三州奇談卷之一 家狸の風流 / 三州奇談卷之一~了
家狸の風流
小松泉屋といふは、其先は淵崎(すのざき)泉入道慶覺(きやうがく)が後と云ふ。前田氏創業の始め、一揆の大家多くは皆町屋と成ぬ。されば此家も久敷(ひさしき)故にや、又は家產醬油を多く作りて、數百石の大豆を置く故にや。[やぶちゃん注:ここは読点であるべきところ。]昔より此緣の下に狸住(すま)ひて、夜更け人しづりては臺所へも出で、餘れる食を喰ふ事あり。家人皆常として怪まず。
主(あるじ)は先代より風雅を好みて、伊勢凉菟(りやうと)此地に行脚せし時も爰に宿る。「七さみだれ」の撰者里冬といふは此人なり。
されば今の主も、常に書院の硯を友とし花鳥と風情を盡す。此程江戶より聞ゆる句に、
蘭の花只蕭然と咲にけり 秋瓜(しうくわ)
是を短册にし寫して机にすえ、庭のけしきと共に其秋情を味はれ居られしに、忽ち友人の誘ひ來りて、郊外に出で、夜とともに明(あか)す事ありて、翌日歸り見るに、きのふの短册半ばより下をちぎりありしほどに、主人大きに腹立て、
「家内の者にはかくすべきものなし。小兒はいとけなし、其力の及ぶべき事に非ず。是は必ず小童(せうどう)淸次(せいじ)がわざならん」
と引出してしかられけるに、
「曾て致さず」
との旨を斷れども、外に誰(たれ)すべき者もなければ、罪をいひわくべき方もなし。
二三日過て、又机の上に一順を書きける紙有しに、是又少し端を引ちぎりてありし。
主人兎角に
「是(これ)淸次ならん」
と叱る。
[やぶちゃん注:「一順」は「一巡」とも書き、俳諧で一座の人々が発句からそれぞれ一句ずつ出句したものが、一通り終わることを言う。]
淸次は十二三の者なれば、大(おほい)に迷惑して、
「とかく此紙をさく者を見出さん」
と每度書院の間(ま)へ起出ですかし見るに、急度(きつと)[やぶちゃん注:遂に確かに。]其者こそ見付けれ。
古き狸の此紙をさきて庭に出(いづ)るなり。
淸次悅びて、主人に此趣(おもむき)をかたれば、主人もふしぎに思ひて、
「音なせそ」
と只二人庭を廻(めぐ)りて此躰(てい)をすかし見るに、狸一疋庭の隅に立ちて、頃しも葉月[やぶちゃん注:旧暦八月。]の月淸きに、引さきたる紙を前に置き、我(わが)はらを
「ぽん」
とたゝきては、かへりて背中に彼(かの)ちぎりたる紙をつけて見るなりける。
「是ぞ小皷(こつづみ)の體(てい)や見覺えけん。傳へ聞く、『むかし山中(やまなか)に鼓をよく打つありしに、狸來りて互に音をはげみ合ひて、一夜(いちや)あらそひしが、曉に至りて狸はらを打破りて死にけり』と聞しに、夫(それ)は上古の文盲なるものなるべし。我(わが)狸はよく人事を眞似ると聞しが、實(げ)にも紙を付(つけ)て音のよく出(いづ)ることや思ひけん、又は腹すじ[やぶちゃん注:ママ。]のしめかげんもありけるにや」
と、其志のをかしければ、快く月夜に立ち明かさせて、翌日は小豆飯など取はやして、其ふしぎをはらされしとぞ。
[やぶちゃん注:本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 狸囃子」の注で電子化しているが、底本が違うので全くの零からやり直した。なお、本篇は「三州奇談卷之一」の掉尾である。
「小松泉屋」石川県立図書館公式サイト内の「石川県関係人物文献検索」で、和泉屋嘉助・泉屋七郎・和泉屋自笑・泉屋太与・泉屋藤左衛門・和泉屋桃妖・泉屋又右衛門・泉屋又兵衛・泉屋与吉・泉屋与吉郎・和泉屋李下の名を見出せる。この内、和泉屋桃妖(久米之助)は既出の芭蕉に愛された宿屋の主人であるから、彼自身ならばそれを明記するであろうから外すとして、この中に当該の人物或いはその後裔がいると考えてよいのではないかと思われる。この内、恐らくは小松の住人で、醤油屋を営み、「淵崎泉入道慶覺」(次注参照)の後裔と称する人物であって、俳号を「里冬」とする者がそれとなるが、これ以上は私の探し得る範囲ではない。
「淵崎泉入道慶覺」これは「洲崎泉入道慶覺」(すのざきいずみにゅうどうきょうがく:現代仮名遣)の誤字か誤判読である。「加越能三州奇談」では正しく「洲崎」となっている。金沢市図書館の作成になる「金沢古蹟志」の「巻十三 城南柿木畠百姓町筋」に「洲崎泉入道慶坊伝」があり、こことここ(いずれもPDF)で詳細にその非常に詳しい事蹟が記されてある。その冒頭を電子化すると、
《引用開始》
加賀古蹟考に云ふ。昔長享年間洲崎泉入道慶覺といふ一揆大將、並に一族兵郞十郞左衞門・孫四郞等、石川郡泉村の邊なる村に居住す。其の館蹟は何れの地とも知れざれども、今米泉村に兵庫の塚といふあり。此の邊增泉米泉など、何れも皆一族の居住所なるべしといへり。龜尾記に、米泉村に洲崎泉入道慶覺坊の古墳あり。村中字駒坂といふ所にあり。古松ありしかども近年立枯れと成る。といへり。按ずるに、泉入道が居館は米泉村にあり。飛耳集錄に、昔當國尾山の城本源寺の家老松田次郞左衞門は、河北郡の棟梁として小立野寶幢寺坂を城郭となし、尾山城の押さえに蟠居す。其頃、河南米泉鄕に洲崎兵庫と云ふ者あり。石川郡の押領使として、數年本源寺と威を爭ひ、折を伺ひ河北を襲ひ取り[やぶちゃん注:誰かの手書きで「らんと」に訂正。]、人を巧み謀る事歲久し。然るに松田と和睦し、次郞左衞門を米泉の館へ招き、酒宴中に次郞左衞門を討取り、夫より彼居城等へ又軍を向け、松田が甥石浦主水の居城石浦砦等を不日に攻落す云々。といへり。
《引用終了》
とある。また、前者の前に彼の開山開基とする「洲崎山慶覺寺」の条があるが、ウィキの「慶覚寺(金沢市)」によれば、現在の石川県金沢市幸町(兼六園の北方直近)にある浄土真宗大谷派のこの寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)『本尊は蓮如から直に下賜された高さ』四寸八分の『阿弥陀如来像』で、『開山開基は洲崎兵庫次男の洲崎慶覚為信開基の慶覚は』、永享五(一四三三)年、『もと近江国馬渕郷の郷士洲崎兵庫次郎右衛門の次男として生まれ』、文明三(一四七一)年に『堅田で蓮如に帰依して慶覚の号を拝命する。国人武士として松根城や、尾山御坊の出城であった椿原山堡(現在の椿原天満宮)の城主をつとめたが、石川郡の泉村、米泉村、西泉村の三ケ村支配権を得た後』、文明八(一四七六)年に『米泉村』(現在の金沢市米泉町(よないずみまち))に『住み着いて道場を開いた。 一向一揆の指導的立場にあり、一向宗徒が冨樫政親を高尾城に攻め滅ぼした長享の一揆』(一四八八年)『では、総大将冨樫泰高の下で実質的なの指揮権を握った。高尾城攻撃に際し、洲崎十郎左衛門、河合藤左衛門、石黒孫左衛門らとともに一万騎を率いて、上久安(金沢市久安町)に陣取った』(この人物こそがこの洲崎泉入道慶覚その人である)。寛文元(一六六一)年、『三代慶順の代になって金沢市百姓町(現在の幸町)に移り』、『慶覚寺の寺号を受けた』とある。
「前田氏創業の始め」織田信長によって能登一国を与えられていた藩祖前田利家(天文七(一五三九)年(天文五年・天文六年とも)~慶長四年(一五九九)年)が、天正一一(一五八三)年の「賤ヶ岳の戦い」の後、豊臣秀吉に降って、加賀二郡を、さらに天正一三(一五八五)年)には佐々成政と戦った功績によって嫡子利長に、越中の内、射水・砺波・婦負三郡三十二万石が与えられ、三国にまたがり百万石を領する前田家領の原形が形成され、文禄四(一五九五)年には越中の、残る新川郡をも加増され、重臣の青山吉次が上杉家の越中衆(土肥政繁・柿崎憲家)から天神山城や宮崎城を受け取っている(以上はウィキの「加賀藩」に拠る)。
「伊勢凉菟(りやうと)」芭蕉晩年の門人で、麦雀や麦水の属した伊勢派俳諧の創始者である岩田凉菟(いわたりょうと 万治二(一六五九)年~享保二(一七一七)年)。伊勢山田の生まれ。本名は正致(「まさむね」か)。通称は権七郎。別号に団友・団友斎・神風館三世。北越・九州・中国各地に旅して勢力を広げた。編著「皮籠摺 (かわごずれ)」(元禄一二(一六九九)年・江戸で板行・榎本其角序)・「山中集」(宝永元(一七〇四)年)などがある。しばしば俳諧関連でお世話になる個人サイト「私の旅日記~お気に入り写真館~」の「岩田涼菟」で目ぼしい句と事績が判る。
「七さみだれ」前注のページに正徳四(一七一四)年に『涼菟は曽北を伴い』、『再び北国行脚』したとあり、そこに「七さみだれ」とある(リンクがあるが、残念ながら機能しない)。「石川県史 第三編」の「第三章 學事宗教 第六節 俳諧」の「凉莵乙由等の來遊」に(以上はデジタル・アーカイブ検索閲覧システム「ADEAC」のページ。太字下線は私が附した)、
《引用開始》
元祿十六年伊勢の涼莵杖を金澤に曳くや、萬子・北枝・牧童・里臼・從吾・長緒・八紫等皆之と交り、同國の乙由も來り會せり。既にして涼菟は乙由と相携へて山中に赴き、厚爲・桃妖等と賡和し、北枝亦追うて至れり。時に支考は能登より越中に入り、浪化を訪ふ。是を以て支考は涼菟と相遭はず、而して涼菟は浪化の遷化に先だちて之を見ること能はざりき。涼菟の寶永元年に出せる山中集はこの時の行脚記にして、行脚戻はその歸郷後の集なり。寶永三年美濃の人萬華坊魯九、初めて北國に下り、次いで春の鹿を刊行す。この書俳家の俗名を記するの點に於いて、最も價値を認むべし。正徳四年涼菟また曾北を件ひて加賀に來る。小松河北の連衆之を留め、安宅の懷舊に辨慶以下十二人及び富樫左衞門を題として各一句を捻り、別に五月雨の句を立句として七歌仙を次ぎ、その集を七さみだれと名づく。撰者は里冬にして、序文は宇中之を作る。先にいへる河南の連衆が八夕暮集を刊したるは、之に對する反抗運動にして、その河南・河北といへるは九龍橋を境界としたる地方的競爭たりしなり。涼菟はそれより金澤に入り、蘇守・玄扇等と風交せり。翌五年伊勢の人八菊北國に行脚し、小松の薄帋また之が爲に此格集を撰びたりき。
《引用終了》
「里冬」同じ「石川県史」の「第六節 俳諧」の「支考の再現」を見ると、そこに(太字下線は私が附した)、
《引用開始》
かくて支考の名聲益籍甚たりしが、彼は正徳元年秋自ら終焉の記を作りて踪跡を晦まし、故老亦相繼ぎて凋零せしかば、加賀の俳壇稍寂蓼を感じたりしが、四年秋支考の再び來遊するに及びて活氣を復したりき。この時越前の伯兎・昨嚢等亦之と行を共にして山中に入り、小松の塵生・宇中・里冬・朴人・乙甫・之川・之仲等を招きて、菊月朔日より十日に至る間、毎日歌仙を興行し、その集を菊十歌仙といへり。書中に『伯兎かつて此山中にあそびて、はじめて蓮二房にもてなされ、桃亭に三笑の交をむすびしは、すでに五年の先なるべし。』といへるは、先に述べたる山中三笑の雅會を指すものにして、その桃亭といへるは桃妖の亭なり。
《引用開始》
とあった。ここで桃妖の名が別に出るので、先の私の認識に誤りはない。
「蘭の花只蕭然と咲にけり」「秋瓜」句は不詳だが、作者は多少庵秋瓜(たしょうあんしゅうか ?~寛政二(一七九〇)年)であろう。江戸生まれで、初め佐久間柳居に学び、後に柳居の弟子古川太無(たいむ)の門人となった。別号に止弦・松籟庵。句集に「多少庵句巣」、編著に「もゝとせ集」などがある。「近世奇談全集」は俳号を『秋風』とするが、誤判読と思われる。個人サイト「私の旅日記~お気に入り写真館~」の「多少庵秋瓜」で目ぼしいの句と事蹟が判る。
「小童(せうどう)」少年の下男。
「曾て致さず」「未だ嘗て一度たりともそのようなことを致したことは御座いません」。
「かへりて背中に彼(かの)ちぎりたる紙をつけて見るなりける」「振り返りって、自分の背中にその千切った紙片を貼り付けているように見える」。言わずもがなであるが、主人の謂うように、これがまさに「小皷(こつづみ)」(小鼓)の演奏に際して調子紙を裏革に唾で貼りつけて湿度を与え、その時の場所での最もよい音を出す仕儀と一致しているのである。調子紙の作法については、サイト「能楽トリビア」の「舞台で小鼓方が指をなめるのはなぜ?」に詳しい。
「山中(やまなか)」山中温泉の地名と私はとって、かく読みを附した。
「腹すじ」「すじ」(筋であるから「すぢ」が正しい)小鼓の表革と裏革を絞めている「緒(お)」のこと。能楽ではこれを「調緒(しらべお)」または単に「調べ」という。この緒を締めたり緩めたりすることで音色を調節するが、それを腹の筋(すじ)と洒落たのである。
「取はやして」「取り囃して」で、狸の風流心を言祝ぐ座興として「座をぎやかに取りもってやって」の意。
最後に。私は狸の怪奇談の中では、ダントツで「想山著聞奇集 卷の四 古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」を挙げる。相応にがっしりとしたリアリズムを湛えた分量と、破綻のない展開の面白さ、そして哀しい結末の余韻がなんとも言えぬのである。]