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2020/01/27

ラフカディオ・ハーン Yen-Tchin-King の帰還 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Return of Yen-Tchin-King”。「顔真卿(がんしんけい)の帰還」)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第四話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。一部の「!」の後に特異的に字空けを施した。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで右から左書きで「神僊可冀」。この「神僊」は「神仙」と同じで「神仙さへも冀(こひねが)ふべし」で「神仙でさえもそうなることを願うようなものだ」の謂いであろうとは思う。本文に出る「太上感應篇」には「所作必成。神仙可冀。」という文章は確かに存在するようである)。しかしこれらは漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるものであるが、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思って、かくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 最初に述べておくと、Yen-Tchin-King」は書家として知られた盛唐末から中唐の忠臣顔真卿(七〇九年~七八五年 拼音:YánZhēnqīng)のことである。ウィキの「顔真卿」によれば、孔子がその死を惜しんだ随一の高弟顔回の末裔を『称した。生まれは長安で』、「顔氏家訓」で『知られる』南北朝末期の大学者『顔之推の五世孫にあたる。顔氏は代々学問で知られ、また能書家が多く、世に学家と称された』。七三七年に進士に及第し、七四二年に『文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任した。ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ』七五三年に『平原郡太守に降格された』。『時まさに安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた時期に当たり、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、顔真卿は、族兄(お互いの五世の前の男系祖先が同じ)で常山郡太守であった顔杲卿』(こうけい)と『呼応して、唐朝に対する義兵を挙げた。その後』、七五六年には『平原城を捨て、鳳翔に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられた』。『しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相の元載のような実権者より妬まれ、反臣の淮南西道節度使李希烈に対する慰諭の特使に任じられ、そこで捕えられた。李希烈は真卿を惜しみ、自らの部下となるよう』、『何度となく説得したが』、『真卿は断固拒否し続け、唐への不変の忠誠心を表す「天中山」を記すに至り』、『李希烈は説得を断念、殺された』とある。死亡当時の皇帝は徳宗である。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 

    Yen-Tchin-King の歸還

 

 神靈の應報を論ぜる、尊い『感應篇』の第三十八章に、Yen-Tchin-King の傳說が述べてある。この立派な人物が世と去つてから、千年を經てゐる。彼の生存してゐたのは唐註十の盛時であつたから。

 

註十 唐時代――西曆六百二十年から九百二年に亙つて榮えた時代で、文學藝術を獎勵し、支那に最も華麗な文化の時期を與へた。第二章の話に擧げた三詩人は西曆七百七十九年より八百五十二年の間に盛名を揚げた人々である。

[やぶちゃん注:現行では唐代は六一八年から九〇七年とする。

「感應篇」「太上感感応篇」、既出既注であるが、再掲すると、南宋初期に作られた道教の経。善行を勧め、悪行を諫める善書の代表的な書物。作者と正確な成立年は明らかでないが、一一六四年よりも以前の成立である。一八三五年にスタニスラス・ジュリアンが“Le livre des récompenses et des peines”(「良き報酬と悪しき応報の本」の謂いか)として翻訳した。フランス語サイトのこちらで同書原文全文が読める(当該部を探すのは時間がかかるのでやめた。悪しからず)。ただ、この巻数や顔真卿では私は原文を見出すことが出来なかった。

「第二章の話に擧げた三詩人」「Ming-Y 秀才の話」に挙げた詩人は中唐の元稹(七七九年~八三一年)と、晩唐の詩人高駢(?~八八七年:訳文では「Kao-Pien」)・杜牧(八〇三年~八五二年:訳文では「Thou-mou」)である。ハーンの「七百七十九年」は元稹の生年であるから、まあいいとしても、「八百五十二年」は杜牧の没年であって、高駢の晩年を含まない(政治家としてはこの時期に彼は名を挙げているし、詩も作っている)から根拠がある年次ではない。

 なお、またしても、本篇の本文前にある以下の引用は省略されている(平井氏もやはりカットしている)。

   *

   Before me ran, as a herald runneth, the Leader of the Moon;

   And the Spirit of the Wind followed after me, — quickening his flight.

                                       LI-SAO.

   *

これは最後の「LI-SAO」から、「楚辞」の代表作で楚の屈原の「離騒」の中の一篇である(現在も英語ではかく表記する)。英文はなんだかよく判らぬが、これに合いそうな「離騷」の一節は、後段の第九小段の中の、

   *

吾令鳳鳥飛騰兮

繼之以日夜

飄風屯其相離兮

帥雲霓而來御

(吾 鳳鳥(ほうてう)をして飛騰(ひとう)せしめ

 之れに繼ぐに 日夜を以つてせしむ

 飄風(へうふう) 屯(あつ)まりて 其れ 相ひ離れ

 雲霓(うんげい)を帥(ひき)ゐて 來たり御(むか)ふ)

   *

かとも思われる。藤野岩友著「楚辞」(「漢詩大系」第三巻「楚辞」昭和四二(一九六七)年集英社刊)の当該部の訳を示す。

   《引用開始》

 私はまず鳳凰を飛びあがらせ、夜を日に継いで急行させた。ところが、つむじ風が集まっては離れながら、雲や虹を連れて出迎える。

   《引用終了》]

 

 さて、Yen-Tchin-King が六大法衙の一つの最高判事であつた頃に、兇惡の一將軍、にLi-hi-Iie といふものが、叛旗を擧げて、北方諸州の數百萬人を味方に寄せ、破壞の勢、猖獗を極めた。すると、天子はこの形勢を知り、且つ Hi-Iie は獰猛無比で、世の中で大膽の外、何ものをも尊敬することを知らない人物であることを知つたので、Tchin-King に命じて、Hi-Iie を訪ね、大義を說いてその心を翻へさせ、また彼に與みして[やぶちゃん注:「くみして」。]叛軍に加つた人民には、天子の譴責と警告の詔を讀みきかせるやうにした。それは、Tchin-King はその智と實直と勇氣にかけては、國中に有名であつたからである。して、天子は若し逆賊も忠義德操共に確乎不拔の士に耳を假す[やぶちゃん注:「かす」。]とすれぱ、彼は Tchin-King の言葉をこそ傾聽するだらうと信じた。そこで Tchin-King は職服冠冕を着け、また家を片附けて、妻子を抱擁してから、馬に乘り、天子の詔書を懷にして、單身叛徒の轟々たる軍に向つた。『私は歸つてくる。心配するな』これは彼が馬に鞭をあて、出立したとき、階段から彼を見戍つて[やぶちゃん注:「みまもつて」。]ゐた老僕に、告げた言葉であつた。

[やぶちゃん注:「六大法衙の一つの最高判事」当時の顔真卿の官職は憲部尚書(刑部尚書)・御史大夫で、前者は司法長官相当ではある。

Li-hi-Iieママ(原文は“Li-hi-lié”で、やはり「hi」であるが、ここは「Hi」でなくてはおかしい)。冒頭注で示した李希烈のこと。現行の英文表記は「Li Xilie」。

「職服冠冕」「しよくふくくわんべん(しょくふくかんべん)」。「冠冕」は冕板(べんばん:冠の頂に附ける板)を装着した冠(かんむり)で、通常は天皇・皇太子の礼服に付属するものであるが、ここはそうした最高位の代理人としての資格を示すためにそれを特別につけたということであろう。]

 

 

 Tchin-King は、遂に馬から下り、叛軍の營に入つて、それから、大勢の中を通りぬけて、Hi-Iieの面前に立つた。叛軍の大將は部下の諸將軍の間に高く坐つて、劍光刀影の稻妻と、數限りなき銅鑼[やぶちゃん注:「どら」。]の雷鳴に取りまかれ、黑龍の旗の絹の折目は彼の頭上に波を打ち、大きな火は彼の前にぱちぱち昔を立てで燃え上つてゐた。また Tchin-King は、その火の舌が人間の骨を甜めてゐて、人間の頭蓋骨が灰の中に黑く焦げて橫たはつてゐるのを見た。しかし彼はその火を眺めることも、また Hi-Iie の眼を覗き込むことをも恐れないで、天子の勅語の書いてある、芳香の薰ぜる、黃色の絹卷物を懷中から取り出だし、それに接吻してから、朗讀をしようとした。同時に群集は鎭まり返つた。そこで確乎たる朗かな聲で、彼は讀み始めた――

 『神聖なる皇帝は、叛徒Li-Hi-Iie 及び彼の部下の徒輩に告ぐ』

 すると、海の轟くやうな激忿[やぶちゃん注:「げきふん」。「激憤」に同じい。]怒號の聲と、『ひうー、ひうー、うー、うー』暴風に森が唸る如き猛惡な閧[やぶちゃん注:「とき」。]の聲が起こつた。それから、劍光散亂、銅鑼の響は脚下の地を動かした。しかし Hi-Iie が黃金を塗つた棒を振つたので、また靜かになつた。『いや、犬に吠えさせろ!』と、彼はいつた。そこで Tchin-King は、また續けた――

 『汝、最も噪急[やぶちゃん注:「さうきふ(そうきゅう)」。異様にせっかちなこと。]輕率なる者よ、汝はただ人民を驅つて、破壞の龍口へ陷る〻を知らざるか。汝はまた朕の國民は天帝の長子たるを知らざるか。この故に、書に曰く、徒らに人民を死傷に至らしむるものは、天これを生かさずと。汝は賢哲の定めたる法則――これを遵守して始めて、幸福繁榮を得べき法則を破らんと欲す。その罪最も重大にして恕す[やぶちゃん注:「ゆるす」。]べたらず。

 『朕の人民よ、朕は汝の皇帝にして、汝の父たり。汝等の滅亡を求むるものと思ふ勿れ。朕はただ汝等の幸福、繁榮、盛大を希ふ[やぶちゃん注:「ねがふ」。]のみ。汝等妄りに愚擧を以て天子の怒[やぶちゃん注:「いかり」。]を招くこと勿れ。狂熱盲動に走ることなく、朕の使者の賢訓を聽け』

 『ひうー、ひうー、うー、うー』と、一同は怒號して、ますます激昂した。遂にその叫びが山に反響して颱風の轟くやうであつた。して、今一度銅鑼の響は、聲を抑へ耳を聾した。Tchin-King Hi-Iie を眺めると、彼が笑つてゐたので、詔書は再び傾聽されないだらうと知つた。そこで、彼は

力の及ばん限り、使命を果たさうと決心して、傍目[やぶちゃん注:「わきめ」。]もふらずに終まで讀んで行つた。して、全部を讀み了つてから、その書を Hi-Iie に渡さうと欲したが、彼は受取らうと手を差し出しもしなかつた。則ち Tchin-King はそれを懷中にまた收め、腕を拱いて[やぶちゃん注:「こまねいて」。]、悠然賊魁[やぶちゃん注:「ぞくくわい(ぞっかい)」。賊の首領。]の顏を見守つて、待つてゐた。再び Hi-Iie が黃金を塗つた棒を振ると、轟々の音は止み、銅鑼の洞音も鎭まり、ただ龍旗の羽搏く音のみ聞こえるに至つた。すると、Hi-lie は、惡意の笑[やぶちゃん注:「ゑみ」。]を帶びていつた――

 『Tchin-King の犬め! 今忠誠の誓を立て、私の前に屈伏して、帝王に對する三拜の禮を以てせねば、その火の中へ投げ入れるぞ』

 が、Tchin-King は簒奪者に背を向け乍ら、霎時[やぶちゃん注:「せふじ(しょうじ)」。暫時。]身を屈めて天地を拜し、それから、不意に立つて、誰も彼を押へる遑[やぶちゃん注:「いとま」。]もない内に、燃え騰る[やぶちゃん注:「あがる」。]火炎の中へ跳び込み、兩腕を拱いて、恰も神の如くそこに佇立した。

 Hi-lie は愕然飛び上つて、部下に叫んだ。彼等は Tchin-King を火中より攫み出だし、裸の手のま〻彼の衣裳の炎を壓へて揉み消し、面と對つて彼を激賞した。して、Hi-lie さへも彼の座から下りて、甘言を吐いた。『君はなかなか勇敢至誠の人物だ。非常に尊敬に値する。どうぞ我輩と座を共にして、何なりとも食べて吳れ玉へ』

 しかし Tchin-King は儼然として彼を注視し乍ら、大きな鐘の音の如く朗々たる聲で答ヘた――

 『Hi-Iie め、苟も汝が憤怒と愚痴を續ける限り、私は決して汝の手たら何も受けないのだ。Tchin-King は叛賊や、人殺しや、盜賊の間に伍したとは決して世間に言はせない』

 Hi-Iie は俄かに激怒を發し、劍を以て彼を擊つた。して、彼は地に倒れて死んだ。死ねる際にも猶ほ、南方へ向つて――天子の宮殿の方に向つて、低頭敬禮しようと努めた。

 

 

 恰もそれと同時刻に、宮殿の奧の間にゐた皇帝は、足下に一人の姿が平伏するのに氣がついた。彼が言葉をかけると、その姿は立上つて、彼の前に現はれたのは Tchin-King であつた。皇帝は質問を發しようとした。しかしまだ皇帝が尋ねないうちに、耳慣れた聲は奏言した

――

 『陛下が臣に御依託になりました使命は仕遂げました。臣の微力の盡くし得る限り、勅命を成就致しました。しかし今や臣は他の主君に仕へるため、御暇乞ひを申上げねばなりませぬ』

 して、皇帝は壁間に描ける黃金の虎が、Tchin-King の姿を通して透視されたことを認めた。すると、冬の嵐の如く、颯と奇異なる寒さが室を通過して、姿は消え失せた。そこで、皇帝は彼の忠實なる臣が申上げた他の主君に仕へるといふことは、天上の幽界に歸つて行くのだと悟つた。

 また同時刻のこと、Tchin-King の邸の白髮の老僕は、いつも萬事整頓のさまを見るとき洩らす笑顏を示し乍ら、部屋々々を巡つて行く主人の姿を認めた。『お宜しう御座いますか、御主人』と老人は質ねた。して、『よろしい』といふ應答の聲は聞えた。しかし主人の姿は早くも去つて見えなかつた。

 

 

 かくて天子の軍勢は叛徒と奮鬪力戰したが、土地は血に染められ、火に焦がされ、累々たる死骸は川に流れて海の魚群を肥しても、依然戰爭は多年に亙つて續いた。それから、西北の荒漠に住む遊牧群が皇帝を援け[やぶちゃん注:「たすけ」。]にきた――彼等は悉く生來の馬術家であつて、各自强弩二百斤を引くほど、獰猛なる射手である。旋風の如く叛軍を襲ひ、雨の如く黑羽の矢を注いで、死の嵐を起こし、遂に Hi-Iie とその徒黨を敗つた。殘餘のものは、或は降服し、或は歸順を誓つて、秩序と政令は恢復されることになつた。しかしそれは、Tchin-King が死んでから幾春秋の後であつた。

[やぶちゃん注:「强弩」「きやうど(きょうど)」大型の横弓。

「二百斤」原文の単位は“pound”。換算すると九十・七二キログラム弱で話にならない。現代の日本の「斤」は六百グラムであるから、十二キログラムとなり、後者の換算で腑に落ちる。因みに唐代の「斤」は五百九十七グラム弱であるから有意な差は生じない。]

 皇帝は凱旋軍の諸將に、彼の忠臣の遺骨を携へ歸ることを命じた。それは勅命によつて建てられた靈廟へ、名譽の式を以て葬るためであつた。そこで諸將は無名の墓を探索し、それを發見したので、土を掘りのけ、棺を取り上げようと準備した。

 しかし棺は彼等の見てゐる前で微塵に崩壞した。何故なら、蟲がそれを蝕粍[やぶちゃん注:「しよくまう(しょくもう)」。「虫食って細かにすること」であろう。]させ、飢ゑたる土は其實を啖ひ[やぶちゃん注:「くらひ」。]盡くして、ただ空影のやうな外殼を殘しただけであつたからである。その空殼も日光に觸れると、直ちに消えてしまつた。それと同時に、一同の驚いたことには、そこには忠臣 Tchin-King の完全なる形姿が橫たはつてゐた。腐敗は彼の身に達してゐなかつた。また蟲類も其安息を妨げてゐなかつた。それたら、顏の生色も消えてゐなかつた。彼はただ夢をみてゐるさまに見えた――彼の婚禮の朝に於ける如く美はしく、また大きな堂塔の薄明かりの中に、眼瞼を閉ぢたるま〻微笑せる佛像の如き笑顏を呈してゐた。

 僧は墓邊に立つていつた。『これは實に天からの瑞徴です。かやうなさまに、天の力は、不滅の神の數に入るべき人々を保存します。死もか〻る人に勝つことは出來ず、また腐敗も彼等の近くに來ることは出來ないのです。たしかにかの偉人は天の神々の間にその座を得てゐます』

 それから、諸將は彼の死體を鄕國に運んだ。して、皇帝の命じた最高の式を擧げて、それを靈廟へ葬つた。そこに彼は永遠不朽となつて、禮服を着飾つたま〻眠つてゐる。彼の墓碑には、彼の偉大、叡智、德操の象徵と、官職の徽章、及び四つの貴い品が彫つてある。また神聖なる怪獸の石像が、その周圍を護り、神殿の如くに、奇異なる佛の犬註十一の像が、その前に番をしてゐる。

 

註十一 佛の犬――彫刻の表象として、支那藝術が最も怪奇なる作品を示せる非現實適の奇獸である。實際は獅子を誇張せるもので、また獅子の佛陀に對すゐ象徵的關係は周知のことである。かやうな神話的動物の像――時としては頗る堂々たるもの――が、寺院、宮殿、墳墓などの前ヘ一對をなして置かれ、尊嚴と神話の象徵となつてゐる。

 

神僊可冀

 

Gansinnkei

 

【ハーンによる「解說」】

 『Yen-Tchin-King の歸還』――私のこの飜譯には、思ひがけなき時代錯誤が含まれてゐるかも知れない。原文の物語は、『太上感應篇』に頗る簡勁に述べてある。說話家は帝王の名を擧げてゐない。また叛亂の起こつた時代をも、全く憶測に委ねた形になつてゐる。バーバー氏著『囘想錄』には、本篇に見えるやうな强弩善弓の一例として、彼が目擊した蒙古の射手は、耳と耳が合はんばかりに廣く両臂を張つて、二百斤の弓を曲げたといふことを記してゐる。

[やぶちゃん注:ハーンが危ぶむような「時代錯誤」はない。

「簡勁」「かんけい」。言葉・文章などが簡潔で力強いこと。

「帝王の名を」既に述べたが、顔真卿死亡時の皇帝は徳宗である。

「バーバー氏著『囘想錄』」不詳。アメリカの軍人ルシウス・バーバー(Lucius W. Barber  一八三九年~一八七二年)に“Army memoirs” というのは見出せるが、違うようだ。]

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