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2020/01/12

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戸澤正保訳)/その「六」から「九」/「柔術」~了

 

[やぶちゃん注:本篇の書誌や私の凡例は前の『小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戸澤正保訳)/その「一」から「五」』を参照されたい。]

 

       

 日本は間もなく基督敎の採用を世界に宣言するだらうとの豫想は、往時の他の豫想程不道理なものではなかつた。けれども今になつて見ると一層不道理であつたやうに思はれる。そんな大きな期待を基づけるやうな前例は何處にもなかつたのだ。東洋人種で基督敎に改宗したものは未だ甞てなかつた。英國治下の印度に、舊敎宣傳の大努力も遂に水泡に歸した。支那では二百餘年の傳道の後、基督敎といふ名さへも嫌惡せられるに至つた――それも理由なしではない。西敎の名で支那に對する幾囘かの侵掠が行はれたからである。近東の方面でも東洋民族の改宗事業はさつぱり捗(はかど)らない。土耳其人[やぶちゃん注:「トルコじん」。]、アラビア人、モーア人或は何れの同敎徒をでも改宗せしめ得る望みは露程もない。猶太人改宗協會の思ひ出の如きはただ一笑を博するに足るばかり。併し東洋人種を度外に措いても、我等は誇るに足るべき改宗事業は爲してない。近代史の範圍内では基督敎國は、苟くも國民的生活を維持し得るの望みある民族に、其敎理を採用せしめ得た例はないのである。二三の蠻族或は滅亡しつつあるマオリ種族の間に於ける傳道の、名目計りの成功の如きが、通則であるに渦ぎない。那翁[やぶちゃん注:「ナポレオン」。]の所謂宣敎師は政略上大いに有用なることありといふ、少しく皮肉な宣言にでも聽かぬ限り、我等は外國傳道會社の全事業は何の效果もなき精力と、時間と、金錢との大浪費に外ならぬといふ結論を避くる事が出來ぬ。

[やぶちゃん注:「モーア人」“the Moors”。モロッコ・モーリタニアなどのアフリカ北西部に住み、イスラム教徒でアラビア語を話す人々の称。本来はマグレブの先住民ベルベル人を指したが、十五世紀頃からはイスラム教徒全般を指すようになった。

「猶太人」(ユダヤじん)「改宗協會」原文“the Society for the Conversion of the Jews”。侮蔑的な“Jews”と前後から、ユダヤ教徒をキリスト教に改宗させる組織らしいが、この英名ではヒットしない。但し、平井呈一氏の恒文社版「柔術」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)でも『ユダヤ人改宗協会』と訳されてある。識者の御教授を乞う。

「マオリ種族」原文“Maori races”。底本は実は「マリオ種族」とあるが、誤記或いは誤植と断じて、特異的に「マオリ」と訂した。しかし平井氏も『マリオ』とやらかしているし、ネット上にも驚くべきことに「マオリ族」の真面目な記載で「マリオ族」が氾濫しており、一人の筆者が「マオリ」と「マリオ」を混淆して記載しているものも認められる。ウィキの「マオリ」によれば、マオリ(マオリ語ラテン文字転写:Māori)は、『アオテアロア(ニュージーランド)にイギリス人が入植する前から先住していた人々で』、『形質的・文化的にはポリネシア人の一派をなす。マオリとは、マオリ族の用いる言語マオリ語では本来』、『「普通」という意味で、マオリ自身が西洋人と区別するために』「普通の人間」という『意味でTangata Maoriを使い出したにもかかわらず、イギリス人が発音しにくいという理由で、Tangata(=人間)ではなくて、Maoriを採用したのが由来とされる』とある。「ブリタニカ国際大百科事典」の「マオリ族 Maori」には(コンマを読点に代えた)、『ニュージーランドのポリネシア系先住民。初期の移住は』九『世紀以前に行なわれたと考えられ』、一三五〇『年頃』、『再びタヒチ方面より大移住があり、それとともにマオリ文化の開花をみた。伝統的社会組織の最大単位ワカ(部族連盟)は、伝承のうえで』は、十四『世紀に大船団を組んで来島した際』、『船を同じくした者の子孫により形成されている』という。『社会的に機能する最大単位は、先祖を共有するイウ(部族)であるが、土地を共有するなど』、『日常生活に最も重要なのは、その下位集団のハプウ(氏族)であった。砦を中心に村落を形成し、サツマイモ、ヤムイモ、タロイモ、ヒョウタンなどの掘棒耕作や森林採集などを生業としていた。マオリの彫刻技術は有名で、村の集会所は多くの神像や螺旋文様で飾られていた。最高神イオ、森林神タネ、海神タンガロアなどを信仰していたが、現在ではキリスト教化している。人口はニュージーランド総人口の約』十五『%を占め(『二〇〇七年現在『)、伝統文化を尊重するとともに、近代文化に巧みに適応した生活を送っている』とある。]

 

註 名目計りと云つたのは、傳道の眞の目的達成は單に不可能であるといふ事實に基づくのである。此問題は、ハアバアト・スペンサアに依つてつぎの數行に明瞭に論斷されて居る。――「何處にても特殊の敎義の伴なふ特殊の神學的傾向は多くの社會問題を斷ずるに偏頗に流るゝは避く可からず。或る一の信條を絕對的に眞なりと考へ、從つて他の之と異る信條を絕對的に虛譌[やぶちゃん注:「きよか(きょか)」。偽り。インチキ。]なりと考ふる者に在つては、一信條の價値は相對的のものなりとの推定を爲す能はず。各宗敎に大體に於て、其宗敎の存在する社會の部分的一要素なりとの考へ外道として忌み退け、彼の獨斷的なる神學的系統は凡ての場處凡ての時代に適合するものなりと考ふ。彼は之を蠻族の中に移し植うるも適當に了解せられ、適當に歸依せられ、而して自身經驗せるが如き結集を彼等の上に及ぼすことを疑はず。此の如き偏見に捉へらるゝが故に、彼は凡て民族は其天分より高き政體を受け入るゝこと能はざるが如く、分に過ぎたる宗敎をも受け入るゝこと能はず、强ひて之を受け入れしむれぱ、政體と同じく、名目計りは同じくも實質は甚だしく劣等なるものに堕するといふ實證を閑却するなり。換言すれば彼の特殊なる神學的傾向は彼をして社會學的眞理の重要なるものに盲目ならしむ」

[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサア」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者・倫理学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。以上は彼の一八七三年刊の「社会学の研究」(The Study of Sociology)の“CHAPTER XII. the theological bias.”(「神学上の偏見」)の一節。]

 

 十九世紀の最後の十年期といふ今日に於ては、兎に角其理由は明白である。宗敎といふものは超自然に就ての一獨斷說である計りでない。一人種の全倫理的經驗、多くの場合に於ては其賢明なる國法の基礎となりたる太古の傳說、及び其社會的發展の記憶竝びに結果、此等のものの綜合されたものが宗敎なのである。されば宗敎は本質的に種族的生活の一部分で、他の全く異れる種族の倫理的、社會的經驗に依つて――換言すれば外國の宗敎に由つて、取つて代はらる〻は常道でない。又健全な社會狀態にある國民は、其倫理的生活と深く契合[やぶちゃん注:「けいがふ(けいごう)」。合わせた割り符のようにぴったりと一致すること。]せる信仰を自ら進んで棄てられるものでない。或る國民は其敎條(ドグマ)を改造する事はあらう、進んで他の信仰を受け入れる事さへもあらう。併し進んで古い信仰を棄てる事はあるまい、縱令其古い信仰は倫理的にも社會的にも無用の長物となつて居るとしてもである。支那が佛敎を入れた時、支那は古聖賢の經書をも、原始的の祖先崇拜をも棄てはしなかつた。日本が佛敎を入れた時も、日本は神の道を棄てなかつた。古代歐羅巴の宗敎史にも同樣の例は擧げられる。尤も寬容な宗敎のみが、其宗敎を生み出した民族以外の民族に入れられる。但しそれは既存の宗敎の外に追加せられるので、既存のものに、取つて代はるのではない。古代佛敎傳道の大いに成功せし所以は其處に在る。佛敎は他宗敎を吸收はしたが取つて代はる事はせなんだ。他信仰を其廣大な組織の中に合併して、之に新しい釋義を與へたのである。然るに囘敎と基督敎――西部基督敎――とは始終不寬容の宗敎であつて、何物をも合併せず、凡てに取つて代はらうとのみした。基督敎を入れるには、特に東洋の一國に入れるには、其國在來の信仰の破壞のみならず、同じく在來の社會組織の破壞をも必然に惹起す[やぶちゃん注:活用形はママ。]事になる。然るに歷史の敎ふる所に依れば、こんな大袈裟な破壞はただ暴力に依つてのみ成就される。若し非常に進步した社會ならば、尤も殘忍な暴力を要する。過去に於て基督敎宣傳の重な道具であつた暴力は、今でも我等が傳道の背後に存する。只だ我等は露骨な劍鋒の代はりに、金力と威嚇とを置き換へた、或は置か換へた振りをする。折々は基督敎徒たる事の證據に商業上の理由で其威嚇を遂行する。例せば我等は戰爭に依つて强要した條約の條項に於て、宣敎師を支那に强ひつける。そして砲艦で彼等を掩護し、自ら進んで殺された人間の生命に、莫大な償金を强請する。だから支那は何年每かに代償金を拂はせられ、我等が基督敎と稱するものの價値を年と共に學びつつある。かくてヱマースンの、眞理は或る者には事賞で證明せられる迄は了解せらる〻事なしといふ金言が、最近支那の正直な抗議に依つて證明せられた。其抗議といふのは支那に於ける宣敎師の侵害の無道を責めたものである。宣敎師騷ぎは遂に純粹の商業的利益に惡影響を及ぼすであらうと云ふ事が發見せられなんだら、此抗議も決して傾聽されなかつたあらう。

[やぶちゃん注:「ヱマースン」アメリカの哲学者・作家・詩人ラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson 一八〇三年~一八八二年)。引用元は不詳。]

 併し以上の所論にも拘らず、實際一時は日本の名目だけの改宗は可能と信ぜしむべき相當の理由があつた。人は日本政府が政治上の必要に迫られて十六、七世紀の驚くべきジエシユイツト傳道を絕滅せしめた後、基督敎徒といふ語は憎惡と輕蔑の語となつた事を忘るる事は出來ぬ。

[やぶちゃん注:「ジエシユイツト」“Jesuit”。ジェスイットは文字列を見れば判る通り、イエズス会士のことで、ジェズイット教団、即ちイエズス会の異称である。]

 

註 此傳道は一五四九年八月十五日[やぶちゃん注:以上は無論ユリウス暦によるもので本邦では天文十八年七月二十二日であった。因みに、グレゴリオ暦で換算すると八月二十五日になる。]九州の鹿兒島に上陸した聖フランシス・ザビエーに依つて開始された。面白い事にはスペイン若しくはポルトガル語のパドレの轉訛バテレンといふ語は二世紀前に日本語となつたのだが、それが今でも或る地方では民間に殘つて居て魔法遣ひといふ意味に用ゐられる。も一つ記すに足る面白い事は、自分に見られずに家の外の通行人を見る事の出來も一種の竹製の簾がキりシタン(クリスチヤン)と呼ばれる事である。

[やぶちゃん注:最後に出る竹製の「キリシタン」と呼ばれる「簾」というのはネットで検索しても出てこなかった。ご存じの方はご教授願いたい。]

グリツフイスは十六世紀に於けるジエシユイト傳道の大なる成功は、半ば羅馬舊敎の外形と佛敎の外形とが相似て居るに依ると說明して居る。此如才なき推定はアーネスト・サトウ氏の硏究に依つて確證された(「日本亞細亞協會紀要」第卷第二部を見よ)氏は山口の領主大内氏が傳道師に與へた「佛法の說敎」を許すといふ免許狀の模寫を公にした――基督敎は初めは佛敎の高等なものと取り違へられたのである。併し日本から出したりジエシユイト敎徒の文書、或はもつと流布して居るシヤールポアの著書をでも讀んだ人は、傳道の成功がこれで完全に說明されてゐるとは思はぬであらう。此問題は顯著な心理的現象を吾人に示すものである――恐らく宗耽史上に再び反復(くりかへ)される事のあるまじき現象で、ヘツケルに依つて傳染的と宣やられた情緖的活動の珍らしい形式に似寄つて居る。(ヘツケルの「中世の傳染病」を見よ)古ジエシユイト敎徒は近代の傳道會社よりも遙かによく日本人の深い情緖的性質を了解して居た。そして彼等は驚くべき鋭敏さを以つて、種族的生活のあらゆる源泉を硏究し、それか利用することを知つて居た。彼等でさへ失敗した處に現代の福音宣傳者が成功を望むのは無用である。ジエシユイト傳道の最盛時に於てさへ、たつた六十萬人の信者を有したと稱するに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「グリツフイス」ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis 一八四三年~一九二八年)のことであろう。アメリカペンシルベニア州フィラデルフィア出身の理科教師・牧師・日本学者・東洋学者で、ニュージャージー州のオランダ改革派教会系の大学ラトガース大学を卒業したが、同大学で同時期に福井藩から留学していた福井藩士日下部太郎(弘化二(一八四五)年~一八七〇年五月十三日(明治三年四月十三日):卒業二ヶ月前に結核で現地にて急逝)と出会って親交を結び、その縁で来日し、藩主松平春嶽の招きで福井藩藩校であった藩校明新館に化学・物理の教師として赴任した。明治四年七月に「廃藩置県」によって十ヶ月滞在した福井藩が無くなったが、翌年、フルベッキや由利公正らの要請により、大学南校(東京大学の前身)に移り、明治七(一八七四)年七月まで物理・化学及び精神科学などを教えた。明治八(一八七五)年の帰国後は牧師となったが、一方でアメリカ社会に日本を紹介する文筆や講演活動を続け、一八七六年には“The Mikado's Empire”を刊行している(構成は第一部は日本通史、第二部が滞在記)。以上はウィキの「ウィリアム・グリフィス」に拠った)。彼が「十六世紀に於けるジエシユイト傳道の大なる成功は、半ば羅馬舊敎の外形と佛敎の外形とが相似て居るに依ると說明して居る」のが如何なる書かは不詳。

「アーネスト・サトウ」イギリスの外交官でイギリスに於ける日本学の基礎を築いたアーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow  一八四三年~一九二九年)。イギリス公使館の通訳・駐日公使・駐清公使を務めた。日本名を「佐藤愛之助」又は「薩道愛之助」と称した。初期の日本滞在は一時帰国を考慮しなければ実に一八六二年から文久二(一八八三)年に及び、後の駐日公使としての明治二八(一八九五)年から明治三〇(一八九七)年を併せると、延べ二十五年間になる。詳細は参照したウィキの「アーネスト・サトウ」を参照されたい。

『山口の領主大内氏が傳道師に與へた「佛法の說敎」を許すといふ免許狀』「大内氏」は大内義隆と、最後の大内義長(義隆の討ち死にした後に、元大内氏に家臣で討った側の陶晴賢(すえのはるかた)が大友義鎮(よししげ=大友宗麟)の弟を迎え、かく名乗らせて大内家を継がせた)を指す。小泉八雲の遺作となってしまった小泉八雲「日本――一つの試論」(原題“Japan: An Attempt at Interpretation”)の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(61) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅵ)」には後者が発布した免許状が画像で載る。本文も参照されたい。

「シヤールポア」フランス人のイエズス会宣教師ピエール・フランシス・エグゼヴィア・ド・シャルルヴォア(Pierre Francois Xavier de Charlevoix 一六八二年~一七六一年)。一七三六年(本邦では享保二一・元文元年相当)に刊行した「日本の歴史と概説」(“Histoire et description generale du Japon”)が知られる。「国際交流基金情報センターライブラリー」のこちら(PDF)の同書の解説によれば、『シャルルヴォアが布教活動を行った場所は新大陸で、彼自身が日本に来たことはないが、日本への布教に関心が高く、本書以外にも日本のキリスト教史の本も出版している』。『出版に際しては、鎖国以前に書かれた書物や鎖国後に来日したオランダ人を介して知った知識や情報をもとに、文献をまとめて刊行したものと思われ、誤りが多いとの指摘もあるが、当時のヨーロッパ人の日本観に与えた影響は大きい』とある。

「ヘツケル」ドイツの医師で医学史の大家ユストゥス・フリードリッヒ・カール・ヘッカー(Justus Friedrich Karl Hecker 一七九五年~一八五〇年)。「中世の傳染病」(原題は“Die großen Volkskrankheiten des Mittelalters.”)一八六五年に刊行した論文。英訳全文“THE EPIDEMICS OF THE MIDDLE AGES.(「中世の疫学」)がこちらで読める。ハーンの引用箇所は、恐らく八度使用されている“contagious”の最後の八番目、「Ⅴ」のパート内のそこである。]

 

 併し其後世界は變化した、基督敎も變化した。そして三十餘の異れる基敎[やぶちゃん注:短縮表記はママ。]の宗派が、日本改宗の名譽を贏ち得る[やぶちゃん注:「かちえる」。「勝ち得る」に同じい。]に汲々した。正統不正統の重なる[やぶちゃん注:「おもなる」。]異說を代表する、此等多數の敎條(ドグマ)の中から、日本は確に己が好むままの形の基督敎を選み得たのだ。そして國内の事情も西敎の輸入には何時の代よも都合よかつたのだ。社會の全組織が一時中心まで崩壞した。佛敎は國敎たる保護を解かれて、よろめき出した。神道も持ち堪(こた)へはむつかしさうに見えた。大武士階級は廃棄せられた。統治の組織は一變せられた。地方は戰爭に依つて震駭せしめられた。數百年間帷幄の後ろに在しり帝(みかど)は、突然前に現はれ出でて臣民を驚かした。騷然たる新思想の潮は、あらゆる国風を一掃し、あらゆる信仰を破碎せんと威嚇した。そして基督敎の國禁は再び法律に依つて解除された。事は之に留まらなかつた。政府は社會再建の大努力の時に當つて、基督敎の問題を實地に硏究した――丁度外國の敎育、陸海軍の制度を硏究したと同樣に、敏活に虛心坦懷に硏究した。委員を設けて外國に於ける罪惡、不德の防止に鬪する基督敎の勢力を調査せしめた。但し結果は、十七世紀に於ける、蘭人ケンぺルが日本人の道德に就て下した、公平な判斷を裏書するに過ぎなかつた。『彼等は彼等の神に大なる尊崇の念を表し、樣々の方法にて崇拜す。予は思ふ行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]の正しきことに於て、生活の淸きことに於て、而して表面に現はれたる信心深さに於て、彼等は遙かに基督敎徒を凌駕すと附言するを得と』手短に云ふと、彼等は賢明にも、基督敎は、東洋の社會情態に不適切のみならず、西洋に於ても、倫理的勢力としては、佛敎が東洋に於けるよりも有效ならずと斷定した。慥に『人はその父母を離れ其妻に合ふ』べしといふ敎へを採用することは相互救濟の精神の上に立てる、家長本位の家族的社會には、國家経營の大柔術に於て失ふ所多くして得る所少かるべきは、明らかである。

[やぶちゃん注:「蘭人ケンぺル」エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kämpfer一六五一年~一七一六年:現代ドイツ語読みの音写では「エンゲルベアト・ケンプファー」が近い)はドイツ北部レムゴー出身の医師で博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した「日本誌」の原著者として知られる。出島の三学者の一人であるが、戸澤氏はこんな変なところでいらぬサーヴィスをして間違えている。彼はオランダ人ではないウィキの「エンゲルベルト・ケンペル」によれば、『オランダ東インド会社の船医として勤務し』、『その後、東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりを感じていた時に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった。こうしてケンペルはシャム(タイ)を経由して日本に渡』り、元禄三(一六九〇)年に『オランダ商館付の医師として、約』二『年間出島に滞在した』。元禄四年と翌五年には『連続して、江戸参府を経験し』、将軍『徳川綱吉にも謁見した。滞日中、オランダ語通訳・今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した』。彼の没後十一年目の一七二七年に、その遺稿が英訳され、ロンドンで“The History of Japan”として出版された、とある。なお、“Internet Archive”のこちらで当該英訳書(全三巻)を縦覧し、幾つかのフレーズで調べてみたが、ハーンの引用符に相当する一節は見出し得なかった。或いは、ハーンが内容を纏めたものかも知れない。]

 

註 近頃佛國の一批評家は、日本に於て慈善事業や慈善的設備の比較的少きは此人種が人道に缺くる所あるを證するものと斷言した。併し事實は舊日本に於ては相互扶助の精神が、かゝる設備を不必要のものと爲したのである。又西洋に於てかゝる設備の數多きことは、我等の文明が慈悲心よりも寧ろ不人情に富めることを證明するといふのも事實である。

[やぶちゃん注:「佛國の一批評家」不詳。]

 

 敕令に依つて日本を基督敎國とする望みは全く絕えた。社會の建て直しで、基督敎をどんな手段ででも國敎としようとする橋運も段々減少した。今後暫くの間は、多分宣敎師も、彼等の職務以外の事に立ち入るにも拘らず、大目に見られるに相違ない。併し彼等は何等の善事をも成就すまい。そして其間に彼等が利用せんと欲する者に却つて利用せられるだらう。一八九四年[やぶちゃん注:明治二十七年。]には、日本に新敎約八百人、ローマン・カソリツク九十二人、グリーク。カソリツク[やぶちゃん注:“Greek Catholic”。ギリシャ正教会(東方正教会)。]三人の宣敎師が居た。然らば日本に於ける凡ての外人宣敎師の費やす總費用は一年一百萬弗[やぶちゃん注:為替レートは明治二三(一八九五)年で一・一九円、明治二十八年で一・九八円であった。中をとって一・五円として百五十万円、後になるが、明治三十年代の一円は現在の二万円という換算に従えば、三百億円にもなる。]以下ではあるまい――恐らくは以上であらう。此大支出の結果として、新敎の諸派は五萬の信者を得、兩カソリツクも略〻同數を得たと稱する――但し三千九百九十萬の不信者を殘してである。宣敎師の報告は嚴密に批評せぬのが風習になつて居るが實は惡るい風習だ。其風習に背いて自分は露骨に云ふが、以上の數字でさへ全く當てにはならぬ。ローマン・カソリツクの宣敎師は、遙かに小なる資金で、彼等の競爭者と同じ程の功續を擧げたと稱するのは注目に値ひする。そして彼等の敵さへも其功績の確實さを承認するのであるが、彼等は先づ小兒の敎化より始めるのは確に合理的だ。併し宣敎師の報告に全く疑を懷かぬ譯には行かぬ。それは最下級の日本人の中には、金錢の補助若しくは職業を得る爲めに改宗を誓ふことを辭せぬ者が澤山あるのを知つてる[やぶちゃん注:ママ。]からである。又貧少年の中には外國語の敎授を受ける爲めに信者を氣取る者もある。又一時信者となつた上で、公然彼等の舊來の神々に復歸する靑年のある事も絕えず聞く所である。又洪水、飢饉、地震などの時、宣敎師が外國よりの寄贈品を分配したと思ふと、直に多數の改宗者を得た報告がある、それを見ると改宗者の誠意が疑はる〻のみならず、傳道者の道義心をも疑はざるを得ぬ。とはいへ日本に一年一百萬弗の割で百年間振り撒いたら大なる結果が得らる〻であらう。但し其結果の品質は想像するに難くないが、感服は出來ぬであらう。そして土着の宗敎は自衞の爲めの敎化力も資金も共に微弱なのであるから、其點大いに他の侵蝕を誘發する。幸[やぶちゃん注:「さひはひ」。]今や帝國政府は敎育上佛敎を補助せんとするの樣子が見えるが全くの空賴みでもあるまい。一方基督敎國は遠からず其尤も富める傳道會社も大きな相互扶助會社と變形しつつあることを認めるだらうといふ、少くとも微かな可能性がある。

 

       

 日本は、明治の年代が始まると間もなく、内地を外國の工業的企業に開放するであらうとの說は、基督敎に改宗するであらうとの夢と同樣に、はかなく消えて了つた。日本は事實上外人の移住に閉鎖されたままであつた、今でも閉鎖されて居る。政府自らは保守的政策を固守せんとはせず、條約を改正して日本を大規模な外資輸入の新市場たらしめようと種々に畫策した。併し結果は國民の進路は政道に依つてのみ左右せらるべきでない、それよりも誤謬に陷り易からざる或る物――卽ち民族本能に依つて指導せらる〻ものであることを證明した。

 世界最大の一哲學者は、一八六七年(慶應三年)に書いた著書の中でこんな判斷を下した。『其型式の極限まで發展し盡くし、均衡不安定の域に達した社會に、崩壞の始まる方式の好例は日本に依つて供給された。人民が經濟組織して仕上げた建物は、新たな外力に觸れざりし限りは殆ど不變不動の狀態を維持した。併し歐洲文明の衝擊を受くるや否や――一部は武力的侵入の、一部は商業的動機の、又一部は思想的感化の衝擊を受くるや否や此建物はばらばらに崩れ始めた。今は政治的崩壞が進行中である。多分間もなく政治的再建が起こるであらう。併し、それはどうあらうと、外力に依つてこれまで惹起された變化は崩壞への變化である――作成運動から破壞運動への變化である』スペンサー氏の所謂政治的再建は速に起こつたのみならず、其作成的進行が甚だしく又突然に妨害せられざる限り、望ましき限りの建て直しなることは殆ど確實と思はれた。併しそれが條約改正に依つて妨害せられるかどうかは甚だ疑はしい問題のやうに思はれた。或る日本の政治家は、外人の内地雜居の爲めに凡ての障害を除かうと熱心に運動したが、或る者は之に反して内地雜居は、未だ安定せぬ社會組織の中へ攪亂的分子を輸入するもので、新たな崩壞を來たすこと請合であると感じた。前者の趣旨は現條約を愼重に改正して雜居を許せば、帝國の收入は增加するに相違なく、而かも入り込み來る外人の數は極めて少數であらうといふにあつた。併し保守的思想家は、國を外人に開放する其の危險は外にある、多數流入の危險ではないと考へた。そして此點に於て種族本能は之に唱和した。それはただ漠然と危險を感知したのであるが、たしかに眞理に觸れて居た。

 

註 スペンサー著「第一原理」第二版一七八節。

[やぶちゃん注:以上はハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)の“First Principles”(一八六七年・第二版)の“CHAPTER XXIII.: DISSOLUTION.”(「第三十三章 崩壊」のここ(“Internet Archive”の画像。左ページの下から七行目から)。]

 

 其眞理には二側面がある、其一側面は西洋側ので、亞米利加人には能く知られて居る筈だ。西洋入は平等の勝負では、どうしても生存競爭に於て、東洋人に叶はぬ事を知つた。彼は濠洲に於て込合衆國に於ても、東洋人の移住を防止する法律を通過する事に依りて此事實を十分に白狀した。それにも拘らず支那日本の移住民へ加へた侮辱に對して、莫迦らしい多くの道義的理由を述べ立てた。併し其の理由はただつぎの數語に盡きる。――『東洋人は西洋人よりも安價に生活し得る』然るに日本に於ける、他の一側面の理由はかういふ風に述べる事が出來る――『西洋人は或る都合よき條件の下に、東洋人を壓倒する事が出來る』都合よき條件の一は氣候の溫和な事である。も一つの[やぶちゃん注:ママ。]條件はそれよりも重要な條件で、西洋人は競爭の權利を悉く具備する上に、攻勢を取る力を有するといふことである。彼は其力を用ふる積りであるかどうかといふ事は常識的論點でない。彼はそれを用ふることが出來るかどうかが其の論點だ。用ふることが出來るとなると、彼が將來の攻略的方針の性質は、工業的か、財政的か、政治的か、或は三者を打つて一丸となしたものか、などと云ふ議論は全く時間の浪費であるだらう。西洋人は、結局反對者を粉碎し、資本の大合同に依つて競爭を麻痺せしめ、富源を專有し、生活の標準を土着の人民の力以上に高める事に依つて、日本民族を押し除け、己れ之に取つて代はらぬまでも、之を勝手に統御するの手段方法を見出すに至るかも知れぬといふ事を知れば十分である。アングロ・サクソン[やぶちゃん注:“Anglo-Saxon”。五世紀頃、民族大移動でドイツの北西部からブリテン島に移住したアングル人とサクソン人の総称。現在の英国民の根幹を成す。]の統治下に、幾多の劣弱な民族が或は滅び或は亡びつつある處もあるのである。日本の樣な貧乏な國に於ては、外資の輸入だけでも、國家の危險を生み出さぬと誰れが保證し得ようか。勿論日本は西洋の一强國に依つて征服せられるのを恐れるには及ばない。如何なる一外國に對してでも、本土に依つて、己れを守る事は出來る。又强固の聯合軍の侵入の危險に面する事もあるまい。西洋諸國間の嫉妬は、土地攻略の目的でばかりの侵掠を不可能ならしむるであらう。併し餘り早く内地を西洋人の移住に開放した爲めに、布哇(ハワイ)の運命に陷ることなきやといふ事だ土地は外國人の所有に歸し、政治は外國人の勢力に依つて按排せられ、獨立は有名無實となり、祖先の領土は遂に、一種の混合民族より成る、工業的共和國と變形せられはせねかといふことは日本の恐る〻所で、これは尤もの事である。

 

註 こゝに東洋人といふのは勿論日本人の事である。西洋人が支那人に打ち勝たうとは、數の上の不權衡[やぶちゃん注:「ふけんかう(ふけんこう)」。「不均衡」に同じい。]がどれ程であらうと、自分には信ぜられぬ。日本人でも支那人と競爭する事の出來ぬのを認めて居る。無條件の内地雜居に反對する最上の諭據の一は支那移住民の危險なる事である。

 

 

 以上は日支戰爭の起こる前迄、兩派に別かれて猛烈に諭諍された諭旨であつた。其間政府は困難な協議に時を移した。反動的國粹論を排して國を開放するのは非常に危險だ、併し開放せずして條約を改正するのは不可能に思はれた。西洋諸强國の日本に對する壓迫は、彼等の敵意ある聯合が、外交に依り若しくは兵力に依つて妨げられざる限り、繼續することは明らかであつた。此窮境を救つたのは靑木の敏腕に依つて爲された英國との新條約であつた。此條約に依れば國は開放せられる。併し英國人は土地を所有する事が出來ぬ。借るにしても、日本の法律に從へば、賃貸人の死亡と共に消滅する賃貸期間だけ土地を保有する事が出來るのである。沿岸航海は彼等に許されぬ――舊來の開港場にまでさへである。そして其他の貿易は重稅を課せられる。居留地は日本に返還され、英國の移住者は悉く日本の司法權の下に移される。此條約に依ると英國は凡てを失ひ、日本は凡てを得るのである。此の條件が始めて公示されや時、英國商人は、茫然自失、母國に賣られた――法律的に手足を縛られ、奴隷として東洋に引き渡されたと公言した。或る者は此條約が施行せられぬ中に日本を去らうといふ決心を述べた。日本は慥に外交の成功を祝してよい。國は開放せられるには相違ない、併し外國資本の投資を求むるものを防ぐのみならず、既に存在する資本をまで驅逐する樣な條項が設けられたのである。同樣な條件が他の列强からも得られるとすると。、日本は不利に締結されりや舊條約に依つて失つた所のものを、悉く囘復して尙ほ餘りある譯だ。靑木案は確に外交に於ける柔術の奧の手を示すものである。

[やぶちゃん注:「靑木」青木周蔵(天保一五(一八四四)年~大正三(一九一四)年)は外交官・政治家。長州萩藩出身。洋学を学び、明治六(一八七三)年、駐独外務一等書記官となり、外交畑に入った。各国公使歴任後、井上馨外相の下で条約改正案を起草。山県有朋内閣・松方正義内閣で外相となり、不平等条約の改正を促進したが、「大津事件」で辞職。明治二五(一八九二)年に駐独公使、後、駐英公使となり、法権を回復した対英条約(日英通商航海条約)の調印に成功した。明治三一(一八九八)年に帰国、後は再び外相枢密顧問官などを務めた。]

 併し何人も、此條約若しくは他の新條約が實施せられぬ中に、何事か起こるかは豫言する事が出來ぬ。日本が柔術に依つて結局其目的を悉く果たし得るかどうかは尙ほ不明である。――たとひ例歷史上、非常な劣勢の地位に居ながら、こんな勇氣と才能を發揮した人種はなかつたにしても。日本が其陸軍を歐洲の或る二三の國と匹敵し得る迄に發展させたのは、まだ老人でもない人でさへ記憶する程近來の事である。工業的には速に東洋の市場で歐洲の競爭者となりつつある。敎育上には、西洋の何れの國よりも、より安價な、併しより效力なきにあらざる學校制度を設けて、既に進步の前線に立つた。そしてこれは、不正な舊條約に依つて、年々絕えず利益を奪はれながら、洪水と地震とで莫大な損失をしながら、國内の政爭に惱まされながら、國民の魂を掘り崩さうとする改宗敎唆者の努力にも拘らず、又人民の非常な貧窮にも拘らず、成し遂げた仕事なのである。

 

       

 日本が若し其の光榮ある目的を果たさぬやうな事があれば、其不運な成行は確に國民精神の缺乏に依るものではなからう。其精神は日本は近代に比類を絕する程度に有して居る愛国心といふ陳腐な語はそれを表はすに全く無力である程度に有して居る。心理學者は日本人に個性の缺如或は缺乏せることを如何に論じようとも、國民としての日本は我等よりも遙かに强大な個性を有することに疑ひはない。我等は寧ろ西洋の文明は個性を養ひ過ぎて、國民感を破壞したのではないかと疑ひたくなる。

 國家に對する義務といふ事には全國民ただ一つ心である。小學生でも此事に就て問はるれば、『天皇に對する日本人の義務は、我が國を富强にし、同家の獨立を擁護持續するに努力する事だ』と答へるであらう。凡ての日本人は危險を知つて居る。凡てが之に當たるやうに精神的物質的に訓練されて居る。あらゆる公立學校は其學生の軍事敎練の豫備知識を授ける、あらゆる都市には學校兵士がある。正式の練兵の出來ぬ幼い小兒は每日古い忠君愛國の歌と近代の軍歌の合唱を敎へられる。新たな愛國者の歌が一定の時に作曲される、そして政府の同意を得て、學校と兵營とに配付せられる。自分が敎へて居る學校で四百人の學生が此種の歌を歌ふのを聞くのは全く愉快だ。こんな時には學生は皆制服で軍隊式に整列させられる。指揮する士官が『足蹈み』の命を下すと凡ての足が太鼓のやうな音を立てて一齊に床を蹈み始める。そして音頭取りが先づ一節を歌ふと全員が勇ましくそれを繰り返す。各行の最後の音節を必らず妙に高調するので、恰も小銃の一齊射擊の樣に聞こゆる。歌ひ方は甚だしく東洋的だが又甚だしく感銘的で、一語一語に舊日本の勇猛な精神が躍つて居る。併しそれよりも更に感銘的なのは兵士が同樣な歌を歌ふ時である。現に自分が之を書いて居る瞬間にも、熊本の古城から雷の轟くやうに、八千の兵士の夕べの歌が、長い優しい物悲げな幾十の喇叭の音と雜じつて聞こゆるのである。

 

註 この一文は一八九三年に草したのである。

[やぶちゃん注:「一八九三年」明治二十六年。年譜を見ると、十月半ばには既に執筆中であったことが判る。この十一月十七日には長男一雄が生まれ、ハーンは長男入籍に当たってセツのの入籍問題も解決する必要がとなり、その選択肢の一つに日本人に帰化するという考えが芽生えてきた直前である。]

 

 政府は忠君愛國の精神を維持する努力を決して弛めない。此貴い目的の爲めに新しい國祭日が近頃定められた。舊來の祭日も年と共に益〻盛んに祝せられる。天長節には國内の凡ての官公立學校凡ての官衙では必らず天皇陛下のお寫眞に對して、折に合ひたる唱歌と儀式とを以て、嚴かな拜賀式が擧げられる註一。時に宣敎師に敎唆されて、己れは基督敎徒であるといふ莫迦らしい理由で、此筒單な忠誠と感謝の禮を拒む學生が現はれる。其結果は同輩から絕交せられ、遂には不愉快の餘り學校にも居惡(にく)くなるのが常である。すると宣敎師は本國の同宗派の新聞に、日本に於ける基督敎徒の迫害といふ話を報告する、そして其理由は『皇帝の偶像を崇拜することを拒める爲め』註二と稱する。こんな出來事は勿論偶(たま)にしかない。そして外國宣敎師が彼等の使命の眞の目的を破壞する遣(や)り口(くち)の一斑を示すだけである。

 

註一 陛下の御肖像を拜する儀式は、宮中で拜謁の時の儀式を其まゝ實行するだけである。先づ一禮し、三步進んで敬禮、更に三步進んで最敬禮をする。御前を罷り出る時は、賜謁者は後退(あとずさ)りをしながら前の樣に再び三度敬禮するのである。

註二 此一節には立派な證據がある。

 

 彼等が日本の圖民的精神、日本の宗敎、日本の道德は勿論、日本の服裝風習までも狂信的に攻擊しや結果だらうと思はれるのは、近頃日本人基督敎徒に依つてなされた國民的感情の異常な表現である。或る者は公然と外國宣敎師の駐在を謝絕し、精神に於て根本的に日本的な、根本的に國民的な、新しい特殊な基督敎を作り出さうといふ冀望を發表した。又或る者は更に進んで、凡ての傳道學校、敎會及び現在日本人の名義に依つて所有せられる凡ての財產を、名義のみならず事實に於ても日本人基督敎徒に引き渡し、以て彼等が公言する動機の純眞なることを證せよと要求する。そして事實傳道學校は全く日本人の管理に引き渡すの止むを得ざることは、既に大抵了解せられた。

 

註 日本の法律に叶はせるため或は法律をくゞる爲めに。

[やぶちゃん注:以上の註は原文では別注ではなく、本文の最初の「註」記号位置に丸括弧で“(to satisfy or evade law)”と挿入されているものである。ここ(右ページ最下部)。]

 

 自分は舊著に於て、全國民が政府の敎育上の努力と目的とをめざましい熱誠を以て助成した事を述べた註一。之に劣らぬ熱心と克己とが國防の經營に於ても示された。天皇親(みづか)ら軍艦の新調に御手元金の大部を割いて範を垂れられたので、同じ目的の爲めに、凡ての官吏の俸給の十分の一を献納せしめる法令が出ても怨言などは少しも起こらなかつた。あらゆる陸海軍士官、あらゆる敎授敎師、其外殆ど凡ての官衙の使用人はかくして每月海軍へ献納金を納めるのである註二。大臣、貴族、國會議員等も、尤も低い郵便局書記と同樣に其數には漏れぬのである。此法令に依る献納金は六年繼續の筈であるが、此外にも國内を通じて富裕な地主、商人、銀行家等が進んで巨萬の献納金を爲した。これは日本が國家を救ふ爲めには一日も早く兵を强うせねばならぬのに、外部の壓迫は益〻甚だしく、少しも遲延を許さぬからの事である。日本の努力は殆ど虛言(うそ)の樣である、其成功も不可能とは思はれない。併し形勢は日本の爲めに甚だしく不利である。日本は遂に――蹉跌[やぶちゃん注:「さてつ」。「つまずく」の意から、「物事がうまく進まず、しくじること・挫折・失敗」。]するやも圖られぬ。果たして蹉跌するだらうか。豫言は甚だむつかしい。併し蹉跌するにしても、必らずやそれは國民精神の衰弱せる結果ではない。それは大抵政治的誤謬――無謀な自信の結果として起こるであらうと見る方が眞に近い。

 

註一 「知られぬ日本の面影」を見よ。

註二 郵便脚夫及び巡査は除外された。併し巡査の俸給は一箇月約六圓に過ぎず、郵便脚夫は更にそれよりも少いのである。

[やぶちゃん注:「知られぬ日本の面影」(原題“Glimpses of Unfamiliar Japan”。「見馴れぬ日本の瞥見」は来日後最初の作品集で、本作品集刊行の前年である明治二七(一八九四)年に、同じくボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版されたものである。同作品集の内、日本の当時の教育制度について纏まってかなり詳しく語られてあるのは、全二十四章から成る「第十九章 英語教師の日記から」(ⅩⅨ FROM THE DIARY OF AN ENGLISH TEACHER)の前半部である。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (一)』をリンクさせておく。なお、章を連続して読むには、ブログ・カテゴリ「小泉八雲」からがよい。]

 

       

 尚ほ一つ殘つて居る疑問は、此吸收、此同化、此反動の眞中で、日本の舊道德はどんな運命の下にあるかといふ事である。之が解答は自分が最近に一大學生と交はしたつぎの談話の中に一部分暗示せられて居ると思ふ。これは記憶に手緣つて書いたので、逐語的に精確ではないが、新時代人の、思想を代表するものとして――神々の消滅の證言として興味がある――

 『先生、先生が初めて日本へお出の時、日本人をどう御覽になりましたか、何卒率直にお話し下さい』

 『今の若い日本人の事ですか』

 『い〻え』

 『そんなら今でも昔の習慣に從ひ、昔の禮式を守つて居る人々――君の以前の漢文の先生の樣な、今でも昔の武士(サムラヒ)氣質を存して居る、愉快な老人の事ですか』

 『左樣です。A――先生は理想的の武士です。彼樣(あんな)人の事です』

[やぶちゃん注:「君の以前の漢文の先生」「今でも昔の武士(サムラヒ)氣質を存して居る、愉快な老人」「A――先生」は第「一」章に登場し、「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) 九州学生 (田部隆次訳)」にも登場した、ハーンが尊敬した先輩教師である秋月韋軒(あきづきいけん 文政七(一八二四)年~明治三三(一九〇〇)年)である。]

 『僕は彼樣な老人を善いもの貴いものの限りに思ひました。僕には丁度日本の神樣の樣に見えました』

 『今でも其樣にお考へですか』

 『さうです。若い日本人を見れば見る程、昔の日本人を益〻嘆美します』

 『我々とても嘆美します。併し先生は外國人として彼等の缺點をもお認めになつた筈と存じますが』

 『どんな缺點ですか』

 『西洋流の實際的知識の缺乏です』

 『併し或る文明に屬する人を、系統の全く異る他の文明の標準で判斷するのは正當でありません。或る人が其人の屬する國の文明を完全に代表すればする程、我々は其人を市民として又紳士として益〻尊重せねばならぬと思ひます。舊日本人は道義的に甚だ高かつた彼等自身の標準で判斷すれば殆ど完全な人の樣に僕には見えます』

 『どういふ點で』

 『親切、禮讓、侠氣、克己、献身的精神、孝行、信義の諸點、及び足ることを知るといふ美風などで』

 『併しさういふ諸點は、それだけで西洋流の生活の競爭に實地の成功を收めることが出來ませうか』

 『確(しか)とさうも云はれぬが、其中の或るものは助けになるでせう』

 『西洋流の生活で實地の成功に眞に必要な性能こそ、舊日本人に缺けて居る性能ではないでせうか』

 『さうでせう』

 『日本の舊社會は先生のお讃(ほ)めになる、非利己心、禮讓、仁義などの德を養成しましたが、其代り個性を犧牲に供しました。然る西洋の社會は無制限の競爭で、個性を養成しました――思想、行動の競爭で』

 『それはその通りです』

 『併し日本が諸國民の問に其地位を維持し得る爲めには、西洋の工業、商業の方法(やりくち)を學ばねばなりません。日本の將來は一に懸かつて工業の發展に在ります。然るに我々が祖先の道德慣習を墨守して居たのでは何の發展も出來ません』

 『何故ですか』

 『西洋と競爭の出來ぬ事は破滅を意味します。併し西洋と競爭するには、西洋の方式に則らねばなりません。然るに舊道德は之とむ矛盾します』

 『多分さうでせう』

 『それに疑ひはないと思ひます。他人の仕事に障るやうな利益を求めてはならぬといふ觀念に妨げられては、大規模な仕事は出來ません。然るに、競爭に制限のない處では、全くの慈悲深さから競爭を躊躇する樣な人間は失敗するに極つて居ます。競爭の法則は强き者、活動する者は勝ち、弱き者、愚かな者、恬澹なる者は敗る〻のであります。併し日本の舊道德はこんな競爭を罪惡視しました』

[やぶちゃん注:「恬澹」「てんたん」。「恬淡「恬惔」などとも書く。無欲であっさりしていること。物に執着せず心の安らかなこと。]

 『それはさうです』

 『そんなら、先生、舊道德は如何によくても、それを守つて居たのでは、我々は工業上の大進步も出來ませず、國家の獨立を維持する事さへ出來ぬではありませんか。我々は我我の過去を棄てる外ありません。道德に代ふるに法律を以てする外ありません』

 『併しそれはよい代りではない』

 『英國の物質的强大を手本にして判斷してよいならば、西洋ではそれが至つてよい代りでありました。我々は日本に於ても情緖的に道義的であることを止めて、理性的に道義的となるやうにせねばなりません。法律の理性的道義を知ることは、夫だけで道義を知ることになります』

 『君達や宇宙の法則を硏究する人々に取つては、或はそれで宜からう。併し一般民衆はどうなる』

 『彼等は古い宗敎を守らうとするでせう。神佛の信賴を續けるでせう。併し恐らく彼等にも生活は益〻困難になるでせう。彼等は昔は幸福でした』

[やぶちゃん注:以上で「柔術」の本文は断ち切られるように終わっている。但し、以下、特異的に非常に長い原注が附されてあるのである。段落の頭を字下げにしていないはママである。]

 

註 右の一文は二年前に書いたのであるが、其後起こつた政治上の事件新條約の調印は昨年之を訂正するの止むを得ざもに至らしめた。然るに今其校正中支那との戰爭が起こつた爲め更に又一言附記せざるを得ざるに至つた。一八九三年(明治二十六年)には豫言し得なかつた事も一八九五年には全世界が驚嘆を以て認めるに至つた。日本は柔術に於て勝つたのである。日本の自治權は實際上恢復せられ、文明國としての地位は確立されたやうだ。日本は永久に西洋の保護から脫した。其藝術でも其德操でも得ることの出來なかつたものを、新しい科學的の攻擊力、破壞力の最初の發現で獲得した。

[やぶちゃん注:本篇「柔術」は明治二六(一八九三)年十月に執筆を開始し、翌年の六月に完成している。本篇を含む本作品集「東の国から」の刊行は明治二八(一八九五)年三月であるから、殆ど最終校正の段階で、新事実に基づき、これだけの分量を新規追加するというのは、なかなか、ハーン先生、やらかしましたな! 快哉!]

日本は此戰爭の爲めに長らく祕密に大準備をなしたとか、開戰の口實は薄弱だとか、隨分輕率な批評があつた。併し自分に日本が戰備を修めた目的は前章に說いた所に外ならなかつたと信ずる。日本が二十五年間絕えず兵力を培養したのは全く其獨立を恢復する爲めであつた。併し其間に外國の壓力に對して打つた人民の反動の脈搏は――一打每に次第に高く――國民が伸びつゝある力の自覺と、條約に對して次第に增加する憤慨とを政府に知覺せしめた。一八九三――九四年の反動は衆議院で大分切迫した形を取つたので、遂に議會解散が差し當つての必要事件となつた。併し重ね々ねの議會解散も只だ問題を延期するに留まつた。其後漸く新條約の成立と突然支那に對する兵力の放散とで此危機は避けられたのであつた。日本に對する西洋諸國の無慈悲な工業的幷びに政治的の壓迫が此戰爭を促成した事は明らかではあるまいか――ただ抵抗力が最も少い方面に力が漏出したのである。幸に其力の漏出は效果を擧げる事が出來た。日本は世界を相手にして其地位を守り得ることを證明した。日本は西洋との工業的關係を、更に此上壓迫せられぬ限り斷絕しようとは望まぬ。併し帝國陸軍の復活で、西洋が日本を威壓する――直接にも間接にも――時代は斷然過ぎ去つた。物の自然の順序として、更に排外的反動が期待されぬでもない――その反動は必らずしも亂暴な或は不道理なものではあるまい。が、國民的個性の强固な主張を體現したものであらう。幾世紀となく專制政治に馴れた國民が爲した立憲政治の實驗の結果の不確さを考へると、政體の變化さへ幾らかあり得べからざる事でもない。併しサー・ヘンリ・パークスが、日本に南米共和國の知きものとなるだらうと云つた豫言の外づれたことを思ふと、此の驚くべき謎的な人種の將來を豫想しようとするのは危險である。

[やぶちゃん注:「サー・ヘンリ・パークス」イギリスの外交官ハリー・スミス・パークス(Harry Smith Parkes 一八二八年~一八八五年)。幕末から明治初期にかけて十八年間(途中に英国の恩賜休暇による帰国を挟み、慶応元(一八六五)年から明治一六(一八八三)年まで)、駐日英国公使を務めた。]

戰爭は未だ終はらぬ事は事實だ――併し日本が終極の勝利を得ることは疑ひない――支那に革命の偉大な機運を豫へる事を斟酌して見ても。世界は既に不安を以て、つぎに何事が起こるかと心配して居る。多分此最も平和な最も保守的な支那國民をして、日本幷びに西洋の壓迫の下に、自衞上西洋の戰術を能く學ぶの止むを得ざるに至らしむるでもらう。然る後に軍事上に支那の大覺醒が來るであらう。すると新日本々と同じ事情の下に支那は多分其兵力を南と西に向けるであらう。最後の結果がどうなるかは、ドクトル・ぺアソンの近著「國民性」を見らるゝがよい。

[やぶちゃん注:「ドクトル・ぺアソン」イギリス生まれのオーストラリアの歴史家・教育学者・政治家・ジャーナリストのチャールズ・ヘンリー・ピアソン(Charles Henry Pearson 一八三〇年~一八九四年)。「國民性」は一八九三年に刊行された“National Life and Character”(「国民生活とその性質」)のこと。英文のウィキソースのこちらで原文が読める。]

柔術は支那で發明さられた術であることか忘れてはならぬ。而して西洋はこれから支那を相手にせねばならぬのだ――日本の師匠なる支那――征服の嵐が後から後からと、たゞ葦間を分ける風の樣に、其頭上を通過しても、幾千萬の住民には些の影響を與へ得なかつた支那をである。實際支那は、强制されて日本の樣に柔術に依つて其保全を圖るの止むを得ざるに至るかも知れぬ。併し其驚くべき柔術の終極は全世界に尤も重大なる結果を及ぼすかも知れぬ。西洋が植民の爲めに弱小人種を處理するに犯した蠶食、强奪、鏖殺の罪を責罸するの任は、支那に保留されてあるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「鏖殺」「あうさつ(おうさつ)」。皆殺しにすること。

「責罸」「せきばつ」。罪や過ちを罰すること。]

既に或る思想家は――閑却する事の出來ぬ英佛の思想家――二大植民國の經驗より結論して、世界は決して西洋民族に依つて悉く統御せられぬであらう、將來は寧ろ東洋に屬すると豫言した。又長らく東洋に滯留して、我等と全く思想を異にする不可思議な民族の一と皮[やぶちゃん注:「ひとかは」。]めくつた下面を見ることを――其民族の生の潮の深さと强さを了解することを――其測るべからざる同化心を見拔くことを――其南北兩極間の殆ど如何なる環境にも適合し行く力を認知することを學んだ多くの人々も之と同樣の確信を有するのである。かういふ人々の考では世界の人口の三分の一以上を包含する此人種が絕滅せざる限り、我等が文明の將來をさへ保證し得ぬといふのである。

恐らく最近ドクトル・ペアソンが斷言した樣に、西洋人の膨脹侵略の長い歷史は今や其終末に近づきつゝあるのである。恐らく我等の文明は世界かを帶の樣に卷いたが其結果はたゞ我等の破壞術、工業競爭術を、我等の爲めよりも我等を脅かす爲めに用ゐんとする民族に學修せしめたに過ぎない。しかも之を爲す爲めに世界の大部分を蹂躙にした――それ程大きな力が入用であつだのだ。我等は多分さうせざるをえなかつたのであらう、その故に我等が創造した社會といふ機關(からくり)は昔噺の鬼のやうに、それに最早授ける仕事がなくなるや否や我等か食はんと脅かすからである。

思へば我等の文明は驚くべき創作物である――益〻深まる苦痛の深淵から益〻高まり行くのである。多くの人には驚きよりも更に奇怪なりといふ感を與へる。社會的地震で突然崩れるかも知れぬとは、文明の頂上に坐る人々の久しい間の惡夢であつた。其道德的基礎の故に社會的建造物として此文明は長持ちはすまいとは東洋の賢者の敎ふる所である。

此文明が生み出した結果は、此地球上に人間が其生存の劇を十分に演じ盡くす迄滅亡せぬ事は確であらう。此文明は過去を復活さした――死せる國語を蘇生せしめた――自然から其貴重な祕訣を無數にもぎとつた――星辰を分析し、時と空間とを征服した――見えぬ物を見えざるを得ぬやうにして、無窮の帳の外のあらゆる帳か引きめくつた――數千百の學問を建設して、近代人の腦隨を中世人の頭蓋骨には入り切れぬ程膨脹せしめた――尤も厭ふべき種類の個性をも進展せしめたが同時に尤も貴い個性をも進展せしめた――他の時代には甞てなかつた利己主義と苦惱とを發展さしたが、未だ甞て人間に知られざりし程の尤も細かい同情と尤も崇高(けだか)い情緖をも發展さした。知的には此文明は星の高さよりも高く生長したのである。兎に角此文明が將來に及ぼす影響は希臘文明が其後の時代に及ぼした影響よりも遙かに大であらうとは信ぜまいとしても信ぜぬ譯に行かぬのである。

併しながら此文明は年と共に益〻、「或る組織體は複雜になればなる程、致命的の傷害を益〻受け易くなる』といふ法則を例證する。其力が增すに從つて、其中に、より深い、より鋭い、より佃かく分岐した神經が發達して、あらゆる激動、傷害――あらゆる變化の外力を、感ずる樣になる。もう既に世界の遠い果てに起こつた旱魃や飢饉の結果、極小さい原料供給の中心地の破壞、鑛山の枯渇、商業上の靜動脈たる運輸のほんの一時的中止などでも、忽ち混亂を起こして偉大な建造物の各部分に苦痛の衝動を傳へろるのである。然るに此建造物には外力の刺激に應じて内部に變化を起こし之に對抗する驚くべき能力を有したのであるが、それも今やそれとに全く異る性質の内的變化に依つて危う[やぶちゃん注:「く」の脱字か。]せられるやうに見ゆるのである。我等の文明は個人を益〻發展させつゝある事は確であるが、人工の熱、色附けた光、及び化學的肥料で、植物をガラス箱の中で育てるやうに發展させるのではあるまいか。それは長く維持することの出來ない境遇に、特に適應し得るやうに、幾百萬の人間を速成的に養成しているのではあるまいか――卽ち少數者を無限に贅澤な境遇に、而して多數者を鐡と蒸氣の殘酷な奴隷的境遇に。此疑問に對してはかういふ答が與へられてあつた、――社會の改變で危險に備ふる方法と凡ての損害を償ふ方法とを得らるゝであらうと。少くとも一時は社會の改革が奇蹟を演ずるであらうことは殆ど確實である。併し我等の將來に關する終極的の問題は如何なる政令改良でも巧(うま)く解くことは出來ぬやうに思はれる――絕對に完全な共產主義の社會が建設せられると假定しても――といふのは、高等民族の運命は自然力の將來の經濟に於ける彼等の眞價に依つて決せられるものであるからである。「我等は優等人種でないか」との問には力强く「然り」と答へ得る。併し此の肯定は「我等は生存の適者であるか」といふ、更に一層重要な問に對する滿足な解答にはならぬであらう。

抑も生存の適者たる資格は何に在る。それはあらゆる環境に自己を適合せしむる能力にある、豫知し得ざる事物に對して臨機應變の處置を執り得る技倆に在る――凡て不利なる自然力に對抗し、之を統御する天賦の力量に在る。決して我等自ら作成したる人工的環境に、卽ち我等自身の製造にかゝる變態的の情勢に自己を適合せしむる能力に在るのではない――全くたゞ單なる生きる力に在るのである。而して此單なる生活力に於ては我等の所謂高等民族は極東の民族に劣ること甚だしい。西洋人の體力と知力とは東洋人を凌駕するけれども、彼等に此民族的優秀さと全く釣り合はぬ生活費に於てのみ生活し得るのである。處が東洋人は米の飯を食ひつつ我等が料學の結果を硏究し熟達するの能力あることを示した。又同じ簡單な食物で我等が尤も複雜な發明品を利用したり製造したりすることを學び得るのである。然るに西洋人は二十人の東洋人を生活さするに足るだけの費用をかけぬと一人が生きる事さへ出來ぬのである。我等が優秀さの中に我等が致命的な弱點が潜むのである。民族競爭と人口夥多の壓迫が來ること確實なる將來に於て、我等の肉體といふ機關は之を運轉するのに到底割に合はぬ薪炭を要するのである。

人間の出現前には又恐らく出現後にも、今は絕滅して居る種々の巨大な驚くべき動物が此地球上に生存して居た。彼等は悉く外敵の攻擊に依つて亡ぼされたものではない。其多くは地球の惠澤が段々減少する時代に彼等の體軀が餘りに消費的であるばかりに自然に滅亡したやうに思はれる。丁度その樣に西洋民族は彼等の生活費の故に滅亡するといふことになるかも知れぬ。乃ち彼等は其事業の極限を仕盡くした後、此世界の表面から姿を消し、もつと生存に適した人種に依つて取つて代はらるゝかも知れぬ。

我等が丁度最小民族を、たゞ彼等よりも贅澤に生活することに依り――殆ど無意識に、彼等の幸福に必要なる凡ての物を專有し吸收する事に依り絕滅せしめた樣に、此度は我等自身が、我等よりも安價に生活し得る、我等のあらゆる必要品を專有し得る民族に依つて遂に絕滅せしめられるかも知れぬ――卽ち我等よりも忍耐に富み、克己心に富み、繁殖力强く、自然の恩惠を浪費すること少き民族に依つて。而して此等の民族は疑もなく我等の知識を承繼し、我等の有用な賢明を採用し、我等の工業の優れたるものを橫行するであらう――多分我等の學問藝術の後世に傳ふべき價値あるものを永久に傳へるであらう。併し彼等は我等の消失を別段惜しみもせぬこと丁度我等が恐龍や魚龍の絕滅を見ると同樣であらう。

[やぶちゃん注:「恐龍」原文は“the dinotherium”で、逆立ちしても、これは「恐龍」の意の英単語ではない。平井呈一氏も『恐竜』と訳しているが(恒文社版「柔術」。一九七五年刊「東の国から・心」所収)、孰れも誤りである。デイノテリウムは「恐竜」なんぞではなく、れっきとした哺乳類の「象」の一種、哺乳綱獣亜綱真獣下綱アフリカ獣上目長鼻目デイノテリウム科ディノテリウム亜科デイノテリウム属 Deinotherium に属する絶滅したゾウの仲間である(学名は「ひどい獣」の意)。新生代新第三紀中新世中期から第四紀更新世前期(約二千四百万から百万年前まで)のアジア・ヨーロッパ・アフリカに広範囲に棲息した「象」なのである。形状その他は参照したウィキの「デイノテリウム」を見られたいが、それによれば、一八二九年に『ドイツのエッペルハイムで最初に発見されたのは、特徴的な下顎切歯の付いた下顎骨のみであった。これは半分に折れていたため、発見者のカウプは当初は切歯を上向きに復元し、カバのような巨大な水棲生物であるとして「恐ろしい獣」を意味する学名をつけて発表した。しかし』一八三三年に『再び発見された下顎骨は保存状態が良く、当初の復元の切歯の向きが誤りであることが明らかになった。カウプはこれを地上棲のナマケモノと修正した。そのほか、海牛類やサイであるとの説も出された。その後、断片的な化石の発見が相次ぎ、ゾウの類縁ではないかとされるようになったが、完全な骨格の発見は』一九〇八『年まで待たねばならなかった』。『また、その鼻についてもバク程度から現生種と同程度と復元の長さにもばらつきがあったが、水を飲むための必然性などから、現在は現生種並みの長さであったとされている』とある。本作品集の刊行は一八九五年である。この時は恐らくゾウの一種であるとする見解に大方、達していた可能性が高いし、しかも発見当初から一貫して哺乳類と考えられていたこと、彼らが生きていたのは「恐龍」の多くが絶滅した約六千六百万年前(白亜紀と新生代との境)よりもずっとずっと後の時代であることは初期記載でもちゃんと書いてあるはずである。これは誤訳以前の問題、ろくに辞書も引かずに半可通でやらかしたトンデモ訳であるとしか言いようがない。戸澤氏と、ここはそれを無批判に引き写したとしか思えぬ平井氏には――ちょっとがっかりだ。

「魚龍」“the ichthyosaurus”。爬虫綱双弓亜綱†魚竜目 Ichthyosauria イクチオサウルス科イクチオサウルス属 Ichthyosaurus に属する、これは確かに「魚龍」の一種である。形状その他は参照したウィキの「イクチオサウルス」を見られたい。]

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