甲子夜話卷之六 5 大猷廟、天海僧正へ柹を賜はる事
6-5 大猷廟、天海僧正へ柹を賜はる事
天海僧正は、神祖の御時より眷注を被りし長壽の人なり。一日猷廟の御前にて柹を賜ふ。喫して其核を懷にするを御覽ぜられ、僧正何にするよと問はせられければ、持歸て植候と答ふ。仰に、高年の人無益のことにとありければ、天海申すは、一天四海を知しめさるゝ御方は、かゝる性急なる思召然るべからず。無ㇾ程この柹の生立上覽に呈せん迚、退出せり。年を經て、僧正柹を多く器に盛て獻上す。猷廟いづくの產物ぞと御尋ありしに、左候、これは先年拜受せし柿核の、生長して所ㇾ實なりと申上ければ、上を始め奉り、その席に有合ふ諸人、歎服せざるは無りしとなり。
■やぶちゃんの呟き
「大猷廟」徳川家光(慶長九(一六〇四)年~慶安四(一六五一)年:将軍在位/元和九(一六二三)年から没年まで)。
「天海僧正」(天文五(一五三六)年?~寛永二〇(一六四三)年:この生年が正しいとすれば実に数え百八歳)は、天台僧。号は南光坊。諡号は慈眼大師。会津出身。比叡山・興福寺などで諸宗について学び、川越の喜多院などに住した。徳川家康の帰依をうけて政治にも参与し、日光山を授けられた。家康死後、家康を久能山から日光山に東照大権現として改葬し、江戸上野に寛永寺を創建、天海版と呼ばれる「大蔵経」の版行を発願した(完成は没後)。事蹟のよく分からない部分がある謎の家康のブレーンで、実は明智光秀が生き残って彼となったという珍説さえある。本篇が何時の出来事であるか不明であるが、家光が将軍職となった年だとしても、推定生年からは八十七歳である。
「眷注」特に目にかけてそばに置いたことを指すようである。
「核」「たね」。
「生立」「おひたち」。
「所ㇾ實なり」「所」は使役で「みのらしむるなり」「みのりせしむるなり」であろう。