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2020/01/13

ブログ1310000アクセス突破記念 梅崎春生 歯

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二九(一九五四)年九月号『改造』に掲載された。当時、春生は三十九歳である。本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログがグ1310000アクセス突破を突破した記念として公開する。【2020年1月13日 藪野直史】]

 

   

 

 ちいさい時から粗食ばかりしていて、それがたたったんでしょうな。三十になるやならずで、歯ががたがたになった。それに戦争のせいもある。戦争じゃ実際苦労しました。

 僕は一人息子で、両親には早く死なれて、じいさんばあさんの手で育てられたんです。だから僕の少年時代の食事はと言えは、ばあさんがつくる関係上、どうしても老人好みの食事ということになります。朝はその地方の習慣で茶がゆ。茶をたきこんだ水気の多いかゆです。副食物は葉菜(なっぱ)や茄子(なす)の古漬けだけ。腹がだぶだぶしてくるから、何杯もおかわりするわけには行かない。昼は小学校ですから、弁当。ところが小学校の僕のクラスには、妙な気風があって、昼食どきになるとお互いの弁当をのぞき合う。おかずが梅干とかタクアンならよろしいが、かまぼこだの卵焼きだのが入っていると、皆があつまって、「ゼイタク」「ゼイタク」「ゼイタク」とはやし立てるんです。先生も黙ってそれを眺めているという具合で、ゼイタクなおかずを持ってきた奴は、弁当箱のふたで内容をかくすようにして、こそこそと卑屈に食べる。そうしたくなければどうしてもタクアンの二片だけで我慢することになります。質朴剛健の気風は栄養を摂(と)らないことにあると、そう皆考えていたらしいのです。夜は夜で、また老人好みのあっさりした副食物。じいさんもばあさんも冬瓜(とうがん)の煮たのが大好きで、その時節になると毎晩冬瓜の煮つけが食膳に出る。これにはうんざりしましたな。僕は今でも冬瓜の煮たのを見ると身ぶるいが出ます。

 つまり僕は少年時代において、以上のような食生活を送り、蛋白質だの脂肪だのカルシューム、其の他いろいろ成長に必要な成分がたいへんに不足した。三十前後で歯ががたがたになった、のは、第一にはこれが原因です。歯がうちそろって一挙に老衰期に入ってしまったらしい。

 そこでこの際志を立てて、歯の徹底的治療、徹底的てこ入れをしようと思い立った。抜くべきは抜き、削るべきは削り、補填(ほてん)すべきは補填する。今のままのジリ貧状態で行けば全滅してしまうにきまっているので、そう思い立ったのです。思い立っては見たものの、先立つもののことを考えて、はたと当惑した。

 僕が今勤めているところは、都内の某盛り場にあるパチンコ屋で、台数も多いし、割に繁昌しています。僕の仕事は、店番とか玉の出し入れ、それに見様見真似で釘の調整もやるので、主人にも重宝(ちょうほう)がられていますが、でも考えて見るとあまりいい職業じゃありませんねえ。第一生産的なところが全然ない。全く不健康な仕事です。そして給与はと言えば、割と店は繁昌しているくせに、主人がケチンボで、あまり良好でない。

 主人がケチンボではあるし、パチンコ屋という商売ですから、もちろん我々従業員たちは健康保険に入っていない。歯をなおそうと思い立ったある日、僕は主人に向って、歯の治療をするから僕たち全員を健康保険に入れて呉れ、と要求したのですが、主人はせせら笑って僕の要求を一蹴した。パチンコ屋と健保とはつり合いがとれないと言うのです。どこがつり合いがとれないのかと訊ねてみたら、どこと言うわけでなく、感覚的に調和していないと言う。もともとこの主人は異常感覚の持ち主で、もりそばに砂糖をまぶして食うような男ですから、言うことも他人とはすこし変っている。歯の方もずんずん悪くなるし、堅いものが全然嚙めなくなってきた。憂欝でしたな。あちこちが思い出したようにズキズキ痛むし、しかも金はないと来ている。

 そこへ忠さんという男があらわれた。

 忠さんというのは、僕の店の顧客で、しょっちゅうパチンコ弾(はじ)きにやってくる。そして僕と口をきき合うような仲になったのですが、歳も僕と同じくらいで、さっぱりしたいい男でした。某出版社の雑誌編集の方をやっていて、編集なんて仕事はよっぽど暇なものらしいですな。毎日のようにパチンコやりにやってくる。時には僕を引っぱり出して、酒を飲ませて呉れたりする。お礼ごごろというわけではないが、よく玉の出る台を僕は忠さんに教えてやったり、また主人の眼をぬすんで玉をザラザラ出してやったこともあります。それで忠さんは僕におごった分ぐらいは結構取り戻しているようでした。

 その忠さんが僕の顔を見て言いました。今年の初め頃のある寒い日です。

「どうしたんだい、そんなふくれっ面をして。お多福風邪にでもかかったのか」

「歯が痛いんだよ」と僕は仏頂づらで答えました。「ほんとに歯が痛いぐらい憂欝なことはないよ」

「歯医者に行けばいいじゃないか」

「それがそう行かないんだよ。間に合せの治療したって仕方がないんだ。全部がもうがたがたになっているんだから」

「じゃ根本的に直したらどうだい。歯なんてものは、放って置くと、命取りになることもあるんだよ」

 そこで僕は、現在のところ治療代がないこと、主人に健保加入を要求中であること、健保加入の暁に総入れの予定であることなどを説明してやりました。すると忠さんは僕の頰ぺたを眺めながら言いました。

「しかし、そんなに腫れ上っているんだから、治療も早い方がいいぜ。取り返しのつかないことになると大変だ。何なら間に合せに俺の健保証を貸してやろうか」

「そうだね。そう願えると有難いな。でも、君が病気になると困るだろう」

「俺は大丈夫だよ」忠さんは胸をどんと叩きました。「俺は当分病気する暇なんかないよ」

 忠さんはその頃ある女性に恋をしていて、それで忙しくて病気する余裕なんかないとのことでした。そういう幸福な人間からなら、健保証をちょっと拝借しても差支えなかろうと、僕も借りる決心をした。こういうことになったと言うのも、健康保険に入れて呉れない主人が悪いのだし、更に進めて現在の政府の政策が悪いとも言えるでしょう。まったく辛いのは庶民ばかりです。

 で、忠さんの保険証を持って、即日近所の歯科医の門を叩いた。

 その歯科医は四十がらみの頑丈な男で、ちょっと大工か左官のような感じの身体つきでした。でも歯科医と大工左官は大いに似たところがある。どちらもノミやクギを使うし、またセメントを使用する。削ったり穴をあけたりかぶせたり、対象が歯と材木の違いだけで、あとは大して変っていないのではないでしょうか。そして歯科は他の医科にくらべると、どうも発達が遅いように、僕は思います。歯を引き抜くに釘抜きをもってする。この方法は神代時代でもやっていたに違いもりません。も少しスマートなやり方はないもんでしょうかねえ。二千年も経つのに同じ方法でやっているとは、歯科にたずさわる人の努力が足りないと、そう断定しても差支えないでしょう。そう僕は思います。

 そこで僕は診察室に通され、れいの電気椅子に似た椅子に腰かけさせられた。戸棚にはさまざまの形のノミやヤスリや釘抜きが、ピカピカ暦き上げられて、人を脅やかすようにずらずらと並んでいます。上には金属製のアームが、歯をギシギシ削ってやろうと待ちかまえています。僕は観念して、椅子の上で大口をあけました。

「こりやひどいな」歯科医は一応僕の歯を点検し終ってそう言いました。「あなたぐらいの若さでこんなにガタガタなのは珍らしいですな。あなたは過去において、堅しものに嚙みついた覚えはありませんか」

「そうですねえ」

 と僕は考え込んだ。現在まで石にかじりつくような苦しい生活をして来ましたが、まさか本物の石に嚙みついた覚えはありません。

「そう言えば戦争中、人間の腕に嚙みついたことがありますが、まあそれくらいなものです」

「それかも知れませんな。歯の根がそろってぐらぐらにゆるんどる」

 人の腕に嚙みついたというのは、正確に言うと終戦後のことです。終戦の時、僕は陸軍の下級兵士として、北支の棗荘(ソソウ)というところにいた。ここは炭坑があるところです。終戦と同時に、在留邦人をも含めた二千名がえんえんと列をつくって、済南(サイナン)目指して出発しました。そして済南において国府軍に武装を解除されたんです。そこから乗船地の青島までの行軍、これが辛かった。

[やぶちゃん注:「棗荘」現在の棗荘(そうしょう/そうそう)市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「棗荘」は拼音で「Zăozhuāng」、カタカナ音写では「ザオヂュアン」であるから、「ソソウ」というルビは日本語としても中国語としてもおかしい。「台児荘(たいじそうしだいじそう)の戦い」(日中戦争中の昭和一三(一九三八)年三月から同年四月七日までの間山東省最南部の台児荘付近で行われた戦闘。台児荘の攻略を企図した日本軍部隊が中国軍の大部隊に包囲されて撤退し、徐州作戦の引き金となったもので、中国側が「抗戦以来の大勝利」を宣伝したことでも知られる)の舞台であった。無論、内地勤務であった梅崎春生自身の体験でなく、戦後の彼の作品の多くと同じく、本作は外地体験者の聴き取りによるものである。

「済南(サイナン)」山東省済南(カタカナ音写:チーナン)市。青島(チンタオ)も確認出来るスケールにしておいた。直線で繋いでも棗荘から済南を経由して青島までは五百キロメートルはある。]

 線路はほとんど爆撃で寸断されているので、大部分が徒歩です。済南で武装解除されたから武器は持たない。その武器を持たない僕らに向って、途中の土民達が襲撃をかけてくるのです。もちろん僕らは集団だから、正面切っては襲って来ない。ちょっと列を離れたり遅れたりすると、ワッと襲いかかって袋だたきにする。あるいはどこかに引きずって行く。これは日本人に対する憎悪もありますが、ひとつには僕らが携えているもの、たとえば時計とか服とか毛布、そんなものを欲して襲撃してくるのです。

 そして悪いことには、僕は部隊本部付の通信隊で、えんえんたる列の最後尾についていたのです。最後尾というのはもっともねらわれやすいところで、現実に通信隊員の中からとうとう三名が次々にやられてしまった。送り狼みたいについて来るんですから、油断もすきもありません。また戦友の一人がワッとやられているととろへ、単身たすけに行くなんてことは、これはもう不可能です。向うは多勢だから、ついでに自分もやられてしまうからです。武器でもあれは別ですが、徒手空拳ときている。

 済南を発して五日目の夕暮のことです。宿営地の部落に入る直前で、僕は小便がしたくなったものだから、立ち止つて小便をした。あたりは一面薄墨色の夕闇です。周囲にちょっと人影が見えなかったものですから、つい油断して放尿しているところを、背後からさっと襲いかかられた。

 そいつは六尺近く一もある、体格のいい土民でした。それに腕力もすごかったですな。僕をうしろから羽がいじめにして、むりやりに引きずって行こうとする。僕は大声を出してわめき、そしてはげしく抵抗した。夕闇のかなたか、四五人の走ってくる人影が見える。もちろんこちらの味方でなく、大男の一味です。もう連中に来られては最後だと思った。袋叩きに叩き殺され、裸にされてしまうと思った。腕力ではとてもその男にかなわないから、僕はもう無我夢中で身体を曲げ、大男の二の腕にがぶりと嚙みつきました。

 その大男の腕は固かったですねえ。まるで材木みたいに固かった。嚙みついた僕の歯の方がぐらぐらつとした位です。大男はうっとうなって、羽がいじめの手をゆるめた。そのすきに僕は男の手からのがれ出て、持ち物を全部地上に投げ捨て、一目散に走り出しました。大男は僕を追おうとしたらしいが、地上の物品を仲間にとられてはまずいと考えたのでしょう。迫って来なかった。もし追っかけて来たら、向うの方が足が早いにきまっているし、たちまちつかまえられたに違いありません。持ち物を捨てたのは、ほとんど無意識の動作でしたが、そのことが僕に幸いしたのです。

 それから二三日の間、僕は飯が咽喉(のど)に通らなかった。歯が痛くて、飯が嚙めないからです。そこでおかゆをつくって咽喉に流し込んでいました。よっぽど力をこめて嚙みついたんでしょうねえ。

 僕の歯の老衰を早めたのは、この事件もたしかに一役買っています。大きく言えば戦争というものが僕の歯をがたがたにした。まったく憎むべきは戦争です。タクアンや塩せんべいをパリパリ食べる楽しみを、戦争が僕から奪い取ったわけです。これは小さなことではありません。人生の幸福というものは、おおむねこのような日常の幸福から成り立っているものですから。

 

 それから僕は毎日、あるいは一日おきに、その山田歯科医院に通うことになりました。なにしろ大部分の歯が多かれ少かれ修理を必要としているのですから、順々にやるとしても、相当な日時がかかります。しかし忠さんの健保証のおかげで、経済的負担はまぬかれた。

 で、忠さんの方はどうしたかと言うと、三月の初め頃からピタリと店に来なくなってしまった。恋愛の方で忙しくて、パチンコまでに手が廻らないのだろうと思っているうちに、ある日僕は腹が痛くなった。売薬を買ってきて服用したが、痛みはますますひどくなる。そこで内科医の診察を乞うと、虫垂炎だという診断で、すぐ手術の必要があると言うのです。そこで即座に入院して切って貰いました。

 ことわりもしないで悪いと思つたけれども、背に腹は替えられず、これも忠さんの保険証を使用させて貰った。手術台に上りながら、僕は考えました。忠さんは歯ならびはいいから、歯科医にかかることはないだろうが、急性虫垂炎にはかからないとは限らない。もし今年にでも虫垂炎にかかり手術を受けるとすると、忠さんは健保証の上において、虫垂炎手術を二度受けたことになる。すると思さんは虫様突起を二本持っているということになり、ちょっと具合が悪くはないか。そう思ったが、もうその時は仕方がありませんでした。そして手術はかんたんに済みました。

 この虫垂炎も、結局は歯に原因したもののようです。医師の話によると、虫垂炎の一原因として、暴飲暴食があげられるそうで、だからよく月曜日にこの病気はおこるとのことです。半ドンとか休日には人間の心もゆるんで、とかく暴飲暴食するものらしいです。僕の場合は、歯が治療中だし、よく食物が嚙めない。ろくに嚙まないまま吞み込むということになる。定量食べていても、不消化に終るから、つまり暴飲暴食と同じことで、それが虫垂炎の原因になったらしいのです。どこまでも歯がたたつて来ます。

 この虫垂炎の入院期間もあり、歯の治療は相当長びきました。

 保険証のために、山田医師はもちろん僕のことを田井忠次(忠さんの名)だと思つていて、治療の合い問に世間話として、出版界の景気などを訊ねてくる。これには弱りましたが、いい加減に調子を合せてごまかしていました。ところがある日、とうとうウソがばれました。というのは、山田医師が僕の店にパチンコをやりに来て、僕とパッと顔を合せたのです。僕はすっかりまごまごして、身の置きどころがなかった。山田医師はにやりと笑って、すぐ傍のパチンコ台にとりつきました。僕はその時パチンコ台をあけて、玉の流れる調整をしていたんですから、山田医師は僕が客でなく、使用人だということを一目で見破ったらしい。

 でも、お医者さんがパチンコやろうとは、僕も考えなかったですな。もちろん医者がパチンコやってはいけないというわけはないけれど、うちの主人の言い草ではないが、どうも医者とパチンコとはつり合わないような気がします。山田医師のやり方を横目で眺めていると、職業柄小手先が器用なせいか、なかなかよく入つているようでした。

 山田医師は僕の店に一回パチンコやりに来ただけで、それ以後は来なかった。そして翌日から、僕に出版界の動向など訊(たず)ねなくなってしまいました。インチキの件も黙認ということになったらしい。

 そして五月の末に、とうとう歯の治療は終りを告げました。治療中にもたびたび主人に健保加入を交渉したけれども、主人は頑(がん)として聞き入れなかったのです。もっともこれは従業員側の団結力の不足のせいもありました。健保加入でワイワイ騒いでいるのは僕だけで、他の連中は手前が目下病気ではないものですから、そつぽ向く傾向が大いにありました。朝から晩までガチャンジャラジャラと、あの地獄のような騒がしさの中にいては、頭もすっかりぽけてしまうし、考え方も大へんエコゴイスティクになってしまうのです。いつか仲間の一人が、近所の露店から二十日鼠を三匹買つて来て、籠に入れて店に置いたところ、たちまち三匹が卍巴(まんじともえ)になつて喧嘩し始め、一日も経たないのに三匹とも悶死してしまった。もちろんこれは店内の不潔な空気と騒音のなせるわざです。こわいようなものですねえ。

 では、あれから忠さんはどうしたか。いろいろ気にはしてたんですが、ずっと御無沙汰をしていて、やっと治療も済んだものですから、お礼かたがた保険証返しに忠さんの出版社を訪れました。じめじめした天気の日でした。編集室は二階にあつて、見渡したところ忠さんの姿は見当らないようなので、そこで忙しそうに働いている女の人に訊ねてみると、おどろいたことには忠さんは突然気が狂って、三月末から精神病院に入院しているという。僕は思わず持っていた菓子箱を床に落してしまった。

 何でもその女の人の話では、忠さんはある女に失恋して、そのショックで気が変になったという話でした。向うで訊ねるから、僕は忠さんの従弟だとウソを答えた。だからくわしくいろいろと話して呉れたのです。病院はどこだと聞くと、神奈川県にある某私立精神病院だとのこと。それから遠廻しにさぐりを入れて見ると、やはり健康保険で入っているらしい。そして気が変になつているから、保険証のありかも判らないので、同僚が再交付の手続きをとり、それでやっと入院したんだそうです。僕は愕然としました。すると忠さんは神奈川県の精神病棟に収容されていながら、毎日か一日ごとにぬけ出して、歯の治療をやっていたことになります。入院が三月末だから、虫垂炎の方はツジツマが合うけれども、歯の方はごまかしようがありません。誰が見たってこれは変だと思うに違いない。

 忠さんの社を辞して、僕は大急ぎで山田病院を訪れました。そして山田医師に会い、歯の治療代のうち四月と五月の分は健保ではなく自費として払うから、と申し出たところ、山田医師はびっくりしたように「もう遅いですよ。点数の請求を出してしまったから」

 との答えでした。僕はがっくりと頭をうなだれました。一体これはどういうことになるんだろう。

 忠さんの保険証の注意事項を読むと、その第六条に『不正にこの証を使用した者は、刑法により詐欺罪として懲役の処分を受けます』とあります。この一条がかねてから気にかかっていたのですが、まあどうにかなるだろうと多寡(たか)をくくっているうちに、こんな形のどんづまりが来た。『不正にこの証を使用した者』はさし当り僕でしょうが、しかし忠さんも任意にこの証を人に貸したことにおいて不正を犯している。また山田医師もそれを黙認したことによって不正に加担したと言えなくもない。では三人とも懲役処分を受けるのでしょうか。

 でも考えてみれば、病気を治療するのは医者の使命であるし、病者は充分なる治療を受ける権利がある。そういう権利や使命をへんな具合にねじ曲げているものが現在にたしかにある。僕は自分の不正使用をそれでごまかすわけではありませんが、近頃医者の坐り込み、患者の坐り込みが、各地で頻々とおこっています。もちろんこれはねじ曲りに対する正常な抵抗だと思います。済南で僕に襲いかかった大男と同じく、羽がいじめにしてくれは、腕を嚙み切っても逃げねばなりません。それにはやはり頑丈な歯が必要だということになるでしょうねえ。

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