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2020/01/05

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) 九州学生 (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“WITH KYŪSHŪ STUDENTS”。「九州の学生とともに」)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の第二話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、底本の田部隆次氏の「あとがき」の中に、『「九州學生」のうち、譯者が註に書いた當時の生徒の名は全部安河内』(やすこうち:現代仮名遣)『麻吉氏』(本篇にまさに生徒として登場する)『の敎示によつた事を述べてここで謝意を表したい。當時は生徒の數も少なかつたので、文科と法科は勿論、理科工科も共通學課は時として一緖に授業を受けた事を注意すべきである』とある。即ち、学生の名前は小泉八雲のそれを参考に、安河内麻吉氏が指示した実在した名前を入れてある部分があるということを意味しているのである。また、国立国会図書館デジタルコレクションの中に第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」があり、そこには驚くべきことに「第十六章 生徒姓名」が載るので、私の注では、それとも比較してみた。なお、ハーンの五高着任は明治二四(一八九一)年十一月二十四日で、本篇執筆時である明治二七(一八九四)年五月の時点でも現職であった。即ち、上記図書の「第十五章 職員」の一番最後の「雇外國敎師」の欄にも、ただ一人、『ラフカヂヲ、ヘルン 英 國』と記されてあるのである。

 訳者注は全体が四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて同ポイントで示し、訳注(群)前後を一行空けた。また、「四」の訳者注は多く、纏めて章末にあるが、参照しにくいと判断し、当該段落の後にばらして配した。但し、ここでは注の前後は一行空けを施さなかった。

 

  九州學生

 

       

 直轄學校或は高等中學校の學生は少年とは云へない、彼等の年齡は最下級の平均十八から最上級の平均二十五に到る譯者註一。恐らくこの課程年限は少し長過ぎる。飛良の生徒でも二十三歲以前に帝國大學に達する事は殆んど望めない、そして大學に達するには英語獨語か或は英語佛語の充分なる實用的知識と漢學の完全なる知識を要するのである。かくして學生は本國の古文學に關する凡ての知識と未だその上に三ケ國の語學を知らねばならない。そしてこれだけの課業の如何に困難であるかはこの漢文の學問だけでも六ケ國の語を習得するに等しい努力が要ると云ふ事實を知らないでは分らない。

 

譯者註一 當時の高等中學校は本科二年豫科三年。中學卒業生は殺下級もしくはその上に入學し、最優等者に限つて豫科の最上級に入學を許された。

[やぶちゃん注:原本では(左ページ)、この「そして大學に達するには英語獨語か或は英語佛語の充分なる實用的知識と漢學の完全なる知識を要するのである」の箇所に注記号が入り、以下の原注がある。

   *

 This essay was written early in 1894. Since then, the study of French and of German has been made optional instead of obligatory, and the Higher School course considerably shortened, by a wise decision of the late Minister of Education, Mr. Inouye. It is to be hoped that measures will eventually be taken to render possible making the study of English also optional. Under existing conditions the study is forced upon hundreds who can never obtain any benefit from it.

   *

訳すと、

   *

 このエッセイは一八九四年の早い時期に書かれたものである。実際にはそれより以降に、フランス語とドイツ語の学習は必須ではなく、任意の選択となり、高等学校の修養年限はかなり短縮された。これは故井上文部大臣の賢明な決定によりものである。 将来、英語の学習もまた、選択とすることが出来るような措置が最終的に取られることが望まれる。 現行既存の条件の下にあっては、この英語学習からは如何なる利益も決して得られない数百人に対して、それが強制されているからである。

   *

また、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二七(一八九四)年五月十七日の条に『「生と死の断片」、「九州の学生とともに」を送る』とある。これは本作品集のための送付と考えられるが、実はまさにこの頃には、既にハーンには五高の同僚らとの激しい確執(やや妄想的に彼を陥れるための陰謀が企てられているとさえも感じていた)が生じており、五高を辞任して別な仕事を模索している時期とぴったり重なっている。]

 

 熊本の學生が自分に與へた印象は出雲の生徒と始めて相知つて受けた印象と非常に違つてゐた。これは熊本學生が日本人の少年時代の甚だ愉快な時期をすでに經過して眞面目な無口な成年に達して居るからばかりでない、又一方では所謂九州氣質を著しく代表して居るからである。九州は昔の如く今日も日本の最も保守的地方となつて居る、そしてその主要の都の熊本は保守的精神の中心となつて居る。しかしこの保守主義は合理的で又實際的である。九州は鐡道や進步した農業法や或種類の工業に科學の應用法を採用する事には緩慢ではなかつた、しかし日本帝國の諸州のうちで西洋の風俗習慣をまねる事を最も好まないのである。古への士魂[やぶちゃん注:「さむらひだましひ」と訓じておく。]がなほ生きて居る、その魂が九州に於て數百年間日常生活に於て極端な簡易生活をなさしめたのである。衣服の奢侈その他種々の贅澤に對する禁令は嚴しく行はれてゐた、そしてその禁令はそののち癈れたとは云へ、その勢力は今も人々の甚だ質素な着物や簡單率直な風俗に現れて居る。熊本人は外では殆んど忘れられて居る動作に關する傳說を守る事や、外國人には明らかに名狀する事はできないが敎育ある日本人には直ちにそれと知られる言語擧動に於ける一種の臆しない腹藏のないところが特色だと云はれて居る。そしてここでは又淸正の大きな城の影の下に(今は大勢の師團兵が入つて居る)國民的情操・卽ち忠君愛國の念が東京と雖も及ばぬ程强いと云はれて居る。熊本は凡てこれ等の點を誇り、又その傳說を自慢して居る。實際熊本には外に誇るべき物はない。ただ廣い、散らばつた、面白みのない、不體裁の町である、古風な綺麗な町は一つもない、大きな寺も、立派な庭園もない譯者註二。明治十年の内亂に全燒したので熊本は今もなほその土地の煙の殆んど收まらないうちに脆弱な假小屋を急いで建てた荒野と云ふ印象を與へる。そこに行つて見るやうな著名なところはない(少くとも市中にはない)見物すべき物もない、娛樂も餘りない。この道理からこの學校は場所がよいと思はれて居る、ことに住む者には誘惑物も邪魔になる物もない。しかし又別の理由から遙か離れた東京の富有な人々は熊本に子弟を送らうとする。靑年が所謂『九州魂』に滲み、所謂『九州かたぎ』を得るのは望ましい事となつて居る。九州の學生はこの『九州風』のため日本で一種特別の學生と云はれる。私はこれを明らかに說明する程充分この『かたぎ』について學び得なかつたが、これは必ず昔の九州武士の擧動に近い物であるに相違ない。東京や京都から九州に送られる學生はたしかに全く違つた境遇に順應せねばならない。熊本及び鹿兒島の靑年は兵式體操その他特別の場合に制服を着用せねばならぬ時の外は、昔の武士の着物に多少類する(そしてそのために剱舞の詩譯者註三で有名になつて居る)着物を今も着て居るのである、卽ち短い着物と膝の下に少ししか達しない袴と草履とである。着物の材料は安い粗末な物で色は地味である、嚴寒の時又は草鞋の紐が肉に喰込まぬ爲にはく外は足袋は殆んどはかない。擧動は亂暴ではないが柔和ではない、そして靑年は一種、性格の峻嚴なる外貌を養成するやうである。全く彼等は非常な境遇に際しても冷靜なる外貌を保つ事ができる、しかしこの自制の下に烈しい自信たが潜んでゐて、稀には恐ろしい形になつて現れる事がある。彼等は叉一種東洋風に粗野な人々と云つてもよい。可なり富有の家に生れながら、どれ程肉體上の困難にたへられるかを試みる程、强い興味を外にもたない人々を私は知つて居る。多數の人々は彼等の主義を捨てるよりもむしろ直ちに生命をなげうつのである。そして國家の危險と云ふやうな噂でも聞けば全四百の學生は直ちに變じて鐡の如き兵士の一隊となるであらう、しかし彼等の外貌は解する事すらむづかしい程にいつも極めて平靜である。

 

譯者註二 水前寺公園など感嘆すべき物であらうが、その頃は熊木市から少し離れてゐた。

譯者註三 賴山陽の前兵兒の歌「衣骭に至り、袖腕に至る……」の事。

[やぶちゃん注:「剱舞」「けんぶ」(「けんばい」と読むのは岩手・宮城に伝わる民俗芸能の読みであり、ここでは採らない。そちらについては、私の『宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 原體劍舞連(はらたいけんばいれん)』の注を参照されたい)。日本の近代舞踊の一つで、紋服に袴姿で、詩吟に合せ、日本刀を振りかざして踊る。狭義のそれは、江戸末期に始った比較的新しいものとされ、明治期には日清・日露戦争の富国強兵政策の影響下で隆盛を極めた。大正初期にかけてはこれに演劇的要素を加えた改良剣舞や娘剣舞が行われ、興業として人気を博したは、後に次第に衰微し、現在はただ同好者の間でのみ継承されている。「川中島」「白虎隊」「城山」などが著名で「吟舞」とも呼ばれる。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、むろん日本古来のものの中に「剱の舞」と称するものは存在し、これは剣を持って、目に見えない邪心や悪霊を斬る呪的行為を舞踏化したもので、非常に古くから神道の神楽(かぐら)の中の重要な要素の一つとして含まれていたし、この近世近代のそれもそこにルーツがあることは言うまでもなく、ウィキの「剣詩舞(けんしぶ)」によれば、『その他に』も『古代武術の技巧を取り入れた、久米の舞』(宮中の儀式用の「国風歌舞(くにぶりのうたまい)」の一つで、現存する日本最古の歌舞とされる。古代、久米氏に属する人々が舞った古典舞踊で、雅楽寮で教習された。舞手は四人。久米氏の滅亡後は大伴氏・佐伯氏に継承された)『と吉次の舞』(「よしつづのまい」か)『とがあって、その何れも』、『剣を振って敵を撃つ有様を舞った。しかし、恐らく』、『近世の剣舞は、以上の古典が歴史と共に移り変りつつ、数世紀を経て今に及んだものとみるべきである』。安政年間(一八五五年~一八六〇年)、『昌平坂学問所の書生が酔った際に』頼山陽などの『詩を吟じ、刀剣を抜き舞ったという。また、王政復古に際しては』、『姿なき協力者として、勤王の志士の間に大いに歓迎され』、『人心を掻き立て、あるいは士気を鼓舞する等、適時適所に少なからず役立ったという』とある。

「賴山陽の前兵兒」(ぜん へこ)「の歌」儒者・勤王家であった歴史家で漢詩人の頼山陽(安永九(一七八一)年~天保三(一八三二)年:大坂生まれ。広島藩儒頼春水の長男。江戸に出て学んだ後、京都に出て私塾を営み、門弟教育の傍ら、日本各地を歴遊した)が、文政元(一八一八)年に西遊した際、予ねてより噂を聴き、憧れていた質実剛健にして勇武の薩摩を訪れ、そこで薩摩の青年を鼓舞した俗謡「兵子歌(へこのうた)」を聞く(頼山陽書とする短冊「前兵児謡」の載るこちらの解説にあるものを参考にさせて戴いた)。

   *

 肥後の加藤が來るならば

 硝煙さかなに團子(だご)會酌

 たごは何だご鉛團子

 それでも聞かいで來るならば

 首に刀の引出物

   *

そこで詠んだ漢詩「前兵兒謠(ぜん へこのうた)」(「後(こう)兵兒謠」があるのである。後述)を指す。

   *

 前兵兒謠

衣至骭

袖至腕

腰閒秋水鐡可斷

人觸斬人馬觸斬馬

十八結交健兒社

北客能來何以酬

彈丸硝藥是膳羞

客猶不屬饜

好以寶刀加渠頭

  前(ぜん) 兵兒(へご)の謠(うた)

 衣(ころも)は骭(かん)に至り

 袖 腕(わん)に至る

 腰間(ようかん)の秋水(しうすい) 鐡 斷つべし

 人觸るれば 人を斬り 馬 觸るれば 馬を斬る

 十八交(まじはり)を結ぶ 健兒の社(しや)

 北客(ほつかく) 能く來たらば 何を以つてか酬いん

 彈丸 硝藥(しやうやく) 是れ 膳羞(ぜんしう)

 客(かく) 猶ほ屬饜(しよくえん)せずんば

 好(よ)し 寳刀を以て渠(かれ)が頭(かうべ)に加へん

   *

語注する。

・「骭」脛(すね)で、この冒頭二句は、まさにハーンが言う「卽短い着物と膝の下に少ししか達しない袴」のことである。

・「秋水」は「切れ味鋭い研ぎ澄まされたような居合いの名刀」を形容する語。

・「十八結交健兒社」十八歳になると、当地では男子は「健兒の社」に入った。これは薩摩藩が郷中教育の伝統を受け継いで組織した青年藩士のための社会教育機関の名称である。

・「北客」肥後の軍兵のこと。戦国時代より、薩摩は侵略を受け続けた。

・「膳羞」「羞」は「供え勧める」の意で「馳走として食らわしてやること」である。

・「屬饜」「飽き足ること」の意。

・「渠」彼に同じい。

 但し、頼山陽は、実は現地で即座に激しい失望を覚えることとなった。サイト「詩吟神風流藤が丘支部 私の詩吟日記」の「前兵児と後兵児の謡」によれば、『薩摩の兵児は』、『身なりに構わず粗野で武骨、その上 よそもんに対して警戒心が強く閉鎖的で、特に隣接する肥後とは勢力が拮抗していたため、若者は常に肥後への敵愾心をむきだしにして鍛えられていた。『前兵児謡』はそれを詠んだ詩であ』った。が、『頼山陽が九州遊歴の旅で薩摩に入ったときの現地の模様はかなり変わっていた。嘗ての質実剛健、尚武の気風はどこへやら、浅黄裏の羽織を着、へんなおしゃれをして京言葉を喋る若者が色町に溢れていたのである。以前は色町など薩摩には全く認められていなかった』。『これは当時の薩摩藩主島津重豪』(しげひで)『が極端な開放政策をとって武士の粗野な言葉や風俗を戒め、上方風俗の移入に力を入れた結果であった』。『驚いた山陽は、早速島津重豪が薩摩藩主になる』〈前と後〉『の兵児の変貌ぶりを皮肉を込めて詩に詠んだ』として、「後兵兒謠」の訓読文が載る。私は半分近くの血が薩摩であるからして引用しない。悪しからず。

 

 長い間自分はその微笑もしない平靜の下に如何なる旅情、情操、理想が潜んで居るかを知りたいといつも思つてゐたが無駄であつた。實は政府の役人である日本人の敎師はどの生徒とも親密であるとは思はれなかつた、私が出雲で見たやうな親しい關係は痕跡もなかつた、敎育者と被敎育者の關係は敎室に集まり又別れる時のラツパの聲と共に始まり又終るやうに見えた。この點に於て私はその後私が幾分誤れる事を發見した、しかし實際の關係は大抵は自然的でなくて形式的であつた、そして私が「神々の國」を出て以來私がたえず記憶して居るあの古風な深切な同情とは全く違ふやうである。

 しかし、後になつて時々この表面の見せかけよりははるかに愛すべき精神の幾分――情緖的個性の暗示――を見るやうになつた。偶然の會話で得た物も少しはあるが最も著しい物は作文からである。作文の題は思想感情の全く思ひもかけぬ花を咲かせた事が時々ある。誤れるはにかみ、否實際如何なる種類のはにかみも全くないのは甚だ喜ぶべき事實であつた、靑年は感情や希望をそのまま書く事を恥としなかつた。彼等はその家庭について、兩親に對する敬愛について、幼年時代の幸福なる經驗について、友情について、休眼中の冒險について書く、しかもわざとらしくなく全く眞面目なので、私が美しいと思つたやうに書いてあるのが度々ある。そんなに驚いた事が度々あるので、私はこれまで受取つた著しい作文は初めから皆ノートを取つて置かなかつた事を深く後悔するやうになつた。每週一囘私が受取つた作文の最上の物からぬき出して敎場で讀み上げて直し、その他はうちで直すのをつねとした。一番最上なのは讀み上げて大勢の爲に批評する事はいつでもできるわけではなかつた、卽ち次ぎの例で分る通り、きまつて批評を加へる事ができぬ程神聖な事に關して居るからである。

 私は英作文の題としてこんな問題を與へた『人が最も長く記憶する物は何か』一人の學生は自分等は外の經驗を記憶するよりも、最も幸福な時を長く記憶する、何故なれば、不愉快な事や苦しい事はできるだけ早く忘れようとするのが凡て普通人間の天性であるからと答へた。私は更にもつと巧みな返事を澤山受取つた、中にはこの問題について全く鋭い心理學的硏究をした事を證明した物もあつた。しかし私は最も痛ましい事件は最も長く記憶せられると考へた一學生の簡單な答を最も愛した。彼はまさしく次ぎの通りに書いた、一語も直すに及ばなかつたのである。

 

 『人が最も長く覺えて居る事は何であらうか。私は人が苦しい境遇にあつて、聞いたり見たりする事を最も長く覺えて居ると考へる。

 『私がやつと四つの時私のなつかしい、なつかしい母がなくなつた。冬の日であつた。風は木の間と家の屋根の𢌞りをひどく吹いてゐた。木の枝には葉がなかつた。鶉は遠くで――淋しい聲で鳴いてゐた。私のしたことを思ひ出す。母が寢床に寢てゐた時――死ぬ少し前――私は母に蜜柑を上げた。母は微笑んで、取つてそれを味はつた。母の微笑んだのはこれが最後であつた。……母の息が絕えてから今日に至るまで、十六年以上も經過して居る。しかし私に取つてはそれは一瞬間のやうである。今も又冬である。母のなくなつた時吹いた風は丁度その時のやうに吹いて居る、鶉は同じ鳴聲をして居る、凡ての物は皆同じである。しかし私の母は逝いて又再び歸り來る事はない』

 

 つぎも又同じ問に答へて書いた物である。

 

 『私の一生の最大不幸は父のなくなつた事であつた。私は七つであつた。私は父が終日病氣であつた事と私のおもちやがかたづけられて、私が極靜かにしようと努めた事を思ひ出せる。私はその朝父に遇はなかつた、それでその日は大層長く思はれた。最後に私は父の部屋へそつと行つた、そして父の頰の近くに脣をやつて「お父さん、お父さん」とささやいた、――そして父の頰が甚だ冷たかつた。父は物を云はなかつた、私の叔父が來て、部屋の外へ私をつれ出したが何にも云はなかつた。それから私は父は死にはせんかと恐れた、妹が死んだ時その頰が冷たかつたやうに父の頰が冷たかつたからである。夕方大勢の近所の人々やその他の人々が來て、私をあやしてくれたので一時は嬉しかつた。しかし夜のうちに人々は私の父を持つて行つてしまつたので、そののち私は決して父を見た事はない』

 

       

 以上の文章から單純な文體が日本の高等學校の英作文の特色であると人は想像するかも知れない。しかし事實は正反對であろ。小さい言葉よりも大きい言葉を取り、平易な短い文章よりも長い複雜な文章を選ぶのは一般の傾向である。これには或道理があるので、それを說明するにはチエムバレン博士の言語學上の論文にまたねばなるまい。しかしこの傾向それ自身は――現今使用されて居る愚な敎科書でたえず奬勵されて居るが――つぎの事實から幾分か分るであらう、卽ち最も簡單な種類の英語の云ひ表はし方は日本人に最も不明瞭である、これは熟語であるからである。學生はこれを謎のやうに思ふ、卽ちその根抵の思想が彼等の思想と相異なるが故である、この思想を說明せんがためには先づ日本人の心理を幾分知る事が必である、そこで簡單な熟語を捨てるのが卽ち本能的に抵抗のない方面に向ふ事になる。

 私は種々の工夫によつて反對の傾向を養成しようと試みた。時々私は全く單文で、又一綴りの字であるありふれた話を一組の學生のために書いた。時々その題の性質上簡單に書かねばならぬやうな題を出して見たりなどした。勿論私はいつでも私の目的を達したとは云へない、しかしそれに關して選んだ一つの題『學校へ始めて行つた日』で澤山の作文が出た、それは感情と性格が天眞に流露して居るので全く別な風に私を感ぜしめた。彼等の天眞爛漫は中々に捨て難い美點である――殊にこれ等は、もはや少年でない人々の囘想であると思へば。つぎのつぎのは最もよい物の一つであると私に思はれた。

 

 『私は八歲になるまで學校に行く事ができなかつた。私はよく父にやつて下さいと願うた、遊び友達は皆すでに學校に行つてゐたからである、しかし未だ充分强くないと云ふので許して貰へなかつた。そこでうちに居て弟と遊んで居た。

 『初めの日に兄は私をつれて學校に行つた。先生に何か云つで、それから私を置いて行つた。先生は私を敎室につれて行つてベンチに腰かけるやうに命じてそれから又私を置いて行つた。私はそこに默つてゐた時悲しく感じた、今一緖に遊ぶ弟はゐない――只大勢の知らない子供ばかり。鐘が二度鳴つた、すると先生は敎場に入つて石盤を出すやうにと云つた。それから黑板にカナを一字書いてそれを寫させた。その日先生は日本の言葉を二つ書く事を敎へてそれから善い子供の話を聞かせた。家に歸つて母のもとへ走つて行つて側に坐つて先生に敦敎へて貰つた事を話した。その時の嬉しさはどんなであつたらう。その時の嬉しさは話にもできない――まして書く事はなほできない――ただ私はその當時先生は父よりも又私の知つて居る誰よりももつと學者で、――世界中で一番畏るべき、しかも又一番やさしい人であると思つた事しか云へない』

 

 つぎのも先生を甚だよく見て居る。

 

 『私の兄と姉とが始めての日學校へ私をつれて行つた。私はいつ私も内に居る時のやうに學校でも兄や姉の側に居られるものと思つた、しかし先生は兄や姉の敎場と餘程離れた敎場へ行くやうに命じた。私は兄や姉と居ようと頑張つた、先生はそれがいけないと云つた時私は泣いて騷いだ。さうすると皆で兄が敎場を出て私と一緖に私の敎場に來る事を許した。しかし暫くして私は私の敎場に遊び友達を見出した、それで私は兄がゐないでも恐れなかつた』

 

 これも又中々美はしく又眞にせまつて居る。

 『一人の先生(校長だと思ふ)が私を呼んで大學者にならねばならぬと云つた。それから誰かを呼んで四五十人の生徒の居る敎場へ案内させた。私はそんなに大勢の友達のある事を考へて恐ろしくもあり又嬉しくもあつた。彼等は私をはにかんで見、私も彼等をはにかんで見た。初めのうちは彼等に話をする事が恐ろしかつた。小さい子供はそんなに無邪氣な者である。しかし間もなくどうかして一緖に遊び始めた、そして彼等も私が一緖に遊ぶやうになつたので嬉しいやうであつた』

 

 以上三つの作文は、敎師の方の苛酷な事を禁ずる現今の敎育制度の下で始めての敎育を受けた靑年の書いた物である。しかしその以前の敎師はそれほどやさしくなかつたと見える。ここに全く違つた經驗をしたらしい年長の學生の作文が三つある。

 

 一、『明治以前には今日あるやうな公立學校は日本にはなかつた。しかし士族の子弟から成立した學生塾とも云ふべき物が各地方にあつた。士族でなければその子弟はこんな塾に入る事はできなかつた。この塾は藩公の支配の下におつて、その藩公は學生を管理する塾長を任命した。士族の重もなる吊問は漢文學の硏究であつた。今の政府の多數の政治家は以前こんな士族學校の學生であつた。普通の町人や百姓は寺小屋と云ふ小學校に子女を送らねばならなかつた。そこには先生が一人ゐて何もまも敎へるのであつた。それも讀み書き、算盤と修身に過ぎなかつた。私共は普通の手紙や、極めてやさしい文を書く事を學んだ。私は八歲の時、士族でないから寺子屋へやられた。初めのうちは行きたくなかつた、そして每朝祖父に杖で打たれて漸く行つたのである。その寺小屋の掟は極めて嚴重であつた。子供がきかないとその罰を受けるやうに抑へつけられて竹で打たれた。一年たつて公立學校が開かれた。そして私は或公立學校に入つた』

 

 二、『大きな門、堂々たる建物、腰かけの列んで居る甚だ大きい陰氣な部屋――こんな物を覺えて居る。先生は甚だ嚴しいやうであつた、私はその顏が嫌であつた。私は敎室の腰かけに坐つて不平を抱いてゐた。先生は不親切に思はれた、子供のうちで私を知つて居る者も話しかけた者もなかつた。一人の先生は黑板の側に立つて姓名を呼び始めた。彼は手に鞭をもつてゐた。彼は私の名を呼んだ。私は返事ができなかつた、そして泣き出した。そこでうちへ送られた。それが私の學校での始めての日であつた』

 

 三、『七歲の時に村の學校に入らねばならぬ事になつた。父から二三本の筆と紙を少し貰つた――私はそれを貰つて非常に嬉しかつた、そしず一所懸命に勉强する事を約束した。しかし學校の飴めての日は如何に不愉快であつたらう。學校に行つた時、仲間のうちで私を知つて居る者は一人もない、それで私は一人の友達もなかつた。私は敎室へ入つた。手に鞭をもつた先生は大きな聲で私を呼んだ。私は大層驚いてそして泣かずには居られぬ程嚇かされた。男の子供等は大きな聲で私をあざ笑つた、しかし先生はそれを叱つて一人を鞭でうつて、それから私に「自分の聲に恐れてはいけない、お前の名は何と云ふ」と云つた。私は鼻をつまらせながら名を云つた。私はその時學校と云ふところはいやなところで泣く事も笑ふ事もできないところだと思つた。私は直ぐうちへ歸りたいぱかりであつた、歸る事は私の力でできないとあきらめてゐたが授業の濟むまでぢつとして居る事は中々つらかつた。やうやくうちへ歸つて父に學校で感じた事を語つて、そして「學校へ行くのはいやだ」と云つた』

 

 次ぎの追懷は明治時代の物である事は云ふまでもない。作文としては私共が西洋で云ふ『特色』が現れて居る。六歲の時の獨立心を云つて居るのが面白い、始めて學校へ出るのだから自分の白足袋をぬいで弟にはかして、めかしてやる小さい姉の話も面白い。

 

 『私は六歲であつた。母は早く私を起した。姉は私にはかせるために姉自身の足袋をくれた、――私は嬉しかつた。父は學校まで私の伴をするやうに女中に命じた、しかし私は伴はいらないと斷つた、私は全く獨りで行かれると思ひたかつた。そこで獨りで行つた、そして學校はうちから遠くないのですぐ門の前に來た。そこに暫らくじつと立つて見た、知つた子供が一人も入つて行かないからである。男の子や女の子が女中やうちの人につれられて學校へ入つて行つた、そして内の方で遊戲をして居る者があるを見て羨ましくなつた。しかしその遊戲仲間の一人が私を見て笑つて走つて來た。そこで私は大層嬉しかつた。その子供と手を取つてあちこち步いた。最後に先生は一同を敎室に呼んで演說をしたが私には分らなかつた。それから始めてだと云ふので、その日はお休みになつた。私はその友人とうちに歸つた。兩親は果物や菓子を準備して私を待つてゐた、そして友人と私は一緖に喰べた』

 

 又一人が書く。

 『私が始めて學校へ行つた時は六歲であつた。祖父が私のために本と石盤を持つて行つた事と先生や友達が私に實際非常に親切で丁寧であつた事だけを覺えて居る、それで私は學校はこの世界で極樂であると思つた、そしてうちへは歸りたくはなかつた』

 

 私はこの短い心からの後悔も又書いて置くだけの價値があると思ふ。

 

 『始めて學校へ行つた時は八歲であつた。私はいたづら小僧であつた。學校からの歸途友達の一人(私よりも若い)と喧嘩した事を覺えて居る。その子供は私に極めて小さい石をなげた、そして私にあたつた。私は路に落ちて居る木の枝を取つて力一杯彼の顏を打つた。それから路の眞中に泣いて居るのを打ち捨てて逃げ出した。心のうちで惡い事をしたと思つた。うちについてからまだ泣いてい居るのが聞えるやうに思はれた。この小さい遊び仲間は今ではこの世の人でない。誰か私の心のうちの分る人はあらうか』

 

 これ等の靑年が全く自然の感情で幼年時代の場面を想ひ起す事のできる力は私には根本的に東洋的だと思はれる。西洋では人生の秋が近づかない以前に幼時をはつきり想ひ出す事は餘りない。しかし日本では幼年時代はたしかに何れの國に於けるよりも幸福である、その理由で成年になつてから思ひ慕はれる事も早いのであらう。休暇中の自分の經驗を學生が記した物から、つぎに拔いた物を見るとその幼時追懷の念が哀れに現れて居る。

 

 『春期休業の間に、兩親に會ひに歸省した。學校へ歸るべき間際の、丁度休暇の終りの少し前に、私は鄕里の中學生がやはり熊本へ遠足に行く事を聞いたので一緖に行く事にきめた。

 『彼等は小銃をもつて隊をなして行進した。私は小銃をもたないから隊の殿り[やぶちゃん注:「しんがり」。]についた。軍歌を合唱してそれに合せながら終日行進した。

 『夕方添田に到着し、添田學校の職員生徒、及び村の重もなる人々は私共を歡迎した。それから幾隊かに分れてそれぞれ別の宿屋に陣取つた。私は最後の一隊と共に宿屋へ入つて泊つた。

 『しかし私は長い間眠る事ができなかつた。五年以前同じ「行軍」にこの中學校の生徒として正しくこの宿屋に泊つた。私は疲勞した事や愉快であつた事を思ひ出した、そして私は當時の少年時代の旅情を追懷して今の私の感情と比べて見た。私は私の仲間のやうに再び若くなりたいと云ふ愚かな願を起さずには居られなかつた。彼等は皆遠足で疲れて熟睡してゐた。私は起きて彼等の顏を眺めた。彼等の若い寢顏は如何に美しく見えたらう』

[やぶちゃん注:「添田」原文“Soyeda”。不詳。現在、福岡県田川郡添田町(グーグル・マップ・データ)があるが、ご覧の通り、ここと熊本(現市内)では、とても旧制中学の生徒が徒歩で小旅行(というより小銃を所持する以上は行軍演習である)をするような距離とは思えないほど遠く離れているから、違う(そもそもが一日熊本方向へ歩いて泊まったのが「添田」であるからして、添田と熊本でさえ直線でも約六十八キロメートルあり、筆者の郷里がどこか判らぬが、一日分の行軍距離を加算すれば、推定でも行軍演習の実働距離は百キロ近くなってしまい、これはちょっと考えにくいと私は思う)。]

 

       三

 以上の拔書きは或特別の感情を說明せんがために或特種の物を選び出したので、それ以上學生の一般作文の性質を示す事にはならない。もつと眞面目な種類の題から觀念情操の例を擧ぐれば、種々變つた思想や、餘程斬新な書き方も分るであらうが、それはなかなか長くなる。しかし私の敎室用手帳からぬき出した少しの拔書きは珍らしくはなくとも、多少暗示するところがあらう。

 

 一八九三年(明治二十六年)の夏の試驗に私は卒業の組に作文の題として『文學に於て不滅な物は何ぞ』と云ふ題を與へた。こんな題について議した事はないのと、又西洋思想に關する學生の知識と云ふ點から見てたしかに新しい題であるから、斬新奇拔な答案が出る事を豫期してゐた。果して殆んど凡ての答案は面白かつた。私は例として二十の答を選ぶ。長い議論の前に直ぐつぎのやうな言葉が出て居るのが大多數であつたが、中には論文のうちに含まれたのも少しはあつた。

 

 一『眞理と不滅は同一である、この二つは漢語で云へば圓滿をつくる』

 二『人生行爲にありて宇宙の法則にしたがふ物は皆』

 三『愛國者の傳、及び世界に純悴な格言を與へた人の敎訓』

 四『孝行、及びこれを敎ゆる人々の敎訓。秦の時孔子の書を燒いたがその效はなかつた、今や文明世界の凡ての國語に譯せられて居る』

 五『倫理學と科學的眞理』

 六『善惡共に不滅であると支那の聖人は云つた。私共は善なる物をのみ讀むべきである』

 七『祖先の偉大なる思想觀念』

 八『十億世紀の間眞理は眞理である』

 九『凡ての倫理學說が同意する正邪の觀念』

 一〇『宇宙現象を正しく說明する書物』

 一一『良心だけは變らない。故に良心に基づいた倫理學の書物は不滅である』

 一二『高尙な行爲の道理、これは時の爲めに變らない』

 一三『最大多數の人々卽ち人類に最大の幸福を與ふる最もよい道德上の方法について書いた書物』

 一四『五經』

 一五『支那及び佛敎徒の聖い書物』

 一六『人間行爲の正しい淸い方法を敎ゆる物は皆』

 一七『七たび生れて天皇の爲に敵を亡ぼさうと誓つた楠正成の話』

 一八『道德的情操、それがなければ世界はただ一大穢土、書籍は反古に過ぎない』

 一九『老子道德經』

 二〇 一九と同じ、ただつぎの註がある、『不滅の物を讀む人、その人の魂は宇宙の間を永久に徘徊する』

[やぶちゃん注:「老子道德經」「老子」の別称。]

 

       

 或特別に東洋的な情操が折々議論の間に現れて來た。その議論は私が敎場で口演する話に基づいたのである、そしてその話について話して或は書いて批評をさせるのである。こんな議論の結果は後に發表してある。その議論のあつた頃には上級の學生には澤山の話を既にして置いたのであつた。私は多くのギリシヤの神話を物語つた、そのうちでヱデイパス[やぶちゃん注:原文“Œdipus”(頭文字は合字)。エディプス。]とスフインクスの話譯者註一がその内に潜んで居る敎訓のあるので特に面白かつたやうである。それからオルフユース譯者註二[やぶちゃん注:“Orpheus”。オルフェウス。]は外の音樂に關する傳說と同じく彼等に何の興味もなかつたらしい。私は最も有名な近世の話を色々話した。『ラツパシニの娘』譯者註三と云ふ不思議な話は大層彼等の氣に入つた、そしてハウソーンの靈は彼等のこの話の解釋をきいて少なからざる喜びを得た事であらう。『モノスとダイモノス』も氣に入つた、ポーの優れた短篇『沈默』譯者註四は珍らしい理由で感心されたので私は驚いた。それに反して『フランケンスタイン』は餘り感心されなかつた。誰も眞面目に考へなかつた。西洋人にはこの話はいつでも一種の恐怖を抱かせるのである、それは生命の源、神の禁止の恐ろしい性質、及び自然の祕密から幕を取り去らうとしたり、又は嫉妬深い造物者の作物をたとひ知らずになりとも嘲りでもすれば、必ず恐るべき天罰のある事、などに關するヘプリユの思想の影響を受けて生長發達し來つた感情に大打擊を與ふるからである。しかしこんな怖ろしい信仰に暗まされてゐない東洋人に取つては――神と人との隔てを感じないので――又人生を囚果應報の一の定則で支配される多樣な集合であると考へて居るので――この話の怖ろしさは更に分らない。作文で批評した物を見ると大槪は喜劇的な或は半ば喜劇的なたとへ話と考へられて居る事が分つた。仕舞に或朝私は『西洋の甚だ强い道德的の話』をと云ふ要求の出たので大分當惑した。

[やぶちゃん注:「ラツパシニの娘」“Rappacini's Daughter”。アメリカの作家ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne 一八〇四年~一八六四年)が一八八四年に発表した短篇怪奇悲恋小説。

「モノスとダイモノス」“Monos and Daimonos”はイギリスの作家で政治家であったエドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー=リットン(Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton 一八〇三年~一八七三年)が一八三〇年に書いた心霊(悪霊)小説。

「ポーの優れた短篇『沈默』」“Poe's wonderful fragment, “Silence”,”。アメリカの幻想作家にして詩人のエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)が一八三九年に書いた掌篇悪霊小説。

「ヘプリユの思想」“Hebraic ideas”。ヘブライの信仰の思想の核心。]

譯者註一 スフィンクス[やぶちゃん注:表記はママ(本文と違う)。以下同じ。]は女の頭と胸、犬の體、蛇の尾、鳥の翼、獅子の足、人間の聲をもつた怪物。ヂユノーの神がシープスを亡ぼさうとして下したのであつた。そこでこのスフィンクスは謎をかけて解く事のできない者を丸呑みにしたので大恐慌が起つた。シープスの王が賞かかけてこの謎を解く者をさがした。その謎は『朝は四足、日中は二足、夕方に三足で步く物は何』と云ふのであつた。ヱディパス[やぶちゃん注:表記はママ(本文と違う)。以下同じ。]は『人間』と解いたので、怪物はそれを聞くと共に、自ら頭を岩に打ちあてて死んだと云はれる。エディパスは自身についても別に長い話があつて、ギリシヤの悲劇の主人公となつて居る。

[やぶちゃん注:「ヂユノー」ユーノー(ジューノウ:ラテン語:Juno)はローマ神話で女性の結婚生活を守護する女神で、主に結婚、出産を司る。主神ユーピテルの妻であり、ローマ最大の女神。ギリシア神話のヘーラーと同一視される。

「シープス」アテネの東北方のボイオチア東部にあった古代ギリシアの重要都市でギリシア名「テーバイ」の英語読み。現在は「シベ」。伝説上のオイディプス王の首都で、古代ギリシア悲劇の舞台として知られる。]

譯者註二 オルフュース[やぶちゃん注:表記はママ(本文と違う)。以下同じ。]はその音樂をもつて何の流をも止め、山をも動かし、猛獸をも馴らしたと云はれる音樂の大天才。その妻ユウリディシー[やぶちゃん注:ユリディス(エウリュディケー:Eurydíkē)。「は」或いは読点が欲しい。]早く死して地獄にあつたが、オルフュースはその音樂の力をもつてここに入り、再びその妻をこの世に連れ歸らうとした。その條件はユウリディシーは夫のあとから步く事、オルフュースはその地以の最後のはてに達するまで決して後を顧みない事であつた。オルフュースは今少しのところで思はず後を顧みたので、その妻を永久に失つた。

譯者註三 第十三卷五〇七頁參照。

[やぶちゃん注:この注は意味不明。底本第一書房家庭版全集は全十二巻で第十三巻はなく、元版全集第十三巻「詩論」を画像で調べたが、当該ページには記載がない。不審。識者の御教授を乞う。

譯者註四 第十三卷四九〇頁參照。

[やぶちゃん注:この注も意味不明。同前で、元版全集第十三巻「詩論」も画像で調べたが、当該ページには記載がない。不審。識者の御教授を乞う。

譚者註五 詩人シエレイの夫人の作。フランケンスタインと云ふ學生が解剖學敎室その他から骨、皮膚、筋肉等の材料を集めて來て、人體を完全に造り出すと共に、それが生命を得て、種々の罪惡を犯してフランケンスタインを惱ます話。シエレイ、パイロン、シエレイ夫人の三人が不思議な恐ろしい話を競爭して書いて見た時、シエレイ夫人のこの作が最上であつたと云はれて居る。

[やぶちゃん注:「詩人シエレイの夫人」イギリスの小説家メアリー・シェリー(イングランドのロマン派詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley 一七九二年~一八二二年)の妻)が一八一八年に匿名で出版したゴシック小説。ウィキの「フランケンシュタイン」(Frankenstein)によれば、一八一六年五月に『メアリーは後の夫となる詩人のシェリーと駆け落ちし、バイロン』(イギリスの知られた詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron 一七八八年~一八二四年)や『その友人の』ジョン・ウィリアム・ポリドリ(John William Polidori 一七九五年~一八二一年:彼の短篇“The Vampyre”(一八一九年)は最初に出版された現代の吸血鬼の物語として知られる)『らと、スイス・ジュネーヴ近郊のレマン湖畔のディオダティ荘に滞在していた。長く降り続く雨のため』、『屋内に閉じこめられていた折、バイロンは「皆でひとつずつ怪奇譚を書こう(We will each write a ghost story.)」と提案』、『メアリーはこの時の着想を膨らませ』て本作を完成させたとされる。]

 私は不意にアーサー王の或傳說を話してその效果をみようと決心した。(これは私は危いところへ無理に入らうとして居る事を知つてゐたが)これは誰か必ず元氣よく攻擊と加へるだらうと思つた。敎訓はむしろ十二分に『甚だ强い』のである、それでその理由で私はその結果を聞く事に好奇心をもつたのである。

[やぶちゃん注:「アーサー王の」「傳説」(Arthurian Legend)アーサー王とその円卓騎士団の物語。フランスを中心として中世ヨーロッパのほぼ全土で親しまれた。六世紀頃に実在したアーサーは、ケルト人の一武将に過ぎず、この頃。侵入するサクソン人をしばしば撃退したと、八世紀末の歴史家ネンニウスの「ブリトン史」(Historia Britonum)が伝えている。しかし、結局はブリテンは滅ぼされ、アーサーは次第にケルト人の王国再興の夢を託する英雄へと伝説化していったものと思われている。伝説の内容は、アーサー王は、ブリテン王である父が魔法使いマーリンの助けで、貴婦人と同衾して誕生する。若くしてブリテン王となったアーサーは、宝剣エクスキャリバーを得、これを振るって諸国を平らげる。彼は貴族の娘グィネビアと結婚して妃とし、これを甥のモドレッドにゆだねてローマ遠征の途に就くが、留守中にモドレッドが反逆し、王位と妃とを奪われてしまう。アーサーは遠征を中断して帰国、モドレッドを討つが、自らも致命傷を受け、不思議な島アバロンに去る。これが主な筋であるが、ほかに、百五十人の円卓騎士団の建国物語と彼らの武功と愛、さらに、キリストが最後の晩餐に用い、また。アリマタヤのヨセフが十字架上のキリストが流した血を受けたという聖杯の行方を探求する、所謂、「聖杯物語」などの諸伝説が織り込まれており、これらを総称して「アーサー王伝説」と呼称している。この記述は後に多くの作品としてインスパイアされて増殖形成されて行った。因みに、夏目漱石の小説「薤露行(かいろこう)」(明治三八(一九〇五)も本伝承を扱ったものである(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 そこで私はサー・トマス・マローリーの『アーサーの死』の第十六章にあるサー・ボルスの話を彼等に物語つた、『サー・ボルスが自分の弟のサー・ライオネルが捕へられて剌(トゲ)で打たれて居るのに巡遇うた事、又辱しめられようとした婦人に遇うた事、及びサー・ボルスが弟を拾てて少女を救つた事、ライオネルは死んだ事をきいた事』などを物語つた。しかし私は美はしい昔の物語に現れた武士の理想を彼等に說明しようとはしなかつた、これは私が物語の事實だけによつて彼等が東洋風に批評を加へる事を願うたからである。

[やぶちゃん注:「サー・トマス・マローリーの『アーサーの死』」「第十六章にあるサー・ボルスの話」原文は“the story of Sir Bors, which is in the sixteenth book of Sir Thomas Mallory's “Morte d'Arthur,”” 。「アーサーの死」(Le Morte d'Arthur)は、十五世紀後半、イングランド人で(嘗てはウェールズ人とされた)の騎士トマス・マロリー(Thomas Malory 一三九九年~一四七一年)によって書かれた纏まったアーサー王伝説の長編作品。ウィキの「アーサー王の死」によれば、『内容はアーサー王の出生にはじまり、円卓の騎士たちの活躍、ランスロットとグィネヴィアの不義、最後の戦い、アーサー王の死までを含む、中世のアーサー王文学の集大成ともいえる作品で』、作者は、一四五〇年代初期から『この長大な作品の制作を開始し』、一四五〇『年代のたびたびの投獄』(強盗・強姦・羊泥棒・バッキンガム公暗殺未遂などの罪による。二回も脱獄しており(一度は武器を用いての強行突破、もう一回は堀を泳いで逃走)、ロンドン内の複数の刑務所に投獄されたが、保釈で出獄中の収監になったこともあった。自身に対する賠償請求訴訟にも姿を見せたことがなかったというツワモノである。ここはウィキの「トマス・マロリー」に拠った)『中にもこの大作の執筆を続け、出獄後、早くとも死』(一四七一年三月)の二年前よりも『遅い時期』、まず一四七〇年までに『この大作を完成したとされている』。『著者トマス・マロリーが』一四七〇『年までに書き上げた段階では本書は』、「アーサー王と高貴な円卓の騎士」(The Hoole Book of Kyng Arthur and of His Noble Knyghtes of The Rounde Table)という英語『題であったが、出版業者ウィリアム・キャクストンが』、著者の死後の一四八五『年にこれを出版する際』、「アーサー王の死」の意である中世フランス語(Le Morte Darthur)と改題したものである。「サー・ボルス」(Bors)はアーサー王伝説に登場する人物。私は関連書を所持するが、途中で挫折したため、ウィキの「ボールス」より引く。『ボールス王(King Bors)と彼の息子で円卓の騎士であるボールス卿(Sir Bors)がいる。親子でありながら同じ名前なので、区別するために父親は常に「ボールス王」と称号をつけ、あるいは息子の方をボールス・ド・ゲイネスと表記されることがある』が、小泉八雲が言っているは息子の方。父ボールス王は、『ガリアの王でフランス人。兄弟であるベンウィクのバン王とともに、ブリテンの統一戦争においてアーサー王側について戦った。 しかし、アーサー王についてブリテンで戦争をした後、帰国してみるとフランスの情勢は悪化しており、バン王は戦死。後を追うようにボールス王も死亡した。息子に、ライオネル卿、ボールス卿らがい』た。『ボールス卿』は『ボールス王の息子で、ライオネルと兄弟。円卓の騎士。ランスロット卿の従兄弟であり、ランスロット卿を助けるかたちで』、『たびたび活躍する。また、聖杯探求を成し遂げた』三『人の騎士の一人でもある』。『物語においては、アーサー王のローマ遠征の時期から登場しており、かなりの古参である。ローマ遠征後、物語の主役がアーサー王から円卓の騎士たちに移ると、放浪癖があるランスロット卿を探し回るなどの形でたびたび登場する。ランスロット卿に何かあると、相談役としてグィネヴィア王妃に呼び出されたり、ランスロット卿の代理としてグィネヴィアから試合にでるよう依頼されるなど、グィネヴィア王妃からかなり頼りにされている様子が窺える』。『また、アグラヴェイン卿らの襲撃から逃げ出したランスロット卿がボールス卿のところへ駆け込んだり、あるいは負傷したランスロット卿がラヴェイン卿にキャメロットへ使いを頼む際、「ボールス卿を尋ねろ」と指示するなど、かなり頼りにされている。むしろ、ランスロット卿は弟であるエクター・ド・マリス卿よりもボールス卿を頼っているとすら言える』。『聖杯探求においては、ガラハッド卿やパーシヴァル卿のような活躍はしないものの、彼らとともに旅をして、ついに聖杯に到達することに成功した。しかし、この後、ガラハッド卿、パーシヴァル卿は相次いで死亡してしまう。こうして、ボールス卿は、聖杯に到達した騎士の唯一の生き残りとしてアーサー王の宮廷に帰還し、聖杯について報告するのであった。なぜ、ボールス卿が聖杯に到達できたのかといえば、聖杯は童貞でなければ得ることができないとされていたためである。ボールス卿は一度だけ女性と臥所を共にしたことがあったが、以後は悔い改め、童貞を守っていたため、ランスロット卿すら到達できなかった聖杯に到達できたと説明されている』。『物語の終盤、ランスロット卿とアーサー王の対立により』、『内乱が始まると、ランスロット卿派について活躍した。その活躍の中でも特筆すべきは、アーサー王を落馬させ、もう少しで命をとることができる状況にまで追い込んだことであろう。もっとも、ランスロット卿に命じられ、しぶしぶながら』、『ボールス卿はアーサー王を解放している』。『マロリー版においては、双方の対象であるアーサー王、ランスロット卿ともにあまり戦争には乗り気ではなく、ガウェイン卿やボールス卿といった部下にけしかけられ』て『仕方なく戦争をしている。これは、薔薇戦争時、王権が弱く、大貴族におしきられ戦っていた当時のイギリスとの類似性が指摘されている』。『戦争が和議によって終了すると、ボールス卿はランスロット卿によりクローダスの国王に封じられる。しかし、ランスロット卿が出家すると、彼に従い』、『自身も出家した。また、ランスロット卿が死亡すると、彼の遺言に従い、エクター・ド・マリス卿らと聖地に向かい、そこで異教徒であるトルコ人らと戦い、聖金曜日に死亡した』とある。]

 その批評を彼等は次のやうに與へた。

[やぶちゃん注:次の一行空けはママ。原本もそうなっている。]

 

 巖井譯者註六は叫んだ『もし基督敎は凡ての人間は同胞であると公言して居るのが事實であればマロりの武士の行爲は基督敎の主義に名相反してゐます。世界に社會がなければこんな行爲は正しいかも知れません。しかし家族からできた社會の存する以上、家族の愛情はその社會の勢力でなければなりません、そしてその武士の行爲は家族の愛情に反してゐます。隨つて社會にも反してゐます。彼の守つて居る主義は全社會に反して居るばかりでなく又凡ての宗敎にも反してゐます、又凡ての國民の道德にも反してゐます』

譯者註六 巖井敬太郞氏(長崎縣人)明治三十三年の政治科出身の法學士、大正六年頃、神奈川縣内務部長の時休職となる。

[やぶちゃん注:第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」を調べると、在籍の「豫科第一級 甲組」に『岩井啓太郎 長崎縣士族』とあるのがそれか? 因みに、内務官僚で福岡県大牟田市長を務めた岩井敬太郎(明治六(一八七三)年~?)がいるが、彼は長崎県生まれであること、明治三三(一九〇〇)年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年には高等文官試験に合格したという辺りが妙に一致するのだが?]

 織戶譯者註七は云つた『この話はたしかに不道德です。そこに書いてある事は愛と義の私共の精神に反してゐます、そして私共には自然にも反して居るやうに思はれます。義とはただ一片の義理ではなく、心から出た物でなけれぱなりません、でなければ義ではありません。それは生れながらの感情でなければなりません。そしてそれはどの日本人の心にもあります』

譯者註七 折戶(?)不明。

[やぶちゃん注:「織戶」と「折戶」の表示違いはママ。『「織戶」ではなく「折戶」か?』の意かと思ったが、後の注の形式の表記とは比すると、そうではない。なお、原本は“Orito”であり、「をりど(おりど)」ではなく「をりと(おりと)」である。第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」には在籍生・卒業生には「織戶」や「折戶」の姓は見出せない。これは本篇に出る全くの不明者の特異点である。

 安東譯者註八は云つた『それはいやな話です。博愛と云つても實は兄弟の愛情を擴げた物に過ぎません。ただ知りもしない婦人を救ふために自分の兄弟の死ぬのを顧みなかつた人は惡人です。多分この人は私情にかられたのです』

譯者註八 安東俊明氏(熊本縣人)明治三十一年の英法科出の法學士、札幌の辯護士、北海道著名の憲政會員。

[やぶちゃん注:第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」の「第十七章卒業生」の「本科第二囘(明治廿六年七月)卒業」者名簿のここに、『法科大學在學 安東俊明 熊本縣士族』とある。]

 私は云つた『いや、この人の行爲には利己主義などは少しもない、英雄的行爲と解釋されねばならないと云つた事を君は忘れて居る』

 安河内譯者註九は云つた『この話の解釋は宗敎的でなければならないと思ふ。變に思はれるが、しかしそれは私共が西洋の思想を充分知らないからでせう。勿論知らない婦人を救ふのに自分の弟を捨てる事は私共の理解して居る正義と違つてゐます。しかしもしその武士が淸い心の人であつたら何かの約束か義務のためにさうしなければならないと思つたに相違ありません、それにしても、さうするのは餘程苦しい又恥づべき事のやうに思はれたに相違ありません、それで良心の命ずるところに反した事をして居ると感じないでは居られなかつたでせう』

譯者註九 安河内麻吉(福岡縣人)明治三十年英法科出身の法學士。警保局長、福岡縣知事、神奈川縣知事等をつとめた。

[やぶちゃん注:「安河内麻吉」原文は“Yasukochi”のみで名はない。冒頭注で述べた通り、本篇に登場する人物名を同定比定して田部氏に伝えた人物である。内務官僚安河内麻吉(やすこうちあさきち 明治六(一八七三)年~昭和二(一九二七)年)。ウィキの「安河内麻吉によれば、『安河内甚平の次男として、福岡県糟屋郡須恵村に生まれる。号は稚杉(ちさん)。福岡県立尋常中学修猷館を経て、旧制第五高等学校一部法科を首席で卒業し』明治三〇(一八九七)年七月に『東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業』し、『同月、内務省に入省』、同年十二月に『高等文官試験行政科に合格している』。明治四〇(一九〇七)年八月、五年後の一九一二年に『開催予定であった「日本大博覧会」の事務官となり、渡米するなど準備に奔走したが、この博覧会は中止となった。その後』、官営八幡製鉄所次長・内務省警保局長・静岡県知事・広島県知事を経て、大正八(一九一九)年に『福岡県知事に就任』、大正一一(一九二二)年には『神奈川県知事に転じる。神奈川県知事在任中には、関東大震災に遭遇しており、自身や家庭の被害には目もくれず』、『救援活動の指揮に勤め、ほとんど寝食を忘れるような仕事ぶりであったという』。昭和二(一九二七)年に『鈴木喜三郎内相の下、内務次官に就任』したが、『在職中の同年』七月に死去した、とある。第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」を調べると、在籍の「本科一部第二年級 (法科)」の筆頭に『安河内麻吉 福岡縣平民』とある。

 私は答へた『それはまちがつてゐない。しかし又かう云ふ事も知るべきである、卽ちすサーブルスが服從した情操は西洋社會の勇敢なる又高尙なる人々の行を今日も支配して居る情操である、又宗敎的と云ふ言葉の普通の意味では宗敎的と云へない人々の行爲でもそれに支配されて居るのである』

 嚴井は云つた『それでも、私共はそれを甚だ惡い情操と思ひます、そして私共は外の種類の社會に關する外の話を聞きたいと思ひます』

 そこでアルケステイスの不朽の話譯者註一〇をしようと思ひついた。その神劇に於てヘラクリーズ譯者註一一の性格は彼等に取つて特別の興味があらうとその時思つた。しかし批評を聞いたら私の誤つて居る事が分つた。一人もヘラクリーズの事に云ひ及んだ者はなかつた。實際私共の勇氣、意力、死を顧みぬ事の理想は直ちに日本の少年を感ぜしめない事を記憶すべき筈であつた。卽ち日本人はこんな性質と例外視してはゐないからである。彼は勇壯を當然の事男子に附隨して離るべからざる物と思つて居る。女子は恐れても恥ではないが、男子は斷じて恐れてはならないと云ふ。それから腕力の現れとして弟ヘラクリーズは東洋人を餘り感心させない、彼等の神話には力に人性を與へた物が充滿して居る、それから又日本人は力よりも熟練、早業、敏捷を遙かに貴ぶのである。日本少年には本當に巨人辨慶になりたいと心から思ふ者はない、しかし辨慶の勝利者、卽ち細い柔かな義經は凡ての日本少年の心になつかしい完全な武士の理想となつて居るのである。

譯者註一〇 アルケステイスはアドミータスの妻、ギリシヤの悲劇[やぶちゃん注:底本は「非劇」であるが、誤植と断じ、特異的に訂した。]作者ユウリピデイスの神劇の女主人公。アポロの神がもし何人か、彼のために生命を拾てて無限の愛を示す者があれば、彼に不死の力を與ふる事を約した。そこで死の神に襲はれた時、アルケステイス[やぶちゃん注:「は」或いは読点が欲しい。]喜んで夫のために犧牲となつた。アドミータスはその父が僅かに殘つたた数年を拾てて自分を救はなかつたことを怒つて父を罵つたので、父子の爭となつた。その時アドミータスのもとにゐたヘラクリーズは地獄に赴いて死の神を征服してアルケスティスを連れ歸つた。ユウリピデイスはアルケステイスの犧性的精神とアドミータス及び其父の利己心との對照を示した。

譯者註一一 ヘラクリーズ或はハーキユリーズはギリシヤ、ローマの神話では非常に强い勇士で、勇氣剛毅等の理想を現實にした神として崇拜せらる。

[やぶちゃん注:「アルケステイス」原文“Alkestis”。古代アテナイのギリシア悲劇に於けるアイスキュロスとソポクレスと並ぶ三大悲劇詩人の一人で、「メディア」・「アンドロマケ」などで知られるエウリピデス(Euripídēs 紀元前四八〇年頃~紀元前四〇六年頃)が書いた悲劇。死期が迫ったテッタリア地方ペライの王アドメートス(Admetus)が、アポローンの好意によって、身代わりを出せば、命が助かることとなり、最終的に妃のアルケースティスが身代わりとなって死ぬが、剛勇無双の英雄ヘラクレス(Hēraklēs)が彼女を救い出すという神話を題材としたもの。詳しくはウィキの「アルケスティス(ギリシア悲劇)」を見られたい。]

 龜川譯者註一二が云つた、

 『アルケステイスの話、或は少くともアドミータスの語は臆病と不義と不德の話です。アドミータスの行爲は言語道斷です。妻の方は全く高尙で德が高い、そんな恥知らずの男にはよすぎた妻です。私はアドミータスの父はもし子供が不肖でなかつたら子供のために死ぬ事を喜んだらうと信じます。私はアドミータスの臆病なのでいやな思をしてゐなかつたら、子供のために喜んで死んだであらうと思ひます。それから又アドミータスの臣下の不忠な事はどうでせう。王の危險を聞くや否や、彼等は宮殿へかけつけて恭々しく王の代りに死ぬ事の許しを願ふべき筈でした。王がどんなに臆病で殘酷でも、さうするのが彼等の義務でした。彼等は臣下です。君の御恩で生きてゐたのです。しかもどんなに不忠でしたらう。こんな恥知らずの人々の居る國はすぐに亡びてしまふに違ひありません。勿論話にある通り「生うるは樂し」であります。生を愛さない者はありませうか。死ぬ事を嫌はない者はありませうか。しかし勇敢な人は――義にあつい人でも――義務の要求する場合には自分の生命の事などは考へてもなりません』

譯者註一二 龜川德太郞氏、夭折。

[やぶちゃん注:第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」の「第十七章卒業生」の「本科第二囘(明治廿六年七月)卒業」者名簿のここに、『法科大學在學 龜川德太郎 佐賀縣士族』とある。但し、在籍の「豫科第一級 乙組」のリストに『龜川惣三郎 佐賀縣士族』とあるのも気になる。或いはこの徳太郎氏の弟かも知れず、ここは彼の可能性もある。

 水口譯者註一三は云つた、この人は少し後れて來たので話の初めを聞かなかつたのである、『しかし、アドミータスは多分孝行の志に導かれたのでせう。私がアドミータスで私の臣下のうちに私の爲に喜んで死ぬものがなかつた時には私の妻にかう云つたらうと思ぴます、「妻よ、私は今父を獨りにして捨てる事ができない、外に子供がないから、そして孫は餘り小さくて役に立たないから。それで私を思ふ親切があれば私の代りに死んでくれ」

譯者註一三 水口、不明。或は溝口三始氏か(明治三十二土木工學出の工學士)

[やぶちゃん注:「明治三十二」(一八九四年)の「二」は、底本では、完全に脱字しているために判読出来ないので、所持する第一書房全集元版(昭和二(一九二七)年刊)の画像(PDF)で確認した。注で示された「溝口三始氏」は第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」の在籍の「豫科第一級 乙組」のリストに『溝口三始』と出る人物である。]

 安河内は云つた『君は話を知らないのだ。アドミークスに孝行の心などはなかつた。彼は親が自分の代りに死んでくれる事を願つたのだ』

 さきの辯護人は全く驚いて叫んだ『あ〻、それは、先生、よい話ではありません』

 川淵譯者註一四は云つた『アドミータスはどこからどこまで惡者でした。死ぬ事を恐れたから憎むべき臆病者です、自分のために臣下の死ぬ事を願つたから暴君です、自分の代りに老父の死ぬ事を欲したから不孝者です、それから男子のくせに恐れてできもしない事を自分の妻(小さい子供のあるかよわい婦人)から求めたから不親切な夫でした。アドミータスよりも下等な者はあり得るでせうか』

譯者註一四 川淵楠茂氏(高知縣人)明治二十七年帝大法科に進みたるのち夭折。

[やぶちゃん注:第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」を調べると、在籍の「本科一部第二年級 (法科)」に『川淵楠茂 高知縣士族』とある。]

 巖井が云つた『しかしアタケステイス、この婦人はどこまでも善い人でした。丁度釋迦のやうに子供その外何物をも捨てました。しかも大層若い人でした。どんなに眞心のある勇敢な人でせう。彼女の美貌は春の花のやうに朽ちも致しませうが、美はしい行爲は百萬年の間も記憶されませう。彼女の魂は永久に宇宙に殘るでせう。今や彼女は形體はありません、しかし私共の生きた最も親切な敎師よりももつと親切に私共を敎ふる物は形體を有しない人々、卽ち淸い勇ましい賢い行をした人々の魂です』

 裁判が嚴し過ぎる傾きのある隈本譯者註一五が云つた、『アドミータスの妻はただ素直であつたと云ふに過ぎません。この人も全く惡くない事はない。卽ち死ぬ前に自分の夫の愚な事をひどく叱責するのが彼女の最高義務でした。ところがそれをしませんでした――少くとも先生に聞いたところだけではそれをしませんでした』

譯者註一五 隈本繁吉氏(筑後の人)明治三十年史學科出の文學士、現高松高等商業學校長。

[やぶちゃん注:第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」を調べると、在籍の「本科一部第二年級 (科)」に『隈本繁吉 福岡縣平民』とある。]飯島

 財津譯者註一六が云つた『西洋人がその話を立派だと思ふのは私共には理解ができません。怒りたくなる事が澤山あります。そんな話を聞いて居ると私共の兩親の事を思はずに居られません。明治維新の後一時隨分困難な事があつた。恐らく兩親が飢にせまつた事は幾度もあつたでせう、それでも私共はいつも澤山喰べてゐました。時としては生活するだけの金も得られなかつたでせう、それでも私共は敎育を受けました。私共を敎育するに要した費用、私共を育てた面倒、私共に與へた慈愛、何も分らぬ幼年時代に兩親にかけた心配、それ等の事を考へると私共はどんなにつくしても足りないと思ひます。それでそのアドミータスの話は好みません』

譯者註一六 財津(?)不明。

[やぶちゃん注:第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」のここに、「豫科第二級乙組」に『財津政治 大分縣平民』とあるのを確認出来る。但し、彼であるかどうかは分からない。次の一行空けはママ。原本もそうなっている。]

 

 休憩のラツパが鳴つた。私は煙草を吸ひに練兵場に出かけた。やがて銃劔をつけた少數の學生が自分の側に集つた――つぎの時間が兵式體操であつたからである。一人は云つた、『先生今度又作文の題を一つ出して下さい――餘りやさしくないのを』

 私は云つた『「最も難解の物は何ぞ」と云ふ題は如何だ[やぶちゃん注:「どうだ」。]』

 川淵は云つた『その答はむづかしい事はありません、「英語の前置詞の使用法」です』

 『英語を勉强する日本の學生に取つてはさうだ。しかし私はそんな特種の困難を意味したのではない。諸君が凡ての人々に解し難いと思ふ物について考を書くと云ふ意味だ』私は云つた。

 安河内は尋ねた『宇宙ですか。これは問題は大きすぎます』

 織戶は云つた『私がやつと六歲の時でした、天氣のよい時海岸をさまようて、いつも世界の大きな事を不思議に思ひました。私共の家は海岸にありました。そののち宇宙の問題は煙のやうに終には消え去る物だと敎へられました』

 宮川譯者註一七は云つた『私は最大の難問題は何故人間がこの世に生きて居るかそれを解する事であると考へます。小兒の生れ落つる時から何をしますか。喰べたり飮んだり喜んだり悲しんだりする、夜には眠り、朝には起きる。敎育を受け、生長し、結婚し、子供をもち、年を取る、髮の毛は初め半白になりついで白くなる、次第次第に弱くなつて――それから死ぬ。

譯者註一七 宮川和一郞氏(後杉井と改姓)明治三十一年土木工學出の工學士。

[やぶちゃん注:第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」のここに、「本科第二級第一年級」に『宮川和一郞 長崎縣平民』とある。]

 『一生のうち何をしますか。この世に於ける本當の仕事は食つて飮んで寢て起きる事です、だから公民としてどんな職業をもつて居るにしても、彼はこんな事を續けて行くためにのみ働いて居るのです。しかし本當に人間のこの世に來たのは何の目的あつてでせう。食ふためでせうか。飮むためでせうか。眠るためでせうか。每日全く同じ事をしてそれでよく飽きない事です。不思議です。

 『賞められて喜び、罰せられて悲む。金もちになれば幸福と思ひ、貧乏すれば甚だつまらないと思ふ。境遇によつて喜んだり悲しんだりするのは何故でせう。幸も不幸も一時の物に過ぎません。何故に一所懸命に勉强するのでせう。どんな大學者になつても死んだら何が殘りますか。骨ばかりです』

[やぶちゃん注:次の一行開けは底本のママ。原本もそうなっている。]

 

 宮川は級中最も快活で最も機智に富んで居る、彼の陽氣な性格とこの言葉との對照が殆んど驚くべき事と思はれた。しかしかやうに不意に來る憂愁は(殊に明治以後)全く若い東洋人の頭に時々現れる。夏の雲の影のやうに早く消え去るのである、西洋の靑年に於けるよりは意味は淺い、日本人は思想や感情で生きないが義務で生きて居る。それでもこの屢〻來て惱ます思想は觀迎し奬勵すべき物ではない。

 私は云つた『諸君に取つてもつとよい問題は今日のやうなこんな日に大空を見て起す感覺、卽ち大空だと考へる。實に立派ではないか』

 空は世界のはてまでも靑い、雲の片一つない。地平線にはもやがない、大抵の日には見えないずつと遠い一團の山々も悉く立派に輝いてすき透つて居るやうだ。

 それから神代は蒼空を見上げながら恭々しく古への漢語を發した。

[やぶちゃん注:「神代」生徒名。原文は“Kumashiro”であるが、これで「くましろ」と読む姓が存在する。さらに、これより後の諸本の本篇訳でも、孰れも、ルビなしで、「神代」と訳していることから、この生徒は「神代」と書いて「くましろ」と読むのだと私は判断した。しかも、第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」を調べたが、「熊代」「熊城」等の姓を持ったものは見当たらず、「豫科第二級 甲組」の名簿中のここ(右ページ一行目二段目の最初)に『神代澤一 長崎縣士族』とあるのが彼であると考えてまず間違いあるまい。但し、底本にはルビもなく、訳者注もないのは、難読姓であり、他に注してあるのに、彼だけにないのはちょっと不審である。序に言えば、後の訳本でもルビを振らないのは、甚だ不親切を言わざるを得ない。なお、姓の神代(くましろ)は旧肥前国山内(さんない:佐賀市・神埼)(かんざき)市・小城(おぎ)市の北部の山地)の豪族神代氏(くましろし)に由来するともされる。]

 『かくの如き高き思想ありや、かくの如き廣き心ありや』

[やぶちゃん注:ここは原文でも“What thought is so high as It is? What mind is so wide?”と斜体になっており、神代君は確信犯で何かの知られた漢詩或いは漢文の一節を詠じたものと考えられる。英訳されてしまっているため、元を特定出来ない。或いはと私に思われるものがないことはないが、かなり意味が違う。識者の御教授を乞う。

 『今日にどんな夏の日にもない程この上もなく綺麗が、ただ木の葉が落ちかけて、蟬はゐない』私は云つた。

 『先生は蟬がお好きですか』と森譯者註一八が尋ねた。

譯者註一八 森賢吾氏(?)明治三十三年出の法學士、大藏省官吏。

[やぶちゃん注:ハーン台詞と森君の問いでは「蟬」は“semi”である。但し、欧米読者向けに次のハーンの答えでは「蟬」は“cicadæ”である。

「森賢吾」第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」の在籍の「豫科だ一級 乙組」のここにある『森 堅吾 佐賀縣士族』とある彼であろう。]

 私は答ヘた『蟬を聞いて居ると大層愉快だ、西洋には蟬はゐない』

[やぶちゃん注:無論、諸外国にも蟬(半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科 Cicadoideaのセミ類)はいる。ただ、彼らの主な種群が、熱帯や亜熱帯の森林地帯に分布の中心を持つこと(草原・亜寒帯の森林に分布する種も多少はいる)ことから、欧米の主たる地域では、日本のように馴染みの昆虫という印象ではない点から、ハーンは日本にどこでも普通におり、万人に馴染まれているようなセミ類はいない、という謂いで述べたものであろう。彼の蟬好きは後の「小泉八雲 蟬 (大谷正信訳)」などで十全にお分かり戴けるであろう(リンク先は全四章で私が電子化注した『その「一」』)。

 織戶は云つた『人生を蟬の一生にたとへて空蟬の世と申します。人間の歡樂や靑年時代は蟬の歌ほどに短いのです。蟬の如く人間は暫く來て又行くのです』

[やぶちゃん注:「空蟬の世」は「うつせみのよ」と読みたい。但し、原文は“utsuzemi no yo”と濁っている。私は濁るのは絶対に厭だ。]

 安河内は云つた『今は蟬はゐません、多分先生は悲しいと思ひなさるでせう』

 野口譯者註一九が云つた『私は悲しいとは思ひません。蟬は勉强の邪魔をします。その聲を憎みます。夏蟬の聲を聞くと、そして疲れて居る時などは疲勞は益〻增加して、眠つてしまひます。讀んだり書いたり、或は考へようとしてさへその聲を聞くともう何をする勇氣もなくなります。そんな時にあんな蟲みな死ねばよいと思ひます』

譯者註一九 野口彌三氏、明治三十年英法科出の法學士、現第一銀行の重役。

[やぶちゃん注:第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」の在籍の「本科一部第二年級 (法科)」に『野口彌三 長崎縣士族』とある。]

 私は云うて見た『とんぼは好きだらう。とんぼはちらちら飛び𢌞つて音を立てない』

 『日本人は皆とんぼが好きです』と神代は云つた『日本は御承知の通り秋津洲と云はれますが、とんぼの國と云ふ意味です』

 私共はとんぼの種々の種類について語つた、彼等は私の見た事のない一種のとんぼ、死人に何か不思議な關係があると云はれる精靈とんぼの話をした。又餘程大きな種類のとんぼ、ヤンマの事を語つた、そして或昔の歌に若い武士が長い髭の毛をとんぼの形にいつも結んでゐたのでサムライの事をヤンマと云つた事のある話をした。

[やぶちゃん注:ハーンの蜻蛉好きも後の「蜻蛉」(大谷正信訳)でお判り戴けるものと思う(リンク先は五章四分割の「一」)。そのまさに「一」で「精靈とんぼ」が記されている。私は小学館「日本大百科全書」で朝比奈正二郎氏は「ショウリョウトンボ」(精霊蜻蛉)について、『昆虫のトンボのうち、夏季精霊会のころに多数現れるものをさすらしいが、その種類を正確に指示することは困難である』とされ、七、八『月の候に』、『水田の上などをおびただしく徘徊』『するウスバキトンボなどをさすのかも知れない』とある。トンボ科ハネビロトンボ亜科ハネビロトンボ族ウスバキトンボ(薄羽黄蜻蛉)属ウスバキトンボ Pantala flavescens は、ウィキの「ウスバキトンボ」によれば(下線太字は私が附した)、『全世界の熱帯・温帯地域に広く分布する汎存種の一つで』、『日本のほとんどの地域では、毎年春から秋にかけて個体数を大きく増加させるが、冬には姿を消す』。『お盆の頃に成虫がたくさん発生することから、「精霊とんぼ」「盆とんぼ」などとも呼ばれる。「ご先祖様の使い」として、捕獲しないよう言い伝える地方もある。分類上ではいわゆる「赤とんぼ」ではないが、混称で「赤とんぼ」と呼ぶ人もいる』(太字下線は私が附した)。『成虫の体長は』五センチメートル『ほど、翅の長さは』四センチメートル『ほどの中型のトンボである。和名のとおり、翅は薄く透明で、体のわりに大きい。全身が淡黄褐色で、腹部の背中側に黒い縦線があり、それを横切って細い横しまが多数走る。また、成熟したオス成虫は背中側にやや赤みがかるものもいる』とある。リンク先で画像が見られる。]

 ラツパが鳴り出した、將校の聲はひびいた。

 『集まれ――』しかし若い人々は暫くためらうて尋ねた。

 『ところで、先生、何になさるのですか、――最も難解の物はと云ふですか』

 『いや』私は云つた『大空』

 その日は終日漢語の美はしさが私につきまとうて離れずに、何かの歡喜のやうに私の心をみたした。

 『かくの如き高き思想ありや、かくの如き廣き心ありや』

 

       

 敎師と學生との關係は少しも形式だけでない例――古への武士の學校で昔互に相愛した尊き名殘――が一つある。漢文の老先生譯者註一は誰にも愛されて居る、そして靑年に對する感化は甚だ大きい。一言で如何なる怒りの破裂をも靜め、一笑で如何なる尊き志ををも勵まし得る。卽ちこの人は古への勇壯、誠實、高尙なる物の理想、卽ち古日本の魂を靑年に對して代表して居るからである。

 秋月と云ふこの人の名は、その國では有名である。この人の肖像を入れたこの人に關する小册子が出版された譯者註二。昔會津の大藩に屬する身分の高い武士であつた。年若くして信任、權勢の地位に上つた。軍隊の司令官、王侯の間の談判者、政治家、諸州の支配者、――封建時代の武士のやれる事は皆やつた。軍務政務の暇ある每にいつも人の敎師であつたやうである。今はこんな敎師もない。こんな學生もない。しかも今この人を見て、この人の下にゐた騷亂好きな劔士に如何に(愛されると共に)恐れられたかを信ずる事ができない。若い時峻嚴で名高い武士が打つて變つて溫和になつた程人の心を引きつける物はない。

 

譯者註一 この漢文の先生の名は秋月胤永。悌次郞は稱、韋軒は號、現六高の漢文の敎授秋月胤繼氏の養父。

[やぶちゃん注:「秋月胤永」秋月韋軒(あきづきいけん 文政七(一八二四)年~明治三三(一九〇〇)年)は会津(福島県)生まれの儒学者の号。名は悌二郎(ていじろう)、諱は胤永(かずひさ)。二十三歳で昌平黌に入学し、足掛け十二年、程朱学を学んだ。文久二(一八六二)年、京都守護職となった藩主松平容保(かたもり)の下で京都で活躍し、慶応元(一八六五)には蝦夷地代官となるが、三年後に京に上り、公用方として諸藩との交渉にあたる。戊辰戦争では副軍事奉行として籠城戦を指揮した。明治維新後、左院の少議生、第一高等中学校教諭などを経て五高教授に赴任し、五高の精神基礎となる「剛毅木訥近仁」(論語の句)を教え、五高の校友会「龍南会」の名付け親でもある。人格高潔にして学徳兼備、教師・生徒を問わず、尊敬された。特にラフカディオ・ハーンは「先生は慈父のようである」と言い、敬愛していた。後年は東京大学高等中学校に奉職した(以上は信頼出来る複数の記載を参照して合成した)。第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」の「第十五章 職員」の「教授」の部の四人目に「倫理」の担当者として『兼舍監 秋月胤永 福島縣士族』とある]

譯者註二 この人の古稀の祝賀會を學校で擧行し職員生徒一同の祝文詩歌を呈した、これを印刷した一小册子「鎭西餘響」の事である。この人の閱歷と愛誦する詩の作者等で學生に敬愛された。會津の藩主に從つて副將として幕府のために戰つたが、亂平いた[やぶちゃん注:「らんひらいた」。戦乱が静まった。]のち終身禁錮に處せられ三年程經て特旨[やぶちゃん注:天皇の特別の思し召し。]を以て赦された、官吏になる事は辭したが大學と第一高等中學校の敎師にはなつた、明治二十二年に止めて退隱したが、二十三年九月平山校長に懇請されて熊本に赴任した。

[やぶちゃん注:「鎭西餘響」明治二六(一八九三)年五月刊。以下にそこに寄せたハーンの祝辞を電子化しておく。底本は本底本の元版である昭和二(一九二七)年第一書房刊の「小泉八雲全集第十二卷」の「雜篇」に載る田部隆次譯「秋月先生の古稀を祝して」である(加工用データとして同じ底本の「青空文庫」のこちら(入力:フクポー氏・校正:館野浩美氏・正字正仮名)を使用させて戴いた)。

   *

 

  秋月先生の古稀を祝して

 

 秋月老先生、――

 『世界に於ける最も丁寧なる人々』の禮儀を知らない私、それから上品にして美はしい種類の挨拶の言葉のあるその國語を知らない一外國人である私は、私の恭しき賀狀を御送り申上げる場合に、私の云ふべき事が云へないやうに感じます。卽ち日本語には、尊敬すべき年齡に相當する愛情、尊敬、及び信任を、私共の粗い西洋のどの國語に於けるよりも優美に表はす多くの美しい言葉があると私は考へるからです。そこで先生が、一時西洋でも人生の極度であると云はれた『二十の三倍と十』の尊き年齡に達せられた事について、今日祝賀をあげて居るところです。

 しかし、私が殆ど知らない色々の儀禮に巧みな人々は、先生自身の巧妙な國語で云へる事を申しませう、――そこで私自身の下手な西洋風で私の考と願を書いて見る事にいたします。――つぎのやうに、――秋月先生、私は熊本に參りました時に、どの外の先生よりもさきに先生に遇ひました。そして私は先生に話はできなかつたが――私の心は先生を理解して先生を愛しました。それからさき、凡ての季節、凡ての天氣に、私は先生が學校へ參られ、又歸られるのを見ました。每日敎へに御出になる時、いつでも私共の銘々にいつも親切な挨拶と、凡ての生徒にやさしき微笑と、先生の通路に居るどんな卑い者にもやさしい言葉とうなづきを與へて、決して疲れた風や、不機嫌な樣子を表はされない事を私は見てゐました。この事は私には甚だ愉快でした、その事それ自身ばかりではなく、――又私が疲れたり、元氣がなかつたり、或は雨の日やひどく寒い日で、不機嫌であつたりした時に、よい敎訓となつたからです。そんな時に私は自分に申します、――『ここに私共一同に對する先生、決して疲れない先生、そしてその人の魂はいつでも樂しさうな先生がある、――どうして私は不平が云へよう』そしてこの通り、先生が寒い朝、敎官室へおはいりになる時、先生は私共一同に對して快活と暖かさをもつて來て下さつたやうでした、――その暖かさはいつも餘りよく燃えてゐなかつた私共の火よりもつと暖かでした。それから私は先生達の宴會で先生を見ましたが、先生が出席なさると誰でも愉快になります、そして先生は最も若い人と同じやうな若々しい心でその樂みを共になさいました。

 そこで今私共は七十歲の今日强壯で、元氣な先生を見て、――一同尊敬崇拜すると共に、又子供がその父を愛するやうに愛します。そして私の願ふところは、將來長くこの日がくりかへしかへつて來る事、――先生が又外の新しい先生達と引續き敎へて下さるやうに長生きして下さる事、――それから又新しい時代の生徒の敬愛を得られる事であります。

 それでこれだけの願と希望とをもつて、私は御健康のために祝盃をあげます。

 

    一八九三年五月十三日

     九州熊本 ラフカデイオ・ヘルン

 

   *

クレジットはポイント落ちだが、同ポイントで示し、最後の署名は引き上げてある。

「平山校長」平山太郎(嘉永二(一八四九)年~明治二四(一八九一)年)は文部官僚。旧佐土原(日向国の一藩)藩士。明治二三(一八九〇)年二月二十四日に第五高等中学校長に就任したが、在職中の翌年六月八日に病いのため、熊本で死去した。従って五高校長在任期間は一年三ヶ月と短い。]

 

 封建制度が生存のために最後の戰をした時、藩公の命に應じて恐るべき戰に加はつた、この戰には會津の婦人小兒も加はつた。しかし勇氣と剱だけでは新しい戰法に勝つ事はできなかつた、會津の軍勢は破れた、そして會津軍の首領の一人なる彼は長く國事犯の囚人であつた。

 しかしこの勝つた人々は彼を尊んだ、この人が敵として戰つた政府は新靑年を敎ゆる役に、禮を厚くしてこの人を迎へた。新靑年は若い人々から西洋の科學と西洋の語學を學んだ。しかし彼はやはり支那の聖人の不朽の智慧を敎へた――そして忠義、名譽、その他人間をつくる物を敎へた。

 この人の子供のうちで死んだ者も幾人かある。しかしこの人は淋しく感ずる事はできなかつた、卽ち彼の敎へた者は子供と同じになつて又彼を尊敬したからである。そして彼は老いて、甚だ老いて神樣のやうに見えて來た。

 美術で見る神樣は佛樣と少しも似てゐない。この佛樣より古い神樣はうつむいた目つきや、虛心に默想に耽つて居るところがない。神は自然を愛する、自然の最も美はしい奧にも入る、樹木の精にもなる、河や水に昔をさせ、風にも乘つて徘徊する。昔は人間と同じくこの地上に住んだ、そしてこの國の人々はその子孫である。神としても餘程人間らしい、そして種々の性癖をもつて居る。神は人間の情緖であり又人間の感覺である。しかし傳說や、傳說から生れた美術に現れたところではこれ等の神は大槪愉快にできて居る。今日の不信仰な時代に不謹愼につくられた安つぽい美術について云ふのではない、神に關する古い貴い文を說明する古い美術について云ふのである。勿論神の表はし方は種々違つて居る。しかし神の普通の傳說的の形はと問ふ人があれば私は『長い白いひげをはやした白いきものと白い帶をした非常に溫和な容貌の、にこにこした老人』と答へる。

 老敎授の帶だけは黑かつたが、先日私を訪問された時丁度神道のこんな幻像に見えた。

 學校で自分に遇つて云つた『あなたのところに御祝事譯者註三があつたさうです、私の參らなかつたのは老年だからでも、お宅が遠いからでもありません、ただ長い間病氣していゐましたからです。しかし何れお伺ひ致します』

 

譯者註三 著者の長男の誕生。

[やぶちゃん注:ハーンの長男一雄は明治二六(一八九三)年十一月十七日に生まれた。なお、底本では「譯者註四」で注記号も同じなのであるが、前後するので特異的に訂して孰れも「三」とした(以下の「譯者註四」も同じで変更した)。

 

 そこで或天氣のよい午後、祝ひの品々をもつて參られた、――物それ自身は筒單だが王侯にも恥かしくない昔風の極めて流儀正しい贈り物であつた、卽ち大枝小枝に雪のやうな花の吹きほこれる小さい梅の木譯者註四、酒の入つた不思議な綺麗な竹の器、綺麗な詩を書いてある二つの卷物であつた、文句は非凡の書家兼詩人の作品としてそれだけで貴い物である、さらにこの人自身の手になつたので私には別段に貴いのである。私に云はれた事は完全には分らない。私の務めについて優しい奬勵の言葉、何か賢い强い助言、及びこの人の靑年時代の不思議な話、を私は覺えて居る。しかし何れも愉快な夢のやうであつた、この人が只そこに居る事だけが一の愛撫であつて、梅花の芳香は高天原からの微風のやうであつた。そして神の來往する時のやうに、そのやうにこの人は微笑して歸つた――あとに殘つた物は皆淸められた。小さい梅花は落ちた、再び花咲くまでには今一冬待たねばならない。しかしこの空しい客座敷に何か非常に快い物が殘つて居るやうである。恐らくはその神々しい老人の記憶だけであらうか、或はその日この人の足について見えないやうに入つて來て彼が私を愛したと云ふので暫らく私の家に止まつて居る古への靈、過去のある女神とも云ふ物のためであらうか。

 

譯者註四 實際は梅の盆栽であつた。

 

[やぶちゃん注:この秋月の来訪は、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)のによれば、同年二月十五日(日曜)で、『梅花の鉢と酒と祝詞と自作の掛物二幅を携えて来訪』したとある。

「女神」不詳。恐らくはハーンとの会話の中にこの神は登場しているはずなのだが。

 本篇は読んでみると、学生達と自在に会話していることになっているのであるが、当時のハーンの日本語力や五高の学生の英語会話力、さらに言えば、安河内氏の指示する学生が学年や級に跨っていること、授業展開上、それは必ずしも異常なことではないにしても、彼らが休み時間にも一緒になっているようなシチュエーションが感じられ点で、ちょっと違和感が私には感じられる。即ち、これはある種のこうあって欲しかったハーンの創作的シチュエーションが混入しているのではないかという疑問である。無論、これは創作である以上、それがあっても何ら問題はないわけではある。なお、現在、恐らく最新の本篇の和訳であると思われる「青空文庫」の林田清明氏の訳「九州の学生とともに WITH KYUSHU STUDENTS 小泉八雲 Lafcadio Hearn」(著作権存続)の最終部にある林田氏の注に、本田部訳では「休憩のラツパが鳴つた。私は煙草を吸ひに練兵場に出かけた。やがて銃劔をつけた少數の學生が自分の側に集つた――つぎの時間が兵式體操であつたからである。一人は云つた、『先生今度又作文の題を一つ出して下さい――餘りやさしくないのを』」の部分に注して、

   《引用開始》

ハーン自身、学生は一般に英会話ができないとしており、また学生から教師に話しかけるということも、とくに安河内氏以外を除けばなかったことなどから、「この場面は恐ろしく想像的なものであり、かくあってほしいというヘルンの願望を表わしたものにすぎない」(丸山・前掲書八二頁)という見方もある。

   《引用終了》

(『丸山・前掲書八二頁』とは、丸山学著「小泉八雲新考」(『講談社学術文庫一二二五、一九九六』(出版年表記はママ。私は未見)を指す)とあって、丸山氏のそれは、私の違和感を裏付ける発言ではある。なお、言っておくが、上記「青空文庫」の林田清明氏訳の本文を私は読んでいないし、注も目を通したものの、第五高等學校編「第五高等學校一覽 自明治廿五年至明治廿六年」の国立国会図書館デジタルコレクションのURLを利用したのみで、他は全く参照していないことをお断りしておく。これは林田氏の訳に興味がなかったからではなく、私自身が今までの私の電子テクストの節として、底本に従って読み、そこで疑問に感じたことを注することに徹しようとしたからである。

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