三州奇談卷之一 砥藏の靈風
砥藏の靈風
慶長の頃、山口玄蕃(げんば)かたく籠りしは、則(すなはち)大聖寺也。其子右京戰死せし鐘が丸は、今の關所の上の山なり。曾て聞く、加州の大守利長公、慶長五年八月五日山口父子が城を攻(せめ)給ふに、城兵も聞ゆる勇兵なれば、爰(ここ)を先途(せんと)と防ぎ戰ひしに、加州の先手富田藏人(とみたくらうど)、此鐘が丸に一番乘して手柄をふるひ討死す。是より城中かたふき立(だち)ちて、終に落城に及ぶ。
此富田藏人は、はじめ豐臣秀次公に仕ふ。秀次沒後に追腹の中に有ながら命をのがれしを、諸人嘲つて腰拔(こしぬけ)と呼び、久敷(ひさしく)浪人して有しを、我邦の先君利家公聞給ひ、
「勇士も一度の不覺は有物(あるもの)ぞ。諸人の口にあざけるは論ずるに足らず」
とて、一万石に召出され、終に此所(このところ)の軍に戰沒して美名高く、先君(せんくん)人を試み給ふ明(めい)、又天下に先(さきだち)ていちじるし。
山口玄蕃は平日しはき者にて、金銀多く貯ふ。城既に落入らんとする時、其子右京亮來りて曰く、
「我君年頃士を輕んじて金銀を重んじ給ふ。今日いかんぞ金銀を出して戰かはしめざるや。我か子ながらも、日頃の恩愛薄しと雖も、子たるの道遁れざる所ぞ。早々御覺悟候へ。御先(おんさき)致すべし」
とて、則(すなはち)敗軍を引て打て出で、快く討死する。
此時、右京の乳母共(とも)に戰場に臨んで討死す。剛强の働(はたらき)して、敵軍終に女たる事を知らずと云。
山口玄蕃は、兼て「利長公攻來り給はゞ鐵砲にて撰(えら)み打(うち)にすべし」
とて、所を考へ藁人形を立て、是を試むるに一つも外さず。
此日、利長公鯰尾(なまづを)の甲(かぶと)にて采配を取て下知し給ふを、慥に夫(それ)と見濟(みすま)し、彼(かの)鐡砲を構へ、二度迄切て放しけるに、鯰尾の甲の光、日の色に相映じて水筋にうつりきらめきて、目當(めあた)りをたがへ、二度ともあたらず。玄蕃運(うん)の叶はざるを知りて自害し果ぬとかや。
其水筋今は城下の町中なり。「鯰橋」といへり。
是より南に當りての坂下(さかのした)村と云ふに、「砥藏山(とくらやま)」と云ふあり。奇麓の地なり。小さき祠あり、何を祭ることを知らず。山の間砥石多く有りて、用ふる時は甚だ用をなす。されども、昔より此砥石を採ること、氏神の嫌ひ給ふとて採らず。若(もし)猥(みだり)に此砥藏山の石をとれば、忽ち大風起りて田畑荒れ、五穀實らず。故に强慾の商人は、米穀の買入をしては密(ひそか)に此事をなす。甚だ村里の難儀に及ぶ。是に依て夏の終より秋の末迄は、村々より番を附置(つけお)き、人の往來を赦さず。若(もし)常の日にても、强て砥石のほしき時は、夫より大きなる石を持行き、替て來る時は大風の災なし。又大風起る時、盜みし砥石を戾せば風忽ちに止むと云ふ。今猶最上の砥石累々として樹間に滿々たり。或人云ふ、
「是は山口玄蕃を祭る所なり。故に吝嗇(りんしよく)の氣今にあるなり」
と。誠にてや侍らん。
[やぶちゃん注:「砥藏」「とくら」。
「慶長の頃、山口玄蕃かたく籠りしは、則(すなはち)大聖寺也」山口玄蕃(げんば)は豊臣秀吉の家臣で加賀国大聖寺城(位置は後の「鐘が丸」注のリンク先を見よ)主であった戦国武将山口宗永(天文一四(一五四五)年~慶長五(一六〇〇)年八月三日)。ウィキの「山口宗永」によれば、天文一四(一五四五)年に『山口光広(甚介)の子として誕生。豊臣秀吉に仕え』、文禄二(一五九三)年、『大友義統』(よしむね)『の改易に伴い』、『豊後国に入り』、『太閤検地を実施』した。慶長二(一五九七)年、『小早川氏を継いだ秀吉の甥・小早川秀秋の補佐するため』、『豊臣政権から付家老として送り込まれ、小早川領にて検地を行ったり、慶長の役では朝鮮に渡って秀秋を補佐した。特に蔚山城の戦いでは小早川勢を率いて加藤清正らの籠城する蔚山倭城を救援したという。しかし、秀秋とは折り合いが悪く、秀秋が』慶長三(一五九八)年に『筑前国名島城から越前国北ノ庄城へ転封されると、加賀大聖寺城の独立大名に取り立てられた。その後、秀秋の転封は取り消され』、『旧領に戻ったが、宗永は加賀に留まった』。慶長五(一六〇〇)年の『関ヶ原の戦いでは、宗永は石田三成の西軍に与した』。七月二十六日に『東軍の加賀金沢の』前田利長(永禄五(一五六二)年~慶長一九(一六一四)年:加賀藩第二代藩主。藩祖前田利家の長男)は約二『万の軍を率いて金沢城を出撃し、西軍の丹羽長重の拠る小松城を攻撃するかに見えたが、急遽これを避け』、八月一日、『加賀松山城に入城した。宗永はその危急を聞いて大聖寺城の防備を堅め、北ノ庄城の青木一矩や小松城の丹羽長重に救援依頼の使者を出したが』、『間に合わなかった。翌』二『日、利長は九里九郎兵衛・村井久左衛門を使者として宗永に降伏を勧告したが、宗永は憤激し』、『これを拒否した』ため、『前田勢は城攻めを行った。守る山口軍も宗永の嫡男・修弘』(ながひろ)『が城近くに兵を潜ませて迎撃の指揮をとったが、前田勢の先鋒山崎長徳に発見され』、『敗北、山口勢は敗残兵を収容し』、『ただちに篭城戦の構えをとった。前田勢も先鋒の山崎隊に加えて長連龍隊などの後続の軍勢も参戦して城の外周で戦闘が展開された。修弘は果敢に出撃して前田勢に被害を与えたが、前田勢の鉄砲隊の一斉射撃を受けて、城内に退却』、『前田勢は押し進むが、宗永父子が率いる山口勢も反撃した。しかし』二万の軍の前に五百余の『兵しかいない山口勢では敵うはずもなく、ついに宗永は塀の上から降伏の意思を伝えた。ところが、多くの兵を失った前田勢はこれを許さず、城内に突入』、八月三日夕刻、『大聖寺城は陥落、宗永・修弘父子は自害』討死したとする。『宗永と修弘の墓は石川県加賀市大聖寺神明町にある全昌寺』(ここ(グーグル・マップ・データ))『にある』とある。
「其子右京」「右京亮」は宗永の長男山口修弘(生年未詳~(父に同じ))。父同様秀吉の家臣で長刀の達人。
「鐘が丸」旧大聖寺城の郭(くるわ)の一つ。跡が残る(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「今の關所」鐘が丸の北東山麓に現在、石川県加賀市大聖寺関町があるが、名の通り、ここが大聖寺の関所番所の旧地である。サイト「文化遺産オンライン」のこちらで確認出来る。
「慶長五年八月五日」日にちのズレはママ。筆写本も同じ日付。単に、もと、「三日」と書いてあったものをみな誤写したものかも知れぬし、当時はこの日付が正しいと認識されていたのかも知れない。しかし、やや不振が残る(後述)。
「爰(ここ)を先途(せんと)と」この連語で、「勝敗・運命などの大事な分かれ目・瀬戸際」の意で用いられることが多い。
「富田藏人」富田高定(?~慶長五(一六〇〇)年八月四日)のこと。伊勢安濃津(あのつ)城主富田一白の子として生まれた。三好康長の家臣で、羽柴秀吉の甥が三好信好(秀次)として養子となった頃から近侍して仕えたその後、秀次が養家を去る際についてきた「若江衆」の一人となった。天正一八(一五九〇)年には秀次より伊勢国飯野郡宮田村において二千二百九十二石の知行を与えられた。しかし、文禄四(一五九五)年七月に『秀次切腹事件があり、殉死しようと決心して京都の千本松原を死に場所に定めたが、死装束で大勢の群衆や友人等と別れの杯を重ねているうちに泥酔して、切腹を果たせぬまま昏倒した。これが人々に知られることになって、秀吉に咎められ、濫りに殉死を試みた者は三族を誅すとの命令が出された。このため』、『太閤の怒を憚って、自ら京都西山に幽居した』。『しかし秀吉の死後、前田利長がその将才を惜しみ、群臣の反対を押し切って』、一『万石で召し抱えること』なった。『関ヶ原の戦いでは、東軍の前田勢は加賀国に侵攻』、『高定は侍大将として先陣を務めて奮戦した。西軍の山口宗永・弘定親子を撃破して大聖寺城内に攻め込む追撃戦で先駆けし、一騎当千の働きを見せたが、ついには討死した』とウィキの「富田高定」にある。ちょっとこの没日が気になる。これだと、彼は奮戦したが、その場では亡くならず、山口親子の討死を知って安らかに亡くなったことになる。しかし本文の「是より城中かたふき立(だち)ちて、終に落城に及ぶ」や、「八月五日」という日付から見ると、この日付は自然である。しかし、そうすると、山口親子の没日の「八月三日」の方が怪しくなってくるのである。
「しはき者」「しはき」は形容詞「吝(しは/しわ)し」で、「出すべき金などを惜しんでなかなか出そうとしない・吝嗇(けち)だ・しみったれだ」の意。なお、これは現行でも西日本で使用され、近世以降の語であって、歴史的仮名遣も「しはし」か「しはし」かは不明である。
「撰(えら)み打(うち)」狙い撃ち。
「所を考へ」一発必中で即死を得られる部分を熟考し、の謂いであろう。
「鯰尾(なまづを)の甲(かぶと)」当世兜(「当世」は戦国時代以後に普及した甲冑具足類を江戸時代に呼称する際に被せた謂い)の鉢の形の名。鉢の天辺を細長く扁平に高く仕立てたもの。グーグル画像検索「鯰尾 兜」で先代利家愛用のものであるが、複数出る。
「水筋」通常は川の流れ。現在も大聖寺城跡の周囲には、すぐ北側を流れる大聖寺川から分流させたもの(或いは旧蛇行流路)と思われる流れが複数、近くの町屋の域内に認められる。
「鯰橋」大聖寺地区まちづくり推進協議会制作のサイト「大聖寺 十万石の城下町」の「北国街道を歩く 其の参 (本町から西町)」のルート解説の中に、『本町との境の旧熊坂川に架かる鯰橋は、藩邸の外堀整備で同川を改修したとき鍛冶町から移されました』とある。同ページに地図があるが、その「B」の部分が現在の「鯰橋」で、そこを画面中心に持ってきて、少し拡大すると、「B」の流れの上流(東方向)に「大聖寺鍛冶町」がある。しかし、ここは大聖寺城陣屋跡からでも五百五十メートル以上あって、利長を狙撃し得る射程にはない(当時の火縄銃では特定狙撃の有効射程距離は長くても百メートルほどであろう)。
『是より南に當りての坂下(さかのした)村と云ふに、「砥藏山(とくらやま)」と云ふあり。奇麓の地なり。小さき祠あり、何を祭ることを知らず』不詳。地名・山名として現存しない。山自体が存在しない可能性もあるかも知れない。遠くない位置で何となく匂うのは、鍛冶町から南南西三百六十メートルほどの直近にある大聖寺地方町の「大聖寺 ふれあい広場 古九谷の杜」か。現在、鍛冶町から近場で緑があるのはここぐらいなものである。国土地理図では神社記号も直近にある。砥石を古九谷と見紛うことはあるまいが、その破片でも昔ここから出たならば或いは……などと夢想したのである。もっと離れた南西の丘陵の麓もあるが、ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)には前から何度も本文に出ている全昌寺があるから、筆者なら、その近くと言うのが自然であろうと思う。ともかくも識者の御教授を乞うものである。【2020年1月27日:削除・追記】T氏より電子化して下さった情報を戴いた。「石川県江沼郡誌」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の「西谷村」の「○日置神社」の項に、
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○日置神社。字坂下[やぶちゃん注:現在、山中温泉坂下町があるが、元の坂下集落は九谷ダムに水没している。]に在り、村社にして天押日命[やぶちゃん注:「あめのおしひのみこと」。]を祭る。古へ砥倉山の麓に鎭座したりが、後世今の處に遷座すといふ。式内社にして俗に風の宮とも砥倉の宮とも稱へき。風の宮といふは、人若し神社の境内を穢しなどせば、大風忽ち吹き起ると傳へしによる。故に米商人等米價釣上[やぶちゃん注:「つりあげ」。]を策せんとする時は、此の宮に來りて惡戯をなし、神怒により暴風を起さしめんとするものあり。爲に往時は村の入口に番人を置きて警戒せしめしことあり。その警備の費用は之を藩より下賜せられたりといふ。
〔大日本史[やぶちゃん注:「神祇志」の条。]〕
日置神社、今在片谷[やぶちゃん注:「へきたに/へぎだに」。この村もダムに水没した。]坂下二村界、稱砥倉明神、蓋是、按片調幣伎、與日置相通、
[やぶちゃん注:最後は「按ずるに『片調・幣伎』、「日置」と相ひ通ず」と訓ずるのであろう。「片調」はちょっと不明だが、「幣伎」は「古事記」に「へき」と出、「日置」を「へき」と読めるから、「片調」も「へき」か。]
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とあり、国土地理院地図では、恐らく、この付近に相当すると指示して下さった。但し、『「砥藏山」の位置は不明』とのことである。ダム湖の中央に架かる橋が「日置大橋」、東北位置の山上に「坂ノ下峠」の地名を確認出来る。T氏がトリミングして下さった湖底に沈む前の地図をい以下に添える。
或いは、この付近のピークの一つででもあったのであろう。]
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