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2020/01/07

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“AT HAKATA”)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の第三話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。なお、本篇は、この作品集以前に、『大西洋評論』(Atlantic Monthly)の一八九四年十月号に初出している。銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二五(一八九二)年四月三日(日曜)の条に『博多までセツとともに旅をする。四階建ての石田屋旅館に泊まり、博多織の工場を見学し、上土居町の妙行寺に巨大な仏頭を見、筥崎宮や西公園などを見物した。太宰府には二日市まで汽車で行き、人力車で一里を行く。ちょうど大祭(四月四日の厄除祈願大祭か)の日で、五十台の人力車が連なる、天満宮で一時間ほどの駆け足参拝をすませ、帰路』、『観世音寺で境内で遊ぶ子供を見、都府楼跡を眺める』とあり、次が四月八日(金曜)で、五高の『三学期がはじまる』(本文に出る幾つかの場所はそこで注する)とあるから、この博多旅行は四月三日に始まり、四月七日までの閉区間(めいっぱいならば五日)がこの旅の時制となる。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者戶澤正保(明治六(一八七三)年~昭和三〇(一九五五)年:パブリック・ドメイン)はイギリス文学者。東京外国語学校校長。「姑射」の号でシェイクスピア作品の翻訳を浅野馮虚(ひょうきょ)とともに手がけ、「沙翁(さおう)全集」を刊行したことで知られる。茨城県生まれ。菊池庸の二男であったが、戸沢正之の養子となった。明治三二(一八九九)年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業(これから見て小泉八雲の教えを受けた可能性が高い)、大学院に進学、明治三五(一九〇二)年に山口高等学校教授となり、明治四〇(一九〇七)年からは嘗て小泉八雲や夏目漱石が罪人した第五高等学校教授を務めた。イギリス留学を経て、再び山口高等学校教授となり、昭和四(一九二九)年に弘前高等学校校長に就任、昭和七(一九三二)年、東京外国語学校校長に転じ、昭和一三(一九三八)年退官(以上はウィキの「戸沢正保」及び講談社「日本人名大辞典」などを参照した)。底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している。

 原注は全体が四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて同ポイントで示し、注の前後を一行空けた。]

 

  博多にて

 

 腕車[やぶちゃん注:「わんしや(わんしゃ)」は人力車の異称。]の旅行では見る事と冥想(かんが)へる事しか出來ぬ。動搖(ゆさぶり)で讀書も苦しいし、車の囂々[やぶちゃん注:「がうがう(ごうごう)」。]と風の當たりで會話も出來ぬ――縱令[やぶちゃん注:「たとひ(たとい)」。]道幅は同伴者(みちづれ)と轂(くるま)を並ぶる程廣くとも。一通り日本風景の特長をも知つた上は、こんな旅行中に强く印象づけられる程の珍らしい物に出遇ふ事は偶(たま)にしかない。大抵の場合道は稻田、菜畝[やぶちゃん注:「なほ」。原文“vegetable farms”。野菜畑(やさいばたけ)。]、小さい草屋(くさや)の部落の何處迄往つても同じ風情なる中、さては無限に續く綠或は靑の小山の間を迂𢌞(うね)るのである。時には愕然とさせる樣に色彩の一面に擴がれるに出會ふ事もあるにはある。例へば菜種の花盛りで眞黃色(まつきいろ)な畠地、又は紫雲英花(げんげばな)で紫の瀰(はびこ)れる平野を橫切る時の如きである。併しこれは何れも短時日の間に過ぎ去る花やかさである。槪して云へば、廣々と綠色なす單調は何の感覺にも訴へぬので、人は夢想に沈み或は風に面を吹かれながら坐睡(ゐねむり)をしては、時に一段激しい動搖に呼び覺まさる〻が常である。

 自分は今博多までの秋の旅行で、正に其通り、替り番に眺めたり冥想(かんが)へたり坐睡(ゐねむ)つたりして居る。自分は蜻蛉のちらつくのや、網目の樣に田の畔路(くろみち)[やぶちゃん注:畦道(あぜみち)。]が目の屆く限り四方に擴がつて居るのや、見馴れた山嶺の輪廓が徐々として地平線上に移り行くのや、濃い碧空に漂ふ白雲の、刻々に變はる姿やを眺めて居る。――幾度自分は同じ九州の風景を眺めねばならぬのであらう、何故ここには目覺ましい何物もないのであらうと、且つ問ひ且つ嘆きつつ。

 突然、しかもそうつと、かう云ふ考が胸中に忍び入つた。最も目覺ましい景觀は、我を取り卷く此世界の平凡な綠色の中にある――此不斷の生命の出現の中にある。

 何處にでも常に、目に見えぬ根元から綠なる物(植物)は生長しつつある――軟らかい土から名堅い岩からも――人間よりも古い、此默せる、聲なき種族は、多種多樣の形態で何處にでも生長するのである。彼等の形而下の歷史は我々も其多くを知つて居る。我々は彼等に命名し彼等を分類した。彼等の葉の形骸、果實の品性、花の色の然(しか)あるべき理由をも知つて居る。我々は地上の物に形を賦與する恒久の法則の筋道を少からず學んだからである。併し彼等が何故に存在するかの一事は知らぬのである。此普遍的な綠色の中に表現を求める幽玄な意味は何であらう。又は無生物と見ゆる物自身も生命であらうか――ただ一層靜寂で、一層かくれたる生命なのであらうか。

 併しながら、それよりも、より不思議な、より敏捷な生命(動物)は地球の表面に動いて居る。空中にも水中にも住んで居る。此生命は地より離れるといふ、不思議な力を有して居る。が終極は地に呼び還され、甞て己が食物となした物の食物となる運命にある。此生命は感ずる、知る、這ふ、泳ぐ、走る、飛ぶ、考へる。其形態は無限である。彼の綠色なる、より遲緩な生命は、ただ存在を求むるに過ぎぬが、此生命は永久に不存在(死)と惡戰苦鬪する。我々は其運動の方式、其生長の法則を知り、其構造の最奥の迷路までも闡明した。其感覺を司どる局處迄も測知し命名した。ただ其存在の意義に至つては誰れも知らぬ。如何なる根元から來たつたのであらう。もつと簡單に云へば此物は抑も何であらう。何故に此生命には苦痛があるか、何故に苦痛に依つて展開せられるのか。

 而して此苦痛の生命こそは我々の生命である。此生命は見たり知つたりする。がそれは相對的の事で、絕對的には、之が食物となる、遲緩な、冷(つめ)たい綠色の生命と同じく盲目で、手探りで動き𢌞はるに過ぎぬ。併し此生命も、亦それよりも高い、或る生命の食物となつて居るのではあるまいか。無限に、より敏活な、より複雜な、目に見えぬ生命を養うて居るのではあるまいか。幽玄の寰内[やぶちゃん注:「くわんちゆう(かんちゅう)」。天子の治める場所。国内或いは直轄地である畿内を指す語であるが、ここは人知では測ることの出来ない、神秘な宇宙の領域の意。]には更に幽玄があり、生命の中に更に無限に生命があり、一の宇宙は他の宇宙と相截交錯して居るのではあるまいか。

[やぶちゃん注:「相截交錯して居る」原文はこの部分は“Are there universes interpenetrating universes?”で、“interpenetrating”がそれに当たり、これは「相互に貫入・重合している」の謂いである。]

 少くとも我々の時代では、人間の知識の及ぶ限界は固定して奪ふ可からずである。此限界の遙か彼方に出て、初めて右の樣な疑問の解決が出來る。併し此知識の限界とは何であらう。それは人間の賦性其者に外ならぬ。其賦性は後から來る子孫に於ても、同樣に限られてあるだらうか。彼等は、より高い感覺、より大なる能力、より機敏な知覺を發展さする事は出來ぬだらうか。之に就て科學は何と敎ふるであらうか。

 クリフフードの深淵な詞『我々は造られたのではない、自ら造つたのである』の中に、多分右への答は暗示せらるる。此詞は實にあらゆる科學の敎への中で、尤も意義深いものである。人間は何故自分を造つたか。それは苦痛と死とを免る〻爲めである。苦痛の壓迫の下にのみ、我々の現身[やぶちゃん注:「うつしみ」と訓読しておく。]はかく形造られた。苦痛の存在する限り、自己改造は續くであらう。遠い過去に於ては生の必需品は物質であつた。今日に於ては、物質と同樣に精神的の物が必需品である。將來に於ては宇宙の謎を解かんとする如きが、凡ての必需品中の、尤も殘虐で、尤も强大で、尤も恐ろしいものであらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「クリフフードの深淵な詞『我々は造られたのではない、自ら造つたのである』の中に、多分右への答は暗示せらるる。」原文は“Perhaps it has been suggested in the profound saying of Clifford, that we were never made, but have made ourselves.”。「クリフフード」はイギリスの数学者で哲学者のウィリアム・キングドン・クリフォード(William Kingdon Clifford 一八四五年~一八七九年)のこと。【2020年1月7日改稿・追記】何時も情報を戴くT氏より、以上の章句は、彼の“Lectures And Essays Vol.2”(一八九七年刊)の最初の、"BODY AND MIND”(リンク先は Internet Archive)の左ページの下から十二行目からの一文、"For, as a matter of fact, we were not made by any Frankenstein, but we made ourselves."がそれであることを御教授戴いた。

 世界最大の思索家は――其人は何故に此謎は解かれ能はぬかを我々に告げたのであるが――又此謎を解かうとする願望は長く繼續し、人間の生長と共に生長するに相違ない事を告げて居る

 

註 スペンサー「第一原理」

[やぶちゃん注:「スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者・倫理学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。

「第一原理」スペンサーが一八六七年に刊行した“First Principles”。当該書の英語原文はこちらで読めるが、ここでハーンが述べている内容がどこにあるのかは、英語の不得意な私にはよく分からない。【2020年1月8日追記】いつも情報を頂くT氏より、原文の注には“First Principles (The Reconciliation). ”とあると指摘を受けた。即ちこれは、上記の同書の「PART I.CHAPTER V.」の「THE RECONCILIATION.」(「調和」か)ということになるのであるが、T氏曰く、『THE RECONCILIATION  は三十ページほどですが、この中に八雲の纏めた文言に近い語句は見当たらず、内容を八雲が纏めた形で示したもののようです』とのことであった。今年も、お世話になります。有難う御座います!

 

 此必需品を認むる事は、それだけで、信に其中に冀望[やぶちゃん注:「きばう(きぼう)」。希望に同じい。]の芽を含有する。知らうとする欲望は、將來の苦痛の、恐らく最高な一形式として、今日の不能事を成就する能力の――今日見えぬものを見得る機能の、自然な進展を人間に爲さしめぬであらうか。今日の我々は、爾(かく)ありたしといふ願望に依つて現在の狀態に達したのである。我々の事業の承繼者は、我我が今日成りたしと願ふ所の者と成り得ぬであらうか。

 

       

 自分は今帶織業者の市博多に居る――此處は目ざましい色彩に充てる珍奇な狹い道を有する宏大な市である――そして祈願小路に足を停めた。といふ譯は、異常に大きい靑銅の首――佛像の首――がさる門口から此方を向いて微笑して居るからである。門口といふのは淨土宗の或る寺のである。そして此首は美しい。

[やぶちゃん注:「淨土宗の或る寺」原文“the Jōdō sect”。冒頭注の引用に出た「妙行寺」であるが、この寺は元は天台宗の道場で、創建以来、博多市街の中心部の旧川口町(現在の福岡県福岡市博多区上川端町の冷泉公園。グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった。文明五(一四七三)年に当時の住僧良言が本願寺蓮如に帰依して浄土真宗に改宗し、妙行寺の寺号を授与された。但し、昭和二〇(一九四五)年六月十九日夜の博多大空襲により、戦災を被り、本堂庫裡を始め、諸堂は悉く焼土と化し、昭和二十二年四月の「都市復興計画法」の施行により、境内全域は公園緑地の指定を受けたため、移転を余儀なくされ、昭和三六(一九六一)年三月に現在の福岡市南区野間に移った。参照した同寺の公式サイトの、こちらで位置は確認出来るが、その公式サイト内を見ても、小泉八雲が見た青銅の仏頭についての記載が全くない。ちょっと妙に感じたので、調べてみたところ、現在、福岡県福岡市東区馬出(まいだし:筥崎宮の西方近く)にある称名寺があった。ここは浄土教(念仏宗)の時宗の院であり、ハーンのそれを浄土教の一派の意で採れば、誤りでない。そこで、この寺を調べてみると、観光サイト「博多の魅力」の『戦前にも博多には大仏が在った』に、『さて、戦前には、「称名寺」境内に(博多土居町』(旧町名。この中央付近)『に在りましたが、大正』九(一九二〇)年に馬出に移転した)『「博多大仏」が有り、博多名物として市民に親しまれていました』。『兵庫県の』『寺から』、『試作品の大仏の首だけを貰』って改鋳し、明治四五(一九一二)年に『作られた青銅製の釈迦如来坐像で』(太字下線は私が附した)、『高さは』五・五メートルの大きなものであった。しかし、昭和一九(一九四四)年の太平洋戦争への『金属供出により』、『姿を消し』てしまった。『「奈良、鎌倉に次ぐ大仏さま」として博多のほこりでもあり、お参りする信者が絶えませんでした』。『称名寺は』鎌倉末期の元応二(一三二〇)年の開基で、『時宗のお寺(一遍上人が開祖)でありまして、浄土宗の一流』で、『目を見張る大きさの台座は、今も残っていて当時をしのぶ事が出来』るとある。同サイトの「称名寺大仏」に人々の映った写真があるので、完成した仏像の大きさが判る。ハーンが訪ねた時は、その貰った頭部のみがあったわけである。これによって銭本氏に年譜の「妙行寺」は「称名寺」の誤りであることが判る。]

 併しあるのは首計りだ。庭の鋪石の上なる首の支柱は、大きな、夢の樣な顏の頤まで積まれた、數千の銅鏡で隱れて居る。そして門内の揭示板が此問題を說明して居る。此鏡は巨大な佛の坐像――鎭座せる大蓮臺とも三丈五尺[やぶちゃん注:約十メートル六十センチメートル。台座を含めた予定完成型の推定の高さであろう。]の――への婦人からの寄附なのである。そして全體を銅鏡で鑄ようとするのである。此首だけを鑄る爲めに、既に數百の鏡が費やされた。工を竣はる[やぶちゃん注:「をはる」。]迄にはあと數萬を要するであらう。かやうな現況を見せられては、誰れか佛敎は亡びつつあると云ひ得ようぞ。

 けれども自分は此の狀況を見て嬉しく思ふ事は出來ぬ。自分の藝術感は、立派な佛像の期待で、多少滿足せられるけれども、此計畫が惹起す大破壞を、目(ま)の當り見せつけられては、傷(きづつ)けられる事が更に大きい。其理由は日本の銅鏡(今は西洋製の醜惡な安ガラス鏡に押し除けられて居る)は美術品と稱するに足る物であるからである。銅鏡の優雅な形を知らぬ者は、東洋流の、月を鏡に見立てた雅味を味ふ事は出來ぬ。銅鏡は表面のみが磨かれて、裏面は浮彫の模樣――或は花卉、或は鳥獸、或は昆蟲、風景、昔譚[やぶちゃん注:「むかしばなし」と読んでおく。]、福運の象徵、佛像等で飾られてある。極普通な鏡でもその通りである。併し種類は澤山ある。其中に驚くべきものは、所謂魔鏡である――魔鏡と云はる〻理由は、表面に日光を反射させて、幕或は壁に映す時は、其圓い映像の中に、裏面の模樣が、明かるく顯はる〻からである

 

註 「王立學會紀要」第二十七卷エアトン及びペリー敎授の「日木魔鏡に就て」なる一項、及び「哲學雜誌」第二十二卷同じく兩敎授が同じ題目に就て論じたる一項を見よ。

[やぶちゃん注:「王立學會紀要」“ Proceedings of the Royal Society”。『英国王立協会紀要』。一八〇〇年創刊。現在も続く。

「哲學雜誌」“The Philosophical Magazine”。十八世紀末から現在もイギリスで刊行されている自然科学の学術誌。一七九八年に、スコットランド生まれの出版業者アレクサンダー・ティロック(Alexander Tilloch)が創刊したもので、一八二二年からは、博物学者で出版も行ったリチャード・テーラー(Richard Taylor)が共同で編集するようになった。誌名の“Philosophical”は、自然科学が哲学から分離していない時代の博物学的雑誌であったことを示している、とウィキの「フィロソフィカル・マガジンにあった。

「日木魔鏡に就て」原文“On the Magic Mirrors of Japan”。「魔鏡」(まきょう)は、光を当てて反射光を壁に投影すると、像や模様が陰影となって現れるように造った仕掛けのある金属鏡のこと。日本に古くからある。水銀を塗布して仕上げられた青銅鏡の鏡面を、じかに見ても、普通の金属鏡と変りがないが、そこに太陽光線を当てて、反射光を白壁などに投影すると、鏡背に鋳造されている仏像や経文等が明るく写し出されるものである。鏡を神体化する信仰の強かった中国と日本に、昔からこの種の鏡があり、金属鏡の中でも特に宗教的崇敬を集めてきた。日本にこれが本格的に出現したのは江戸時代からであるが、製造・修復の際の、日本人の手先の器用さも手伝って、明治初期には既相当数のものが存在した。私の「新編鎌倉志卷之三」の建長寺の条の、「寺寶」の筆頭に開山大覚禅師蘭溪道隆旧所持品とする「圓鑑」(えんかん)の解説と図が載る。これはじかに鏡面に観音の半身の像が見えるようになっているものであるが、やはり魔鏡の古い一つと考えてよい。彼が中国から持ち込んだものであろう。

「エアトン」イギリスの物理学者ウィリアム・エドワード・エアトン(William Edward Ayrton 一八四七年~一九〇八年)。お雇い外国人として明治六(一八七三)年から明治十一年まで、工部省工学寮(明治一〇(一八七七)年に工部大学校に改称。東京大学工学部の前身)で教えた。日本で初めてアーク灯を点灯した人物としても知られ、最初に結婚した医師マチルダ・チャップリン=エアトンとは一緒に来日し、マルチダは、日本で助産師の学校を開き、自ら教えた。英国に帰国後、再婚したハータ・エアトンも女性科学者として業績をあげた、とウィキの「ウィリアム・エドワード・エアトン」にある。

「ペリー」機械工学者ジョン・ペリー(John Perry 一八五〇年~一九二〇年)。やはり、お雇い外国人で来日期間は明治八(一八七五)年から明治十二年。]

 

 此等靑銅の供物の堆積中に魔鏡があるかないかは自分には分からぬ。併し美しい細工が澤山あるのは確である。かく驚くべき精巧な細工が、こんなに投げ出されて、間もなく全然消滅のこ巡命にある光景を見ては、大なる感慨なきを得ね。多分十年ならずして、此國に於ける銀鏡銅鏡の製作は、永久に止むであらう。其時此等を購求せんとする者は、此銅鏡の運命を聞いて遺憾どころの沙汰でなく感ずるのではあるまいか。

 此家庭からの犧牲が、日に照らされ、雨に濡れ、街の埃(ほこり)にまみれて居る光景を見て起こる感慨は、啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]之に留まらぬ。此中の多數には花嫁の微笑も映つたらう。赤兒のも母親のも映つたらう。殆ど凡ては何等かの樂しい家庭生活を映したに極まつて居る。併しこんな思ひ出が與へるよりももつと幽玄な價値が日本の鏡には附着して居る。古い俚諺に『鏡は婦人の魂』と云つてある。それは單に人が想像する樣に譬喩的の意味に於てばかりではない。澤山の物語は鏡が持主の喜憂を感じ、或は光り、或は曇つて持主のあらゆる情緖に奇(く)しき同情を表はすことを述べて居る。それ故昔は――今でもといふ人もある――生死に關すると信ぜられるやうな、怪しい儀式には鏡が用ひられた。そして持主が死ぬ一と一緖に埋められた。

 されば此等の腐蝕しつつある古銅を見ると靈魂――若しくは少くとも靈的の物の殘骸を偲ぶ奇しき空想が起こるのである。一度鏡に映つた顏や擧動が、全く少しも殘つて居らぬと信ずることは殆ど困雖である。一度現はれたものは何處かに隱れて居ると想像せざるを得ぬ――そうつとそれ等の鏡に近寄つて、不意に其二三を反轉(かへ)し表面を上に出すならば、あなやと驚き退く刹那に過去を見ることが出來さうなものと想像せられてならぬのである。

 其上自分に取つては、日本の鏡を見ると喚起さる〻一の記憶に依つて、此目前の光景は特に感動を强められるといふ事を述べねばならぬ――それは『松山鏡』といふ日本物語の思ひ出である。此物語は尤も素朴に尤も詞少に[やぶちゃん注:「ことばすくなに」。]書かれてあるけれども、讀者の經歷と會得力と共に、其意味は深みを增すといふ、ゲーテの驚異すべき小話にも比せられ得ると思ふ。ジエームス夫人は此物語を心理的に出來るだけ或る一方面に敷衍した。其小著を讀んで感動せぬ者は人間の社會から驅逐さるべきである。此物語の含む日本人的漑念を推察なりとするには、此小著に附せられた優しい彩色版――狩野派の最後の大畫家の插畫――の含む密接な意味む感得し得るを要する(日本人の家庭生活に通ぜぬ外國人は『童話集』⦅ジエームス夫人の「松山鏡物詣」も其中の一部⦆の爲めに物された挿畫の美しさを十分に認むる事が出來ぬ。併し京阪の染物師は非常に之を尊重し、高價な織物に絕えず染め出して居る)併し此物語には多くの異本がある。讀者はつぎの筋書から十九世紀式譯本を銘々脇手に作ることが出來よう。

 

註 此物語の日本語原本と其譯文とを知るには、チヤンバレン敎授の「日本羅馬字讀本」を見るがよい。ジエームス夫人が小兒の爲めに物した美しい讀本に東京出版の「日本童話集」の中にある。

[やぶちゃん注:「松山鏡」(まつやまかがみ)は伝説で、古い芸能では謡曲「松山鏡」がある。早く母を失った娘が、その形見の鏡に映る自分の姿を母だと思って懐かしんでいると、やがて母の霊が現われ、娘の孝養の功力(くりき)によって成仏するという筋であるが(詞章はサイト「半魚文庫」の「謡曲三百五十番集」の電子化で全篇が読める)、人口に膾炙したものでは、伝承をもとに変形を加えた古典落語の「松山鏡」が有名である。ウィキの「松山鏡」によれば、この原話は古代インドの民間説話を集めた仏典「百喩経」の第三十五巻にある「宝篋(ほうきょう)の鏡の喩(たとえ)」であるとする。但し、ハーンはここを“Matsuyama no Kagami”と「の」を入れて記している

「讀者の經歷と會得力と共に、其意味は深みを增すといふ、ゲーテの驚異すべき小話」私はろくにゲーテを読んでいないので、引用元(小話)は不詳。識者の御教示を乞うものである。

「ジエームス夫人」註の方に“Mrs. F. H. James”とあり(生没年や事蹟を調べ得なかった)、「学校法人京都外国語大学創立60周年記念稀覯書展示会 文明開化期のちりめん本と浮世絵」のこちらで、ハーンの指す彼女の英訳のそれの一部画像と解説が見られる。但し、そこでの英訳題は“The Matsuyama mirror”である

「チヤンバレン」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年:ハーンとは同い年)については『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「四」・「五」』の私の中を参照されたい。

「日本羅馬字讀本」“A Romanized Japanese Reader”。一八八六年刊。]

 

      

 昔越後の國の松山と云ふ處に、名は忘れられたが、若い武士(サムラヒ)の夫婦が住んで居て、夫婦の間に一人の娘があつた。

[やぶちゃん注:「越後の國の松山」旧越後新田松山村。現在の新潟県十日町市松山新田。]

 或る時夫は江戶に出た――多分越後の國主の從者の列に加つてであらう。さて歸國の折、首都から土產物を持參した――娘へは菓子と人形と(少くとも插畫家はさう告げる)そして妻へは銀がけの銅鏡を。ところが若き妻には、其鏡が不思議な物に見えた。それは鏡といふものが松山にもたらされたのは、それが初めてであつたから。妻はそれが何の役に立つのやら分からず、あどけなくも、中にある美しい顏は誰れのかと尋ねた。夫が笑ひながら『ハテ、それは其許の顏ぢや、阿房らしい』と答へたので、恥ぢてそれ以上は何も問はなかつたが、いかにも不思議なものと思つて、急いで仕舞つて了つた。そしてそれから幾年も祕して置いた――何故だかは原文にも云つてない。多分何處の國でも愛の贈り物は詰まらぬものでも、人に見せられぬ程貴重だといふ簡單な理由であつたらう。

 併し病氣をして臨終の時、妻は此鏡を娘に與へて云つた。『わが亡き後は、每朝每夕、此鏡を覗いて見やれ、母は此中に居る程に。嘆きやるには及ばぬ』そして死んだ。

 それから後、娘は每朝每夕鏡を覗き込んだ。そして鏡の中の顏は自分の顏だと知らず、自分がよく肖て[やぶちゃん注:「にて」。似て。]居る亡母の顏だと思うて居た。そして其顏に向つて生ける者に云ふ如く話しかけた。日本の原本ではもつと優しく『母に會ふ心で』と云つてある。そして何よりも其鏡を大切にして居た。

[やぶちゃん注:先にリンクさせた謡曲の詞章では、『我が影の映るを見て母と思ひ歎くことの不便さは候』辺りを指すか。]

 處が遂に此事が父の目に留まつた。不思議に思つて娘に其理由を聞くと、娘は包まず話した。すると日本の原作者は云つて居る。『それをいとあはれに思うて、父の眼は淚に曇つた』

[やぶちゃん注:同前で、『父は涙にかきくれてや』とある。]

 

       

 昔話の筋はこんなものである――併し此罪のない誤謬は、果たして父が思うた樣にあはれなものであらうか。それとも父の感じは、自分が今ここに堆積せる受の思ひ出と其運命とを嘆く心と同じく空虛(うつろ)な名ものであらうか。

 自分は寧ろ娘の無邪氣な誤謬は、父の所感よりも恒久の眞理に一層近いものと思はざるを得ぬ。宇宙の因果律では、現在は過去の投影で、未來は現在の反映であらねばならぬからだ。我々は悉皆[やぶちゃん注:「しつかい」。]一である。光を構成する振動は、幾億萬とも數へ切れぬ程あらうとも、光は常に一である如くに。我々は一である、けれども無數である。我々の各〻は靈魂の蓄積であるから。確に娘は母の靈魂を見て、それにいとしげに話しかけたのである。自分の若い眼と唇の美しい影を見ながらも。

 かう考へると、此古寺の奇觀も新たな意義を生ずる――雄大な期待の象徵となる。我々の個々は眞に宇宙の何かを映す鏡である――其宇宙内に於ける我々自身の映像をも更に映す鏡である。そして我々の凡ては彼の大鑄金師『死』に依つて、或る大きい美しい非情の一物に鎔かされる運命にあるのである。どれ程大きい作品が作られるかは、只だ我々の後から來る者のみが知り得る。現代の西洋人である我々には分からぬ、ただ空想するばかりである。併し古い東洋は信じて居る。其信仰の姿が卽ちここにあるのである。凡ての形態を具へた物は、遂に滅びて或る者――其微笑は不變の安息であり、其知識は無限の洞觀である或る者に、吸收されねばならぬのである。

[やぶちゃん注:「洞觀」(どうくわん(どうかん))は「見抜くこと・見通すこと」。また、「推理や思考に拠らずに直観で本質を悟ること」を言う。ここでそれを持つのは、宇宙を支配する霊的存在「である或る者」が、という謂いである。]

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