三州奇談卷之一 吉崎の逃穴
吉崎の逃穴
吉崎の里は加賀・越前の境。則(すなはち)加賀吉崎といふ有り、又越前吉崎といふ有り。水を隔てゝ國境なり。地は水によりて山を𢌞(めぐ)り、無双の勝景なり。
眞宗の中興蓮如上人の舊跡城山嚴然として、「腰掛石」は草間に砥(といし)の如く、「瓶中(びんちゆう)の松」と云は、上人佛前の松の一色(ひといろ)[やぶちゃん注:一枝。]を取て指(さし)給ふに、此儘榮えしとにや。近年黑き苔付て六字名號の文字をなすと云ふ。松の立てる樣はさながら花瓶を出る物の如く、七つの道具皆揃へり。
爰に東西本願寺の懸所(かけしよ)あり。莊嚴(しやうごん)巍々(ぎぎ)たり。三月廿五日には、蓮如上人御忌として、七ケ日が間隣鄕他國の道俗袖をつらねて夥し。前は瀨越・汐屋の浦をはさみて、波間に加島大明神いまそかりける。樹木森々、只一藍丸(いつらんぐわん)のごとし。此樹に宿る鴉、必ず加越の地を分つと云。此長井村は、初め越前に屬して、實盛出生の地といふ。【一説には越前のウネと云ふ所を實盛の生地といふ。】 蓮が浦・竹の浦、皆加越第一の名所也[やぶちゃん注:頭一字空けはママ。]。殊に吉崎は佛緣の地故か、人民等厚く佛(ほとけ)に奉仕し、平日も肩衣の老人、珠數の老婆多く行かよふ事隙(ひま)なし。
寶曆十年の頃とにや、加賀吉崎の畑を打つ人、何心なく石をはね土を打返し居けるに、忽ち足もとどうと落入て、深き穴にぞ成(なり)ける。猶奧のいくばくともしれず。幸に口せばき所ありて、鍬の引懸りけるにすがりて、聲をかぎりに呼ぶと雖、折節あたりに畑打(はたうつ)人もなし。深き穴に落入しことなれば、遠き所よりは是をしらず。彼の口は葛の根にふさがりて、一露の甘きを樂しめば、[やぶちゃん注:「めれども、」としたいところ。]
「月日(つきひ)の二鼠(にそ)[やぶちゃん注:白と黒の二匹の鼠。昼夜・日月などに譬える。「月日の二鼠」で時の経過の譬えである。後注もした。]、葛の根を喰切とやらん、浮世のたとへも、けふの爰(ここ)ぞ」
と恐ろしくあしきに、いとゞ聲も出ず。されども浮世の緣や強かりけん、からうじて鍬の柄を力に、土に打立(うちたて)打立漸(やうやう)と上り出たりける。其後はのぞく人も恐れ驚きけるに、誰いふとなく、
「此穴極樂へ通じて、西の方へ深きこと測るべからず、彼(かの)國の近道なり」
などいひふらしける。實(げに)も繩を下(おろ)して見し人もありしかども、其深さ計りがたし。心からにや、折々は異香の薰する樣にも聞えける。心なき者は、
「むかしの古井戶か、亂世のぬけ道にか掘當りけん」
なぞいひし。一頃(ひところ)はしきりに見物も立集(たちつど)ひしが、風雨ごとに此道ふさがりて、今は元の田面(たのも)に成ぬ。是(これ)穴居の昔の家路にや、小野篁の忍び路にや。あはれ鎌倉の世なりせば、其奧をもさがさまほしき物を、今は新田が物好きもなかりけるにや、終に地獄𢌞(めぐ)りの沙汰も聞へずして止(やみ)ぬ。里人に尋れば、
「今猶此あたりは、其穴のことを恐れて、鍬も薄氷に打立る心地して、老鷄の步みを恐るゝに似たり」
と、一笑と共に聞へし。或人の曰く、
「佛穴は得がたし。是(これ)畑人不幸にして出る事を得しぞ」
と嘆ぜられし。是又一奇談成べし。
[やぶちゃん注:本篇は以前に「柴田宵曲 妖異博物館 穴」で電子化しているが、底本が異なる。また、柴田の梗概訳も参照されたい。
「吉崎の逃穴」標題は本来の原本の四字漢字表記では音読みであろうが、ここでは「脫穴」は「ぬけあな」と訓じてよかろう。このロケーションは越前吉崎、現在の福井県あわら市吉崎(グーグル・マップ・データ)で、本文にも出る通り、嘗つて吉崎御坊のあった周辺である。吉崎御坊とは、室町時代の文明三(一四七一)年七月下旬、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第八世法主蓮如(応永二二(一四一五)年~明応八(一四九九)年)が本願寺系浄土真宗の北陸に於ける布教拠点としてこの地にある北潟湖(福井県あわら市北部(一部は石川県加賀市にかかる)にある海跡湖。面積約二・一六平方キロメートルの汽水湖)畔の吉崎山の山頂に建立した寺院で、ここには北陸はもとより、奥羽からも多くの門徒が集まり、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び、寺内町を形成した。文明七(一四七五)年八月、戦国の動乱で焼失し、蓮如は吉崎を退去、永正三(一五〇六)年、朝倉氏が加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を「九頭竜川の戦い」で退けた後、未だ吉崎に残っていた坊舎をも破却したため、以後は廃坊となった(以上はウィキの「吉崎御坊」に拠った)。
「水を隔てゝ國境なり」「水」は吉崎の北直近の石川県南部を流れる大聖寺川。
「腰掛石」「北陸に伝わる蓮如上人伝承」(PDF)によれば、『ある夏のこと、何日も日照りが続き、村人たちは田んぼの水やりに忙しく、蓮如上人のお話を聴きに行く暇もなかった。蓮如上人は心配され、お腰掛け石の近くにあった水受けの水をすくい、お念仏を称えながらその水を振りまくと、ポツリポツリと雨が降り出したという。お腰掛け石には蓮如上人の温もりが今も残り、大雪の時でも一番はじめに雪が解けると伝わ』り、ここに蓮如が座っては、『美しい吉崎の景色を楽しまれ、和歌などを詠まれた』ことから、「お腰掛け石」と呼ばれるとある。現在、後の享保六(一七二一)年に吉崎御坊願慶寺(吉崎御坊とは本願寺からの任命による吉崎での本願寺直轄寺院を指すもので旧坊の吉崎道場の後身)となったその境内に現存する。同寺公式サイトのこちらで位置が確認でき(御坊跡の東北直近)、同サイトでは旧御坊の復元絵図なども見られる。また、サイト「トリップアドバイザー」のこちらで当該の石の写真が見られる。
「瓶中の松」「北陸に伝わる蓮如上人伝承」(PDF)の「お花松」よれば、『蓮如上人が、いつものように本堂でお勤めなさった後、ほとけ様のお花松を抜いた。お庭に出て、お花松を丁寧に挿し木し、お念仏を称えられ、お供の者に、「もし、この松が根付いたら、吉崎御坊が栄えること間違いない」とおっしゃった。松は根付き、江戸末期まであったという。御山には初代の古株が残っており、その横に二代目の松がある』とある。fu345氏のブログ「福井の魅力を知りたいブログ(時々県外)」の「あわら市 蓮如上人と吉崎御坊、お腰掛け石とお花松の伝説」で前の「腰掛け石」と合わせて初代とする切り株や周辺の画像が見られる。この「お花松」とは仏前に供える枝葉の仏花の意。
「七つの道具」立花(りっか:花や枝などを花瓶に立てて生けること。たてばな)で基本となる七つの役枝(やくえだ:立花に於いて主要な役割をする枝)。「真」(構成の中心となる枝)・「副え」(「真」の枝に添えて引き立たせる枝)・「受け(請け)」(「副え」の枝に対して低く横に出ている枝。植生しているそれでは地面に近い枝を指すようである)・「正真(しょうしん)」(「真」の内で正面にある限定部分を指すようである)・「見越し」(「正真」の下方から上方へ突き出る枝を指すようである)・「流枝(ながし)」(下方の上へ向いて反り出した枝を指すようである)・「前置き」(生花では水際に挿すものとするので地面に最も近い張り出した枝或いは前にある草木のことであろう)。一部は小学館「大辞泉」に拠り、判らぬ部分は「西本願寺」公式サイト内の仏華の解説(七つどころか十三ある)を参考に推定した。
「懸所(かけしよ)」東本願寺に於いて御朱印を受けるところで「掛所」とも表記する。西本願寺では「役所」「兼帯所」と言うらしい。
「巍々」厳(おごそ)かで威厳のあるさま。
「三月廿五日」「蓮如上人御忌」蓮如は明応八年三月二十五日京の山科本願寺で数え八十五歳で没した。
「瀨越・汐屋の浦」現在、石川県加賀市側の大聖寺川右岸に大聖寺瀬越町が、その西部分に加賀市塩屋町(グーグル・マップ・データ)がある。この大聖寺川はその蛇行様態や浸水ハザード・マップを見るに、かなり往時とは異なっていた(もっとこの両地区に海が入り込んでいた)可能性が高いと思われ、南に細長く貫入する北潟湖を含めて「浦」は腑に落ちる。
「加島大明神」大聖寺川と北潟湖の分岐する砂州状の突出部(陸繋島)にある、鹿島神社(グーグル・マップ・データ)。現在、「鹿島の森」として保全されており、ウィキの「北潟湖」によれば、『大聖寺川と北潟湖に囲まれた海抜』三十メートル、面積約三万平方メートルの『小高い山林で、全域が石川県加賀市に属している。もともと孤島だったが』、貞享五・元禄元(一六八八)年『頃から始まった加賀藩の土木工事により砂州が発達し』、正徳三(一七一三)年『頃には陸続きになった。山全体に照葉樹の原生林が広がっており、うちイヌマキなどは当地が植生北限とされている』。この森は昭和一三(一九三八)年に『天然記念物に指定』『された』。『鹿島神社があり、山全体が神域である』とある。これは非常に興味深い描写である。何故なら、本文ではこの「鹿島大明神」は「波間」に鎮座されておられると言っているからである。麦雀の書いた本作の原型がいつ成立したかは不明なわけだが、本「三州奇談」の完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃とあるから、その時は陸繋島となったずっと後である。即ち、麦雀が原作を書いた時には鹿島神社は「波間」にあって、完全な陸繋島化はしていなかったということを意味するものと読めるからである。即ち、原作者麦雀がここを実見したのは、少なくとも正徳三年よりも明らかに以前であり、へたをすると、貞享五・元禄元年頃か、それ以前にさえ遡ると考えられるからである。さすれば、麦雀(但し、彼の生没年は未詳)の原作の完成が、その辺りの閉区間にあったと考えてよいのではないかと思われるからである。俳号の一部一致からは一見、麦雀と麦水は同時代人のように錯覚するが、これは伊勢派であるからに過ぎない。しかも麦水がこの原作が散逸するのを憂えて再筆録したのであるからには、原作が書かれてから相応の年月が経過していると考えるが妥当であると私は考えるからでもある。
「一藍丸」一つの暗い青緑色の塊り。
「此樹に宿る鴉、必ず加越の地を分つ」この鹿島大明神の神域の樹木に巣くっているカラスは、加賀と越前の地をそれぞれ認識し、どちらかの一方の国を縄張りとしていて、競合しないということであろう。カラスは熊野大社を見ればわかる通り、古くは神鳥であり、神使であった。
「長井村」吉崎の東に接する石川県加賀市永井町(グーグル・マップ・データ)のことであろう。
「實盛」加賀国の「篠原の戦い」で鬚髪を黒く染めて奮戦し、安宅で討死にした老名将斎藤実盛(天永二(一一一一)年~寿永二(一一八三)年)。斎藤氏は代々越前を本拠地とした。また、彼が武蔵に移って長井に移り住み、長井斎藤別当と称した事実を考えると、ここでこの地名を「長井」と記しているのは、彼の別称に引かれた結果なのかも知れない。但し、ここが彼の「出生の地」というのは、あくまで伝承の一つで、彼は越前生まれではあるが、限定された出生地は不詳である。
「越前のウネ」不詳。ここに近いところでは(但し、近い必然性は全くない)、福井県あわら市畝市野々(うねいちのの)があり、少し離れると、福井県坂井市丸岡町長畝(ちょうのうね)がある。
「蓮が浦」福井県あわら市蓮ケ浦(グーグル・マップ・データ)。北潟湖の中央部の東岸地区。
「竹の浦」大聖寺地区まちづくり推進協議会制作のサイト「大聖寺 十万石の城下町」の中に「竹の浦館」があり(地図有り)、そこに、『竹の浦館が位置する瀬越町は、かつて多くの北前船主を輩出しました』。『この建物は』昭和五(一九三〇)年に『人材育成を願った北前船主をはじめ村の有志の方々の寄付により、『瀬越小学校』として建てられました』。『その後』、『「青年の家」として活用されていましたが、老朽化により取り壊しの計画が持ち上がりました』が、『地元の人々の建物を保存したいという強い熱意により』、『地域活性化と文化交流の拠点「竹の浦館」となり、各種のイベントや特産品の販売などを行っています』とあった。この名称からみて、この付近の、海が大聖寺川方向に貫入した部分の旧呼称と推定される。
「人民等厚く佛(ほとけ)に奉仕し」筆写本では「人民篤厚金僊(ホトケ)に奉仕し」(「ホトケ」のルビは二字へのそれ)。
「肩衣」(かたぎぬ)はここでは門徒の信者が看経(かんきん)の際に、着流しで肩に羽織るのに用いる衣のこと。
「寶曆十年」一七六〇年。徳川家重が家治に将軍職を譲った年。
「忽ち足もとどうと落入て、深き穴にぞ成(なり)ける」写本ではここは、「忽ち」はなしで、
足もとどうと落入て、見へぬ斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]に埋もれける。大に[やぶちゃん注:「おほきに」。]おどろき、土に取つき石にすがりするに、皆、落入て、深き穴にぞ成にける。
とあって以下の「猶奧のいくばくともしれず」に続く。
「彼の口は葛の根にふさがりて、一露の甘きを樂しめば」「見上げてみると、落ちた穴の入り口辺りは、葛の根がさわに生えて塞がっており、しかし、そこから僅かな露水が滴り落ちるので、それで露のような儚い命をひと時は生を楽しむことが出来ようけれども」と言ったニュアンスか。
「月日の二鼠、葛の根を喰切とやらん、浮世のたとへも、けふの爰(ここ)ぞ」『誰も来ず、時間がたてば、その葛の根も鼠(「月日の二鼠」の「鼠」から洒落たもの)に食い切られるやも知れず――さすれば、水を得る術もなくなり、渴えて死ぬ――そうした浮き世の生死不定(しょうじふじょう)の数々の譬えの謂うところも――まさにこの今のこの時のことじゃやて!』というような謂いであろう。なお、「月日の二鼠」は「月日(つきひ)の鼠」或いは単に「月の鼠」で、求那跋陀羅(ぐなばっだら)漢訳になる「賓頭盧(びんずる)説法経」(正しくは「賓頭盧突羅闍為優陀延王説法経(びんずるとつらじゃいうだえんさんおうせっぽうきょう)」)にある法話による古事成句である。それは、象に追われた人が木の根を伝って井戸に隠れていたところ、井戸口の周囲には四匹の毒蛇がいて彼に噛みつこうとし、また、頼みの綱である木の根をば、黒と白の二匹の鼠が齧(かじ)ろうとしていたというたとえ話で、象が「無常」、二匹に鼠が「月と太陽」=「昼と夜」、四匹の毒蛇が「地・水・火・風」の「四大」に譬えられてあり、これ全体が「この世に於いて瞬く間に月日が過ぎ行くこと」と「生死無常の様態」を比喩している。
「心からにや」気の持ちよう(西方浄土に繋がるというのをどこかで信じて)によるものか。国書刊行会版では『いつからや』とあるが、直後とのジョイントが悪い。
「折々は異香の薰する樣にも聞えける」時によってはえも言われぬ、何やらん嗅いだことのない香りが薫ずるようなこともあるやに聴いている。「聞(きこ)ゆ」には「匂いが自然に漂ってくる」の意があるから、そう訳しても問題ない。文章を粉飾することが好きな傾向のある筆者の狙いは、寧ろ、そっちかも知れぬ。
「心なき者」無風流な現実主義的な人。
「穴居の昔の家路にや」古え、居生活をしていた人々があって、その地下の家々のある集落へと通ずる通路だったのか。
「小野篁」(おののたかむら 仁寿二(八五三)年~延暦二一(八〇二)年)は公卿で文人。異名は野相公・野宰相、その反骨精神旺盛な気質から「野狂」とも称された。承和元(八三四)年に遣唐副使に任命されたが、同五年の三度目(前の二回は都唐失敗)の出発に際し、大使藤原常嗣が浸水していたため、篁の乗る船を求められた(嵯峨上皇に上奏して認可された)ことに憤慨し、病気と偽って乗船を拒否(遣唐使節は篁を残して渡海)、後に遣唐使の事業を風刺する痛烈な漢詩「西道謡」を作ったことで(現存しない)上皇の怒りを買い、隠岐に流された。二年後、召還されて同十四年に参議となった。博識多才で漢詩は白楽天、書は王羲之父子に匹敵するとまで言われた才人でもあった。「経国集」・「和漢朗詠集」・「古今和歌集」などに作品を残すほか、「令義解」の編集にも携わった。また、冥官(地獄の閻魔王の庁の役人)となって冥土と現世を往来したといった幻想的逸話も多く(「今昔物語集」・「江談抄」)、京都市東山区の珍皇寺や上京区にある引接寺の千本閻魔堂には現在もそうした伝承が残る。
「あはれ」ここは単なる感動詞。
「鎌倉の世なりせば、其奧をもさがさまはしき物を、今は新田が物好きもなかりけるにや」「新田」は鎌倉初期の武士で伊豆国御家人新田(仁田)四郎忠常(?~建仁三(一二〇三)年)のこと。源頼朝が挙兵した際に馳せ参じた直参の一人で、以後、頼朝の側近として仕え、元暦二 (一一八五)年三月には範頼に従って鎮西各地を転戦した。建久四(一一九三)年五月の曾我兄弟による仇討の際には、兄十郎祐成を斬っている。建仁三 (一二〇三)年には北条時政の命により、第二代将軍頼家の外戚比企能員を暗殺して一族を攻め滅ぼしたが、その後、頼家の命を受けて時政を除こうとして露見、逆に加藤景廉に殺された。さても、頼家は洞窟フリークで、建仁三(一二〇三)年六月、富士の牧狩りの際、彼に命じて、現在の知られた溶岩性洞穴である「富士の人穴(ひとあな)」(国土地理院図)の探検をさせたことを指す。私の「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士人穴に入る」を読まれたい。私が「吾妻鏡」も引用して細かに注してある。
「地獄𢌞(めぐ)り」「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士人穴に入る」の四郎忠常の帰還後の報告部分を見られたい。
「佛穴」「得がたし」と言い、「是(これ)」、「畑人」はまっこと残念! 「不幸にして出」てしまったものだ「と嘆」いた、というのだから、これは前に出た一説の通り、この奇体な穴を西方極楽浄土への通路であったとするものであろう。先の電子化の「柴田宵曲 妖異博物館 穴」で私は注して、『流石、「三州奇談」、穴落ち農夫の田舎話に豪華な風雅をサンドイッチしている辺り、著者はやはりタダモノではない。最後の「佛穴(ぶつけつ)は得がたし。」は「仙骨(せんこつ)は得難し。」(「杜子春傳」染みた台詞だ。但し、そこでは「仙才之難得也。」であったが。リンク先は私のオリジナル・テクストである)のパロディか?』と述べた。この印象は変わらない。]