(蔦)類の総称。

・「奔雷」瀧の落ちる轟きを直撃する雷に喩えたもの。

・「劉阮」六朝時代の志怪小説集「幽明録」に載る話の登場人物二人の姓。梗概を記すと、漢の永平五年(西暦六十二年)に、剡(せん)県の劉晨(りゅうしん)と阮肇(げんちょう)が一緒に天台山へ薬草を採りに分け入ったが、道に迷って十三日も歩き回ったが、帰れなかった。飢えて死が迫った。その時、遙かな山巓に一本の桃の木があって、沢山、実がなっているのを見つけ、苦労して攀じ登り、その桃の実を食って元気を取り戻した。かくして山を下り、谷の水を飲んでいると、上流から蕪の葉が流れてき、またその後に胡麻飯を持った杯が流れてくるのを見つけた。これで人家があると知り、更に山を越えて行くと、大きな谷間で、二人の美人と出逢った。二美人が二人を家に導くと、そこは豪華な御殿で、多くの侍女もいた。二人はそれぞれこの二美人の婿となった。しかし十日経って、二人が帰りたいと言い出すと、前世からの福運でここに来たのだ、と説明して帰さず、そのまま半年が過ぎた。再び、帰還を望むと、罪業に引きずられているのだから仕方がない、と帰した。帰ってみると親類縁者や知人は総て死に絶えていて、村も全く変わっていた。訪ね当てたのは自分らの七代後の子孫であった。晋の太康八年(三八四年:行方不明になってから実に三百二十二年後)、二人は姿を消してしまったという。この中の仙境歓楽の様子が「劉阮天台」と称する画題となり多く描かれている。原文は以下(複数の中文サイトのものを校合してオリジナルに作ったものである)。

   *

 漢明帝永平五年、剡縣劉晨・阮肇共入天台山取穀皮、迷不得返、經十餘日、糧食乏盡、飢餒殆死。遙望山上有一桃樹、大有子實、而絕巖邃澗、永無登路、攀援藤葛、乃得至上。各啖數枚、而飢止體充。複下山、持杯取水、欲盥漱、見蕪菁葉從山腹流出、甚鮮新、復一杯流出、有胡麻糝。相謂曰、「此知去人徑不遠。」。便共沒水、逆流二三里、得度出一大溪、溪邊有二女子、姿質妙絕、見二人持杯出、便笑曰、「劉阮二郎捉向所流杯來。」。晨・肇既不識之、緣二女便呼其姓、如似有舊、乃相見忻喜。問、「來何晚邪。」。卽因邀還家、其家銅瓦屋、南壁及東壁下各有一大床、皆施絳羅帳、帳角縣鈴、金銀交錯、床頭各十侍婢、便敕云、「劉・阮二郎、經涉山岨、向雖得瓊實、猶尚虛弊、可速作食。」。食胡麻飯、山羊脯・牛肉、甚美、食畢行酒、有一群女來、各持三五桃子、笑而言、「賀汝婿來。」。酒甘作樂、劉・阮忻怖交幷。至暮、令各就一帳宿、女往就之、言聲淸婉、令人忘憂。至十日後、欲求還去、女云、「君已來此、乃宿福所招、何復欲還邪。」。遂停半年、氣候草木是春時、百鳥啼鳴、更懷悲思、求歸甚苦。女曰、「罪牽君當可如何。」。遂呼前來女子有三四十人、集會奏樂、共送劉・阮、指示還路。既出、親舊零落、邑屋改異、無複相識。問訊得七世孫、傳聞上世入山、迷不得歸。至晉太康八年、忽復去、不地何所。

   *

・「麻屑」あさくず。前の話の深山幽谷で餓えたシーンを踏まえるか。

・「許巢」許由と巣父。ともに伝説的な高潔の士で、許由は帝堯が彼らに「国を譲る」という申し出を口にしたのに対し、「聴いて耳が汚れてしまった」と言って水で洗い、同じくその話を受けた巣父は、その言葉で「川の水が汚れてしまった」と言って曳いて来た牛に水を飲ませずに帰ったとされる。彼らは道家思想に於ける究極の反権力のシンボル的存在で、やはり山水画の画題として好まれた。

・「牛鞿」底本の「韈」は「靴下・足袋」でピンと来ない。「鞿」なら「くつばみ」(家畜類(種に馬)の口にかませる道具)で腑に落ちる。

・「馬壯」馬丁。馬牽き。

・「鳥道」鳥しか通わないような険しい山道。

・「釣磯」釣りをする川岸の岩場。

・「滴仙」謫仙(たくせん)と同じか。地に落ちた仙人。この句と次の句はどうもカシっと判らぬ。自分の詩文の才能は大したものではないことを謙遜したものとしても、あまりいい句ではない。

・「地 養老のごとくにして」この地は空気も水を美味くて養老の桃仙郷のようだというのであろうか。されば、実際にはそれほど離れていない「郡州」(市街地)も「遠し」という気持ちになるというのであろうか。

・「障」「扉」孰れも緑なす断崖やずる剥けた岩山の換喩であろう。

・「丘壑」丘と谷。

・「濟勝の具」景勝の地を渡り歩くための道具。丈夫な足。健脚。「世説新語」の「棲逸篇第十八」の十六章『許掾好遊山水。而體便登陟。時人云、「許非徒有勝情、實有濟勝之具。」。』(許掾(きょえん)は好みて山水に遊ぶ。而して體(たい)は登陟(とうちよく)ぶ便(びん)なり。時の人云く、「許は徒(た)だに勝情有るに非ず、實に濟勝の具、有り。」と。)に基づく。

・「戰勝の肥」「韓非子」の「喩老篇」に基づく謂いのようである。「戰勝、故肥也」(戰勝す、故に肥えたり)で、「武士は食わねど」的価値観を真っ向から否定した韓非子らしい話である。中国や朝鮮では本来は太っている人間が優れているという認識があったことに基づく。詳しくは例えばこちらが話を分かりやすく纏めておられてよい。

・「浩笑」大いに笑うこと。

・「痼」「こびり付くこと」か。

 この詩、誰が作ったものか遂に探し得なかったが、全体的には力の入ったもので、相当な知識を持った人物の詠じたものと思われ、個人的にはなかなか好ましい一篇と存ずる。

 

 遙かに和す 京一品(けいいつぽん)親王の内 萩野左中 元愷(げんがい)

帝 銀漢を濺ぎ 此れ 巑𡵻(さんこう)

萬古の靑屛 馬 掛くる看る

山 紫氣を積み 天色 暝たり

泉 白日を含み 練光(れんくわう) 寒たり

雙龍の噴玉 陰壑(いんがく)を降(くだ)り

百電の劉雲 重巒(ちようらん)を分かつ

誰(たれ)か 迢々たる千仭の水を挹(く)まん

僊(せん)を學び 鶴に跨(またが)り 永く加餐(かさん)せん

〇語釈その他

・「京一品親王」「京」は京師(けいし)で京都、「一品親王」の「品」位は天皇と皇太子を除いた皇族の序列を示すもので、皇親王中では筆頭的な地位にあった。

・「萩野左中」不明。国書刊行会本では「京一品親王内」とこれはポイント落ちであるから、京一品親王の内の「萩野左」大弁(朝廷の最高機関である太政官職の最高位)に従った「中」(うち)の、という意味にもとれなくはないか。

・「元愷」これは大納言・中納言の別称。底本以外の諸本はみな「狄愷」とするが、「狄」は異民族を指す「えびす」で、ピンとこない。しかし、これでは名前を伏していることになっておかしい。そこで調べてみると、橘元愷(たちばなのもとやす 天徳四(九六〇)年?~?)なる人物がいることが判った。しかも彼は平安中期の三十六歌仙の一人で僧で歌人の能因法師(永延二(九八八)年~永承五(一〇五〇)年又は康平元(一〇五八)年:俗名は橘永愷(ながやす))の極めて近しい親族で、能因の実父とも兄とも養父ともされる謎めいた人物である。サイト「平安王朝クラブ」のこちらに詳細な事蹟が記されてある。そこに彼が永観二(九八四)年八月に懐仁親王(後の一条天皇)の立太子に際し、射礼の第一射手を勤めたらしいとあり、前書と齟齬しない可能性がある。但し、私は本篇の作者が彼だと考えているわけではない。参考までに言い添えたまでである。

・「帝」天帝。

・「銀漢」銀河。天の川。瀧をそれに喩えた。

・「巑𡵻」山が鋭く峙つ(そばだ)つことか。国書刊行会本では『巑岏』(さんぐわん(さんがん))となっており、これも「鋭く切り立っているさま」を言う。七言律詩であるから、二句目の「看」と韻が同じでないとだめだが、「𡵻」の韻は不明。しかし、「岏」は「看」と同韻であるから、ここは「岏」が正しい可能性が正しいように思われる

・「暝」国書刊行会本のみ『晴』とする。対句を考えると私は「瞑」でとりたい。「天色」で次の句に「白日」も出るのだから「晴」かとも考えたくはなるが、それでは捻りがない。これは実際に曾良は晴れていても、瀧を見上げたその場所の全体の鬱蒼とした薄暗さを指すように私には思われる。

「雙龍の噴玉」後の文で瀧は二筋となっている。「噴玉」は瀧水の飛沫(しぶき)の比喩であろう。

「陰壑(いんがく)」暗い谷。

「劉雲」連なった雲。

「重巒」重なりあって連なる山。

「迢々」遠く隔たるさま。

「挹(く)まん」「汲むことが出来ようか、いや、出来ない」と反語でとる。剣難にして神聖な瀧に近寄り難きを指すのであろう。

「僊」「仙」に同じい。仙術。

「加餐」養生すること。健康であること。

 

 同じく 堂上(だうしやう)の雲客(うんかく) 大江資衡(おほえのすけひら)

聞道(きくなら)く 賀中 山色 佳たりと

妙工 騰寫し 懷(ふところ)に舒すに堪ふ

三千の飛瀑 源(みなもと) 漢により

七々の幽栖 門 是れ 柴(しば)

白鶴の衣霜(えさう) 曙嶺(しよくれい)を翔(かけ)り

翠屛(すゐびやう)の繡蘚(しふせん) 秋崖を鎖(とざ)す

丹靑の濟勝 君 兼ねてより美し

無限の賞心 豈(あ)に諧(かい)ならずや

〇語釈その他

・「堂上の雲客」一般には平安中期以後に清涼殿に昇ることを許された者を指すが、以下の大江資衡の事蹟から考えて、単に公家出であることを言っているものと思う。

・「大江資衡」(享保一四(一七二九)年~寛政六(一七九四)年)江戸中期の儒者。京生まれ。初め、石田梅岩に、後に詩と書法を竜草蘆に学び、書は宮崎筠圃にも師事した。詩社「時習塾」をひらき、「唐詩紳」などの唐詩に関する書物を多く残した。

・「懷に舒すに堪ふ」第一句目から、実際にこの鶴瀧に来たわけではなく、誰かに瀧を描かせて、その絵を貰い、その実景を心中(「懷」)で想像し延べ広げ(「舒」)ることが出来た、深く心打たれた(「堪ふ」)ということであろう。

・「漢」銀漢。銀河。天の川。

・「七々」地名の四十九院であろう。後の叙述から、ここは地名の通り、古い時代に四十九の仏閣あったものかも知れない。しかし、この作者は「三州奇談」の作者と同時代人で、この頃には、後の文から寺はなかったものと思われる。まあ、ここは実際行っていないから、地名から想像したとしておこう。

・「幽栖」俗世間を離れて静かに住むことであるが、ここは仙人たちをこの地に夢想したものであろう。

・「白鶴の衣霜」白鶴の瀧に一面降りしきった白い衣のような霜。

・「曙嶺を翔り」一面の霜の降りたのを白鶴が飛びしきった跡と換喩したものか。

・「翠屛の繡蘚」蔦葛が覆った緑なす屏風のような絶壁であろう。

・「丹靑の濟勝 君 兼ねてより美し」よく判らぬ。絵師が丹精こめて描いて呉れた景勝たる「君」(白鶴瀧の擬人化か)はずっと古えから美しくあり続けている、の謂いか。

・「無限の賞心 豈に諧ならずや」反語。「限りなく心より褒め讃える気持ちが、これ、相応しくないなどと言えようか、いや、言えぬ」と謂うか。

 

 同じく 洛の大儒 篠三彌(しののさんや) 武欽繇(ぶきんえう)

名嶽 中天 賀陽に映ず

憐れむべし 君 登りて嘯(うそぶ)けば 奚囊(けいなう)を滿たせり

屛巖(びやうがん)重々(ちようちよう) 花 𤲿(ゑ)に作(な)せり

香臺七々 月 霜を微(かす)かにす

素龍 朝 紅霞(こうか)を飮みて下(くだ)り

白鶴 夜 銀漢を侵して翔(かけ)る

勝情 兼ねて得たり 丹靑の色

千里 人をして錦膓(きんちやう)を鼓(こ)せしむ

〇語釈その他

・「洛の大儒」京都の大儒学者。

・「篠三彌(しののさんや) 武欽繇(ぶきんえう)」江戸中期の儒者武田梅竜(享保元(一七一六)年~明和三(一七六六)年)。美濃生まれ。京都で伊藤東涯・堀南湖・宇野明霞に師事した。妙法院親王に仕え、武技を習って孫呉の兵法を精究し、詩にも優れた。名は維岳・亮・欽繇。字(あざな)は峻卿・士明・聖謨。別号に南陽・蘭籬。著作に「感喩」「唐詩合解」など。「篠三彌」は不明。

・「賀陽」ここは加賀国の謂いであろう。

・「奚囊」は詩文を入れておく袋。「奚」は「僕」、「囊」は「袋」の意で、これは私の好きな中唐の李賀が異民族の従者に錦嚢を背負わせ、詩を作ってはその中へ投げ込んだという「唐書」の「李賀伝」の故事に拠る。無論、ここは絶景を前に数限りなく吟詠することが出来たことの比喩。

・「花 𤲿(ゑ)に作(な)せり」これは実際に描いたのではなく、断崖絶壁に点々と花が絵ように美しく咲いていたというのであろう。

・「香臺七々 月 霜を微(かす)かにす」「香臺」仏殿の異称。やはり地名の四十九院のそれととっておくが、しかし、この作者も麦水と同時代人であり、実際に行って詠んだとしたなら、前の注で述べた通り、おかしい。実際には来ていないということにして読む。なお、別に問題がある。それは「微」で、国書刊行会本と「加越能三州奇談」では『凝』となっており、これだと「月 霜を凝らす」で遙かに腑に落ちる。ここは「凝」が正しいように思われる。

・「素龍」オーソドックスな龍。ここは瀧の換喩。

・「紅霞」朝日を受けた霞。

・「勝情」名景勝自体の真の性質(たち)。

・「錦膓」優れた詩文を讃える語。

・「鼓」奮い立たせること。]

 

 其餘之を略す。詩中に云へる四十九院は、今村野(そんや)と成り、其所往々獨鈷(とつこ)・鈴(れい/りん)などの類(るゐ)の佛具の鍬に懸りて出(いづ)ると云ふ。屛風岩は山の尾にして、石立並(たちなら)びて幾廻(めぐ)りかならび、靑松上下に𤲿(ゑが)くがごとく、白岩は麓にありて閉(とざ)すが如し。瀧は二すじ[やぶちゃん注:ママ。]に下り、その坪殊に深し。此瀧の上へ登る路あり、景又佳なり。

 此所元來魔所にして、且猛獸の類(たぐひ)多し。里人敎へて曰く、

「鎗・鐡砲は元よりの事、網・さで・さしざをにても持行(もちゆ)く時は、瀧を登りても害なし」

と。さで樣(やう)の小さき網などを借して持たしむ。故を尋(たづぬ)るに、

「獵師に似る時は害なし。都(すべ)ての狩人(かりうど)の山へ入るに、殺氣有りて鳥獸先づ知る。故に追はざるに猛獸も遠く避(さく)るなり」

と云々。

[やぶちゃん注:「獨鈷」独鈷杵(とっこしょ)。密教で用いる法具である金剛杵の一つ。鉄製又は銅製で、両端が尖った短い棒状のもの。元は古代インドの投擲武器。

「鈴」「りん」は国書刊行会本の原本の原文本文(『トツコリン』とカタカナ)の読み。やはり金剛杵の一つである金剛鈴(こんごうれい)であろう。金剛の杵一端が鈴になっているもので、振り鳴らして仏・菩薩の注意を喚起して歓喜させる法具とされる。

「屛風岩」不詳。

「白岩」不詳。国書刊行会本では『白松岩』となっている。

「さで」さで網。「すくい網」とも呼ぶ。袋状の網地の口縁を木・竹・金具などで三角形・円形・楕円形・半円形などのさまざまな形状の枠に結び付けた「たも網」の一種で、一般には水産動植物を掬(すく)い捕る漁具を指す。

「さしざを」国書刊行会本では『棹(サシザホ)』とある。]

 爰に猶々思ふことあり。或醫家の内敎(ないけう)の壁書(へきしよ)を見しに、『醫は仁術なり』、然るに小兒必ず醫者をみると泣出(なきいだ)し、或は逃(にげ)かくる。故に好言(かうげん)を以て云(いひ)なだめ、菓子などをあたへて能(よ)くなづけ、さて脈・腹を見ることなり。醫は一つの權威あるもの故とはすれ共、密かに思ふに、小兒何ぞ權威を辨(わきま)へんや。今世(こんせ)の醫者殺氣ある故成(なる)べし。思へば、恐れても恐るべきは醫師のわざなり。書を學ぶ者は紙を費(つひや)し、醫を學ぶものは人を費すとは宜(むべ)なり。

[やぶちゃん注:最後の評言はなかなかに辛口で面白い。

「内敎」自身に課したスローガン。

「壁書」ここは家訓や座右の銘を書いて壁に掲げたもの。]

« 三州奇談卷之一 山代の蜈蚣 | トップページ | 三州奇談卷之一 那谷の秋風 »