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2020/01/02

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集「東の国から」(正字正仮名版)始動/ 献辞・田部隆次訳「夏の日の夢」

 

[やぶちゃん注:以下、ラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の電子化注に入る。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。

 なお、この電子化注を以って小泉八雲(Lafcadio Hearn)の来日後の作品集の日本語訳はその全てを終了することとなる。現在のネット上には以上を纏めて電子化したものは存在しないと思われ、私にとっても、昨年の九月以来の小泉八雲電子化注の一つの区切りとなるものである。

 以下の本篇「夏の日の夢」(原題“THE DREAM OF A SUMMER DAY”。「或る夏の日の夢」)は、本書が初出ではなく、これ以前の明治二七(一八九四)年七月二十八日発行の英字新聞『ジャパニーズ・ウィークリー・メイル』紙(Japanese Weekly Mail)に投稿したものである。底本(後述)の田部隆次氏の「あとがき」では『ジャパン・デイリー・メール』とするが、英文サイトHathiTrust Digital Libraryのこちらの書誌に従った。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 訳者注は全体が四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて同ポイントで示し、訳注(群)前後を一行空けた。傍点「ヽ」は太字に代えた。]

 

 

   東の國から

    新日本に於ける默想と硏究

 

      『東と西と離れて居る程遙かに――』

 

 

   出雲當時のなつかしき記念として

       西田千太郞へ

[やぶちゃん注:本書が献ぜられた西田千太郎(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。郷里島根県で母校松江中学の教師を務め、明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなった(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。彼との交遊は『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」』の中に頻繁に登場する。]

 

 

  夏の日の夢

 

       

 その宿屋は私に取つては極樂、そこの女中達は天人のやうに思はれた。それは私があらゆる『現代の便利な物』のある歐洲式のホテルで安樂をもとめようと試みた一つの開港場から丁度逃げ出したところであつたからである。それ故もう一度浴衣を着て、冷しい疊の上に樂々と坐って、よい聲の若い女達にかしづかれて、綺麗な物に取りまかれて居るのは、十九世紀の凡ての悲みの償ひのやうであった。筍や蓮根が朝飯に出て、極樂のかたみに團扇を贈られた。その團扇の繪は、渚の上に白く破裂した大きな波と、その上の靑空を大喜びで飛び廻る鷗の一群を描いただけであった。しかしそれを見る事はここまでの旅行の凡ての效(かひ)があった。それは光のすばらしさと運動のとどろきと、鷗の勝利――凡てを一にした物であった。それを見た時、私は大きな聲で喝采したくなった。

[やぶちゃん注:「十九世紀の凡ての悲みの償ひのやうであった。」ちょっと解かりにくい。原文は“was therefore like a redemption from all the sorrows of the nineteenth century.”で、「まず以って、この十九世紀の齎したあらゆる難儀なことから、救われたような思いがしたのであった。」の謂いである。]

 露臺の杉の柱の間から、私は海岸に沿うて建つた長い美しい灰色の町――碇泊したままの黃色の船――大きな綠色の絕壁の間の灣の入口――それからそのさきの地平線まで輝き渡つた夏の海を見る事ができた。その地平線には古い記憶にもたとへられるかすかな山の姿かあつた。そして灰色の町と黃色の船と綠色の絕壁の外、一切の物は靑かつた。

[やぶちゃん注:「露臺」“balcony”。漫然と読み過ごすと、孰れ、和風旅館の客室(恐らくは二階)に開いた窓の縁(えん)だろろうと読み過ごしてしまうが、豈図らんや、冒頭注で示した宇城市のページの復元されたそれを見ると、驚愕の文字通りのバルコニーであることが判る。

 その時風鈴のやうに柔かな調子の聲でお辭儀の言葉を云つて私の默想を破つた者があつた。そこで氣がついて見ると、この宮殿とも云ふべき宿屋の主婦が茶代の禮を云ひに來たのであつた。そこで私はこの婦人の前に平伏した。彼女は大層に若かつた、そして――國貞の蛾の女、蝶の女のやうに――眺める事は非常に愉快であつた。そして私は直ちに死の事を思つた、美は時とすると豫想の悲哀となる事があるからである。

[やぶちゃん注:「蛾の女、蝶の女」“the moth-maidens” と“the butterfly-women”である。初代歌川国貞(天明六(一七八六)年~元治元(一八六五)年:後の三代目歌川豊国)は美人画を得意とし、よく時代の「粋」な女性像を表現しているが、ここはそうした中の「青蛾」(せいが:黛(まゆずみ)で美しく描いた眉。蛾眉 。美人の形容)や「蝶」=「胡蝶」の精かと見まごう如き夢のような美人の謂い。]

 彼女は私の行先を聞いて車を命じたいと云つた。そこで私は答へた、

 『熊本へ。しかしお宅の名をいつも覺えてゐたいから、聞かせて下さい』

 『おざしきはお粗末でございますし、女中達も氣がききませんで失禮でございます。うちは浦島屋と申します。只今車を申しつけます』

 彼女の音樂のやうな聲が止んだ、そして私は――見えない蛛巢[やぶちゃん注:「くものす」。]の絲のやうに――魅力が全く私の周圍に落ちて來る事を感じた。その名は人を魅する歌にある話の名であつたからである。

 

譯者註 著者は明治二十六年七月二十日朝單身熊本を出發、百貫をへて長崎へ翌朝午前三時について、その日一日をそこで費し、それから船で翌二十二日午前三時三角(みすみ)港について、宿屋で朝飯をたべた。非常に歡待されて僅かに四十錢要求された。宿屋の名が浦島屋であつたので著者は一層喜んだ。その日車で熊本へ歸つたが、靴もぬがないうちに喜んで語つたのはこの浦島屋の事であつた。一八九三年七月二十二日チエムバレン宛の手紙參照。

 

[やぶちゃん注:銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二六(一八九三)年七月の条によれば、当時、ハーンは熊本第五高等学校勤務であったが、この七月十二日から九月十日までが夏季休業で、七月二十日の『朝、熊本から人力車で一時間半乗り、百貫』(ひゃっかん:現在の佐賀県杵島(きしま)郡白石町(ちょう)百貫(グーグル・マップ・データ。以下同じ)『に行き、船首の壊れたボートで』、『一時間、たいこ丸の到着を待ち、ようやく乗船、長崎に向か』って旅に出、『七月二十一日(金)午前三時、長崎に着く。ベルイユ・ホテルに行』き、『庭で夜明けを待つ。あまりの暑さに、夕方六時、帰る決心をし、ホテルで出航を待つ』。翌『二十二日(土)午前三時半出航、きりん丸で三角』熊本県宇城(うき)市三角町(みすみまち)『に九時到着、浦島屋でりっぱな朝食をとる。「天女のような」「蜻蛉(とんぼ)のように優美な、水晶の風鈴の鳴るような声をした」女将に会う。三角から熊本まで人力車に乗って長浜村』(現在の熊本県宇土(うと)市長浜町(まち))『の泉』(水源。本篇では断崖から滴っている池として描かれている。但し、現在の同所には確認出来なかった)『まで来る』と、折から『雨乞いの太鼓が鳴っている』。しかしそこで『車屋に見棄てられ、次の車屋は詐欺師で、稲田の真ん中で』ハーンは『解雇し』、『また他の車屋を雇い』、漸く、夕方になって『帰宅する。浦島屋と書いたうちわがみやげとなった。ハーンにとって』は『大冒険であった。浦島屋の女将は、支配人・田辺屋寅五郎の妾という』。『別に山下磋一郎』(文久元(一八六一)年~明治三七(一九〇四)年)の妻ヨシ(根岸小町と呼ばれた)ともいう』。『長崎のホテルの主婦が印象に残る。もとフランス新聞をやっていた夫に三日前に死に別れたばかりで、敵に囲まれてけなげに生きている女性であ』った。『本箱二つのフランス語の良書がハーンの注意を惹いた』。『この一連の出来事かハーンの想像力をかきたて、常世の国と結びついた物語』(本篇)『を構想させ』たとある。「宇城市」公式サイト内の「浦島屋」にも、この日にハーンが訪れたことを記し、『浦島屋で朝食を取り、浦島屋のことを「極楽」といい、女中さんたちは「天女」、女将さんは「風鈴のような涼しい声」「惚れ惚れとするような愛嬌のある婦人」「国貞えがくところの青蛾の小婦」「胡蝶の美人といったおもむきである」と評価して』おり、総じて『ハーンは、熊本のことをひどく批判している中で、珍しくほめていることは、余ほど、浦島屋の雰囲気が良かったのではないかと思われ』るとある。そこにある復元された「浦島屋」を見るに、極めて立派な洋風のホテルである)『まで行く。三角に九時到着、浦島屋でりっぱな朝食を取り、浦島屋のことを「極楽」といい、女中さんたちは「天女」、女将さんは「風鈴のような涼しい声」「惚れ惚れとするような愛嬌のある婦人」「国貞えがくところの青蛾の小婦」「胡蝶の美人といったおもむきである」と評価してい』ると本篇の一節を引いて説明されてある。また、先の年譜の引用に出たホテル経営者山下磋一郎とその妻(『芳』と漢字表記)の記載もある。

「チエムバレン」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年:ハーンとは同い年)については『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「四」・「五」』の私の中を参照されたい。【2020年1月15日:追記】ここに出る明治二六(一八九三)年七月二十二日附チェンバレン宛書簡は「青空文庫」の林田清明氏の邦訳によって全文を読むことが出来るので参照されたい。]

 

       

 一度その話を聞いたら、讀者は決してそれを忘れる事ができない。私は每年夏海を見る每に――殊に甚だおだやかな静かな日にこの話が極めて頑固に私の心に浮んで來る。それには澤山の說があつて無數の藝術作品の靈感となつて居る。しかし最も古いそして最も深い印象を與へるのは、五世紀から九世紀までの歌集『萬葉集』に見出される。この古い歌から大學者アストンはその話を散文に譯した。そして大學者チヱムバレンが散文と韻文と兩方に譯した。しかし英語讀者に取つてこの話の最も面白い物は、『日本お伽噺集』のうちに子供のために書かれたチヱムバレンの譯である、――日本の畫家によつて描かれたその美しい彩色り插繪のためである。私はその小さい書物を前に置いて、その傳說を私自身の言葉でもう一度語つて見よう。

[やぶちゃん注:「万葉集」巻第九の高橋虫麻呂作の長歌(一七四〇番)に「詠水江浦嶋子一首幷短歌」(水江(みづのえ)の浦嶋の子を詠める一首幷はせて短歌)を指す。

「アストン」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい。

「チヱムバレン」の表記はママ。前の訳者注とは異なる。或いは注の方の「エ」は誤植なのかも知れぬ。

「『日本お伽噺集』のうちに子供のために書かれたチヱムバレンの譯」明治一九(一八八六)年刊のちりめん本「The fisher-boy Urashima」である。“Internet Archive”のこちらで全篇を視認できる。挿絵画家の署名はないが、日本画家小林永濯(えいたく 天保一四(一八四三)年~明治二三(一八九〇)年)の作とされる。]

 

 一千四百十六年前、若い漁師の浦島太郞は小舟に乘つて住の江の岸を離れた。

 夏の日は――ただいくつかの輕い眞白の雲が鏡のやうな海の上にかかつて居るだけで、あとは一面に眠たいやうな穩かな靑色である事は――その當時も今も同じであつた。それから又、青い空に融けて居る――遙かの靑い山の形も同じであつた、そして風は物懶[やぶちゃん注:「ものう」。]さうであつた。

[やぶちゃん注:初出なら明治二七(一八九四)年で雄略天皇二二(四七八)年、作品集刊行時からなら明治二八(一八九五)年で雄略天皇二三(四七九)年。この妙に細かな年数表記は如何なる書によるものであるのか不詳だが、八世紀に成立した「丹後国風土記」(現在は逸文のみ残存)にある「筒川嶼子(つつかはのしまこ)」「水江浦嶼子(みづのえのうらしまのこ)」が「浦島太郎の物語」の原型と解されており、ほぼ同時代の「日本書紀」や先に注した「万葉集」などにも記述が見られるものの、「丹後国風土記」逸文のそれが内容的には一番詳しく書かれてありその冒頭に、『與謝の郡、日置里(ひおき)の里、この里に筒川村あり。こゝの人夫(たみ)日下部首(くさかべのおびと)等(ら)が先祖は、名を筒川(つゝかは)の嶼子(しまこ)といひき。人となり姿容(かたち)秀美(うるは)しく、風流(みやび)なること類(たぐひ)なかりき。こはいはゆる水江(みづのえ)の浦(うら)の嶼子(しまこ)といふ者なり』と始まり、主たる古えのシチュエーションの最初で、『長谷(はつせ)の朝倉(あさくら)の宮に天の下知らしめしし天皇の御世、嶼子獨(ひと)り小船に乘りて、海中に汎(うか)びでで、釣すること三日三夜を經て、一の魚だに得ず、すなはち五色の龜を得たり』と続く。この「朝倉の宮に天の下知らしめしし天皇」(すんめらみこと)とは雄略天皇のことである。彼の在位は安康天皇三年(機械換算の西暦で四五六年)から雄略天皇二十三年(同前で四七九年)八月七日(没)であるから、小泉八雲の示した数字はまさにその最末期となる。]

 そして浦島も物懶くなつて、釣をしながら、舟を波にまかせて置いた。その舟は塗つてもなく、舵もない妙な形の舟で多分讀者は見た事はないだらう。しかし一千四百年後、日本海の沿岸の古い漁村の前面にこんな舟はやはり見られる。

 長い問待つたあとで、浦島は何か捕へた、それで引上げて見た。ところがそれはただ一匹の龜であつた。

 さて龜は龍宮王の使で神聖である。その齡は千年――或は萬年と云はれる。それでそれを殺すのは非常に惡い。浦島は靜かに鑰[やぶちゃん注:「かぎ」。「鉤」で「釣り針」のこと。]を外し、神々に祈禱を捧げてそれを放つてやつた。

 しかしそれからさきもう何もかからなかつた。海は大層暖かつた、そして海と空氣と一切の物は殊の外靜かであつた。それで大きな睡魔が彼を襲うた、――そして彼は漂ふ舟の中で眠つた。

 それから海の夢の中から――丁度讀者がチヱムバレン敎授の『浦島』の插繪で見るやうに――一千四百年前の王女のやうに背中から足もとまでも長い黑い髮を垂れて、眞紅と靑の着物を着た――美しい少女が現れた。

[やぶちゃん注:この挿絵。]

 水の上をすべつて、風のやうに輕く彼女は來た、そして舟の中に眠つて居る浦島の上に立つて、輕く觸れて彼を起して云つた。

 『驚いてはいけません。あなたの親切な心を愛でで、私の父なる龍宮王が私をおよこしになりました。今日あなたは龜を放ちました。それでこれから父の御殿へ參りませう、そこは常夏の國です。おいやでなければ私はあなたの花嫁になります、そして永久にそこで幸福に暮しませう』

[やぶちゃん注:「常夏」「とこなつ」。]

 そこで浦島は彼女を眺めて益々不思議に思ふばかりであつた。彼女程美しい人間はゐないからであつた、そして彼は彼女を愛する外はなかつた。それから彼女は一方の櫂[やぶちゃん注:「かい」。]を取り、彼は他方の櫂を取つて――丁度讀者が遙か西の方の海岸の沖で漁船が夕燒の中へ入る時、夫婦で一緖に漕いで行くのを、今もやはり見るやうに――漕ぎ去つた。

 彼等は靜かな靑い海の上を南の方へ穩かに速く漕ぎ去つた、――遂に彼等は夏の決して死ぬ事のない島へ、――そして龍宮王の宮殿へ來た。

 〔ここでこの小さい書物の文句が讀んで居るうちに、消えて行つて譯者駐、かすかに靑い細波がペーヂに溢れて居る。それからさきの不思議な地平線に、讀者は島の長い低い穩かな岸と、繁茂した常綠の上に聳えた屋根――一千四百十六年前雄略天皇の宮殿のやうな――海神の宮殿の屋根を見る事ができる〕

[やぶちゃん注:先のチェンバレン訳のここ。]

 そこで禮裝をした不思議な召使――海の動物――が大勢二人を迎へに來た。そして龍宮王の婿として浦島に挨拶した。

 そこで海紳の娘が浦島の花嫁となつた。それは驚くべき華美な婚禮であつた。龍宮には大宴會があつた。それから每日浦島に取つて新しい驚嘆と新しい樂みがあつた、海の底の不思議な物、常夏の國の人を魅する色々の娛樂は海王の僕達(しもべたち)によつてそこへ出された。そしてそのやうにして三年は過ぎた。

 しかしこんな事があつても、この漁夫の子は、淋しく待つて居る兩親の事を思ふと、心がいつも重くなるのを感じた。そこで彼はたうとう花嫁に、兩親にただ一言云ひたいからほんの暫らく家に歸してくれるやうに――それから急いで彼女のところに歸つて來るから許してくれるやうに――賴んだ。

 さう云はれて彼女は泣き出した、そして長い間彼女はしくしくと泣き續けた。それから彼女は彼に云つた、『あなたが行きたいと云ふ事なら、行かねばなりません。あなたがお出でになるのが私たいへん心配です、もうこれで再び遇はれないかと心配します。しかし私はあなたに小さい箱を一つ上げますから持つて行つて下さい。私の云ふ通りになされば、その箱はあなたが私のところへ歸つて來られる助けになります。それを開けてはなりません。どうしても開けてはなりません――どんな事があつても。もしそれを開けたら、あなたは決して歸つて來られません。そしてあなたは再び私に遇へませんから』

 それから彼女は彼に絹のひもで結んだ小さい漆塗りの箱を與へた。〔そしてその箱は今も神奈川の海岸の寺で見られる、そこの僧は又浦島太郞の釣の鑰と龍宮から携へて來た妙な寳石をいくつかしまつて居る〕

[やぶちゃん注:箱はないが、神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町にある浄土宗吉祥山茅草院慶運寺は浦島太郎伝説の寺として知られ、寺の公式サイトによれば、『童話にある『浦島太郎』は日本人の誰でもが親しんだおとぎ話です』。『浦島伝説は系統があって、それが故に日本中各地に浦島伝説が存在します。木曽の「寝覚めの床」近くの浦島神社には浦島太郎が持ち帰ったと言われる「玉手箱」があります。丹波にある浦神社は浦島伝説と関わり合いがある事は周知の事実です。しかし横浜と丹波とは、いわく因縁がある様に思います』。『慶運寺の龍宮伝来浦島観世音像は』一九九五年に『横浜市重要文化財として指定を受けました。この観音様は浦島太郎が龍宮より帰る際、乙姫様から玉手箱と一緒に守本尊として授かったものとされています。柔和な面立ちの観音で亀の背上に立っています』。『しかしお守りとしては、一寸』、『大き過ぎ、亀の背中に乗って竜宮城から帰ってくる浦島太郎は玉手箱と、この観音様をどのように持ったのかが疑間です。しかし古文書によると』、『浦島太郎が背負った観音像が余りにも重く、へたりこんだ場所が浦島太郎の両親の墓であったとか。そして雨のように流れ出た涙が岩石を浸し、成仏寺の「浦島太郎の涙石」に成ったそうです。近辺に「浦島ヶ丘」「亀住町」などの地名が現存します』。『また』、『亀住町の浦島地蔵、 子安町の浦島足洗井戸、などがあり、全国の浦島伝説のなかでも一番』、『信憑性が高いと考えられます。 本来』、『横浜浦島伝説に纏わる寺は観福寿寺で、現在浦島ヶ丘にある浦島中学校のそばにあった様です。明治元年一月現在の神奈川新町近くにあった遊廓『桑名屋』から出火により周辺から生麦あたりにかけての大火は、観福寿寺と浦島伝説に纏わる寺院を焼き払いました。幸いに浦島観音像は類焼を免れ、明治』六(一八七三)年に『現在の慶運寺に移設安置されたとのことです』。『寺記の一節に『相州三浦の住人水江浦島大夫といへるもの、大裡の役に付きて、しばし丹波国与佐郡管川と言うところに移り住みす。其の子に浦島太郎というあり。』とあります。相州の住人(神奈川県民)である浦島太郎の父親は』、『官命により』、『丹波国へ転勤をさせられたので、浦島伝説は丹波にもあるのではないでしょうか』? 『慶運寺には』文安四(一四四七)年、『江戸増上寺三世音誉聖観によって開創され』とある。]

 しかし浦島は彼の花嫁を慰めて、決して決して箱をあけない事――その絹のひもをゆるめる事さへもしない事を誓つた。それから彼は夏の光を通りぬけて永久に眠つて居る海の上に出た、そして常夏の島の姿は夢のやうに彼のうしろに消えた。そして彼は再び眼の前に北の地平線の白い光のうちに、はつきりして來た日本の靑い山々を見た。

 遂に再び彼は彼の故鄕の灣に入つて、再び彼はその渚に立つた。しかし眺めて居るうちに、彼に大きな當惑――不思議な疑が起つた。

 その理由は場所は同じでありながら、同時に又同じでなかつたからであつた。彼の祖先以來の茅屋はなくなつてゐた。村はあつたが家の形は凡て變つてゐた。樹も野も人の顏までも變つてゐた。殆んど大槪の目じるしはなくなつてゐた、神社は新しい場所に建てられたやうであつた、森は近所の坂から消えてゐた。ただ村を通つて流れる小さい川の音と山の形だけがやはり同一であつた。その外一切の物は變つて新しくなつてゐた。彼は兩親の家をさがさうとしたが駄目であつた。そして漁師達は不思議さうに彼を熟視した、そして彼が以前に見た覺えのある顏は一つもなかつた。

 そこへ杖にもたれながら來る一人の大層な老人があつた、この老人に浦島は浦島一族の家に行く道を尋ねた。ところが老人は非常に驚いて、浦島に幾度もその質問をくりかへさせてから叫んだ。

 『浦島太郞! お前さんはその話を知らないと云ふのは一體どこの方ですか。浦島太郞! さあ、浦島が溺れてから四百年以上になります。それで墓場に記念碑が建ててあります。浦島の人達の墓はその墓場にありますが、――その古い墓場はもう今では使つてゐません。浦島太郞! どこにその家があるなどとお前さんが聞くのは少しばかげてゐますぞ』それから老人はこの質問者の愚を嘲笑しながら、とぼとぼと行つた。

[やぶちゃん注:底本では「!」の後に空欄はないが、特異的に挿入した。]

 しかし浦島は村の墓地――もう使用されてゐない古い墓地――へ行つてそこで自分自身の墓、兩親及ぴ親戚の墓、自分の知つて居る大勢の外の人達の墓を見た。その上にある名が中々讀めない程古くなつて苔蒸してゐた。

 そこで彼は何か妙な錯覺の犧牲となつて居る事を知つた。それから渚の方へ戾つた、――いつまでも海神の娘の贈物の例の箱を抱へながら。しかしこの錯覺は何だらう。それからこの箱には何があるのだらう。或は箱の中にある物が錯覺の原因ではないだらうか。疑は信仰に勝つた。無分別にも彼は愛人との約束を破つた、彼は絹のひもをゆるめた、彼は箱を開いた。

 直ちに、何の音もなしにそこから出たのは、夏の雲のやうに空に上つた白い冷たい不可思議な蒸氣であつた、そして靜かな海の上を南の方へ速かに流れて行つた。その箱には外に何物もなかつた。

 そして浦島はその時自分の幸福を破壞した事――再ぴ彼の愛人、海神の娘のところへ歸る事のできないこ事を知つた。それで絕望の餘り烈しく泣き叫んだ。

 しかしそれはただ暫らくの事であつた。すぐそのつぎに彼自らも變つた。氷のやうな寒さが彼の脈管中を走つた、齒が拔けて落ちた、顏に皺がよつた、毛髮が雪のやうに白くなつた、手足はしなびた、力がなくなつた、四百の冬の重さに押し潰されれて彼は砂の上に生氣を失つて倒れた。

 さて日本書記に『雄略天皇の二十二年、丹後の國余社郡[やぶちゃん注:「よざのこほり」。]水江の浦島子、漁舟に乘つて蓬萊に赴く』とある。それからあと三十一代の天皇と女帝の御宇の間――卽ち五世紀から九世紀まで――浦島の記事はない。それからの記事には『淳和天皇の御宇天長二年、浦島子歸る、再び又行く、そのところを知らず』とある。

[やぶちゃん注:「日本書紀」の雄略天皇二十二年(機械換算四七八年)の七月の条に、

   *

秋七月。丹波國餘社郡管川人水江浦嶋子、乘舟而釣。遂得大龜。便化爲女。於是浦嶋子感以爲婦。相逐入海。到蓬萊山、歷覩仙衆。語在別卷。

(秋七月。丹波國(たにはのくに)の餘社郡(よざのこほり)の管川(つつかわ)の人、水江浦嶋子(みずのえのうらしまのこ)、舟に乘りて釣(つり)す。遂(つい)に大龜(おおがめ)を得たり。便(たちま)ちに女(をとめ)に化-爲(な)る。是に於いて浦嶋子(うらしまのこ)、感(たけ)りて以つて婦(め6)と爲(な)す。相ひ逐(したが)ひて海に入る。蓬萊山(とこよのくに)に到りて、仙衆(ひじリ)に歷(めぐ)り覩(み)る。語(こと)は別卷に在り。)

   *

「淳和天皇の御宇天長二年、浦島子歸る、再び又行く、そのところを知らず」鎌倉初期の説話集「古事談」(村上源氏出身の刑部卿源顕兼(平治二・永暦元(一一六〇)年~建保三(一二一五)年)の編になり、建暦二(一二一二)年から建保三(一二一五)年の間に成立)の卷第一では、『淳和天皇御宇』(在位:弘仁一四(八二三)年~天長一〇(八三三)年))『天長二年乙巳』(八二五年)、『丹後國餘佐(よさ)郡の人水江浦島子(みづのえのうらしまのこ)、此の年松船の乘りて故鄕に到る』と記されていることから、帰還まで、実に三百五十年程が経った後と言うことになる。]

 

譯者註 「日木お伽噺集」のうちのチエムバレン敎授の「浦島」が着色の插繪のためにこんな風になつて居る。

 

       

 仙女の女主人は萬事用意ができたと云ひに來た、そして彼女の細い手で私のかばんを持つて行かうとした、それを私は重いからと云つて拒んだ。そこで彼女は笑つたが、私には持たせないで、背中に漢字を書いた海の物[やぶちゃん注:「者」とあるべきところ。漁師・船頭である。]を呼んだ。私は彼女にお辭儀をした、そこで彼女は女中達の無作法を咎めないでこの祖末な家を忘れないで下さいと云つた。『それからどうか車屋に七拾五錢だけやつて下さい』と云つた、

[やぶちゃん注:最後の読点はママ。]

 それから私は車に乘つた、そして數分ののちこの小さな灰色の町は彎曲のうしろに見えなくなつた。私は海岸を見下す白い道に沿うて車を走らせてゐた。右の方にはうす鳶色の斷崖があり、左の方にはただ空と海とだけあつた。

 何哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは千六百九メートル。]も私は無限の光を眺めながら海岸に沿うて車を走らせた。一切の物は靑色、――大きな貝殼の心(しん)の中で來往する靑色のやうな、驚くべき靑色に浸つてゐた。輝いた靑海原は電氣の融解の輝きのうちに蒼空と連なつてゐた、そして大きな靑い物――肥後の山々――は大きな紫水晶の塊のやうに、その光のうちに色々の角度をなしてゐた。何と透明な靑さであらう。この大きな色を破つて居る物は、沖の一つのまぼろしの峰の上に靜かになびいて居るまばゆいやうに白いいくつかの高い夏の雲だけであつた。それが雪のやうに白い戰慄する光を水の上に投げてゐた。遙かに這うて行く小さい舟はそのあとに長い絲、――その一面にぼうつと輝いた物のうちのはつきりした物と云つてはそれだけである線、――を引くやうであつた。しかし何と神々しい雲であらう。涅槃の幸福に赴く途中休息して居る白い淸められた雲の靈であらうか。それとも一千年前に、浦島の玉手箱から。逃げた白露であらうか。

 

 蚊のやうに極めて小さい私の魂が、海と太陽の間のその夢のやうな蒼空の中に脫れ出て――一千四百の夏の輝く靈を通りぬけて、住の江の海岸にぶーんと昔を立てず歸つた。おぼろげに私は船體の動搖を私の下に感じた。雄略天皇の時であつた。そして龍宮の乙姬は銀鈴のやうな聲で云つた、『父の家に參りませう、そこはいつでも靑いのです』『どうしていつでも靑いのですか』私は尋ねた。『そのわけは私が雲を皆箱の中に入れたからです』彼女は云つた。『しかし私はうちへ歸らねばなりません』私は大決心で答へた。『それならあなたは車屋に七十五錢だけ抑つて下さい』彼女は云つた。

 同時に眼をさましたら時は明治二十六年夏の土用であつた――その證據に道の陸の方の側に電柱が遠く目の屆く限り一列をなしてゐた。車は空と山と海の同じ靑い景色を前にして、岸に沿うてやはり走つてゐた、しかし臼い雲は見えなくなつてゐた、――斷崖は道に迫つてゐないで、稻田と麥畠は遙かの山まで續いてゐた。電柱だけが暫らく私の注意を惹いたのは、頂上の針金に、そして頂上の針金にだけ、無數の小鳥がとまつて、悉く道の方へ頭を向けて、私共の來る事を頓着しないでゐたからである。彼等は全く靜かにしてゐて、私共をただ通過する現象として見てゐた。何哩も何哩も幾百となく列をなしてゐた。そして私は道の方へ尾を向けて居るのを只の一羽も見なかつた。どうしてこんなにして居るのか、何を見て、何を待つて居るのであらうか、私には見當がつかなかつた。時々私はその群を驚かさうとして帽子をふつて叫んで見た、そこで二三羽搏して鳴きながら立ち上つたのもあるが、又針金の上にもとのやうな位置に戾つた。大多數は私を本氣になつて相手にはしなかつた。

 

 車の鋭いひぴきは深い音響のために打ち消された、そして私共が或村を通る時、四方を開いた假小屋の中で、裸の男が大きな太鼓を打つて居るのを見た。

 『車屋さん』私は叫んだ――『あれ――あれは何ですか』彼は足を止めないで、返事をした。

 『今どこでも同じです。長い間雨は降りません、それで雨乞をして、太鼓を鳴らすのです』

 私共は外の村を通つた、そして私は色々の形の太鼓をいくつか見て、その音を聞いた、そして燒けるやうな稻田の數哩向うの、見えない小さい村から、又外の太鼓が反響のやうに答へた。

 

譯者駐 盛んに太鼓を打ち鐘をつけば、或は大砲を打てば、そのあとで雨が降ると東西洋に信ぜられて居るのは多少の科學的根據のある事あらう。日本の或地方では雨乞のために神社に參詣する外にこんな事もする。

 

       

 それから私は再び浦島の事を考へ出した。私はこの人種の想像に、この傳說が影響した事を示す傳統と歌と諺の事を考へた。私は出雲の宴會で一人の歌妓が浦島の役をつとめて、小さい漆器の箱を携へてゐたが、その悲劇的瞬間に出たのは、京都の香の煙であつた事を想ひ出した。私はその古風な美しい舞踏について――それから續いてこれまでなくなつた代々の歌妓の事について――それから續いて抽象的の塵の事について考へた、それが又私が僅かに七十五錢拂ふ事になつてゐる車屋の草鞋によつてあげられる具體的の塵の事を私に考へさせた。それから私はどれ程まで、それが古い人間の塵だらうかと訝つた、そして物の永久の道理として、心臟の運動の方が塵の運動より果してもつと重大であるだらうかと訝つた。さうすると私の祖先以來の道德觀念はびつくりした、そこで私は一千年も生きてゐて、一世紀每に益々新しい能力の出て來る話は、そのうちに何か眞理があるために生き殘つて居るとしか考へられないと云つて見た。しかしどんな眞理があるのだらう。暫らく私はこの質問に答へられなかつた。

 暑熱はひどくなつで來た、そこで私は叫んだ。

 『車屋さん、私ののどが乾いたから、水が欲しいな』

 彼はやはり走りながら答へた、

 『長濱村譯者註一へ行けば――餘り遠くありません――大きな泉があります。そこに綺麗なよい水があります』

 私は再び叫んだ、――

 『車屋さん――どうして小鳥は皆いつもこちらを向いて居るのかね』

 彼は一層速く走りながら、答へた、

 『鳥は皆風の方に向いてとまります』

 私は自分の愚かな事を第一に笑つた、それから子供の時にどこかで同じ事を聞かされた事を想ひ出して――つぎに私の忘れ易い事を笑つた。恐らく浦島の祕密も又忘れ易い事から起つたのかも知れない。

 

 私は再び浦島の事を考へた。私は龍宮の乙姬が浦島を歡迎するために綺麗にした宮殿で空しく待つて居るのを見た、――そしてどうなつたかを知らせる白雲の無慙にも歸つて來た事を見た、――そして大きな禮裝をした親切な大勢の異樣な海の動物が姬を慰めようと努めて居るのを見た。しかしもとの話には何もそんな事はない、そして人々の同情は全く浦島に集つて居るやうである。それで私はこんな風に自分で考へて見た、――

 浦島に同情するのが一體正しいだらうか。勿論彼は神に迷はされた。しかし神に迷はされない人はあるだらうか。人生その物が迷ではないか。そして浦島は迷のうちに神の目的を疑つて、箱を明けた。それから何の迷惑を受けないで死んだ、そして人々は浦島明神として彼のために神社を建てた。それに何故そんなにひどく同情するのだらう。

 西洋ではそれは全く違つた風に取扱はれる。西洋の神々に不從順であつたら、私共はこの上もない高い廣い深い悲痛を經驗するためにやはり生き長らへねばならない。私共は丁度最好の機會に全く安泰に死ぬ事を許されない、まして死後自分勝手に小さい神になる事などは猶更許されるわけはない。現身の神々の間にそれ程長く自分だけ暮らしてゐたあとで、愚かにも神の敎を守らなかつた浦島にどうして同情ができよう。

[やぶちゃん注:「現身」「うつそみ」と訓じておく。]

 恐らく私共が同情をすると云ふ事實が、その謎に答へて居るのであらう。この同情は自分の同情に相違ない、それだからこの傳說は無數の人の魂の傳說であらう。靑い光と柔和な風の特別な時に、丁度こんな思が――そしていつも古い非難のやうに――浮んで來るのであらう。その思は季節と季節の氣分に餘りに深い關係があるので、人の一生や祖先の生涯の或實在的な物にも關係せざるを得なくなつて居る。しかしその或實在的な物とは何であつたらう。龍王とは誰であつたらう。常夏の國はどこにあつたらう。そして箱の中の雲は何であつたらう。

 私はこの質問に悉くは答へられない。私はこれだけ知つて居る、――これは少しも新しくはない、――

 

 私は或場所と不思議な時の事を覺えて居る、そこではは今よりもつと大きく、もつと明るかつた。この世の事か、いつか前の世の事か、私には分らない。ただ私はその空は遙かにもつと靑く、そして地に近かつた事、――赤道の裏の方へ走る汽船の帆柱の上に近いと思はれる程であつた事を知つて居る。海は生きてゐて、いつも話をした、――そして風が觸れると私は嬉しさに叫んだ。以前山の間に住んでゐた聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]日に、一二度私は同じ風の吹いて居る事をただ暫らく夢想した事がある、――しかしそれはただ記憶であつた。

[やぶちゃん注:銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の一八五一(嘉永四年)年十月の条によれば、当時、父がイギリス領西インド諸島へ赴任し、その『間、ローザとハーンは』ギリシャの『サンタ・モウラ』島(現在のレフカダ島)『で暮らす。「そういうわたしに、ある場所とあるふしぎな時の記憶があるではじまる「夏の日の夢」(『東の国から』)の美しい追憶部分で、「むかし、遠い遠い日の事、山の奥の峯と峯のあいだの峡谷に、浄らかな日をおくっていたころ」と回想されているのは、この頃のことである』と断言されてある。しかし、この時、ハーンは未だ生後四ヶ月で、その記憶があったとするのは全く以って無理がある(後年に形成された創作構成による疑似記憶というのであれば問題はない)。]

 それからその場所では雲は不思議であつた、名は全くつけられない色、――私をいつも憧れさせた色の雲であつた。私は又日は今より遙かにもつと長かつた事、――それから每日私に取つて新しい驚喜と新しい娛樂があつた事を覺えて居る。そしてその場所と時は、私を幸福にする方法ばかり考へて居る譯者註二によつて穩かに支配されてゐた。時々程は幸福になる事を拒んだので、彼女は聖かつたがそれでも困つた事を覺えて居る、――そして私は努めて氣の毒がらうとした事を覺えて居る。日が終つて月の上る前に夜の大かな靜けさが下つた時、彼女は私に話を聞かせた、それで私の頭から足まで嬉しさで一杯になつた。私はその半分程も綺麗な話を外に聞いた事はない。そしてその嬉しさが餘り大きくなつた時分に、彼女は不思議な小さい歌を歌つてくれたので、それがいつも眠をもたらした。たうとう別れる日が來た、そして彼女は泣いた、そして私に彼女が與へた護符(まもり)の事を云つて、それがあれば私は年を取らない、そして歸る力を得られるから、決して失つてはならないと云つた。しかし私は決して歸らなかつた。そして年は過ぎた、そして或日私はその護符(まもり)を失つて、をかしい程老年になつた事を知つた。

 

譯者註一 宇土郡、長濱村。

譯者註二 ギリシヤ人であつた著者の母の事、或は或傅記家の說によれば、著者が幼時大叔母と共に赴いてその人の家によく逗留した叔母エルウツド夫人の事。

[やぶちゃん注:「長濱村」既注。

「母」ローザ・アントニオ・カシマチ(Rosa Antoniou Kassimatis 一八二九年~一八八二年十二月十二日)は僅か四歳であったハーンを残して、一八五四年にダブリンからギリシャのセリゴー島へ帰ってしまった。それ以降、ハーンは生涯、母と逢うことなく、ローザはギリシャのコルフ島にある精神病院で亡くなった。母の逝去当時、ハーンは三十二歳であった。

「大叔母」父チャールス・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearnn 一八一八年~一八六六年)方の大叔母サラ・ブレナン(Sarah Brenane)。

「叔母エルウツド夫人」キャサリン・エルウッド(Catherine Elwood)。「小泉八雲 日廻り (田部隆次訳)」の「ロバート エルウツド」(Robert Elwood)の私の注とリンク先を参照。但し、そこにリンクさせた、こちらのJohn Moran氏の“How Patrick Lafcadio Hearn travelled around the world for 150 years, before making his mark in Waterford”(原文(二〇一五年六月二十三日附『アイリッシュ・タイムズ』紙掲載)及び「みずたにじゅんじ」氏の邦訳附き)を読むに、この女性の候補には、母ローザと叔母キャサリン・エルウッドに、ハーンの乳母となったキャサリン・〈ケイト〉・ローナン(Catherine “Kate” Ronane)を加えねばならぬように思われる。みずたに氏の訳によれば、『しかし、最も影響を与えた女性は、乳母のキャサリン・“ケイト”・ローナンだろう。アイルランド・英国在住期間を通して彼の面倒を見ており、ゴースト話やアイルランド民話を聞かせ、子守唄を歌った。ハーンは日本からW.B.イェーツへ宛てた手紙において、ダブリンでの幼少期についてこう記している、「私にはコノートの乳母がいて、妖精やゴーストの話を私に良く聞かせてくれた。だから私はアイルランドのことを愛すべきであり、現に愛している。」彼女は、アメリカ、西インド諸島、日本などハーンが旅したあらゆる場所について書いた作品における一般的な働く女性の見本となっていたと思われる』とあるからであり、寧ろ、この女性は母や叔母ではなく、この乳母のケイトであったのではないかとさえ思わせるからである。]

 

       

 長濱村は往來に近い綠の斷崖の下におつて、松の樹で陰になつた岩の多い池の𢌞りに集つた十二ばかりの草葺きの小屋から成立つて居る。斷崖の胸から眞直に飛び出す流れによつて供給される冷水で、水溜は溢れて居る、――丁度人が、詩は詩人の胸から飛び出すべき物だと想像するやうである。そこに休んで居る車や人の數から判斷すれば、確かによい休み場所であつた。樹の下に腰かけがあつた、そして渴[やぶちゃん注:「かはき」。]をいやしたあとで、私は煙草を吸ひながら洗濯して居る女や、池で水を飮んだり顏を洗つたりして居る旅客を見て坐つてゐた、――その間に私の車屋は裸になつて冷水を桶に汲んでかぶつてゐた。それから幼兒を背負つた若い男がお茶をもつて來た、そして私はその幼兒と遊ばうとしたが、そのこどもは『あ〻、ばあ』と云つた。

 これが日本の子供が始めて發する音である。しかしそれは全く東洋的である、そしてローマ字で Aba と書く事になる。そして習はない言語として興味がある。それは日本の子供の言葉で『さやうなら』に當るが――全くこの娑婆世界に入つたばかりの子供が發音しさうにない言葉である。何人に或は何物にこの小さい人が『さやうなら』をして居るのであらう、――未だ鮮かに記憶して居る前世の友達に、――何人もどこだか知らない冥途の旅の仲間に云つて居るのであらうか。子供は私共のために決して決定してくれる事はないから、信心深い見地からこんな風に推論する事はかなり安全である。始めて話すその神祕の瞬間に於て何を考へてゐたか、その問が分るずつと前にそれは忘れられて居るだらう。

 思ひがけなく、妙な思ひ出が私に浮んだ、――恐らくその若い男と子供を見て、――恐らく斷崖の水の歌を聞いて、思ひ出したのであらう、その思ひ出はつぎの話である、――

 昔、昔、どこか山の中に貧しい木こりとその妻が住んでゐた。甚だ年を取つてゐて、子供がなかつた。每日夫は一人木をきりに森へ行つた、その間に妻はうちで機を織つた。

 或日老人は、何かの種類の木をさがしにいつもよりもつと深い森へ行つた、そこで彼は突然これまで見た事のない小さい泉のふちに出た。水は妙に綺麗で冷たかつた、そして日は暑かつた上、烈しく働いてゐたから老人は渴いてゐた。そこで笠を取つて跪いて長く飮んだ。甚だ不思議な風に氣分が淸々とした。その泉に映つた自分の顏を見て驚いた。それはたしかに自分の顏だが、うちで古い鏡で見慣れた顏と全く違つてゐた。それは靑年の顏であつた。彼は自分の眼を信ずる事ができなかつた。披はつい先程まですつかり禿げてゐた頭に兩手を上げた。それが今濃い黑髮で蔽はれてゐた。それから顏は少年の顏のやうに滑らかであつた、皺は一つもなかつた。同時に彼は新しい元氣が滿ちて居る事を發見した。彼は長い間皺だらけであつた手足が今充實した若い筋肉で恰好よくかたくなつて居るのを見て驚いた。知らないで彼は若がへりの泉を飮んで、その通り變つたのであつた。

 先づ、彼は嬉しさの餘り高く跳んで叫んで見た、それからこれまで走つた事がない程の速さでうちへ走つて歸つた。うちへ入ると妻は驚いた、――知らない人と思つたからであつた、それからそのわけを聞いても、妻はすぐには信じなかつた。しかし餘程かかつて彼は今彼女の前に立つて居る靑年は實際彼女の夫である事を納得させる事ができた。それからその泉のあるところを敎へて、そこへ自分と一緖に行く事を求めた。

 そこで彼女は云つた、『あなたはそんなに立派に、そんなに若くおなりだから、お婆さんなぞ嫌になるでせう。それでわたしもすぐその水を少し飮まねばなりません。しかし二人共同時に家を離れる事はできません。私が出かける間あなたは留守をしてゐて下さい』それから獨りきりで森へ驅け出した。

 彼女は泉を見つけて、跪いて飮み始めた。その水はどんなに冷たくて旨しかつたらう。彼女は飮んで飮んで飮んで、息をついては又飮み出した。

 夫は彼女を待ちくたびれてゐた、彼は彼女が綺麗な華奢な少女になつて歸つて來るのを見ようと待ち構へてゐた。しかし彼女は一向歸つて來ない。心配になつて、家を閉ぢて、彼女をさがしに出かけた。

 泉へ着いても彼女は見えなかつた。丁度歸らうとすると、泉の近くの高草の中に小さい泣聲が聞えた。彼はそこをさがして、妻の着物と赤兒、――恐らく半歲ばかりの非常に小さい赤兒を發見した。

 卽ち妻は不思議な水を餘りに深く飮過ぎたのであつた、彼女は少年の時を通り越して、物の云へない幼少時代になるまでも飮んだのであつた。

 彼は子供を抱き上げた。それが悲しい不思議な風に彼を見た。彼はそれをうちへ連れ歸つた、――それに向つてつぶやさながら、――妙な淋しい思ひに耽りながら。

 

 その時、私の浦島に關する空想のあとでは、この話の敎訓は以前よりも、もつと不滿足に見えた。人生の泉を深く飮み過ぎたのでは、私共は若くはなれないのである。

 

 裸で涼しさうになつて、私の車夫は歸つて來た、そして、この暑さでは約束通り十里の道を走る事はできないが、殘りの道を走つてくれる別の人をさがして來たと云つた。彼が走つた分だけで五十五錢欲しいとの事であつた。

 それは實際暑かつた――あとで聞いたところでは百度[やぶちゃん注:華氏。摂氏三十七度八分ほど。]以上あつた、そして遙か離れたところに。雨乞の太鼓の音が、暑熱その物の脈搏のやうにたえず鼓動してゐた。そして私は龍宮の乙姬の事を考へた。

 『七十五錢と云ふ事であつた』私は云つた、『そして約束通りは未だ來てゐない。しかしやはり七十五錢お前にあげよう、――神樣が恐ろしいから』

 それから未だ疲れてゐない車夫のうしろから、私は太鼓の方角に向つて――大きな炎の中へ逃げ出した。

[やぶちゃん注:「それから未だ疲れてゐない車夫のうしろから」「新しい人力車夫の背後の俥に乗り込むと」の意。

 ここに出た「若がへりの泉」は、小泉八雲の死後の大正十一(一九二二)年に刊行された、Lafcadio Hearn 英訳とする、ちりめん本の“JAPANESE FAIRY TALE SERIES No.25”の THE FOUNTAIN OF YOUTH”(「若返りの泉」)と同じ構成作である(リンク先はサイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」の同書原本画像と英文電子化されたページ)。この「若返りの泉」は実は本篇に於いてラフカディオ・ハーンが創作したオリジナルな創作民話であり、ちりめん本の話の原話であると考えてよかろう(というより、底本全集がこの「日本昔噺シリーズ」の内、“THE FOUNTAIN OF YOUTH”のみを訳対象から外しているのを考えると、これは或いは著者小泉八雲の遺志と無関係に本篇を誰かが簡約化したものであるからなのかも知れない。

 なお、渡部知美氏の本篇についての論文「Lafcadio Hearn の“The Dream of a Summer Day” : 捨てし者,捨てられし者」(島根大学法文学部紀要『島大言語文化』言語文化学科編四十号・二〇一六年三月発行)が非常に示唆に富む。こちらからダウン・ロード出来るので、是非、読まれたい。]

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