三州奇談卷之一 蘇子有ㇾ驗
蘇子有ㇾ驗
加州大聖寺に中野屋九兵衞と云ふ者あり。生質(うまれつき)强慾無慈悲にて神佛を輕(かろん)じ、罪業を恐るゝ事、夢許りもなし。利德のみに世を過しける。其報(むくひ)にや。子息九右衞門と云ふは、少しく慈悲も知り、生れ付朋友にも交りむつまじく、少しは親九兵衞が不仁義も是が爲にいひやむべきさま成しが、廿八の年(とし)世を早うして、又九兵衞が家内を取捌(とりさば)く。是にも無常は起らず、只今の利德のみに目をはたらかして、そろ盤の音を念珠ほどに所作とし暮しけるが、連合(つれあひ)の妻もほどなく死し、九右衞門の子安右衞門とて有しが、是も程なく死失(しにうせ)ける。
[やぶちゃん注:「少しは親九兵衞が不仁義も是が爲にいひやむべきさま成しが」「人徳のある息子のお蔭で、表向きは少なくとも親に対する批判を正面切って口にするものはあまりいないようであったが」の意であろう。
「無常は起らず」「商売から手を引いて楽隠居しても、現世で利を求めることの無常なることを悟る気持ちもまるっきり起らず」の謂いであろう。ただ、中野屋の商売が何であったかを記さぬのは話としては手落ちであろうと思う。]
かゝる愁傷の打つゞきけるに、近隣にも
「中野屋の遠慮は常住事(じやうぢゆうごと)なり」
[やぶちゃん注:これは難しい。誹謗であることは判るが、それが迂遠な表現でなされてある。「遠慮」は「遠謀」でここでは「現世での利益のことのみについて先まで考え巡らすこと」を指し、「常住事」は前の「無常」に洒落たもので、「そうした我利我利亡者の性質(たち)は生きている間中、変わらない」、即ち、「馬鹿は死んでも治らない」的な謂いと私はとる。以下の続きから、この遠回しな批判は久兵衛の耳にも入ったもののようである。]
と云なしける。然共(しかれども)九兵衞、
「只是は浮世の常、驚くべきにも非ず」
と、いよいよ利德のみに眼を光らしけるが、今は只孫の中(うと)にても末の子なる左四郞と云ふもの一人のみぞ殘りける。是を夕に日に愛し暮しけるが、寶曆十二年[やぶちゃん注:一七六三年。]正月八日に、又此左四郞も不許(ふと)心地煩しが、忽ちに死(しに)けり。九兵衞、例(れい)の事に思ひ、少しも歎かず、手早く旦那寺に人を走らせ、忌中簾を下(くだ)し、悔帳(くやみちやう)店先に直し、近隣の人にも告渡(つげわた)りける。
[やぶちゃん注:「例(れい)の事に思ひ」日常に生ずる出来事の一つとして認識し。
「悔帳」通夜に参った者の来訪と香典(彼はこれが目当て)を記す帳面であろう。「直し」はその帳面をしかるべき場所に改めて置き据えるの謂い。]
此他の習(ならひ)にて、一族親友打寄て野送りの葬具を拵(こしらへ)る事、家每の例(ためし)なれば、其親しきどち寄合(よりあひ)て、花を拵へ、菓子を積み、桶をはりなんどしけるに、九日の夜八ツ過(すぎ)[やぶちゃん注:午前二時(丑三つ)過ぎ。]の事にや、沐俗もさせ、小袖を逆樣にきせ、香華を備へ置ける亡者、折々に
「むくむく」
と起上る氣色(けしき)見へし程に、其夜詰居(つめゐ)たるは、豐田庄右衞門と云ふ足輕の役人、妻の一族にて居合(ゐあはせ)けるが、
「心得がたき事なり、二日二夜が間、死したる者の動くべき理(ことわり)なし。狐狸のわざならんには、猶更見屆(みとどけ)たきことなり」
とて、上の衣を打返して見たりけるに、少し息出で、手と胸の間にあたゝまり出來(いできた)りければ、
「扨は蘇生する」
とて、聲を出して
「左四郞左四郞」
と呼に、邊りの者も立騷ぎ、頻(しきり)に呼返しければ、
「うん」
と息を吹返して蘇生し、邊りの體(てい)を見て驚きながら、漸々(やうやう)に心を靜めて湯漬(ゆづけ)を好みける程に、人々忽ち悅びに引かへ、枕邊の人、俄に上下(かみしも)を脫捨(ぬぎすて)、僧を戾し、佛前を仕まひなど賑(にぎは)ひて、取持の者[やぶちゃん注:葬儀の接待に当たるためにいた者。]酒肴を好み出し、
「扨(さて)野送りの葬具は例のしわき親仁の事なれば、其元(そこもと)の時の分(ぶん)に取て置き給へ、跡は目出度祝ふぞ」
と、葬場の鱈汁前代未聞の一興にて有しと、其比の沙汰なり。
[やぶちゃん注:「其元(そこもと)」祖父吝嗇屋(しわきや)、基! 中野屋九兵衛を指すものであろう。ここ、左四郎の年齢が示されないのも恨みがある。かなり若いはずであるが、その彼がこの台詞や以下の記憶を語るには、ちと若過ぎるのでは異様とも言えるが、それはそれでまた面白いと思うのだが。]
其後(そののち)左四郞人々にいひけるは、
「扨も扨も有難き所へ行居(ゆきゐ)たりし物かな。忘れぬ内に語らん」
とて、
「我、只寢入るが如く沈み入(いる)やうに覺えけるうちに、茫然として廣き所に行くともなく、一つの寺あり、結構[やぶちゃん注:寺の作りのこと。]云ふ計りなし。いづくともなく薰(かぐは)しき匂ひありて、有難く覺へ斤彳(たたず)みける。一人の御僧、美くしき顏(かんばせ)うるはしき衣にて手に鉢を持ち、さも奇麗なる菓子を盛りて通り給ふに、何となく此僧に隨ひ行べき心付きて、跡へ附きて寺院に入らんとするに、頻に其菓子一つ喰たきことやまず。然共餘り結構[やぶちゃん注:この場合はその僧の様子が極めて真面目であったことを指すのであろう。]に見へたる故、さも云ひ難くためらふうち、此御僧ふり向き、此菓子を一つあたへられ、嬉しさ限りなく、頓(やが)て食(たふ)べけるに、類ひなき味にぞ覺えける。今猶口の中あまきこと絕へず。僧の宣ひけるは、
『此門の中へ入べし、第三番目の堂にこそ、汝を尋(たづぬ)る人はあるなるものを』
と差しおしへ[やぶちゃん注:ママ。]給ひて立去り給ふにぞ、敎の儘に堂に行きければ、内よりもゆかしと聞えて立出給ふ人を見れば、別れて久しき祖母上と兄安右衞門となり。『是は是は』
と驚きければ、
『汝今度(このたび)は歸り行くべし、頓て逢見るべし』
となつかしげに撫廻し、弄(もてあそ)び給ふ。
『我は御僧に逢ひ此所(このところ)を習ひて尋來りぬ。菓子も與へ給ふぞ。うまきことにて侍りし。爰にもあらばたまへよ』
と云ひけるに、二人ともに打しほれ、
『汝は果報者にて其御菓子をもらひ侍る。我は善所(ぜんしよ)に有りといへども、跡に訪(と)ひ弔(とぶら)ひもなく、僧尼に施しもなき故に、目のあたり見ゆれども手に取ること能はず。斯く如くして久しく年を經れば、自(おのづか)ら慾心の基(もとゐ)と成りて惡趣にかはると、御僧の折々しめし給ふ有がたさに、けふ迄此菓子を得ざるなり。汝歸らば、此事を語りて、祖父君に施物も出し給へと吳々(くれぐれ)語れ』
[やぶちゃん注:国書刊行会本では最後の部分は「祖父君に何とぞ慈悲の心を以て世を立て、寺々へ寄進として施物も出し給ふと、吳々もかたれ』となっている。]
と示し給ひて
『早々外へ出(いづ)べし』
と、手を取て、寺門を押出さるゝやうに覺えしが、茫然として心付きたれども、何とやらんあたりの體(てい)心元なくうつゝのやうに覺えしに、呼(よば)はり給ふ聲を力にしかと心付たり。
『扨は蘇生して侍るか』
と、我も驚きながら、其後は題目のみ申す。御約束あれば參るものぞ」
とのみ云ひしが、程なく正月二十二日に再び實の死を遂ける。
[やぶちゃん注:実質、蘇生は十日未明であるから、蘇生期間は僅かに十三日間であったことになる。なお、「題目」とあるからこの家は日蓮宗であったことが判る。]
かゝるまのあたりなるを見るにつけ、此世の樣を「さても」と驚くべきことなるに、此九兵衞、猶更驚かずして打過(うちすぎ)しが、或夜、殊の外苦しみける樣子に見えし。何にてか有けん、其後心急にあらたまり、自身にも懺悔(さんげ)して走り廻られける。猶末世を捨(すつ)るには及ばざれども、頓て千日寺參にも出べき志のよし、此程の取沙汰なり。
[やぶちゃん注:標題は「蘇子有ㇾ驗」「蘇(よみがへ)りし子、驗(しるし)有り」と訓じておく。この場合の「驗」は左四郎のあの世での奇異玄妙なる体験談と祖父への諌め、かくしてやっと最後の最後で九兵衛が改心することをまで含むものであろう。
左四郎の葬儀の冒頭で「小袖を逆樣にきせ」とあるが、これは葬送儀礼の一つである「逆さ事(ごと)」の一つである「逆さ着物」のこと。遺体に死に装束を着せた後、死者が生前好きだった自身の着物をその上に被せる習俗が地方によってあり、この際には上下を逆にして襟元を故人の脚側へ、裾を故人の首元へ向けて被せるのである。特定の宗派とは無関係な古い習俗と思われ、死者の行く世界が現在の我々の世界とは逆(例えば昼夜が)であると考えたことに由来するともされる。但し、私は寧ろ、死者の魂の抜けた骸(むくろ)に邪悪な霊が入り込み、ゾンビのように再生することを阻止する一つの手段というのが本源ではないかと考えている。衣服は魂を包んでいたものとして聖的な呪力を持つからである。例えば、臨終の前後に屋根に上がって西の空に向かって当該人物の名を呼びながら、その人の着物を振って魂呼びをする習慣がやはり地方によってはあるのもその証左である。]