三州奇談卷之一 蛙還呑ㇾ蛇
蛙還呑ㇾ蛇
古人絃歌を聞(きき)て世の治亂・國の興亡を知る。倭漢に其例(ためし)少なからず。今も其應驗(わうげん)ありけれども、是を知る人まれにして、空く虛事(そらごと)のみを云傳ふ。或は目のあたりためしある物も、跡にてはとかくに云もてあつかふ。是今の世俗の常なり。世は澆季とはいふべからず。
[やぶちゃん注:表題は「蛙(かへる)、還(かへ)りて、蛇を呑む」と読んでおく。「還りて」は私は「却りて」と同じで――蛙を蛇が丸呑みするというのは普通に聴く話であり、現象であるが、「却(かえ)って」、則ち、「逆に」の意であると採る。
「澆季」(げうき(ぎょう))の「澆」は「軽薄」、「季」は「末」の意で、 「道徳が衰えて乱れた世・世の終わり・末世」の意。未来の大事大変を予兆すべく超自然的現象が起こるということは、所謂、天神地祇の見放した世でも末法の世でも「ない」と言っているのであろう。]
是に付(つい)て云ふにはあらざれども、近年大聖寺の火災度々(たびたび)なるうち、大火事の前年[やぶちゃん注:後の記載から宝暦九(一七五九)年となる。]のことにや、福田橋尼懸所道(ふくだばしあまかけしよみち)と云ふ所に、村何某(なにがし)新右衞門といふ頭役(とうやく)の人の屋敷前に、蛙の蛇を吞むとて、人々あやしみぬ。人行き至りて見るに、蛇は一尺五六寸[やぶちゃん注:四十五センチメートル半から四十八センチメートル半。]もやあらん、國言(くにことば)に「アヲナムサ」といふ蛇なり。蛙は常に見る蛙ながら、少しは大いなるものなり。彼(かの)蛇を半(なかば)吞みて互にいどみしが、一日一夜ありて蛙終(つい)に蛇を吞(のみ)けり。傳へ聞く、「三足の蟾(ひきがへる)はよく蛇を制す」と聞えしが、是は夫(それ)にもあらず、常の蛙なり。大きなると云へども異常にはあらず。しかもらくに蛇を吞(のみ)ぬ。人々あやしみしが、其砌(そのみぎり)はまた或所の垣の内にも斯(かく)の如き事ありしと云ふ。其外にも蛙の蛇を吞みける沙汰ありし。
「さては蛙も蛇を吞むことにこそ」
と常事(つねごと)の樣に云ひける。
其頃、旅僧の來合せ居けるが云ひけるは、
「蛇・蛙共に水部に生を受(うけ)て、何(いづ)れも吞む理(ことわり/り)はありながら、大小の勢懸隔し、必(かならず)蛙が蛇に吞まるゝこと常理(じやうり)なり。然れども蛇は『兌(だ)』に形(かたち)し、『巽(そん)』に居る蛙は、『兌』の澤(たくには生ずれども、三角の體(からだ)圓形を供(そな)へて離火(りくわ)に屬す。火澤(くわたく)は必ず睽(けい/そむく)なり。澤水(たくすい)の中(うち)火氣映ず。故に蛙・蛇を吞の變あり。今の世、何の變害か有べきなれば、只火災にのみ此事預(あづか)るべし」
と云ひしが、果して翌年寶曆十年辰の二月七日[やぶちゃん注:庚辰(かのえたつ)年。グレゴリオ暦一七六〇年三月二十三日。]、大聖寺上口(かみぐち)袋町(ふくろまち)と云より火出て、中新道(なかしんだう)へぬけ、折節魔風はげしく、熖所々に飛びて、觀音町・魚屋町・東西關町・越前町・三ツ屋・五間丁(ごけんちやう)・一本橋町・中すじ通(とほり)・馬場町通り・京町通り・山田町通り・鍛冶町(かぢちやう)・荒町(あらまち)・寺町・法花坊・鷹匠町通・との町・福田町・中丁・八間道・新橋町通り・番場町・福田片町・新町・相生町(あひおふちやう)・土町(つちまち)、終に町を盡して福田上村迄忽ちに回祿して、殊に願成寺(ぐわんじやうじ)・毫攝寺(がうせつじ)・慶德寺(きやうとくじ)・福壽院等の伽藍、さも莊嚴(しやうごん)のかゞやきしも、一朝の焦土と成りぬ。
[やぶちゃん注:標題の「呑」はママ。本文は総て「吞」で異体字(現行では前者が使用される)。「蛙還呑ㇾ蛇」は「蛙、還(ひるがへ)りて蛇を呑む」と訓じておこう。読みの内、「理(ことわり/り)」は私が両様に読んだ(前者で読みたいが、後で「常理」が出るので音読みの可能性もあることに拠る)。「睽(けい/そむく)」は参考諸本で右に「けい」、左に「ソムク」という意注的ルビがあるのを再現した。地名は「近世奇談全集」のここ(ここで言っておくと同書はルビの歴史的仮名遣に誤りがよくある)及び現存する町名や記録類等を参考に附した。
「福田橋尼懸所道」「懸所」は東本願寺に於いて御朱印を受けるところで「掛所」とも表記する。西本願寺では「役所」「兼帯所」と言うらしい(「吉崎の逃穴」で既出既注)。「尼」とあるので、この懸所は尼僧が運営しているものか。「福田橋」は現在の同名の橋は石川県加賀市大聖寺福田町にある(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が、懸所の位置は不明であるが、この橋を通る通りの旧名であろう。
「村何某(なにがし)新右衞門」変わった表記である。当初は村名を敢えて省略したものと思ったが、諸本も皆同じであるから、意味としては姓に「村」の字が入るもの(村田など)かとも思われるのだが、普通、こんな書き方はしない。私は「何某(なにがし)」の誤字かミセケチ或いは誤判読ではないかと疑った。調べてみると、そう判じているのではないかと思しい本篇の紹介記事を見つけた。昭和四(一九二九)年五月十二日発行の『聖城公論』(「九谷焼研究」や「大聖寺藩史」など郷土史研究の著者である宮本謙吾氏が昭和三年から数年間発行していた新聞)第四十五号(加賀市による作成・PDF)の岩田心水氏の「旗山心水(二)」の記事である。
「頭役」大聖寺藩の役職者ともとれるし、また、この語には寺院に於いて講や仏事・法会を司る役の意もある。「屋敷」とあるからには前者か。
「アヲナムサ」柳田国男は「青大将の起源」(昭和七(一九三二)年四月発行『方言』初出)でこのアオダイショウ(有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora)の異名「青ナブサ」を渉猟して、最終的に、この異名(酷似した同型呼称が複数ある)はこの加賀だけでなく、『北は青森県の一端から、南は波照間(はてるま)の島まで拡がっている』とする(但し、これは本文の後の「追記」に出るもので、これは恐らくは単行本「西は何方」(戦後の昭和二三(一九四八)年六月甲文社刊)に再録された際に附したものであろう)。例えば、広島でもアオダイショウを「なむさ」と呼ぶことは、「広島大学」の「デジタル自然史博物館」のこちらでも確認出来る。則ち、これは地方方言というよりも、全国区であった可能性があることを柳田は示唆している。なお、彼によれば、「なぶさ」は本来は『平和なる蛇の名で、これには少しでも悪い響きはない』と述べている。
「三足の蟾(ひきがへる)はよく蛇を制す」「蟾」(ひきがえる)は一般的には本邦では現在は本邦固有種と考えられているヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus と考えてよい(以下に述べる中国産種はヒキガエル属ではあるが、別種である)。「三足」とは後足が一本の前足とで三本の蛙のことを指す。捕食されて欠損したものや奇形で幾らも自然界に実在はするが、中国では蝦蟇仙人(がませんにん)が使役する「青蛙神(せいあしん)」という霊獣(神獣)がこの三足だとされ、「青蛙将軍」「金華将軍」などとも呼ばれて、一本足で大金を掻き集める金運の福の神として現在も信仰されている。それを形象した置物も作られて売られている。私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」に、
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蟾、三足の者、有り。而れども、龜・鼈(すつぽん)にも、皆、三足有るときは、則ち、蟾の三足も怪しむに非ざるなり。蓋し、蟾蜍は土の精なり。上は月-魄(つき)に應じて、性、靈異たり。土に穴して蟲を食ふ。又、山精を伏し、蜈蚣(むかで)を制す。故に、能く陽明經(ようめいけい)に入りて虛熱を退け、濕氣を行(めぐら)し、蟲𧏾(ちゆうじつ)を殺す。而して、疳病・癰疽(ようそ)・諸瘡の要藥と爲す。五月五日、東へ行く者を取りて、陰乾しにして用ふ。
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とある。リンク先で語注もしてあるので参照されたい。また同書には「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 田父(へびくいがえる)」の独立項もあるので合わせて読まれたい。
「常事(つねごと)」「当たり前・当然のこと」の謂い。半可通な輩に限って、よく言いそうである。
「旅僧」この行脚僧を装った怪しげな僧である。以下に語られるのは中国の道教思想にかぶれた者が言いそうなことである。
「何れも吞む理」蛙や蛇は孰れも獲物を丸のみにする性質がままあるという謂い。実際の生態学上では必ずしもそうではない。蛇は歯があり、獲物を食い千切ることはある。
「『兌(だ)』に形(かたち)し」「兌」は八卦の一つ。一番上だけが陰爻(けい)(易に於いて陽爻は一本線、陰爻は中心が欠けた二線になる。陽爻が「男性的」「剛健」「動く」「日向」などを表すのに対し、陰爻は「女性的」「従順」「止まる」「日陰」などの意味合いがある。易では、この陰と陽に分けた二つの爻を用いて卦を作る)のもの。自然界では「沢」、卦徳は「悦」、人では「少女」、属性は「金」、身体では「口」、易数は偶数の「二」(奇数の劣る)、方角では「西」を表わすシンボルである。
「巽(そん)」八卦の一つで一番下だけが陰爻のもの。自然界では「風」、卦徳(八卦の持つ基本的な特徴を表したものの一つ)は「入」、人では「長女」、属性は「木」、身体では「股」、易数は「五」、方角では「東南」を表わす。
「澤」水辺・水に関わる場所。但し、実際の蛇類は必ずしも水域に限定棲息はしない。
「三角の體」頭部の形状であろう。
「離火」輝く「火」。よく分からぬ。判ったように解説するこちらをどうぞ。個人的には「五経」の中で最も興味のないものが「易経」であるので、悪しからず。
「火澤」同前。こちらでヴィジュアルに説明されてある。
「睽(けい/そむく)」こちらで『火沢睽は、上に昇ろうとする「火」に対し、下に下がろうとする「沢」、さらにそむくという意味を持つ「睽」で構成されています。これは、反発し合ったり、うんざりするといった暗示と言えるでしょう。気に入らないことが多い運気でもあるでしょう。ただ、敵対意識を持つことで、向上できる意味も隠されています』とある。これ以上、語る意欲はない。
「澤水(たくすい)の中(うち)火氣映ず。故に蛙・蛇を吞の變あり」私には論理的整合性があるようには全く思われない。
「變害」天変地異及び騒乱。
「大聖寺上口(かみぐち)袋町(ふくろまち)」出火もととして一ヶ所の地名のように出るのであるが、「大聖寺上口」とは越前への通路で、中町から越前町・関町に通じ、関所が設けられていた場所である。次の注の附近と考えられる。「袋町」は現存しない。
「中新道」ここ。
「觀音町」ここ。以下、現行町名と一致す場所で示す。場合によってはその一帯及び周辺と考えられたい。素敵なことに以下の旧町名は殆どが現存する。以下、実はやるつもりはなかったが(どうせ誰も読まないからでもある)、やっぱり最低の僕の節は守った。
「魚屋町」ここであろう。
「東西關町」この付近。
「越前町」ここ。
「三ツ屋」ここ。
「五間丁」大聖寺五軒町か。
「一本橋町」ここ。
「中すじ通」不詳。前後の位置のそばではあろう。
「馬場町通り」この付近。
「京町通り」この付近。
「山田町通り」この付近。
「鍛冶町」ここ。
「荒町」ここ。
「寺町」ここ。
「法花坊」ここ。現行は法華坊町。別本では「法華坊」とある。
「鷹匠町通」この付近。
「との町」殿町でここ。
「福田町」ここ。現行ではかなり北に飛び地がある。
「中丁」ここ。
「八間道」ここ。町名として実在する。
「新橋町通り」この一帯。現在は西に飛び地がある。
「番場町」ここ。
「福田片町」この周辺。
「新町」ここ。
「相生町」ここ。
「土町」不詳。
「福田上村」現在の大聖寺福田町か?
「願成寺」ここ。鍛冶町内。浄土真宗大谷派。
「毫攝寺」ここ。浄土真宗出雲路派。
「慶德寺」ここ。浄土真宗大谷派。
「福壽院」確認出来ない。現存しないか、寺名を変更したのかも知れない。この寺の名は私の経験上は浄土真宗ではないかなと思う。]