三州奇談卷之一 石坂の瀑布
石坂の瀑布
熊坂村(くまさかむら)は大聖寺の南、七里にありて、兩邊に山をつゝみて中は田野なり。彼の長範(ちやうはん)が出生の地と云。爰(ここ)に「石坂の瀧」あり。淸冷の水、綠巖を流る。是を掬(きく)し吞(のむ)べし、甚いさぎよし。盜人の棟梁を育て立(たて)し所なりといへども、彼(かの)貪泉(どんせん)のさたはあらず。水は攝州有馬の「皷(つづみ)の瀧」の如く、石澗(せきかん)只屛風を立たる如く、二曲三曲地下へ下(くだ)るが如し。第二曲の瀧坪は、其水底はかるべからずといふ。上より見る瀧なり、下より仰ぎ見る地はなし。此巖下に石菖(せきしやう)生ず。石ともに切り拔て携來(たづさへきた)り、夏中の希翫となす。是を切崩す事多けれども、一冬にして巖石又元のごとしと云ふ。爰の上の山を越ゆれば、片野・黑崎へ出づ。是を高保越と云ふ。
大聖寺の家中菅野覺左衞門といふ人、夜中用事ありて此道を通りしに、山半ば上りてとある石をふみ据ゑけるに、何者とも知れず、後ろより返しに眞底(しんそこ)[やぶちゃん注:ここは「完全に」という副詞であろう。]向ふに引くり返し打臥せける。しかも背へ上ると覺えて、重さ限りなし。
「心得たり」
とはね返さんとすれども、大小[やぶちゃん注:刀。]をしかと取らへて起さず。
「何ものぞ、名乘れ名乘れ」
と云ひけれども、音もせず。
「こはむねんむねん」
と刎返(はねかへ)しけるが、刀をねぢまげ、鞘も碎け折れて、一時(いつとき)[やぶちゃん注:現在の二時間。]許りにて、漸(やうや)く
「えいや」
とはね返しけるが、上には何もなし。松風の梢をならし、谷の水の沈々たるのみ。我ひとり只にもだへおめきけん。
「もし人の見ば、よき狂人にこそ」
と、一人笑(ひとりわら)ひして立しが、されども刀の曲りたる體(てい)、鞘のひらけたる體[やぶちゃん注:国書刊行会本では『ひしげたる様』で、その方がいい。]たゞごととは見へず。覺左衞門もさしも武力(ぶりよく)の人なれども、大汗になつて、只空しく是より戾りける。此噂より後、夜中には人みだりに通らずと云ふ。
[やぶちゃん注:「熊坂村」現在、大聖寺に接して(北陸本線大聖寺駅も含まれる)南方に広がる石川県加賀市熊坂町(石川県の南の端。グーグル・マップ・データ。以下同じ。なお、そこから少し南に離れて、福井県のあわら市熊坂もあるが、ここは違う)と考えて以下、沢山、考証を重ねたのであるが、後で、この「石坂の瀧」のある山を越えれば、「片野・黑崎へ出づ」とあるので、仰天した。何故なら、片野はここ(加賀市片野町)、黒崎はその北に接したここ(加賀市黒崎町)だからだ。ということは、この「石坂の瀧」のある「熊坂」というのは、現在の熊坂町とは縁もゆかりもない、この辺り(グーグル・マップ・データ航空写真)、大聖寺市街の大聖寺川を越えた北西の丘陵を乗り越す手前附近になくてはならないことになるからである。現在の地区としては「熊坂」ではなく、西から大聖寺福田町・大聖寺畑町・大聖寺岡町などである。国土地理院図も参照されたい。しかし、ここを昔、遙か南の「熊坂」と同じ地名で呼んでいたとするのは如何にも信じ難い気がする。【2020年1月27日:追記】後の「石坂の瀧」の注の追記を必ず参照されたい。
「七里」地図を見るに、七里では二十七・五キロメートルで、これでは話にならないと思っていた。他書二本を見るとここは『七鄕』となっている。この方が正しいと思われる。但し、当該地の古い地域割りを見出すことは出来なかった(現在の「熊坂町」の方なら、南北に細長くてかなり広大であるから、七郷あってもおかしくない気はしないでもないが)。【2020年1月27日:追記】後の「石坂の瀧」の注の追記を必ず参照されたい。
「長範」熊坂長範は平安末期にいたとされる伝説上の盗賊。室町後期に成立したと推定される幸若舞「烏帽子折」や謡曲「烏帽子折」「熊坂」などで初めて登場する。牛若丸(後の源義経)とともに奥州へ下る金売吉次の荷を狙って盗賊集団を率いて美濃青墓宿(又は美濃国赤坂宿)に襲ったが、逆に牛若丸に討たれたという設定になっている。参照したウィキの「熊坂長範」によれば、諸作の内容から見ると、いずれも、南北朝から室町初期に成立したと考えられている「義経記」に出る『越後の住人で』、『大薙刀を操る藤沢入道の記述を元に創作された可能性が』高いことが、既に『江戸時代から指摘されてい』たとある。但し、幸若舞「烏帽子折」で『自ら語るところによれば、越後との国境にある信濃国水内郡熊坂に生まれた』とするから、ここの「熊坂」(但し、前の注で述べた如く不審)を「出生の地」とするのはメジャーな伝承ではないと思われる。
「石坂の瀧」不詳。国土地理院図で確認してみたが、当該地には滝らしきものは見当たらないし、ネットでもこの名では掛かってこない(現在あるかなり大きな「下福田貯水池」も新しいものではないかと思われる。なお、上記の通り、位置的に無効なのであるが、南方の熊坂町の南方のこの辺りの「牛ノ谷峠」の北直下の谷(ここだと後に出る「上より見る瀧」という謂いがマッチしそうには思われる)とその東方の尾根を隔てた谷辺りに滝があってもおかしくない気はする(国土地理院図)。但し、加賀市作成になる「加賀市歴史文化基本構想」(PDF)の中に、「表 2-5 『加賀江沼志稿』に記される滝名」(「加賀江沼志稿」は弘化元(一八四四)年成立で、江沼郡の沿革・村名・社寺などに関する地誌である)という表に、熊坂領内の大聖寺水系(支流)にある滝として「石坂滝」が挙がっているから、かつては確かにあったし、或いは今もあるのかも知れない。しかし「熊坂領」とはやはり、加賀国江沼郡(現在の石川県加賀市熊坂町付近)に相当するのでこの話とは齟齬する。どうにも悩ましい限りなのである。識者の御教授を乞うものである。【2020年1月27日:追記】いつも情報を戴くT氏より地理考証を頂戴した。
《引用開始》[やぶちゃん注:メールにやや手を加えさせて戴いた。]
他書二本を見ると、ここは確かに『七鄕』とあります。「石川県江沼郡誌」の「第十七章 三木村の名蹟」の「○熊坂」に、
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〔江沼志稿〕
熊坂。石坂、出村、花房、吉岡、庄司谷、畑岡、北原、七村の惣名也。(以下略)
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とあり、また、同書のこちらに、
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○石坂瀧 熊坂に在り。北原部落より國道に岐れ[やぶちゃん注:「わかれ」。]、西南熊坂川の流に沿いて進めば、五六町にして至るべし。往時この附近に石坂部落ありしが、今僅に一戶を存するのみ。瀧は幅狭して[やぶちゃん注:「せまくして」。]高からず。且つ之を下瞰すべしといへども、溪間に下る能はざるが故に、鑑賞を擅にする[やぶちゃん注:「ほしいままにする。]こと能はず、されど水淸くして魚多きを以て、釣魚の淸遊を試みるに足る。
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とあって、そのあとに本篇が引用されてあります。
石坂は明治末に消滅集落になったので、地図に現われません。場所は多分、国土地理院地図の北原より南東に山に入る谷筋
と思われます。
《引用終了》
やはりそうか! ここでT氏が示された場所は私が一番最初に同定候補と考えた地区の一つだったのである。にしても、「爰の上の山を越ゆれば、片野・黑崎へ出づ」という謂いは、地理上、齟齬すること甚だしい。或いは、麦雀の原本にはこの前に脱文があったか? それをおかしいと感じながらも忠実に麦水が筆写したか? そんなことを夢想した。本文の地理的齟齬の不審が解消されないので、ややごちゃつくが、公開した際の注はそのままに示した。
「貪泉」中国は広州の十キロメートル手前にある「石門」という地に「貪泉」という湧水があったという。その名は「この水を飲むと、際限ない欲望の虜(とりこ)になってしまう」という言い伝えがあったという。ピカレスク長範を育んだ地の湧水なればこそと危ぶむ向きを否定したのである。但し、ウィキの「熊坂長範」には、『もとは仏のような正直者であったが』、七『歳のとき伯父の馬を盗んで市で売った。これが露見しなかった事に味を占め、以来』、『日本国中で盗みを働き、一度も不覚をとらなかったという』(幸若舞「烏帽子折」)とある。
『攝州有馬の「皷の瀧」』ここ。有馬温泉の「有馬六景」の一つに数えられる、六甲山北麓にあり、その清らかな水質で知られる。高さ八メートルの直瀑。名は滝壺に落ちる水音が鼓(つづみ)を打つかのように聞こえていたことに由来するが、昭和一三(一九三八)年の阪神大水害のときに滝が崩壊し、後に、二段の段瀑であったものを現在の直瀑に変更して修復したが、それ以来、嘗ての鼓のような滝音は消滅したとされる(ウィキの「鼓ヶ滝公園」に拠った)。
「石澗」山の岩の間を流れる水。
「石菖」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus。花は淡黄色で、春から初夏にかけて開花する。
「高保越」「加越能三州奇談」及び国書刊行会本ではここを「高尾越」とする。当該地には現在、西南と東北に二つのルートがある(県道百四十三号と、県道十九号から分岐した道)が、グーグル・マップ・データでみると、前者に「蛇越え 坂網猟場」という鴨猟の猟場はある。
「菅野覺左衞門」不詳。全くの同名で伊達藩士がいるが、別人であろう。
「よき狂人にこそ」「お笑いの種となる格好の狂人と見做されてしまうところだったわい!」。
「鞘のひらけたる」鞘が割れて開いている。「ひしげたる」ならば、「拉げる」で、押されて潰れるの謂いとなる。]