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2020/01/16

譚海 卷之三 御讓位の節の事

御讓位の節の事

○往古は天子の寶璽(ほうじ)六つありしが、亂世をへて悉く紛失せりとぞ。今世もし一つを得て奉る人あれば、宮人に拜せられるゝといへり。天明五年[やぶちゃん注:ママ。]春、筑前黑田氏領所叶崎(かなのさき)と云所にて、地を掘て金印壹を得たり。倭奴國王(かんのわのなのこくわう)の四字有、後漢孝武帝[やぶちゃん注:ママ。]賜るもののよし。當時筑紫に熊襲(くまそ)有て、使を通じたるに賜りたる者にやと云り。

○御讓位の時、院の御所へうつらせ給ふ御供に、時の關白殿束帶にて、三種の神寶を隨身(ずいじん)有。同じ院の御所へ參られ、直に又新帝へ神寶を御渡有由にて、關白殿引返し神寶を持歸り、禁中へ納めらるゝ也。院の御所へ御移の時鳳輦(ほうれん)也。舁(かく)所の棒四角に稜ありて、殊に重きやうす也。數十人にて舁事にして、舁人は皆地子(ぢし)免許の町人勤(つとむ)る也。是は前年出火の時火内裏に及しに、駕輿丁間にあはざる事ありしを、京都の町人走り參り、鳳輦を舁てのけ奉りし勞によりて、長く地子免許ありしより、今に鳳輦をば此町人かく事になれりとぞ。京都の町人地子免許の者は、門に諸役免許の札をかけ置也。

[やぶちゃん注:目録から、二つを並べて採った。

「天明五年春」金印の発見は現在は天明年間(一七八一年~一七八九年)とし、或いは天明四年二月二十三日(一七八四年四月十二日)に限定する説もあるウィキの「漢委奴国王印」に拠る)。

「筑前黑田氏領所叶崎(かなのさき)」これは博多湾に突き出た現在の福岡県福岡市東区大字志賀島(しかのじま)の叶浜(かのうがはま)(グーグル・マップ・データ)である。ウィキの「漢委奴国王印」には、大正三(一九一四)年に『九州帝国大学の中山平次郎が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定した。その推定地点には』大正一二(一九二三)年に『「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された』。しかし、その後、第二次世界大戦後、二回に亙って『志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出された』。『ただし、志賀島には金印以外の当時代を比定できる出土品が一切なく、志賀海神社に祀られる綿津見三神は漢ではなく』、『新羅との交通要衝の神であり直接の繋路はまだ見出されていない』。後に二回、『福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されている』とある。しかし、「福岡市博物館」公式サイト内の「金印」によれば、『出土地について文献には「叶崎(かなのさき)」と「叶ノ浜」の二通りの記述が登場します。ここにいう「叶崎(かなのさき)」は「叶ノ浜」に含まれる海に突き出た部分と考えられます。金印の出土地点を最初に推定したのは病理学者でもあった九州考古学の草分け中山平次郎で、大正時代の初めのことです。その根拠となったのは古老の記憶と志賀海神社宮司の安雲(あずみ)家に伝わる『筑前国続風土記附録』の付絵図の描写によるものでした』とあって、さらに『金印の出土地は中山平次郎が推定したように石碑から海に向かって右斜め前に行ったところとするのが妥当のようです』とある。現在の「金印公園」は東区大字志賀島内であり、リンクの地図でも判る通り、現在の叶浜よりもやや南東の位置にある。まあ、古くはこの金印公園から現在の大字叶浜一帯を「叶浜」と呼んでいたと考えれば、齟齬はない。因みに、「叶う」というのは「大きな船が停泊することが叶う浜」という意味であろうという記載を個人ブログ「ひもろぎ逍遥」のこちらで見出せた。また、ウィキによれば、『水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち』、『金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に』人為的に『隠されていた』(太字下線は私が附した)ということになる。『発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は』「後漢書」に『記述のある金印とはこれのことであると同定し』、「金印弁」という『鑑定書を著している』とある。ここに出る「後漢書」のそれは「卷八十五」の「列傳卷七十五 東夷傳」にある、

   *

建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬

(建武中元(けんぶちゆうげん)二年、倭奴國(わのなのくに)、貢を奉じて朝賀す。使人、自ら「大夫」と稱す。倭國の極南の界(さかひ)なり。光武、賜ふに印綬を以つてす。)

   *

を指す。「建武中元二年」は紀元後五十七年に相当する。また、ウィキには『九州王朝説』(歴史学者古田武彦によって戦後に提唱された七世紀末まで九州に日本を代表する王朝「邪馬台国」があり、太宰府がその首都で、それが倭国の前身であるとする説。但し、現在は学問的にも邪馬台国論争でも支持されていない)『では、皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い』『(金印は陪臣に与えるものでない)こと』、『及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」=「倭国王」に与えられたものである。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはなく、卑弥呼が賜ったとされる金印も「親魏倭王」であり』、『倭王に対して下賜されたものである。「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の国璽として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が使われ続け、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたとし、従って「漢委奴國王」印の最後の所有者は卑弥呼であったと』している(いた)とある。

「後漢孝武帝」後漢王朝の初代皇帝光武帝(紀元前六年~紀元後五七年)の誤り

「筑紫」(ちくし/つくし)福岡県のほぼ全域を指す古称であるが、さらに古くは九州全体或いは九州中南部を称する語でもあった。ここは後者で採るべきか。

「熊襲(くまそ)」記紀の伝承では、九州中南部に住み、長く大和朝廷に服属しなかった種族とされ、「風土記」では球磨噌唹(くまそお)と連称しており、「くま」は肥後国球磨郡地方を、「そお」は大隅国噌唹郡地方を指す。熊襲はこれらの地方に勢力を揮った種族と考えられるが、確かなことは不明で、人種・民族の系統も不詳ながら、隼人(はやと)族(古代南九州に居住していた部族。主として大隅・薩摩地方を根拠地としていた。五世紀中頃には大和朝廷に服属し、勇猛敏捷であったため、徴発されて、宮門の警衛や行幸の先駆などを勤めた)と同一種族で、南方系民族とする説もある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

【二条目】

「隨身」身辺に供としてつき従うこと。

「鳳輦」屋形の上に金銅の鳳凰を飾りつけた輿(こし)。土台に二本の轅(ながえ)を通し、肩で担(かつ)ぐ。天皇専用の乗り物で、即位・大嘗会・御禊(ごけい)・朝覲(ちょうきん)・節会などの晴れの儀式の行幸に用いた。

「地子(ぢし)免許」「地子」は「ちし」とも読み。律令制下に於いては、諸国の官有地を農民に貸し付けて上納させた地代を指し、定額は収穫の五分の一であった。位田・職田・没官(もつかん)田・乗田など、地子を納める田を「輸地子田」といった。荘園制下の地子は、田地に課せられる年貢に対して、公事、殊に畑や屋敷に課せられる税を意味し、銭による納入の場合が多かった。江戸時代に於いては、地子は専ら、町屋地に課せられる税の意に用いられ、銀或いは銭を以って納めた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ここはそれを納める義務を朝廷から公式に免除されたことを指す。

「前年」「さきのとし」で、広義の記載時よりも前の年の謂いで、これは宝永五年三月八日(一七〇八年四月二十八日)に京都で発生した「宝永の大火」であろう。禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上し、九条家・鷹司家を始めとする公家の邸宅や、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした四百十七ヶ町、一万三百五十一軒が焼けた。天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に発生した天明の大火でも御所が延焼しているが、本篇は「譚海」の「卷三」所収なわけだが、底本の竹内利美氏の解題によれば、「卷二」から「卷四」は最新記事でも天明五年が下限であるから、それではない。

「丁間」「ちやうかん(ちょうかん)」或いは「ちやうけん(ちょうけん)」であろう。「丁」は「町」で「町屋」、庶民の住む区画の謂いで、「間」はその街路の幅のことと思われる。ここは鳳輦が大き過ぎて、町屋の間を抜けて避難する(本文の「のけ」(退く))際に難渋したのを、その町人たちが自発的に担いで渡し、ことなきを得たことを指していよう。]

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