フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 三州奇談卷之一 菅谷の鬼婦 | トップページ | 三州奇談卷之一 傀儡有ㇾ氣 »

2020/01/26

ラフカディオ・ハーン 織姫の伝説 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Legend of Tchi-Niu”。現代の拼音では織女星の「織女」は「zhī 」であるからこれも「織姫」の当時の中国語ローマ字転写なのであろう)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第三話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで右から左書きで「太上感應篇」)。しかしこれは漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるものであるが、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思って、かくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 

   織姬の傳說

 

 老子の貴い書物の本文に附せられた『感應篇』といふ奇異なる註釋の中に、頗る古い一小話がある。その話が非常に美はしいため、始めて語つた人の名は、一千年間も忘れられてゐても、話だけは四億民の記憶の中に、恰も一たび習ふと、永遠に覺えられる祈のやうに、今猶ほ生きてゐる。支那の作者はこの話について、都會の名も、また州の名も擧げてゐない。たとへ最も古い傳說を述べる場合にも、か〻る省略は滅多にないことである。私はただこの話の主人公の名は、Tong-yong であつたことと、彼が約二千年前の漢時代に住んでゐたことだけを告げられてゐる。

[やぶちゃん注:「老子の貴い書物の本文」「老子」のこと。

「感應篇」「太上感應篇」。南宋の李石撰になる勧善書で、その内容は「老子」ではなく「抱朴子」を元にしていると考えられている。「太上」は「太上老君」で、道教の始祖とみなされる老子が神格化されたものである。個人ブログ「浄空法師説法研究」の「『太上感応篇』大意」がよい。

Tong-yong」平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「織女の伝説」では、『董氷』となっている。しかし、yong」は「氷」(bīng)ではなく「永」(yǒng)ではなかろうか? 「董永 織女」で検索を掛けてみたところ、日本語のブログ「福聚講」の「童子教解説・・4」で、

   《引用開始》

董永(とうゑい)一身を売りて、 孝養の御器(ぎよき)に備ふ。(二十四孝によると「董永(とうえい)はいとけなき時に母に離れ、家まどしくして常に人に雇はれ農作をし、賃をとりて日を送りたり。父さて足も起たざれば小車(せうしや)を作り、父を乘せて、田のあぜにおいて養ひたり。ある時父におくれ、葬禮をとゝのへたく思ひ侍れども、もとよりまどしければ叶はず。されば料足十貫に身をうり、葬禮を營み侍り。偖[やぶちゃん注:「さて」。]かの錢主(ぜにぬし)の許へ行きけるが、道にて一人の美女にあへり。かの董永が妻になるべしとて、ともに行きて、一月にかとりの絹三百疋織りて、主(ぬし)のかたへ返したれば、主もこれを感じて、董永が身をゆるしたり。其後婦人董永にいふ樣は、我は天上の織女(おりひめ)なるが、汝が孝を感じて、我を降(くだ)しておひめを償(つぐの)はせせりとて、天へぞあがりけり。

   《引用終了》

とあった。これは本篇との類似性が認められる。「童子教」は児童教訓書で、平安時代の僧安然著と伝えられる(著作年代は未詳)。全一巻。刊本は明暦四(一六五八)年刊。中世以降、童子の道徳教訓書として用いられたもので、儒書から日常的な教訓を選び、仏書から因果応報の説話を説く全 三百三十句から成る。特に近世には「実語教」とともに寺子屋などで使用され、教育史上、大きな役割を果した書である。さても、この名で辿ってゆけば、その原拠はやはり同様の目的で書かれた元の郭居敬の編纂した「二十四孝」の「董永」に行き着く。華藏淨宗學會出版になるカラー版の「二十四孝圖説」PDF)の「第十三孝【董永賣身】漢」(四十九~五十二ページ)を見られたい。梗概は邦文のウィキの「二十四孝」にあるが、まあ、孰れもまずは本篇を読まれた後に見られたい。

 さらに言っておくと、上記原本画像を見ると、判る通り、本篇の冒頭の前には(左ページ)、

   *

 

A SOUND OF GONGS, A SOUND OF SONG, — THE SONG OF THE BUILDERS BUILDING THE DWELLINGS OF THE DEAD : —

 

       Khiû tchî yîng-yîng.

       Toû tchî hoûng-hoûng.

       Tchŏ tchî tông-tông.

       Siŏ liú pîng-pîng. 

 

   *

という添え字が認められるが、落合氏はこれをカットしている。因みに、平井呈一氏も訳していない。頭の部分は、

   *

銅鑼(どら)の音(おと)、歌の音(ね)、死者のための住み家を建てる建築家の歌――

   *

であろうか。以下は当時の中国語ローマ字音写であって自動翻訳が全く機能しないので、意味は分からない。出典が判れば探しようもあろうが。識者の御教授を乞うものである。カットされたのは今までのそれらと同じく本篇内容と直接の関係がないからであろうが、訳者としては不当な越権行為である。落合氏は他でもこうした恣意的行動をとっている。【2020年1月27日:追記】中国語の堪能な教え子に頼んでみたところ、早速に以下のようなメッセージを頂戴した。

   《引用開始》

結論ですが、掘り返そうとしても、巌のように硬い地面にツルハシも刺さりません。

 まず、拼音表記が確立する以前のアルファベット表記の揺れを念頭に様々な読みを当て嵌めますが、意味が通じません。字の上についているおかしな声調記号も目障りです。そこで次にハーンの本著作の英語版印影を当たってみました。そこに
一つの出版印影があり、同書ではこの部分、次の表記になっています。

        Qiu zhi ying-ying
        Du zhi huang-huang
        Zhe zhi dong-dong
        Xiu liu bing-bing

中国語を母語とする者、或いは中国語の心得ある者が何らかの意図を持って編集したものかどうかは分かりませんが、藁にもすがるつもりで敢えて漢字を想像します。

 一行目から三行目全てに現れる zhi の発音を見ると、どうしても「之」の字を当て嵌めたくなります。では他の部分は……。これがまた手に負えません。以下にいくつか脳裏に浮かぶ案を示します。

        Qiu zhi ying-ying
(求?)之(嘤嘤?盈盈?)
※「嘤嘤」は小鳥の鳴き声の擬音語
※「盈盈」は水が満ち溢れる様を表す擬態語

        Du zhi huang-huang
(讀?度?)之(惶惶?)
※「惶惶」はビクビク恐れる様子

        Zhe zhi dong-dong
(遮?)之(咚咚?)
※「咚咚」はトントンという擬音語

        Xiu liu bing-bing
※この行はまるで取っ掛かりが見つかりません。

上記の英語を中国語に翻訳した書物があれば是非見てみたいものですが、ここで力尽きました。お役に立たず、申し訳ありません。

   《引用終了》

何らかのオノマトペイアであるかという感じはしていた。向後、また何か分かったら追記する。なお、困難なお願いを調べてくれた教え子に心より感謝するものである。

 

 Tong-yong の母は、彼がまだ幼稺[やぶちゃん注:「えうち(ようち)」。「幼稚」に同じい。いとけないこと。]の時に死んでゐた。して、彼が十九歲の靑年になつたとき、彼の父もまた失せたので、彼は全然孤獨の身となつて、しかも何等の資產もなかつた。それは、彼の父は極めて貧しくて、彼の子を敎育するために、非常な窮境に陷つて、儲けたものから一錢をも貯へ置くことは出來なかつたからである。彼は慣例の葬式を行ひ、吉方の地に墓石を立てて、慈父の記憶に敬意を表する事が出來ないほど窮乏してゐるのを大いに歎いた。貧しいもののみが貧しいものの知り合である。彼の知人中、誰一人として、葬式の費用を辨ずるため、助力を與へ得るものはなかつた。この靑年が金を得る方法は、唯一つあつた――富農に身々買つて奴隷たることであつた。して彼は遂にさうしようと決心した。知人達は彼に思ひ止まらせようと、全力を盡くしたが駄目だつた。また將來の援助を約して、彼を賺かして[やぶちゃん注:「すかして」。]、その擧行を延ばさせようと試みても、無効に了つた。彼はただ答へて、出來ることなら、百囘彼の自由を賣つても、暫くなりとも、父の記憶を崇めないま〻[やぶちゃん注:「あがめないまま」。]放擲して置くには忍びないといつた。更にまた彼の靑春と腕力に信賴して、彼はその服役に對して高價を附することに定めた。立派な墓を建て得るやうな金高で、彼としては殆ど拂戾し得られさうもないほどであつた。

 

 

 そこで、彼は奴隷や負債者の身が賣りに曝らしてある、廣い公開の場所へ行つて、彼の服役代價と勞働者として彼の資格の目錄を書いた札を肩にぶらさげて、石の腰掛に坐つてゐた。札の文字を讀んだ多くの人々は、要求價格に對して侮蔑の微笑を洩らしただけで、一言も發せずに過ぎ去つた。他の人々は單に好奇心のあまり立停つて彼に尋ねた。虛僞の賞賛を以て褒める人々もあれば、また明からさまに彼の献身無私を馬鹿にして、彼の子供らしい孝行を笑ふものもあつた。かやうにして空しく長い退屈な時間が經つて、彼は殆ど主人を見出す事を絕望してゐると、一人の州の高官――威風堂々たる美男子で、一千人の奴隷を有し、廣大なる邸宅の持主――が、馬に乘つて近づいた。高官は其韃靼馬[やぶちゃん注:「だつたんば(だったんば)」。]の手綱を控へて、札を讀んで、奴隷の代價を思案した。彼は微笑もせず、助言もせず、質問も發しなかつたが、要求の價格を見、また靑年の立派で屈强な四肢を見て、無造作に彼を買つて、單に從者をして金高を拂はしめ、且つ必要の證書類を調製するやう命じただけであつた。

[やぶちゃん注:「韃靼馬」原文“Tartar horse”。「タタール馬」。タタールはモンゴルから東ヨーロッパに跨る広い範囲を指し、「韃靼馬」としては、漢の武帝の故事にある「一日千里を走り、血の汗を流す」と伝えられる大苑(フェルガーナ)の天馬「汗血馬」が有名。]

 

 かくて、Tong は心願を遂げて、小さな形ではあるが、巧妙なる技術家の意匠により、熟練なる彫刻師の腕によつて仕上げられて、見るものの眼を娛しましめさうな墓碑を立つる事を得た。して、まだ其設計中に、恭敬を盡くせる式は擧げられ、死者の口中へ銀貨を入れ、白い提燈を戶の上に吊るし、神聖な祈が誦せられ、また死者が仙鄕で要しさうな、紙で作つた一切のものが、淨められた火で燒かれた。それから、方位鍳者[やぶちゃん注:「はうゐかんじや(ほういかんじゃ)」。「鍳」は「鑑」の異体字。方角を占う者。]と巫術師が、いかなる不運の星も照らさないやうな埋葬地、いかなる惡鬼や龍も擾亂を加へないやうな安息の場所を選定した後に、美しい塚は建設された。して、幻の錢が途上に撒かれた。葬列は死者の家を離れて、祈禱と涕泣を以て、彼の慈父の遺骸は墓に運ばれた。

[やぶちゃん注:「死者の口中へ銀貨を入れ」こういう習慣が中国あったかどうかは確認出来ないが、ハーンは欧米の読者に腑に落ちる形でこのシークエンスを挿んだように感ぜられる。何故なら、古代ギリシャでは葬儀の際に死者の口の中に一枚の銀貨(「オボルス」と呼ぶ実際の通貨)入れるという習慣があったからである。これは死者が冥界の川(ステュクス(「憎悪」の意)或いはその支流とするアケローン(「悲嘆」)の川を渡る時に船の渡し守であるカローンに「渡し賃」として一オボルスを払わなければならないと考えられたことによる。日本の仏教の三途の川の渡し賃六文銭(六道銭)と同じである。

「幻の錢」“the phantom money”。紙銭(しせん)であろう。紙を切抜いて作った銭形。冥界でも金が必要と考えられて、概ね紙で作られた。地獄の沙汰も金次第式の古式の習慣である。]

 その後、彼は奴隷として彼の買主の勞役に服し始めた。主人は彼を住ませるため、小さな小屋を與へた。そこへ彼は祖先の名を認めた木牌を持つて行つた。すべて孝子は、このやうな木牌の前で、日每に祈の香を炷き[やぶちゃん注:「たき」。]、家庭の禮拜の優さしい勤行を營むのであつた。

 

 

 三たび春が花を以て土地の胸を薰らせ、三たび掃墓日註八といふ死者の祭が守られ、三たび彼は父の墓を掃除して、裝飾を施し、果實と肉を五重に積んで供ヘた。喪期は終つても、彼が父を哀慕する心は止まなかつた、歲は月の運行につれて進み、一時の喜びも、一日の

 

註八 掃墓日――一般に先祖を拜する日。天主敎に於ける萬靈日(オール・ソールズ・デー)(十一月二日)と同じもので、四月上旬、淸明の季節に營む。

[やぶちゃん注:「喪期」中国古代の服喪の期間は殷周の時代では父母の喪は三年であるが、春秋時代になると早くもこの制度は守られていなかった。本話は本篇では時代設定が示されていないが、原拠のそれは漢代であるから、Tong-yong はすこぶる古式に従って厳しく服喪を守ったことが判る。「孔子時代の葬儀エチケット」というページに「礼記」に記された葬送儀礼が非常に詳しく解説されてあるので、是非、参照されたい。

「天主敎に於ける萬靈日(オール・ソールズ・デー)」キリスト教で全ての死者の魂のために祈りを捧げる日である「死者の日」又は「万霊節(ばんれいせつ:All Souls’ Day)。ローマ・カトリック教会では正式には「The Commemoration of All the Faithful Departed」(「信仰を持って逝った人総ての記念日」)と呼ぶ。カトリック教会では「諸聖人の日」(諸聖人の祭日・万聖節)の翌日の十一月二日である。参照したウィキの「死者の日」によれば、『カトリックでは、人間が死んだ後で、罪の清めが必要な霊魂は煉獄での清めを受けないと天国にいけないが、生きている人間の祈りとミサによってこの清めの期間が短くなるという考え方があ』り、「死者の日」は『このような発想にもとづいて、煉獄の死者のために祈る日という性格がある』とある。]

 

愉快なる休憩をも彼に齎さなかつたが、彼は決してその服役を悲しまなかつた。また祖先の祭祀を缺くことはなかつた――その内に、たうとう稻田の熱病が激しく彼を襲つて、彼は病褥[やぶちゃん注:「びやうじよく(びょうじょく)」。]から起きられぬやうになつた。そこで、同じ仲間の勞役者達は、彼は畢竟死ぬるに相違ないと考へた。奴隷や家僕達は、全然家事や田畠の勞働に忙しかつたので、彼を看護するものもゐなかつた――彼等はすべて日出と共に働きに出掛け、漸く日沒の後痕れて歸つてくるのであつた。

[やぶちゃん注:「稻田の熱病」“the labor of the fields”。思うに、マラリアのことではないかと私は思う。]

 さて、病める靑年が衰弱疲憊[やぶちゃん注:「ひはい」。疲れ果てて弱ること。「疲労困憊(ひろうこんぱい)]に同じい。]の極、眠つたと思へば覺め、覺めてはまた眠に入つてゐるとき、見知らぬ美人が彼の側に立ち、彼の上に屈んで、彼の額に彼女の恰好よき手の、綺麗な長い指を觸れたことを夢に見た。して、彼女の冷んやりした接觸と共に、不思議に甘美な衝動が、彼を貫通して、彼のあらゆる血管は、新生命がしみ渡つた如く沸き立つた。驚いて目を開いて見ると、正しく夢に見た、魅惑させるやうな女が、彼の上に屈んでゐて、彼女のたをやかな手は、實際彼の鼓動打てる額を愛撫してゐた。しかし熱病の炎は最早消えてゐて、心地よき涼しさが今は身體のあらゆる纎維に滲透し、夢に見た衝動は、まだ激烈なも歡喜の如くに血中に踊つてゐた。同じ瞬間に、靜淑な訪問者の双眸は彼の兩眼と出逢つた。して、彼はそれが異常に美しく、燕の翼の如き曲線をなせる眉の下に、輝く黑い寶石の如く光つてゐることを知つた。したしその靜けき凝視は、水晶の中を透る光の如くに、彼を貫くやうに思はれた。して、何となく一種の畏怖が彼を襲つたので、脣頭まで上つた問ひの言葉を發音することを得なかつた。すると、まだ彼を撫で乍ら、彼女は微笑していつた。『私はあなたの御元氣を恢復させ、あなたの妻となるために參つたものです。お起き下さいませ。して、御一緖に禮拜を致しませう』

 女の朗らかな聲は、鳥の歌の如き諧調を有つてゐたが、その視線には儼然たる力があつて、彼には抵抗し難いもののやう思はれた。臥床から立上つてみると、彼の體力の全く囘復してゐるのを發見して驚いた。したし彼の手を捉へた、冷んやりした纎手は、非常に速やかに彼を導いて行つて、彼に驚愕の遑なからしめた。彼はいたにもして彼の困窮を語り、妻を養ふ力なきことを述べる勇氣を鼓するやうに努めたが、女の長い黑い眼には、何となく凛乎たるものがあつて、彼をして言葉を發することを得ざらしめた。して、恰も彼の心底を、その不思議な凝視によつて看破したたのやうに、彼女は同じ朗たな聲で彼にいつた。『私が支給致します』それたら、彼はそのみじめな姿と、ぼろぼろの衣服のことを考へて、恥辱の念に顏を赧らめた。]。しかし彼は女もまた庶民階級のやうな、貧乏らしい服裝であることを見た――何等の裝飾をも帶びないで、また足には靴さへ穿いてゐなかつた。彼がまだ言葉を發しない内に、二人は祖先の位牌の前へ來た。そこで、女は彼と共に跪いて祈つた。それから、酒杯――何處から齎したのか、彼は知らなかつた――を擧げて、彼に誓を立て、共に天と地を拜した。かやうにして、彼女は彼の妻となつた。

[やぶちゃん注:「儼然たる」「げんぜんたる」。厳(いか)めしく厳(おごそ)かなさま。動かし難い威厳のあるさま。

「抵抗し難いもののやう思はれた」ママ。「やうに」の脱字か。或いは落合氏の日本語の癖の可能性もある。

「臥床」「ふしど」。

「纎手」「せんしゆ」。細い手。

「遑」「いとま」。

「凛乎」「りんこ」。きりっとして勇ましいさま。凛々(りり)しいさま。

「赧らめた」「あからめた」。]

 

 それは不思議な結婚と思はれた。といふのは、その日にも、彼は妻にその家名や、里方の地名を尋ねることを敢てし得なかつた。また彼女について彼の仲間達が發した好奇的質問に對して、返答が出來ないばかりでなく、彼女もまたその名が Tchi であるといふだけで、自身のことについて、一言も云はなかつたからである。彼女の眼が彼に注がれてゐる間、彼は恰も自己の意志を待たぬものの如く、彼女に畏怖を感じてゐたけれども、したし彼は言ひやう無いほどに彼女を愛してゐた。して、彼の結婚以來は、彼の奴隷といふ考へが、彼を壓迫することを止めた。魔法の力による如く、小さな住家は變化された。その窮狀は可愛らしい紙細工によつて隱蔽された――綺麗な手品を使つて、費用をかけないで、巧妙な裝飾を施すことは、婦人のみがその祕訣を如つてゐる。

[やぶちゃん注:「Tchi」平井呈一氏は上掲訳で『織(ち)』とする。今の拼音では「zhī」(ヂィー)である。]

 每朝昧爽[やぶちゃん注:「まいさう(まいそう)」。明け方のほの暗い時。曙の頃。]に、また每夜歸宅の際、若い夫はよく調理された潤澤なる食膳が、彼を待ち受けてゐるのを見出した。が、實は終日機上[やぶちゃん注:織機(はた)の上。]に坐して、その地方では見られないやうな方法によつて絹を織つた。彼女が織るま〻に、絹は光澤ある黃金が緩やかに流れる如く、機から流れ出でて、その波動の上へ靑紫や深紅や碧綠の珍らしい形を現はし、幽靈のやうな騎士や、龍に牽かれた幻の戰車や、雲の尾を棚引いた軍旗を織り出した。龍といふ龍の髯には、不思議な眞珠がぴかぴかしでゐた。騎士達の冑[やぶちゃん注:「かぶと」。]には、順位の寶石が燦光を放つてゐた。して、每日 Tchi は、か〻る綾模樣ある絹の大きな一反を織り上げた。それで、彼女の機織[やぶちゃん注:「はたをり」。]の評判は、廣く傳播した。遠近から人々が驚くべき仕事を見物に集つてきた。して、それを聞き傳へた大都會の絹商どもは、使を Tchi に送つて、織物を依賴し、また彼女の祕傳の敎へを求めた。そこで、彼女は報酬として持參された銀塊に對して、希望通りに織つてやつた。しかし彼等が傳授を懇願に及んだ時、彼女は笑つていつた。「あなた方の中には、私のやうな指を持つてゐらつしやる方がありませんから、到底御敎へ申上げることは出來ませぬ』また實際、誰も彼女が機を織るとき、その指を識別することは出來なかつた。さながら速く翔つてゐる蜂の翼の振動む見る如くであつた。

 

 

 季節は移つて行つたが、Tong は決して缺乏を知らなかつた。彼の美しい妻は、實によく『私が支給致します』といふ契約を履行したのであつた。して、絹商輩の齎した、輝ける銀塊は、Tchi が家財を入れるために買つた、彫つて製作せる大櫃[やぶちゃん注:「おほびつ」。]の中に、段々高く積み上げられた。

 遂に或る朝、Tong が朝餐を了へて、畠へ出掛けようとするとき、妻は思ひがけなくも、彼を内に留まらせた。して、大櫃を開けて、それからら隷書註九といふ公文書體で書いた文書を取出して彼に與へた。彼はそれを視ると、欣躍絕叫した。それは彼の釋放の證書であつた。女は密かにその不思議な絹の代金を以て、夫の自由を買ひ取つたのであつた。

 

註九 隷書――支那の六書體の中、第二に位する。ヰリヤムス氏「中國」參照。……道敎の傳說によれば、天の命令は、最も古い印章用の書体(篆書[やぶちゃん注:「てんしよ」。])で書いてある。だから、電光に打たれて死んだ人の死體に印せられる表象は、その書體で書かれた裁判の宣告と見倣された。――(普通は五書體であるが、六書體としたのが、盬谷[やぶちゃん注:「しほのや」。]博士の說によれば、大篆、小篆、隷、楷、行、草、と數へたのであらうとのことである。――譯者)

[やぶちゃん注:丸括弧内が訳者落合氏による補足

「ヰリヤムス」アメリカの言語学者・外交官・宣教師・中国学者サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams  一八一二年~一八八四)か。中国名「衛三畏」。「中國」は一八九四年刊のThe middle kingdomであろう。

「大篆」周の宣王の時代に史籀(しちゅう)が作ったとされる漢字の古書体。篆文(てんぶん=「小篆」)の前身を成す。

「盬谷博士」日本の漢学者塩谷温(しおのやおん 明治一一(一八七八)年~昭和三七(一九六二)年)。東京帝国大学名誉教授。]

 

 『最早如何な主人に對しても、あなたは御苦役をつとめなさるに及びません』と彼女はいつた。『ただあなたのためにのみ御働きなさるのです。それから、また私はこの家を、中にあるもの一切と共に、買ひました。その上、南方の茶畠も、隣りの桑園も、すべて悉くあなたのものです』

 彼は嬉しさの餘り、覺えず彼女の前に平伏して拜まんばかりになつたが、彼女はそれを制止した。

 

 

 かやうにして、彼は自由の身となつた。それから、彼の自由と共に繁昌が伴つて來た。彼が貴い土地に與へたものは、百倍になつて歸つてきた。して、彼の僕婢輩は彼を愛した。また非常に無言ではあるが、したも非常に周圍の人々に親切なる、美しい主婦を祝福した。しかし絹機[やぶちゃん注:「きぬはた」。]はやがて手と付けられぬやうになつた。それは彼女が男の兒を生んだからである。それは頗る綺麗な子供で、彼がそれを眺めたとき、嬉し泣きをしたほどであつた。その後、實は全く子供の世話に沒頭した。

 さて、やがてその子供も母に劣らず驚異すべきものだといふことが明白になつてきた。赤ん坊は生まれて三ケ月目にものを言ひ、七ケ月目には聖賢の格言を諳誦[やぶちゃん注:「あんしやう(あんしょう)」。暗誦に同じい。]し、尊い祈を朗吟することが出來た。十一ケ月にならぬ内に、巧みに筆を使ひ、老子の訓言を立派に寫すことが出來た。して、寺僧は來て見て、この寧馨兒と談話を交へ[やぶちゃん注:「まぢへ」。]、その愛らしさと、その賢い言葉を感歎して、Tong を祝福していつた。『たしかに、この子供さんは天の賜[やぶちゃん注:「たまもの」。]です。天があなたを愛し玉ふ瑞徵です。あなたが百歲の福壽をお重ねなさるやう祈ります』

[やぶちゃん注:「寧馨兒」は「ねいけいじ」と読む一般名詞。「晋書」の「王衍伝」から。「寧馨」は中国晋・宋の頃の俗語で「あのような・このような」の意で、「すぐれた子・神童・麒麟児」の婉曲表現。]

 

 十一月のことであつた。花は枯れ、夏の薰りは消え、風は次第に冷かになつてゐた。して、Tong の家では夜の火が點ぜられてゐた。夫妻は心地よき火の光りを浴びつ〻、長時間共に坐して、夫は盛んに希望と欣びを談じ、將來傑れた[やぶちゃん注:「すぐれた」。]人となる子供のことや、親として幾多の計畫などを語つた。一方、妻はあまりに語らないで、夫の言葉に耳を傾けては、しばしば應答の笑を浮たべ乍ら、驚異の眼を彼に向けた。こんなに美しく彼女が見えたことは、未だ甞てなかつた。して、彼は彼女の顏を注視し乍ら、夜の更けるのも、火の低く沈んで行くのも、また風が窓外の落葉した樹間に鳴るのも打忘れてゐた。

 突然彼女は無言のま〻立上つて、彼女の手の中へ彼の手を執り、かの奇異な結婚の朝に於ける如く、靜かに彼を導き、夢の中に微かに笑を洩らしつ〻眠れる子供の搖籃[やぶちゃん注:「ゆりかご」。]へつれて行つた。その瞬間、彼の念頭に、彼女の眼が始めて彼の眼とぴつたり出逢つた際に感じたと同一の奇異なる恐怖が襲つてきた――その漠然たる恐怖を、愛情と信賴の心が鎭めたのであつたが、鬼神に對する恐怖の如く、決して全然逐ひのける[やぶちゃん注:「をひのける」。]ことは出來なかつた。すると、彼は全く我れ知らずに、見えざる偉力ある手の壓迫に隨つたやうに、神に向つて跪坐する如く、彼女の前に低頭した。それから、再び眼を擧げて女の顏を見るや否や、畏怖に襲はれて眼を閉ぢた。といふのは、彼女は此世のいかなる女よりも高く彼の前に聳え、彼女の周圍には日光の如き光耀があつて、彼女の四肢の光りは、衣裳を透して輝いたからであつた。しかし彼女の美はしい音聲は、あらゆる昔の優しみを帶びて、彼に語つた。『いよいよあなたから去つて行かねばなら時が參りました。實は私は人間から生まれたのではありませぬ。それ故、ただしばらくの間、化身となつて現はれてゐました。しかし私は私共の愛情の誓をあなたに遺しておきます――此綺麗な子供は、行末あなたに對して、あなたと同樣な孝子となりませうから。實際私はあなたの孝心の報酬として、天からあなたに遣されたのです。して、今は私の天の家鄕へ歸つて行かねばならぬことを、どうか御悟り下さい。私は女神の織姬で御座います』

 かく語つてゐる際にも、光輝は消えて了つた。して、彼は再び眼を開けると、彼女が永遠に去つたことを知つた――空の風が通る如く不可思議に、吹き消された炎の光りが、取り返しのつかぬやうに。しかし一切の戶は鎖ざされ、窓も悉く塞いであつた。子供は眠りの中に微笑し乍ら、依然として眠つてゐた。戶外では夜は明けかかつてゐた。空は急速に輝き出した。東天は太陽を迎へて、莊嚴華麗な黃金の高い門を開いた。すると、其光りに照らされた朝霧は、いろいろに色彩の移つて行く、驚くべき形狀に變つた――織姬の機で織られた絹の夢の如き、不思議な美しい綾織り模樣に。

 

太上感應篇

 

Taijyoukannnouhen

 

【ハーンによる「解說」】

 『織姬の傳說』――私の此話は『太上感應篇』第三十章に見える、次の傳說から取つた。該書は老子の作と稱せられ、約四十個の頗る珍らしい逸話傳說を收めてゐる――

 『漢時代に住んでゐた Tong-yong は極貧に陷りた。父を失つたので、彼は葬式を營み、墓を建てる資を得るために自身を賣つた。天帝がこれを憐んで、女神 Tchi-Niu を遣はしてその妻とした。彼女は夫が自由の身となるまで每日絹を織つた。後、彼のため一子を生んで、それから天へ歸つた』――ヂユリアン氏佛譯第百拾壹頁。

 この話の中で、幽靈、醫療、婚禮等の詳細なことに亙って、私は全然私自身の空想によつて書いたのではないといふことを證するため、私は讀者に、ヂヤイルズ氏著『支那畫房奇譚』第九十六章『不思議な妻』と題する一篇を參照されんことを望む。それによつて、私の物語は、少くとも支那思想と合致することがわたるだらう。(この物語は、初め『ハーパーズ、バザ―』雜誌に現はれたのを、今囘同雜誌の許諾を得て、こ〻に收めたのである)。

 

譯者註 「宋藝文志」に「太上感應篇」の一卷があつて、抱朴子が漢時代の道敎の諸戒を述べたものである。この書は宋以來、大いに流布したが、專ら閭巷細民が誦習したもので、士大夫間に於いては鄙薄視され、その註釋諸家もまた淺陋邱里の言が多かつたと「太上感應篇纉篇」(上下二卷)の序文に見えてゐる。譯者が手にし得た「纉義」(德淸愈樾撰)にも、また更に手を入れ得た「太上感應篇註」(東吳、惠棟撰)にも、本書引用の二つの物語は載つてゐない。多分一層通俗的な註釋書から取つたものだらう。

 

[やぶちゃん注:最後の織姫の別れの言葉は、私の尊敬する平井呈一氏のそれより、例外的にこの落合氏の訳の方が遙かに、いい。平井氏は常体で敬語なく、神威を露わにした台詞で訳されてあって、ちょっとキツ過ぎ、エンディングの極めてポエジックな情景描写の美しさを殺ぐ嫌いがあるからである。

「太上感應篇」既出既注。南宋初期に作られた道教の経。善行を勧め、悪行を諫める善書の代表的な書物。作者と正確な成立年は明らかでないが、一一六四年よりも以前の成立である。但し、ハーンはの言う当該の「第三十章」の話なるものを、中文サイトで見出すことが私には出来なかった。その代わり、タイピングしているうちに、どうもこの話、別に読んだことがある気が強くしてきた。そうだ! これは私の好きな、東晋の政治家で文人の干宝(?~三三六年)が書いた志怪小説集「捜神記」じゃないか! その第一巻にある以下だったじゃないか!

   *

漢、董永、千乘人。少偏孤、與父居肆、力田畝、鹿車載自隨。父亡、無以葬、乃自賣爲奴、以供喪事。主人知其賢、與錢一萬、遣之。永行、三年喪畢、慾還主人、供其奴職。道逢一婦人曰、「願爲子妻。」。遂與之俱。主人謂永曰、「以錢與君矣。」。永曰、「蒙君之惠、父喪收藏、永雖小人、必慾服勤致力、以報厚德。」。主曰、「婦人何能。」永曰、「能織。」。主曰、「必爾者、但令君婦爲我織縑百疋。」。於是永妻爲主人家織、十日而畢。女出門、謂永曰、「我、天之織女也。緣君至孝、天帝令我助君償債耳。」。語畢、凌空而去、不知所在。

   *

 漢の董永は千乘[やぶちゃん注:山東省。]の人なり。少(わか)くして偏孤(へんこ)となり、父と肆(し)[やぶちゃん注:ここは「町」の意。]に居り、田畝に力(つと)め、鹿車(ろくしや)して載せて[やぶちゃん注:歩けない父を小さな車に載せて牽いては。]自ら隨ふ。

 父、亡(ぼう)ずるも、以つて葬る無し。乃(すなは)ち自ら賣りて奴(ど)と爲し、以つて喪事に供す。主人、其の賢なるを知り、錢一萬を與へ、之れを遣ふ。

 永、行きて、三年喪、畢(をは)り、主人に還り、其の奴の職に供せんと慾す。

 道に逢へる一婦人の曰く、

「願はくは子(し)の妻と爲(な)らん。」

と。遂にこれと俱にす。

 主人、永に謂ひて曰く、

「錢は以つて君に與へたり。」

と[やぶちゃん注:ここでは主人は彼の孝志に対して見返りを求めずに金を与えたのだ、というのである。]。永、曰く、

「君の惠みを蒙り、父の喪、收藏せり。永、小人たりと雖も、必ず勤めに服し、力を致し、以つて厚德に報いんと慾す。」

と。主、曰く、

「婦人、何を能くするや。」

と。永、曰く、

「能く織れり。」

と。主、曰く、

「必爾(ひつじ)なれば[やぶちゃん注:謂うように必ず私のために働くというのならば。]、但だ、君の婦をして我が爲めに縑(けん)百疋を織らしめよ。」

と[やぶちゃん注:「縑」じゃ二本縒(よ)りの糸で細かく織った上製の絹布を指す。]。

 是(ここ)に於いて、永の妻、主人が家の爲めに織り、十日にして畢(をは)れり。女、門を出でて、永に謂ひて曰く、

「我は天の織女(しよくぢよ)なり。君の至孝なるに緣(よ)りて、天帝、我れをして債(さい)を償ふを助けしむるのみ。」

と。

 語り畢りて、空を凌(しの)いで去り、所在を知らず。

   *

「ヂユリアン」既出既注。エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)はフランスの東洋・中国学者。コレージュ・ド・フランスの中国学教授。こで示されたのは、一八三五年にスタニスラス・ジュリアンが“Le livre des récompenses et des peines”(「良き報酬と悪しき応報の本」の謂いか)として「太上感應篇」を翻訳したもの。フランス語サイトのこちらで同書原文全文が読める(当該部を探すのは時間がかかるのでやめた。悪しからず)。

「ヂヤイルズ氏著『支那畫房奇譚』」既出既注の、「華英辞書」の編纂によって特に知られるイギリスの外交官で中国学者であったハーバート・アレン・ジャイルズ(Herbert Allen Giles 一八四五年~一九三五年:中国名「翟理斯」)は、彼が一八八〇年に訳した清代の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)が著した志怪小説集「聊齋志異」の翻訳“Strange Stories from a Chinese Studio” のことであろう。英語原本の当該箇所を見つけたが(No. XCVI:“A Supernatural Wife”)、これが私の好きな「聊齋志異」のどの話に当たるかは、ちょっとお時間を戴きたい。判り次第、追記する。

『ハーパーズ、バザ―』“Harper's Bazaar” 調べると、『ハーパーズ・バザー』(Harper's BAZAAR)は、一八六七年にニュー・ヨークで創刊した世界最古の女性向けファッション雑誌とある。これなんかなあ?

「宋藝文志」元代に編纂された宋(北宋・南宋)を扱った紀伝体史書「宋史」(一三四五年完成)の中の「芸文志」のこと。

「閭巷細民」(りよかうさいみん(りょこうさいみん)民間の下層階級。

「鄙薄」(ひはく)で軽蔑。蔑(さげす)むこと。

「淺陋」(せんろう)は「知識や考えが浅くて狭いこと」。

「邱里」不詳。田舎染みた俚諺的内容ということか。

「太上感應篇纉篇」(さんぺん)は継いだ編で「続編」の意。清の考証学者兪樾(ゆえつ 一八二一年~一九〇七年)撰。

「纉義(德淸愈樾撰)」一八七一年刊。

『「太上感應篇註」(東吳、惠棟撰)』清の考証学者恵棟(一六九七年~一七五八年)撰。

 また、最後になって、中文サイトのカラーの絵入りで独立したページも発見した(先のPDFと同じ組織による作成のもののようで、挿絵も全く同じである)。原文と白話(中国語口語体)に直したものも載るので転載しておく(コンマを読点に代えた。漢字はママ)。

   《引用開始》

十三、【董永賣身】 漢

董永家貧、賣身葬親。天遣仙女、織縑完緡。

【原文】

 董永、性至孝、家貧、父死、賣身貸錢而葬。及往償工、途遇一婦、求為永妻。同至主家、令織縑三百疋乃回。一月完成、主大驚、聽永歸。至槐陰會所、婦辭永曰、吾織女也、天帝感君之孝、令我相助耳。言訖凌空而去。

 王應照謂、父死則葬、理之常也。孝子當貧乏無措時、賣身為之、亦求心之安而已。償工之日、仙女忽逢、織縑一月、已清債累。此時賣身窮人、債主不得役之、且不能學之、於以知久停親柩者之罪大矣。

【白話解釋】

 漢朝時候、有個叫董永的人、非常孝順。但是家裡很窮苦、父親去世後、沒有錢辦理喪葬、董永就賣身為奴、用賣得的錢來安葬父親。

 葬了父親以後、就依約要去做工償債。走到半路上、忽然遇到了一個女子、這位女子說自願和董永結為夫妻、就一同到債主家裡去做工。債主嚴苛地命他要織好三百匹的紗羅布料、才能抵掉賣身的錢、才可以回家。哪裡曉得、董永得到了妻子的幫助、不到一個月工夫、就全部織完了。債主非常驚訝、但還是要讓董永離開。

 他們走到了槐樹下(從前和妻子相會的地方)、妻子就要辭別董永、並說道:「我是天上的織女、天帝被你的孝心感動、特地派我來幫助你。」說完話、就騰空而去了。

   《引用終了》]

« 三州奇談卷之一 菅谷の鬼婦 | トップページ | 三州奇談卷之一 傀儡有ㇾ氣 »