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« 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 横浜にて (戸澤正保訳) | トップページ | 第一書房昭和一二(一九三七)年二月刊「家庭版小泉八雲全集」第五巻 田部隆次氏「あとがき」 »

2020/01/15

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 勇子――追憶談 (戸澤正保訳) / 作品集「東の国から」全電子化注~了 / 来日後の作品集全電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“YUKO: A REMINISCENCE”。「勇子――一つの追憶」)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の最終話である第十一話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者戶澤正保は前の「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)」を参照されたい。

 本篇で語られる畠山勇子(慶応元(一八六五)年~明治二四(一八九一)年五月二十日)は、ウィキの「畠山勇子」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、安房国長狭郡鴨川町(かもがわまち)横渚(よこすか)(現在の千葉県鴨川市横渚(グーグル・マップ・データ))に『畠山治兵衛の長女として生まれ』た。『畠山家は鴨川の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。五歳で父を失い、十七歳で隣の千歳村(現南房総市)の平民に嫁いだが、うまくいかず二十三歳で離婚』し、『東京に出て』、『華族の邸宅や横浜の銀行家宅の女中として働いた後、伯父の世話で日本橋区(現・中央区)室町の魚問屋にお針子として住み込みで奉公する。父や伯父の影響で、政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読み、店の主人や同輩たちから変人とみなされていた。大津事件』(明治二四(一八九一)年五月十一日、来日したロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(当時二十二歳)が、大津において、警備の巡査津田三蔵に斬られて負傷した事件。その裁判を巡って、政府側と大審院長児島惟謙(いけん)との見解が対立、紛糾した。皇太子一行が人力車で京町筋を通行中、路上の警備にあたっていた津田巡査が,突然、抜剣して皇太子の頭部に切りつけた。その動機は、皇太子の来遊が日本侵略の準備であるという噂を信じたためであった。旧刑法では謀殺未遂は死刑にならなかったが、政府側はロシアの報復を恐れ、不敬罪を適用して死刑にすることを企図し、裁判に強力に干渉した。しかし、大審院の臨時法廷は、大津地方裁判所で同月二十七日に開かれ、犯人は謀殺未遂に立件され、無期徒刑を宣告された。津田は七月二日に北海道標茶町(しべちゃちょう)にあった釧路集治監に移送・収監されたものの、身体衰弱につき、普通の労役ではなく、藁工に従事したが、同年九月二十九日に急性肺炎を発症、翌三十日未明に獄死している)『が起こるや、国家の有事としきりに嘆いたが、周囲は「またいつもの癖が始まった」と相手にもしなかったという』。『そうした中、ロシア皇太子が本国からの命令で急遽』、『神戸港から帰国の途につくことになった。それを知った勇子は、帰郷するからと』、『奉公先の魚問屋を辞め、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。榎本は貿易商で、島津・毛利・山内・前田・蜂須賀ら大名家が幕府に内緒で銃を買い入れていた武器商人で、維新後は生糸の輸出で財をなしていた。勇子は伯父ならば自分の気持ちを理解してくれるだろうと考え、「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と口説いた。伯父は一介の平民女性が国家の大事を案じてもどうなるものでもあるまいと諫めたが、思い詰めた勇子は汽車で京都へ旅立った』。『勇子は京都で様々な寺を人力車で回った後、五月二十日の午後七時過ぎ、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀った。しかしすぐには死ぬことができず、すぐに病院に運ばれて治療が施されたが、気管に達するほどの傷の深さゆえ』、『出血多量で絶命した。享年二十七。当時の日本はまだ極東の弱小国であり、この事件を口実に大国ロシアに宣戦布告でもされたら国家滅亡さえ危ぶまれる、彼女はそう判断したのである。伯父や母、弟にあてた遺書は別に郵便で投函しており、総計十通を遺していた』。『その壮絶な死は「烈女勇子」とメディアが喧伝して世間に広まり、盛大な追悼式が行われた』とある近代の稀に見る憂国の烈女である。ハーン(小泉八雲)は事件発生直後から強い衝撃とシンパシーを彼女に持ち、来日後の第一作品集“Glimpses of Unfamiliar Japan”(明治二七(一八九四)年九月刊)で早くも彼女のことを記している(私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (二)』を見られたい)。また、本作品集刊行から七ヶ月後の明治二八(一八九五)年十月の京都旅行の際には彼女の墓を参って(『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』の私の注を参照)、『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「七」』の一章全部を彼女を語ることに費やしている。

 最初のクレジットはややポイント落ちの下六字上げインデントで、聖書の引用は、ややポイント落ちの九字下げで、連続して二行で表示されてあるが、ブラウザの不具合を考え、引き上げて恣意的に改行し、同ポイント四行で示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   *

 なお、本篇を以って、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)来日後の十二冊の作品集総てのオリジナル電子化注をブログ・カテゴリ「小泉八雲」にて完遂した。本格的に手をつけたのが、『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一)』で二〇一五年六月十七日であったから、途中、ブレイクした時期があるが、足掛け四年七ヶ月かかった。その間、「八雲会」様ほか、多くの方々からエールを送られた。心より感謝申し上げる。私の一つの小泉八雲の区切りとなったが、向後も、ゆっくらと来日前の作品群のそれに取り掛かりたいと思っている。

 

  勇子――追憶談

            明治二十四年五月

 

   誰れか勇敢なる婦人を見出すべき――

   勇敢なる婦人は貴重にして

   容易に國内に見出されず――

               拉典譯聖書

[やぶちゃん注:「拉典」(ラテン)「譯聖書」とあるが、表記は現代英語である。これは「ヴルガータ」(ラテン語:Vulgata)で、これはラテン語の「editio Vulgata」(「共通訳」の意)の略で、カトリック教会の標準ラテン語訳聖書のことを指す。これは「旧約聖書」の「箴言」の最後の第三十一章の中の第十節である。「文語譯舊約聖書」(昭和二八(一九五三)年版)から(ここを参考にした)当該部を引くと、『誰(たれ)か賢(かしこ)き女(をんな)を見出(みい)だすことを得(え)ん』。『その價(あたひ)は眞珠(しんじゆ)よりも貴(たふ)とし』である。]

 

 『天子樣御心配』。天の子宸襟を惱まし給ふ。

[やぶちゃん注:「宸襟」(しんきん)は「天子の御心」の意。]

 町は不思議にしんとして、萬民喪に居るが如き靜けさである。行商人さへ平常より低い聲で賣り步く。何時も朝早くから夜屈くまで雜沓する劇場も悉く閉鎖した。あらゆる遊び場、あらゆる興行物(みせもの)――花の會まで閉鎖した。あらゆる宴席料亭も同樣である。淋しい藝者町に三味線の音一つ聞こえねば、大きい旅人宿に酒飮み騷ぐ者もなく、客は低聲[やぶちゃん注:「ひきごゑ」。]で話すばかり。道行く人の顏にも平生の微笑は何處へやら、町角の貼紙は宴會や餘興の無期延期を報じて居る。

 こんな火の消えた樣な淋しさは、大きな天災若しくは國家の危機――大震災、首都の破壞、宣戰の布告の樣な報道のあつた後に起こるべきだ。併しそんなものは實際何もない――ただ天皇叡慮を惱まし給ふと云ふ報道があつた計り。それに國内幾千の都會を通じて、同じ憂愁の雲に掩はれ、萬民主君と悲みを同じうするの衷情を表して居る。

 君王の悲みを悲む此偉大な表現の直ぐ後から、過(あやま)てるを正し、損はれたるを償はんといふ、自發的の願望が一般に起こつて來た。此願望は直に衷情から出て、天眞爛漫な、無數の形で現はれた。殆ど各地各人から慰問の書面や電報、又は珍らしい献上品が國賓に宛てて送られた。富めるも貧しきも、重代の品物や、貴重な家の寶を取り出して、負傷した皇太子に捧げたのである。其外露國皇帝に傳送すべき無數の書面が認められた――皆何れも自發的に個人が爲したのである。或る奇特な老商人は自分を尋ねて來て、露國皇太子襲擊に對する全國民の深厚な悔恨の意を表はす電文――全[やぶちゃん注:「すべて」か。衍字のようにも思われる。]露國皇帝への電報――を佛語にて認めて吳れと乞うた。自分は丹精をこめて認めてやつたが、高貴な方への電文の文言には、全く無經驗であることを云つて聞かせた。『お〻それは關(かま)ひません』彼は答へて云つた、『セントピータスバーグの日本公使宛てに送ります。間違ひがあつたら公使が形式通りに直して吳れませう』自分は更に、電報の料金を承知して居るかどうかを尋ねて見た。處が彼は正確に百餘圓と計算した。これは松江の小商人に取つては莫大な支出であつた。

[やぶちゃん注:「セントピータスバーグ」“St. Petersburg”。サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)は現在のレニングラード州の州都(グーグル・マップ・データ)。当時はロシア帝国の首都であった。

「百餘圓」明治二四(一八九一)年当時の一円は現在の二万から三万円相当。]

 頑固な老サムラヒ達は、これとは全く異つた荒つぽい方法で彼等の所感を示した。大津で露太子警衞の任に當つた一高官は、特別便で、利刀と書面とを受け取つたが、其書面には、早速切腹して、男子の面目を完うし、兼て遺憾の意を表せと書いてあつた。

 一體日本人には、神道の神と同樣、二種類の魂(たましひ)がある。和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)とである。和御魂はただ補償を求め、荒御魂は贖罪を要求する。今や國民の生活を掩ふ暗澹たる大氣の中に到る處此の相反する衝動の奇なる震動が、恰も二種の電氣の如くに感ぜられる。

 

 遠い神奈川の或る富家に一人の若い娘の婢女(めしつかひ)が居る。名は勇子(ゆうこ)と云ふ。これは勇敢といふことを意味する、昔の武家風の名である。

[やぶちゃん注:「神奈川」原文もママ。彼女は横浜の銀行家宅の女中であったことはあるが、事件当時は既に注した通り、東京にいた。情報が錯錯綜していたものと思われる。また、前に示した通り、以下、ハーンは一貫して彼女を元武家の出としているが、彼女は農民の娘であり、縁者にも元武家はいない。その自死の苛烈果敢凄絶であったことから、これもそうした事実でない認識が広くなされたものと思われる。

 四千萬の同胞が悉く悲しんで居るが、勇子の悲みは群を拔いて居た。何故(なぜ)何(ど)うしてといふことは西洋人には十分に了解(わか)らぬ。が、彼女の全身は感動と、我々には極漠然としか分からぬ衝動とに領せられて居る。善良な日本少女の精神の一端は我々にも解せられる。其精神の中には戀もある――但し深く靜かに潛在して居る。汚濁を受け附けぬ純潔もある――其佛敎的象徵は蓮花である。又梅花にかかる初雪の樣に纖細な感觸もある。又武家傳來の死を恐れぬ氣性が、音樂の樣に和らかな温順さの中に潛んで居る。堅實で素朴な宗敎心もある――神佛を味方にして、日本の禮節に背かぬ限りの心願を掛けるに憚らぬ衷情からの信仰がある。併しこれと此外の色々の情感の上に、全體を統率する優越な一つの情緖があるが、それは西洋の語では表現することが出來ない――忠義(ローヤツチー)といふ譯語では全く物足りない、寧ろ我々の所司神祕的興奮に近い或る者で『天子樣』への極度の崇拜歸依の心である。これはただ個人一代の感情ではない。押し詰めると、忘れられたる遠い遠い過去の闇へ遡る先祖傳來の不朽不死の道念と意志である。彼女の肉身は、我々西洋人のとは全く異る過去の憑依せられた靈の住家(すみか)である。――其過去に於ては無數劫の間、凡ての日本人は一人の如くに、我々とは異る風に、生き、感じ考へたのである。

 

 『天子樣御心配』此報道に感應して男勇子の心には何か献上したいといふ燃ゆる樣な願望が直に湧き起こつた――制すべからざる願望ではあるが、給金から剩(あま)した僅少の貯への外には、何一つ所持せぬ彼女には全く無望であつた。けれども此熱望は執着して彼女に少しの平和をも與へぬ。夜になると彼女は考へに沈んで、自分に色々の問を發すると、祖先の禮が彼女に代つて答へるのである。『天子樣の御心配を安め奉るのに、何を献上したら宜からう』『汝の一身』と聲のない聲が答へる。『併し妾にそれが出來ませうか』と彼女は心許なげに問ふ。『汝には兩親とも無い』と聲が答へる、『さればとて汝の力では何を献上する事も出來まい。汝は我々の犧牲となるがよい。聖植の爲めに一命を抛つのは最高の忠義、最高の悅びではないか』『そんなら何處で』と尋ねると、『西京で』と沈默な聲が答へる、『古例に則つて死ぬ者の玄關口で』

 夜が明けると、勇子は起きて太陽を拜する。朝の任務を終はる。暇を乞ふ、許される。つぎに取つて置きの晴衣と、一番華美(はで)な帶と、一番白い足袋を着ける。これは天子樣の爲めに命を捨てるに相應しくする爲めである。一時間後には京都への旅に上つて、汽車の窓から滑り行く風景を眺めて居る。其日は美しい日で、遠方は眠たげな春霞で靑くぼかされ、見る目に心地善い。彼女は此好風景を祖先が見た樣に見て居る――併し西洋人には不思議で怪奇で美しい、古い日本畫帖での外、そんな風に見る事は出來ぬ。彼女は生の悅びを感ずる、併し彼女が生きて居れば、其生は將來如何に樂くなるだらうなどとは夢にも想はぬのである。彼女の死後も世界は昔通りに美しいだらうと思つても、何の悲みも伴なはぬのである。彼女は佛敎的の憂欝に壓せられて居ぬ、全く古神道の神々に身を委ねて居る。其神々は淸淨な森の薄暗がりから、又後へ飛び行く小山の上の古い祠(やしろ)から、彼女に微笑を向けつつあるのである。そして多分神の一柱は彼女に伴なうて居るのであらう。死を恐れぬ者に墓を宮殿よりも美しく見せる神、死神(しにがみ)と呼ばれる、死を願はしむる神が伴なうて居るのであらう。彼女には未來は暗黑でない。彼女はとこしへに山上の日の出、水面の嫦娥[やぶちゃん注:「じやうが(じょうが)」。中国古代の伝説上の月に住むとされる仙女の名。羿(げい)の妻であったが、夫が西王母から貰い受けた不死の薬を盗んで飲み、月に入ったとされる。転じて「月」の異称となった。ここは水面に映る月影からの連想であろう。原文は“Lady-Moon”である。]の微笑、四季の永久の魔術を見るであらう。歲月は幾𢌞轉しても、彼女は八重の霞の彼方、松の森陰の靜寂の中の、美しい場處々々に住むであらう。彼女は又梅花の雪を吹く微風の中に、流泉の淙々[やぶちゃん注:「そうそう」。水が音を立てて流れるさま。]の中に、綠野の沈默を破る樂い囁きの中に、靈妙な生を經驗するであらう。併し先づ、何處か此世ならぬ薄暗い座敷で、彼女の來るを待つ血族に逢つて、こんな事を聞くだらう、『けなげな擧動(おこなひ)を致したな――それでこそ武士(サムラヒ)の娘ぢや。サア、上がれ、今夜は汝故(そなた)に神々が我等と御會食下さる筈ぢや』

[やぶちゃん注:神人共食は神道の神祭の最も重要な秘儀の一つである。]

 

 娘が京都に着いた。時は夜が明けて居た。彼女は先づ宿屋を見附けて、それから上手な女髮結の家を探(さが)した。

 『どうぞこれを磨(と)いで下さい』勇子は小さい剃刀(これは女の身じまひには缺く可からざる品である)を髮結に渡して云つた、『此處に待つて居ますから』と買つたばかりの新聞を開いて、帝都からの最新情報を探した。其間、店の者は無禮を許さぬ嚴肅な美しい態度に打たれて、不思議さうに眺めて居た。顏は子供の顏のやうに穩かだが、聖上の憂慮の件を讀んでる中に、心の中では祖先の靈が小休みなく勁いて居る。『早く時が來ればよい』と考へた。『併し待つて居よう』小さい刄物は遂に遺憾なく磨ぎ上げられたのを受け取り、少し許りの賃錢を拂つて、宿に歸つた。

 宿屋で二通の書面を認めた。一通は兄への遺書、一通は御膝下の高官への見事な訴狀で、粗末ながら若き命一つ、贖罪の爲めに進んで捨てた微衷を酌んで、天子樣の御憂慮を鎭めさせ給はれと祈るのであつた。

 彼女が再び宿を出た時は、暁前の最も暗い時で、四邊は墓地のやうに寂寞として居た。街の燈火も數少く且つ微かであつた。彼女の下駄の音が妙に音高く響いた。見て居るものは星計り。

 問もなく御所の奧深い御門が眼の前に現はれた。其影の中へ忍び込んで、祈禱を小聲で唱へながら跪いた。さて古式に則つて丈夫な軟らかい絹の長い腰帶を取つて、衣裳をしつかりと身體に結(ゆは)ひつけ、膝の上で結び留めた。それは盲目的な苦悶の刹那に、どんな事があらうとも武士(サムラヒ)の娘は取り亂した死姿(しにざま)を見せてはならぬからである。それから沈着(おちつい)た正確さを以て咽喉を切ると、滾々と脈を搏つて血が流れ出た。武士の娘はこんな事を間違はぬ。動靜脈の所在を心得て居るのである。

 

 日出の頃、巡査が冷たくなつた彼女と、二通の書面と、それから五圓なにがしの入つて居る財布を發見した。(彼女は葬式の費用にはそれで十分と思つたのだ)そして屍骸と携帶品とを取り片つけた。

 

 此顚末は電光の樣に直に數百の都會に報ぜられた。

 帝都の六新聞は此報道を受け取つた。そして皮肉な記者は、あらぬ事共を想像し、此献身的行爲に有り勝ちな動機を發見しようと力め[やぶちゃん注:「つとめ」。]、隱れた罪惡とか、家庭の悲劇とか、戀の失望とかを探らうとした。併し否、彼女の淸廉な生活には、何の祕密も何の缺點も何の卑吝[やぶちゃん注:「ひりん」。いやしいこと。]な點もなかつた。半開の蓮の莟もそれと淸さを爭ふに足らぬ。それで皮肉な記者も、武士の娘にふさはしい立派な事ばかりを書いた。

 天子も此事を聞こし召され、陛下の赤子が如何に陛下を愛するかを知ろし召され、悲歎を止めさせられた。

 大臣達も聞いて、玉座の陰で相互に囁き合つた。『凡ての物は變はるだらう、併し國民の此心だけは變はらぬであらう』

 

 それにも拘らず、政府の高等政策で、政府は知らぬ振りをして居た。

 

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