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2020/01/30

三州奇談卷之一 那谷の秋風

 

    那谷の秋風

 自生山那谷寺(じせいざんなたでら)は、曾て聞く華山法皇芳躅(はうたく)の地とにや。「はだし坂」など云ふありて、故あることとぞ。七堂の靈場通閣の内陣には、西國三十三所の觀音の地の土を集めて、北方の土民をして遠く大慈悲の諸緣を授け給ふ。且つ那智・谷汲(たにぐみ)の頭字(かしらじ)を取りてぞ那谷寺とは名付(なづく)る事とかや。天然の石山にして、三像石は寺の奧庭の内に向ひて、山尾(やまのを)に突然たり。石するどく山氣深し。秋色いとゞ身にしむ故にや、古翁も、

  石山の石より白し秋の風   はせを

此所山を分け登りて還(ま)た低し。此の故にや、金澤希因も、

  分入れば石と成けり秋の空

とは聞へえし。

 一柱觀あり。俗、「傘の亭」と云ふ。一望西南の山海を盡す、景愛すべし。

 此邊り林中に諸堂の棟に顯れ出で、紅葉の中に莊嚴(しやうごん)の光を交(まぢ)ゆ。故に櫻の頃と云へども、秋風落葉の候には及ばず。

 又此山には瑪瑙(めなう)を產す。

 「菩提石」と云へるは甚はだ奇石なり。

 都(すべ)て寺中緣起・地理の事實は、予が書ける「三州圓通傳」に委(くは)しければ、爰には略しぬ。

 但し此那谷の「奧の院」と稱する地あり。郡(こほり)は能美(のみ)に分(わか)ると云へども、那谷の文字は同じ。兩寺ナテンと唱ふ。赤瀨村那谷觀音と云ふ。本堂は澗の中にして、拜殿に舞臺あり。飛驒の匠(たくみ)の作る所とかや。本尊は一寸八分の千手觀音なりしを、盜人の爲に、惜いかないつの頃よりかなし。今脇立(わきだち)のみ殘れり。【或(あるいは)曰く、此本尊今能州一宮にありと。】わき立は一尺許の木像二躰、殊勝さいはんかたなし。中尊はあらぬ物をすゑたり。

 この赤瀨村に「やす」と云へるものあり。其の形(かた)ちは一眼の蛇なり。此里に昔「やすな」と云ふ女【「やすな」の「な」は鄕言(きやうげん)[やぶちゃん注:方言。]の助語なり。】、人を疑ひ過(すご)し、此谷川に身を投じて死去し、化して蛇となる。其子孫とて、此赤瀨の中には小蛇といへども皆一眼なり。時ありて小松棧橋迄も下る事あり。其時は必(かならず)時あらずして洪水町をひたすと云ふ。小松河岸端と云ふに、燕山(つばめざん)本蓮寺と云ふは蓮如上人の姻族、今莊嚴巍々(ぎぎ)の道場なり。初は燕村にありしを、小松先(さきの)國主村上周防守城下へうつして歸依ありし。【燕村栗津湯本の近所、今は津波倉と云ふ。】古社あり。古物の獅子頭(ししがしら)、大同の年號殘る。今小松九龍橋と云ふ所に有り。書院に居ながら白根に對し絕景なり。彼(かの)「やすな」は本蓮寺の門徒にして、今に此寺の報恩講の中には必ず詣ると云ふ。雪中といへども水出で岸に溢れ、風雨烈敷(はげしき)日あり。土俗、

「赤瀨のやすなが參る日なり」

といふ。

 其川づたひには「蝶が淵」と云ふありて、折々人の首を釣上(つりあげ)ることありと云ふ。「皷(つづみ)が淵」といふには、底に

「たんたん」

たる聲聞ゆ。刎橋(はねばし)あり。「土合(つちあひ)」と云ふ橋もあり。折々飛龍を見ると云ふ。其下の道は「大野花坂」とて、面白き山道なり。

[やぶちゃん注:「自生山那谷寺」石川県小松市那谷町(なたまち)にある真言宗の寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。本尊は千手観世音菩薩像(三十三年毎に開扉される秘仏)。ウィキの「那谷寺」によれば、『寺伝によれば、養老元』(七一七)年に白山を開山したされる「越(こし)の大徳(だいとこ)」『泰澄法師が、越前国江沼郡に千手観音を安置したのが始まりとされる。その後』、寛和二(九八六)年、『花山法皇が行幸の折り』、『岩窟で輝く観音三十三身の姿を感じ、求むる観音霊場三十三カ所はすべてこの山に凝縮されるとし、西国三十三観音の一番「那智」と三十三番「谷汲」の山号から一字ずつを取り』、旧称の『「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名』した。『南北朝時代に戦乱に巻き込まれ荒廃した』が、『近世に入って加賀藩藩主前田利常が再建。この時の大工は』、現在の石川県羽咋市寺家町にある能登国一宮である『気多大社拝殿を建てたのと同じ山上』(やまがみ)『善右衛門である』。『前田利常は、江沼郡の大半を支藩の大聖寺藩に分置したが、この那谷寺がある那谷村付近は自身の隠居領としたため、その死後も加賀藩領となった』(『後に領地交換で』加賀藩支藩の『大聖寺藩領と』なっている)。

「華山法皇」花山天皇(安和元(九六八)年~寛弘五(一〇〇八)年/在位:永観二(九八四)年~寛和二(九八六)年)のこと。冷泉天皇第一皇子で母は摂政太政大臣藤原伊尹(これまさ)の娘懐子。寛和二年六月二十二日(九八六年(ユリウス暦)八月五日(グレゴリオ暦換算七月三十一日)、僅か二年足らず、しかも数え十九歳で宮中を出て、剃髪し、仏門に入って退位した。そこに右大臣藤原兼家(道隆・道長の父)の野望がうごめていたことは、さんざん古文の「大鏡」でやったじゃないか。如何にもいやらしい嘘泣き道兼が絶品だったね。尤もあれを好んでやった理由は大好きな安倍晴明が予知して式神を使うシークエンスがあるためだったし、そこで晴明の話に脱線出来たからだったのだが。だいたい、この花山天皇は性的に異常嗜好傾向のあった人物である可能性も強いのだ。ウィキの「花山天皇」にも、『花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話は』「大鏡」・「古事談」に『多い。即位式』(満十五歳)『の際、高御座』(たかみくら)『に美しい女官を引き入れ、性行為に及んだという話が伝わ』り、『出家後も好色の趣味を止めることなく』、『女性と関係を持ち』、女絡みの『「長徳の変」』(長徳二(九九六)年花山法皇二十九歳の時、中関白家の内大臣であった兼家の子藤原伊周と隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件。同年一月の半ばのこと、伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘「三の君」と同じ屋敷に住む「四の君」(藤原儼子。かつて花山天皇が寵愛した女御藤原忯子(しし)の妹)に花山法皇が通い出し、それを伊周が自分の相手の「三の君」に通っていると誤解して弟隆家と相談、隆家が従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いた(「百錬抄」ではそれに留まらず、花山法皇の従者の童子二人を殺して首を持ち去ったともある)。花山法皇は体裁の悪さと恐怖のあまり、口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がるのを待ち構えていた末弟道長に利用される形で、翌月、伊周・隆家はそれぞれ、大宰府・出雲国に左遷の体裁で流罪となった。但し、数年後に許されて京に戻った。但し、これによって道長が政権を握ることとなり、道隆を始めとする中関白家は排斥されることとなった)『出家後の話である。また、同時期に母娘の双方を妾とし、同時期に双方に男子を成している。その二人の子を世の人は「母腹宮」(おやばらのみや)「女腹宮」(むすめばらのみや)と呼んだ』とある。一方で、『法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し』、『修行に勤め、大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が「西国三十三所巡礼」として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となって』おり、『この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたと』も『され、この地には御廟所があり』、『花山院菩提寺とし西国三十三所巡礼の番外霊場となっている』。また、『彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造は』、『たびたび』、『人の意表を突いた』とも言われ、『特に和歌においては在位中に内裏で歌合を開催し』、「拾遺和歌集」の親撰や「拾遺抄」の増補もした『ともいわれ』ている才人でもあったことも言い添えておこう。

「芳躅」「はうちよく(ほうちょく)」とも読む。「躅」は「足跡」の意で、先人の業績・事跡を讃えて言う語。「那谷寺」公式サイトの「那谷寺について」の『「花山法皇」の行幸の伝説』(「伝説」とある通り、私は実際に行ったかどうかは頗る怪しいと考えている人間である)には、花山天皇は『藤原兼家の謀事によって出家させられ』たが、その後、『書写山円教寺や比叡山で修行、熊野へも巡拝、永祚(えいそ)元年』(九八九年:退位から三年後)には『北陸へ旅立たれました。同行する者は』僅か三『名の従臣だけでした。まず』、『白山へ登られ、次いで小松地域の寺を訪ねられ、最後に岩屋寺(那谷寺)を参詣されました。花山法皇は(西国三十三所の)那智山と谷汲山からそれぞれ一文字ずつ「那」と「谷」を取り、那谷寺と改名されたと伝えられています』。『那谷寺は温谷寺(うだにでら)・栄谷寺(さかえだにでら)とともに、天台宗白山三ヶ寺と言われました』とある。

「はだし坂」不詳。現存していない模様。

「七堂の靈場通閣の内陣」「那谷寺」公式サイトの「境内案内」を見ると、現在でも住職の居所である書院を除いて、鐘楼を含めれば、七堂を数える。

「西國三十三所」は近畿二府四県と岐阜県に点在する三十三ヶ所の観音信仰の霊場の総称で、ウィキの「西国三十三所」によれば、『これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼』及び霊場『であり、現在も多くの参拝者が訪れている』。本巡礼の「三十三」とは「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(一般に「観音経」の名で知られる)に『説かれる、観世音菩薩が衆生を救う』際には三十三の『姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し』、『西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる』ものである。勘違いしてはいけないのが、「西国」の地域限定からも那谷寺自体はそれには含まれていないということである。『三十三所巡礼の起源については』、兵庫県宝塚市の第二十三番札所である真言宗紫雲山『中山寺の縁起である』「中山寺来由記」や岐阜県揖斐(いび)郡揖斐川町にある『谷汲山華厳寺(三十三番札所)の縁起である『谷汲山根元由来記』などに大略次のように記されている』。養老二(七一八)年、『大和国の長谷寺』(後に第八番札所となる)『の開基である徳道上人が』六十二『歳のとき、病のために亡くなるが』、『冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説』いたものの、『世間の信用が得られず』、『あまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納めた。そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で』八十『歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていった』。『徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約』二百七十『年後、花山院』『が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)』(大阪府南河内郡太子町にあり、本尊は如意輪観音菩薩であるが、この寺も札所ではない)『の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)。仏眼が笈摺・納め札などの巡礼方式を定め、花山院が各寺院の御詠歌を作ったといい、現在の三十三所巡礼がここに定められたというのである』。『しかしながら、札所寺院のうち』、京都府京都市西京区大原野にある第二十番札所『善峯寺は法皇没後の』長元二(一〇二九)年の『創建である。また、花山院とともに札所を巡ったとされる仏眼上人は、石川寺の聖徳太子廟の前に忽然と現れたとされる伝説的な僧で、実在が疑問視されている。以上のことから、三十三所巡礼の始祖を徳道上人、中興を花山院とする伝承は史実ではない』ことがはっきりしている。『西国三十三所の前身に相当するものは、院政期の観音信仰の隆盛を前提として』、十一世紀頃に『成立して』おり、『史料上で確認できる初出は、近江国園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した』「寺門高僧記」中にある『「行尊伝」の「観音霊場三十三所巡礼記」と「覚忠伝」の「応保元年[やぶちゃん注:一一六一年。]正月三十三所巡礼則記文」である。行尊』(天喜三(一〇五五)年~長承四(一一三五)年:平安後期の天台僧。参議源基平の子。園城寺長吏・天台座主を勤めた)『の巡礼を史実と認めるか否か、異論が存在する』『が、これに次ぐ覚忠』(元永元(一一一八)年~治承元(一一七七)年:天台僧。藤原忠通の子。後白河上皇の出家に際して戒師や天台座主・園城寺長吏を勤めた)『の巡礼は確実に史実と考えられている』。但し、『この時期の三十三所の順序や寺院の組み合わせは様々で、何種類もの観音霊場巡礼が併存し、ひとつの寺院がいくつもの』別なグループの『観音霊場に数えられていた』。『庶民が』十一『ヶ国にもまたがる』三十三もの『霊場を巡礼することは、中世初めにはきわめて困難である』。『中世初めにおいては、三十三所すべてを巡る巡礼が主として各種の聖や修行者によって行われていたとはいえ、観音信仰の性格からして、一般俗人を排除することは考えにくいことであり』、『一国のみ、ないし限られた区間のみを辿る巡礼を重ねて、三十三所に結縁・結願することを願っての巡礼が行われていたと考えられている』。『長谷寺は平安時代初期頃から霊験著しい観音霊場寺院として、特に朝廷から崇敬を寄せられただけでなく、摂関期には藤原道長が参詣するなど、重要な観音霊場であった。こうした長谷寺の位置付けゆえに三十三所の一番となったと見られることから』、十一世紀末頃『と見られる行尊の巡礼が長谷寺から始まることは自然なことと考えられる』。一方、十二世紀後半の『覚忠の巡礼において、長谷寺から遠く隔たった那智山が第一番となる』の『には大きな変化があったと見なければならず、それには熊野詣の盛行と西国三十三所における熊野那智山の位置という』二『つの点』から『見なければならない』。『前者の例として挙げられるのは、後鳥羽院の』十三『回、後白河院の』二十七『回といった参詣であり、こうした盛行に影響されて』、『三十三所の順路が影響を受け』、十二『世紀後半には那智山を一番札所とするようになったと考えられている』とある。まだ引用元の解説は続くが、以下に語られる那谷寺の名の由来の二寺が出てきたここでやめておく。

「那智」和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗那智山青岸渡寺。西国三十三所第一番札所。本尊は如意輪観世音菩薩。十数年前、ここの宿坊尊勝院に泊まった。

「谷汲」岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびちょう)谷汲徳積(とくづみ)にある天台宗谷汲山(たにぐみさん)華厳寺。本尊は十一面観世音菩薩。

「天然の石山にして、三像石は寺の奧庭の内に向ひて、山尾(やまのを)に突然たり」三尊石。「那谷寺」公式サイトのこちらで画像が見られ、そこに『書院奥にひろがる庭園「琉美園」の池中央にそば立つ自然の岩面は』三『つに別れ』、『三尊石と呼ばれて』おり、『岩面の裂けた姿が阿弥陀三尊のご来迎に似ていることから名付けられ』たとあり、『江戸時代には滝が流れ落ちていたこともあり、現在も多くの雨が降ると滝が流れるさまを目にすることができ』るとある。

「石山の石より白し秋の風」本句は元禄二年八月五日(グレゴリオ暦一六八九年九月十八日)に詠まれた。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 74 那谷寺 石山の石より白し秋の風』を参照されたい。因みに、この日に芭蕉は長く旅を連れ添ってきた曾良と別れ、立花北枝とともに山中温泉を発ち、現在の石川県小松市那谷町にある自生山那谷寺を訪れ、再び山中温泉の前に泊した小松へと向かった。本名句は無論、那谷寺での一句である。石山とは境内の現在の「奇岩遊仙境」を指す(リンク先は「那谷寺」公式サイト内のページ)。

「金澤希因」金沢市立玉川図書館の近世資料「春季展 暮柳舎甫立没後百年俳書展」PDF)によれば、金沢の俳諧師初代暮柳舎(綿屋)希因(慶安三(一六五〇)年~寛延三(一七五〇)年)。通称は彦右衛門。「金沢古蹟志」には『暮柳舎希因先生は金沢観音町に住居し、俗名を綿屋彦右衛門と称し、家業酒造にて銭商売せられし也、本名は小寺氏なり」と記している。初号を幾因・申石子といい、北枝・支考・乙由に師事し、北枝の後を継いで百鶴園、後に暮柳舎を号した。芭蕉直門没後の北陸地方の重鎮であり、その門から天明中興に貢献した闌更・麦水』(本書の作者)『・二柳など錚々たる俳人が輩出した』とあり、しかもサイト「千代女の里俳句館」のこちらによれば、なんと! かの名女流俳人加賀千代女の直系の指導者であったことが判った。そこに『希因の俳諧集団である暮柳舎には新たな才能が集い、北越における伊勢派の重鎮として全国に知られて行きます』。『読本作家としても高名な建部涼袋(当時、都因と号する)は津軽の出身で、延享』二(一七四五)年に仮名技に来て、『希因に学んで』おり、『また、同じ伊勢派で画家の百川は、寛延元』(一七四八)年十二月には『北上し、加賀の俳人に書画の制作を広めて』、『ついで、伊勢から幾曉(春波)が来訪し、北越で生涯を終え』ており、『千代女は、寛延元年以降再び、俳諧の活動を再開し、多くの俳書に掲載されるようにな』るも、『希因が没し、加賀は最も重要な指導者を失』ったとあるのである。

「分入れば石と成けり秋の空」「石川県江沼郡誌」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクション)に本句を、

 わけ入れば石となりけり秋の雲  希因

の表記で確認出来る。

『一柱觀あり。俗、「傘の亭」と云ふ』不詳。那谷寺の中にあった茶室か?

「此山には瑪瑙(めなう)を產す」「那谷寺」公式サイトの「那谷寺について」に、『那谷の地はオパール、瑪瑙、水晶などが産出しており、那谷寺の観音堂には』十二『個の瑪瑙を有して』おり、『これを周防国(山口県)の大内義隆が所望したため、真宗本願寺の証如が那谷寺へ依頼』、五『個の瑪瑙を送り、遣明船で明国へと献上し』たとあり、『南北朝と戦国時代に那谷寺は』三『度も焼かれ』『たが、僧義円や霊山寺即伝などが訪れ、密教修験の道場となってい』た事実があるという。『密教修験と真宗は対立関係にあ』ったけれども、『那谷寺は証如と結びついていたようで』あるとある。

「菩提石」瑪瑙かと思ったが、サイト「石の街うつのみや」のこちらに、『石川産凝灰岩のなかで、最も不便な場所に産し、値段も高かった「菩提石」については、希少さも手伝って、東京・大阪で珍重されたことが分かっており、その「顔つき」も特異な石材でした。――赤褐色・褐色で、無数の穴が空いているのです。そして、意外なほど固くて緻密です』。『「水田丸石」「滝ヶ原石」の産地を含む(現在の)加賀市・小松市の山裾には、密度の高いものから多孔質のものまで、多様な凝灰岩を見ることができ、後者のタイプを名勝「遊仙境」「琉美園」とするのが、二つの地域の間に位置する那谷寺」に他なりません。那谷寺を訪れると、赤み・黄味を帯びた穴だらけの奇岩霊石がそそり立ち、何故か私たちが良く知る大谷の自然石を彷彿とさせます。この那谷寺から南西へ』二『kmほど山に入ったところに、大谷石と不思議な因縁があり、「幻の石材」と呼ばれて来た「菩提石」の集落(小松市菩提町)が位置しているのです』とあり、以下、続編があり、『原石や風化した状態では、顔色がさえないあばた面――赤み・黄味を帯びた灰色を呈し、中を割って見ても小さな穴だらけの「菩提石」は、さまざまな理由により、「幻の石材」とされて来ました。現在は、採石すら行われていません』。『その特徴的な形状から、「蜂ノ巣」とも呼ばれたこの石を求めて、かつての産地だった石川県小松市菩提町』(那谷寺の東にある)『を訪ねると、それが「幻である理由」をリアルに知ることができます。集落のはずれに建つ花山神社』『の石灯籠で明らかなように、決して「美麗」ではなく、むしろ「珍重」な石という印象を受け、小さな「蜂ノ巣」の塊をご自宅の前に飾っておられた地元の方に伺うと、「昔は細工物に使われたけれど、とうに出なくなったし、建材向きではないねえ」とのこと。また、現地で黄菩提の原石を発見し、それを掘り出していると、近所の人が「そんな不細工な石どうするの? この辺ならばヒスイやメノウだって見つかるのに!」と笑っておられました』とあって続く。これ以上の引用を避けたいので参照されたい。

『予が書ける「三州圓通傳」』ここで遂に本「三州奇談」がただの麦雀の書写本でないことが明確に示される。デジタル・アーカイブ検索閲覧システム「ADEAC」の「石川県立図書館」の「石川県史 第三編」の「第三章 學事宗教」の「第四節 國學(上)」に、

   《引用開始》

下りて寶暦・明和を中心として堀麥水あり。奇才縱横行く所として可ならざるはなく、その本領は俳諧に在りといへども、傍ら指を著述に染めて慶長中外傳・寛永南島變・昔日北華録・琉球屬和録・三國圓通傳・難波戰記・説弘難波録・北倭記事等を出し、又三州奇談・越廼白波の如き郷土的雜著あり。筆路何れも暢達にして毫も苦澁の跡を見ざるもの、葢し加賀藩に於けるこの種の作者中前後にその比を見ること能はず。

   《引用開始》

とあり、この「三國圓通傳」は「三州圓通傳」と同じだとしか考えようがなく、これによってここでは麦水自身が本文を書いていることが明白となるからである。

『那谷の「奧の院」』石川県小松市赤瀬町にある赤瀬那殿観音のことらしい。那谷寺とは直線でも五キロ以上離れており、かなりの尾根を越えないと行けない。「鶴来信用金庫」公式サイト内の「ふるさと紹介コーナー」のこちらで『那谷寺の奥の院』「赤瀬那殿(なでん)観音」として画像が見られる。その解説によれば、『この赤瀬那殿は、泰澄大師が白山より下山の際に所持していた黄金仏を安置し開いたといわれる』場所で、『この他に木像菩薩二体(源利作)や泰澄大師座像(勇馬作)など多くの佛像が安置され、巨岩の斜面に建つ懸造り(かけづくり)とも呼ばれる舞台造りの本殿は、まわりの老木と相まって四季を通じて風情がある』とある。

「郡は能美に分る」能美郡は弘仁一四(八二三)年に江沼郡の北部が分立して発足しているが、ウィキの「能美郡」によれば、天正八(一五八〇)年に『柴田勝家により検地が行われ、白山麓十八ヶ村の内、尾添村・荒谷村を除く白山麓十六ヶ村は越前国大野郡に編入』されるも、寛文八(一六六八)年に、『福井藩と加賀藩の間の白山を巡る権利争い(白山争論)の解決策として、福井藩領の越前国大野郡の白山麓十六ヶ村と、加賀藩領の本郡尾添村・荒谷村が幕府領とな』ったとする。しかし「加賀藩史料編外備考」などの『加賀藩側の史料では、この時をもって白山麓十八ヶ村がすべて加賀国本郡に編入したとしている』ものの、『江戸幕府が作成した「元禄郷帳」では「越前加賀白山麓」として、越前国郷帳の下に白山麓十八ヶ村が記載されており、白山麓を越前・加賀双方に所属させなかったとする見方もある』という。『その後の「天保郷帳」では白山麓十六ヶ村は越前国大野郡に、尾添村・荒谷村は加賀国本郡に記載されており、第』一『次府県統合の頃まで白山麓十八ヶ村の内、尾添村・荒谷村のみが本郡に帰属していたと考えるのが一般的である』とある。これと関係がある謂いなのかどうかは判らぬが、一応、記しておく。

「那谷の文字は同じ。兩寺ナテンと唱ふ」「ナテン」の読みは意味不明。

赤瀨村那谷觀音と云ふ。本堂は澗の中にして、拜殿に舞臺あり。飛驒の匠(たくみ)の作る「一寸八分」五センチメートル半弱。

「脇立」脇侍。- 天台・真言系では千手観音のそれは毘沙門天と不動明王であることが多い。

「能州一宮」石川県羽咋市寺家町にある気多大社。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。私は三度訪れている。

「赤瀨村」前の『那谷の「奧の院」』の最初のリンクを参照。いかの「やす」「やすな」(「な」を「鄕言の助語」と言っているが、正確には女性を表わす美称の接尾辞である)の話は、柳田國男の「日本の伝説」(昭和四(一九二九)年アルス刊)に出る。以下に示す(底本は「ちくま文庫」版全集第二十五巻(一九九〇年刊)を用いた。傍点「ヽ」は太字に代えた)。

   *

 蛇が片目という伝説も、また方々に残っているようであります。たとえば佐渡の金北(きんぽく)山の一つの谷では、昔順徳天皇がこの島にお出でになった頃、この山路で蛇を御覧なされて、こんな田舎でも蛇はやっぱり目が二つあるかと、独言(ひとりごと)に仰せられましたところが、そのお言葉に恐れ入って、以後この谷の蛇だけはことごとく片目になりました。それで今でも御蛇河内(おへびこうち)という地名になっているのだといいます。加賀の白山(はくさん)の麓の大杉谷の村でも、赤瀬という一部落だけは、小さな蛇までが皆片目であるといっています。岩屋の観音堂の前の川に、やすなが淵という淵がもとはあって、その主は片目の犬蛇であったからということであります。

 昔赤瀬の村に住んでいたやす女(な)という者は、すがめのみにくい女であって男に見捨てられ、うらんでこの淵に身を投げて主になった。それが時折り川下の方へ降りて来ると、必ず天気が荒れ、大水が出るといって恐れました。やす女の家は、もと小松の町の、本蓮寺(ほんれんじ)という寺の門徒であったので、この寺の報恩講には今でも人に気付かれずに、やす女が参詣して聴聞(ちょうもん)のむれの中にまじっている。それだから冬の大雪の中でも、毎年この頃には水が出るのだといい、また雨風の強い日があると、今日は赤瀬のやすなが来そうな日だともいったそうであります。(三州奇談等。石川県能美郡大杉谷村赤瀬)

 すがめのみにくい女といい、夫に見捨てられたうらみということは、昔話がもとであろうと思います。同じ話はあまりに多く、また方々の土地に伝わっているのであります。京都の近くでも宇治の村のある寺に芋を売りに来た男が門をはいろうとすると、片目の潰れた一筋の蛇が来て、まっすぐになって方丈の方へ行くのを見ました、なんだかおそろしくなって、荷を捨てて近所の家に行って休んでいましたが、ちょうどその時に、しばらく病気で寝てい た寺の和尚が死んだといって来ました。この僧も前に片目の尼を見捨てて、そっとここに来て隠れていたのが、とうとう見つかって、その霊に取り殺されたのだといいました(閑田耕筆)。あるいはまた身寄りも何もない老憎が死んでから、いつも一疋の片目の蛇が、寺の後の松の木の下に来てわだかまっている。あまり不思議なので、その下を掘ってみると、たくさんの小判がかくして埋めてあった。それに思いがのこって蛇になって来ていたので、その老僧がやはり片目であったという類の話、こういうのは一つ話というもので、一つの話がもとはどこへでも通用しました。中にはわざわざ遠い所から、人が運んで来たものもありましたが、それがいかにもほんとうらしいと、後には伝説の中に加え、または今までの伝説と結び付けて、だんだんにわれわれの村の歴史を、賑かにしたのであります。人が死んでから蛇になった、または金沢の鎌倉権五郎のように、魂が魚になったということは信じられぬことですけれども、両方ともに左の眼がなかったというと、はやそれだけでも、もしやそうではないかと思う人ができるのです。しかしそれならば別に眼と限ったことはない。またお社の前の池の鯉・鮒・鰻ばかりを片目だというわけはないのであります。何か最初から目の二つある者よりも、片方しかないものをおそろしく、また大切に思うわけがあったので、それで伝説の片目の魚、片目の蛇のいい伝えが始まり、それにいろいろの昔話が、後から来てくっついたものではないか。そういうことが、いま私たちの問題になっているのであります。

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また、私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(6) 神人目を奉る』でも語られてあるので、参照されたい。個人的に言っておくと、親鸞は思想家として好きだが、「やすな」をいつまでも救い得ず、災いを消すことが出来なかった浄土真宗には全く以って興味がない。私の高校時代に演劇部と掛け持ちしていた生物部の美しい先輩の女性は、同宗の強力な集団(今も新聞に出版広告が出ている)の親玉の娘であったが、彼女は今どうしているんだろう、などと、ふと思った。

「小松棧橋」不詳。「棧橋」というからには下流の河口近いものかと想像するが、現行では見つからない。記述順から以下の本蓮寺の近くの「梯川(かけはし)」で、小松泥町(現在の小松市大川町)から対岸に架橋していたと思われる橋か(T氏の御教授による)。現在は二本架橋されているが、その上流側の一本は「梯橋大橋」という名称である。

「燕山本蓮寺」石川県小松市細工町にある綽如上人の二男鸞芸が能美郡津波倉で創建した本願寺の系譜を引く由緒ある真宗寺院。ここ。寺蔵の「親鸞聖人絵伝」は当地では最も古いもので、江戸時代に一円の触頭(ふれがしら)を藩より賜ったとある。中庭には高山右近所縁の灯籠があるという。

「燕村」小松市津波倉町(つばくらまち)

「村上周防守」後の越後村上藩初代藩主村上頼勝(?~慶長九(一六〇四)年:別名・義明)。天正一一(一五八三)年に「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に助勢した主君丹羽長秀が、戦後、越前・若狭・加賀南半国(能美郡・江沼郡)を与えられた。これに伴い、能美郡の小松城に家臣であった彼が入って城主となっている。【2020年2月1日:改稿・追記】いつも情報を寄せて下さるT氏より以下のメールを戴き確定したので、改稿した。

   《引用開始》

 藪野様の解釈に間違いありません。ウィキの「村上頼勝」の「小松城主」の項に、天正一三(一五八五)年二月に小松の本蓮寺(浄土真宗)に彼が与えた寺領寄進状には「次郎右衛門尉頼勝」とあり、天正一六(一五八八)年七月五日付の秀吉朱印状には「村上周防守」と『あるので、周防守の受領名を用いだしたのはこの頃と思われる』とあるからです。また、燕山本蓮寺の沿革を道寺の公式サイトで調べると、室町時代の永禄九(一五六六)年に『小松・浜田町に寺基を移す』とあった後、江戸時代の寛文六(一六六六)年に『浜田町から細工町へ寺基を移す』とあることから、「村上周防守」頼勝(義明)(は小松・浜田町の本蓮寺に寄進したことになります。

   《引用終了》

「【燕村栗津湯本の近所、今は津波倉と云ふ。】古社あり。古物の獅子頭(ししがしら)、大同の年號殘る。今小松九龍橋と云ふ所に有り」この部分、国書刊行会本では『【燕村栗津湯本の近所、今は津波倉と云(いふ)。古社有(あり)。古物ノ獅子頭、大同ノ年號残る。】然(しか)るに今小松九龍橋と云ふ所に有り』となっている。割注部分の相違は読解に異同をきたすが、恐らくは国書刊行会本が正しいと思われる。「九龍橋」(くりゅうばし)というのが判らぬが、この橋が本蓮寺のある場所近くのではないのかと私推理している。2020年2月1日:改稿・追記】やはりT氏より情報を戴いた。それによれば、やはり国書刊行会本のそれが本来の割注部分であるとされる。氏は「古社あり。古物の獅子頭(ししがしら)、大同の年號殘る」の「古社」は現在の粟津の東方の小松市津波倉町にある津波倉神社(旧「津波倉八幡宮」)のことで、この獅子頭は「石川県能美郡誌」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)のこちらに写真で出るそれと同じで、本文には『神寶に』『木造獅子頭あり』とし、その『獅子頭は長さ尺餘にして、腮の裏に朱漆にて「粟津上保八幡宮、□□□、景久施入、元亭二年八月、燕動」と記せらる、こゝに元亭と記すものは元享の誤りなるべし』(□はママ。引用本自体の判読不能字表記)とあることを根拠とされておられる。また、「九龍橋」は九龍橋川が本蓮寺の南を流れていることMapion)、「西尾市岩瀬文庫 古典籍書誌データベース」の「加州小松之図」で、本蓮寺とその横を流れる堀(川)に「クリヨヲ橋」が描かれてある(中央僅かに左位置)ことから、現在の「九龍橋」の場所が特定出来ないが、YouTubeのzerohawkstar2氏の「九龍橋川と新しい橋 2010 小松市」1:33付近に出てくるとのことであった。いつもおんぶにだっこではいけないので、この橋を調べてみたところ、個人ブログ「てんもく日記」の「ブラオイラ#271(街道をゆく⑰小松京町編)」に「九龍橋」の写真と手書きの探索路の地図を発見、これでグーグル・マップを見ながらその位置を確認したところ、この中央の京橋交差点の南の「九龍橋川」に架かる橋が「九龍橋」であることが判明した。グーグル・ストリート・ビューのこれを見られたい。施工中のそれとは橋や周囲の建物がかなり違っているが、ストリー・ビューを右に振ると、YouTube1:30に写る道の向こうの鮮やかな藍色の切妻造りの建物が一致するので間違いない。何時もながら、T氏には感謝申し上げるものである。

「白根」白山のことであろう。

「報恩講」浄土真宗の宗祖(彼は新宗派を創始する意図はなく本来は「浄土真宗」とは「浄土宗」の真の教えほどの意味である)とされる親鸞の祥月命日(弘長二(一二六二)年十一月二十八日(グレゴリオ暦換算で一二六三年一月十六日)の前後に阿弥陀如来並びに宗祖親鸞に対する報恩謝徳のために営まれる法要。浄土真宗本願寺派では現在一月九日から十六日に行われる。

「其川づたひ」不詳。寺の前に暗渠らしきものが見えることは見える。

「蝶が淵」不詳。

「人の首を釣上ることあり」無論、怪異としての幻の首級である。

「皷(つづみ)が淵」不詳。

「たんたん」鼓(つづみ)の音のオノマトペイア。

「刎橋」これは前の「人の首を釣上ることあり」に絡んだ名前と読んだ。日本にゴッホのような跳ね橋はそうそうないと思う。

『「土合(つちあひ)」と云ふ橋』不詳。語意不詳。

「大野花坂」不詳。現在、この寺の周辺は完全に市街地化されていて、面影はない。]

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