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2020/01/25

三州奇談卷之一 長面の妖女


    長面の妖女

 大聖寺家中大河原氏のもとに、同郡片野といふ所の大池の邊(ほと)りより、女を一人やしなひけり。

[やぶちゃん注:「大河原氏」石川県立図書館の「石川県史 第二編」の「侍帳 人物名一覧」の「加賀藩・大聖寺藩」を見たが、大聖寺藩には「大河原」姓は認められない。加賀藩には大河原四郎兵衞(五百石)と大河原元之助(三百五十石)が確認出来るので、この縁者かも知れない。

「大池」現在の石川県加賀市片野町にある「片野鴨池」のことか(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「片野鴨池」を参照されたい。現在の片野地区ではこれより大きな湖沼はない。「水鳥多し。故に大聖寺家中の人、よく爰に遊ぶなり」とあるが、ウィキにこの池では『坂網猟(さかあみりょう)』という独特の鴨猟が行われ、これは元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に『大聖寺藩士村田源右衛門によって始められた猟法で、それ以降は大聖寺藩が武士の鍛錬のため』、『推奨された』もので、『池周辺の小高い位置(坂場と言う)から、熊手状の網を上方に高く投げ上げて鴨を獲る。江戸時代は武士のみが行うことが出来たが、明治時代に開放された』とあるのと一致する。]

 此片野の大池と云ふは、浦方近き山にて、池は山中に七つありと云ふ。怪多し。或は夜中數百人の聲して、池上に火を灯して語るを見るといふ人もあり。或は釣をたれに行しに、水何となくふえけるに、二三間[やぶちゃん注:三・六~五・四五メートル。]は退(しりぞ)きたれども、次第にふえ來りし程に、終に釣を止めて逸足(いつそく)[やぶちゃん注:「駿足」に同じい。]出して逃歸りしが、一二丁[やぶちゃん注:百九~二百十八メートル。]程去りてふり返り見るに、銀龍の童形(どうぎやう)なるが水上に顯れしを見たりとも云ふ。

[やぶちゃん注:「銀龍の童形」銀色をした龍の幼体のようなもの。]

 又は此池に池中の道あり。此中より大きなる顏出で、追へば入り引けばしたひして、一夜爰(ここ)に爭ひし人もあり。

[やぶちゃん注:「したひて」「慕ひて」寄って来て。]

 雨乞には必ず此池を祭る。水鳥多し。故に大聖寺家中の人、よく爰に遊ぶなり。

 されば此池の邊(ほとり)にて、少女を見付て連歸り、大河原氏の家に養ひしが、十二三年立ちて後、此小女(せうぢよ)頻りに伊勢へ參宮せん事を望む。國法に叶ひ難しといへども、少女の望せつなれば、ひそかに駕(かご)の者を雇ひて、此婦人を乘せて伊勢へ參ることをゆるされしに、小婦悅び辭しわかれ、駕の者と打連て旅立ちけるが、江州(がうしふ)柳ヶ瀨に至りて、

「爰より向ふにみゆるは、余吾の湖(うみ)成(なる)べし。あの邊へ連れ行け」

[やぶちゃん注:「國法に叶ひ難し」不審。大聖寺藩に婦女子単独の伊勢参宮を禁ずる藩法があったものか? あったとしたら、犬や豚でさえ行った(事実である。人々がその旨の書付を順に渡して実際に豚や犬が伊勢参宮をしたのである。私の「耳囊 卷之九 奇豕(きし)の事」を読まれたい)伊勢参宮を許さないというのはかなり異常な法である。先行する芭蕉の「奥の細道」にだって伊勢参宮に向かう新潟の遊女二人が市振の段に出る(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 60 市振 一つ家に遊女もねたり萩と月』を参照。それは創作だという批判は無効。遊女が伊勢参宮するというのが尋常なことだからこそそう書いたと言えるからである)じゃねえか! 絶対、おかしい! 女の一人旅がだめだというのなら別な下女でも下男でも何でもつけてりゃいいわけだろ!

「江州(がうしふ)柳ヶ瀨」近江国柳瀬(やながせ)。現在の滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬(グーグル・マップ・データ航空写真)。以下の「余呉の湖」からは北方へ五キロメートルほど離れているが、山間部なので湖が望まれてもおかしくはない感じはする。

「余吾の湖」ママ。普通は「余呉の湖」と表する。琵琶湖の北端から東へ二・四キロメートルほど離れた位置にある独立した湖ウィキの「余呉湖」によれば、『湖北岸には、羽衣伝説で天女が羽衣を掛けたといわれる「天女の衣掛柳」があった』(二〇一七年十月に台風により倒壊して現存しない。但し、これは伝説に纏わる『北野神社から移植された』二代目であった)。『日本最古の天女伝説の地といわれ』、『ほかの地域の羽衣伝説では、羽衣を掛けるのは松や岩などが多いが、余呉では柳といわれている』。また、別に『湖に入水した菊石姫の龍伝説もあり、菊石の投げた龍の目玉の跡がついたという「目玉石」があるほか』、『付近には蛇身の菊石姫が休んだといわれる「蛇の枕石」も知られる』とあり、本篇は前の銀色の幼龍や以下の展開から、この菊石姫伝承を下敷きにしたものであることが判る。サイト「余呉観光情報」の「菊石姫伝説 菊石姫の物語」に、その伝承が書かれてある。しかし、これ、ちょっと類を見ない超弩級に悲惨な話である。必読!

といひし程に、駕を下しければ、婦女は立出で、襟かきつくろひ、

「我(われ)爰に知るべあり、見廻(みまはり)て歸るべし」

とて、美しく着飾りてたる裝束の儘にて、此淵へ

「ざぶ」

と飛び入(いり)ぬ。

 駕の者ども大きに驚き、騷ぎのぞき見れども、幾尋(いくひろ)ともはからぬ深き淵なれば、せんかたなくに見合せけれど終に出ず。又何の動靜もなし。

 駕の者は此邊(このあたり)の里の家に一夜を明(あか)し、湖を窺へども、何の替る事もなき故、空しく是より歸りて、其趣を大河原氏へも語りしに、國禁なれば沙汰なしに事濟ぬ。

 此小女も慥かに親元といふ者もなし。容色は勝れながら、顏は長き方(かた)にてありたりと云ふ。

 又、同家中御坊主組(おばうずぐみ)に、津原德齋と云ふ人あり。此家の近所に「岡(をか)の庵(いほ)」とて致景の禪院あり。敷地、山のつゞきにして、人の遊會する所なり。夜半の頃にもや、德齋、我宿の中町と云ふへ歸らんとす。其道は福田川に添ふて、耳聞山(みみききやま)といふ少し高き松の群立(むらだち)たる所を越れば、町に入るなり。折節手提灯の火も消え、ともしに歸らんも便(たより)なし。

[やぶちゃん注:「御坊主組」藩庁の城主内で茶礼や茶器を取り扱う役の僧形の数寄屋(すきや)坊主のことか。

「津原德齋」不詳。

「岡の庵」不詳。以下の注も参照。2020127日:削除・追記】いつも情報を戴くT氏より、まず、有り難い(地区同定には是が非でも旧地図が欲しかった!)江沼郡の明治時代の地図(国土地理院明治四二(一九〇九)年測図の五万分一地形図)を“Stanford Digital Repository”(「スタンフォード(大学)デジタル・リポジトリ))で紹介下さり(「大聖寺地図」はこれ)、また、国立国会図書館デジタルコレクションの「石川県江沼郡誌」(大正一四(一九二五)年刊)もご紹介戴いたことを報告しておく。さて、この「岡の庵」の「岡」はT氏によれば、地名であって、現在の石川県加賀市大聖寺岡町(後の「敷地の馬塚」に出る菅生石部(すごういそべ)神社のある石川県加賀市大聖寺敷地の西隣り)であるとされ、この『岡より、大聖寺中町又は大聖寺仲町』(私が次注で示した前者のやや東北のここに別に存在する)『に帰るには、旧大聖寺川の屈曲部(大聖寺大名竹町から)から南下する旧大聖寺川の右岸(現石川県立大聖寺高等学校の西を流れる現大聖寺川からの取水路)を南下し(大聖寺耳聞山町の東。大聖寺高等学校南は旧三度川が西に流れ、旧大聖寺川と合流している)、辨天橋』など『で大聖寺町の中心部に入り、大聖寺中町又は大聖寺仲町に返る』というルートになろう、とされる。

「中町」石川県加賀市大聖寺中町2020127日:追記】或いはより可能性が高い上記で追加した大聖寺仲町。次注の追記を参照されたい。上記T氏は、『大聖寺仲町を候補にするのは、「舟より岸を見上るなれば、……」から、旧大聖寺川の舟から見えるのは、大聖寺中町よりも仲町の方がそれらしいと感ずる』と推論されておられる。私も同シチュエーションは大聖寺中町では、ちょっとおかしいと先に感じていた。これで納得出来た。

「福田川」不詳。但し、サイト「川の名前を調べる地図」のこちらで大聖寺の城跡の附近を拡大すると、北の大聖寺川の支流(南)である三谷川の左岸部分に大聖寺上福田町という地名を見いだせるから、或いはこの川の旧名かと思われる。藩庁直近で大聖寺川をかく異名したというのはちょっと考え難い気がする。2020127日:削除・追記】この川は大聖寺川の部分呼称の川名であった。T氏より、『大聖寺城近辺の「大聖寺川」が「福田川」と呼ばれていた証拠』として、『この「大聖寺古城之図」(拡大すると文字が読めます)』を示して下さった(「金沢市立玉川図書館近世史料館 所蔵文書データベース」内)。この絵図は弘化二(一八四五)年三月河野青龍正通筆写になる大聖寺城附近の絵図(享和四(一八〇二)年正月に「望宮候師之図」なるものを借り受けて仮に写したものとある。見ると、絵図の右側(こちらが北)に大聖寺川相当の部分に確かに『福田川』とある

「耳聞山」現在、この名前のバス停が大聖寺耳聞山町に存在するNAVITIME)。但し、現在は完全な市街地である。ただ、筆者も「少し高き松の群立(むらだち)たる所」と言っているから、有意な山である必然性はない。さて、以上を総合すると(津原の屋敷は現在の中町、川は三谷川(この川は南に伸びる部分(こちらが本流であろう)もある)、「山のつゞき」という表現から)、現在の加賀市南郷町の丘陵の麓辺り(グーグル・マップ・データ航空写真)に「岡の庵」という禅寺はあったのではないかと私は推理した。

「ともしに歸らんも便(たより)なし」灯を再びつけるために「岡の庵」まで戻るには帰路の半分を超えてしまっていたのであろう。それを選ぶのは如何にも不便甚だしいというのであろう。]

『よしや纔(わづか)の間(ま)ぞ』

[やぶちゃん注:「まあいいさ! もう、少しの距離だ。]

と思ひ行に、又六間ばかり先へ、提燈とおぼしき燈の行ける。

[やぶちゃん注:「六間」十二メートル弱。]

『幸(さひはひ)のあかり哉(かな)』

と思ひてしたひ[やぶちゃん注:「慕ひ」。]行くに、其間(そのあひだ)程近くなりて見れば、女の赤足(はだし)にて灯をさげ行く樣子なり。

『詞(ことば)や懸けん、或は知れる者にやあるべき』

など思ひ思ひ行く。

 此(この)ともし火も德齋の家の方へ行く程に、心ゆるして步み行く。德齋の宿は小路の折曲(をれまが)りにて、角(かど)は隣の屋敷なり。此塀越(へいごし)に大きなる榎(えのき)ありけるを、此程杣(そま)[やぶちゃん注:木樵(きこり)。]を雇ひて伐(か)りけるが、此夜も榎のもと三丈[やぶちゃん注:九メートル九センチ。]許りは殘りありけるが、此女其榎に寄添ひて、こちらを向き居(ゐ)けるに[やぶちゃん注:この部分は映画のマルチ・カメラ風になっていて面白い。]、折曲りなれば此事は知らず、ふと行懸(ゆきかか)りしが、灯の目より高く見ゆる程に[やぶちゃん注:提灯の灯が津原の目のお高さよりも優位に高い位置に見えたので。]、

「いかにや」

とふり仰向(あほむ)き見ければ、只今先へ行きし少女の、彼(かの)三丈ばかりの切株の榎とひとしく、其切口の頭を撫で居たり。德齋を見て振返りけるに、顏の長さ三丈許りもありける。胴の體(たい)は木(こ)がくれて見えず。恐しさ云はん方なく、しかも笑ひをふくみて見返りけるに、思ひがけざることなれば、

「あつ」

と云ひながら我家(わがや)へかけ込まれける。

 其後(そののち)、家僕を起し再び出で見るに、灯も女もなかりし。

 いかさま此あたりの古狸などのわざにや。

 此人(このひと)のみにもあらざりし、御長柄組(おながえぐみ)三四郞と云ふ者も、此邊りにて顏の三尺許りある女に逢たるとかや。

[やぶちゃん注:「御長柄組」近世の武家の職名。戦時に長柄の槍を持って出陣した騎馬の武士の一隊。道具衆。

「三尺」九十一センチメートル弱。]

 福田村市郞右衞門と云ふは漁獵(ぎよれふ)をする者なるが、折節此邊りにて、女の後ろむきて灯火を吹消し吹消しするを見る。

[やぶちゃん注:「福田村」現在、大聖寺上福田町大聖寺下福田町がある。孰れであっても大聖寺川の川魚漁師であろう。]

「舟より岸を見上るなれば、しかとしれざれども、低向(うつむき)たる顏ばせ三尺許りもあるべしと見えぬ。度々のことなれば、『例の者ぞ』と打過(うちすぐ)るなり。人に障る(さは)りたる事はなし」

とかたりぬ。

 實(げに)も狸にも狐にもせよ、化樣(ばけやう)の一調(いちてう)の物好(ものずき)はある事にこそ、飽かずもかく「長面女(ちやうめんぢよ)」とは變(へん)ずれ。案ずるに、大方此邊り何か老物(らうぶつ)の精にぞあるべき。

[やぶちゃん注:以上はややわかりにくいので現代語訳してみると、

「まことに、狸にもせよ狐にもせよ、何に化けるかは、それぞれに一定の得手・不得手・得意中の得意といったものがあるのであろうに、何故かよくもまあ、飽きもせずに「長面女」ばかりに化けるものじゃないか? 考えてみるに、これは狐や狸などではなく、大方、この辺りにあった年経た何かの『物』が変じた、ごく下級な妖怪なのではないかと推察できよう。」

と言った意味であろう。最後の「この辺りにあった年経た何かの『物』が変じた」「ごく下級な妖怪」というのは所謂「付喪神(つくもがみ)」のことであろう。付喪神とは、一般には、百年を経た器物や生物ではない物体に宿って、化けたり、人に害をなしたりするとされる精霊或いはその変化妖怪の自体のことを指す。]

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