三州奇談卷之一 火光斷絕の刀
火光斷絕の刀
加州大聖寺の全昌寺は、元祿の頃芭蕉翁の行脚の杖を留られし梵院なり。其わかれの日門前の柳に一章を殘し、
庭掃て出でばや寺にちる柳 は せ を
おしい哉(かな)其柳も近年の回祿のために跡もなけれども、其高名は世に聞え、其日の姿を彥根の五老井の人の書きたるに、翁の眞蹟を張りて爰(ここ)に猶殘れり。目のあたり其日にあふ心地ぞする。其頃曾良は一日前にやどりして、旅中のなやみ心細くや有けん【世に行るゝ芭蕉の句選に、此句を翁の句とし、金昌寺と誤る。】、
夜もすがら秋風聞くやうらの山 曾 良
と聞へしも爰なり。實(げに)も浦風の吹越(ふきこ)しやすく、山ひとへに北海の大洋をへだつ佳景はしばらく論ぜず。
元文年中[やぶちゃん注:一七三六年から一七四〇年。]の事にや、大聖寺家中に小原長八と云ふ人、用有て此寺の後ろを夜半頃通られしが、浦風の面に颯(さつ)とふくにしたがつて、向ふより火の丸風ゆらゆらと來(きた)る。此夜はことに暗闇なりしも、此火の光りにあたりも赤々(しやくしやく)と見えわたりけるに、長八が前に間近(まぢか)く飛來るを、長八も壯年の不敵者なれば、
「心得たり」
と拔打(ぬきうち)に
「丁(てう)」
と打切りけるに、手答(てごたへ)なく、只空を切るごとくなれど、火の玉は二ツに割れて、長八が顏に
「ひた」
と行あたりける。顏は糊などを打かぶせたる樣に覺え、兩眼(りやうまなこ)共に赤う見えすきて、我眼ながらあやしく、其邊(そのあたり)の山々寺院なども朱にて塗りたる樣に覺えければ、
『忽ち魔國鬼界の別世界に落ちやしぬらん』
と、袖を上げ兩手を以て頻に面(おもて)をこすり落(おと)すに、ねばねばとしたる松やにの如くなるもの、多く衣類に付て、次第次第に元のごとく物見え、一時ばかりにしてぞもとの闇夜とは覺えける。何の替りたる事もなけれども、心もとなく、其邊り近き知れる人のもとを叩き起し、やどりて灯を點して[やぶちゃん注:「ともして」。]見るに、ねばねばとしたる計りにて、何とも分つべき方なし。翌一日も貌(かほ)には糊の懸りし如くせんかたなかりし。されども何のたゝりもなし。
久しくして、浦邊に老(おい)たる者に此事を尋ねけるに、
「海洋に生ずる海月(くらげ)と云物、時として風に乘じ飛行(ひぎやう)すること侍る。暗夜には火光(くわかう)のごとし。是等の類(たぐひ)にや侍らん」
と語りける。
「いかにも左(さ)にや。思ひ廻らせばなまぐささき匂ひも有ける樣にぞ覺へける」
とは云し。
[やぶちゃん注:本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 光明世界」の私の注で、国書刊行会本を参考に電子化している。底本違いで実際に本文の一部に有意な違いがあるので、再電子化した。
「全昌寺」現在の石川県加賀市大聖寺神明町にある曹洞宗熊谷山(「ようこくざん」と読むか)全昌寺(グーグル・マップ・データ)。大聖寺城主山口氏の菩提寺である。現行、海浜からは丘陵を隔てて、三・五キロメートルほどである。
「元祿の頃芭蕉翁の行脚の杖を留られし梵院なり」以下の句とともに、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 75 庭掃いて出でばや寺に散る柳』を是非、参照されたい。ずっと従ってきた曾良が、何故、芭蕉と分かれたかに興味があられる方は、『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 72 今日よりや書付消さん笠の露――曾良との留別』を見られたい。腹の病いでと一般には言われているが、ちゃんちゃらおかしい。もっとメンタルなものである。
「回祿」火災。
「彥根の五老井の人」近江蕉門で蕉門十哲の一人森川許六(きょりく 明暦二(一六五六)年~正徳五(一七一五)年)。名は百仲。「五老井」彼の別号の一つ。近江国彦根藩の藩士で絵師でもあった。
「世に行るゝ芭蕉の句選に、此句を翁の句とし、金昌寺と誤る」という割注は次に掲げる「曾良」の「夜もすがら秋風聞くやうらの山」のことを指す。「芭蕉句選」(華雀編・元文六(一七四一)年跋)「俳諧十家類題集」(屋島編・寛政一一(一七七九)年刊)で芭蕉作と誤伝する。「芭蕉句選」では、ここで指摘する通り、
金昌寺といふ寺に泊る
終夜(よもすがら)秋かぜ聞(きく)やうらの山
である。
「小原長八」不詳。
「兩眼(りやうまなこ)共に赤う見えすきて、我眼ながらあやしく、其邊(そのあたり)の山々寺院なども朱にて塗りたる樣に覺えければ」これは何らかの理由で眼球及びその周辺の劇症型の急性炎症を起こしたものと私は考えている。後述。
「海洋に生ずる海月(くらげ)と云物、時として風に乘じ飛行(ひぎやう)すること侍る。暗夜には火光(くわかう)のごとし。是等の類(たぐひ)にや侍らん」シチュエーションとしては浦風がかなり激しく吹いていたと読めるから、実際に砂浜に打ち上げられたクラゲが、たまたま強風に煽られ、長八の顔面に附着することはないとは言えない。仮にその中に強毒性で乾燥した刺胞も極めて危険な刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica(別名「ハクションクラゲ」)、或いは、気泡体が風船のように発達する刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis なんぞであったなら、顔面が激しく炎症を起こし、眼は失明の可能性もあったやも知れぬ(両者は海浜に打ち上げられて時間が経ってもも刺胞は物理的に十全に機能するし、前者は乾燥させた粉末を忍者が目潰しに使っていたという説もある)。但し、これらの種は逆立ちしても赤色発光はしないから、まあここは伝承でも珍しい「海月の妖怪」ということにしておこうではないか。それが、また、面白かろうからに。]