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2020/01/28

三州奇談卷之一 溫泉馬妖

 

    溫泉馬妖

 爰にいふ山中の藥師は、村の西北金剛山の嶺の畔(ほとり)にて、則(すなはち)水無山(みづなしやま)の尾(を)なり。七堂の靈地にて、國分山五字明王院醫王寺といふ。庭園に奇怪の水鉢(みづばち)ありて、天然の石にして龜に類(るゐ)せり。往來の風客(ふかく)雅章を致(ち)して山と川と對すべし。麓に「信連(のぶつら)屋敷」と云ふ跡あり。此溫泉は則(すなはち)長(ちやう)某公の開く所にして、溫泉の幕、寺の紋所、皆長家の定紋九曜(くえう)を用ふ。緣起數章あり。畫傳假名の緣起皆近作なり。爰に略す。但し建久[やぶちゃん注:一一九〇年~一一九八年。]の緣起、墨蹟古雅にして奇談とすべし。事跡の爲爰に寫し記す。

[やぶちゃん注:「金剛山」現行の山名としては確認出来ない。「水無山」の位置と「嶺の畔」という謂いからは、この付近(国土地理院図)であろう。但し、高いピークは「村の西北」ではなく、西南にある。

「國分山五字明王院醫王寺」複数回既出既注であるが、再掲しておく。加賀市山中温泉薬師町にある真言宗国分山(こくぶんざん)医王寺。山中温泉を開湯した法相宗行基(天智天皇七(六六八)年)~天平二一(七四九)年:河内国大鳥郡(天平宝字元(七五七)年に和泉国へ分立。現在の大阪府堺市西区家原寺町)生まれ)の創建と伝えられる温泉の守護寺として知られ、薬師如来を祀っていることから「お薬師さん」と呼ばれ親しまれている。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「五字明王院」の院号は今は使用されていない模様である。

「庭園に奇怪の水鉢ありて、天然の石にして龜に類せり」調べてみたが、見当たらない。現存しないか。

「信連屋敷」この後は見出せないが、山中温泉南町に長谷部神社があり、石川県観光連盟作成になる同神社の解説(地図あり)に、『山中温泉を再興したと伝えられる鎌倉時代前期の武士、長谷部信連を祀(まつ)ってい』るとし、『山中温泉は約』千三百『年前、北陸行脚で江沼国菅生神社に参拝中の僧行基が発見したとされ』いるが、『その後、兵乱のため温泉は一時荒廃し』、文治年間(一一八五年〜一一九〇年)、『傷ついた脚を流れに浸している』一『羽の白鷺を、能登の地頭・長谷部信連』(?~建保六(一二一八)年)『が見つけ、霊泉がわき出ていることを知って』、『山中温泉を復興したといわれ』ているとある人物と考えてよい。次注で判る通り、彼は長氏の一族である。

「長(ちやう)某公」サイト「戦国武将の家紋」の「長氏」によれば、『中世、能登の国人領主長氏は清和源氏を称している。そして、『長氏系図』には、源頼親から源季頼に至るまで、八代の人名が記されている。しかし、長氏は『拾介抄』に見えているように、長谷部で宿禰姓または連姓であり、清和源氏とは関係がなかった、とするほうが真実のようだ』。『長氏が歴史に足跡を記したのは忠連のときであった。忠連は信連の祖父にあたる人物で北面武士となり、のちに鳥羽天皇の滝口となった「正六位上長谷部宿禰忠連」である。滝口を勤め上げた者は馬允に任じられるという慣例に従って右馬允にまで昇進した。長氏を初めて名乗った信連は、『平家物語』に「信連は本所衆、長ノ右馬允忠連が子なり」と見え、年代的にこの忠連の子であっても不自然ではない。しかし、『吾妻鑑』には「長新大夫為連の男なり」と記され、「長氏系図」でも為連の子として記載されていることから、信連は忠連の孫で為連の子であったと考えられる』とあり、以下に詳細な事蹟が記されてある。その後に『信連の挿話として山中温泉を発見したことが』知られるとし、『一日、信連が領内を巡視した時、偶然にかれは白鷺が降り来たって葦原の小流に病脚を浸すのを見た。これが、もとで霊泉を発見し、のちに有名となる山中温泉の発端』となったとあり、『また、山中温泉が一名白鷺温泉とも呼ばれる由来でもある』とある。さらに、『信連の子五人は、それぞれ』領『内の村地頭となり、かれらの子孫が中世末期には長氏の「家の子」とよばれ、家臣団中では最高の家格を誇った。鎌倉時代は「惣領制」の時代であったから、惣領は本領地にあって名目的に全知行を領有し、庶子などに知行地を分与して赴任させた』とあって、『後世、長氏の家臣中で重きをなした此木長氏・上野長氏・宇留地長氏・山田長氏・阿岸長氏らはみな』能登国鳳至郡の主領『大屋荘の周辺部に位置し、その祖を信連の子としている。これらの五氏はともに「長谷部朝臣」と称し、長氏を惣領として強固な同族的結合を形成した武士団の、それぞれ一方の旗頭たちであったと考えられる』とある。これで腑に落ちたことがある。直前の「山中の隕石」に記された「山中十勝」の一つ「黑谷の城跡」である。」そこでは山中温泉東町にある鎌倉時代頃の山寨山中黒谷城と注し、サイト「日本城めぐり」のこちらで位置が判るとしたが、そのリンク先の解説で(恐らくは最初の)城主として『長盛龍』(「ちょうのもりたつ」か)という名が記されてあることである。まさにこの人物は長谷部信連に連なる「家の子」の長一族の一人であったものと推定出来るのである。

 以下、縁起(現存するようである)は返り点のみ打たれたものが全文が一字下げで示されてある(諸本同じ)が、ここではまず白文で示し、その後に返り点に従って、私が推定で書き下したものを【 】内に示すこととした。一部で国書刊行会本を参考に読点に代え、記号も補い、読み易くするために段落も成形した。読みは私の推定で歴史的仮名遣で禁欲的に附した。訓読は返り点以外は総て私の勝手自然流であるから、底本その他の諸本の返り点を参考に御自身で読まれんことをお勧めする(特に最後の方の「又有印土迦勝王。曰此苑有泉。熱不可深。願爲決之。祖曰此爲溫泉有三緣所致。其一神業。其二鬼業。其三熱石矣。」は訓読がうまく出来ず、意味もよく判らない)。なお、このパートは前後を一行空けた。

 

加州山中村湯緣起

爰天平年中。聖武天皇御宇。加州江沼郡從山中嶺上。不思議紫雲靄峯。居住泉州菅原寺行基法師。尋登此嶺上。闞見彼紫雲源委。及八十老人現來。告于行基曰。溫泉此國發。開湯壺可與賜浴於衆人旨語。倏忽飛消空。行基隨其敎掘出溫泉。開三間四面湯壺。刻彫九寸非勝※1※2尊影於木像。[やぶちゃん注:底本ではここに奇体な文字(梵字の変形のように見受けられる)が入る。この左ページ六行目下から四字目からの二字分である。「近世奇談全集」だけがここを『刻彫九寸非迎尊影於木像。』とするが、これは承服出来ない。国書刊行会本は『刻彫九寸非晴□□尊影於木像。』と判読不能とする。]安置湯室二階。南白山妙理社。金銀卷柱。以瑠璃巖軒端。爲萬民守護。北佛閣森々。坊中比甍。可謂異國元閣通。脇辻小路狩野遠久爲湯番。不分冷溫。入湯輩。病者無不治。殊斷毒味。膚厭冷性浸潤。不誇酒宴。止瞋恚。偏信心輩頓逃病患。因玆※1※2經。我此名號一經其耳。衆病悉除。身心安樂矣。此經文意。信心輩名號一經耳。[やぶちゃん注:「加越能三州奇談」と国書刊行会本では『信心輩』の後が『※1※2名號一經耳』(ここでは前者に従って正字で示した)という文字列となっている。]諸病平愈。令成色身安樂所願也。誠經文明白者歟。雖然有漸後。承平年中。從將門叛逆砌。逮退轉期。至賤男賤女失吾栖。又本深山生茂。爰治承年中。高倉院御宇從京方引籠。居住塚谷村長谷部信連云者一官人。終日愛鷹馳登此嶺頭。徧視山中。折脚白鷺徐來。便入池水。暫出亦入亦出。終舒𦐂飛行。又經一七箇日。折脚白鷺。延堅固脚足憩葦間。官人忘他念則合鷹逸物。鷹去無難抓鷺落。官人慮其因由。[やぶちゃん注:ここは底本は「慮」が「應」である。訓読上の躓きのなさから、ここのみ国書刊行会本で訂した。]白鷺是白山妙理可使者。恐可恐謬上錯己矣乎。成意誓斷鷹足韋忽抛虛空則怪見葦間疏鑿溫泉自峨々巖石中穿出微妙藥師尊形。承聞往古行基法師。有開山所可溫泉是。貴哉。二百余年雖埋座淤泥。具足神通力。佛躰者毫厘無損。從此節安置迓躰於各別堂。學古風如形欲奉興。無程則成就威儀。然而貴賤輩。入此湯無病不治族。溫泉雖多涌。寒熱等分此也。彼是佛神誓甚深者也。偉哉異域有此儀。漢土明皇幸花淸池。樂安身法力。餘流於諸人不異。又有印土迦勝王。曰此苑有泉。熱不可深。願爲決之。祖曰此爲溫泉有三緣所致。其一神業。其二鬼業。其三熱石矣。抑信連繼絕。深忠勤于君忽酬天理。從關東鎌倉被召出賜能登國。現當二世悉地成乎。仍粗所記緣起狀如件。

 建久五年甲寅       金剛山醫王寺

【「加州山中村湯緣起」

 爰に天平年中、聖武天皇の御宇、加州江沼郡(こほり)山中(やまなか)の嶺の上より、不思議なる紫雲、峯より靄(かすみた)つ。泉州が菅原寺に居住せる行基法師、此の嶺の上を尋ね登り、彼の紫雲の源の委(くはし)きを闞見(かんけん)す。八十(やそ)に及べる老人、現はれ來たり、行基に告げて曰く、溫泉、此の國に發すれば、湯壺を開き、浴をもつて衆人に與賜(よし)すべき旨、語り、倏忽(しゆくこつ)として飛び、空に消ゆ。

 行基、其の敎へ隨ひ、溫泉を掘り出だし、三間四面の湯壺を開く。九寸の非勝※1※2の尊影を木像に於いて刻み彫り、湯室の二階に安置す。南に白山妙理社、金銀の卷柱に、瑠璃を以つて軒端を巖(かざ)り、萬民の守護と爲す。北に佛閣、森々、坊中、甍を比(きそ)ひ、異國元(げん)の閣の通りと謂ふべし。脇の辻小路、狩野遠久、湯番と爲す。

 冷溫を分たず、湯に入る輩(やから)は、病者、治(じ)せざる無く、殊に毒味を斷ち、膚(はだへ)冷性浸潤を厭はず、酒宴を誇らず、瞋恚(しんい)を止み、偏へに信心の輩、頓みに病患を逃(のが)る。

 玆(ここ)に因りて、「※1※2經」、我れら、此の名號一經、其れのみ。衆の病ひ、悉く除(の)け、身心、安樂たり。此の經の文意は、「信心の輩、名號一經のみ」たり。諸病平愈、色身(しきしん)の安樂の所願を成さしむるなり。誠(まこと)に經文、明白なる者か。

 雖然(しかるといへど)も、漸(やや)有りて後、承平年中、將門が叛逆の砌(みぎり)より、退轉の期に逮(およ)ぶ。賤男・賤女、吾が栖(すみか)を失ふに至る。又、本(もと)の深山と生ひ茂げりける。

 爰に治承年中、高倉院御宇、京方より引き籠り、塚谷村に居住せる長谷部信連と云ふ者、一官人なるが、終日(ひねもす)、鷹を愛し、此の嶺(みね)の頭(かしら)に馳せ登る。徧(あまね)く山中を視るに、脚を折れる白鷺、徐(おもむ)ろに來たり、便(すなは)ち、池水に入り、暫くして出でて、亦、入り、亦、出で、終(つひ)に𦐂(つばさ)を舒(ひろ)げて飛び行けり。又、一七箇日(ひとなぬか)を經て、脚を折れる白鷺、堅固なる脚-足(あし)を延ばし葦間に憩(いこ)ふ。官人、他念を忘れ、則ち、鷹の逸物(いちもつ)を合はす。鷹、去つて、難無く、鷺を抓(つか)み落とす。官人、其の因-由(よし)を慮(おもんぱか)る。

『白鷺は是れ、白山妙理が使者なるべし。恐れ、恐るべし、上(かみ)を謬(あやま)り、己(おのれ)を錯(あやま)てるか。』

と意誓を成して、鷹の足韋(そくゐ)を斷ちて、忽ち、虛空に抛(なげう)つ。

 則ち、怪しみ見る葦間に、溫泉の疏鑿(そさく)せり。

 峨々たる巖石の中(うち)より、微妙なる藥師の尊形(そんぎやう)、穿ち出づ。

 承り聞く、往古、行基法師、開山有る所の、溫泉は是れなるべし。

 貴きかな。

 二百余年、淤泥(おでい)に埋座(まいざ)せると雖も、神通力を具足し、佛躰(ぶつたい)は毫厘(がうりん)も損せる無し。

 此の節より、迓(むか)へたる躰は各別の堂に安置す。古風を學びて形(かた)のごとく、興(おこ)し奉らんと欲す。程無く、則ち、威儀を成就す。然して貴賤の輩、此湯に入り、病ひ、治せざるの族(うから)無し。溫泉、多く涌くと雖も、寒熱、等分にして此れなり。彼れ是れ、佛神への誓ひ、甚だ深き者なり。

 偉なるかな、異域に此の儀や有る。

 漢土の明皇、花淸池に幸(かう)し、安身法力を樂しむも、餘流の諸人、異ならず。又、印土(いんど)に迦勝王(かしやうわう)有り、曰(い)ふ、「此(ここ)の苑(その)に泉有り。熱きこと、深(はか)るべからず。願爲(ねがはく)は之れを決せん」と。祖、曰く、「此れ、溫泉と爲すに三緣有りて致さしむ。其の一は神業。其の二は鬼業。其の三は熱石なり」と。

 抑(そもそも)信連(のぶつら)絕えず繼ぎて、深く、君に忠勤して天理を酬(むく)ふ。關東鎌倉より召し出だされ、能登國を賜ふ。現當の二世の、悉く地と成るなり。

 仍(よ)つて粗(ほぼ)記す所の緣起の狀、件(くだん)のごとし。

 建久五年甲寅       金剛山醫王寺】

[やぶちゃん注:「天平年中」七二九年~七四九年。

「泉州が菅原寺」奈良県奈良市菅原町(すがわらちょう)にある法相宗清涼山喜光寺。行基創建と伝え、彼の没した地とされており、菅原寺とも呼ばれる。

「闞見」臨み見る。

「倏忽として」忽(たちま)ちのうちに。

「三間」五メートル四十五センチ。

「非勝※1※2」不詳。識者の御教授を乞う。

「白山妙理社」白山妙理権現の社。白山妙理権現とは十一面観音菩薩を本地仏とする白山権現(白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合神)の別称。

「異國元の閣の通り」私は「異國」である大陸の大国「元」(げん)の都市の、壮麗な仏「閣の」立ち並んだ「通り」の意でとった。

「狩野遠久」伝承ではここの地侍で、温泉源の探索も彼とともに行っているようである。

「冷溫を分たず」温泉の温度に関係なく。

「殊に毒味を斷ち」体内の有害な毒気を根から絶ち。

「膚(はだへ)冷性浸潤を厭はず」よく判らない。体温が以上に低い性質(たち)であるとか(その結果、熱い湯には入れないということか)、肌が荒れたり、糜爛したりしていても全く問題なく入湯でき(滲みる痛みを感じないということか)。

「酒宴を誇らず」意味不明。「酒宴を催すを禁忌とせず」の謂いかとも思ったが、「誇」ではそのような意味にはとれない。「近世奇談全集」では「誇」を「袴」とするが、これは誤植であろう。

「瞋恚」仏教の三毒・十悪の一つで、自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。

「※1※2經」私は「※1※2」を仏教の如来・菩薩・天部の孰れかの名の梵字と考え、それを冠した経文(きょうもん)=名号が存在するものと読んで、鍵括弧を附したものである。

「色身」ここは私は「肉体から離れられない現実世界での人間として存在」の謂いでとる。

(しきしん)の安樂の所願を成さしむるなり。誠(まこと)に經文、明白なる者か。雖然(しかるといへど)も、漸(やや)有りて後、

「承平年中」九三一年~九三八年。「平将門の乱」は一般に承平五(九三五)年から天慶(てんぎょう)三(九四〇)年とされる。

「治承年中、高倉院御宇」治承は一一七七年(安元三年八月四日改元)から一一八一年であるが、高倉天皇の在位は仁安三(一一六八)年からで、治承四年二月二十一日(ユリウス暦一一八〇年三月十八日)に安徳天皇に譲位しているから、この記載が正確ならば、僅か二年半ほどの閉区間となる。

「塚谷村」山中温泉塚谷町(つかたにまち)

「他念」ここは脚を折った鷺が池に出たり入ったりする不思議な行動に対する疑問・不審のことを指す。

「意誓」神に対する懺悔(さんげ)と誓約。

「足韋」鷹と自分の手を結んでいる鞣革(なめしがわ)で出来た紐。

「疏鑿」切り開かれて川や泉が流れ出ること。

「淤泥」滓(おり)と泥。

「古風を學びて形(かた)のごとく」古い礼節に則(のっと)って、知られた通りの正しい祭祀の礼式を以って。

「寒熱、等分にして此れなり」丁度、適温であることを謂うか。

「彼れ是れ」入湯する者たち皆誰もが。

「漢土の明皇」唐の玄宗皇帝のこと。

「花淸池」華清池。西安市街から北北東に約三十キロメートルにある温泉。楊貴妃が入ったことで(というよりそう書かれた白居易の「長恨歌」で)人口に膾炙する。

「餘流の諸人、異ならず」意味不明。「玄宗はそれで安心立命を保ったかも知れぬが、他の人々がその特別な恩恵を受けたわけではない」の謂いか?

「印土」インドだろう。

「迦勝王」不詳。

「願爲(ねがはく)は」訓読に自信なし。

「之れを決せん」その温度を正確に測定したいか? よく判らぬ。

「祖」不詳。誰やねん!?! まさか釈迦じゃないよねぇ?

「溫泉と爲すに三緣有りて致さしむ」最後は使役で読んだが自信はない。「真の温泉を生成する起原には三つの異なった所縁があって、それによって温泉となってこの世に初めて出現させられるものなのである」か? 訓読も意味も自信なし。

「建久五年甲寅」一一九四年。]

 

 湯もとの旅舍に、高屋何某と云ふあり。町屋と云ふは、隣にて、共に旅客をとむる湯元の宿なり。此里從來年每の正月と云ふ日には、夥敷(おびただしく)湯人あること、家々皆相撲場のごとし。近鄕遠里在々の者、公納の米を年の大晦日迄に濟ませて、夫(それ)より直(ぢき)に打連れ打連れ、此山中の湯に入來る。必(かならず)正月七日より十二三日迄に、上湯することなり。されば何百人と云ふを家ごとに宿すなれば、家々疊をあげて筵のみを敷き、家を明渡して仕切と云ふも大方はなし。其故は、晝夜となく湯に入りて、寢具と云ふも借らず、人々押合ひ居て、其(その)寒き者は湯にかけ込かけ込み、庭も二階も、都(すべ)て人にて詰たるが如く、何(いづ)れも土民のい賤しき者なれば、宿屋にも貌(かほ)を知ることも能はず。故に取違へて一回り許り隣の家に寢て、立つ時亭主の名を聞(きき)て驚く等のをかしきことのみまゝ多し。

 然るに、享保十二年[やぶちゃん注:一七二七年。]三年の頃にや、是(これ)に付(つき)怪しきことあり。此高屋並びに隣家の町屋と云ふ兩所に分ちて、夥敷(おびただしき)土民の宿しけるが、或夜高屋の奥座敷より

「馬のはなれ込(こみ)ぬ、ふまれな」

とおひ騷ぎけるより、次のの間中の間驚き立ち、夜半過(すぎ)の暗がり紛れ、互ひに踏合(ふみあひ)て、双方

「馬ぞ」

と心得、端の間端の間も大きに騷立(さはぎだち)、

「ゑいやゑいや」

と押合ふほどに、大戶の扉押破りて、門前へ人なだれをついて押出す。此人隣の町屋へも駈込(かけこ)みしにや、又是も奧よりや騷ぎ出けん、

「馬よ馬よ」

と云ひ騷ぎて、是も同じく漸々(やうやう)と門前へ逃出(にげいづ)る。其内には

「馬のふまれたり」

とて、大きになげく者あり。

「かみつかれたり」

と覺ゆる者は猶多かりける。

[やぶちゃん注:以上の最後の部分、国書刊行会本では『其の内には「馬のふまれたり」とて、大きになげく者有(あり)。「かみつかれたり」と肩をかゝへ打臥すものも有(あり)。「蹴られたり」と覚ゆるものは猶(なほ)多かりける。』となっている。]

 二時[やぶちゃん注:「ふたとき」。四時間。]許にて、漸々と靜まりける。取分(とりわけ)て高屋の旅人あやまちする人多かりける。夜明て色々吟味すれども、馬の入るべき樣(やう)もなく、又近鄕に「馬のはなれたり」と云ふ沙汰もなし。奧の間の人の寢おびれたる[やぶちゃん注:寝ぼけた。]夢にてぞありけん、ふしぎに此騷ぎとは成りたりける。

 驚く心發しては、山の樹も敵(かたき)とは見えけん。彼(かの)「徒然草」に有るも、鬼になりたる者の京へ登りしとや云ひける。皆是時の人の氣に感じては、ふしぎの變もあることにこそ。

[やぶちゃん注:最後のそれは「徒然草」の第五十段の以下。

   *

 應長[やぶちゃん注:一三一一年~一三一二年。]の頃、伊勢國より、女(をんな)の鬼(おに)になりたるをゐて上りたりといふ事ありて、その頃二十日(はつか)ばかり、日每に、京・白河の人、「鬼見に」とて、出でまよふ。

「昨日は西園寺にまゐりたりし。」

「今日は院へまゐるべし。」

「たゞ今はそこそこに。」

など言へども、まさしく見たりといふ人もなく、虛言(そらごと)と云ふ人もなし。上下(じやうげ)ただ鬼のことのみいひやまず。

 その頃、東山より安居院(あごゐん)の邊(ほとり)へまかりはべりしに、四條よりかみざまの人、皆、北をさして走る。

「一條室町に鬼あり。」

とののしりあへり。今出河の邊(ほとり)より見やれば、院の御棧敷(おんさじき)のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり。『はやく跡なきことにはあらざんめり』とて、人をやりて見するに、おほかた、逢へる者なし。暮るるまでかくたちさはぎて、はては鬪諍(とうじやう)起りて、あさましきことどもありけり。

 その頃、おしなべて、二、三日、人の患(わづら)ふことのはべりしをぞ、

「かの鬼の虛言は、このしるしを示すなりけり。」

といふ人もはべりし。

「應長」一三一一年~一三一二年。

「京・白河」単に「京」と言った場合は賀茂川西一帯を指し、その「京」の東が「川原」で、「白河」(白川)はその北を意味し、「京・白河」で京都中の意となる。

「西園寺」元左大臣西園寺公衡(きんひら 文永元(一二六四)年~正和四(一三一五)年)が邸宅を構えていた。関東申次として大覚寺統・持明院統問題に際し、権力を揮ったが、後宇多上皇の意志に反した親王擁立に動いたことで勘気を被り、大覚寺統から忌避されるようになり、晩年の権勢は衰えていた。また、彼はこの応長元年八月二十日に出家している。

「院」この場合は花園天皇の院政を執った伏見院を指す。洛南の離宮伏見殿に住んだ。

「安居院」京の北方の地で、昔の比叡山東塔の竹林院の里坊(宿坊)があった地。現在の京都市上京区大宮通にあったが、廃絶した。

「四條よりかみざまの人」四条通りよりも北の方に住む人。

「一條室町」現在の京都御所北西附近。

「今出河」今出川。京都市内の東北。

「院の御棧敷」院が賀茂の祭を見るために作られる桟敷の設けられる場所。

「はやく跡なきことにはあらざんめり」満更、根も葉もないことというわけでも、ないかも知れぬ。

「その頃、おしなべて、二、三日、人の患(わづら)ふことのはべりし」この年の春の三月から五月にかけて、京では伝染病が猛威を揮った(当時はこれを「田楽病」「三日病」と呼んだらしい。田楽舞の流行と軌を一にしていたからであろうこと(外部からの保菌者の有意な侵入)、「三日」が病態の期間を指すものとするなら、今も「三日ばしか」と呼ぶ風疹であった可能性が疑われる)。実はこの流行時は延慶四年中で、同年四月二十八日(ユリウス暦一三一一年五月十七日)に応長に改元したのも実はこの疫病によるものであった。しかし、ということは、その流行病(はやりやまい)がある前に予兆としてこの流言飛語が起こったと読まないとおかしいから、この都市伝説「鬼が来た!」事件は、叙述を厳密に信頼するなら、延慶四年の正月から三月の間の閉区間に起こったと考えてよいように思われる。]

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