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2020/01/29

三州奇談卷之一 山代の蜈蚣

 

    山代の蜈蚣

 山代の溫泉は大聖寺を去つて一里半、保賀(ほうか/ほが)の渡しと云ふ二天(にてん)の末の流(ながれ)一筋を隔てゝ、向の山の麓なり。平蕪(へいぶ)の田野竹村巷道(かうだう)平らかなる里つゞき也。湯は家々に取(とり)て、座敷湯にて、家ごとに二三ヶ所宛(づつ)上湯下湯の浴場(あみば)をこしらへ、自由過(すぎ)たる溫泉元なり。湯は淸く、香(かをり)又山中(やまなか)より薄し。然共、堀口何某の家に湯井(ゆせい)三つあり、湯涌返(わきかへ)りてすさまじ。是を掛樋(かけひ)にてとり、又山水を樋にて交へて家々にとり、大樣(おほやう)熊野湯の峰の如し。又水に交りて涌たまりあり。是は攝州有馬の湯のうはなり井の如し。男女、影をうつして口舌をなせば、水中に湯涌き上る又奇妙なり。山中より此地は湯出る數多しと覺ゆる所なり。

[やぶちゃん注:「山代」加賀市山代温泉(グーグル・マップ・データ)。

「保賀(ほうか/ほが)」読みは、前者は国書刊行会本の原本のカタカナ表記に基づき、後者は「近世奇談全集」のそれを示した。現在は加賀市保賀町(ほうがまち)である。東端を大聖寺川が流れる。現行、保賀中心部を抜けて山代温泉街に向かう国道百五十一号の保賀橋のみが大聖寺川に架橋するから、「保賀の渡し」もこの付近と考えてよかろうか。

「二天」これは山代温泉の東を流れる大聖寺川の上流、山中温泉の北端に当たる山中温泉二天町を指すものであろう。

「平蕪」雑草の生い茂った野原。

「竹村」一般名詞。竹叢。

「巷道」「路地」に同じい。

「上湯下湯」一般的な理解に従うなら、「下湯」は共同浴場的な気軽に入れる簡易なものとなるが、或いは泉質や温度に違いがあるのかも知れない。

「熊野湯の峰」日本最古の湯として知られる熊野の「湯の峰温泉」。小栗判官譚で彼が蘇生する「つぼ湯」で知られる。

「うはなり井」有馬温泉の妬湯(うわなりゆ)。「男女、影をうつして口舌をなせば」とあるが、一般伝承ではこの温泉が吹き出る井戸に、美しく化粧をした女性が立つだけで、湯が嫉妬したかのように吹き出したとされるかく名付けられたと伝えられている(現在は枯れて、すぐ裏手に新しい妬湯が掘られてある)。私の「諸國百物語卷之一 二十 尼が崎傳左衞門湯治してばけ物にあひし事」の本文及び私の注を参照されたい。]

 此湯本に豆腐屋三郞右衞門と云ふ人あり。蛇を遣ふことを覺え、又能く蛇を防ぐ故に、他の家には蛇多し、此家蛇なし。此人の物がたりに、

「此上の山おくに椎谷(しひだに)と云ふ所あり。野社(のやしろ)あり、椎數十本森をなす。此社地に雌雄の大白蛇あり。雄は長さ三間半餘(あまり)、雌は三間許もやあらん。久敷(ひさしく)見馴しに、或時行(ゆき)て見れば、雄蛇死してあり。いか成(なる)ことにや有けん。今は雌のみ殘れり」

と物かたりを聞きし。是は元文元年の頃かと思ゆ。

[やぶちゃん注:「豆腐屋三郞右衞門」不詳。

「椎谷」不詳。

「三間半」約六メートル三十四センチ。

「三間」約五メートル四十五センチ。

「元文元年」一七三六年。]

 又此頃予が友に夫由(ふいう)と云ふ人あり。寶曆某の年、大聖寺家中福島氏【名は源四郞】のもとにて、一怪物をみる。其形大なる男の拳(こぶし)程にして、黑漆百度(たび)ぬりし獅子頭のごとし。何物なることを辨ぜず。其故を尋けるに、福島氏敎へて云うふ、

「世に蜈蚣(むかで)蛇を制すといふ。故有哉(ゆゑあるかな)。我(われ)山代の山廻り役仰付(おほせつ)けられしに、久敷(ひさしく)山代の山入に有しが、里人の語りけるは、『此の奧に長さ四間餘の大蜈蚣ありて蛇を喰ひ、諸獸を服しけるを、村の者共集りて終(つひ)に打殺せり。其頭是にある』よし申(まうす)程に、我乞ひ求めて歸りぬ」

となり。實(げに)も手に取りてよく見れば、なる程百足虫(むかで)にまがふ所なし。其の堅さ甲鐵の如し。此山人家をはなれて遠からざるにさへ、かゝる異物の出來たるなり。然(しかれ)ば「山海經(せんがいきやう)」にも誠に其者あるべく、江州(がうしふ)百足山(むかでやま)の記事も疑ふべきにもあらず。扨は椎谷の雄蛇も、是が爲に破られしものか。

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。思うに、これは古い時代に山師が行った鉄の精製の際に発生したスラグの塊りではないかと私には思われる。しかしそれを大百足の遺骸とするのは故なきことではない。山師は百足を信仰したからである。これは私は地中に掘り込んだ坑道の形状がまさに百足に似ていたからでもあるように考えている。因みに、武士も百足を軍神のシンボルの一つとしていたから、この福島が貰い受けたというのも腑に落ちる。

「夫由」不詳。原著者麦雀の友人と思われる。

「寶曆」一七五一年~一七六四年。

「大聖寺家中福島氏【名は源四郞】」不詳。福島重次郎という人物なら見出せる。

「山廻り役」藩直轄の森林の管理体制における末端の職制。森林看視や植林・伐採作業の監督に当たった。

「四間」七メートル二十七センチ。

「山海經」中国古代の幻想的地誌書。全十八巻。作者・成立年未詳(聖王禹 () が治水の際に部下の伯益の協力を得て編んだとされるが仮託に過ぎない)。戦国時代の資料も含まれるが、前漢以降の成立と推定されている。洛陽を中心に地理・山脈・河川や物産・風俗の他、神話・伝説・異獣幻獣の記載がてんこ盛り。

「江州(がうしふ)百足山(むかでやま)の記事」「むかでやま」は近江の三上山(現在の滋賀県野洲市三上にある。標高四百三十二メートル)の異名。平安中期の武将藤原秀郷の百足退治伝説で知られる(但し、ずっと後の「俵藤太絵巻」(原話は南北朝以降の成立か)が淵源と推定される)。

 以下は、底本では全體が二字下げ。これは以下の注で述べるように、筆写者麦水の附記である。]

山代の奇事、此外に一向宗の寺へ矢島伊助といへる盜賊の頭(かしら)宿かれること、怪術しばしば目を驚かしてのち、天下大盜の物語りをなす。此事一件は、さきに一本を著はす。題して「越の白波」と云ふ。此中に委(くは)し。此段事長きが故に此書にはもらしぬ。

[やぶちゃん注:前注の論拠は、「越の白波」という書名による。こちら(金沢・石川に関わる事典の一ページ。PDF)に、

   《引用開始》

 コシノシラナミ 越の白波 堀麥水の著。現存のものは首卷と記されて、威盜熊坂長範・妖盜四井次郎兵衞・奇盜矢島伊助・竊盜白銀屋與左衞門の傳が記されて居る。この以外の續編が果して成つたのか否かは明らかでないが、恐らくは未完成らしい。

   《引用終了》

とあること、迷亭氏のブログ「それから 気ままに散策 城下町金沢」の「金沢 堀麦水の「三州奇談」とは (上)」に、「石川県史」の「国学」の条を引かれ、

   *

「宝暦・明和を中心として堀麦水あり。奇才縦横行く所として可ならざるはなく、その本領は俳諧に在りといへども、傍ら指を著述に染めて慶長中外伝・寛永南島変・昔日北華録()、又三州奇談、越廼白波[やぶちゃん注:「こしのしらなみ」。]の如き郷土的雑書あり。筆路何れも暢達にして毫も苦澁の跡を見ざるもの、蓋し加賀藩に於けるこの種の作者中前後にその比を見ること能はず。」

   *

とあることによる。なお、迷亭氏はこの後、

   《引用開始》

 この『石川県史』の編纂は日置謙であるが、日置は同書の「俳諧」でも、麦水と千代女とを比較して、「世人の評価以上に手腕を有したるは樗庵麦水なり」としている。

 日置は麦水の多才・多芸を絶賛しているが、なかでも『三州奇談』でその「奇才縦横」ぶりを十二分に発揮したといえよう。

   《引用終了》

と麦水と本書を高く評価されておられ、この前の部分でも、

   《引用開始》

『三州奇談』にはもととなる種本があったとされる。

『三州奇談』校訂者の日置謙[やぶちゃん注:私が底本としているもので、ここはその「三州奇談解說」の一節をもとに書かれておられる。]はこれについて、つぎのように述べる。酒井一調の「根無草」に住吉屋次郎右衛門が話を集めたとあるが、それは事実であろうが、その種本なるものはきわめて貧弱なものであっただろう。

 つづいて『三州奇談』の内容は、甚だしく荒唐無稽のことのみのように思われるが、それは麦水自身のねつ造にかかわるものではなく、そうした奇説恠談が民間にあったのを採集したことに本書の価値が認められ、存在の理由があるとしている。これをいいかえると、各話からは近世の人々がなにをみていて、それについてどのように考えていたかを読みとることが可能だということである。

 これはほかの史料とはひと味違う特徴的なことであり、郷土の伝承歴史文化を研究する文献のひとつとされる由縁だと考える。

   《引用終了》

と述べておられ、私も激しく同感するものである。

「矢島伊助」詳細不詳。]

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