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2020/02/28

大和本草卷之十三 魚之下 馬鮫魚(さはら)(サワラ)

 

馬鮫魚 魚大ナレ𪜈腹小ニ狹シ故ニ狹腹ト名ツクサハ

 狹小閩書曰靑斑色無鱗有齒其小者謂靑箭〇

 今案五月以後十月以前多シ味美ナレ𪜈病人食ス

 ヘカラス傷寒熱病有瘡瘍及患食積人不可食其

 子ホシテ酒肴トス味ヨシ多食ヘカラス滯氣名ケテカ

 ラスミ云鯔魚ノ子ノ如シヲキサハラハ長六七尺アリ

 味ヲトル東海西海有之ミコ魚ハサハラノ如ニテ大ナリ

 背ニヒレアリヒレノ長キ叓四五尺ハカリ其ヒレ常ニハ背

 筋ノ内長ククホキトコロニタヽミ入テアリ形狀馬鮫魚

 ニ同只ヒレノ長キノミ異トス

○やぶちゃんの書き下し文

馬鮫魚(さはら) 魚、大なれども、腹、小に〔して〕狹し。故に「狹腹(さはら)」と名づく。「さ」は「狹小」〔たり〕。「閩書〔(びんしよ)〕」に曰く、『靑斑色、鱗、無く、齒、有り。其の小なる者、「靑箭(さごし)」と謂ふ』〔と〕。

〇今、案ずるに、五月以後、十月以前、多し。味、美なれども、病人、食すべからず。傷寒・熱病、瘡瘍の有〔るもの〕及び食積〔(しよくしやく)〕を患ふ人、食ふべからず。其の子、ほして、酒肴とす。味よし。多く食ふべからず。氣を滯〔とどこほ〕〕らす。名づけて、「からすみ」と云ふ。鯔魚〔(ぼら)〕の子のごとし。

「をきさはら」は長さ六、七尺あり。味、をとる。東海・西海、之れ有り。

「みこ魚」は「さはら」のごときにて、大なり。背に、ひれ、あり。ひれの長き叓〔(こと)〕四、五尺ばかり。其のひれ、常には背筋の内、長くくぼきところに、たゝみ入れてあり。形狀、馬鮫魚に同じ。只、ひれの長きのみ、異とす。

[やぶちゃん注:スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius。漢字表記は「鰆」「馬鮫魚」。細長い体形をした大型肉食魚で、出世魚で「サゴシ・サゴチ」(青箭魚:「青い矢の魚」)(4050cm→「ナギ」(50~60cm)→「サワラ」(60cm以上)と呼び名が変わる。一説に、益軒も言っている通り、体長が細長く「狭い腹」から「狭腹(さはら)」と呼ばれるようになったとされる。ウィキの「サワラ」によれば(下線太字は私が附した)、『最大では全長115cm・体重12kgの記録がある。また』、性的二形で『メスの方がオスよりも大型になる。近縁種も含め』、サバ科Scombridae の『仲間でも』、『特に前後に細長い体型で、左右に平たい。地方名のサゴシは「狭腰」』の意とされる。『口は大きく、顎には鋭い歯がある。側線は波打ち、枝分かれが多い。第二背鰭・尻鰭と尾鰭の間には小離鰭が並ぶ。また、体内には浮力を調整する鰾(うきぶくろ)がなく、鰓耙もごく少ない。体色は背側が青灰色、腹側が銀白色で、体側には黒っぽい斑点列が縦方向に7列前後並ぶ』。『北海道南部・沿海地方から東シナ海まで、東アジアの亜熱帯域・温帯域に分布する。これらは日本海南部・黄海・東シナ海に分布する系群と、瀬戸内海から西日本太平沿岸に分布する系群の二つに分けられる。前者は黄海、後者は瀬戸内海を産卵場としている』。『春から秋にかけては沿岸の表層を群れで遊泳するが、冬は深場に移る。食性は肉食性で、おもにカタクチイワシ』(ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus)『やイカナゴ』(スズキ目イカナゴ亜目イカナゴ科イカナゴ属イカナゴ Ammodytes personatus)『等の小魚を捕食する』。『産卵期は春から初夏で、何回かに分けて産卵を行う。仔魚は当初から鋭い歯をもち、自分と同じくらいの大きさの他魚を貪欲に捕食する。生後1年で46cmほどに成長し、以後は2歳68cm、3歳78cm、4歳84cmほどとなる。成長は温暖な時期に顕著で、冬は成長しない。寿命はオス6年、メス8年ほどである』。『身の見た目はさほど赤くなく』、『白身魚として取り扱われる事も多いが、成分から見ると赤身魚である。日本では一般に焼き魚、西京味噌を使った「西京焼き」、唐揚げ(竜田揚げ)などで食べられる。身が軟らかく崩れやすいので煮物には向かないと言われることもある。岡山県周辺では鮮度の良いものを刺身で食べる。香川県などではサワラの卵巣を使ってカラスミをつくる。まだ脂分が少ない年齢のサゴシは、出汁をとるための煮干しとして近年商品化されている』。『刺し網、定置網、引き縄などの沿岸漁業で漁獲される。春が旬の魚とイメージされているが、本当に味が良いのは秋・冬である。特に冬は脂が乗り、「寒鰆」と呼ばれて珍重されるが、この季節には活動が鈍るため漁獲量も減る。サワラの漢字は魚偏に春で「鰆」と書くが、これは春に産卵のために沿岸へ寄るため人目に付きやすいことから、「春を告げる魚」というのが字源となった』とある。なお、日本近海では他に以下の種が知られるとある。

ヨコシマサワラScomberomorus commerson(全長2mを超える大型種で、体型はサワラに似るが、和名通り、体側に黒っぽい横縞模様が多数走る。日本ではサワラに次いで漁獲量が多く、地方名に「ヨコスジサワラ」「クロザワラ」「イノーサワラ」などがある)

ヒラサワラ Scomberomorus koreanus(全長1.5m。体側模様はサワラによく似るが、和名通り、サワラより平たい体型で体高が高い。別名で「韓国鯖」とも呼ぶ)

ウシサワラ(牛鰆)Scomberomorus sinensis(全長2mに達する大型種。胸鰭の先端が円いことで他種と区別出来る。他にも、サワラより口が前に突き出ている点、額が僅かに窪む点なども識別基準となる。地方名に「ホテイサワラ」「クサモチ」「ハサワラ」「オキザワラ」などがあり、別名で「中国鯖」とも呼ぶ)

タイワンサワラ Scomberomorus guttatus(全長70cmほどで、日本産サワラ類では小型種で、本来はインド洋・太平洋の熱帯域に分布するが、若狭湾での捕獲記録もある。別名「インド太平洋オオサバ」)

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「傷寒」昔の高熱を伴う疾患の中でも現在のチフスの類を指す。

「食積」「宿食」(しゅくしょく)に同じ。飲食物が胃腸に停滞してしまう病証を指す。「傷食」「宿滞」などとも称し、食べ過ぎ或いは脾虚を原因とし、上腹部の脹痛・酸臭のあるゲップ・悪心・食欲不振・便秘或いは下痢を主症状とし、悪寒・発熱・頭痛などを伴うこともある。

「からすみ」唐墨。現在、一般には長崎名産として、ボラMugil cephalusの卵巣の塩漬けしたものを酒に漬け、さらに乾燥させたものが珍味として名高いけれども、上記引用にも出る通り、現在でも香川県ではサワラの卵巣から「カラスミ」を製造しており、ボラに比して味は濃厚であると謳っている。台湾では「烏魚子」(ボラ卵使用)、ヨーロッパでは同様のものをフランスで「ブタルグ」(Boutargue)、近年、日本でもパスタ用に盛んに売られているイタリアのサルジニア島のものを「ボッタルガ」(Bottarga)、スペインでは「ウエバ(卵)のサラソン」(「魚卵の塩漬けの乾燥品」の意)などと称して味わう。あちらではマグロ(スズキ目サバ科マグロ族マグロ属 Thunnus)・スズキ(スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus)・メルルーサ(タラ目メルルーサ科 Merlucciidae 或いはマクロヌス科 Macruroninae)等の多彩な魚卵が使用されている。一言だけ言っておくと、美味だが、そのままでは歯にかなりしつこく粘りつくのが難である。実は、さっと炙るのが「カラスミ」を味わう何よりのコツなのである。

「をきさはら」前に出したウシサワラ。

「みこ魚」不詳。ウシサワラは前に出したし、ヨコシマサワラなら、極めて特徴的な横縞を言わぬはずはないので、所謂、サワラの大型の老成固体であろう。但し、それらの背鰭が益軒の言うような変化を遂げるかどうかは私は知らない。]

三州奇談卷之三 高雄の隱鬼

    高雄の隱鬼

 高雄山は富樫次郞政親が城跡、麓は四十万(しじま)の里、後は黑壁と云ひて、皆今も魔魅の住む所として、樵夫も日傾く時は行かず。黑壁は數百丈の絕壁、不動の尊像を彫(きざ)み、人巧の致すべき物ならずと云ふ。柴を採り落葉をかきて、異人に逢ひて命を失ふ者まゝ多し。高雄山には又不思議の鬼燐(きりん)有て、里俗「坊主火(ばうずび)」といふ。獵人

「古狸の大入道となりしを得て後此火なし」

との咄(はなし)、人口にありといへども、今も猶此邊り海邊迄燐火飛ぶこと絕えず。其何(そのなん)たるを知ることなし。或人此山の咄に、

「山上に穴多し。誤ちて落つる時は、路より來(きた)る人を呼びて繩を下(おろ)して上る」

と云ふ。夫(それ)が中に人通りなき日(ひ)落入りし者ありしが、穴の中に又小さき橫穴ありし程に、是非なく是より行くに、十日許(ばかり)を過ぎて闇中をくゞりぬけ、飛驒の國の境、庄川の岸(きし)絕壁の間に脫(のが)れし者あり。金澤へ歸りしに蘇生せし者の如く、其事を尋けれども、只闇中を經廻(へめぐ)りし外(ほか)別に話もなかりし。是又怪なり。

[やぶちゃん注:「高雄山」高尾山。「鞍岳の墜棺」で既出既注。

「富樫次郞政親」同じく「鞍岳の墜棺」で既出既注。

「城跡」金沢市高尾町のここ(グーグル・マップ・データ)。

「四十万の里」現在、これらの地域の南方に金沢市四十万町(しじままち)及び山麓に四十万がある。

「黑壁」「宮塚の鰻鱺」で既出既注。伏見川上流の金沢市三小牛町(みのこうじまち)内にある黒壁山。

「數百丈」甚だしい誇張表現。この付近の最高地点でも百九十九メートルである。

「坊主火」「石川県能美郡誌」の「第十五章 鳥越村」の「傳說」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション)に、

   *

〇坊主火。陰火な、石川郡高尾村に油賣あり、生前其油を鬻ぐに桝底に鬢附油を練り、以て實量を減ぜしが故に、死後罪を償ふが爲に來るなりといふ、初め此火見ゆるや、鶴來方向より數百の火光列を作り、手取川の對岸なる廣瀨河合を經、出合の邊より鳥越城山に登る、此時次第に其數を減じて一直線狀を爲し、遂に一團となり上空に消ゆ、里人屢々之を見るといふ、

   *

とある。

「飛驒の國の境、庄川の岸」この付近か。黒壁からは直線でも二十七キロメートルある。

「蘇生せし者の如く」冥界から蘇って帰還した者のように扱って。]

 ふもとの村は四十萬なり[やぶちゃん注:「萬」はママ。]。淨土眞宗の道場ありて、善性寺(ぜんしやうじ)と云ふ。近隣の大寺にて、蓮如上人の舊跡なり。此後(うしろ)の大木とて、中のうつろなる大樹あり。凡人三十餘人を隱しつべし。近年乞食住みて火を焚しによりて樹は枯れぬ。人家は多からずと云へり。天正の頃の戰地にて甚だ名高し。

[やぶちゃん注:「善性寺」石川県金沢市四十万町のここにあり、南東の山頂(善性寺所有地)に蓮如の墓がある。但し、彼は山科本願寺で入滅し、廟所も京都市山科区西野大手先町にあるから、これは供養塔である。サイト「金沢ライオンズクラブ」のこちらに写真があるが、かなり傷んでいる。「蓮如上人の舊跡」とあるが、「加能郷土辞彙」(国立国会図書館デジタルコレクション)の同寺の記載を見ても、蓮如に関わる記載はない。

「天正」一五七三年~一五九三年。

「戰地」加賀一向一揆(長享二(一四八八)年)頃~天正八(一五八〇)年)。]

 享保年中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]の事なるに、金澤淺野川下に一人の獵師あり。彌助と云ひし者、常々朝には霧を拂ひて山野に走り、暮には日落ちて家路に歸る。いかにするわざとは云ひながら、旦暮に物の命をたち、纔(わづか)に電光朝露の身を愛し、未來永劫の罪を恐れず。徒らに白駒(はつく)[やぶちゃん注:光陰。月日。]の影隙なく過ぎて、堪げがたき暑(あつさ)もいつしか秋風に立替り、程なく文月(ふづき)[やぶちゃん注:旧暦七月。]十三日、魂祭(たままつ)るの頃にも成りしかば、今日は殊更なき人を待つ日なればとて、貴賤をわかたず戶每に灯を點(とも)し、香花を備へ、讀經なんどし追福をなすの日なるに、此彌助は夫(それ)に引きかへて、今朝も獵に出(いで)けるが、起まどひて、久保の橋に至る頃は未だ丑三つごろなり。

[やぶちゃん注:「淺野川」ここ。伏見川と犀川を挟んで流れる。

「久保の橋」不詳。但し、次の段で「向ふの方を見れば、左は高雄山の麓」とあるから、伏見川に架かる橋と思われる。この附近か。]

 月明々として西の空に懸り、雲慘々として哀猿遙かに叫び、風のみ松に吟じて橋上の人聲絕えたりしに、向ふの方を見れば、左は高雄山の麓、右は小松群立ちてほのくらきに、年の程四十許の女、今一人は十八九と見えて白き衣にだけなる髮を亂し、往來の傍に座して

「さめざめ」

となき居たり。

 彌助怪しく思ひしかども、歸るべき道にしもあらざれば、おづおづ立ちより、

「何者ぞ」

と問ひけれども、さらに答へず。

 彌々(いよいよ)足早に打通り、跡を返り見るに、間近く追來りければ、詮方なく額谷(ぬかだに)をも逃過(にげす)ぎて、所緣あるに依りて四十萬の里の道場に漸々(やうやう)と逃込しに、

『慥に爰元迄來りし』

と覺えしが見失ひぬ。

[やぶちゃん注:「額谷」金沢市額谷。四十万の北。]

 夜明けて里人に、右のことども語りければ、

「其事侍り、每年七月十三日には必ず如此(かくのごとく)の人出で、行逢ひし者少なからず。古老の物語りしは、昔鏑木(かぶらぎ)六左衞門と云ふ者、松任(まつとう)の城に有し時、一揆の爲に一門盡く亡さる。此道場善性寺の先祖は法敎坊と云ひて、一揆方にして此事に預れり。故に彼(かの)鏑木が妻室の怨念、今も此寺へ來(きた)ると云ふ。是等の類(るい)にや」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「鏑木六左衞門」初期の松任城主であった鏑木氏の誰かであろうが、どうもこの話に一致する「六左衞門」なる人物は見いだせない。加賀一向一揆の頃なら、鏑木繁常(応永三一(一四二四)年?~永正元(一五〇四)年?)であるが、彼は一揆方に組した、蓮如に帰依した人物であるし、後代の鏑木頼信(?~天正八(一五八〇)年:一揆側の中心的存在として活躍し、一向一揆の滅亡と運命をともにした)の時に鏑木氏の松任城は落城するが、それは長尾景虎(上杉謙信)に攻められてである。何か伝承に錯雑があるか?

「松任の城」「松任の姦女」で既出既注

「法敎坊」不詳。]

 是も又享保の頃、加州の醫師奧田宗傳と云ふ人、或夜松任へ病用ありて、駕籠を走らしめしに、其戾りははや夜半過にもやあらん、道の邊りに七八人並び居て、駕籠をつらせ、かの宗傳の駕籠をとゞめて申して曰く、

「我らは四十萬村何某と申(まうす)者に候。老父急病取出(とりいだ)し、今夕も知らざる躰(てい)に候。貴宅迄御迎に參り候へば、松任へ御越のよしにて、直に御迎に參り申すべきの旨にて、是迄參り申候。哀れ[やぶちゃん注:感動詞。呼びかけ。]是より直に此駕に召され候(さふらふ)て、御見廻被ㇾ下(おみまはりくだされ)かし」

とひたぶる願ひければ、見知る人にはあらざれども、仁を本とする醫師なれば、聞捨(ききすて)にも成り難くて、彼(かの)駕に乘りかへて、松任の人は是より戾して、四十萬村へ見廻れし。今思へば心得ぬ事も多かりしなり。

 扨四十萬村にて日頃覺へざる大家、いか樣(さま)庄屋と覺しき所に入れり。男女立さわぎ、幾間の奧々に灯火かゞやき、病人の床に通りしに、其臭氣堪へ難し。病夫は六十許にして、肥(こえ)ふくれたる親父なり。顏は絹の切(きれ)にて包みで見へず。

 脈を伺ふに、はやうして金瘡(きんさう)の類(たぐひ)。

『扨は自殺を仕そこなへる者にこそ』

と思ひしかば、

「是は外醫(げい)こそ詮なるべけれ」

と、纔に藥一貼(いつてふ)を與へて戾られしが、金澤の宅へ歸られし時は未だ夜の中なり。駕の者付添ひし者、懇に禮謝して戾りしが、衣服の臭氣は久敷(ひさしく)失せざりしが、奧田氏も、其翌日人來らざりし程に、不審はれやらず。人して問はしむるに、

「四十萬にはかゝる病人もなし。又左(さ)あるべき家居(いへゐ)もなし」

と云來りしなりと、奧田宗傳一つ咄(ばなし)なり。

[やぶちゃん注:「奧田宗傳」不詳。ずっと後の宝暦一一(一七六一)年に召し出された法橋となった医師奥田宗安なる医師がいるが、その先祖か。

「臭氣堪へ難し」これは獣の臭いで、「肥(こえ)ふくれたる親父」とあればこそ、妖狸ではあるまいか?

「一つ咄」いつも得意になってする同じ話。]

2020/02/27

三州奇談卷之三 霾翁の墨蹟

    霾翁の墨蹟

 金澤淺野町に山屋藤兵衞とて、東西に駕(かご)を舁(か)きて年を送る者あり。武家に雇はれて江戶へ往き、夫より武州深谷の雇夫(やとひふ)九兵衞と云ふ者と棒組(ぼうぐみ)して、武州總泉寺出(で)の病僧、洛の紫野へ赴くを舁きて、北陸道を經て上りける。

[やぶちゃん注:「霾翁(ばいをう)」と読んでおく。本文にも語られるが、「霾」は正式な漢字で音「バイ・マイ」、訓は「つちふる」。「強い風が土砂を巻き上げて、それを降らせる」或いは「巻き上げられた土砂によって空が曇ること」を謂う。

「金澤淺野町」現在の金沢市昌永町とその南東に接する小橋町附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。個人ブログ「旧町名をさがす会(金澤編)」のこちらに拠る。そこにも記されてあるが、その北に浅野本町ならば現存している。

「山屋藤兵衞」不詳。

「武州總泉寺」国書刊行会本は『武州深谷總泉寺』とするが、現在の深谷には同名の寺はない。似た寺名ならば、埼玉県深谷市境の曹洞宗境井山宝泉寺がある。一方、底本通り、深谷でなく武蔵国というならば、江戸時代に青松寺(せいしょうじ:港区愛宕)・泉岳寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の一つとして知られた浅草橋場(現在の台東区橋場)にあった曹洞宗妙亀山総泉寺がある。この寺は関東大震災で罹災して移転・合併、現在は板橋区小豆沢にある。

「洛の紫野」京都市北区の紫野地区。]

 此老僧風姿異相にして、八九旬[やぶちゃん注:八、九十歳に達していること。]の齡(よはひ)なり。頭に物をかぶり、墨の衣を着し、紫の頭陀(ずだ)をかけて、道中泊(とまり)にも

「病(やまひ)に障る」

とて、寢食共に多くは駕の内にて調へける。

 言語少く、甚だ異躰(いてい)なれども、金子(きんす)を多く所持して、水の如く遣ひける故、二人の駕舁もまめやかに看病して登りけり。

 此僧

「山道を行くには、病氣に障る」

とて、越中より海邊を傳ひ、能州へ廻りて、濱通り黑津舟(くろづふね)に至る。道すがら能く物書きて人に與へけるが、此社の神職齋藤氏にも一書與へける。

[やぶちゃん注:「黑津舟」現在の石川県河北郡内灘町字宮坂にある黒船神社周辺の古地名。バス停にズバリ「黒津船」が同神社の東北近くにある。「宮坂公民館」公式サイトのこちらに「黒津船地内の由来」とあって、『黒津船権現(小浜神社)』(おばまじんじゃ:河北潟から流れ出る森下川を挟んで宮坂神社の対称位置の字大根布(おおねぶ)にある)『に奉仕する人々が門前に集落を作り、小浜神社の魚取部で七軒であった』『が、その後』、『分家などで十三軒となった』。『安政六年』(一八五九年)『には、家数三十三戸で』男百二十一人、女九十九人と『なり、宮坂村とは別に村役人を置いた集落であり、加賀藩前田家の家紋』である『梅鉢の紋を頂いたので、旗印に梅鉢の紋入りの旗を使用し、今も黒津船地内の獅子頭に梅鉢の紋がついている』。『昔は、小浜神社の大祭に三十八ケ村の獅子頭が全部集まった時でも、黒津船の紋入り獅子が』一『番先に神社に上がらないと他の獅子が上がれない習慣が』あった、とある。位置がちょっと不審だったので(ヒントは既に上記リンク先の頭に『宮坂の名前の由来は、昔』、『小浜神社が権現森の傍にあったとき、その坂の前に住んでいた』人々がおり、『お宮の前でおんまえ⇒おみや坂村⇒宮坂村となって行った』というところにあった)、「石川県神社庁」の「小濱神社」の解説を見たところ、天保三(一八三二)年に『黒津船より石川郡五郎島』(ここ)『へ、移転』とあり、さらに明治二二(一八八九)年、『五郎島より現在地大根布へ移転再建し』たとあったので、やっと腑に落ちた。

「齋藤氏」前のリンク先を見れば判るが、現在の小濱神社宮司も齋藤姓である。]

 夫より宮腰に寄り、猶浦傳ひして終に越前の橋立に至る。

[やぶちゃん注:「宮腰」石川県金沢市金石の旧地名のそれか。現在、小さな「宮腰緑地」に名が残る。

「越前の橋立」石川県加賀市田尻町浜山に橋立漁港がある。]

 人家の腰に駕をおろし、二人の者もたばこたうべて打休らひける。

[やぶちゃん注:「人家の腰」軒下の謂いであろう。]

 爰に犬ども多く吠え出で喧し。兼て病僧の忌(いむ)物なれば、二人の駕の者杖を以て頻りに追拂ひけるに、此中(このうち)名犬やありけん。白毛なる狗一疋、一文字に飛來りて駕に飛付(とびつ)き、老僧の咽喉(のど)を喰(くは)へて引出(ひいいだ)しければ、一聲

「あつ」

と叫んで終に死しける。

 此時享保二十一年六月下旬なり。

[やぶちゃん注:実に妙なところでクレジットを出しているので、つい突っ込みたくなった。享保二十一年六月は厳密には最早「享保」ではない。享保は二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日)に「元文」に改元されいるからである。同年六月下旬はグレゴリオ暦では七月終わりから八月の頭に当たる。]

 二人の雇夫も、里人も大いに驚き、先(まづ)病僧を介抱してけるが、いつの間にか變じけん、古き貉(むじな)の尸(かばね)にてぞありける。

[やぶちゃん注:「貉」はこの場合、後文から見て、ニホンアナグマの異名ではなく、「狸」(ホンドタヌキ)と同義でよいと思う。博物誌としての違いは、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき)(タヌキ・ホンドダヌキ)」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな)(アナグマ)」を参照されたい。民俗社会では長く化ける幻獣・妖怪として混同されたり、はたまた区別されたりし続けて、狐同様に人を化かすものと普通に考えられていた。一方で、近代の猟師でさえもアナグマともタヌキとも異なる「ムジナ」なる動物がいると誤認していて、大正一二(一九二三)年に栃木県鹿沼市で発生した「たぬき・むじな事件」(リンク先は同ウィキ)なども起きている。但し、言っておくと、私は個人的には両者は見た目でも生態学的にも混同しようがないほど違うと認識している。]

 何れも再び興をさまし、先二人の駕舁を捕へて、

「汝ら共に正躰を顯すべし」

と大勢打圍み叫びけるに、二人の者共樣々に詞を盡し、一人は加州の者、一人は武州の者にて、全く妖僧の同類ならざるを明(あか)し、且(かつ)病僧の始終を語り、漸(やうや)くに命を助かり、扨名主に斷りて死骸を埋(うづ)め、一人の證人を乞ひ請けて武州へ歸りしが、藤兵衞云ふは、

「越前に證人あれば、同道せずとも然るべし」

とて、所の肝煎などより一札を調へ、九藏に渡して殘りける。

[やぶちゃん注:最後の「九藏」は「久兵衞」の誤りであろう(「近世奇談全集」は『久兵衞』と訂してある)。ここは一読よく判らないが、駕籠舁として移動している場合は、国越えや関所は、その乗り手の素性によって通行の可否が決まるのであろうが、ここでは奇体な事件に巻き込まれた上、既に駕籠舁ではなくっている(私は場所から見て、恐らく藤兵衛は、この時点では内心、このまま少し戻って、自分は一人で金沢へ帰ることに決めていたのではないかと考えている。但し、ネタバレになるが、結局、以下で藤兵衛は久兵衛とともに江戸に一緒に戻っている)。しかし、そうなると、藤兵衛に雇われた久兵衛は単独で江戸へそのまま戻らねばならない。となると、手ぶらではいろいろと詮議されるのは必須であることから、初めは越前から経緯と素性を証明する付き添い人が必要だと考えたのだろうと推測した。しかし、「ここから江戸へ付き添いの証人送るのは大変だから、肝煎などが現地越前の証人として経緯・素性を保証する一札をただ認(したた)めて貰えれば、自分も久兵衛もそうした証人は不要だ」と言ったのであろう。なんぼか貰っても、こんな付き添いいっかな御免だわ。しかし、ここも「殘りける」が、何となく座りが悪い。藤兵衛は金沢は近いから、久兵衛を江戸へ立たせて残ったというのならば判る。しかし、次の段落の「二人」は、これまた、藤兵衛と久兵衛でなくてはおかしいわけで、何んとなしに話の展開に時制上の妙なダブりが感じられてしまうのである。]

 扨二人の者ははるばる武州の總泉寺へ往きて、始終を斷(ことわ)り、妖憎が遺金(いきん)の餘りを返しける。

 和尙對面して、

「さもあらん、此病僧當寺には住みて二百年許(ばかり)、其素性を知者なし。只古老になり、檀家の信施を貯ふること久し。依りて金子數多(あまた)彼が一室にはあり。然るに十日許以前、此僧忽然と來りて申しけるは、

『我今北浦(きたのうら)にして狗の爲に命を損じぬ。願くば般若を修して跡を弔ひ給はるべし』

と云ひて失せぬ。

[やぶちゃん注:「北浦(きたのうら)」は私の勝手な読み。固有名詞ではないと考えたからである。

「般若を修して」「若波羅蜜多心経」を誦して。]

『扨は途中にして卒(しゆつ)しける』

と、則(すなはち)法會をいとなみけるに、扨々不便の事なり。不迷因果の理(ことわり)をさとせば必佛果に至るべし。然らば遺金に心あるべからず」

とて、餘りの金銀を配當して、加賀の藤兵衞と共に金五十兩宛(づつ)分け與ふ。何れも俄に德付きて悅び歸國せり。

 然るに加州の藤兵衞は新たに家を建て廣げ、妻子榮耀(えやう)に暮せしが、幾程もなく狂氣と成りて飢死(うゑじに)しける。

 深谷九兵衞は江戶へ出で、本鄕に店を出し、布を商ひしが、加賀の藤兵衞が事を聞き、驚きて持佛に妖憎が戒名「北海霾翁(ばいをう)」と云ふ牌を立(たて)て弔ひけるとぞ。

 此物語は普(あまね)く人の知れるなるに、則(すなはち)かたへの人

「家こそ其一軸を持傳へたり」

とて出されける。

[やぶちゃん注:「家」国書刊行会本は『我』。]

 是をみるに文字正しからず、讀み得難し。此座に先生何某なる人(ひと)是を一覽して、

「誠に手跡人間と遙かに變れり。只(ただ)朱印の文字『䇹藪軒(くんさうけん)』、又一印には『霾翁』とあり。『霾』は『土ふる』とよみながら、全く『雨』・『狸』の文字なり。軒號(けんがう)も『しの竹草むらの軒(のき)』と云へれば、是(これ)古貉なること宜(むべ)なり」

と聞えし。

 只黑津舟齋藤丹後守が所持の一軸は、是のみ文字正しく

「松無古今色竹有遠近節

と能く讀めるも一興なり。されば和漢狸・貉の人に化して百事を論ぜし例(ためし)少からず。諸嶽山の貉は僧に化して佛敎を論じ、漢の董仲舒と五經を論ぜし老客も是貉なりとかや。巢に居(をり)ては風を避け、穴に所(ところ)しては雨を知る。是皆狸・貉の通力なり。然るにこの古貉は、斯く迄人中(ひとなか)に居(をり)て神通不測なるべきに、纔(わづか)に一狗の爲に命を落すも又一怪のみ。

[やぶちゃん注:「䇹藪軒」の「䇹」は「筍(たけのこ)」及び「篠竹(しのだけ:幹が細く丸く均整のとれた竹で矢柄に用いられる)」の意がある。

「黑津舟齋藤丹後守」先に注した小濱神社の神主。

が所持の一軸は、是のみ文字正しく

「松無古今色竹有遠近節」訓ずるなら、

 松に古今(ここん)の色無く

 竹に遠近(をちこち)の節有り

知られた禅語としては、「禅林句集」等にある、

 松無古今色 竹有上下節

  松に古今の色無く

  竹に上下の節あり

である。違わぬものと違うもの、平等と区別に対する認識の禅機を指す。

「董仲舒」(とうちゅうじょ 紀元前一七六年頃~紀元前一〇四年頃)は前漢の大儒。「春秋公羊(くよう)伝」を学んで、武帝の時に文教政策を建言し、儒学を正統な官学と成し、その隆盛を齎した。

「五經を論ぜし老客も是貉なりとかや」私の偏愛する六朝時代の志怪小説で晋の干宝撰の「捜神記」巻十八に載る。私の「耳囊 卷之十 風狸の事」の注で電子化注してあるので読まれたい。]

石川啄木歌集 悲しき玩具 (初版準拠版) 始動 /書誌・歌集本文(その一)

 

[やぶちゃん注:石川啄木(明治一九(一八八六)年二月二十日~明治四五(一九一二)年四月十三日:岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)生まれ。満二十六歳で没した)の遺構歌文集にして第二歌集である「悲しき玩具」の初版は、彼の逝去から二ヶ月後の明治四五(一九一二)年六月二十日に刊行された(発行は二年前の第一歌集「一握の砂」(明治四十三年十二月一日発行)と同じ東京京橋区南伝馬町の東雲堂書店)。総歌数百九十四首。定価五十銭。

 啄木は既に「一握の砂」の冒頭注で述べた通り、明治四十二年三月一日に朝日新聞社校正係として就職、同十一月より「二葉亭全集」の校正の補助に携わっていたが、主担当者の退社に伴い、明治四十三年四月より彼が主担当となっていた(病気のために続けられなくなり、当該事務の引継ぎは明治四十四年十二月一日に療養中の自宅で行われた)。啄木はこの明治四十四年一月十三日に同僚記者の紹介で、後に本遺稿集を纏めることとなる歌人土岐哀果(善麿 明治一八(一八八五)年~昭和五五(一九八〇)年)と逢い、意気投合、文芸詩想雑誌『樹木と果實』の創刊を企図している(同誌は同三月に土岐が編集したが、印刷所の不誠実から発行が難航、結局、契約を破棄し、創刊は実現しなかった。土岐はこの最晩年・末期の啄木をよく支えた)。しかし同月末頃に体調不調に気づき、同年二月一日、東京帝大医科大学付属医院で「慢性腹膜炎」の診断を受けて入院(この間、「余病無し」と診察されて結核病室から一般病室に移っている)、三月十五日に退院、以後、自宅療養となる。しかし、同年七月二十八日、同病院で妻節子が「肺尖加答兒(カタル)」(肺尖の部分の結核症。肺結核の初期病変)で伝染の危険性を指摘された。さらに明治四十五年一月二十三日には二人の医師の診断によって母カツが年来の結核と診断されて老齢(数え六十六)であることから生命の危険ありとされる(彼らの感染順序は明らかでない)。そのおよそ一ヶ月後の三月七日にセツは逝去した。四月五日には啄木重態の報知を受け、室蘭にいた父一禎が上京している。四月九日、土岐の奔走(実際には前日に見舞いに来た土岐とも親しかった若山牧水がその経緯の中に入っている)で第二詩集出版の契約を結び、窮乏を極めていた啄木の懇請で原稿料前借二十円を得、これが啄木最期の薬料となった。四月十三日早朝、危篤に陥り、午前九時三十分、父・節子・牧水に看取られて永眠。妻節子は二ヶ月後の六月十四日に次女房江を産むが、夫の死に遅れること僅か一年、翌大正二年五月五日、同じく肺結核により亡くなった(以上の事績は所持する筑摩書房「石川啄木全集」の「第八巻 啄木研究」(昭和五四(一九七九)年刊)の岩城之徳(ゆきのり)氏の「伝記的年譜」他を参照した。以下の注でも概ねそれを用いている)。

 現行、「一握の砂」同様、「悲しき玩具」の電子テクストは新字旧仮名のものが圧倒的に多く、底本が初版に拠るものが少ない。底本は所持する昭和五八(一九八三)年ほるぷ刊行の「名著復刻詩歌文学館 紫陽花セット」(私が人生で最初に買った一回払いでは最も高額な叢書だった)の初版復刻本「悲しき玩具」を視認した。四六版判・並製雁だれ表紙・天金・アンカット装(今回この電子化のために初めてカットした)・ジャケット付。表紙は焦茶色霜降紙に本文共紙の題簽(墨・濃茶の二色刷)貼。見返しと本文はともに簀目入り洋紙。ジャケットは白色簀目入り洋紙に墨・茶の二色刷である(この装本データは同セットの解説書に拠った)。底本の一部を画像で配しておいた。但し、歌集本文では、加工データとして、非常に古くに公開されている「バージニア大学図書館」(University of Virginia Library)の「日本語テキスト・イニシアティヴ」(Japanese Text Initiative)のこちらの「悲しき玩具〔一握の砂以後〕」(日本語正字正仮名表記)を加工データとして使用させて戴いた。心より御礼申し上げる。但し、ここのテクストは先の「一握の砂」などで幾つかの問題点(最も問題なのはルビがないこと)や誤植(冒頭二首からして三行目の一字下げが行われていないことや、読点の脱落が有意に散見される)が見出せること、更に歌の順列に錯誤もあり、初版の歌集の後に載る評論(原本目次では「(感想)」とある)「一利己主義者と友人との對話」「歌のいろいろ」(「いろいろ」の後半は原本では踊り字「〱」)が載っていないこと等々から、私の仕儀が決して屋上屋になることはないと感ずるものである。また、筑摩書房「石川啄木全集」の「第一巻 歌集」(昭和五三(一九七八)年刊)の本文と校合し、不審点は注記を加えた。また、注では「一握の砂」に引き続き、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」を参考にさせて戴く。

 なお、底本本文の短歌群はほぼ総ルビなのであるが、これは如何にも読み難いので、まず、総てに読みを表示したものを掲げた後に一行空けて一字下げで読みを排除したものを示すこととした。漢字は極力可能な限り、底本のものを再現するつもりであるが、例えば啄木の「琢」の字などは正字の最後の一画の入ったものは電子化出来ないので、完璧とは言えないことはお断りしておく。主に若い読者に必要かと感じた表現や語句に禁欲的に注を附した。

 本歌文集「悲しき玩具」という標題は、末尾に載る「歌のいろいろ」(明治四三(一九一〇)年十二月十日・十二日・十八日・二十日『東京朝日新聞』初出)の掉尾にある、

   *

○目を移して、死んだものゝやうに疊の上に投げ出されてある人形を見た。歌は私の悲しい玩具である。

   *

に基づく。底本の「紫陽花セット」解説書の小田切進氏の解説によれば、土岐は歌稿ノートの扉にある『一握の砂以後――四十三年十一月末より』をそのまま表題としようとしたが、『東雲堂から、それでは『一握の砂』とまぎらわしいので困ると言われ』、ここから『採ってこの第二歌集の表題としたという』とある。

 「一握の砂」の冒頭注でも述べたが、或いは、「何を今さら啄木を」とお感じになる方もあるやも知れぬが、私の父方の祖父藪野種雄(東邦電力名古屋発電所技師。昭和九(一九三四)年八月十四日結核により名古屋にて逝去。享年四十一。彼の遺稿「落葉籠」は私のサイトのこちらで電子化してある)の最後の病床には「石川啄木歌集」(「一握の砂」「悲しき玩具」カップリング版・昭和七(一九三二)年九月一日紅玉堂書店(東京)発行)があった。それを私は譲り受けて、今、目の前にある。末期の祖父が啄木の孰れの歌に胸うたれたかは判らないけれども、それに想い致しつつ、私は電子化をしたいのである。因みに、私は大の短歌嫌いであるが、啄木だけは例外で、中学一年の時に「一握の砂」「悲しき玩具」を読み、激しく心打たれた。筑摩版全集も私が教員になって初めて買った全集の中の一つであった。【二〇二〇年二月二十七日始動 藪野直史】]

 

Gangukaba

 

[やぶちゃん注:カバー(両端の内折りは広げていない)。背の部分の汚点は私の底本の三十七年の経年劣化による染み汚損。ガラス書棚の中に防虫・乾燥剤とともに入れてあったが、保護ケースを外していたために汚れてしまった。]

 

Ganguhyousi

 

[やぶちゃん注:本体の表紙・背・裏表紙。]

 

 

[やぶちゃん注:扉。印刷された左ページのみを示した。以下に電子化して本電子データの標題とする。]

 

悲 し き 玩 具

(一握の砂以後)

石 川 啄 木

 

――(四十三年十一月末より)――

 

 

[やぶちゃん注:扉を開くと左(右ページは白紙)中央に、以下の目次。「いろいろ」の後半は原本では踊り字「〱」。]

 

   内  容

一握の砂以後百九十四首   (歌)

一利己主義者と友人との對話 (感想)

歌のいろいろ           (感想)

 

[やぶちゃん注:以上をめくると、左(右ページは白紙)中央に、改めて以下の中表紙。]

 

 

 悲 し き 玩 具

    ――一握 の 砂 以 後――

 

 

[やぶちゃん注:以下、歌集本文に入る(ノンブル開始。『 2 』。ここからアンカット装が始まる。版組を味わって戴くために、最初の四首の見開きページのみ画像で示す。]

 

Kanasikihonbun1

 

 

呼吸(いき)すれば、

胸(むね)の中(うち)にて鳴(な)る音(おと)あり。

 凩(こがらし)よりもさびしきその音(おと)!

 

 呼吸すれば、

 胸の中にて鳴る音あり。

  凩よりもさびしきその音!

[やぶちゃん注:三行目の一字下げはママ(第二首目も)。以降に出版された本歌集に於いても踏襲されており、筑摩版全集でもそうなっている。學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、『巻頭作品であるが』、『その表現形式と内容から、明治四十四』(一九一一)『年晩秋から晩冬にかけての作と思われる』とされ、『この一首と次の「眼閉(めと)づれど」の歌は歌集の原稿となった啄木の「一握の砂以後」という歌稿ノートにはなかったもので、友人の土岐哀果が歌集の編集をしたおり、啄木の遺品の中より発見した紙片に書かれていたものである』とある。]

 

   *

 

眼(め)閉(と)づれど、

心(こころ)にうかぶ何(なに)もなし。

 さびしくも、また、眼(め)をあけるかな。

 

 眼閉づれど、

 心にうかぶ何もなし。

  さびしくも、また、眼をあけるかな。

 

   *

 

途中(とちう)にてふと氣(き)が變(かは)り、

つとめ先(さき)を休(やす)みて、今日(けふ)も、

河岸(かし)をさまよへり。

 

 途中にてふと氣が變り、

 つとめ先を休みて、今日も、

 河岸をさまよへり。

 

   *

 

咽喉(のど)がかわき、

まだ起(お)きてゐる果物屋(くだものや)を探(さが)しに行(ゆ)きぬ。

秋(あき)の夜(よ)ふけに。

 

 咽喉がかわき、

 まだ起きてゐる果物屋を探しに行きぬ。

 秋の夜ふけに。

 

   *

 

遊(あそ)びに出(で)て子供(こども)かへらず、

取(と)り出(だ)して、

走(はし)らせて見(み)る玩具(おもちや)の機關車(きかんしや)。

 

 遊びに出て子供かへらず、

 取り出して、

 走らせて見る玩具の機關車。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、「子供」は当時『五歳の長女京子』である。京子は戸籍は「京」で、明治三九(一九〇六)年の年末十二月二十九日に盛岡の妻の実家で生まれた(出生当時の啄木は渋民尋常高等小学校の代用教員であった)。]

 

   *

 

本(ほん)を買ひたし、本を買ひたしと、

あてつけのつもりではなけれど、

妻に言ひてみる。

 

 本を買ひたし、本を買ひたしと、

 あてつけのつもりではなけれど、

 妻に言ひてみる。

 

   *

 

旅(たび)を思(おも)ふ夫(をつと)の心(こころ)!

叱(しか)り、泣(な)く、妻子(つまこ)の心(こころ)!

朝(あさ)の食卓(しよくたく)!

 

 旅を思ふ夫の心!

 叱り、泣く、妻子の心!

 朝の食卓!

 

   *

 

家(いへ)を出(で)て五町(ちやう)ばかりは、

用(よう)のある人(ひと)のごとくに

步いてみたれど――

 

 家を出て五町ばかりは、

 用のある人のごとくに

 步いてみたれど――

[やぶちゃん注:「五町」約五百四十五メートル半。「五」にルビはない。]

 

   *

 

痛(いた)む齒(は)をおさへつつ、

日(ひ)が赤赤(あかあか)と

冬(ふゆ)の靄(もや)の中(なか)にのぼるを見(み)たり。

 

 痛む齒をおさへつつ、

 日が赤赤と、

 冬の靄の中にのぼるを見たり。

 

   *

 

 

いつまでも步(ある)いてゐねばならぬごとき

思(おも)ひ湧(わ)き來(き)ぬ、

深夜(しんや)の町町(まちまち)。

 

 いつまでも步いてゐねばならぬごとき

 思ひ湧き來ぬ、

 深夜の町町。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『秀才文壇』明治四四(一九一一)年一月号で、初出形は、

 

 いつまでも步いてゐねばならぬ如き

 思ひ湧き來ぬ

 深夜の都

 

『とあるとことから、「深夜の町町」は東京であることがわかる』とある。]

 

   *

 

なつかしき冬(ふゆ)の朝(あさ)かな。

湯(ゆ)をのめば、

湯氣(ゆげ)がやはらかに、顏に(かほ)かかれり。

 

 なつかしき冬の朝かな。

 湯をのめば、

 湯氣がやはらかに、顏にかかれり。

 

   *

 

何(なん)となく、

今朝(けさ)は少(すこ)しくわが心(こころ)明(あか)るきごとし。

手(て)の爪(つめ)を切(き)る。

 

 何となく、

 今朝は少しくわが心明るきごとし。

 手の爪を切る。

 

   *

 

うつとりと

本(ほん)の插繪(さしゑ)に眺(なが)め入(い)り、

煙草(たばこ)の煙(けむり)吹(ふ)きかけてみる。

 

 うつとりと

 本の插繪に眺め入り、

 煙草の煙吹きかけてみる。

 

   *

 

途中(とちう)にて乘換(のりかへ)の電車(でんしや)なくなりしに、

泣(な)かうかと思(おも)ひき。

雨(あめ)も降(ふ)りてゐき。

 

 途中にて乘換の電車なくなりしに、

 泣かうかと思ひき。

 雨も降りてゐき。

 

   *

 

二晚(ふたばん)おきに

夜(よ)の一時頃(じごろ)に切通(きりどほし)の坂(さか)を上(のぼ)りしも――

勤(つと)めなればかな。

 

 二晚おきに

 夜の一時頃に切通の坂を上りしも――

 勤めなればかな。

[やぶちゃん注:「一」にルビはない。岩城氏前掲書によれば、『この歌は歌集初出であるが、記事順からみて歌稿ノート開始時期の作と考えられる』とされつつ、『今井泰子氏は歌稿ノートの開始を明治四十四』(一九一一)『年一月十八日以後二十九日以前と推定』されておられることから、それが正しいとすれば、『この一首は啄木が夜勤した時期ではなく、「その夜勤をやめた後の作で、終電車の過ぎたあと湯島の坂をのぼり本郷の家に辿りついた夜々を回想しているのである。」(本林勝夫氏)ということになろう』とされ、『月額十円になる夜勤を中止しなければならぬほど当時の啄木の健康は蝕まれていたのである』と評しておられる。されば、彼が東京朝日新聞社の夜勤勤務をやめた時期が判らないが、この回想内時制は入院した(冒頭注参照)明治四十四年二月四日よりも有意に前であって(彼が同新聞社に入社したのは明治四十二年三月一日で既に本郷に住んでいたが、歌の順列とロケーションからみて、家族を呼び寄せて新居を本郷区本郷弓町二丁目(現在の文京区本郷二丁目のここ「文京区」公式サイトのこちらで確認した。グーグル・マップ・データ)に構えた同年六月十六日より後のことであることは確実と思われる)、明治四十三年中の可能性が高いように思われる。]

 

   *

 

しつとりと

酒(さけ)のかをりにひたりたる

腦(のう)の重(おも)みを感(かん)じて歸(かへ)る。

 

 しつとりと

 酒のかをりにひたりたる

 腦の重みを感じて歸る。

 

   *

 

今日(けふ)もまた酒(さけ)のめるかな!

酒(さけ)のめば

胸(むね)のむかつく癖(くせ)を知(し)りつつ。

 

 今日もまた酒のめるかな!

 酒のめば

 胸のむかつく癖を知りつつ。

 

   *

 

何事(なにごと)か今(いま)我(われ)つぶやけり。

かく思(おも)ひ、

目(め)をうちつぶり、醉(ゑ)ひを味(あぢは)ふ。

 

 何事か今我つぶやけり。

 かく思ひ、

 目をうちつぶり、醉ひを味ふ。

 

   *

 

すつきりと醉(ゑ)ひのさめたる心地(ここち)よさよ!

夜中(よなか)に起(お)きて、

墨(すみ)を磨(す)るかな。

 

 すつきりと醉ひのさめたる心地よさよ!

 夜中に起きて、

 墨を磨るかな。

 

   *

 

眞夜中(まよなか)の出窓(でまど)に出(い)でて、

欄干(らんかん)の霜(しも)に

手先(てさき)を冷(ひ)やしけるかな。

 

 眞夜中の出窓に出でて、

 欄干の霜に

 手先を冷やしけるかな。

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は『早稲田文学』明治四四(一九一一)年一月号で、『啄木が住んでいた喜之床』(きのとこ:新井理髪店)『の二階は三尺幅のバルコニーを隔てて弓町二丁目の通りに面していたが、この歌の「出窓」と「欄干」はこのバルコニーをさす』とある。俳諧で非常にお世話なっている個人サイト内の「啄木ゆかりの喜之床(きのとこ)旧跡」を見られたい。現在、当時の「喜之床」の建物が明治村に復元されてあり、その写真もある。]

 

   *

 

どうなりと勝手(かつて)になれといふごとき

わがこのごろを

ひとり恐(おそ)るる。

 

 どうなりと勝手になれといふごとき

 わがこのごろを

 ひとり恐るる。

 

   *

 

手(て)も足(あし)もはなればなれにあるごとき

ものうき寐覺(ねざめ)!

かなしき寐覺(ねざめ)!

 

 手も足もはなればなれにあるごとき

 ものうき寐覺!

 かなしき寐覺!

 

   *

 

朝(あさ)な朝(あさ)な

撫(な)でてかなしむ、

下(した)にして寢(ね)た方(はう)の腿(もも)のかろきしびれを。

 

 朝な朝な

 撫でてかなしむ、

 下にして寢た方の腿のかろきしびれを。

 

   *

 

曠野(あらの)ゆく汽車(きしや)のごとくに、

このなやみ、

ときどき我(われ)の心(こころ)を通(とほ)る。

 

 曠野ゆく汽車のごとくに、

 このなやみ、

 ときどき我の心を通る。

 

   *

 

みすぼらしき鄕里(くに)の新聞(しんぶん)ひろげつつ、

誤植(ごしよく)ひろへり。

今朝(けさ)のかなしみ。

 

 みすぼらしき鄕里の新聞ひろげつつ、

 誤植ひろへり。

 今朝のかなしみ。

[やぶちゃん注:仕事柄の哀しい因果である。当時、啄木は東京朝日新聞社の校正係であった。岩城氏前掲書によれば、『「郷里の新聞」は盛岡の「岩手新報」であろう。当時』、『岩手新報の主筆は啄木の盛岡高等小学校時代の恩師新渡戸仙岳であったので、東京時代の啄木は毎日』、『同紙の寄贈を受けていた』とある。]

 

   *

 

誰(たれ)か我(われ)を

思(おも)ふ存分(ぞんぶん)叱(しか)りつくる人(ひと)あれと思(おも)ふ。

何(なん)の心(こころ)ぞ。

 

 誰か我を

 思ふ存分叱りつくる人あれと思ふ。

 何の心ぞ。

 

   *

 

何(なに)がなく

初戀人(はつこひびと)のおくつきに詣(まう)づるごとし。

郊外(こうぐわい)に來(き)ぬ。

 

 何がなく

 初戀人のおくつきに詣づるごとし。

 郊外に來ぬ。

[やぶちゃん注:「初戀人」を同定する評論も盛んにあるようだが、私は寧ろ、「初戀人のおくつきに詣づるごと」き、誰にも普遍化され得る回想郷愁の感懐を大切にして鑑賞するのがよいと感ずる。]

 

   *

 

なつかしき

故鄕にかへる思ひあり、

久し振りにて汽車に乘りしに。

 

 なつかしき

 故鄕にかへる思ひあり、

 久し振りにて汽車に乘りしに。

 

   *

 

新(あたら)しき明日(あす)の來(きた)るを信(しん)ずといふ

自分(じぶん)の言葉(ことば)に

噓(うそ)はなけれど――

 

 新しき明日の來るを信ずといふ

 自分の言葉に

 噓はなけれど――

 

   *

 

考(かんが)へれば、

ほんとに欲(ほ)しと思(おも)ふこと有(あ)るやうで無(な)し。

煙管(きせる)をみがく。

 

 考へれば、

 ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。

 煙管をみがく。

 

   *

 

今日(けふ)ひよいと山(やま)が戀(こ)ひしくて

山(やま)に來(き)ぬ。

去年(きよねん)腰掛(こしか)けし石(いし)をさがすかな。

 

 今日ひよいと山が戀ひしくて

 山に來ぬ。

 去年腰掛けし石をさがすかな。

 

   *

 

朝寢(あさね)して新聞(しんぶん)讀(よ)む間(ま)なかりしを

負債(ふさい)のごとく

今日(けふ)も感(かん)ずる。

 

 朝寢して新聞讀む間なかりしを

 負債のごとく

 今日も感ずる。

[やぶちゃん注:この一首、彼が朝日新聞社社員であることをまず念頭に置かずに漫然と読んではいけない。]

 

   *

 

よごれたる手(て)をみる――

ちやうど

この頃(ごろ)の自分(じぶん)の心(こころ)に對(むか)ふがごとし。

 

 よごれたる手をみる――

 ちやうど

 この頃の自分の心に對ふがごとし。

 

   *

 

よごれたる手(て)を洗(あら)ひし時(とき)の

かすかなる滿足(まんぞく)が

今日(けふ)の滿足(まんぞく)なりき。

 

 よごれたる手を洗ひし時の

 かすかなる滿足が

 今日の滿足なりき。

 

2020/02/26

ラフカディオ・ハーン 窯神譚 (落合貞三郞譯) /作品集「支那怪談」~全電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Tale of the Porcelain-God)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題SOME CHINESE GHOSTS。「幾つかの中国の幽霊たち」)の掉尾の第六話である。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。一部の「?」「!」の後に特異的に字空けを施した。訳者による註が本篇本文最後に纏められてあるが、参照し難いので、適切な段落末に分散して配した(表記は原注に同じとした)。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで「大清國」)ので、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(上記の“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 なお、またしても、本篇の本文前(原本のここの左ページ)にある以下の引用は省略されている(平井氏もやはりカットしている)。

   *

 

   It is written in the Fong-ho-chin-tch'ouen, that whenever the artist Thsang-Kong was in doubt, he would look into the fire of the great oven in which his vases were baking, and question the Guardian-Spirit dwelling in the flame. And the Spirit of the Oven-fires so aided him with his counsels, that the porcelains made by Thsang-Kong were indeed finer and lovelier to look upon than all other porcelains. And they were baked in the years of Khang-hí,—sacredly called Jin Houang-tí.

 

   *

無力乍ら、訳すと、

   *

Fong-ho-chin-tch'ouen」には、『陶工 Thsang-Kong は疑わしい時には何時でも、彼の瓶が焼かれている大きな窯の中の炎の様子を見て、その炎の中に住もうている火を守護する精霊に対し、疑義を訴えた』と書かれてある。そして、窯の火の精霊もまた、彼の助言を以って彼をよく助けたから、Thsang-Kong によって作られた磁器は、他如何なる陶工たちの作る磁器よりも実に繊細にして情愛に溢れていた。そして、それらは清の康煕の年間[やぶちゃん注:「康煕」の現行拼音は「kāng xī」で「Khang-hí」に近く、最後の「大清國」とも附合する。一六六二年~一七二二年。]に焼き上げられ――神聖なものとして「Jin Houang-tí」と称された。

   *

正確な訳がお出来になる方や書名・陶工名・元号・呼称の正しい漢字のお分かりなる方は、是非、御教授願いたい。]

 

   窯 神 譚

 

 誰が人間界で始めて高陵註十九と磁器――美しい花瓶の骨と肉、骨骼と皮膚――の祕訣を發見したのだらう? 誰が始めて凝乳の如く白い粘土の美質を見出したのか? 誰が始めて氷の如く淸らかな石胎――老人の白髮の如く枯れた山の戴く灰白土、發掘を待つ死んだ巨人の岩骨石肉の如く、白くなつた粉塊――を調製したか? 磁器の神々しい藝術を發見する事は、誰れ人の手に授けられたのか? 

註十九 高陵 Kao-Ling ――もとは陶工に、最上の粘土を供した山巖の固有名詞であつたが、後に轉訛して今日諸國に慣用の語となつた。支那の陶工の用語によれば、Kaolin 粘土を詩的に磁器の「骨」と呼び、tun 硅岩を「肉」と呼び、また兩者を合はせて燒いたものを Pe-tun-tse と稱した。兩者ともに分解せる長石斑岩から成つたものである。

[やぶちゃん注:「石胎」原文“tun”。原文の単語も(斜体になっているので中国語が疑われる)、訳も不詳。平井氏は『白*子(はくとんし)』(「*」=「木」の頭を出さない字)とするが、ますます判らない。識者の御教授を乞う。「石のはららご」(石の原初的胎児(ヒラニア・ガルパ)という比喩か?] 

 それは甞て人間であつたが、今や神に祀られ、陶業組合に加入せる幾萬の人々が、その雪白の像を拜する浦に授けられた。しかし彼の誕生地はわからない。恐らく、その傳說は、かの現代に於て二千萬の黑髮民族の生命を滅ぼし、また昔は Feou-linang の靑い山脈の中に火の寳玉の如く輝いてゐた景德鎭の都會――かの驚くべき磁器の都會さへも、地球の表面から抹殺し去つた怖ろしい戰爭のために消されたかも知れない。

[やぶちゃん注:「浦」後半に登場する陶工の名である。そこでは落合氏は「フー」とルビする。せめても、それをしないというのは読者に頗る不親切である。

Feou-linang」江西省景徳鎮市にある浮梁(ふりょう)県(グーグル・マップ・データ航空写真)。同市街地の東北部の山岳地帯。

「現代に於て二千萬の黑髮民族の生命を滅ぼし」、「景德鎭の都會」「さへも、地球の表面から抹殺し去つた怖ろしい戰爭」清朝の一八五一年に起こった洪秀全    (一八五一年~一八六四年)を「天王」とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって発生した大規模な内乱「太平天国の乱」のこと。「太平天国」が建国され、清軍が討伐する十三年後まで国は存在した。「長髪賊の乱」とも呼ばれる(最後のハーンの解説にも出る)。この戦火のため、景徳鎮は破壊され、御器廠の活動も停止し、一八六六年に李鴻章か蔡錦青を監督官として昔の御器廠の建物を再建、再度、御用品製作を企図したが、建物が竣工し焼造が再開されたのは、八年後の一八七四年のこととされる。因みに、同乱は本書刊行(一八八七年(明治二十年相当))の僅か三十六年前、景徳鎮の再生は実に十三年前のことであったことに注意しなくてはならない。]

 尤も彼よりも以前、既に陶窯の神靈は存在してゐて、無限の活動力から發生し、絕對最高の大靈註二十から流れ出でて現はれてゐた。何故なら、約五千年前に、黃帝は粘土を燒いて立派な器物を作ることを人々に敎へ、それから、その時代にすべての陶工は窯火の神を知つて、祈りの囁きにつれて彼等の粘土細工を營む車輪を囘はしてゐたからである。が、黃帝が死んでから三千年後に、天帝から窯神となるべき運命を授けられた人が始めて生まれたのだ。

 

註二十 太靈[やぶちゃん注:表記の違いはママ。道家思想であるからこの「太」が正しい。] Tao ――無限の實在、卽ち宇宙的生命、一切の諸相これから發する。Tao といふ文字は第一原因といふ意味に於ける「道」である。老子は道といふ語を一二の異れる意味に使つてゐるが、彼が最も重要なる哲學的意義を與へてゐる主旨は、道經の有名なる二十五章によく說いてある。[やぶちゃん注:改行はママ。]

この偉大なる支那の思想家の第一原因――不可知のもの――に關する見解と、他の東西兩洋諸哲學者の說との差異は、スタニスラス・ヂユリアン氏譯「道經」の序言、第十頁乃至十五頁に明晰に論じてある。

[やぶちゃん注:「スタニスラス・ヂユリアン」既出既注であるが、再掲すると、フランスの東洋学者で十九世紀フランスの代表的な中国学者として知られるエニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)。ウィキの「エニャン=スタニスラス・ジュリアン」を参照されたい。

「道經」ジュリアンが一八四二年にフランス語訳した「老子道徳経」(Le livre de la voie et de la vertu:「美と道徳の書」)。]

 

 して、彼の神聖なる靈は、いつも陶房の煙と勞作の上を逍遙しつ〻、今猶ほ模型工の思考に力を、意匠工の創作力に優美を、釉藥工の手法に光輝を與へてゐる。實際、彼が天から敎へられた叡智によつて磁器の藝術は創められたのだ[やぶちゃん注:「はじめられたのだ」。]。彼の靈感によつて陶工のあらゆる奇蹟と、彼に追隨した人々の作れる一切の奇什珍器は完成されたのだ――

 すべての靑磁――明かなること鏡の如く、薄きこと紙の如く、磬の如く朗かな音を發し、欽宗帝の勅命に從つて、「雲の破れ目から見える譯者註一、雨後の空の如く靑き」色を呈してゐる。これらは實に磁器中、第一に位するもので、柴窯註二十一[やぶちゃん注:「さいよう」。]とも呼ばれ、いかに奸惡の徒も流石にこれを破碎する勇氣が出ない。高價な寳石の如くに眼を魅するから。

 

註二十一 窯 Yao ――支那の製陶の技術。歷史又は傳說に關する詳密の知識を得ようと欲するものは、ヂユリアン氏の名著「支那陶器史」(一八五六年巴里出版)を參照するがよい。私の「窯神譚」に擧げた諸種の磁器の名は、大抵該書から取つたものであゐ。是等の名に支那音にては音樂的妙味があるけれども、飜譯すれば興味索然たるを免れない。大部分は單に製造の中心地又は有名なる工場の名に因んだものである。例へば Chou-Yao Chou といふ土地の磁器である。また製造の時代によつて區別した名もある。或は役人の名を冠したものもある。直接に磁器の材料又は藝術的特質から命名したものは、遙かに稀である。

譯者註一 柴窰[やぶちゃん注:「窯」の異体字。以下、総て「ヨウ」と音で読んでおく。]の色について。形容句の原文は左の如くである。

  「雨過天晴レテ雲破ルヽ處、看顏色作スヲ將來

この窯は河南鄭州に在つて、柴世宗の創めたもの。右の句は世宗が陶器の式を欽宗帝に禀請する狀に見える。柴窰は雨過天靑を主色とし、滋潤細媚、實に古來諸客の冠冕である。

[やぶちゃん注:「磬」「けい」或いは唐音で「きん」とも読む。中国古代の打楽器で、枠の中に「へ」の字形の石板を吊り下げ、動物の角製の槌(つち)で打ち鳴らす。石板が一個だけの「特磬」と、十数個の「編磬」とがある。宋代に朝鮮に伝わり、宮廷音楽に使用され、日本では奈良以降、銅・鉄製の特磬を仏具に用いた。

「欽宗帝」原文は“Emperor Chi-tsong”。欽宗(一一〇〇年~一一六一年)は北宋の最後の第九代皇帝であるが、これはハーンの誤りか誤訳で、五代後周第二代皇帝の世宗柴栄(さいえい 九五四年~九五九年)のことである(落合氏はそれを訂する形で注を示しているが、「右の句は世宗が陶器の式を欽宗帝に禀請する狀に見える」という部分はよく意味が判らない)。五代で随一の名君とされる。「世宗」は現行のラテン文字綴りで「Shizong」。以下の「雨過……」を言ったのは彼とされている。平井氏はちゃんと『世宗』と訳しておられる。

「雨過天晴レテ雲破ルヽ處、看顏色作スヲ將來」調べてみると、世宗の命じたとされる台詞は、

 雨過天靑雲破處、諸將顔色作將來

或いは後半が、

 這般顏色做將來

で、落合氏の訓読は何だかよく判らないが、最後の「這般(しやはん)顏色將來に倣へ」だと意味が分かる。則ち、「雨上がりの空に雲と相い映ずる青天の色を成す陶器を、このたび、即刻に持って参れ!」であろう。但し、この文句、おかしい。「這般」は宋代の口語だからである。されば、この話(少なくともこの「這般顏色做將來」という文句)はずっと後代、宋以後に作られたものであろう。

「禀請」「ひんせい」或いは慣用読みで「りんせい」。上役や上部機関などに申し出て請求すること。申請。但し、前に述べた通り、意味不明で、出典も私には判らない。

「支那陶器史」“Histoire et fabrication de la porcelaine chinoise”(「景徳鎮陶録」という邦題があるようである)。

「鄭州」河南省鄭州(ていしゅう)市

「冠冕」「くわんべん(かんべん)」は本来は冕板(冠の頂きに附ける板)をつけたかんむりで、皇帝や皇太子の礼服に附属する。ここはそれ(至高の地位)から転じて「一番優れているもの・首位」の意。]

 

 それから、汝窯譯者註二――すべての磁器の中、第二に位し、時としては靑銅の模樣とその音調の朗々さを欺き、また時としては夏の海の如く靑く、厚く浮かべる粘液狀の雄魚精かと思はれるもの。

 

譯者註二 汝窰は河南の汝州にあつて、北宋時代の創設に係る。

[やぶちゃん注:「汝州」河南省平頂山市汝州(じょしゅう)市

「雄魚精」原文は“floating spawn of fish”で「魚が放卵したその浮いているような様態」。訳は「魚のオスの放った精子」の意であろう。]

 

 それから、官窯譯者註三――すべての驚くべき磁器の中、優秀の點に於て第三位を占め、朝の色彩を帶びてゐる――空の靑さを呈せる中に、黎明の薔薇色が咲いて、沼澤に住む長い脛を有する鳥の飛ぶのが朝暾に映じてゐる。

 

譯者註三 官窰は宋以來、官吏の監督を受けて製し、内府の用に供したのである。宋の大觀、政和の間、汴京(河南省開封府)にあつたもの。

[やぶちゃん注:「朝暾」(てうとん(ちょうとん))は朝日。

「大觀」北宋の徽宗(きそう)の治世で用いられた元号。一一〇七年~一一一〇年。

「政和」同前。一一一一年~一一一八年。

「汴京(河南省開封府)」「汴京」は「べんきやう(べんきょう)」と読む。現在の河南省開封市。宋(北宋:九六〇年~一一二七年)は「東京開封府」と称し、ここを首都とした。]

 

 また、哥窯譯者註四――完全なる磁器の中、第四位で、鮮魚の體の如く、麗はしき、薄い、變はり易き色を有し、或は蛋白石質に似せて作られ、乳と火を混じたやうなもの。名聲不朽の章氏兄弟の兄、生一の作品。

 

譯者註四 哥窰は宋の處州龍泉縣の人、章氏兄弟、瓷業を營み、兄の生一の作を哥窰と名づけた。

[やぶちゃん注:「哥」は「歌」の異体字でもあるが、それ以外に兄や目上や位の高い人物のを呼ぶ際にも用い、ここは「兄」の意。

「蛋白石」オパール (opal) の中国名。

「章氏兄弟」南宋(一一二七年~一二七九年)の陶工とされる。サイト「有田焼」の「竜泉窯(りゅうせんよう)」に(コンマを読点に代えた)、『中国の浙江(せっこう)省にあった窯で、宋代から明代にかけて膨大な量の青磁がこの窯で生産されていました』。『製品である青磁は東南アジア、イラン、イラク、エジプトなど広い地域に多量に輸出されていました』。『竜泉窯の青磁はおもに』二『種に大別され、白い胎土と朱色の砂の胎土を使った青磁は、「弟窯」または「竜泉窯」と呼ばれます。もう一方は、貫入と黒い胎土が特徴であり』「哥窯(かよう)」と『呼ばれています』。二つの『青磁の成り立ちは、南宋時代、浙江省竜泉県』(現在の浙江省麗水市竜泉市)『にいた、章生一と章生二という兄弟によって生み出されたという伝説があり』、『兄弟は代々製陶の家系で育ち、二人も父親の遺言によって、それぞれ窯を設け、それぞれに作品作りに励んでいました。弟である、章生二はまず陶器の色から手を』初め、『あらゆる色を観察した結果、最も優雅で高貴な色は青であると考え、青い磁器を製作しました。この青磁が南宋』の初代『皇帝、高宗に気に入られ、章生二の窯は官窯とされ、「弟窯」または「竜泉窯」が誕生しました』。『兄である、章生一も負けじと努力しましたが、彼は陶磁器の色でなく、陶磁器の製作技法にこだわり、「窯変」を、人工的な方法で作り出そうと試行錯誤を繰り返しました。ある年の』十二『月、生一の妻が夫に食事を届けにいったとき、夫である生一が窯の中に水を入れているのを見て、彼を助けるために、泉の水をかけて加勢し』、『火を消してしまいました。鎮火後の窯を見ると、なんと、すべての器に魚のうろこ状の亀裂が入り、「窯変」の陶器が生まれていたのです。こうして章生一が作り出した窯変青磁はあっという間に世間を騒がせ、皇帝への献上品となりました。章生一が兄であったことから、この窯変の青磁は「哥窯」と呼ばれるようになったそうです』とある。

「瓷業」(じぎやう(じぎょう))の「瓷」は「石焼の瓶(かめ)」であるが、ここは「窯」に同じい。]

 

 また、定窯譯者註五――完全なる磁器の中、第五位で、寡婦の喪服の如く白く、淚のやうな美しき雫が滴つてゐて、詩人 Son-tong-po が詠じてゐる磁器。

 

譯者註五 定窰は直隷省定州で作つたのを北定といふ。宋初の建設である。宋の南渡後、景德鎭で作つたものた南定といふ。

[やぶちゃん注:「Son-tong-po」かの北宋の政治家にして優れた詩人であった蘇東坡(一〇三六年~一一〇一年)のこと。現行の拼音は「sū dōng pō」。彼の賦「試院煎茶」に「定州花瓷琢紅玉」と詠まれてあるようだ。サイト「中国茶の世界」のこちらで全文が読める。

「直隷省定州」河北省保定市定州(ていしゅう)市であるが、この河合氏の言い方はおかしい。「直隷省」というのは、ほぼ現在の河北省に相当するものの、これは清代になって新たに作られた行政区画名であるからである。]

 

 また、Pi-se-yao 窯――色合が潜んでゐて、交互に出沒隱見する。日光の下に氷の色が變幻を示す如くだ。音に聞こえた詩人 Sin-in が讚へた磁器。

[やぶちゃん注:「Pi-se-yao 窯」敬愛する平井呈一氏の、恒文社版小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「瓷(じ)神譚」の訳では『秘色窯』。以下でも平井氏の訳による漢字表記に多くを拠った。

Sin-in」平井氏は『徐寅』(じよいん)とされる。晩唐末期の詩人。「漢籍リポジトリ」の「欽定四庫全書」の「徐正字詩賦」を見たところ、「巻二」の[002-45a]の、

   *

   貢餘秘色茶盞

捩碧融青瑞色新

陶成先得貢吾君

巧剜明月染春水

輕旋薄氷盛綠雲

古鏡破苔當席上

嫩荷涵露别江濆

中山竹葉醅初發

多病那堪中十分

   *

の七律がそれらしく思われる。]

 また、驚くべき Chu-yao 窯――擊つときに哀しげな叫びを發する蒼白の磁器。偉大なる詩人 Thou-chao-ling の歌へるもの。

[やぶちゃん注:「Chu-yao 窯」平井氏訳は『蜀窯』。

Thou-chao-ling」平井氏は『杜少陵』とする。則ち、杜甫である。これは、彼の「又於韋處乞大邑瓷碗」(又、韋(ゐ)が處に於いて大邑(だいいふ)の瓷碗(しわん)を乞ふ)である。

   *

 又於韋處乞大邑瓷碗

大邑燒瓷輕且堅

扣如哀玉錦城傳

君家白碗勝霜雪

急送茅齋也可憐。

  又韋が處に於いて大邑の瓷碗を乞ふ

 大邑の燒瓷(しやうじ) 輕くして且つ堅し

 扣(たた)けば 哀玉のごとく錦城に傳ふ

 君が家の白碗 霜雪に勝れり

 急(とみ)に茅齋(ばうさい)に送らば また憐むべし

   *

紀頌之氏の強力な杜甫のブログ「杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」のこちらに詳細な訳注があるので参照されたいが、その「瓷碗」の訳注に『焼き物の碗、臨邛の大邑で産出されたもの。平成都平原の西南部に位置する。成都市街からの距離は75キロメートル、臨邛は、秦の時代に置かれた県名。現・四川省邛耒県』とある。現在の四川省成都市大邑県なら、ここ。]

 また、Thsin-yao 窯――色は白或は靑。多くの鰭で激搖せる水面の如く皺がよつてゐる……しかも魚までも見える!

[やぶちゃん注:「Thsin-yao 窯」平井氏訳は『秦窯』。]

 また、Tsi-hong-khi 器と呼ばる〻花瓶――雨後の夕陽の如く赤い。それから、蠶蛾の翼の如く脆く、卵殼よりも輕い T’o-t’ai-khi 器。

[やぶちゃん注:「Tsi-hong-khi 器」平井氏訳は『吹紅器』。

T’o-t’ai-khi 器」平井氏訳は『脱胎器』。]

 また、Kia-tsing ――空虛の時は、眞珠のやうに白い茶碗であるが、不可思議な魔術的製法のために、一たび水を滿たすや否や、紫色の魚が群遊して見える。

[やぶちゃん注:「Kia-tsing」平井氏訳は『夾青』。]

 また、Yao-pien ――その色合が火の鍊金術によつて變つてくる。血の赤色で火に入つて、その中で蜥蜴の綠色に變はり、遂に天空の頰のやうな蒼色となつて出でてくる。

[やぶちゃん注:「Yao-pien」平井氏訳は『窯変』。]

 また、Ki-tcheou-yao 窯――夏の夜の如く全く靑紫色である。それから、銀と雪を混ぜたやうにきらきらする Hing-yao 窯。

[やぶちゃん注:「Ki-tcheou-yao 窯」平井氏訳は『吉州窯』。

Hing-yao 窯」平井氏訳は『清窯』。]

 また、Sieouen-yao 窯――熔爐中の鐡の如く赤いもの、透明で紅玉の如きもの、蜜柑の皮の如くざらざらした黃色のもの、桃の皮の如く柔かに紅いものなどさまざまある。

[やぶちゃん注:「Sieouen-yao 窯」平井氏訳は『宣窯』。]

 また、古い氷の如く罅燒になつて、綠色の Tsoui-khi-yao 窯。それから金龍がのたうち𢌞つて、縺れてゐる Tchou-fou-yao 窯。なほまた、淡紅色に畝だちて、蟹の爪の如くに鋸齒狀の稜角ある諸磁器。

[やぶちゃん注:「罅燒」「ひびやき」と訓じておく。

Tsoui-khi-yao 窯」平井氏訳は『砕器釉』として、窯名とせず、『青瓷』(青い瓶(かめ))とされる。

Tchou-fou-yao 窯」平井氏訳は『洪武窯』。これは明代の洪武年間(一三六八年~一三九八年)に焼造した官窯の名である。]

 また、眼晴の如く黑く、また輝ける Ou-ni-yao 窯。それから、天竺の人の顏の如く黑褐色なる Hou-tien-yao 窯。なほまた、秋の葉の如く光澤の枯れた黃金色の黃金窯。

[やぶちゃん注:「Ou-ni-yao 窯」平井氏訳は『烏金釉』(うきんゆう:清朝乾隆年間(一七三六年~一七九五年)の中国窯の中でも最も特色のある釉薬で、黒色でも最も光沢に富み、且つ透徹したもの)として、窯名とせず、『黒色の瓷器』(しき:かめ)の名とする。

Hou-tien-yao 窯」平井氏訳はここは『それからインド人の顔のような黄褐色の烏金釉』と訳され、その後に割注を入れて、『訳者注――ここに烏金釉二度出てくるが、これは八雲がテキストに用いたダントルコールの書牘』(しょとく:書簡)『に誤りがあるらしい。これについては、小林市太郎訳注ダントルコール著「中国陶瓷見聞録」を参照されたい』と述べておられる。同訳書は平凡社の洋文庫にある(私は未見)。但し、平井氏は『二度』と言っておられるが、落合氏の訳文でも判る通り、全く同じ綴りではない。ダントルコールは最後に附したハーンの解説に出るので、そちらで注する。]

 また、蜿豆の苗の如く綠色であるが、太陽に照らされた銀色の雲と天上の龍を染め出せる Long-kang-yao 窯。

[やぶちゃん注:「蜿豆」「えんどう」或いは「えんどうまめ」と訓じておく。

Long-kang-yao 窯」平井氏訳は『竜※窯』(「※」=「卸」-「卩」+「岡」)とあるが、この「※」は「鋼」の異体字(グリフウィキ)に近いので、「竜鋼窯」ではあるまいか? サイト「鶴田純久乃章」の「乾隆窯」の解説の中には、『従来絶えていた竜鋼窯および金窯の焼成を復興し』たとある。]

 また、琥珀色の葡萄の花や、葡萄の葉の靑綠や、罌粟の花を描いたり、或は鬪ひ合つてゐる蟋蟀の形を浮彫にせる Tching-hoa-yao 窯。

[やぶちゃん注:「Tching-hoa-yao 窯」平井氏訳は『宣和窯』。「宣和」は北宋の徽宗の治世で用いられた元号である。一一一九年~一一二五年。]

 また、金粉の星を散らした蒼空色の Khang-hi-nien-ts'ang-yao 窯。それから、電光の閃過する火のやうな夜にも似て、黑色と銀色の壯麗なる Khien-long-nien-thang-yao 窯。

[やぶちゃん注:「Khang-hi-nien-ts'ang-yao 窯」平井氏訳は『康煕年臧窯』。「臧窯」(ぞうよう)は、ウィキの「中国の陶磁器」によれば、康熙一三(一六七四)年に漢人武将による反乱「三藩の乱」(雲南の呉三桂・広東の尚之信・福建の耿精忠が起こした)で『景徳鎮は大打撃を受ける。その後、清朝政府は景徳鎮の復興に当た』り、七年後の康熙一九(一六八〇)年、『康熙帝は官窯の復活を決め、翌年には内務府総官の徐廷弼、工部虞衡司郎中という官職にあった臧応選(ぞうおうせん)らが監陶官(督造官)として景徳鎮に派遣された』。『この時代の官窯では、陶工の人件費、材料費、運搬費から研究開発費まで国の予算でまかなわれるようになり、陶工は生活の不安なく、技法の開発に専念することができるようになった。清代の磁器は「倣古採今」を宗とし、宋・明の古典の真に迫った模作が作られるとともに、清代独自の創造も追求された』。『臧応選は』翌康熙二十年から同二十七年までの『間、景徳鎮に駐在し、鎮の作陶の指導監督を行った。臧応選にちなみ、この時期の官窯製品を「臧窯」とも呼ぶ』とある。

Khien-long-nien-thang-yao 窯」平井氏訳は『乾隆年臧窯』。乾隆年間は一七三六年から一七九五年まで。ただ、ハーンの綴りが異なるのが気になる。前は「ts'ang-yao」なのに、ここでは「thang-yao」である。ウィキの「中国の陶磁器」には続けて、『清の官窯では、臧応選のように中央政府から景徳鎮に派遣され、製陶の監督を行った官僚である監陶官が技術開発のために大きな役割を果たし』、『「臧窯」の他に、歴代の監陶官の名にちなんだ「郎窯」、「年窯」、「唐窯」等の呼称がある』とある。例えば「唐」は現行の拼音は「táng」である。これは或いは「乾隆年唐窯」なのではなかろうか?

 尤も Long-Ouang-yao 窯は除外だ。淫蕩な Pi-hi、猥褻な Nan-niu-ssé-sie、耻づべき春晝を描いたもので、陶窯の靈は顏を隱して逃げ去つたのであるが、奸惡なる Moutsong 皇帝の命令によつて作られた忌々しいもの。

[やぶちゃん注:「Long-Ouang-yao 窯」平井氏訳は『隆慶窯』。「隆慶」は明代の元号(一五六七年 ~一五七二年)。以下で注する第十三代皇帝穆宗(ぼくそう)の在位中に使われた。従って穆宗は「隆慶帝」と呼ばれる。

Pi-hi」平井氏訳は『「秘史」』。鍵括弧附きである(次も同じ)。

Nan-niu-ssé-sie」平井氏訳は『「男女秘戯」』。前とともにどんなシロモノか見てみたかったが、如何なる画像検索にも掛かってこない。残念!

Moutsong 皇帝」平井氏訳は『帝穆(ぼく)宗』。明の第十三代皇帝(一五三七年~一五七二年死在位:一五六七年~没年)。ウィキの「隆慶帝」によれば、先代の父『嘉靖帝の晩年、明朝は内政の乱れの他に、「南倭北虜」と称される倭寇とモンゴル系タタールによる侵攻にさらされていた。即位した隆慶帝は嘉靖期の弊政を改革すべく、嘉靖帝への諫言により罪を得ていた徐階・海瑞などの人材を登用し、それまで朝廷で権勢をふるっていた道士を一掃した。また』、『疲弊する国庫を建て直すため、海外貿易を開放し、倭寇とタタールに対してある程度の貿易を認める柔軟策で、対外的にも安定した時代を現出した』。『しかし隆慶帝自身は凡庸な皇帝であり、朝政を省みず、その政務は大学士に代行されていた。また酒色に溺れ、享楽を求めた生活のため』、三十六歳の若さで『崩御した』とある。]

 しかしすべてその他の、驚くべき形狀と實質を有し、魔術的に關節を附せられ、浮彫模樣の粧飾と施された花瓶類――花の萼窩のやうな鐘形を呈したり、鳥の嘴のやうに割けたり、蛇の顎の如く牙があつたり、小女の口の如く淺紅の脣を示せる孔口を有つたのや、蕈や蓮花や蜥蜴や女面馬足の龍に似たのや、不思議に半透明で、飯粒の白い光や霜の空幻なる組紐細工や珊瑚の開花に彷彿せるものなど。

 更にまた、磁器の諸神像――竈の神、墨の十二神、生れながら銀髮の貴い老子、叡智の書卷を摑める孔夫子、黃金の百合の具眞中に雪白の足にて立てる、美はしき慈悲の女神なる觀音、人民に庖厨を敎へた神の神農、長い眼は冥想に閉ぢ、脣は最高至上なる福祥の神祕なる微笑を洩らせる佛、白翼の鶴に跨つて空を乘つて行く長壽の神 Cheou-lao、肥え太つて、夢を見てゐる滿足と富の神 Pou-t'ai、それから、仁慈の手から永遠に紅色の眞珠の雨を降らす美しい才能の女神。

[やぶちゃん注:「Cheou-lao」平井氏訳は『寿老人』。道教の神仙で、「南極老人星」(カノープス:Canopus:りゅうこつ座α星)の化身とされる。酒を好み、頭の長い長寿の神とされ、不死の霊薬を含んでいる瓢箪を持ち、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従え、手にはやはり不老長寿の霊果である桃を持っている姿で描かれることが多い(ウィキの「寿老人」に拠る)。

Pou-t'ai」平井氏訳は『布袋』(ほてい ?~九一七年)。唐末から五代にかけて明州(現在の浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的仏僧。大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。ウィキの「布袋」によれば、常に頭陀袋を背負っていたことから「布袋」という俗称がついた。『出身地も俗姓も不明で』、『寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという』。『生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという』。『その姿は風変りであったが素直な気持ちの持ち主で、人々を満ち足りた気持ちにさせる不思議な力を持っていたという』。『その最期についても不思議な逸話が伝えられており、仙人の尸解に類し』た形で去ったとも言われる。『嶽林寺で遷化したと』も言うが、『埋葬されたにもかかわらず、後日、他の州で見かけられたと』も伝える。『その没後あまり時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が江南地方で行われていたという記録がある』。死に際して残した偈文から(リンク先に原文あり)、『実は布袋は弥勒菩薩の化身なのだという伝説が広まったと』もいう。『なお、布袋を禅僧と見る向きもあるが、これは後世の付会である』。『中世以降、中国では布袋になぞらえた太鼓腹の姿が弥勒仏の姿形として描かれるようになり、寺院の主要な仏堂に安置されるのが通例となった。日本でも、黄檗宗大本山萬福寺で、三門と大雄宝殿の間に設けられた天王殿に四天王や韋駄天と共に安置されている布袋形の金色の弥勒仏像を見ることができる。この像は西欧人に』は『マイトレーヤ(Maitreya 弥勒)と呼ばれる』とある。

「仁慈の手から永遠に紅色の眞珠の雨を降らす美しい才能の女神」平井氏はこの女神を『女神弁財天』と訳しておられる。但し、中国での弁財天の認識は菩薩型の強力な戦争神の女神イメージで、ここに示されたような、まさに日本人の憧れて憧憬するような、技芸のミューズ的女神のそれとはかなり異なるものである。]

 

 

 浦(プー)が人類に遣して置いた無類の藝術は、その幾多の祕訣は實際忘れられ、永久に失はれてゐることであらうが、窯神の物語は記憶されてゐる。孰れの老陶工でも、昔々終日拮据、戶外で顏料を碾いてゐる大陶房の盲目の老人達でも、浦は甞て卑賤なる支那の職工であつたのが、倦むことなき硏究と忍耐と天の靈感によつて遂に最大名工となつたことを語り得るのだ。彼は非常に有名になつたので、或る人は彼を鍊金術者と見倣し、石を金に化する『白と黃』といふ祕傳を知るものと思つた。また他の人々は彼を魔術師と考へ、屋根の瓦の下に呪文を唱へ込めた人の像を隱して置いて、夢魔の恐怖を以て、人を殺す凄い力を有するものとした。更にまた他の人々は萬物を支配する五行の神祕――星の流れの中にも、乳色の天河の中にも動いてゐる力――を發見した占星術者だと斷言した。少くともかやうに無智の輩は彼のことを噂した。しかし天子の側に侍せる、見識確固たる人々も、彼の妙技を激賞して、彼の巧みなる手觸に易々と扱はれ行く美しい材料を使用して、彼の制作の手に叶はぬといふ美術品が世にあるだらうかと話し合つた。

[やぶちゃん注:「浦(プー)」原文は“Pu”。平井氏訳は『風(ふう)』と訳しておられる。但し、「風」だと現代の拼音では「fēng」、「浦」は「」である。]

 すると、或る日の事、浦(プー)が天子へ貴い品を獻上した。それは閃めき燃えた黃鐡礦碩の實質を擬ねた[やぶちゃん注:「まねた」。]花瓶であつた――變色蜥蜴が燦爛たる花瓶の面にのたくり打つてゐた。しかも磁器の蜥蜴は看者[やぶちゃん注:「みるもの」と訓じておく。]が位置を變へる度每に色を變へた。天子は作品の壯麗に驚き、その職工のことを卿相官吏どもに尋ねた。彼等がそれは浦といふ無雙の陶工で、神か又は惡魔の靈感によつて知つたらしい祕訣を有することを答へた。そこで天子は立派な財物を待たせて官吏を彼の許へ遣はし、彼を御前へ召しよせた。

 賤しい職人は皇帝の前へ出でた。して、最敬禮――三たび跪いて、それから額を三たび、九囘づつ地に觸れて――を行つてから、勅命を待つた。

 すると、皇帝は彼にいつた。『朕は汝の獻品を見て非常に愉快を覺えた。して、その美しい器物に對し、汝に酬ゆるに銀五千兩を以てした。しかし汝もし朕の命ずるま〻のものを完成して吳れるならば、その三倍の報酬を與へよう。よく聽け、汝、無双の陶匠! 今や晚は、汝が生ける肉のやうな色澤風趣を有つ花瓶を作ることを欲する。但し――よく朕の希望を注意するがよい!――その肉は詩人の發する言葉に應じて匍匐し、觀念によつて動く肉、思想によつて戰慄する肉なのだ。この命に服從して、違背するな。朕は既に命令したのだ』

[やぶちゃん注:前段で「無雙」の表記がここでは「無双」となっているのはママ。因みに最終段落の「無双」もママ。]

 

 

 さて、浦は顏料を混ぜ合はせる職工の中で、花瓶の裝飾圖案家の中で、釉藥の上に彩色畫を描く職工の中で、色を光らす職工の中で、窯火を監視する職工の中で、要するに一切の陶工の中で、巧妙熟練を極めた人であつた。しかし彼は銀五千兩の恩賜を受けたにも拘らず、王宮から悲しみを懷いて去つて行つた。彼は獨りで考へた。『たしかに肉の美はしさの祕訣と、また肉が動く祕訣は、太上道の幽玄である。どうして人間が死せる粘土に知覺的生命の趣を附與し得られよう? 無限絕對者でなくて、誰が靈を與へることができよう?』

 さて、浦は製陶家の祕術たる色彩の巧妙と優雅の極致を發見してゐた。彼は薔薇の魔法的光耀や、心地よい紅色や、山綠と稱する綠色や、柔かな淡黃色や、燃えるやうな黃金色の美などの祕訣を見出してゐた。彼は鰻の色や、蛇の綠色や、菫の靑紫色や、熔爐の深紅色や、西洋の琺瑯細工師が永く求めて成功し得なかつた、酒精の炎の如く微妙で捕捉し難い洋紅色と藤色を發見してゐた。しかし彼はその指定ざされた仕事に對して戰慄した。彼の陶房の勞作[やぶちゃん注:「ろうさく」。労働。作業。]に歸つて行つたときに、彼はいつた。『どうして貧弱な人間の力で、觀念につれて肉が震動するのや、思想が不可思議に戰慄するのを粘土に現はすことができよう? かの永遠の太模型師たる神の魔力を人間で眞似ができる? 私が模型車[やぶちゃん注:轆轤(ろくろ)。]の上で一個の甕を圓めるよりも、百萬の太陽を作る方が、神の大能力に取つては更に容易なのだ』

[やぶちゃん注:「洋紅色」“carminates”。深く鮮やかな紅赤色。カーマイン。この色(リンク先はサイト「伝統色のいろは」)。]

 

 

 しかし天子の命令は決して違背することはできなかつた。して、堅忍不拔の陶工は天子の希望を實現せんがために全力を發揮して努めた。が、幾日、幾週、幾月、幾季節の間、奮鬪しても徒勞であつた。また神々の助けを祈つても無効であつた。窯の靈に願ひ求めても駄目であつた。彼は叫んだ。『汝、火の精よ、私の願を聽き、私を助けてくれ。如何にせば、私が――粘土に生ける精神を吹き込むことのできぬ無力の私が――一聲の言下に躍り上がり、思想の一動一搖に感じ立つ肉の趣を、この無生物に活現し得られよう?』

 窯の精は、火の囁きを以て、奇異な答を彼に與へたのであつた。『汝の信仰は偉大で、汝の祈禱は凄い! 思想には人間がその過ぎ行く痕跡を認め得るやうな足があるか? 汝は私のために一陣の疾風を測量することができるか?』

 

 

 けれども、確固たる目的を以て、四十九囘までも浦は勅命を完成しようと試みた。惜しいかな、彼は空しく原料を浪費するばかりであつた。彼の力と彼の知職を蕩盡しても、成功は彼に笑顏を注がなかつた。して、災禍は彼の家を訪ね、貧窮は彼の室に坐し、悲慘は彼の竈に慄へた。

 時としては、試驗の際に、火に燒いてから、色彩が奇異に變つたり、或は灰臼に褪めたり、或は森林の黴[やぶちゃん注:「かび」。]の模糊たる色に煤けたりすることがあつた。すると、浦はかやうな災難を見て、窯の精に哀禱泣訴した。『汝、窯火の精よ、汝の助けがなくては、どうして私は光澤ある肉の趣と、生ける色の溫たい光を作り出せるだらう?』

 すると、窯の精は火の囁きを以て、神祕的に彼に答へた。『汝は天穹を美しくした無限の釉藥工の技術を學ぶことができるか?――彼の刷毛は光線である。彼の顏料は夕べの色彩である』

 また時としては、色彩が變はらないで、刺點を施し、丹精を注いで作つた表面が、熱の中で活きてきて、生ける皮膚の潑溂さを帶びさうになつてから――いよいよ最後に達してから、職工達のあらゆる骨折が徒爾[やぶちゃん注:「とじ」。無駄。]に歸することもあつた。何故なら、輕佻浮薄の物質は彼等の努力に叛逆して、ただ凋れた果實の皮の上にあるやうな怪奇な皺を生じ、または荒荒しく羽毛を剝がれた死鳥の肌膚に見る如き粒狀を呈するのみであつたから。して、浦は涕泣して、窯の精に叫んだ。『汝、炎の精よ、汝が助けを與へて吳れないでは、どうして思想につれて肉が竦動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。慎み畏(かしこ)まること。恐れて身を縮めること。]する狀[やぶちゃん注:「かたち」。]を模作し得られようか?』

 すると、窯の精は、火の囁きを以て神祕的に彼に答へた。『汝は石に魂を與へ得るか? 汝は花崗岩の山の内部に思想を浸み渡らせることができるか?』

 時としては、實際すべての勞作が失敗に了はらぬ場合もあつた。色は立派と思はれ、また花瓶の實質は、龜裂も、皺も、縮れもなくて、全く無瑕[やぶちゃん注:「むきず」。]のやうに見えた。しかし溫かい皮膚のしなやかさが見受けられなかつた。色合こそ肉のやうな表面も、金屬の粗厲[やぶちゃん注:「それい」。荒く鋭い感じであろう。]なる樣子と、硬い光を示すのみで、感覺ある物質の柔かな果肉性を模擬しようとの慘澹たる苦心は、何等の痕跡をも留むる事なく、窯火の息吹に一蹴されて了つた。浦は絕望の餘、窯の精に叫んだ。『汝、無慈悲の神よ、私は幾多の犧牲を捧げて汝を崇拜してゐるのに、私を棄てて顧みないのは、何の過失、何の罪のためであるか? 哀れなる私は、汝の救ひがなくては、どうして言葉につれて匍匐し、思想の擽る[やぶちゃん注:「くすぐる」。]ま〻に竦動する肉の趣を作り得ようぞ』

 すると、窯の精は火の轟きを以て彼に答ヘた。『汝は靈魂を分かつ事ができるか? 否! ……汝の作品の生命のためには汝の生命!――汝の花瓶の靈魂のためには汝の靈魂!』

 この言葉を聽くと、浦は胸に漲る怖ろしい決心を以て蹶起した。して、いよいよ最後の第五十囘目の試みとして、窯に入れる作品の準備にかかつた。

 百囘彼は粘土と硅岩、高陵と石胎を淘汰し、百度それを淸潔な水で淸めた。百囘位は倦むことなき手で、乳狀可粘物を捏ねて、最後に彼のみ知つてゐる顏料をそれに混じた。それから花瓶の恰好を作つては、また作り直して、遂にその柔和さは生きてゐるに見え、戰慄し、鼓動するやうに見えてきた。しかもそれは内部からの活力に發し、表皮の裏面に波立つ圓やたな肉から出でるかと思はれた。實際、生命の光澤がその面に浮たび、また量奧の實質中に滲透してゐて、血液の生々と輝いた組織のやうな紅色と、血管の網狀をなせる紫色を彷彿せしめ、全體の上には日光色に光つて、つやつやしい釉藥を着せて、女の磨き上げた肌を欺いてゐた。世界開闢以來、人間の技倆で、これに匹敵すべき作品は、未だ甞て作られたことがなかつた。

 それから、浦は手傳ひの人々に tcha の材木で盛に窯火を燃やしつづけさせた。が、誰にも彼の決心を告げなかつた。しかし窯が赫々と輝き始め、彼の作品が熱火の中に咲き出でて紅潮を呈するを見てから、彼は炎の精の前に身を屈めて呟いた。『汝、火の精、火の主よ、私には汝の言葉の眞理がわかつた。靈魂は決して分けることはできない。だから、私の作品の生命のために私の生命! 私の花瓶の靈魂のために私の靈魂!』

[やぶちゃん注:「tcha」平井氏は『松薪』と訳しておられる。但し、現在の松の拼音は「sōng」である。ハーンの綴りのもとは不明である。どうも私に何か別の種の木のように思われてならない。]

 

 

 そこで、九日と八夜の間、窯は絕え間なく tcha の薪を供給され、また九日と八夜の間、職工述は驚くべき花瓶が炎の息吹によつて薔薇の如く輝いて、晶化するのを監視した。第九夜になつてから、浦は仕事も殆ど出來上つて、成功は確證されたからといつて、すべて疲れた連中を寢に就かせた。『もし夜が明けてから私がこ〻にゐなくても、花瓶を窯爐から取り出すことを恐れるな。勅命通りに、仕事は完成されてゐると思ふから』と彼はいつた。職人達は歸つて行つた。

 しかしその第九夜に、浦は炎の中へ入つて、彼の身命を窯の精に獻げた――彼の生命を彼の作品の生命とし、彼の靈魂を彼の花瓶の靈魂としたのであつた。

 して、十日目の朝、職工達が珍妙なる陶器を取り出すためにきた時、浦の骨さへも亡くなつてゐた。しかし不思議! 花瓶は生きてゐた。言葉につれて動き、思想の擽るま〻に匍匐する肉のやうであつた。して、指で軽打する每に、聲と名を發した。その作者の聲、その作者の名――浦。

[やぶちゃん注:この後のみ、二行でなく、一行空け。]

 

 かくて、天子はこの話を聞き、また驚異すべき花瓶を見てから、側近の者どもにいつた。『いかにも、信仰の力、服從の力によつて、奇蹟が演ぜられた! しかしかやうな殘酷な犧牲の行はれることを、朕は決して欲したのではなかつた。朕はこの無双の技術家の力は、神々から來たものか、惡魔から出でたものか――天からか、地獄からか――を知らうと欲したのみであつた。今や實際浦は神々の中に位を占めたのだ』して、天子は痛く彼の忠實なる臣のために悲しんだ。しかし彼はこの驚くべき藝術家の靈に對して、神のやうな尊敬を拂ふべきこと、彼の名は永遠に崇めらるべきこと、それから、中華國のすべての都會と、すべての陶房に、彼の立派な像を設けて、幾多の職工は常に彼の名を呼び、彼等の勞作の上に彼の祝福を求むるやうにすべきことを命じた。

 

大 清 國

 

[やぶちゃん注:「清」はママ。]

 


175

 

【ハーンによる「解說」】

 『窯神譚』――始めて支那の製陶術の祕訣を歐洲へ偉傳へた宣敎師ダントルコル氏は、百六十年前に書いた――

 『支那の帝王は彼等の存命中は、最も恐ろしい神のやうなものである。して、彼等は何ものも彼等の希望を妨げ得ないものと信じてゐる…… 
 甞て或る皇帝が一つの見本通りの陶器を作るやうにと嚴命した。その製作は全然不可能であるといふ答を得たので、彼の願望は却つてますます募つてきた……半神の如き皇帝の命を受けて、その事業の監督と促進に當つた官吏は、職工輩を遇するに粗暴を極めた。可愛相にも職工達は、その資力を盡蕩し、非常なる骨折を拂つて、しかも報酬としてただ打擲[やぶちゃん注:「ちやうちやく(ちょうちゃく)」。]を受けるのみであつた。一人の職工は絕望窮策の餘、烈火の中へ跳び込んで、直ち燼となつた。しかし恰もその際窯中で燒いてゐた陶器は、完全に美麗なる結果を呈し、皇帝の嘉賞を博したとのことである……それから、かの不幸なる最期を遂げた陶工は、英雄として仰がれ、彼の像は製陶守護の神として祀られた』

 ダントルコル氏は安樂の神 Pou’t’ai の像を、眞正の竈神の像と間違へたらしい。それはヂヤツクマール氏及び他の諸氏が指摘してゐる通りだ。しかしこの誤謬はその神話の美を壞はすものではない。またダントルコル氏は景德鎭に於ける支那人の友が、彼に話したままを寫したものと思はれる。この他の諸點に關して、この天主敎宣敎師の記事の信憑するに足ることは、スタニスラス・ヂユリアン氏並びに他の諸大家の硏究が、ただますます保證して行つたばかりである。ヂユリアン氏並びにサルヴエター氏の兩大家は、その天晴れ立派なる佛譯の『景德鎭陶錄』(この書は私がこの小話を書くに當つて、非常に役に立つた)の中に、ダントルコル氏の書簡から長いことを引照し、また眞摯なる硏究家として最上の賞讃を彼に捧げてゐる。私の知り得た限りでは、この神話については、彼が唯一の典據となつてゐる。また他の事柄に關して彼が確言したことが、歲月の精嚴なる取捨によく堪へてゐのるのは驚くばかりである。して、長髮賊の亂が景德鎭を亡ぼし、その貴い工業を萎縮させてから以來、佛國宣敎師の文書と記事は、廣くその價値を認めらる〻に至つた。物語の主人公の名として、私は安樂の紳と區別するため、ただ添附字を省いて、單に浦(プー)といふ名を用ひた。

[やぶちゃん注:「ダントルコル」フランソワ・ザビエル・デントレコール(François Xavier d'Entrecolles 一六六四年~一七四一年)。中国名「殷弘緖」。イエズス会司祭で中国に伝道し(一六九八年到着)、江西省で最初に布教活動を行った後、一七〇六年から一七一九年にかけては中国フランス系イエズス会総督となり、その後、北京のフランス居留地長官を務め、北京で没した。一方で特に中国の陶磁器の研究を行ったことでも知られる。

「安樂の神 Pou’t’ai」本文で注した通り、「布袋(ほてい)」のこと。

「サルヴエター」先に示した“Histoire et fabrication de la Porcelaine chinoise”をスタニスラス・ジュリアンと共訳した、フランス人化学者で磁器研究をしていたアルフォンソ=ルイス・サルヴェータ(Alphonse-Louis Salvetat 一八二〇年~一八八二年)である。]

2020/02/25

三州奇談卷之三 乞食の信施

    乞食の信施

 「死して亡びざるは命永し」とは外典(げてん)の祕語(ひご)、浮屠(ふと)の無量壽願海も同じ酢(さく)の舌音(したおと)ならん。

[やぶちゃん注:「死して亡びざるは命永し」「老子」の第三十三章。

   *

知人者智。自知者明。勝人者力。自勝者强。知足者富。强行者志有。不失其所者久。死而不亡者壽。

(人を知る者は「智」なり、自ら知る者は「明(めい)」なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は强し。足(た)ることを知る者は富めり。强(つと)めて行ふ者は志(こころざし)有り。其の所を失(たが)へざる者は久し。死して亡びざる者は壽(いのちなが)し。)

   *

道家思想を好む私は、これは「無為自然の絶対の不可知の宇宙的絶対原理に従って下らぬ人為を確実に遠ざければ、たとえ肉体が滅んでも精神的な大切な霊は永く滅びることはない」の謂いであると考えている。

「外典」仏典ではない教え。

「浮屠」ここは仏でも如来の意であろう。

「無量壽願海」阿弥陀や釈迦の広大無辺な海の如き大慈大悲による衆生済度の既に成就された誓願のことと私はとる。

「酢」応答すること。響き。]

 江沼郡勅使村願成寺は、昔寬和の法皇自生山觀世音に苦行の頃、一條帝(いちじやうのみかど)より藤原範家朝臣(あそん)を以て、法皇の巡禮調度を送り給ふ舊跡にて、村を勅使村と云ひ、御(お)かり屋を密院と云ふ。文明年中に一變して一向宗となる。今の願成寺是なり。

[やぶちゃん注:「勅使村」石川県加賀市勅使町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「願成寺」現在の勅使町にあるのは、浄土真宗の東西分裂によって分立した、浄土真宗本願寺派荻生園願成寺で、現在は洗心寺と改称している。一方の別な願成寺の方は真宗大谷派で、以前は沼郡荻生村(現在の大聖寺荻生町)にあったものが、本願寺分裂により、ずっと西の加賀市大聖寺鍛冶町に願成寺そのままの名で現存する

「寬和の法皇」花山天皇(安和元(九六八)年~寛弘五(一〇〇八)年/在位:永観二(九八四)年~寛和二(九八六)年)のこと。「那谷の秋風」で詳細に既注した。寛和二年六月二十二日(九八六年(ユリウス暦)八月五日(グレゴリオ暦換算七月三十一日)に僅か二年足らず、しかも数え十九歳で宮中を出て、剃髪し、仏門に入って退位したことから、かく呼ぶ。ウィキの「勅使村」に、『かつてこの地に、花山法皇』や、彼の後を継いで即位した『一条天皇の勅使』『の滞在する』(ここで言う「御かり(假)屋」=御旅所)『が在ったということが、村名の由来とされている』。『古墳が多い所であり、狐山古墳、丸山横穴古墳、花山法皇の御陵であるといわれる法皇山横穴古墳などがある』とある。

「藤原範家」不詳。国書刊行会本は『藤原範永』とするが、時代が違う。一つ、個人ブログ「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」の『北陸道各所に残る 「義経記」 ⇒加賀藩の記録 【三州奇談】 に記載される『大盗賊 熊坂長範伝承』と義経の奥州行き!!』の中に『「加賀市史」記載の「河合系藤原氏系図」には、「河合」と言う一族が見られる。「赤丸浅井神社」に【「一条天皇」が勅使「川原左京」を遣わされて二本の勅使桜を御手植えされた】と伝承されるが、この時の「左京大夫」は「藤原道長」で在り、【白河天皇はこの庄園を京都の上賀茂神社に寄進された。】と伝わる』とある。これに従うなら、この「藤原範家」は=「川原左京」=「左京大夫」=「藤原道長」ということになるが、これは流石に私は信じ難い。「加能郷土辞彙」の「勅使」には、『江沼郡那谷に屬する部落。江沼志稿に、花山天皇の勅使河原右京の居蹟が勅使村と河原村との間に在るとし、一說にそれを河原四郞左衞門ともするが、それは地名に基づく傳說であらう。大日本地名辭典には、古への勅旨田のあつた所なるべく、勅使の地名諸國に在るもの皆同例であるとしてゐる』とあるのは非常に腑に落ちる。いや、この人物が実在するということであれば、御教授を乞うものである。

「文明年中」一四六九年~一四八七年。]

 寶曆巳年は祖師親鸞上人の五百回の法會なりと、願成寺に限らず、所々の寺庵、佛前に莊嚴(しやうごん)を飾ることなりし。十宗(じつしゆう)の敎へも登れば同じ月ながら、分けて流(ながれ)は此宗の北の海山多くして、はや四五年以前よりも、賤(しづ)がふせや・桶の折戶にも、坊主を請じ知識を招きて、一花一香の心許(ばかり)も報恩を勤めざるものはなし。

[やぶちゃん注:「寶曆巳年」一七六一年。親鸞は弘長二年十一月二十八日(西暦一二六三年一月中)入滅している。

「十宗」南都六宗・平安二宗・鎌倉二宗の総称。俱舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・律・法相(ほっそう)・三論・華厳・天台・真言・禅・浄土の十宗派。但し、これらの発祥が同じ月であるというのは私は初耳である。識者の御教授を乞う。

「桶の折戶」古い桶材を用いて作った粗末な扉の謂いか。]

 能美郡湊村に乞食ありて、いつの頃よりか手取川の邊(ほとり)に小屋二つ三つ並べ、夏は元より夕顏棚の下凉み、冬も裸に汐木(しほき)を拾ひ、圍ひ船を楯として白根の吹(ふき)おろしを防ぎける。三人行く時は是にも一人の師あり。

[やぶちゃん注:「能美郡湊村」白山市湊町。]

 此中の加兵衞と云ふ者は、江沼郡の百姓にて、日照(ひでり)の年の作り倒れながら、此願成寺旦那にて信心なるに勸められ、殘る三人も、いつとなく貪る心のひまひまに口唱するこそやさしけれ。取分(とりわけ)此二三年開祖の大會を遂げられ、沓(くつ)など命を限り作りて鳥目を貯へ、長月(ながつき)[やぶちゃん注:陰暦九月。]の末

「願成寺の法會に參らん」

と、爾々(しかじか)のよし云ひて、此中間として報恩の法施鳥目八貫文、菰(こも)に包てぞ上りける。御坊も、渠(かれ)が不相應の信施の感じ、ねんごろに勤行あり。日暮るれば庭前にまろ寢して、晨朝(しんてう)も參詣して歡喜して歸ける。

 其翌日は廿八日

「御命日なれば」

と、加兵衞が小屋へ打より、繩下げの棚に灯をともし、片言交りの偈(げ)を唱へ、枯芦折りくべ、茶をわし、佛恩を悅ぶ。

[やぶちゃん注:「繩下げの棚」繩で天井から吊り下げた粗末な棚の仏壇。]

 たそがれ時、八旬許[やぶちゃん注:八十歲ほど。]の老僧、此小屋へ立ち入り、

「我は願成寺の住僧なり、『きのふ法施感心の餘り、行て敎化すべし』とのしめしに依て來(きた)れり」

と、菰の上に安座して、矢立取出して白紙に六字の名號を書きて垣(かき)[やぶちゃん注:粗末な板壁。]に挾み、棚に向ひて讀經念頃(ねんごろ)に、猶安心(あんじん)の敎化をなし、一睡一臥もなさゞるに、芦の簀(す)の子に早や曉の鷄(とり)、鐘鳴りて、御僧は衣のちりを打拂ひ、

「又重(かさね)て」

と暇乞(いとまごひ)して立給へば、加兵衞は只落淚にくれ、

「せめて我々御見送り」

と云ふ間に、はや遙向ひへ步み給ひし。

 此(この)折から、大聖寺の福田町堀切や太兵衞と云ふ者、其曉方(あかつきがた)本吉より立出で、此道を通りしが、湊村の方にあたりり怪しき雲たなびきけり。

「ふしぎや、紫雲と云ふ物にこそ」

と、暫く彳み居たるに、乞食小屋より老僧一人立出で上の道へ步み給ふ。

 其跡に付きて行きぬれば、えならぬ薰りして、何となく心中もすみわたるやうに覺えて、

「扨もふしぎ」

と彼僧の跡をしたひ行く。

 太兵衞が一僕も、

「此香を聞きたり」

とぞ。

 既にして敕使村願成寺の境内へ入り給ふ。

 續いて立入り、まづ御堂を拜し、同宿の僧を尋ね、

「是へ只今入り給ふ老僧は何と申す」

と問へば、

「今朝(けさ)より誰(たれ)も寺中へは入る者なし。昨日までは法會ありし。今朝よりは此寺に坊主の出入曾てなし」

と云はるゝに怪しきことに思ひ、道々の樣子を語り怪しみ居(ゐ)る所へ、湊村より乞食四五人來て、

「夕べの御伴僧樣身に餘り有り難し、恐(おをれ)ながら御禮として參詣仕り候」

とて、一封の鳥目を出(いだ)し、

「さてふしぎは夕べの御伴僧樣、常々見馴れぬ御方と申し、今朝御出立の跡に、宵に書き下されし六字の名號、白紙にてありし故、何れも不審はれ難く侯。あはれ其儘名號になして下され侯へ」

と語れば、住持の僧も、傍(かたはら)に聞居(ききゐ)たる堀切屋主從も手を打ちてふしぎがり、非人へも右の事物語り、

「是全く聖人の奇特正しく、往還の現證にこそ有難けれ」

と、一座皆身を投打ちて落淚し、普(あまね)く報謝の應念を運びしなり。

[やぶちゃん注:これは凄い!! 親鸞の霊が下賤の真心の籠った法施に応ずるために、かの「往還回向」にやってきたのだ! こんな話は私は読んだことがない!!! 感動した!!! 名号が白紙なのは不可思議光であるからに他ならぬ! 厳か過ぎて、注を附すことさえ憚られる(私は思想家としての親鸞を激しく尊崇している。往還回向とは何か判らぬ御仁は御自分でお調べあれ)!!! 悪しからず!

三州奇談卷之三 宮塚の鰻鱺

    宮塚の鰻鱺

 「山川不ㇾ改、人事は非なり」と云共、大川(だいせん)も又人の爲に改めかへらるゝにや。

[やぶちゃん注:標題は「宮塚(みやづか)の鰻鱺(まんれい)」と読んでおく。「宮塚」は後に出る通り、川の名であるが、現行ではこの名の川はない。後で考証を示すが、恐らくは現在、高橋川の地区名ではないかと推測する。石川県金沢市米泉町の高橋川に架橋するそれを「宮塚橋」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)と呼んでいるからである(厳密には他に金沢市横川と野々市市押野の三地区に跨る)。「鰻鱺」は「うなぎ」と訓じてもよいが(本邦では普通にかく漢字表記した。私の「大和本草卷之十三 魚之上 鰻鱺 (ウナギ)」を参照されたい)、ここは妖異の怪魚であるので音読みをお勧めする。地理的に見てこのウナギは条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギAnguilla japonica と断じてよい。その妖異を見るに、同属のオオウナギ Anguilla marmorata も候補になりそうだが、本来がオオウナギは熱帯性で、九州よりも以北に棲息するというのは考えにくいからである。

「山川不ㇾ改、人事は非なり」「山川(さんせん)は改(あらた)まらざるも、人事は非なり」「自然は不変であるが、人事は無常である」。特に出典があるわけではないが、道家思想や仏教の世界観・自然観である。

「大川」一般名詞で「大きな川」。]

 布市(ぬのいち)の邑(むら)は、往古富樫氏の都會にして、數千軒の坊舍もありしに、今寺號村々に殘り、田間の松原も皆古墳あり。曹洞の祖道元師の塚も、布市の村中にあるに、今一堆(いつたい)の喬木しんしんたり。「布市の御館(みたち)」と云ふは、富樫の後(のち)若松氏住し、其後不破彥三(ひこそ)も住し、今は「作食(さじき)の御藏(みくら)」となる。同じく「山川(やまがう)の館」と云ふは、富樫の家臣山川(やまがう)三河守の跡にて、大乘寺開祖徹通和尙の墓あり。三世明峯和尙の墓は大平村にありて、葬る時に白山權現回向(えかう)ありて、「香の水」と云ふ淸水涌出(わきいづ)ると云ふ。古へ此所に大德(だいとこ)の人ありしに、白山權現常に回向あり、白雲布の幅にして長くたなびきしにより、「布(ぬの)一里」の名是より起ると云ふ。

[やぶちゃん注:「布市」現在、石川県白山市布市があるが、古くは現在のその東方の野々市市の一部をも含む広域が「布市」であったらしい。ここはサイト「地名の由来」の「野々市」に拠ったが、地名由来は『この地に大徳の人があって、常に白山大権現を遙拝していた。その人が拝むと』、『真夏でも雪が降り、布の幅はどの白雲が一里あまりたなびいた。これを人々が〝布一里″と呼んだのがなまって〝布市″になった』という本篇に記されたものと、『その昔、この地で布の市が開かれた』からという別説も載せる。

「富樫氏」藤原利仁(芥川龍之介の「芋粥」の彼)に始まるとされる氏族で、室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名。

「寺號村々に殘り」廃された寺々の名に由来する地名のみが各村内に残っているばかりであることを謂う。

「古墳」これは所謂「古墳」ではなく、廃寺となった寺々の墓の謂いのように文脈では読めるが、実際の野々市市には複数の実際の古墳時代の有意な規模の遺跡があり、それらも、というよりそれらを主体としての謂いととるべきかも知れない。「野々市市」公式サイト内のこちらを参照されたい。

「道元師の塚も、布市の村中にある」驚きの記述であるが、不詳。布市にも野々市にもそれらしいものは現存しない模様である。道元は晩年に体調を崩し、建長五(一二五三)年に永平寺住職を弟子孤雲懐奘(こうんえじょう)に譲って、京の俗弟子覚念の私宅で療養したが、同年八月に入滅した(享年五十四歳)。当時、古墳や廃寺の墓などの一つがそのように誤伝されていたものか?

「若松氏」不詳。

「不破彥三」不破直光(?~慶長三(一五九八)年)。戦国から安土桃山にかけての武将で斎藤氏・織田氏・前田氏の家臣。通称は彦三。諱は勝光とも。斎藤氏の家臣不破光治の子として生まれ、父と共に織田信長に仕えて各地を転戦、天正八(一五八〇)年頃、父光治が亡くなって跡を継ぎ、「府中三人衆」の一人として政務をこなした。天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」後は柴田勝家方につき、「賤ヶ岳の戦い」では佐久間盛政に属して奮戦した。敗戦後は前田利家に仕え、「末森城の戦い」では前田軍の先鋒として佐々成政の軍勢と戦った。金沢にて死去。家督は側室朝倉対馬守息女が産んだ光昌によって継承され、子孫は加賀藩士として続いた(以上はウィキの「不破直光」に拠る)。現在の石川県金沢市彦三町(ひこそまち)は彼の一族が住んだことに由来する。

「作食(さじき)の御藏(みくら)」作食蔵(さじきぐら)とは、収穫期までの期間、農民に貸与する米を貯蔵する蔵のことを指す。

「富樫の家臣山川(やまがう)三河守」の「山川(やまがう)の館」(読みはネット記載で最も多い読み「やまごう」を「郷」の当て訓と考えて「がう」とした。但し、「やまご」と振るものもある)は現在の野々市市本町のこの中央附近にあったらしい。直近の南東に主君富樫氏の館の碑が確認出来る(この付近に富樫の館は複数あったらしい)サイト「城郭放浪記」のこちらを参照されたい。yoshitsuna hatakeyama氏のサイト「加賀冨樫氏野々市の歴史」の「山川館(山川館址)」に、『山川氏は冨樫氏の一族で、冨樫家経の子にあたる繁家が始祖にあたる。現在の山川町あたりを領していたと思われ、山川三河守の居館の本館は伝承によると冨樫館北西の場所にあったと言う。江戸時代の記録によるとわずかに土塁が残っていたと言われる(『ののいち歴史探訪』野々市町教育委員会発行より)』。『山川氏は金沢市にも居館跡と言われるところがある。その館跡付近に神社があり、その付近にある山川砦は「見張り台」として機能していたのではないかと高井勝己氏は指摘する(『北加賀の山城』高井氏自費出版より)』とある。

「大乘寺」金沢市長坂町にある曹洞宗大乗寺ウィキの「大乗寺」によれば、『寺伝によれば、弘長』三(一二六三)年、『冨樫家尚が野市(現在の野々市市)に真言宗の澄海を招聘して創建したという。後、禅寺に転じ、弘安』六(一二八三)年、曹洞宗の徹通義介を招聘して開山とした』という。乾元元(一三〇二)年に瑩山紹瑾』(けいざんじょうきん:曹洞宗発展の基礎を築いた名僧で曹洞宗第四祖とされる)『が二世住持となった。応長元(一三一一)年、『臨済僧である恭翁運良が瑩山の後を継いだ。臨済僧が住持となったのは、十方住持制度(禅寺において、自派に限らず他派からも住持を選ぶ)に基づくものと考えられている』。『しかし、恭翁運良と大乗寺の間にはその後』に『確執があったようで、彼の名は世代から除かれており、暦応元』(一三三八)年に住持となった『明峰素哲が大乗寺第』三『世とされている』。『寺は』暦応三(一三四〇)年に『足利尊氏の祈願所となるが、室町時代後期、戦乱に巻き込まれて焼失した。その後、前田利長の家臣・加藤重廉が檀越となり、寺は木新保(現在の金沢市本町)に移転した。さらに、江戸時代初期には加賀藩家老本多家の菩提寺となり、現在の金沢市本多町に移転している』とある。

「徹通和尙」徹通義介(てっつうぎかい 承久元(一二一九)年~延慶二(一三〇九)年)は越前国出身の鎌倉中期の曹洞宗の僧。永平寺三世でこの大乗寺の開山。ウィキの「徹通義介」によれば、『地元の藤原氏(富樫氏とされる)に生まれ』、十三『歳の時に地元の波著寺にて日本達磨宗の懐鑑に就いて出家、「義鑑」の法名を受ける』。十九『歳の時に比叡山に登って授戒したが』、仁治二(一二四一)年に『懐鑑と共に山城国深草興聖寺の道元の下に参じた。以後』、『道元に師事し、永平寺で典座・監寺などの要職を務めた』。『道元の没後は孤雲懐奘に師事し、途中』、正嘉三・正元元(一二五九)年に『入宋し、諸寺院にて各種の祈祷や清規を学んだ』後、『帰国して、永平寺の規則や儀式の整備などを行った』。文永四(一二六七)年に『懐奘の後を継いで永平寺第』三『世になるが、日本達磨宗系と曹洞宗系の内部対立(三代相論)を収めきれず』同九年に『辞任し、麓に庵を建てて老母と共に隠居。後は再び懐奘が就任した』。『懐奘の没後の弘安』三(一二八〇)年には『再び、永平寺住持となるが』、またしても『両派の対立を収拾出来ず、永仁元』(一二九三)年に『永平寺を出て加賀国に移り、大乗寺を真言宗寺院から禅寺に改めてその開山となった』とある。

「明峯和尙」明峰素哲(めいほうそてつ 建治三(一二七七)年~観応元/正平五(一三五〇)年)。能登或いは加賀生まれとし、一説に富樫氏を出自ともする(次注参照)。先に出た瑩山紹瑾の一番の高弟とされる。比叡山で出家し、当初は天台教学を学んだが、やがて京の建仁寺で臨済禅に転じた。後に加賀大乗寺の瑩山に参じ、認められて侍者となり、八年の参学の後、開悟し、元亨三(一三二三)年、瑩山より法衣を伝えられ、正中二(一三二五)年、瑩山の後席を継いで永光寺の住持となった。「法は明峰」と讃えられているものの、著述は少ない。しかし、その法は「明峰派」と称されて、江戸期以降の宗学の発展に重要な役割を果たした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大平村」不詳。但し、嶋田良三氏の「富樫のふるさと」のこちらの「位川町」の条に、『池上白山神社の境内に「御手水池」があり、大乗寺主僧明峰祖哲(富樫氏出身)の葬儀を行うにあたり、白山権現が白雲にのりご影向ありと伝えられ、村人たちは白山権現がお参りされて手を清められた池として大切に守っている』とあり、野々市市位川(くらいがわ)はここであり、その北に隣接する地区名は「太平寺」である。『「香の水」と云ふ淸水』というのもこの池上白山神社の「御手水池」と同一と考えてよかろう(リンク先は「石川県神社庁」の同神社。地図あり)。なお、同じ嶋田良三氏の「野々市の古跡集」にも「御手水池跡」があり、『位川にある池上白山神社境内鳥居左側に御手水池があり、昔明峰和尚(又は徹通)と云う人がなくなり』、『太平寺に葬った時、白山から太平寺にかけて布幅一里程の白雲が橋のようにかかり、六月と云うのに雪が降り、白山権現が現われた云う。そして、この池で手を清められたことから御手水池と名がついたと伝えられている』と同じ記載があるものの(しかしここでは開山の徹通の説も挙がっている)、別に『一説には太平寺の御手洗池とも伝えられる』ともある。孰れにせよ、検索でも池は見当たらない。廃仏毀釈で失われた可能性が高いか。

「回向」これは「影向」(やうがう(ようごう):神仏が時に応じて、仮にその姿を現すこと)でないとおかしい。国書刊行会本は『影向』となっている。言っておくと、にも拘らず、編者は「影」の横に補正注で『(回)』としている。訳が分からない。]

 天正の頃迄は手取川の水、鶴來より高雄の城を廻(めぐ)りて、此布市の邊(ほとり)に落ち、相河(さうご)・宮崎の邊に水下る。然るに今粟生(あを)・寺井の邊りにつぼめて、直ちに本吉に落つ。是(これ)大川(だいせん)を狹(せば)めて新田を多くせるに依てなり。然共此邊(あたり)昔の水筋故か、いかなる日照(ひでり)にも水渴(みづがれ)なく、當國第一の美田となる。石川郡の名故ある哉(かな)。

[やぶちゃん注:「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日から行用された)。

「高雄の城」高尾城

「相河」現在の石川県白山市相川町(そうごまち)であろう。読みは現在のそれに従った。

「宮崎」不詳。国書刊行会本は宮腰を正しいとし、「近世奇談全集」も同じで『みやごし』のルビを振る。しかし、「宮腰」の地名は現存しない。寧ろ、前の相川町の東内陸には「宮永町」・「見永内町」があり、南方には「宮北通り」を見出せる。この辺りを言っているのではあるまいか?

「粟生」現在の手取川左岸(一部右岸)の石川県能美市粟生町(あおまち)

「寺井」粟生の南の能美市寺井町

「本吉」白山市美川本吉町等を含む広域。「水嶋の水獸」で考証済み。

「石川郡の名故ある哉」ウィキの「石川県」によれば、石川郡の『命名は本県最大の河川手取川の古名である「石川」に由来する』とある。]

 されば此邊あやしき水多し。所謂御子田村(みこだむら)に「人形見(ひとがたみ)の淸水」と云ふあり。人來れば水涌き、人されば渴す。又水島には「夏の水」あり。是は往還の地なれば、爰に略す。「鐵(かね)くらひ川」とて、橋を用ひざる流(ながれ)もあり。是が中に「宮塚川」と云ふは、「三(み)まん堂川」と水落合(おちあ)ふ【二万堂は公儀名は「三(ミ)マンド」なり。實(じつ)は其方角巳午堂(みんまだう)と云ふ。】野社(のやしろ)の怪しげなるを廻(めぐ)り、兩水一つになり、深淵巴(ともゑ)の字をなすといへども、四方田野にして耕夫穡女(しよくじよ)の早歌喧しき程の街なれば、誰(たれ)恐るゝ者もなく、小魚集(あつま)るを得物にして、金城の遊人日々魚網・釣竿を提げ來りて、爰に遊ぶ。然共(しかれども)一筋の「三まん堂川」は、水上(みなかみ)黑壁より出で、泥沙多く流込み、水底淨(きよ)からで足定めがたければ、彼淵に入る者稀なり。

[やぶちゃん注:『御子田村に「人形見の淸水」と云ふあり』「加能郷土辞彙」のここに複数あることが記されてある中、『石川郡日御子村宮森の内に人影の淸水あり』とある。これは現在の石川県白山市日御子町(ひのみこまち)と思われる。

「水島」「水嶋の水獸」で考証済み。

「夏の水」不詳。

「鐵(かね)くらひ川」国書刊行会本の元筆写のカタカナ・ルビに拠る。

「橋を用ひざる流(ながれ)もあり」国書刊行会本は『橋に鉄を不ㇾ用(もちひざる)流も有(あり)』とある。

「宮塚川」まず頭の注で私が推定比定した地図(宮塚橋)を再確認されたい。但し、以上で見た通り、江戸時代と現代では手取川の流域が激しく異なるから、そこが正確な「宮塚」だというのではない。あくまで指標として見られたい。

「三まん堂川」川名がごちゃついていて非常に読み難いが、これは「加能郷土辞彙」の「ミマガハ 御馬河」の記載の最後から、伏見川の上流を指す。この伏見川のこれまた異名に「二万堂」川の名があったことは、伏見川のここに現在「二万堂川橋」があることからも判る。なお、嘗ては多くの分流が存在したと推定されるから、それぞれの分流に別に附された名であった可能性もあることは言い添えておく。また、この伏見川について同じく「加能郷土辞彙」の「伏見川」の記載に『石川郡知氣寺領山なる城山の東から流出し、二萬堂川となり、西泉・米泉領境で額谷川と落合ひ、是より下は古保川となつて犀川に入る』としながら、最後に『伏見川は二萬堂川も古保川含んだ名である』とある。呼称が二重にも三重にもなっているので注意されたい。因みに、呼称に拘りのある方は同書の「二萬堂」の解説の領域や「二萬堂稻荷社」の記載も参照されたい。私は関心がない。悪しからず。

「巳午堂」方位は南南東である。

「野社の怪しげなる」不詳。宮塚橋のある高橋川と伏見川の合流点の近くとなると、横川神社がやや近いが、この神社は「石川県神社庁」の解説によれば、『歴代藩公を始め、上下の崇敬篤く、前田斎泰公直筆の奉納あり。社殿広壮なり』とあるから違う。

「穡女」「穡」は刈り入れすること。

「早歌」この場合は仕事歌で能率を上げるためのテンポの速い歌の意であろう。

「黑壁」伏見川上流の金沢市三小牛町(みつこうじまち)内にある黒壁山。現在、黒壁山薬王寺九萬坊大権現が建つ。一説に、金沢城の本丸の地は元は怪異の起こる魔所であったが、藩祖前田利家が強引に城を築き、魔所をここ黒壁山に移したともされる。]

 然るに寶曆四年六月半ば、金澤古寺町福藏院と云ふ修驗家(しゅげんか)の弟子寶仙坊と云ふ者、壯年の俠氣に任せて此淵に游泳するに、忽ち水中へ引込(ひきこ)む者ありて久しく出でず。淵の水逆卷上(さかまきあが)り、夥しく高鳴りして、やゝ暫くありて寶仙坊は死して川下へ流れ出ぬ。

[やぶちゃん注:「寶曆四年六月半ば」一五七四年八月初旬相当。

「金澤古寺町」現在の石川県金沢市片町二丁目の古名。

「福藏院」現存しない模様。

「修驗家」修験者(しゅげんじゃ)。山伏。神仏両部に仕え、山岳に籠って密教的な神秘的呪法を修行する。]

 夏日水に死する事は、所々あることにして珍しからざるに、

「怪しや」

此評判甚しく、

「是鱣(うなぎ)の所爲なり」

とて、誰いふ共(とも)なく語り傳へ、俄に

「寶仙坊鱣と組合ふところの圖なり」

とて、板におこし、色繪に仕立て、所々の市町に賣るに、買ふ人こぞり爭ふこと、彼(かの)王義之が老婆にあたへし扇面に似たり。

[やぶちゃん注:「王義之」底本は『王義元』であるが、これでは意味が判らぬので、国書刊行会本で訂した。これは東晋の政治家にして名書家であった王義之の逸話の一つ。個人ブログ「落書帖」の「右軍題扇」から引用させて戴く。私もこの橋、行ったことがある。

   *

 人々は羲之の墨宝を視ることは最大の栄光と考えた。《晋書・王羲之伝》に“右軍題扇”の故事が記載されている。

 王羲之は蕺山街の石橋の辺りで六角竹扇を売っている老婆と出会った。不景気で老婆はうかぬ顔をしていた。羲之は売り物の扇に五つの文字を揮毫して老婆に渡したが、老婆は羲之のことを知らない上、字も読めないため不機嫌になった。

 羲之は笑って老婆に言った。“この字は王羲之が書いたものだと言えば一百銭で売れますよ。”半信半疑の老婆はその通りにすると人々が競って買ったので笑いが止まらなかった。翌日、老婆は羲之の好きな白い鵞鳥を携えてもう一度字を書いて欲しいと頼みに行くと、王羲之はただ笑うだけだった。

 長廊の絵画は“鵞鳥を以って字に換え”ようとしている老婆が描かれている。王右軍が扇に字を書いた橋は“題扇橋”と呼ばれ、今日紹興市の有名な観光名所になっている。

   *]

 然るに其日を經ずして、石坂町鐵砲方大組の内(うち)遠田兵左衞門忰(せがれ)兵藏と云ふ者、是も二三人を誘引して、此水にひたり遊びしに、先日の如く俄に河水逆卷き上り、兵藏を引込みて、是又命を取りければ、此大組は皆壯勇の人多し。人々聞傳へて、

「憎き事にこそ、泥龜・川童(かつぱ)の類なるべし、此水をかへ盡して、敵を取(とら)ばや」

と、時は文月の二日なりけり。大組殘らず催し、此川筋を外に掘かへ、二筋の流を外へ移し、彼淵の溜水(たまりみづ)をかへ盡すに、下より涌く水多して、曾て減る事なし。邊りに有合(ありあ)ふ農民、往來に行懸りたる人迄も皆寄つどひ水をかふる。况や此噂金城へ聞えければ、纔(わづか)に一里許の所なり、追々壯力(さうりき)の者共祭角力(まつりすまふ)の日の如く走り集(あつま)る者夥(おびただ)し。手々に水をかへ、小道を脇へ掘(ほり)しに、餘程水渴して、今四五尺許にもやと思ふ頃。

 一勢に水吹出で、又元の如し。

 只よく物ありて防ぎ守るが如し。斜日海畔の松にかゝれば、人々力を盡して換ふるに、水も又力を盡して吹出(ふきい)ずが如し。

 鬼ありてよく護(まもり)するなるべし。彼(かの)齏粉(せいふん)の術(すべ)もなく、世に張華が博物もなければ、終に水盡きずして日は暮(くれ)ぬ。

[やぶちゃん注:「石坂町」現在の金沢市野町の内にあった。

「遠田兵左衞門」不詳。

「齏粉」身を粉(こ)にして働くこと。

「張華が博物」三国時代魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集である「博物志」全十巻を指す。]

 一夜ありて行きて見るに、昨日千萬の骨折りし新川堤(しんかはづつみ)、悉く元の所へきれ落ちて、深淵藍の如し。終に功空して止みぬ。里俗に云ふ、

「此川水常に磧(かはら)礫(つぶて)の響きありて、水膝(ひざ)に過ぎず。然るに水怪ありしは、實(げ)にも大川の水脈通じてありけん。」

[やぶちゃん注:最後の里俗の台詞が国書刊行会本では『「是(これ)は此(この)上三かい淵と云所(いふところ)と、此落合とに住(すむ)(ぬし)主成(なり)」と云(いふ)』で切れて、此川以下は筆者の添え辞となっている。どうもその方が正しいように思われる。その場合なら、「磧礫」は「セキレキ」と音読みしたい。この語の使用が里俗の言にしてはちょっと気になったので訓じておいたからである。

2020/02/24

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 手套を脱ぐ時 (その2) / 「一握の砂」~完遂

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。]

 

 

よく怒(いか)る人(ひと)にてありしわが父(ちち)の

日(ひ)ごろ怒(いか)らず

怒(いか)れと思(おも)ふ

 

 よく怒る人にてありしわが父の

 日ごろ怒らず

 怒れと思ふ

 

 

あさ風(かぜ)が電車(でんしや)のなかに吹(ふ)き入(い)れし

柳(やなぎ)のひと葉(は)

手(て)にとりて見(み)る

 

 あさ風が電車のなかに吹き入れし

 柳のひと葉

 手にとりて見る

 

 

ゆゑもなく海(うみ)が見(み)たくて

海(うみ)に來(き)ぬ

こころ傷(いた)みてたへがたき日(ひ)に

 

 ゆゑもなく海が見たくて

 海に來ぬ

 こころ傷みてたへがたき日に

 

 

たひらなる海(うみ)につかれて

そむけたる

目(め)をかきみだす赤(あか)き帶(おび)かな

 

 たひらなる海につかれて

 そむけたる

 目をかきみだす赤き帶かな

 

 

今日(けふ)逢(あ)ひし町(まち)の女(をんな)の

どれもどれも

戀(こひ)にやぶれて歸(かへ)るごとき日(ひ)

 

 今日逢ひし町の女の

 どれもどれも

 戀にやぶれて歸るごとき日

 

 

汽車(きしや)の旅(たび)

とある野中(のなか)の停車場(ていしやば)の

夏草(なつくさ)の香(か)のなつかしかりき

 

 汽車の旅

 とある野中の停車場の

 夏草の香のなつかしかりき

 

 

朝(あさ)まだき

やつと間(ま)に合ひし初秋(はつあき)の旅出(たびで)の汽車(きしや)の

堅(かた)き麺麭(ぱん)かな

 

 朝まだき

 やつと間に合ひし初秋の旅出の汽車の

 堅き麺麭かな

[やぶちゃん注:「ぱん」はママ。全集も同じ。]

 

 

かの旅(たび)の夜汽車(よぎしや)の窓(まど)に

おもひたる

我(わが)がゆくすゑのかなしかりしかな

 

 かの旅の夜汽車の窓に

 おもひたる

 我がゆくすゑのかなしかりしかな

 

 

ふと見(み)れば

とある林(はやし)の停車場(ていしやば)の時計(とけい)とまれり

雨(あめ)の夜(よ)の汽車(きしや)

 

 ふと見れば

 とある林の停車場の時計とまれり

 雨の夜の汽車

 

 

わかれ來(き)て

燈火(ひかり)小暗(をぐら)き夜(よ)の汽車(きしや)の窓(まど)弄(もてあそ)ぶ

靑(あを)き林檎(りんご)よ

 

 わかれ來て

 燈火小暗き夜の汽車の窓弄ぶ

 靑き林檎よ

 

 

いつも來(く)る

この酒肆(さかみせ)のかなしさよ

ゆふ日(ひ)赤赤(あかあか)と酒(さけ)に射(さ)し入(い)る

 

 いつも來る

 この酒肆のかなしさよ

 ゆふ日赤赤と酒に射し入る

 

 

白(しろ)き蓮沼(はすぬま)に咲(さ)くごとく

かなしみが

醉(ゑ)ひのあひだにはつきりと浮(う)く

 

 白き蓮沼に咲くごとく

 かなしみが

 醉ひのあひだにはつきりと浮く

 

 

壁(かべ)ごしに

若(わか)き女(をんな)の泣(な)くをきく

旅(たび)の宿屋(やど)の秋(あき)の蚊帳(かや)かな

 

 壁ごしに

 若き女の泣くをきく

 旅の宿屋の秋の蚊帳かな

 

 

取(と)りいでし去年(こぞ)の袷(あはせ)の

なつかしきにほひ身(み)に沁(し)む

初秋(はつあき)の朝(あさ)

 

 取りいでし去年の袷の

 なつかしきにほひ身に沁む

 初秋の朝

 

 

氣(き)にしたる左(ひだり)の膝(ひざ)の痛(いた)みなど

いつか癒(なほ)りて

秋(あき)の風吹(かぜふ)く

 

 氣にしたる左の膝の痛みなど

 いつか癒りて

 秋の風吹く

 

 

賣(う)り賣(う)りて

手垢(てあか)きたなきドイツ語(ご)の辭書(じしよ)のみ殘(のこ)る

夏(なつ)の末(すゑ)かな

 

 賣り賣りて

 手垢きたなきドイツ語の辭書のみ殘る

 夏の末かな

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、『このドイツ語の辞書は啄木がドイツ語の自習を始めた明治三十九』(一九〇六)『年八月、そのころ東京帝国大学に在学中の友人金田一京助より譲られた、明治三十年販の井上哲次郎著『新独和辞典』で、現在』、『市立函館図書館に遺品として保存されている』とある。]

 

 

ゆゑもなく憎(にく)みし友(とも)と

いつしかに親(した)しくなりて

秋(あき)の暮(く)れゆく

 

 ゆゑもなく憎みし友と

 いつしかに親しくなりて

 秋の暮れゆく

 

 

赤紙(あかがみ)の表紙(へうし)手擦(てず)れし

國禁(こくきん)の

書(ふみ)を行李(かうり)の底(そこ)にさがす日(ひ)

 

 赤紙の表紙手擦れし

 國禁の

 書を行李の底にさがす日

[やぶちゃん注:「赤紙の表紙」「國禁」から社会主義関連の書物であることは明白。岩城氏前掲書に、それが『手擦れているのは、この書物がひそかに同志の手から手に渡っている間にそうなったことを示している』とある。]

 

 

賣(う)ることを差(さ)し止(と)められし

本(ほん)の著者(ちよしや)に

路(みち)にて會(あ)へる秋(あき)の朝(あさ)かな

 

 賣ることを差し止められし

 本の著者に

 路にて會へる秋の朝かな

 

 

今日(けふ)よりは

我(われ)も酒(さけ)など呷(あふ)らむと思(おも)へる日(ひ)より

秋(あき)の風吹(かぜふ)く

 

 今日よりは

我も酒など呷らむと思へる日より

秋の風吹く

 

 

大海(だいかい)の

その片隅(かたすみ)につらなれる島島(しまじま)の上(うへ)に

秋(あき)の風吹(かぜふ)く

 

 大海の

 その片隅につらなれる島島の上に

 秋の風吹く

 

 

うるみたる目(め)と

目(め)の下(した)の黑子(ほくろ)のみ

いつも目(め)につく友(とも)の妻(つま)かな

 

 うるみたる目と

 目の下の黑子のみ

 いつも目につく友の妻かな

 

 

いつ見(み)ても

毛糸(けいと)の玉(たま)をころがして

韈(くつした)を編(あ)む女(をんな)なりしが

 

 いつ見ても

 毛糸の玉をころがして

 韈を編む女なりしが

 

 

葡萄色(ゑびいろ)の

長椅子(ながいす)の上(うへ)に眠(ねむ)りたる猫(ねこ)ほの白(じろ)き

秋(あき)のゆふぐれ

 

 葡萄色の

 長椅子の上に眠りたる猫ほの白き

 秋のゆふぐれ

 

 

ほそぼそと

其處(そこ)ら此處(ここ)らに蟲(むし)の鳴(な)く

晝(ひる)の野(の)に來(き)て讀(よ)む手紙(てがみ)かな

 

 ほそぼそと

 其處ら此處らに蟲の鳴く

 晝の野に來て讀む手紙かな

 

 

夜(よる)おそく戶(と)を繰(く)りをれば

白(しろ)きもの庭(には)を走(はし)れり

犬(いぬ)にやあらむ

 

 夜おそく戶を繰りをれば

 白きもの庭を走れり

 犬にやあらむ

 

 

夜(よ)の二時(にじ)の窓(まど)の硝子(ガラス)を

うす紅(あか)く

染(そ)めて音(おと)なき火事(かじ)の色(いろ)かな

 

 夜の二時の窓の硝子を

 うす紅く

 染めて音なき火事の色かな

 

 

あはれなる戀(こひ)かなと

ひとり呟(つぶや)きて

夜半(よは)の火桶(ひをけ)に炭(すみ)添(そ)へにけり

 

 あはれなる戀かなと

 ひとり呟きて

 夜半の火桶に炭添へにけり

 

 

眞白(ましろ)なるラムプの笠(かさ)に

手(て)をあてて

寒(さむ)き夜(よ)にする物思(ものおも)ひかな

 

 眞白なるラムプの笠に

 手をあてて

 寒き夜にする物思ひかな

 

 

水(みづ)のごと

身體(からだ)をひたすかなしみに

葱(ねぎ)の香(か)などのまじれる夕(ゆふべ)

 

 水のごと

 身體をひたすかなしみに

 葱の香などのまじれる夕

 

 

時(とき)ありて

猫(ねこ)のまねなどして笑(わら)ふ

三十路(みそぢ)の友(とも)のひとり住(ず)みかな

 

 時ありて

 猫のまねなどして笑ふ

 三十路の友のひとり住みかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、歌稿では、最初、

 時ありて猫のまねなどしてみせる友をこの頃哀れと思ふ

と詠んだのを、

 時ありて猫のまねなどして笑ふ三十路の友が酒のめば泣く

と推敲し、初出の明治四三(一九一〇)年八月十五日附『東京朝日新聞』では、

 時ありて猫の眞似などして笑ふ友を此頃哀れと思ふ

と直し、本作品集で、かく改稿したとある。]

 

 

氣弱(きよわ)なる斥候(せつこう)のごとく

おそれつつ

深夜(しにゃ)の街(まち)を一人(ひとり)散步(さんぽ)す

 

 氣弱なる斥候のごとく

 おそれつつ

 深夜の街を一人散步す

[やぶちゃん注:「斥候」敵情や地形などを秘かに探るために差し向けられた兵。]

 

 

皮膚(ひふ)がみな耳(みみ)にてありき

しんとして眠ねむ)れる街(まち)の

重(おも)き靴音(くつおと)

 

 皮膚がみな耳にてありき

 しんとして眠れる街の

 重き靴音

[やぶちゃん注:前歌との組み写真である。]

 

 

夜(よる)おそく停車場(ていしやば)に入(い)り

立(た)ち坐(すわ)り

やがて出(い)でゆきぬ帽(ぼう)なき男(おとこ)

 

 夜おそく停車場に入り

 立ち坐り

 やがて出でゆきぬ帽なき男

[やぶちゃん注:これは実景でもよいが、私は自己写像の客観描写であると断ずる。]

 

 

氣(き)がつけば

しつとりと夜霧(よぎり)下(お)りて居(を)り

ながくも街(まち)をさまよへるかな

 

 氣がつけば

 しつとりと夜霧下りて居り

 ながくも街をさまよへるかな

 

 

若(も)しあらば煙草(たばこ)惠(めぐ)めと

寄(よ)りて來(く)る

あとなし人(びと)と深夜(しんや)に語(かた)る

 

 若しあらば煙草惠めと

 寄りて來る

 あとなし人と深夜に語る

[やぶちゃん注:「あとなし人」浮浪者。]

 

 

曠野(あらの)より歸(かへ)るごとくに

歸(かへ)り來(き)ぬ

東京(とうきやう)の夜(よ)をひとりあゆみて

 

 曠野より歸るごとくに

 歸り來ぬ

 東京の夜をひとりあゆみて

 

 

銀行(ぎんかう)の窓(まど)の下(した)なる

鋪石(しきいし)の霜(しも)にこぼれし

靑(あを)インクかな

 

 銀行の窓の下なる

 鋪石の霜にこぼれし

 靑インクかな

 

 

ちよんちよんと

とある小藪(こやぶ)に頰白(ほおじろ)の遊(あそ)ぶを眺(なが)む

雪(ゆき)の野(の)の路(みち)

 

 ちよんちよんと

 とある小藪に頰白の遊ぶを眺む

 雪の野の路

 

 

十月(じふぐわつ)の朝(あさ)の空氣(くうき)に

あたらしく

息吸(いきす)ひそめし赤坊(あかんぼ)のあり

 

 十月の朝の空氣に

 あたらしく

 息吸ひそめし赤坊のあり

[やぶちゃん注:作歌は明治四三(一九一〇)年十月四日。この日、啄木の妻節子は東京帝国大学構内の医科大学付属病院産婦人科で長男を分娩、「眞一」と名づけた。岩城氏前掲書によれば、六日後の『十月十日』に『盛岡の友人岡山儀七にこの旨を』書簡で『伝え、三首の歌を書きそえているが、その一首がこの歌で』あったとある。]

 

 

十月(じふぐわつ)の產病院(さんびやうゐん)の

しめりたる

長(なが)き廊下(らうか)のゆきかへりかな

 

 十月の產病院の

 しめりたる

 長き廊下のゆきかへりかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『前歌の』『前に掲げられているので、これは愛児の忌まれる前の、妻の安産を祈って産病院の長い廊下をそわそわと行きつ戻りつしている啄木の父親としえの心境を歌ったものと解したい』と述べておられる。]

 

 

むらさきの袖(そで)垂(た)れて

空(そら)を見上(みあ)げゐる支邦(しなじん)人ありき

公園(こうゑん)の午後(ごご)

 

 むらさきの袖垂れて

 空を見上げゐる支邦人ありき

 公園の午後

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で今井泰子氏の評を引用され、この中国人が来ている服の色の『「紫は中国では貴紳が着用する高貴な色であるからこの清国人は相当の家柄のひとであろう。袖垂れているのは平常でも拱手の姿勢をとっている中国人にとってはくつろいだ姿勢であった」と評し、この中国人の着ている中国服は今日の工人服ではなく昔の旗袍(チーパオ)であろうと指摘している』とある。「工人服」は中国で通常の労働者が着ていた作業服で、「旗袍(チーパオ)」は現行では所謂「チャイナドレス」を指すが、ここは男性であろうと私は思うので「満洲服」の意と採る。但し、これは中国人の主体である漢民族の民族服(漢服)ではなく、「満洲人の民族衣装に西洋の要素を融合した服」である。]

 

 

孩兒(をさなご)の手(て)ざはりのごとき

思(おも)ひあり

公園(こうえん)に來(き)てひとり步(あゆ)めば

 

 孩兒の手ざはりのごとき

 思ひあり

 公園に來てひとり步めば

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、作歌は明治四十三年十月十三日夜とする。長男真一は、この五日後の二十七日夜零時過ぎ死亡した。

 

 

ひさしぶりに公園(こうゑん)に來(き)て

友(とも)に會(あ)ひ

堅(かた)く手握(てにぎ)り口疾(くちど)に語(かた)る

 

 ひさしぶりに公園に來て

 友に會ひ

 堅く手握り口疾に語る

[やぶちゃん注:「口疾に」口早やに。岩城氏前掲書によれば、『この友は北原白秋らしく』、啄木死後の『大正十五』(一九二六)『年七月刊行の』「アルス名歌選十三編」の『『石川啄木選集』を白秋が選集したおり、その序文に「彼の死の一年前、私は思ひがけなく浅草のルナパアク園庭で彼と邂逅した事があつた。彼は私を見てやアと顔をかがやかした。而も固く握手しながら口疾に二人は二人はしやべつた。これは彼の歌にもある。」と書いている』とある。『彼の一年前』というのはやや不審であるが(啄木の死去は明治四五(一九一二)年四月十三日で、本歌集刊行はその二年前の明治四十三年十二月一日刊行で、本歌の初出は『創作』明治四十三年十一月号であるから、二人の邂逅はその年の十月以前である)、これはまあ、確かにそれらしくは見える。]

 

 

公園(こうえん)の木(こ)の間(ま)に

小鳥(ことり)あそべるを

ながめてしばし憩(いこ)ひけるかな

 

 公園の木の間に

 小鳥あそべるを

 ながめてしばし憩ひけるかな

[やぶちゃん注:岩城氏は諸資料から、この「公園」は浅草公園とされる。]

 

 

晴れし日の公園に來て

あゆみつつ

わがこのごろの衰へを知る

 

 晴れし日の公園に來て

 あゆみつつ

 わがこのごろの衰へを知る

 

 

思出(おもひで)のかのキスかとも

おどろきぬ

プラタヌの葉(は)の散(ち)りて觸(ふ)れしを

 

 思出のかのキスかとも

 おどろきぬ

 プラタヌの葉の散りて觸れしを

[やぶちゃん注:「プラタヌ」プラタナスであるが、本邦で見かけるのはヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis と同属アメリカスズカケノキ Platanus occidentalis との交配種であるモミジバスズカケノキPlatanus × acerifolia であることが多い。]

 

 

公園(こうゑん)の隅(すみ)のベンチに

二度(にど)ばかり見(み)かけし男(をとこ)

このごろ見(み)えず

 

 公園の隅のベンチに

 二度ばかり見かけし男

 このごろ見えず

 

 

公園(こうゑん)のかなしみよ

君(き)の嫁(とつ)ぎてより

すでに七月(ななつき)來(こ)しこともなし

 

 公園のかなしみよ

 君の嫁ぎてより

 すでに七月來しこともなし

[やぶちゃん注:これについては特異的に岩城氏の前掲書の評釈の総てを引用させて戴く。初出は『創作』『明治四十三年十月号。作歌』は『明治四十三年九月九日夜。この歌で問題になるのは「君の嫁ぎて」の「君」であろう。啄木の閲歴の中で「君」と歌われ親しまれているのは橘智恵子、堀田秀子、小奴(近江ジン)の三人である。この作歌は九月であるから』、『その「七月」前は明治四十三年二月ということになる。しかし橘智恵子と堀田秀子はこの時期結婚していない。とすると芸者小奴ということになる。彼女は当時釧路で大阪炭鉱を経営する大阪鉱業会社の重役逸見豊之輔の愛人であったが、明治四十三年一月二十八日逸見の子の貞子を生んだ。したがってこの歌のモデルは小奴で、正式の結婚ではないが、その直後逸見の子供をもうけたことを知った啄木がその事実を「嫁ぎて」と表現したのであろう。啄木は以後小奴と疎遠になるが、彼の胸中には失われた美しい面影に対する無限の哀惜があったことをこの一首は物語っている』とある。]

 

 

公園(こうゑん)のとある木蔭(こかげ)の捨椅子(すていす)に

思(おも)ひあまりて

身(み)をば寄(よ)せたる

 

 公園のとある木蔭の捨椅子に

 思ひあまりて

 身をば寄せたる

[やぶちゃん注:前歌と同じ日の創作であり、組写真と考えてよい。]

 

 

忘(わす)られぬ顏(かほ)なりしかな

今日(けふ)街(まち)に

捕吏(ほり)にひかれて笑(ゑ)める男(をとこ)は

 

 忘られぬ顏なりしかな

 今日街に

 捕吏にひかれて笑める男は

 

 

マチ擦(す)れば

二尺(にしやく)ばかりの明(あか)るさの

中(なか)をよぎれる白(しろ)き蛾(が)のあり

 

 マチ擦れば

 二尺ばかりの明るさの

 中をよぎれる白き蛾のあり

[やぶちゃん注:「マチ」。マッチ(match)。燐寸。]

 

 

目(め)をとぢて

口笛(くちぶえ)かすかに吹(ふ)きてみぬ

寐(ね)られぬ夜(よる)の窓(まど)にもたれて

 

 目をとぢて

 口笛かすかに吹きてみぬ

 寐られぬ夜の窓にもたれて

 

 

わが友(とも)は

今日(けふ)も母(はは)なき子(こ)を負(お)ひて

かの城址(しろあと)にさまよへるかな

 

 わが友は

 今日も母なき子を負ひて

 かの城址にさまよへるかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、「城址」は盛岡城(不来方(こずかた)城)とする。また、『「一握の砂」第五章「手套を脱ぐ時」はこの歌をもって終わる予定であったが、歌集の校正刷を見た十月二十九日が、愛児真一の火葬の日であったため』、『挽歌七首を追加し』たとある。

 

 

夜(よる)おそく

つとめ先(さき)よりかへり來(き)て

今(いま)死(し)にしてふ兒(こ)を抱(だ)けるかな

 

 夜おそく

 つとめ先よりかへり來て

 今死にしてふ兒を抱けるかな

 

 

二三(ふたみ)こゑ

いまはのきはに微(かす)かにも泣(な)きしといふに

なみだ誘(さそ)はる

 

 二三こゑ

 いまはのきはに微かにも泣きしといふに

 なみだ誘はる

 

 

眞白(ましろ)なる大根(だいこん)の根(ね)の肥(こ)ゆる頃(ころ)

うまれて

やがて死(し)にし兒(こ)のあり

 

 眞白なる大根の根の肥ゆる頃

 うまれて

 やがて死にし兒のあり

 

 

おそ秋(あき)の空氣(くうき)を

三尺(さんじやく)四方(しはう)ばかり

吸(す)ひてわが兒(こ)の死(し)にゆきしかな

 

 おそ秋の空氣を

 三尺四方ばかり

 吸ひてわが兒の死にゆきしかな

 

 

死(し)にし兒(こ)の

胸(むね)に注射(ちうしや)の針(はり)を刺(さ)す

醫者)(いしや)の手(て)もとにあつまる心(こころ)

 

 死にし兒の

 胸に注射の針を刺す

 醫者の手もとにあつまる心

[やぶちゃん注:詮無いカンフル注射である。「注射」の歴史的仮名遣は「ちゆうしや」で構わない。]

 

 

底知(そこし)れぬ謎(なぞ)に對(むか)ひてあるごとし

死兒(しじ)のひたひに

またも手(て)をやる

 

 底知れぬ謎に對ひてあるごとし

 死兒のひたひに

 またも手をやる

 

 

かなしみの强(つよ)くいたらぬ

さびしさよ

わが兒(こ)のからだ冷(ひ)えてゆけども

 

 かなしみの强くいたらぬ

 さびしさよ

 わが兒のからだ冷えてゆけども

 

 

かなしくも

夜明(よあ)くるまでは殘(のこ)りゐぬ

息(いき)きれし兒(こ)の肌(はだ)のぬくもり

 

 かなしくも

 夜明くるまでは殘りゐぬ

 息きれし兒の肌のぬくもり

 

 

 

             ――(をはり)――

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥付であるが、リンクで示し大方をここで述べて省略する。クレジットは、

 明治四十三年十一月廿八日印刷

 明治四十三年十二月 一 日發行

で、「著者」は

             石川 啄木

「發行者」は

             西村寅次郞

「發行所」は。

 東京市京橋區南傳馬町三丁目十番地

             東雲堂書店

で、「定價金六拾錢」とある。因みに、奥附裏には啄木の詩集「あこがれ」の広告が載り、後に同書店の広告が連なる。]

三州奇談卷之三 鞍岳の墜棺

    鞍岳の墜棺

 鞍岳(くらがたけ)は金城の西南にして、高雄山の峯つゞきなり。近鄕の高山奇靈の地、絕頂に池ありて暑天にも渴せず。次の池は大きなる堤にして、山彥に奇怪あり。蓴菜(ねなは)の名所にして、夏日遊人多き所なり。

[やぶちゃん注:標題は「くらがたけのおちくわん」と読んでおく。なお、本篇は既に「柴田宵曲 續妖異博物館 空を飛ぶ話(4)」の注で電子化しているが、今回は底本が異なる。

「鞍岳」現在の石川県金沢市倉ケ嶽(山頂付近は白山市との市境に近い)のにある倉ヶ岳(標高五百六十五メートル。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「金城の西南」とあるが、ほぼ南である。

「高雄山」ほぼ北五キロメートルほど離れた石川県金沢市高尾町の高尾城跡のある丘陵部。

「絕頂に池ありて暑天にも渴せず。次の池は大きなる堤」上記の地図上でも判る通り、倉ヶ岳山頂直近の岩場の東には「大池」がある。しかし、この記述では頂上にまず小さな池があって、「次の池」というのが、この有意に大きな「大池」であると読める。そこで国土地理院図で拡大してみると、山頂から東北に少しなだらかに下った近くに小さな池が現認出来た。

「蓴菜(めなは)」読みは「三湖の秋月」に出た原写本の読みを使用した。国書刊行会本は『じゆんさい』と振るが、これは編者によるもので採らない。スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi。]

 是(これ)昔富樫次郞政親布市(ぬのいち)の館(たち)を離れ、高雄の城に籠りて一揆に敵す。智勇用ひ盡すといへども、寡(か)は衆(しゆう)に敵し難く、終に詰(つめ)の丸なる此(この)鞍ケ嶽の山上に乘上(のりあが)り、敵洲崎和泉入道慶覺が家臣水卷小助と馬上ながら組みて、兩馬終に此池に沈む。其後(そののち)、此池に朱塗の鞍ありて、往々水上に浮ぶ。「是此池の主なり」と云ふ。人恐れて水に入らず。

[やぶちゃん注:「富樫次郞政親」(康正元(一四五五)年?~長享二(一四八八)年)は、室町後期の武将。富樫氏二十一代当主にして加賀国守護。『富樫成春の子として』生まれ、『父同様、室町幕府』第八代将軍『足利義政より偏諱を受けて政親と名乗』った。長禄二(一四五八)年、『加賀北半国守護に任じられた赤松政則から加賀北部を取り戻すため、家臣団に擁されて奪回に尽力した。応仁元』(一四六七)年に「応仁の乱」が『勃発すると』、『細川勝元方の東軍に与した。ところが、弟』『幸千代が山名宗全方である西軍に与して敵対したため、政親は家督をめぐって弟と争う羽目となり、文明』五(一四七三)年に『真宗高田派門徒や甲斐敏光と結んだ幸千代に敗れて加賀を追われた。しかし』、『浄土真宗本願寺派門徒などの援助』や『加賀国内における武士団の支持を得て、幸千代を加賀から追い出し』、『再び当主の座に就いた』。『しかし、この奪回において本願寺門徒の力を知った政親が次第に本願寺門徒とそれに繋がる国人を統率しようと企てたため、本願寺門徒と国人』『が互いに結びつく』結果となり、『政親は』第九代将軍『足利義尚による』「鈎の陣」(六角高頼討伐)に『従軍していたが、急遽』、『帰国』した。しかし長享二(一四八八)年、『石川郡高尾城を攻められ、これを抑えられずに自害した(加賀一向一揆)』。『家督は大叔父』『泰高が継いだが、加賀の実質的な支配権を握ることはできなかった。以後』、天正八(一五八〇)年に織田信長に敗れるまでの九十年もの間、『加賀は』「百姓の持ちたる国」と『呼ばれる状況となった』とある。この終焉の地である高尾城(当時は「たこじょう/たこうじょう」と呼ばれたらしい)は先に「高雄山」で示した。なお、彼は高尾城を捨てて南下し、鞍ヶ嶽城に入って、この大池(現在のそれは農業用用水として完全な堤を有する)で討ち死にしたという伝承も確かに存在する。

現在、石川県白山市布市があるが、古くは現在のその東方の野々市市の一部をも含む広域が「布市」であったらしい(サイト「地名の由来」の「野々市」に拠る)。

「洲崎和泉入道慶覺」富田景周氏の「越登賀三州志 その1 注釈c」というページに「洲崎泉入道慶覚坊」について書かれてある。『一揆の俗人武士だが、彼には間違った説が非常に多い。あるいは和泉守と書き、あるいは鏡覚と書く。賊の首領ということで是正する必要もないというが、私(富田景周)はその履歴をここに記す』。『慶覚坊は近江の出身で洲崎兵庫といい、蓮如の弟子となる。河北郡松根に館を構え、森下・柳橋・小坂・大樋(全て現金沢市浅野川以北の北国街道沿い)まで押領したと言われており』、天文一九(一五五〇)年の『史料にある』。『また、石川郡米泉に住んで、西泉・泉野の』三『泉(現金沢市犀川以南、伏見川流域周辺)を領地とし、金沢御坊とされる本源寺と威勢を争い、その故に自ら「泉入道」と僭称した。それを後世の人が「和泉守」と記すのは間違いである』。『高尾城の落城後、自分の道場を米泉に構え、蓮如から授かった行基作の阿弥陀如来像を安置した』。『慶覚坊の墓は、今(江戸時代)でもなお米泉にある。また慶覚坊は、今の金沢百姓町(現金沢市幸町)慶覚寺』(現存する)『の開祖である。米泉の道場を数十年の後、寛永年間』(一六二四年~一六四五年)『に百姓町へ移したとされる』。『慈雲寺本に、加賀国石川郡米泉村に住み、泉野郷を領地として、後に金沢御坊の本源寺と威勢を争う。あるいは、河北郡大樋・小坂・柳橋・森下まで兵庫の押領地と言われる』。『考えるに、泉入道とは彼が泉野郷を領したために自ら僭称したものを後世の人が誤って和泉守などとしたもので、笑ってしまう、とある』とある。

「水卷小助」不詳。]

 此池鶴來村の金劔宮(きんけんぐう)「砥(と)の池」に水通ず。故に糠(ぬか)を蒔きて見るに、必ず數里の山谷を隔てゝうかみ出づと云ふ。

 實(げ)にも山上の古池臨むも恐しげなるに、金澤の俠士行きて水に入る者あり。然共(しかれども)底を盡して歸る者なかりしに、山王屋市郞左衞門と云ふ者よく底をさがしけるに、折懸灯籠(をりかけどうろう)に灯をともしてありしを見たり。

「池底に灯のあるべき事なし」

と不審して歸りしが、程なく家に死したりと云ふ。是も怪異の池故なるべし。

[やぶちゃん注:『鶴來村の金劔宮(きんけんぐう)「砥(と)の池」』前の「白山の梟怪」に既出既注。実際、金劔宮は倉ヶ岳の南西の山麓直下にある

「折懸灯籠」お盆の魂祭に用いる手作りの灯籠。細く削った竹二本を交差させて折り曲げ、四角のへぎ板の四すみに刺し立てて、その周囲に白い紙を張ったもの。参照した「精選版日本国語大辞典」に図がある。

「山王屋市郞左衞門」不詳。]

 元文年中、金澤に廣瀨何某といへる鷹匠あり。同輩四五人をいざなひて此邊に至りしに、頃は六月の夕立雲此峰におほひ、咫尺(しせき)の間も闇夜の如く、雨盆を傾くるが如く降來りしかば、或古木の本(もと)に隱れて晴行く空を待ちけるに、忽ち闇雲の中一塊の風筋ありて、

「りう」

と響きけるが、何かは知らず此池水へ

「どう」

と落(おつ)る物あり。暫くして雨晴れ退(の)きければ、今の響きを怪みて池上を見やりたるに、新しき棺桶ひとつ浮びありしかば、岸に引寄せ打明けて見たるに、死骸はなし。

「さるにてもいかなる事ぞ」

と、空しく興盡(つき)て金澤へ歸りしに、廣岡町の竹屋次郞兵衞と云ひし者は、其日屋根をふきて居(ゐ)たりしに、是(これ)も其頃くらき雲の一通り懸りし程に、

「ふしぎなり」

と振仰向(ふりあふぎむ)きしに、裸躰(らたい)の男一人引提(ひつさ)げられたる如く、雲中を叫び行きたるを見たりしと云ふ。

 是又同(おなじ)刻限なり。

 「火車」出現も目(ま)のあたりにや。

「此(この)つゞき硫黃山(いわうやま)の池にも、何れの年かゝる怪ありける」

と咄(はなし)人口(じんこう)にあり。

 去れば中院僧都、少しの執念により死して魔道に生じ、慶圓大德(だいとこ)に逢ひて問答し、彼(か)の大德の威を崇め敬ひければ、大德の曰く、

「貴僧魔界に落ちて何を以て所作(しよさ)とする。」

僧都の曰く、

「我徒數千人只(ただ)人の臨終を窺(うかが)ひ、變異を以て災害をなす。しかも碩師(せきし)宿德の人少しも慢心あれば、殊更に以て窺ひ易し」

と云ひけるとかや。

 實(げ)にも少しの慢心も恐るべき事にこそ。况や英雄功ならずして無念の死をなす。魔魅に落ちて殘魂の怪をなすも又怪(あやし)むべからず。

[やぶちゃん注:「元文」一七三六年~一七四一年。

「廣岡町」石川県金沢市広岡町。現在の金沢駅直近。

「竹屋次郞兵衞」不詳。

『「火車」出現も目(ま)のあたりにや』火車は本邦の妖怪。ウィキの「火車」によれば、『悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる』。『葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、伝承地は特定されておらず、全国に事例がある』。『正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又が正体だともいう』。『昔話「猫檀家」などでも火車の話があり、播磨国(現・兵庫県)でも山崎町(現・宍粟市)牧谷の「火車婆」に類話がある』。『火車から亡骸を守る方法として、山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡、富士河口湖町)で火車が住むといわれる付近の寺では、葬式を』二『回に分けて行い、最初の葬式には棺桶に石を詰めておき、火車に亡骸を奪われるのを防ぐこともあったという』。『愛媛県八幡浜市では、棺の上に髪剃を置くと』、『火車に亡骸を奪われずに済むという』。『宮崎県東臼杵郡西郷村(現・美郷町)では、出棺の前に「バクには食わせん」または「火車には食わせん」と』二『回唱えるという』。『岡山県阿哲郡熊谷村(現・新見市)では、妙八(和楽器)を叩くと火車を避けられるという』とあって以下に「古典に登場する火車」を要約して載せる。本篇の棺桶と空飛ぶ阿鼻叫喚する亡者(?)という空間を隔てた同時刻の出現の組み合わせから、『これら二つの事実は実は死体を奪う「火車」の出現したのを目の当たりにしたものだったのだろうか?』と言っているわけである。ただ、どうも私の認識している「火車」はそれとは異なる。私のそれは火を灯した「片輪車」の怪異が「火車」に相応しいからなのである。そもそも上記の妖怪、名前の「火」も「車」も具体的な実像と全く繋がっていないことが大いに不満なのである。私の「片輪車」の電子化した例は沢山あるのだが、まずは挿絵入りの「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」を嚆矢としてよかろう。多くは炎を上げる一輪(いちりん)の車が転がってくるのだ。しかもその軸受中央には恐ろしい生きた首(男の場合や女の場合がある)が一つついており、車輪は概ね人体の一部を引っ張っていたり、それを覗いてしまった者の子などの体を捥ぎ取ってゆくのである。ややほっとするタイプに改変されているものが、「諸國里人談卷之二 片輪車」である。「柴田宵曲 續妖異博物館 不思議な車」がこうした怪車の怪奇談を上手く集成している。そこにも「平家物語」の清盛の悪夢として挙がっているが、もう一つ別な悲惨な「火車」のイメージがある。所謂、地獄の責め苦としての「火車」で、「諸國百物語卷之五 二 二桝をつかいて火車にとられし事」がそれだ。私はともかく、死体を盗んで食う「火車」という妖怪にこの名を冠するのは間違っていると思って譲らない人間なのである。

「此(この)つゞき硫黃山」不詳。現行の山岳地図を見ても見出せない。前に出た医王山(いおうぜん)では倉ヶ岳や高尾山からは東北に離れ過ぎていて峰続きとはちょっと言い難い。しかし、既に前の「金莖の溪草」で検証した通り、山頂付近に「竜神池」があることはある。

「中院僧都、少しの執念により死して魔道に生じ、慶圓大德に逢ひて問答し」この「慶圓」は鎌倉初期に神仏両部思想を確立し、三輪神道の創始者とされる法相・真言僧慶円(けいえん/きょうえん 保延六(一一四〇)年~貞応二(一二二三)年)。別名を「三輪上人」とも言う。ウィキの「慶円」によれば、『九州豊前国の大伴氏につながる菊地家の出身。上賀茂神社の神宮寺を建てていることから』、『鴨氏(三輪氏)との深い関わりがあるものと考えられる』。建長五(一二五三)年に『書かれた「三輪上人行状記」に、三輪上人(慶円)は、惣持寺の本尊・快慶作』の『薬師如来の開眼導師を解脱上人貞慶に依頼され行ったとあるように貞慶解脱上人とは無二の親友であった』。『法相学を学び』、後に『東密広沢流を学び、また、金剛王院流も修学した。三輪別所(のち平等寺)を創建』し、建保五(一二一七)年に東寺・仁和寺と『ともに京都三弘法の』一つである『神光院を上賀茂神社北西に開創して』おり、『上賀茂神社(京都市北区)でも奉られ』たとある。そこに出た「三輪上人行状記」というのは読んだことがないが、苅米一志氏の論文『「三輪上人行状」の形成と構造』(『就実大学史学論集』(第三十二号二〇一八年三月発行・こちらでPDFでダウン・ロード可能)という論文を読むに、ここに書かれている内容は、その「三輪上人行状記」の第二部に当たるパートが元であることが判る。同論文の『三、「行状」の構造と論理』の『(1)「行状」の構造』の部分に、

   《引用開始》

第二部は、病魔である高僧との対話と灌頂を記したもので、第二段の阿曽宇陀源二入道[やぶちゃん注:「あそうだげんじにゅうどう」か?]子息・尭信房の病魔(中院某僧都の霊)との対話、第三段の多武峰方等房の病魔(覚鑁[やぶちゃん注:「かくばん」。]の霊)との対話、第十四段の大和国泊瀬河党[やぶちゃん注:「はつせがわとう」と読んでおく。]息女の病魔(良源の霊)との対話から成る。慶円は、病者と対話し、憑依した主体(魔道に堕ちた歴代の高僧。中院某僧都・慈恵大師良源など)から名乗りを引き出した上で、印信の伝授、灌頂などにより彼らを魔道から解放している。それと引き換えに脱魔道の確約を得て、慶円自身が堕魔道・脱魔道の審級者となる過程が述べられている。

   《引用終了》

この『魔道に堕ちた』『高僧』『中院某僧都』というのが、この「中院僧都」と判明する。

「碩師」大学者。

「英雄功ならずして無念の死をなす。魔魅に落ちて殘魂の怪をなす」ここに至って筆者はこの棺桶と空中を飛ぶ亡者(?)怪異の首魁を討死にして大池に沈んだ富樫政親が魔魅となって起こしているのだと断じていることが判る。]

三州奇談卷之三 白山の梟怪

     白山の梟怪

 加州一の宮白山比賣(しらやまひめ)神社は、神祕菊理媛(きくりひめ)と稱し奉り、神代よりの鎭座なり。

[やぶちゃん注:標題は「はくさんのけうくわい(きょうかい)」と読んでおく。狭義にはフクロウ目フクロウ科フクロウ属フクロウ Strix uralensis であるが、ここはフクロウ科 Strigidae に属する種群と言っておく。正しく同種であるとすると、本州中部を棲息域とするモミヤマフクロウ Strix uralensis momiyamae の可能性が高くなる。日本と中国では古くからあの鳴き声の不気味さと、「母親を食べて成長する」と考えられていたことから「不孝鳥」の冤罪の汚名を冠することが多く、晒し首の異名「梟首」も災いして、嘗てのイメージは悪い方に傾きがちであったと言える。博物誌は私の和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ)(フクロウ類)」を参照されたい。

 

「白山比賣神社」石川県白山市三宮町にあり、現行では白山比咩神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)と表記する。加賀国一の宮。白山(はくさん)山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る。ウィキの「白山比咩神社」によれば、『元は、手取川の畔にある現在の古宮公園の場所に鎮座していたが、室町時代に火災で焼失し、現社地に遷座した。また白山山頂の御前峰には奥宮も鎮座し、山麓の社殿はこれに対して「下白山」または「白山本宮」と呼ばれていた』。『社伝由緒によれば、崇神天皇の時代に白山を遥拝する「まつりのにわ」が創建された。元正天皇の霊亀』二(七一六)年に『安久濤』(あくど)『の森に遷座して社殿堂塔が造立された、と伝わる』とある。

「菊理媛」「くくりひめ」とも呼ぶ。ウィキの「菊理媛神」によれば、「古事記」には登場せず、「日本書紀」の『一書(第十)に一度だけ出てくるのみである』。『神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した』が、『泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、伊弉冉尊と口論になる』。『そこに泉守道者』(よもつちもりびと:黄泉比良坂の番人)『が現れ』、『伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った』。『つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、とある』。『菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない』。『この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。 夜見国で伊弉冉尊に仕える女神とも』、『伊奘諾尊と伊弉冉尊の娘』とも、伊弉冉が「故(かれ)、還らむと欲(ほ)ふを、且(しばら)く黃泉神(よもつかみ)と相論(あひあらそ)はむ」(「古事記」)『と言及した黄泉神』(伊弉冉以前の黄泉津大神)とも、『伊弉冉尊の荒魂(あらみたま)もしくは和魂(にぎみたま)』『あるいは伊弉冉尊』『の別名』『という説もある。いずれにせよ菊理媛神(泉守道者)は、伊奘諾尊および伊弉冉尊と深い関係を持』っており、『また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことから』、『シャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。ケガレを払う神格ともされる』。『神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる』。『菊花の古名を久々(くく)としたことから「括る」に菊の漢字をあてたとも』、『また菊花の形状からという説もある』、『菊の古い発音から「ココロ」をあてて「ココロヒメ」とする説もある』。『他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜(くく)り/潜(くぐ)る」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある』。『なお、神代文字で記されているとされる』「秀真伝」(ほつまつたえ)には、『菊理媛神が、天照大御神の伯母であるとともにその養育係であり、また万事をくくる(まとめる)神だと記されている』(本篇の次で「天照大神の母神」と言っているのはその敷衍であろう)。『白山比咩神と同一とされるようになった経緯は不明である。白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の祭神について、伊奘諾尊・伊弉冉尊と書物で書かれていた時期もあ』り、『菊理媛を白山の祭神としたのは』、平安後期の公卿で儒学者であった大江匡房が「扶桑明月集」の『中で書いたのが最初と言われている』とある。]

「人を惠む佛が神のははそばら、紅葉も雪も深き白山」

と、本地堂(ほんぢだう)の奉納あり。むべ此神は天照大神の母神にてましませばこそ、斯はよみけん。其地は金城を隔つる事四里。麓に鶴來村あり。當國一の名酒を出し、巨家の酒店軒を並べ、四八(しはち)を市日(いちび)として、此山人の村々、爰に會す。

[やぶちゃん注:「本地堂」ウィキの「白山比咩神社」によれば、『白山本宮の社殿堂塔復興は、安土桃山時代に正親町天皇から白山宮復興の綸旨を受けた前田利家により』、『避難先の三宮の地で再建が始まり』、文禄五(一五九六)年に『竣工した』。『再建後の江戸時代は加賀藩主が神社の経営をみ、加賀一ノ宮・白山本宮である当社』『の神社社殿、そして社頭境内北側には神宮寺として』白山寺本地堂『(現在の北参道境内・白光苑周辺)が建立された。この時代、白山比咩神社は小松の天満宮と共に前田家にとって特別な存在であり』、『白山寺は江戸時代中頃に社の経営を』行った『加賀藩前田家が珠姫の菩提寺高野山天徳院の大檀那である縁で』、『真言宗に転じたと伝わる』。明治の廃仏毀釈により神宮寺であった白山寺は廃されて本地堂も現存しない

「鶴來村」石川県の旧石川郡鶴来町附近。現在、白山市。この附近。]

 「金剱(きんけん)の宮」に「砥(と)の池」あり、靈異尤も多し。又古城跡は怪巖亂れ崩れ、是(ここ)昔、高畠(たかばたけ)石見守住せしとかや。前は手取川の水逆卷き、直に海に下る。北陸道第三の大川なり。見るに肝すさまじく、目をとゞろかして流ると云ふべし。其間の岡は此神社なり[やぶちゃん注:地形から見て前の白山比咩神社のことであろう。]。

「山成向背斜陽裹、水似回流迅瀨間」

とは爰の景を述ぶるにこそ。地靈と云、神威と云、奇特(きとく)詞(ことば)に述べ難し。鹿(しし)を喰うて登山して、風雨の爲に追下(おひくだ)されたる事もあり。非道の立願(りふぐわん)して、卽時に罰を蒙りし類(たぐひ)多し。卷中に見るべし。

[やぶちゃん注:「金剱の宮」白山市鶴来日詰町にある金剱宮(きんけんぐう)。「石川県神社庁」公式サイト内の同宮の解説によれば(地図あり)、『古代出雲文化が早く海岸線を経て能登地方に及んだのに対し、この地方は大和文化の拠点であるばかりでなく、総じて県内では最も古い文化の発祥地であるから』、『神社の由緒でも有名なことがらを数多く残している。中世以来白山七社の一に数えられ、そのうち白山本宮・三宮・岩本とともに本宮四社といわれていた。神仏習合の当時、いわゆる七堂伽藍雲表にそびえ神官社僧、即ち神人衆徒多数をようしていた。安徳天皇の』寿永二(一一八三)年五月、『源義仲が倶利伽羅谷で平家の軍勢を打ち破ったが、これを金劔宮の神恩として、鞍置馬』二十『頭と横江庄を寄進し、それから』三『年の後、後鳥羽天皇』の文治二(一一八六)年二月十日には、『源義経が』奥州逃避行の途次、『本社に参拝一泊し、神楽を奉納している他、足利・富樫・前田等、歴代武門藩主の崇敬が篤かった』。『なお、和銅年間』(七〇八年~七一五年)『に当宮のご分霊を奉戴して移住したといわれる岐阜県郡上郡大和町字「劍」には現に金劍神社(こんけんじんしゃ)があり、御祭神も同一である。最近になり』、『福井県遠敷郡上中町武生にも金劔神社(かねぎじんじゃ)の存在が明らかとなった』とある。

「砥の池」ウィキの「金剱宮」によれば、「天乃真名井(あめのまない)」を挙げ、『金剱宮の境内に湧く泉。天の真名井』『は天平年間』(七二九年~七四九年)『から伝わる古池とされる。戸の池、殿池とも言われた時代があり、「三州名蹟誌」等にも記録があ』り、大旱魃の『時も長雨の時も変わらぬ水量で知られる』。『「明星水」「天忍石水」として住民からの尊敬も篤い』とある。

「古城跡」鶴来地区の市街地の東南の舟岡山頂にある舟岡山城跡であろう。前田利家が金沢城に入城後、利家の家臣であった高畠石見守定吉(さだよし 天文五(一五三六)年~慶長八(一六〇三)年:尾張出身。前田利家に仕えて戦績を重ねた。利家の妹津世姫(長久院)を夫人に迎えている。他にも七尾城・越中宮崎城などの守将を務め、利家股肱の臣の一人として北陸攻略・鎮定に寄与した。利家の死後は息子の前田利長に仕え、「関ヶ原の戦い」の際には金沢城の留守を任されている。慶長四(一六〇二)年に致仕し、剃髪して京都に隠棲した。以上はウィキの「高畠定吉」に拠る)が入っている。慶長六頃、廃城となった。

「目をとゞろかして流る」何だか謂いがおかしい。国書刊行会本は『日蕩して』(ひとろかして)「近世奇談全集」では『目を蕩(とろ)かして』である。前が「見る」であるから、「目」はダブる感じが否めない。激流に陽が当たるのを見ると、太陽の光をそこにとろかして流しているように見えるという意味で、国書刊行会本を採りたい。

「山成向背斜陽裹、水似回流迅瀨間」自然流で訓読すると、

 山 向背に成る 斜陽の裹(うち)

 水 回流に似る 迅(と)き瀨の間(くわん)

か。

「鹿」「しし」は私の読み。獣。猪や鹿。]

 されば代々の國主崇敬を加へ給ひければ、莊嚴(しやうごん)巍々(ぎぎ)としていらか珠をのべたり。

[やぶちゃん注:国書刊行会本は頭の部分は『去(され)ば代々の国主崇敬を加へ、神威益々いちじるく、貴賤あゆみをはこぶ事最然也(なり)。年每に修造を加へ給ひければ、』となっている。

「巍々」厳(おごそ)かで威厳のあるさま。]

 御年[やぶちゃん注:ママ。国書刊行会本は『或年(あるとし)』。]、例の如く嚴命として、榊原市郞左衞門・崎田(さきだ)市三郞兩人奉行として、城下より數多(あまた)の番匠を召具し、此白山の神社に至りて修理あり。然るに諸職人共、晝は造作をなすと云共、夜は皆里に下りて宿りぬ。工匠の具悉く爰に在るを以て、小遣の男兩人を留(とど)めて非常を守らしむ。

[やぶちゃん注:「榊原市郞左衞門」藩士に数人の榊原姓あり。

「崎田市三郞」「加能郷土辞彙」のこちらに「崎田伊織」(さきだいおり)を挙げ、『伊豫西條城主一柳直興の金澤に御預となつた時附隨して來た人。直興逝去の後、伊織の子市三郞は堀田綱紀に召出されて二百石を賜ひ、本組與力となり、子孫相繼いだ』とある、その人物か子孫であろう。]

 然るに小夜更(さよふく)る頃、松風蕭颯(せうさつ)として哀猿(あいえん)嶺(みね)に叫ぶ聲いとゞかなしく、秋の夜のいねがてなる儘に、彼(かの)男拜殿に這出で、打仰ぎ見るに、良夜にして一點の雲もなく、月皎々としていまだ半天に懸り、松枝を交へ、古木しんしんとして誠に神さび、心もすみ渡る樹上に梟の宿(やど)して鳴くこと頻(しきり)なり。

 いと物すごかりしに、一人の男天性輕忽(けいこつ/きやうこつ)[やぶちゃん注:「軽率」に同じい。]なる者なれば、只一聲應じて彼(かの)鳥の眞似をなしけるに、怪しや此鳥梢を離れて、近く社頭の棟に下(お)り鳴くこと頻なり。

 彼男も興ある事に思ひ、重ねて應ずるに、次第に近く來(きたり)て、庭に下り鳴くこと元の如く、斯くして聲を爭ひしに、爰の嶺(みね)彼處(かしこ)の梢より、數多の梟おり來て、社頭の瑞籬(みづがき)・欄干・おばしまに充ち滿ちて其數幾千羽と云ふことを知らず。

 爰に至りて彼者大(おほき)に驚き怖れ、いかんおもすることなし。

 今一人の男竟に走りて、此怪を社司に告ぐる。

 神主曰く、

「時として如ㇾ此(かくのごとき)奇事あり。若(も)し人爭ひ負(まく)る時は、必ず死亡の災(わざはひ)ありと云ふう傳へり。いざや里人を語らひ、此害をまぬかれしめん」

と俄に數輩をかり催して、面々聲の限りおめき叫びて爭ひける程に、漸々(やうやう)夜も東雲(しののめ)の頃にもなれば、怪鳥どもはちりぢりに立去りて、程なく曉の鐘も鳴りしに、遂に一羽も見へず成りにける。

 是陰鳥の故にや。

「人の寐言にこたへて負(ま)くれば害あり」

といふ。

「山陰の地にはかゝる怪も有にや」

と此(この)奉行榊原氏の物語なり【神主家系は下道(しもつみち)なり。建部(たけべ)・椋部(くらべ)の二家なり。今建部一家となる。椋部は浦方の在名に殘ると云ふ。】

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。

「蕭颯」現代仮名遣「しょうさつ」。もの寂しいさま。特に秋風が吹いて心細いさま。

「下道」下道氏は古代の備中国・吉備国の豪族で吉備氏の系統で、吉備真備の本姓も下道である。

「建部」ウィキの「建部氏」によれば、『著名な建部氏としては、日本の古代氏族の一つである建部氏がある。日本武尊の名代部(ヤマトタケルノミコトを奉斎する軍事的部民)で、倭建尊から建部を正字とする』。「日本書紀」や「出雲国風土記」あり、『古代大和朝廷から各地に配置された屯田兵のような軍事集団であったとされる』とある。この「建部」がそれであるかは不明。

「椋部」飛鳥時代の官吏で、椋部秦久麻(くらべのはたくま)という人物がいる。推古天皇三〇 (六二二) 年、聖徳太子の死後、妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が太子を偲んで作らせた「天壽國曼荼羅繡帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」の製作監督を務めたと伝えられる。この「椋部」がそれであるかは不明。

「椋部は浦方の在名に殘る」嶋田良三氏のサイト「ののいち地域事典」のこちらの「石川郡」に、『石川郡が一郡として、はじめておかれたのは、八世紀の弘仁十四年(八二三)六月という』とされ、「日本紀略」に『「加賀郡管郷(かんごう)十六、駅四のうち、八郷一駅をさいて石川郡をおく、地広く人多きゆえなり」とかかれてありますように、石川郡は加賀郡(後の河北郡)から別れておかれた郡です』。『石川郡がおかれたときの八郷一駅というのは、古い書物によりますと、富樫(とがし)、中村(なかむら)、椋部(くらべ)、三馬(みんま)、拝師(はやし)、井手(えて)、味知(みち)、笠間(かさま)の八郷と比楽(ひらか)の一駅であったろうといわれています』とある。ここでは「くらべ」の読みであるが、実際「椋部」は「くらべ」とも読む。而して海浜に白山市倉部町が現存し、ここは鎌倉時代には「椋部」の表記で記録がある地名である。]

2020/02/23

三州奇談卷之三 聖廟の夢想 (注で甚だ勘違いが多いことに気づいたので大幅に改稿した)

 

三 州 奇 談 卷三

 

    聖廟の夢想

 加越能三州の大守正三位菅原利常卿は、正しく菅原の苗裔として、元祖大納言利家卿より連綿北陸の藩鎭なれば、武威最も盛(さかん)にして、諸國風を仰ぎ、知士百巧皆至る。されば遠く祖神の威を輝し、明曆三年小松の城北に一基の社頭を造立し、天滿神の眞像を勸請あり。洛北松梅院より連歌の宗匠たるべきを招き給ふ。則(すなはち)能順法師を以て永く此社の別當職に補せられ、彌々(いよいよ)拜崇の禮を盡し給ふ【能順は宗祇以來の名人、一代の句「連玉集」に出づ、略す。今の梅林院の祖なり。】

[やぶちゃん注:【 】内は二行割注。

「菅原利常」前田利家の四男で加賀藩第二代藩主前田利常(文禄二(一五九四)年~万治元(一六五八)年)。藩祖利家は前田家を菅原道真の子孫と称した。但し、これは史実かどうかは全く不明である。

「明曆三年」一六五七年。

「小松の城北に一基の社頭を造立し、天滿神の眞像を勸請あり」現在の小松城址の梯川(かけはしがわ)の東北(鬼門)対岸の小松市天神町にある小松天満宮(グーグル・マップ・データ)。サイト「まるごと・こまつ・旅ナビ」の同神社の解説によれば、『小松天満宮』はここに出る「梅林院」『(宮司宅)とともに造営された。その目的は、小松城、金沢城の鬼門の線上に正確に造営する事によって、怨霊から加賀藩を守ることだったといわれて』おり、『小松城の表鬼門にあたる艮(うしとら=北東)の方向に、守山城、金沢城、小松城を』一『本の線で結ぶ直線上に立地している。当時は病気や地震、台風等の天災などは怨霊が引き起こすものと考えられ、最も嫌われたのが鬼門という方角だった。小松天満宮はその鬼門鎮護のために造営された、加賀藩にとっては非常に重要な神社だった』。『小松天満宮の祭神は学問の神として知られている菅原道真公。前田家は菅原道真公を祖先と称したため、天皇家の祈願所であった京都北野天満宮から御祭神を遷座する事ができた。別当には北野天満宮から、当時の連歌の第一人者であり』、『都で上皇や公卿の連歌の指導も行っていた能順を招き、神具は全て北野天満宮を模し、社殿は北野天満宮の四分の一に縮尺され』たものを『造営』するという凝りようであった。『棟梁は加賀藩お抱えの名匠で、那谷寺の本堂・三重塔・護摩堂・鐘楼(国重要文化財)などや』、『高岡の瑞龍寺仏殿(国宝)などの建築に携わった山上善右衛門嘉広』で、『現在も創建当時の神門(四脚門、切妻、銅板葺)をはじめ、拝殿、石の間、幣殿、本殿(三間社、入母屋、銅板葺)が継承され、江戸時代初期の神社建築の特色を残している』とある。

「松梅院」京都市上京区にある北野天満宮の神仏習合時代の寺院の一つ。

「能順法師」(寛永五(一六二八)年~宝永三(一七〇七)年)は江戸前期の連歌師。京の北野天満宮の宮仕(みやじ)。明暦三(一六五七)年に加賀金沢藩主前田氏(この当時は第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)で、先代藩主前田光高の長男であるが、当時は年少であったため、祖父利常が補佐していた。但し、利常は翌万治元(一六五八)年に没した)に招かれて、小松桟(かけはし)天神社別当職(梅林院)となった。天和三(一六八三)年創建の北野学堂の初代宗匠を務めた。連歌集を「連玉集」とするが、正しくは「聯玉集」である。

「宗祇」(応永二八(一四二一)年~文亀二(一五〇二)年)は室町時代の連歌師。姓は飯尾とされる。高山宗砌(そうぜい)、後に心敬に学んだ。文明四(一四七〇)年、東常縁(とうつねより)から古今伝授を受け、古典にも通じた。京都の種玉庵に公家や大名を迎えて連歌などの会を開いたほか、越後上杉氏・周防大内氏らに招かれて講じた。長享二(一四五八)年、北野連歌会所の奉行及び将軍家の宗匠となっている。旅の途次、箱根で死去した。]

 又金城の南玉泉寺は一遍上人の道場なれば、是(これ)にも靈夢ありて、眞像を安置し玉ひ、神盛益(ますます)盛んにして、菅家(かんけ)の支族は云ふに及ばず、元老知臣、都(すべ)て譜代恩顧の士、庶人渴仰の首を傾けずと云ふことなし。

[やぶちゃん注:「玉泉寺」石川県金沢市野町(のまち)に現存。初代藩主利長夫人で織田信長の五女玉泉院が、第二代藩主利常に請うて玉泉院を創建、玉泉院没後に玉泉寺と改め、玉泉院の位牌所となった。

 爰(ここ)に惠乘坊(ゑじやうばう)快全【又名、石良】最も連歌巧(たくみ)にして、淺井政忠・法橋能順と名を等うし、其頃此三子を以て達人とす。然るに快全元祿十五【壬午(みづのえうま)】春、不思議の夢想を蒙りける。幸(さいはひ)今年二月下(しも)の五日、聖廟八百歲御忌に當るを以て、其の法樂をして、此夢想事を卷頭として獨吟一千句を思ひ立つといへども、餘緣にさへられ、聊(いささか)本意を遂げざりしかば、快全密(ひそか)に思へらく、

『速(すみやか)に跡を隱し參籠せんにはしかじ。』

と、忽ち在邑(ざいいう)を出奔し、此玉泉寺の廟社に籠り、七ヶ日を期とし全く此事をなす。

[やぶちゃん注:「惠乘坊快全【又名、石良】」「加能郷土辞彙」(国立国会図書館デジタルコレクション)のここに出る「北村惠乘」(きたむらえじょう)と同一人物であろう。そこに、『金沢喜田村屋の二代目で、初め彦左衞門と稱した。壯年より佛門に歸依し、四十歲の頃妻を離別し、家を三代彥左衞門に讓り、西方寺に至り剃髮して、惠乘と稱し、泉野玉泉寺門前及び卯辰最勝寺門内に草庵を結んで住んだ。惠乘傍ら和歌を好み、仙洞御所に五十首の詠を上り、橫山山城守任風に百首の獨吟を呈した。後に近江舟木村西光寺を再興し、また伊勢善光寺より招かれて之に住したが、伽藍の破損甚だしかつた爲、法華經・源氏物語等を講釋して資を得、遂に再建の功を遂げ、享保五』(一七二〇)『年四月十九日六十五歲を以て遷化した。案ずるに、惠乘坊快全の傳に、一名を石良といひ、連歌を以て能順。淺井政右と共に當時の達人と稱せられ、元祿十五年菅公八百年忌に玉泉寺の菅廟に參籠し、七晝夜に獨吟千句を聯ねたとある。この快全は卽ち惠乘と同一人であらう』とあるからである。

「淺井政忠」「政忠」は「政右」(まさすけ)の誤り。加賀藩士浅井源右衛門政右(?~元禄四(一六九一)年)。加賀藩士浅井一政(?~正保二(一六四五)年:近江浅井氏の一族。豊臣秀頼に今木源右衛門(いまきげんえもん)の名で仕え、「大坂夏の陣」の後は加賀藩に仕えた)の子。歌学・連歌・茶道の名人として知られ、能書家でもあった。能順の雅友として連歌にともに名を連ねている。号は素菴。

「元祿十五【壬午】」一七〇二年。

「今年二月下(しも)の五日、聖廟八百歲御忌に當る」菅原道真の忌日。彼は延喜三年二月二五日(九〇三年三月二十六日) に大宰府で薨去した。享年五十九。]

 卷頭は夢想の發句

  そが中に梅が香うれし神の松

  久しき 年も 立歸る空     快 全

  朝鏡 けふ 若水の 顏みえて

 第二發句 梅が香に朝霜けぶる垣根哉

 第三發句 夕露に鎭まる梅の匂ひ哉

第四・第五と、終(つひ)に十に滿つ。斯く功を積(つみ)し内に、既に第五日に至り、聊か心疲るゝ事ありし。然るに此家中岡島喜三郞は、故備中が孫にて采邑(さいいう)四千石を領し、是も天性風雅の志深く、彼(かの)能順・快全共(とも)交り淺からざりしが、此日須臾(しゆゆ)まどろめる内、忽ち異相の老人衣冠を正し來り告(つげ)て曰く、

「汝、しらずや。惠乘坊、今、玉泉寺に在りて、獨吟の千句を法樂す。然るに、今日(けふ)、燒香を絕して、日頃の望(のぞみ)を失はんとす。急ぎ、汝、彼所(かのところ)に至りて其志願を助くべし。」

と、ありありと覺えて、忽然と、夢、さむる。

[やぶちゃん注:「岡島喜三郞」「故備中が孫」「故備中」は加賀金沢藩士で重臣の岡島一吉(かずよし 永禄二(一五五九)年~元和五(一六一九)年)。織豊・江戸前期の武士を始祖とする家系。一吉は十七歳で藩祖前田利家に仕え、「小田原攻め」などで戦功を立て、「大坂冬の陣」では第二代藩主前田利常に従った。

「須臾」暫く。一瞬。]

 喜三郞、奇異の思(おもひ)を發して、先づ、事の由を伺ふに、果して、

「惠乘坊、社中にありて、然り。」

と云ふ。始終、符合の如し。

 岡島氏、大(おほき)に驚き、

「是、全く聖廟の神敎なり。老松の明神をして、告知(つげし)らしめ給ふにぞ。」

と、爰に於て、沐浴齋戒し、微妙公より拜領せし「有明」と云ふ名香を懷にし、速(すみやか)に彼(かの)所に至り、彼名香を快全に與へて、終に其志願を遂げ、神の德君の德を感じて、第十に至りて、

 梅が香や今より代々(よよ)の松の風

と吟じ上(あげ)て、望み足りぬ。

 此軸は、今に、存在せり。此外、此神の靈德、近くは百五十年御忌にも、數々の靈異、委(くはし)く述(のぶ)るに、辭、たらず。

[やぶちゃん注:快全の句には私は、なんら、心打たれない。悪しからず。

「老松の明神」菅原道真は没後に御霊(ごりょう)として神格化され、天満大自在天神となったが、その眷属の第一の神に老松(おいまつ)大明神がいる。菅原道真の家臣で牛飼であったとされる島田忠興(ただおき)を神格化したもので、ウィキの「天満大自在天神」によれば、生前に、天拝山に登る道真の笏を持ちお供したという。本地仏は不動明王』とされ、「神変霊応記」「託宣記」に『よれば、天神から笏』『を預り、天神の側に座し、天神の補佐・代行する神』で『気性が荒い。寿命の延長、植林・林業に関する願いを叶えてくれるという。ただし、どのような願いもまず老松神に祈り、その後、天神に祈らなければならないという。天神が影向』(ようごう)『の所に種を蒔き松を生やすという』。「太平記」では、『紀伊山中十津川で追ってから逃げる護良親王一行を』十四、五『歳の童子の姿で現れた老松神が救ったという。その時、親王が持っていた北野天神のお守りをみると』、『口が空き、中に入っていた御神体が汗と土で汚れていたという』。また、謡曲「老松」では、『老人の姿で化現している』。『近世に入り』、『道真の師である島田忠臣と同一視されるようになった。道真を老松神として、道真の北の方を老松女』『として祀られることもある』とある。]

三州奇談卷之二 金莖の溪草

    金莖の溪草

 金澤岡島備中公の家中、大平兵左衞門といふに聞きし。

[やぶちゃん注:標題は「きんくきのけいさう」と読んでおく。

「岡島備中公」加賀金沢藩士で重臣の岡島一吉(かずよし 永禄二(一五五九)年~元和五(一六一九)年)を始祖とする岡島家。一吉は十七歳で藩祖前田利家に仕え、「小田原攻め」などで戦功を立て、「大坂冬の陣」では第二代藩主前田利常に従った。

「大平兵左衞門」不詳。]

 瑞龍院利長卿の世の頃にや、小塚何某と云ふ新番の士、公用ありて越中川上の村に在宿せしに、或日、

「醫王山(いわうぜん)の山上に池あり。」

とて、公務のいとま、心晴(こころばら)しがてら、一僕をつれて、此山に登られける。

[やぶちゃん注:「瑞龍院利長卿」加賀藩初代藩主前田利長(永禄五(一五六二)年~慶長一九(一六一四)年)。藩祖前田利家の長男。慶長三(一五九八)年に利家より前田家家督と加賀の金沢領二十六万七千石を譲られた。男子がなかったため、異母弟の利常(利家四男)を養嗣子として迎えて越中国新川郡富山城に慶長一〇(一六〇五)年六月に隠居した。法名は瑞龍院殿聖山英賢大居士。高岡に葬られ、後に利常が菩提寺として瑞龍寺を整備した。私の好きな寺だ。

「醫王山」読みは現行の読みに従った。石川県金沢市と富山県南砺市に跨る標高九百三十九メートルの山塊。白兀山(しらはげやま)・奥医王山・前医王山などの山塊の総称で、最高点は奥医王山。ここ(グーグル・マップ・データ)。養老三(七一九)年に白山を開いた泰澄大師が開山し、薬草が多いことから、唐の育王山に因んで育王仙と名付けたのが始めとされ、三年後の養老六年、元正天皇が大病に罹ったが、泰澄がこの山の薬草を献上したところ、快癒され、帝は大いに喜ばれ、泰澄に神融法師の称号を下賜い、山を「医王山」と命名されたという。他にも薬草が多く、薬師如来(大医王仏)が祭られたことが山名の由来とする説もある(ここは概ねウィキの「医王山」に拠った)。

「池」奥医王山の近く(東北四百メートル下方)に竜神池がある(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイト「YamaReco」のこちらや、サイト「YAMAP」のこちらで写真が見られる。]

 頃は卯月の初めにて、猶、また、山櫻の散(ちり)がてなるも、靑葉の梢に吹交(ふきまぢ)りて、道あたゝかに興ありけるが、山の半腹に至る頃、俄に空くもり、霧大(おほき)に起りて咫尺(しせき)も見分けがたし。終(つひ)に山に登ること、能はず。元の道へ下りけるに、忽ち、道に迷ひて、せんかたなく、足に任せて行きしに、谷水の流るゝ所へ出(いで)しかば、此水に、つきて、山を下る。道々、靑き草、水にひたりて、一枚に見へたり。香(かをり)、甚だ、かふばしかりし程に、是を取りて見れば、皆々、山葵(わさび)にてぞ、ありける。

『幸(さいはひ)。』

と思ひて、僕(しもべ)に數十本取らせて歸りけるが、漸々(やうやう)として宿には歸りけれども、道甚だ難所にして、まろび𢌞(まは)りして、終に山葵を持つ事、能はず。道々、皆、落しけるが、漸々(やうやう)、三本は携へ歸りける。

[やぶちゃん注:「一枚に見へたり」沢全体が巨大な一枚の葉で覆われいるかのように見えたということであろう。]

 宿に歸り、夕飯なんどしたゝむるとて、彼わさびをおろさせけるに、堅うして金(こがね)のごとし。

「ふしぎなり。」

とて、僕(しもべ)、是を主人小塚何某に見せけるに、

「實(げに)も。重(おも)し。」

とて、能く見れば、此わさび、莖も葉も、皆、黃金(わうごん)なり。

 大(おほき)に驚き、其翌日、村中のすくやかなるものをやとひ、彼(かの)澤に尋ね行(ゆか)んと催しけるに、其時の道、心覺えの所をあまねく尋求(たづねもとむ)れども、水筋は似たる所もありけれども、彼(かの)山葵は、曾て、なかりけり。

 此事、捨置(すておき)がたく、訴へければ、國君より、十村を催し、普(あまね)く探し求めさせられけるが、終に、其所、しれず。

「彼わさびは、國君へ捧げ、今、猶、あり。」

と聞(きき)ぬ。

[やぶちゃん注:実は金沢生まれの本邦唯一の真正幻想作家であった泉鏡花(明治六(一八七三)年~昭和一四(一九三九)年:本名は鏡太郎。現在の金沢市下新町(グーグル・マップ・データ)生まれ)は本「三州奇談」の愛読者であった。明治四十三(一九一〇)年九月~十一月に発表した随筆「遠野の奇聞」(柳田國男から寄贈された「遠野物語」(同年十月自費出版)を称揚したもの)の中でも、「遠野物語」の「三三」を掲げ(私は「遠野物語」の正規表現オリジナル注釈版をブログ・カテゴリ「柳田國男」で完遂している)、

   *

……(前略)……曾て茸(きのこ)を採りに入りし者、白望(しろみ)の山奥にて金の桶(をけ)と金の杓(しやく)とを見たり、持ち歸らんとするに極めて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなわは、また來んと思いて樹の皮を白くし栞(しをり)としたりしが、次の日人々と共に行きて之を求めたれど終にその木のありかをも見出し得ずしてやみたり。

 と云ふもの。三州奇談に、人あり、加賀の醫王山(いわうせん)に分入りて、黄金(わうごん)の山葵を拾ひたりと云ふに類(たぐひ)す。類すといへども、恁(かく)の如きは何となく金玉(きんぎよく)の響(ひゞき)あるものなり。敢て穿鑿をなすにはあらず、一部の妄誕(もうたん)のために異靈(いれい)を傷(きずつ)けんことを恐るればなり。

   *

(底本は所持する岩波版「鏡花全集」第廿八巻(一九四二年刊)に拠ったが、読みは一部に留めた。また、前段の引用部は底本では全体が四字下げである)と本篇をちらつかせてある。また、優れた小説「藥草取」(明治三六(一九〇三)年発表)の舞台も、この医王山である。]

三州奇談卷之二 土下狗龍

     土下狗龍

 變化(へんげ)の理(ことわり)は極むべからず。我身の内にも虫生ずるを、我と知らず。怪は人を離れては生ぜず。市中も又怪あり。

[やぶちゃん注:「土下狗龍」「どかのくりゆう」と読んでおく。

「我身の内にも虫生ずる」「虫」はママ。江戸時代のヒト寄生虫の保有率はすこぶる高かった。「逆蟲(さかむし)」と称し、中には多数が寄生したために口から虫を吐き出すようなひどいケースさえあった。]

 金澤川南町(かはみなみちやう)額谷屋(ぬかたにや)と云ふに、寶曆二年の春、雪も籬(まがき)の梅が香と馨(かを)る頃、あやしき事はありそめぬ。

[やぶちゃん注:「金澤川南町」「加能郷土辞彙」のこちら(昭和一七(一九四二)年金沢文化協会刊。底本と同じ日置謙氏の編になる。国立国会図書館デジタルコレクション)によれば、『この川南町は後に片町に屬し、その犀川大橋に近い方である。本町の一に數へられた』とあり、さらに武野一雄氏の「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の『犀川大橋からスクランブ交差点まで①昔は川南町と呼んだ・・・。』の文化八(一八一一)年の「金沢町絵図名帳」(近代の修正版と思われる)の地図によって、現在のこの道を挟んだ「21」と「6」・「7」の地番付近であることが判明した(グーグル・マップ・データ)。

「額谷屋(ぬかたにや)」読みは「近世奇談全集」に拠った。前注の武野氏の記事は驚くべく仔細に亙っており、先の「金沢町絵図名帳」の『川南町の頁には、家数29軒(橋番含む)本町肝煎清金屋七兵衛、組合頭宮竹屋喜左衛門とあります。この町は当時片町と同様武士階級をお客様とする大店の御用町人と北国街道に面する本町でありながら、犀川大橋に接する立地から近隣在住の農民、町人にも利便な地区だったようです』。『川南町の住民は、銭屋兼小間物商・魚商・材木商・麩こんにゃく商・紙商・みの笠商兼米仲買・蒸し菓子兼合薬商・質兼足袋商・質兼呉服古手商・合薬兼道具商・瀬戸物商・みの笠兼ろうそく商・紙合羽商・畳商・小間物兼打綿商・畳表兼みの笠商・足袋商・絞り染兼香具商・下駄小間物商・酒造業・みの笠・呉服兼古手商・たばこ商・衣料、呉服商・法衣仕立職・質屋など』、『兼業が多く、横目肝煎(町年寄りを助ける町役人)や町年寄末席役の住まいなど』、『多岐に渡っています』とあり、さらに目ぼしい名店の詳細な記載が続くので、是非、読まれたい。その詳細な中にさえも残念乍ら、「額谷屋」の名は出ない。

「寶曆二年」一七五二年。]

 いつも家の雨戶しめて寢るとおもふに、明れば戶明けて燈火消(けし)てあり。

 初は

「我よ人よ」

と麁相(そさう)[やぶちゃん注:不注意。]をゆづり合しが、目さとき人見(み)初(はじ)めて、

「怪物の戶を明けて入るなり」

と云ふに極(きはま)れり。

 婦人・女子大に驚き、日の内をもまたで、向いなる一家の元へ引越されし。

 跡は男許(ばかり)、近隣の壯年の者ども相守り、

「小雨ふり月も朧(おぼろ)なり。化物の出づるは爰(ここ)なり」

[やぶちゃん注:「爰なり」この場合は「まさにこの時なり」の意。]

と待つに、其夜は來らず。

 此家は、一方は水の流れあり。古き番人ありしが來(きたつ)ていふ。

「久敷(ひさしく)夜更(よふけ)てうたをうとふ小坊主ありし、是ならん」

と云ふ。折節見當る人もあるに、成程人のごとく立ちて、いかなる關鎖(しまり)のかたきも、苦もなく開きて内に入り、行燈(あんどん)を吹消して、其後(そののち)は何をこそなしけんしらず。

 今日は二月十五日の夜なりしが、雨一通り降りて月くらかりしに、彼(か)の怪物出でたりしが、人音にや恐れけん、引返して土藏に入りける。是又厚壁の土を返し、橫の方(かた)より入りたるに、勞せるとも見へず。

[やぶちゃん注:「二月十五日」釈迦が入滅した日とされる。因みに私の誕生日でもある。

「厚壁の土を返し」蔵の土壁を簡単に掘り返し崩して穴を開けて。]

 待ち居(をり)し人々、

「あわや藏に取籠(とりこも)りたるは」

とすまひ人を取圍(とりかこ)むごとく

「鎌よ棒よ」

とかり立てしに、藏の大戶前より、宙を飛んて迅風のごとく出でたりしを、齋藤金平と云ふ人、刄引刀(はびきがたな)を持(もつ)て一刀に打たれしに、仰向(あふのけ)に落ちたりしが、又起返りて緣の下へ入る。

[やぶちゃん注:「齋藤金平」「石川県立図書館」の「石川県史 第二編」の「第四章 加賀藩治停頓期」の「第三節 風教作振」の「十一屋仇討の批判」に(下線太字は私が附した)、『加賀藩に在りて仇討の行はれたるは、こゝにいへる赤尾本平を以てその嚆矢とすべし。域はいふ、是より先十一屋仇討として傳へらるゝ孝子三太の事あり。三太は石川郡曾谷村の農にして、その祖父及び父共に事によりて、馬廻組の士山田權左衞門の爲に害せられ、而して三太の兄一坊・二太は復讐を試みしも成らずして亦殺されき。是に於いて三太は金澤に出でゝ今井左太夫の馬丁となり、劍を齋藤金平に學び、元和元年』(一六一五年)『七月十五日權左衞門が野田山に於ける藩祖の墳塋に詣でんとせし時、之をその途十一屋村に要して本望を達せりと。然れども前人の研究する所に據れば、慶長十七八年』(一六一二年・一六一三年:慶長は二十年まである)『及び元和元年の侍帳を檢するに、共に山田權左衞門の名を見ず。今井左太夫は慶長十年の富山侍帳に載せて大小將衆に屬すといへども、齋藤金平に至りては異風組の士にして明和』(一七六四年~一七七二年:宝暦の後である)『の頃に存せし人なり』とあった。まさにこの人物であろう。この「異風組」というのは加賀藩の火縄銃を師範する組織集団の名である。

「刄引刀」刃の部分を潰して斬れないようにした刀。これを以って怪物に向かい、かくも仕遂げるたのは名剣士なればこそである。]

 大勢終に探し出(いだ)して、亂鎗(みだれやり)に突伏せ、頭を斧を以て打潰しゝに、夥敷(おびただしく)血を吐きて死(しに)けり。

[やぶちゃん注:「亂鎗」むやみやたらに散々に槍を突き出すことであろう。]

 然共(しかれども)少(すこし)も聲を出(いだ)さず。又鎗突きし跡も通らず。斧の跡も皮には少しも疵つかで、内の骨碎けて死にけり。

「よくこわき皮なるものを」

と引さき見しに、犬に類して足甚だ短く、形ち三角にて灰毛(はいげ)なり。人々

「何物ならん」

と語り合しに、其頃大坂の人來り居て咄しけるは、

「大坂鍛冶町にも如此(かくのごとき)事ありしに、是はある家の老婆、いつの頃よりか行所(ゆくところ)しれず。『心もとなし』とて數月立ちしに、或日亭主夕暮の緣に腰かけて居たりしに、一方の緣げた

『づぶづぶ』

と土に沈みしかば、心元なく緣を取拂ひ見しに、土中に穴あり。

 下へ行程深く廣し。

 人を催して掘開きて見るに、下には四尺許の水湧くところあり。

 其傍に彼(かの)見えざりし老女を喰殺(くひころ)して引込みてありし。

 又橫へ穴ありて、此中に曲者(くせもの)居(を)ると見えたり。

 人々是より入(いる)こと叶はねば、終に其趣(おもむき)町役人へ斷り、且(かつ)橫穴の口より木竹を以て押込み突込み、穴の口をふさぎ、扨其地上を考へ、二軒隣の鍛冶(かぢ)の庭より掘入りて見しが、いかにも此獸に掘當りぬ。

 穴より突こみし棒に半ば死して居たり。

 則(すなはち)此(これ)獸なりしが、斯程(かほど)大さはなかりしかども、よく老女を殺せり。

 されば、是等もいかなる事を仕出(しいだ)さんも知れざるに、よくぞ打殺し給ふ」

と云ひし。

 此獸狸にも似たり。聲はなき物にこそ。

 或人

「ミタヌキと云ふ者なり」

と聞えしかども、とかく野邊(のべ)の者とは見へず。緣の下・土中に住む者とは見えぬ。先づ大樣(だいやう)「鼷鼠(うごろもち)[やぶちゃん注:漢字はママ。]」にして狗(いぬ)なるものなり。

[やぶちゃん注:「ミタヌキ」アナグマ(食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma)の異称。雑食性。ヒトを襲うことはないが、土葬された遺体を掘り起こして食うことはあったらしい。この妖獣の形状は確かにアナグマには似ている。

「鼷鼠(うごろもち)」読みは国書刊行会本の本文(ひらがな表記)による。「うごろもち」は哺乳綱 Eulipotyphla 目モグラ科モグラ属ニホンモグラ属 Mogera モグラ類を指す呼称であるが、この漢字は不審である。普通はモグラは「土龍(竜)」(私はこれは中国の本草書のミミズの意味を取り違えた日本の近世以降の誤りと考えている)「鼹鼠」「鼴鼠」が一般的であり、またこの「鼷鼠」(音「ケイソ」)は普通にネズミ目ネズミ上科ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus を指すからである。編者日置氏の誤字か或いは誤植が疑われる。

 或は好事の人、

「是は『狗龍(いぬりゆう)』と云ふ物にて、是が雛(ひな)を『謝豹蟲(しやへうちゆう)』といふ」

といへり。

[やぶちゃん注:「狗龍(いぬりゆう)」読みは「近世奇談全集」に拠った。不詳。

「謝豹蟲」中国の伝説上の妖獣に「謝豹」ならいる。晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した「酉陽雑俎」(ゆうようざっそ:八六〇年頃の成立)の「巻十七 広動植之二 虫篇」にある。

   *

謝豹。虢州有蟲名謝豹、常在深土中。司馬裴沈子常治坑獲之。小類蝦蟆、而圓如球、見人以前兩脚交覆首、如羞狀。能穴地如鼢鼠、頃刻深數尺。或出地聽謝豹鳥聲、則腦裂而死、俗因名之。

   *

自然流で書き下すと、

   *

 謝豹、虢(くわく)州に蟲有り、謝豹と名づく。常に深土中に在り。司馬の裴沈子(はいしんし)、常(つね)の治坑(ちこう)にて之れを獲る。小にして、蝦蟇(ひき)に類(るい)し、圓(まろ)きこと毬のごとし。人を見れば、前の兩脚を以つて首を交覆して、羞(は)づる狀(かたち)のごとし。能く地に穴(あなほ)ること鼢鼠(もぐら)のごとくして、頃刻(けいこく)にして深さ數尺たり。或いは地に出づることあるも、「謝豹鳥」の聲を聽けば、則ち、腦、裂けて死す。俗、因みて之れを名づく。

   *

「虢州」河南省三門峡市霊宝市の南(グーグル・マップ・データ)。かの中島敦の「山月記」で、李徴が若き日に永く住み慣れた地として出る虢略(かくりゃく)である。「裴沈子」不詳。「治坑」治水用の溝工事か。「羞づる狀のごとし」は「両手で顔を隠し、何かを恥じるようなしぐさをする」。これは我々が勝手に想像するモグラ(哺乳綱 Eulipotyphla モグラ科 Talpidae)の仕草と似ているようには思うが、但し、モグラ類が地表に出ないとか、太陽光を嫌ったり、日に当たると死ぬ(嘗て私は授業でそう言って「それは違う」と生徒に指摘されたことを思い出した)というのは全くの誤りである。「謝豹鳥」ホトトギスの異名。サイト「肝冷斎日録」のこちらや『「酉陽雑俎」の面白さ』に部分訳もある。しかし、本篇の妖獣とは性質が全く異なり、この妖獣は「謝豹」ではない。]

 何れか誠ならん。且つ「謝豹蟲は日出れば死す」と聞えしが、年經ては堅剛になりて死せざるものにや。又は是別物なりや。辨じ難し。

 とかく人家の都會と云ふとも、怪物のなき事と云ふはなし。地鼠・土狗・犬鼠の類(たぐひ)、日に向ひては又變ずと聞く。是等の類ならんかと。

[やぶちゃん注:「地鼠」モグラ或いは日本固有種のモグラの一種であるトガリネズミ目トガリネズミ科ジネズミ亜科ジネズミ属ジネズミ Crocidura dsinezumi を指す。「近世奇談全集」はこれで『もぐら』とルビしている。

「土狗」読みは「どく」でよいか。現行では本邦産の柴犬に外見が似る犬の犬種である、中国産の「中国(中華)田園犬」を指すが、ここは柴犬或いは単に「野犬」でよかろう。

「犬鼠」読みは「いぬねづみ」でよいか。思うに、巨大個体の齧歯(ネズミ)目リス亜目ネズミ下目ネズミ上科ネズミ科クマネズミ属ドブネズミ Rattus norvegicus であろう。因みに現行では、日本には棲息しない北米原産の草原地帯(プレーリー)に穴を掘って巣穴を作り、群れで生活する大型のリスの仲間であるリス亜目リス科 Xerinae 亜科 Marmotini 族プレーリードッグ(prairie dog)属 Cynomys を指す中国語(正確には「草原犬鼠」)である。]

2020/02/22

大和本草卷之十三 魚之下 鱮魚(ウミタナゴ/別種であるタナゴとの錯誤部分有り)

 

鱮魚 一名鰱魚 本草綱目曰好群行相與也又

 曰狀如鱅而頭小形扁細鱗肥腹其色最白失水

 易𣦸蓋弱魚也 今案本草所載其形狀悉タナゴ

 ナリ今見之コノシロノ如ク頭小ニ形扁ク鱗細ク色

 白シ漁人ニ問ニ好ンテ群行スト云味頗ヨク性亦輕ク

 乄アシカラス病人食シテ無害タナゴノ子ハ胎生ス卵生

 セス他魚ニ異レリ河魚ニモタナゴアリ與此不同

○やぶちゃんの書き下し文

鱮魚(たなご) 一名「鰱魚」。「本草綱目」に曰はく、『群行して相ひ與〔(ともな)〕ふを好むなり。又、曰はく、狀〔(かたち)〕、鱅(このしろ)のごとくして、頭、小さく、形、扁(ひら)く、細鱗、肥〔えし〕腹。其の色、最も白し。水を失へば、𣦸〔(し)〕に易し。蓋し弱〔き〕魚なり』〔と〕。今、案ずるに「本草」載する所の其の形狀、悉く「たなご」なり。今、之れを見るに、「このしろ」のごとく、頭、小に、形、扁く、鱗、細く、色、白し。漁人に問ふに、「好んで群行す」と云ふ。味、頗るよく、性も亦、輕くして、あしからず。病人、食して、害、無し。「たなご」の子は胎生す。卵(らん)生せず、他魚に異れり。河魚にも「たなご」あり。此れと同じからず。

[やぶちゃん注:これは同書の「海魚」のパートにあるのであるから、条鰭綱棘鰭上目スズキ目ウミタナゴ科ウミタナゴ属ウミタナゴ亜種ウミタナゴ Ditrema temmincki temmincki とすべきなのであるが、私は「本草綱目」の「鱮魚」を引いて、それをもとに記載の大半を記してしまっている以上、これは条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科タナゴ亜科タナゴ属タナゴ Acheilognathus melanogaster を別に比定しておかないといけないと思うのである。実は益軒は既に「大和本草卷之十三 魚之上 鯽 (フナ)」の中で、「魚」を挙げ、『「タナゴ」と云ふ』と記載を終えてはいるのであるが、私が敢えてこうする理由は、以下に示す通り、「本草綱目」の「鱮魚」が淡水魚のタナゴ属或いはその近縁種か形状の似た別種の淡水魚の記載と考えられるからである。ウィキの「タナゴ」によれば、狭義の「タナゴ」は『日本固有種で、本州の関東地方以北の太平洋側だけに分布する。分布南限は神奈川県鶴見川水系、北限は青森県鷹架沼とされ、生息地はこの間に散在する。各地で個体数が激減しており、絶滅が危惧される状況となっている』。体長6-10cmと、『タナゴ類としては前後に細長く、日本産タナゴ類18種のうちで最も体高が低いとされる』(これらの種群全体も一般には「タナゴ」と呼ばれる)。『体色は銀色で、肩部には不鮮明な青緑色の斑紋、体側面に緑色の縦帯、背鰭に』二『対の白い斑紋が入る。口角に』一『対の口髭』を有する。『繁殖期になると、『オスは鰓ぶたから胸鰭にかけて薄いピンク色、腹面は黒くなり、尻鰭の縁に白い斑点が現れる。種小名 melanogaster は「黒い腹」の意で、オスの婚姻色に由来する。メスには明らかな婚姻色は発現せず、基部が褐色で先端は灰色の産卵管が現れる』。『湖、池沼、川の下流域などの、水流がないか』、『緩やかで、水草が繁茂する所に生息する。食性は雑食で、小型の水生昆虫や甲殻類、藻類等を食べる』。『繁殖形態は卵生で、繁殖期は』三~六月で、『産卵床となる二枚貝には大型の貝種を選択する傾向がみられ、カラスガイ』(斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ超科イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイ属カラスガイ Cristaria plicata)『やドブガイ』(イシガイ科ドブガイ属ドブガイ Sinanodonta woodiana)『に卵を産みつける。卵は水温15℃前後では50時間ほどで孵化し、仔魚は母貝内で卵黄を吸収して成長する。母貝から稚魚が浮出するまでには1ヶ月ほどかかる。しかし』、『そのような貝もまた』、『減少傾向にあることから』、『個体数の減少に拍車をかけている』とある。

『「本草綱目」に曰はく……』「巻四十四 鱗之三」に「鱮魚」として載る。「漢籍リポジトリ」のこちらで読めるが、その内容からは淡水魚の記載と考えてよいと思われ(後で示す次の「鱅魚」を除くと、前後はみな淡水魚ばかりである)、益軒は後に示すように、この「鱮魚」を淡水魚であるタナゴと形状の似ている海水魚のウミタナゴの記載と採る大錯誤をしていると私は考えている。彼が小野蘭山から激しい批判を受けるのも、中国の本草書とのそうした安易な思い付き的な同定比定を断定してしまっているところの大間違いが非常に多いからである。しかも本邦産種の殆んどは日本固有種であることも益軒の同定には不利である。因みに、現代中国語では日本固有種の本種には「黑腹鱊」と漢名を与えており、コノシロ属Acheilognathus(同属は東アジア一帯に棲息する)「橘屬」である。

「群行して相ひ與ふを好む」事実、タナゴは群泳する。一方、ウミタナゴもまた群泳する。

「鱅(このしろ)」海水魚である条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus。因みに、「本草綱目」には、まさに「鱮魚」の次に「鱅魚」に出るが、前後が淡水魚であるにも関わらず、海水魚としており、人の死体の臭い(恐らくは焼いた場合)とあるので、確かにコノシロであり、コノシロとタナゴは実際、形状が似通っている。但し、この「鱅」(音「ヨウ」)は現代の中国や台湾にあっては、。中国原産で「中国四大家魚」(他に条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Oxygastrinae 亜科ソウギョ(草魚)属ソウギョ Ctenopharyngodon idellus・コイ科 Oxygastrinae 亜科アオウオ(青魚)属アオウオ Mylopharyngodon piceus・コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinaeハクレン(白鰱)属ハクレン Hypophthalmichthys molitrix)の一つであるハクレン属コクレン(黒鰱)Hypophthalmichthys nobilis を指す漢字であるので注意が必要である。

「𣦸」「死」の異体字。

「味、頗るよく、性も亦、輕くして、あしからず」ウィキの「タナゴ」によれば、『唐揚げや雀焼き、佃煮などで食用とされる。肝吸虫などの寄生虫を保持する可能性があり、生食には危険をともなう』とある。いつもお世話になる「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」のタナゴの項には、『霞ヶ浦では「真たなご」とされ、佃煮などに利用されていた』。『現在でも他のタナゴ類とともに佃煮となる。苦みがあるが』、『美味』とある。私も佃煮は食べたことがあるが、確かに苦みがあって私はあまり好きではない。されば、この味の記載はタナゴではなく、ウミタナゴであると言える。

『「たなご」の子は胎生す。卵(らん)生せず、他魚に異れり。河魚にも「たなご」あり。此れと同じからず』ここに至って、益軒の全体の大錯誤が明らかとなる。彼はタナゴとウミタナゴを別種として正しく認識していながら、「本草綱目」の「鱮魚」即ち淡水魚のタナゴをウミタナゴと誤認するという大失策をして本項を記載してしまっているのである。卵生するのは条鰭綱棘鰭上目スズキ目ウミタナゴ科ウミタナゴ属ウミタナゴ亜種ウミタナゴ Ditrema temmincki temmincki であって、タナゴは卵生である。ウィキの「ウミタナゴ」によれば、『名前は』、淡水産の『タナゴと体形が似ているため』に『名づけられた。2007年に、従来』は一『種とされていたウミタナゴから』、『青みがかっている型を亜種としてマタナゴ Ditrema temminkii pacificum に、赤みがかっている型を別種としてアカタナゴ Ditrema jordani に分けられた。種小名の「temmincki」は、日本産生物の学名を多く命名したコンラート・ヤコブ・テミンクへの献名である』。『体長25cm程度』で、『北海道中部以南の日本各地の沿岸に生息する。胎生で』、『春から初夏にかけて子供を産む。動物性の食性でゴカイ、甲殻類等を食べる』。『冬の防波堤での玉ウキ釣りの対象魚として親しまれている。漁港に係留してある漁船の下などに群れていることが多く、場所によっては魚影を見ることが出来る。アオイソメやオキアミ等を餌に使って釣る。特に難しい仕掛けはいらないが、餌を吸ったり吐いたりを繰り返すため、遅あわせでややコツがいるとされる』。『胎生で増えることから、安産の「おまじない」として食べる地方もある一方、島根地方ではウミタナゴが子供を生む様を逆子が生まれてくるのに重ねて縁起が悪いともされている。身は淡白な白身で小骨が多い。塩焼きにされることが多いが、素揚げや煮物、刺身やなめろうにされることもある』。塩焼きははなはだ美味い。さて、以上の錯誤から考えると、以上の益軒の記載の内、真に正しく「ウミタナゴ」の記載と言える部分は、厳密に言えば、『今、之れを見るに』で実際のウミタナゴを前にして、『「このしろ」のごとく、頭、小に、形、扁く、鱗、細く、色、白し』と現物を観察をしたところと、実際に海の『漁人に問ふに、「好んで群行す」と云ふ。味、頗るよく、性も亦、輕くして、あしからず。病人、食して、害、無し。「たなご」の子は胎生す。卵(らん)生せず、他魚に異れり。河魚にも「たなご」あり。此れと同じからず』の部分だけであると私は断ずるものである。

2020/02/21

三州奇談卷之二 再生受ㇾ刑

  再生受ㇾ刑

 金澤高道町(たかみちまち)に、蒔繪師次郞兵衞と云ひし者あり。元は越中高岡の者なり。其親は、ともかくもしける者の子なりしが、不斗(ふと)若年の頃より博奕(ばくち)を好みて、親にも近隣にもうとまれて、金澤の奉公を望み出でしが、よき便宜ありて、塗師が家に弟子分と云ふものにぞありつきにき。生れ賤しからざる者故、主人も憐れみ、十二里を隔てゝ上りたる者なれども、生國同じ事にむつび近付く者多く、程なく世帶を持ちし。

[やぶちゃん注:標題は「再生して刑を受く」と訓じておく。「再生」というのは最後の最後に驚愕の過去の事実が語られるところで、初めて明らかにされる。

「高道町」現在の金沢市山の上町・東山二丁目・森山一丁目。この付近(グーグル・マップ・データ)。0808cho氏のブログ「旧町名をさがす会(金澤編)」のこちらに拠った。

「十二里」は約四十七キロ。平面実測でも三十八キロは有にあり、途中の倶梨伽羅越えを考えれば、この数値は正しい。

「生國同じ事にむつび近付く者多く」当時、越中(富山)から加賀へ出稼ぎに出て来るものが多かったことが判る。]

 然れども、底心に惡意ありける者にや、博奕或は人をたぶらかすことは止まず。

 され共巧(たくみ)に能くいひぬけて世を渡りけるが、惡緣にや其隣の割場付小遣(わりばつきこづかひ)何某の妻に密通して、わりなく通ひけるが、折節給分の銀を會所(くわいしよ)より此小遣何某請取り來り、則(すなはち)其銀を女房に預け、五六里許遠き所へ一二日の逗留とて出で行きし。

[やぶちゃん注:「割場付小遣」森下徹氏の論文(研究ノート)「加賀藩割場と足軽・小者」に、『加賀藩には、割揚とよばれる、藩直属の足軽・小者を管轄する機関があった』(PDF)とある。その詳しい職務はリンク先を読まれたいが、その「割場」に所属した下級の使用人のことであろう。

「會所」江戸時代は諸藩の行政や財政上の役所・町役人・村役人の事務所、また商取引や金融関係の事務所にこの名がつけられたが、特に金沢町奉行の役場を「會所」と呼んだことが、「稿本金沢市史 風俗編第一」(昭和二(一九二七)年~昭和八(一九三三)年・国立国会図書館デジタルコレクション)のこちらに記されてあった。]

 妻は留守を悅びて、頓(やが)て彼(かの)忍び男を招きしに、次郞兵衞忽ち來り、いつよりも睦敷(むつまじく)打圍(うちかこ)みて、

「扨主(ある)じの預け置し給銀を我に與ヘよ。『人に盜まれたり』と答へんには、後難(こうなん)あるべからず。其上、此銀を元手として、一二夜のうちに博奕に仕合(しあは)すれば、銀を返し置くなれば別事(べつじ)あるべからず」

と云ひけるに、流石(さすが)女氣(をんなぎ)の斯迄(かくまで)の惡事には堪へざりしを、色々とすかしけれども、女云ひけるは、

「情(じやう)にひかれて不義をなしぬるは、遁(のが)るゝ方なき惡事なれども、をさなひより語らひし人の、千々(ちぢ)に思ひ當り給へる給銀なれば、一年(ひととせ)の骨(ほね)を盜まんは、何と情によるとももだし難し」

[やぶちゃん注:「千々に思ひ當り給へる」散々に辛苦を重ねなさってやっと得た。

「一年の骨」一年の骨折り。

「もだし難し」背くわけにはゆかない。]

と受けがはざりければ、次郞兵衞怒りを起し、

「斯迄わけて云ふに隨はざる女、捨ておかば此程ほどの事共(ことども)夫にかたり我を罪してん。よしや是迄の緣思ひ知れ」

[やぶちゃん注:「わけて云ふに」ちゃんと判るように仔細に分けて説明したのに。]

と脇差を拔き脊中へ突當て、

「いかに我詞に隨ふまじきか」

と云へば、女曰く、

「いかに責め給ふ共、かゝる不義の事はせじ。今聲を立ざるものは、君を思ふ故なり。與へざる物は先(まづ)夫の恩を忘れざればなり。早く殺して銀を取去(とりさ)らるべし」

と云ひけるに、情なくも刺殺(さしころ)して、銀を奪ひて立隱れける。

 夜明けてあたりより見付け、夫(をつと)へも人を馳せて、公邊(こうへん)此盜賊の事殊に御吟味强く、彼(かの)次郞兵衞何かに付け疑ひ懸り、頓て召捕(めしとら)はれ、數度の責(せめ)に白狀して罪に落ちければ、

「次郞兵衞生國越中の者なり」

とて、下鄕百ケ坂(しもがうももがさか)と云ふ山にて磔(はりつけ)の刑にぞ行はれける。

[やぶちゃん注:「公邊」公儀。ここは加賀藩藩方の意。

「下鄕百ケ坂」石川県金沢市百坂町。ここはかつては河北郡坂井村で、坂井村は明治二二(一八八九)年の町村制施行で神谷内村・柳橋村・横枕村・法光寺村・百坂村・金市新保村・新保荒屋村・福久村の区域をもって発足している。原地域の東半分は丘陵上になっているから、その辺りか。]

 其頃は未だ高岡なる親の生きてありしに、此見物の群集に紛れて密(ひそか)に窺ひけるが、何やらん獨りつぶやき、淚にむせばれたるを、かたへの人々問ひ寄りしに、ざんげとて語られける。

[やぶちゃん注:「ざんげ」はママ。一般には江戸時代は「懺悔(懺悔)」は「さんげ」と頭は清音で読むのが普通であった。]

「我は今磔にある次郞兵衞が親なるが、某も元は金澤通ひして商(あきなひ)せる者なり。或時此桃が坂に磔の刑ありしを見物に行く人の多かりし。此(この)次郞兵衞が親の某(それがし)も、折から道通りがけにて、共に立寄りて是を見物しけるに、一身寒き事水を以てそゝぐが如し。いかに思ひ直せども止まざりしが、其夜高岡に歸りて女房に語りけるに、是も

『何となく寒し』

とて振(ふる)ひ付きしが、其時妻身持(みもち)になりて、終に此次郞兵衞を產み落せしなり。色よき[やぶちゃん注:見栄えのよい。]兒(こ)なりしかども、其事を思へば心安からず、とかく寒む氣(け)の止まざりしも、けふの場に懸るべき業(ごふ)にやありけん。『眞如隨緣(しんによずゐえん)の波は立盡(たちつく)さず』といへども、同じくは九品蓮臺(くほんれんだい)の緣を結びて、此娑婆の執着こそ逃(のが)れたきなれ。目前に再生の業人(ごふにん)を產んで、猶未だ斑(まだら)なる髮をおしみ、剃捨(そりす)つる心の起らざるは、扨も扨も罪業淺ましき」

と老の齒ぐきに淚を嚙みしめてぞ聞へけること、皆緣によるといへども、かゝることも又ためしなきや。

[やぶちゃん注:「眞如隨緣」絶対不変である真如(仏法の真理)が、縁に応じて種々の現われ方をすること。

「九品蓮臺」極楽浄土にある蓮の葉で出来た台。往生すればその上に生まれ出ずるという。その往生の仕方には下品下生(げぼんげじょう)から各上・中・下で上品上生までの九等の階位がある。

「かゝることも又ためしなきや」「それにしても……ここまで奇体な因果応報の例もまた……これ、あるものなのだろうか?」という反語的疑問の謂いであろう。私も多くの怪奇談・因縁物を読んできたが、こうした思いも寄らぬ現世応報譚は珍しい部類に属する(普通の作り物の仏教説話譚なら、最後にこの次郎兵衛親の前世の因縁辺りを開陳して説いて論理的辻褄を合わせるところだが、それがないからこそ本篇には驚愕のリアリズムが逆に発生すると言える。特に最後のコーダを、親が涙を歯茎に噛み締めるアップで終わらせている辺りは強烈である。但し、落ち着いて考えると、こういた構成全体は、残酷性の強い浄瑠璃のある種のパターンとよく似ていることに気はつく)。また、誠意を示した割場小遣の妻を平然と刺し殺す次郎兵衛の全き極悪性も極めつけに際立っており(これも浄瑠璃の悪党にしばしば見られる)、読み終えた後に、何時までも何とも言えぬ救い難い不快な憂愁が立ち罩めるというのも珍しい。]

三州奇談卷之二 少女變ㇾ鼠

      少女變ㇾ鼠

 金澤竪町橫小路のうち脇田何某の長屋の内に、「鼠妖」と云ひはやしける事あり。

[やぶちゃん注:「金澤竪町」既出既注。現在の石川県金沢市竪町(グーグル・マップ・データ)。兼六園の南西直近。その「橫小路」というのは不詳だが、こう呼称する以上は、竪町を北西から南東に貫通する通りの左右の小路の孰れかであろう。]

 延享いづれの年にや、十月頃の事なりし。

[やぶちゃん注:「延享」一七四四年~一七四八年。]

 此長屋の内に鼠あれて、衣類・道具・銅までも疵付け、喰ひちらし、長持・簞笥などへ幾重か入れ置けども、ふしぎに喰破(くひやぶ)りし。色々防ぎけれども、とかくやまず。

 其中に石坂町甚助と云ふ者の娘、十二歳になりけるが、奉公に來り居りしに、是が衣類・手道具・紙・鬢付油等も一つもあたらず。樣々に試むるに、とかく心得難き事多し。

「大方此娘がしわざならん」

と、朋輩云ひ合せ、主人へ訴へけれども、

「何共(なんとも)心得ぬこと」

とて、先づ只鼠狩出(かりだ)しけれども、おとし[やぶちゃん注:「鼠落とし」。人工の鼠捕り機。]にも落ちず、猫にもおぢず、每夜々々鼠あれければ、詮方なくて朋輩の訴へに任せて、をかしき事ながら、

「此娘を詮議せよ」

と呼出(よびいだ)し、云ひ聞せけるに、返答分明ならず。

「さらば」

とて、暇(いとま)をとらせ、石坂町へ返しけるに、其夜より鼠

「ふつ」

と出(いで)ず。

 物音もなし。

 餘りふしぎ故に、又娘を呼返し、段々尋られけるに、

「今は何をか隱し申さん、私(わたくし)眠ると思へば、鼠多く來りて、胸へ上ると迄は覺えて、夫より夢中の如し。箱をあけ、長持を引出し申せし事も、成程私覺えあれども、朋輩へ恐ろしく隠し申せしなり。夜と共に駈巡り、晝は草臥(くたびれ)はてゝ、氣色(けしき)も惡く侍りぬ。何かとの罪赦し給へ」

と淚を流しぬ。

 あまりのふしぎさに、

「病にて有べし」

となぐさめて戾しけるが、其後(そののち)、此娘久しく煩ひしと聞きしが、末は知らず。

[やぶちゃん注:ここまですっかり忘れてしまっていたが、私は既に「柴田宵曲 妖異博物館 鼠妖」で電子化していた。但し、そちらは国書刊行会本を底本として、恣意的に漢字を正字化したものであり、全くゼロから電子化注した。但し、そこで私は『これは明らかに、未成年の少女が意識的・無意識的に起こす疑似的超常現象であって、恐らくはこの娘の奉公への強いストレスが原因となった行為であったと私は推理する』と述べた考え方は全く変わらない。]

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 手套を脱ぐ時 (その1)

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。なんだか疲れたので、二つに分割して示す。]

 

    手套を脫ぐ時

 

手套(てぶくろ)を脫(ぬ)ぐ手(て)ふと休(やす)む

何(なに)やらむ

こころかすめし思(おも)ひ出(で)のあり

 

 手套を脫ぐ手ふと休む

 何やらむ

 こころかすめし思ひ出のあり

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は明治四三(一九一〇)年五月号とし、この時、『作者の心をかすめた思い出は、東京日日新聞明治四十三年四月八日号に掲げられたこの歌の原型ともいうべき「褐色(かついろ)の皮の手套脱ぐ時にふと君が手を思ひ出(で)にけり」から察することができる』と述べておられる。]

 

 

いつしかに

情(じやう)をいつはること知(し)りぬ

髭(ひげ)を立(た)てしもその頃(ころ)なりけむ

 

 いつしかに

 情をいつはること知りぬ

 髭を立てしもその頃なりけむ

 

 

朝(あさ)の湯(ゆ)の

湯槽(ゆぶね)のふちにうなじ載(の)せ

ゆるく息(いき)する物思(ものおも)ひかな

 

 朝の湯の

 湯槽のふちにうなじ載せ

 ゆるく息する物思ひかな

[やぶちゃん注:以下四首は、底本としている「国文学研究資料館」の「電子資料館 近代文献情報データベースポータル」内「近代書誌・近代画像データベース」にある「高知市民図書館」の「近森文庫」所蔵にかかる「一握の砂」初版が、画像作成ミスで「214」頁と「215」頁が飛んでしまっているために視認出来ない。そこで、ずっと新しいが、国立国会図書館デジタルコレクションの「一握の砂」(昭和二一(一九四六)年高須書房刊)の当該歌を確認したが、それはルビを省略してあるものであるため、筑摩書房「石川啄木全集」の「第一巻 歌集」(昭和五三(一九七八)年刊)の本文のルビを補い、本文も校合した。

 

 

夏來(なつく)れば

うがひ藥(ぐすり)の

病(やまひ)ある齒(は)に沁(し)む朝(あさ)のうれしかりけり

 

 夏來れば

 うがひ藥の

 病ある齒に沁む朝のうれしかりけ

 

 

つくづくと手(て)をながめつつ

おもひ出(い)でぬ

キスが上手(じやうず)の女(をんな)なりしが

 

 つくづくと手をながめつつ

 おもひ出でぬ

 キスが上手の女なりしが

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四十三年三月三十一日附『東京朝日新聞』。また、『「キスが上手の女」は釧路時代』、『交遊のあった芸者小奴であろう。明治四十一年十二月一日、上京した彼女と再会した啄木は、上野の不忍(しのばず)の池(いけ)のほとりを手をとって歩き、日記にも「別れる時キツスをした」と書いている』とある。]

 

 

さびしきは

色(いろ)にしたしまぬ目(め)のゆゑと

赤(あか)き花(はな)など買(か)はせけるかな

 

 さびしきは

 色にしたしまぬ目のゆゑと

 赤き花など買はせけるかな

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「一握の砂」(昭和二一(一九四六)年高須書房刊)の当該歌を確認したが、「ゆゑ」が「ゆへ」となっており、歴史的仮名遣を誤っている。しかし、基礎底本である「国文学研究資料館」の「電子資料館 近代文献情報データベースポータル」内「近代書誌・近代画像データベース」にある「高知市民図書館」の「近森文庫」所蔵にかかる「一握の砂」初版の次のページから、幸いなことに辛うじて裏が透けて見え、正しく「ゆゑ」と書かれていることが判り、筑摩書房版石川啄木全集で確認し、「ゆゑ」とした。

 

 

新(あたら)しき本(ほん)を買(か)ひ來(き)て讀(よ)む夜半(よは)の

そのたのしさも

長(なが)くわすれぬ

 

 新しき本を買ひ來て讀む夜半の

 そのたのしさも

 長くわすれぬ

 

 

 

旅(たび)七日(なのか)

かへり來(き)ぬれば

わが窓(まど)の赤(あか)きインクの染(し)みもなつかし

 

 旅七日

 かへり來ぬれば

 わが窓の赤きインクの染みもなつかし

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四十三年三月十八日附『東京朝日新聞』であるが、全集年譜(同じく岩城氏編)でこれ以前の直近を遡ってみても、上京以後、一週間の旅をした事実は見当たらない。従ってこれは上京以前の過去に遡った追想によるものであると考えられる。]

 

 

古文書(こもんじよ)のなかに見(み)いでし

よごれたる

吸取紙(すひとりがみ)をなつかしむかな

 

 古文書のなかに見いでし

 よごれたる

 吸取紙をなつかしむかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書では、「古文書」を文字通りのそれではなく、啄木自身の『古い草稿の類をさす。啄木は』自分が過去に書いた『古い小説の原稿や詩稿の中にまじっていた一枚の、「よごれた吸取紙」に創作に熱中した過去の自己の姿を想起して、懐かしく思ったのである』とあり、腑に落ちる、というより、自分の過去の草稿を「古文書」と表現するのは詩語としてはかなり無理があるのであるが、「吸取紙をなつかしむかな」という感慨によって、それでなくてはならぬなという読者側の読みが決定するようになっており、自然、そう読めるようになっていると言える。穿って考えれば、自己のたかだか数年前の草稿類を「古文書」と意識する辺りに、啄木の微苦笑の向こうに、いかにもやるせない憂鬱な触覚的悲哀的感情の発露があるように思われる。

 

 

手(て)にためし雪(ゆき)の融(と)くるが

ここちよく

わが寐飽(ねあ)きたる心(こころ)には沁(し)む

 

 手にためし雪の融くるが

 ここちよく

 わが寐飽きたる心には沁む

 

 

薄(うす)れゆく障子(しやうじ)の日影(ひかげ)

そを見(み)つつ

こころいつしか暗(くら)くなりゆく

 

 薄れゆく障子の日影

 そを見つつ

 こころいつしか暗くなりゆく

 

 

ひやひやと

夜(より)は藥(くすり)の香(か)のにほふ

醫者(いしや)が住(す)みたるあとの家(いへ)かな

 

 ひやひやと

 夜は藥の香のにほふ

 醫者が住みたるあとの家かな

 

 

窓硝子(まどガラス)

塵(ちり)と雨(あめ)とに曇(くも)りたる窓硝子(まどガラス)にも

かなしみはあり

 

 窓硝子

 塵と雨とに曇りたる窓硝子にも

 かなしみはあり

 

 

六年(むとせ)ほど日每日每(ひごとひごと)にかぶりたる

古(ふる)き帽子(ぼうし)も

棄(す)てられぬかな

 

 六年ほど日每日每にかぶりたる

 古き帽子も

 棄てられぬかな

[やぶちゃん注:最後は無論、「どうしても捨てられないものだなあ」である。また、その前の累加の係助詞「も」は私には――「私自身」と同様に――というアイロニーをも感ずるものである。]

 

 

こころよく

春(はる)のねむりをむさぼれる

目(め)にやはらかき庭(には)の草(くさ)かな

 

 こころよく

 春のねむりをむさぼれる

 目にやはらかき庭の草かな

 

 

赤煉瓦(あかれんぐわ)遠(とほ)くつづける高塀(たかべい)の

むらさきに見(み)えて

春(はる)の日(ひ)ながし

 

 赤煉瓦遠くつづける高塀の

 むらさきに見えて

 春の日ながし

 

 

春(はる)の雪(ゆき)

銀座(ぎんざ)の裏(うら)の三階(さんがい)の煉瓦造(れんぐわづくり)に

やはらかに降(ふ)る

 

 春の雪

 銀座の裏の三階の煉瓦造に

 やはらかに降る

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、初出は明治四十三年五月十六日附『東京朝日新聞』で、そこでは「春の雪滝山町(たきやまちやう)の三階の煉瓦造(れんぐわづくり)によこさまに降る」であるとある。而して『この歌は啄木が勤務した東京朝日新聞社のあった瀧山町(現在の中央区銀座六丁目朝日ビル前の並木通り)附近の煉瓦造りの建物に降る春の雪を歌ったことがわかる』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 

よごれたる煉瓦(れんぐわ)の壁(かべ)に

降(ふ)りて融(と)け降(ふ)りては融(と)くる

春(はる)の雪(ゆき)かな

 

 よごれたる煉瓦の壁に

 降りて融け降りては融くる

 春の雪かな

 

 

目(め)を病(や)める

若(わか)き女(をんな)の倚(よ)りかかる

窓(まど)にしめやかに春(はる)の雨降(あめふ)る

 

 目を病める

 若き女の倚りかかる

 窓にしめやかに春の雨降る

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四十三年五月二十一日附『東京朝日新聞』で、「手帳の中より」と題する五首の中の一首であるが、初出形は、

 目を病める女の夜(よる)の獨唱(そろ)よりも猶しめやかに春の雨降る

であるとされる。私は初出の方が好きだ。]

 

 

あたらしき木(き)のかをりなど

ただよへる

新開町(しんかいまち)の春(はる)の靜(しづ)けさ

 

 あたらしき木のかをりなど

 ただよへる

 新開町の春の靜けさ

 

 

春(はる)の街(まち)

見(み)よげに書(か)ける女名(をんなな)の

門札(かどふだ)などを讀(よ)みありくかな

 

 春の街

 見よげに書ける女名の

 門札などを讀みありくかな

[やぶちゃん注:「見よげ」如何にも「さあ! 御覧なさいよ!」といった感じに、の意。]

 

 

そことなく

蜜柑(みかん)の皮(かは)の燒(や)くるごときにほひ殘(のこ)りて

夕(ゆふべ)となりぬ

 

 そことなく

 蜜柑の皮の燒くるごときにほひ殘りて

 夕となりぬ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出の明治四十二年十二月号『スバル』では、

 そことなく蜜柑の皮のやくる如き香ひ殘りて夕となりぬ

とあまり変わらないものの、この一首、同年二月十七日附『国民新聞』にも再掲されているが、そこでは、

 そことなく蜜柑(みかん)の皮の燒くるごときにほひ殘りき君去りしのち

と一度大きく改変してあって、こちらは映像が全く異なるが、これは前の女の表札じゃあないが、如何にもでろりとしたこれ見よがしで、決定稿が、やはり、よい。]

 

 

にぎはしき若(わか)き女(をんな)の集會(あつまり)の

こゑ聽(き)き倦(う)みて

さびしくなりたり

 

 にぎはしき若き女の集會の

 こゑ聽き倦みて

 さびしくなりたり

 

 

何處(どこ)やらに

若(わか)き女(をんな)の死(し)ぬごとき惱(なや)ましさあり

春(はる)の霙降(みぞれふ)る

 

 何處やらに

 若き女の死ぬごとき惱ましさあり

 春の霙降る

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四十三年三月二十八日附『東京朝日新聞』。初出形は、

 何處やらに肺病患者(やみ)の死ぬ如き惱ましさあり春の霙(みぞれ)降る

であるとする。「やみ」は「患者」二字へのルビである。]

 

 

コニヤツクの醉(ゑ)ひのあとなる

やはらかき

このかなしみのすずろなるかな

 

 コニヤツクの醉ひのあとなる

 やはらかき

 このかなしみのすずろなるかな

[やぶちゃん注:「すずろなる」はここでは「何とはなしに」「そこはかとなく」の意。]

 

 

白(しろ)き皿(さら)

拭(ふ)きては棚(たな)に重(かさ)ねゐる

酒場(さかば)の隅(すみ)のかなしき女(をんな)

 

 白き皿

 拭きては棚に重ねゐる

 酒場の隅のかなしき女

[やぶちゃん注:丁度、今、展覧会が開かれている私の好きな後ろ姿の女性を多く描いたデンマークの画家ヴィルヘルム・ハンマースホイ(Vilhelm Hammershøi 一八六四年~一九一六年)の絵を想起させる。]

 

 

乾(かは)きたる冬(ふゆ)の大路(おほぢ)の

何處(いづく)やらむ

石炭酸(せきたんさん)のにほひひそめり

 

 乾きたる冬の大路の

 何處やらむ

 石炭酸のにほひひそめり

[やぶちゃん注:「石炭酸」フェノール (phenol:ベンゾール(benzenol))は有機化合物でC6H5OH。芳香族化合物の一種。常温では白色の結晶を成し、水彩絵具のような特有の鼻を衝く薬品臭を持つ劇薬。水で薄めたものが消毒液として用いられ、嘗てはよく街に撒かれた。]

 

 

赤赤(あかあか)と入日(いりひ)うつれる

河(かは)ばたの酒場(さかば)の窓(まど)の

白(しろ)き顏(かほ)かな

 

 赤赤と入日うつれる

 河ばたの酒場の窓の

 白き顏かな

 

 

新(あた)しきサラドの皿(さら)の

酢(す)のかをり

こころに沁(し)みてかなしき夕(ゆふべ)

 

 新しきサラドの皿の

 酢のかをり

 こころに沁みてかなしき夕

[やぶちゃん注:「サラド」サラダ(salad)。]

 

 

空色(そらいろ)の罎(びん)より

山羊(やぎ)の乳(ちち)をつぐ

手(て)のふるひなどいとしかりけり

 

 空色の罎より

 山羊の乳をつぐ

 手のふるひなどいとしかりけり

[やぶちゃん注:詠歌対象はカフェか酒場の女給であろう。]

 

 

すがた見(み)の

息(いき)のくもりに消(け)されたる

醉(ゑ)ひのうるみの眸(まみ)のかなしさ

 

 すがた見の

 息のくもりに消されたる

 醉ひのうるみの眸のかなしさ

[やぶちゃん注:憂愁の自己ポートレート。]

 

 

ひとしきり靜(しづ)かになれる

ゆふぐれの

厨(くりや)にのこるハムのにほひかな

 

 ひとしきり靜かになれる

 ゆふぐれの

 厨にのこるハムのにほひかな

[やぶちゃん注:酒場のキッチンの嗅覚的スケッチ。]

 

 

ひややかに罎(びん)のならべる棚(たな)の前(まへ)

齒(は)せせる女(をんな)を

かなしとも見(み)き

 

 ひややかに罎のならべる棚の前

 齒せせる女を

 かなしとも見き

 

 

やや長(なが)きキスを交(かは)して別(わか)れ來(き)し

深夜(しんや)の街(まち)の

遠(とほ)き火事(くわじ)かな

 

 やや長きキスを交して別れ來し

 深夜の街の

 遠き火事かな

 

 

病院の窓のゆふべの

ほの白き顏にありたる

淡き見覺え

 

 病院の窓のゆふべの

 ほの白き顏にありたる

 淡き見覺え

 

 

何時(いつ)なりしか

かの大川(おほかは)の遊船(いうせん)に

舞(ま)ひし女(をんな)をおもひ出(で)にけり

 

 何時なりしか

 かの大川の遊船に

 舞ひし女をおもひ出にけり

 

 

用(よう)もなき文(ふみ)など長(なが)く書(か)きさして

ふと人(ひと)こひし

街(まち)に出(で)てゆく

 

 用もなき文など長く書きさして

 ふと人こひし

 街に出てゆく

 

 

しめらへる煙草(たばこ)を吸(す)へば

おほよその

わが思(おも)ふことも輕(かる)くしめれり

 

 しめらへる煙草を吸へば

 おほよその

 わが思ふことも輕くしめれり

 

 

するどくも

夏(なつ)の來(きた)るを感(かん)じつつ

雨後(うご)の小庭(こには)の土(つち)の香(か)を嗅(か)ぐ

 

 するどくも

 夏の來るを感じつつ

 雨後の小庭の土の香を嗅ぐ

 

 

すずしげに飾(かざ)り立(た)てたる

硝子屋(ガラスや)の前(まへ)にながめし

夏(なつ)の夜(よ)の月(つき)

 

 すずしげに飾り立てたる

 硝子屋の前にながめし

 夏の夜の月

 

 

君(きみ)來(く)るといふに夙(と)く起(お)き

白(しろ)シヤツの

袖(そで)のよごれを氣(き)にする日(ひ)かな

 

 君來るといふに夙く起き

 白シヤツの

 袖のよごれを氣にする日かな

 

 

おちつかぬ我(わ)が弟(おとうと)の

このごろの

眼(め)のうるみなどかなしかりけり

 

 おちつかぬ我が弟の

 このごろの

 眼のうるみなどかなしかりけり

[やぶちゃん注:啄木(本名は一(はじめ))には弟はいない(姉二人と妹二人)。岩城氏の前掲書によれば、この「弟」は、『彼が』渋民尋常小学校の『代用教員時代』に、『二階を間借りしていた家の』『「我が弟」といって可愛がった』『少年』『斎藤佐蔵』であるとある。彼は盛岡中学校の後輩にも当たり、後、長く岩手郡下の校長を務めた。]

 

 

どこやらに杭打(くいう)つ音(おと)し

大桶(おほおけ)をころがす音(おと)し

雪(ゆき)ふりいでぬ

 

 どこやらに杭打つ音し

 大桶をころがす音し

 雪ふりいでぬ

 

 

人氣(ひとけ)なき夜(よ)の事務室(じむしつ)に

けたたましく

電話(でんわ)の鈴(りん)の鳴(な)りて止(や)みたり

 

 人氣なき夜の事務室に

 けたたましく

 電話の鈴の鳴りて止みたり

 

 

目(め)さまして

ややありて耳(みみ)に入(い)り來(きた)る

眞夜中(まよなか)すぎの話聲(はなしごゑ)かな

 

 目さまして

 ややありて耳に入り來る

 眞夜中すぎの話聲かな

 

 

見(み)てをれば時計(とけい)とまれり

吸(す)はるるごと

心(こころ)はまたもさびしさに行(ゆ)く

 

 見てをれば時計とまれり

 吸はるるごと

 心はまたもさびしさに行く

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『前歌と連作』とある。]

 

 

朝朝(あさあさ)の

うがひの料(しろ)の水藥(すゐやく)の

罎(びん)がつめたき秋(あき)となりにけり

 

 朝朝の

 うがひの料の水藥の

 罎がつめたき秋となりにけり

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四十三年三月二十六日附『東京朝日新聞』で、評釈に今井泰子氏の評を引いて、『「初出の月や同時発表に諸歌の主題からみて秋の歌ではなく、指先の触感がとらえた『秋』の印象に仮託して、悲しくものなつかしい感情をうた」』『ったものであろう』とされる。]

 

 

夷(なだら)かに麥(むぎ)の靑(あを)める

丘(をか)の根(ね)の

小徑(こみち)に赤(あか)き小櫛(をぐし)ひろへり

 

 夷かに麥の靑める

 丘の根の

 小徑に赤き小櫛ひろへり

[やぶちゃん注:「夷」には「平らか・穏やか・平らにする」の意がある。]

 

 

裏山(うらやま)の杉生(すぎふ)のなかに

斑(まだら)なる日影(ひかげ)這(は)ひ入(い)る

秋(あき)のひるすぎ

 

 裏山の杉生のなかに

 斑なる日影這ひ入る

 秋のひるすぎ

 

 

港町(みなとまち)

とろろと鳴(な)きて輪(わ)を描(ゑが)く鳶(とび)を壓(あつ)せる

潮(しほ)ぐもりかな

 

 港町

 とろろと鳴きて輪を描く鳶を壓せる

 潮ぐもりかな

 

 

小春日(こはるび)の曇硝子(くもりガラス)にうつりたる

鳥影(とりかげ)を見(み)て

すずろに思(おも)ふ

 

 小春日の曇硝子にうつりたる

 鳥影を見て

 すずろに思ふ

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『啄木の小説「鳥影(ちょうえい)』(『東京朝日新聞』明治四十一年十一月から十二月に連載)『によると、盛岡地方ではガラスに鳥影がうつると客が来るという言い伝えがあるといわれる』とある。同小説の当該部は「(五)の一」の末尾のシークエンスであるが、鳥の影が映るのは『障子』である。

「小春日」冬の初め頃の、暖かく穏やかな、一見、春のような日やその日差し。]

 

 

ひとならび泳(およ)げるごとき

家家(いへいへ)の高低(たかひく)の軒(のき)に

冬(ふゆ)の日(ひ)の舞(ま)ふ

 

 ひとならび泳げるごとき

 家家の高低の軒に

 冬の日の舞ふ

 

 

京橋(きやうばし)の瀧山町(たきやまちやう)の

新聞社(しんぶんしや)

灯(ひ)ともる頃(ころ)のいそがしさかな

 

 京橋の瀧山町の

 新聞社

 灯ともる頃のいそがしさかな

[やぶちゃん注:「京橋の瀧山町」既出既注であるが、当時、啄木が勤務していた東京朝日新聞社は、この頃は東京府東京市京橋区瀧山町であった。こちらで同町の詳しい変遷史が判る。]

2020/02/20

三州奇談卷之二 空家の妖猫

     空家の妖猫

 金澤家中御祐筆大村何某(なにがし)と云ふ人語られけるは、十七歲の時の事なり、勇氣も武藝も今よりはよくや侍らん。同苗何某が家、小立野(こだつの)にありけるが、久敷(ひさしき)遠所へ引越しける。其屋敷を門番のみ守りける。奥座敷は隣家へ近く、却て門へは遠かりしに、いつの程よりか奧座敷の家に人の住む躰(てい)なり。前の程は近所よりも、一類衆にても泊り居らるゝやと思ひけるが、門番に尋ね、一類衆に聞えてこそふしぎは立ちそめける。いかさま夜陰或は雨中の晝などは、四五人も物語りする躰(てい)なり。取分けて乳母の子をすかす聲は、慥に聞えける。

[やぶちゃん注:「祐筆」「右筆」とも書く。武家の職名で貴人に侍して文書を書く役目の人。「右筆」の文字は鎌倉時代から見え、鎌倉幕府では引付衆の下役に、室町幕府でも「右筆方」があり、「右筆」は「奉行人」などとも呼ばれている。戦国時代にも大名の身辺に右筆をおいた。江戸幕府も大老・老中・若年寄の下に奥右筆・表右筆が置かれ、また、このように諸藩の大名も身辺に右筆を置くことが多かった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「大村何某」加賀藩右筆に大村氏が確かにいる。

「小立野」石川県金沢市小立野(グーグル・マップ・データ)。

「一類衆に聞えてこそふしぎは立ちそめける」やや省略があるようで、「大村」氏の一族で彼の旧宅近くに住む親族の一類の者らに直接確かめたところ、そのような事実はなかった、ということであろう。]

 此事、隣家幷に向ひなどにも聞付けて、化物屋敷の樣に沙汰する程に、止むことを得ず若黨一人連れて、其家へ泊りに行しことあり。

 其頃は五月雨(さみだれ)のふりみふらずみ雲覆ひ、ねぶの花など落亂れ、殊に疊さへ上りて久敷人住まざりし家なれば、壁も落ち、屋ねも漏り、只四面𤲿(ゑがき)ける樣にかび渡り、居るべき樣(やう)もなかりけれども、明かさでは見屆け難く、我は座敷に座し、若黨は臺所に寢ころびて明かしける。

 我も鉢卷しめ、刀の目釘喰(くは)しめし、

「すはやといはば」

と待ち居ぬ。若黨は少し袖岡流の棒を覺へ居(をり)ければ、樫の棒を持ちて居(を)る。

[やぶちゃん注:「刀の目釘喰(くは)しめ」刀の柄の部分の刀身の茎(なかご)をとめる目釘を一度外して、改めて緩みがないように差し固めたことを指すように私には思われる。

「袖岡流の棒」明確なルーツを探し得なかったが、鈍体である棒を用いた護身術として広く知られたもののようで、後の芸能・大道芸にも伝えられた棒術のようである。]

 其夜は何の事なく、短夜の明易く明果(はて)しに、

「物の目にかゝらぬは口惜し」

とて、又明日の夜も同じ樣に行きて宿りけるに、其夜九つよりは早くや侍らん、臺所に居たる若黨、大音にて、

「推參なり」

とて、棒にて板の間を

「はた」

と打つに、寂として手ごたへの物もなかりけれども、我も其音に座を立ちけるに、座敷の壁へ

「くわつ」

と黃色なる明りの

「きらり」

とうつると見えし。其外何も目に懸かる物はなし。

 若黨に樣子を聞けば、

「前夜・今宵もはしりの本(もと)に物の見ゆる樣に侍りしが、今夜は正しく手本迄近寄ると思ふ頃に、『はた』と打ちけれども、何も手ごたへはなし」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「はしりの本」「走りの本」。台所の流しの外へ出る開口している部分。]

 彼(かの)黃に光りたる時は、家の内角々(すみずみ)迄も物見えけるが、何の音もなかりける。

 されども、是より怪みも止みて、人語もなくなりける。

 其後(そののち)同苗も歸り、家を修理して住みけるに、何のふしぎもなし。何となく其頃は「猫の妖」と云ふらしける。

[やぶちゃん注:本話は最後に突然根拠なく「猫の妖」とし、その根拠や証左・前振りの匂わせ等を殆んど示していない点(子を宥める乳母の声(母猫の子猫をあやす声と思しいか)、猫の毛色に似た黄色い妖光、台所の人の通れない猫なら通れそうな走り本ぐらい)、怪異が起こるのが実際の原住地でない同姓の一族の知り合いの旧宅というくだくだしい設定に(それは逆に事実譚らしいとも思わせる効果はあるが)、怪談としてのプレの要素に何かやや欠けている感じがあり、怪異自体も朦朧として映像的でなく、怪談作品としては下の部類に属するという感じが私にはする。]

三州奇談卷之二 幽冥有ㇾ道

     幽冥有ㇾ道

 享保の末年、金澤竪町(たてまち)に金子玄庵と云ふ醫師あり。年老(ねんらう)と云ひ、醫術も委しく、町醫師ながら甚だ流行(はやり)よく、頓(やが)て高祿にも召出さるべき風說ありき。

[やぶちゃん注:標題は「幽冥にも道有り」と読んでおく。陰気に満ちた幽冥界にも正しい道の論理があるということである。

「享保の末年」享保は二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日に元文に改元している。

「金澤竪町」現在の石川県金沢市竪町(グーグル・マップ・データ)。兼六園の南西直近。

「金子玄庵」実在した人物である。「加賀藩史料」第七編五百六十三ページの「前田直躬覚書」中にあると「石川県立図書館」公式サイト内の「石川県関係人物文献検索」の検索に載る。

「年老」信頼出来そうな相応の年嵩(としかさ)であること。]

 其子、玄俊と云ふ十七歲、生質(うまれつき)魯鈍なり。其頃、伊藤齋宮(さいき)と云ふ儒者ありき。莘野(しんや)先生と云ふ。是も此邊(このあたり)にて多く書生を集められけるにより、此玄俊も朝々(あさなあさな)四書を懷にして、此齋宮の宅に通はれし[やぶちゃん注:敬語はママ。]。道に菓子或は桃・柹などを密に買ひて食ふ。或は狗の狂ふ鷄の鬪ふなどを見て、終日(ひねもす)立盡す。行逢ふ知音(しるべ)、只眉をひそめて、

「此人にして此子あり」

といさめて家に返す。

[やぶちゃん注:「生質(うまれつき)」以下、「齋宮(さいき)」「莘野(しんや)」「知音(しるべ)」の読みは「近世奇談全集」に拠った。但し、「さいき」は確定ではない。「いつき」の可能性もある。

「伊藤齋宮」将軍吉宗と家重二代の侍講を務めた大儒室鳩巣の随筆「可観小説」ここここに出る(石川県立図書館によるPDF)。その内容からかなりの学識を持った儒者であったことが窺える。]

 五月雨(さみだれ)の晴し日、五月廿日かと覺ゆ。新竪町九里氏の邊り四辻に、此玄俊

「うつとり」

と立つこと半時許(ばかり)。是より行方しれず。

[やぶちゃん注:「新竪町」金沢市新竪町。竪町の南東端に続く。

「九里氏」「金沢古蹟志」巻十四のこちら(石川県立図書館によるPDF)に「○九里覺右衞門舊邸」の条があり、『元祿六』(一六九三)『年の士帳に、九里甚左衞門新竪町末と見え、享保九』(一七二四)『年の士帳に、千五百石甚左衞門新竪町とありて、明治維新廢藩の際まで、新竪町の廣見に代々居住せしかど、家屋を賣却して退去せり』とある屋敷であろう。武野一雄氏の「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」の『昔のまんまの町名②「水溜町」「新竪町」「杉浦町」』で幸いにも、旧絵図や現在の地図で、この九里家の位置が示されてあるのを見つけた。現在の新竪町の南端部分で、そうなると、彼が神隠しにあった四辻の候補は新竪町三丁目が挙げられよう。因みに、単に位置を示すだけのことで、どうでもいいことなのだが、個人ブログ「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」のこちらによれば、『この先祖の九里夕庵は前田綱紀の近臣で、二千石を賜っていたと云』い、『幕末の九里正長は「越登賀三州誌」等を著した「富田景州」の同僚だったと云う。九里氏の祖先の「九里甚左衛門」は当初、織田信長に仕え、前田利家が越前府中(福井県武生市)の城主の時に前田利家に仕官した加賀藩の古老で在ったと云う』。『この一族は、歴代、小姓頭、馬廻り役、定番頭、金沢町奉行、算用場奉行等の要職を歴任したと云』い、『加賀藩の学者の「富田景州」や「森田柿園」は特にこの氏族を「加賀藩成立以来の古老、知識人」として特に紹介している』。また、『前田利家が焼き討ちにして全山が殺害された富山県と石川県境の「石動山」は後に加賀藩によって一部が再興された』が、『この復興した「石動山」の別当には「九里一族」で、「高岡城の地鎮祭」を執行した「金沢波着寺住職の空照」が就任している』とあるなかなかの名門の家柄であったことが判った。]

 家内一統驚き、所々に尋人(たづねびと)を出(いだ)し、且つ鉦鼓をたゝき、名を呼ばはりて、野田邊若くは松山など尋廻れども得ず。

[やぶちゃん注:「野田」石川県金沢市野田町。新竪町南端から二キロ以上南東。

「松山」不詳。しかしここ、国書刊行会本では『若松山』とあり、これだと、新竪町東方の金沢区若松町(奥卯辰山の南西麓)で同前から四キロ圏内となるから、ここであろう。]

 とかくして一日過ぎて二日目の朝、犀川橋(さいかはばし)端(はし)魚屋市郞右衞門が店の前に寢て居(を)る。早速に連歸り試みる[やぶちゃん注:様子を調べてみると。]に、よく步行(ありきゆき)しものとみへて、こぶら張り、手足は茨(いばら)などにかゝり、痛める所又多し。衣服甚だよごれたり。

[やぶちゃん注:「犀川橋」現在の同名の橋は犀川河口近くのここにある。犀川のどこかの橋畔(新竪町直近にもあったろう)でもいいわけだが、神隠しにあって相応に優位に離れた場所で見つからなければお話にならない。試みに現在の地図で新竪町南端から犀川をこの橋を下ってみると、八キロメートルはある。ここをロケーションとしたい。]

「是必ず魔魅(まみ)野狐(やこ)わざにこそ」

とて、湯あみさせ、食をすゝめなどして、寢させ置きたり。

 一二夜は譯もなく寢たりしが、其後(そののち)起出で物を書き書を讀むこと別人の如し。眼中明らかに、日頃の顏色に非ず。人々

「何國(いづく)へ行たるか」

と問ふに、少しも答へず、只書を取りて講じ、筆を取りて書寫す。日頃の玄俊に非ず。

 親類皆魔狐の業(わざ)として、祈禱或は御符などを日々與へけれども、少しも受けず。

 此間三日妙論[やぶちゃん注:奇体な論説。]を云ひて聞かせけり。其中の詞に、

「天狗の姿山伏をなすものは、大峯葛城(かつらぎ)の見る所也。天狗は山陰の氣にこりて、隂中に形をなす。子の親の貌(かほ)に似る如く、或は昔『產婦うぶやのうちに「御ふくの面」を弄(もてあそ)ぶ者あり。其(その)產める所の子の貌、彼(かの)「おふく面」に類(るい)せり』と。是皆氣中に躰(たい)を請け、或は感ずる所に形をなす。加州等の山にある天狗は、多く姿は日傭人足(ひやとひにんそく)の者の如し。業(げふ)も或は石を引き、大木を荷ふの躰(てい)を移す。是又天然なり。然共(しかれども)山中觸るゝ所一應にあらず。感ずる所別なれば、小異ある事自然の理(ことわり)なり。却て幽冥の間、暫く五行の變氣に感じ、濕中濕氣(しつき)に生を享(うく)る者五行の正しき物を恐る。或は佛說の文字を恐る。譬へば「覺」の字あらんに、狐狸是を恐れ、毒蛇密(ひそか)に避くる物は、「本覺眞如」等の音(おん)通ふが故なり。或は金銀請取手形にある「覺」の字の如き、ひとつも幽物に驗(しる)しなし」

など云へり。

[やぶちゃん注:「大峯」修験道の根本道場一つである大峯山の山上ヶ岳山頂(奈良県吉野郡天川村)に建つ大峯山寺(おおみねさんじ)

「葛城」修験道の根本道場として最も知られる、現在の奈良県と大阪府東部との境にある葛城山(かつらぎさん)。「かづらき」とも読む。一言主神(ひとことぬしのかみ)と役(えん)の行者との伝説の地であり、その役の行者以来、修験道の霊場とされてきた。]

 平日は甚だ無口にて、四書猶よみ得ざる人なれば、人々大きに驚きぬ。別して親(おや)玄庵、是を

「鬼怪」

として甚だ憎み、打殺さんと用意す。

 第四日に至り、此者曰く、

「翁我を怪しむこと甚(はなはだ)し。惜(をしい)かな久しく爰(ここ)に留り難し」

と云ひ、

「よし去りて別人に行(ゆか)ん」

と云ふ。

 其聲、胸中に二人ありて云ふが如し。

 彌々(いよいよ)加持祈禱をなし、修驗者を撰(えら)み祈り立てしかば、彼(かの)者大(おほき)に笑ひて、

「我をして魔魅野狐の類とするや。なんぞ敬し拜して、六經(りくけい)・醫術・神道・佛書の深意を問ざるや。惜むべし惜しむべし。汝等正理(しやうり)幽冥にくらし。故に却(かへつ)て我を妖とす。甚だ文雅の害をなす。幽冥邪物(じやぶつ)のみにして正物(せいぶつ)なからんか。[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに『恐らくは、汝□[やぶちゃん注:編者の判読不能字。]人をあやまるべし。見よ見よ、』が入る。]冥護の助(たすけ)なくして豈(あに)功をなすものあらんや」

[やぶちゃん注:「六經」儒教で尊崇する六種の経典。元は「易経」・「書経」・「詩経」「春秋」・「礼記(らいき)」・「楽経(がくけい)」であったが、後に「楽経」が散逸して伝わらなくなったため、代わりに「周礼(しゅらい)」を加えて「六経」とした。「六籍」「六芸」も同義。

「文雅の害をなす」生半可で不完全なお主(ぬし)らの自分勝手で御都合主義の利己的な文芸が却って害を成して正しい理りを曇らせている、の意でとる。]

と云ひ終り、自ら井の本(もと)へ出で、水を汲み、杓を取りてひたひを洗ひ、襟本(えりもと)を洗ふこと數度、其儘氣を絕す。

 人々助け起し打臥せけるに、二三日寢て本心になれり。然共顏色彌々もぬけたる如く、終に愚鈍の人になりたり。

 程あらずして伊藤齋宮煩はれけるに、此金子玄庵、藥を違(たが)へ、忽ちに齋宮は死去せられける。

 夫より玄庵醫者の評よからず、一二年困窮して新竪町と云ふに借宅して居(を)られしが、是も程なく身まかられける。子息は如此(かくのごとく)なれば、家内散(ちりぢり)になりぬ。いかなる事にてかありけん。

[やぶちゃん注:国書刊行会本では末尾に『驗(しるし)は間もなくあらはれけり。』とあるが、これは寧ろ「終に愚鈍の人になりたり。」の段落の後にあるべきか。]

三州奇談卷之二 松任の姦女

     松任の姦女

 加州松任は中昔蕪木(かぶらぎ)衞門太夫の城下、近くは前田孫四郞殿の在城なりしが、今は城跡は田畑と變ずれども、町のみ金城に隣(となりす)れば、往來に增して賑ひける。

[やぶちゃん注:標題は「姦女」で「女が犯されること・事件」の意であるが、その惡因縁の真相が後で明かされる形をとっている。

「松任」現在は白山市内となった旧松任(まっとう)市。この付近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「蕪木衞門太夫」鏑木永政。「石川県石川郡誌」(昭和二(一九二七)年刊)の「第十四章 松任町」の「名蹟」の「松任城址」(松任駅の直近に松任城址公園内に城跡があるが、城跡としては殆んど原型を留めていないようである)によれば、別に「蕪城址」(「かぶらぎじょうし」と読んでおく)と称するとあり(国立国会図書館デジタルコレクション)、次のページに『天文四年鏑木右衛門太夫永政、その子右衛門尉賴信、其の子勘解由等來り代つて是れを領す』とある。嶋田良三氏のサイト「ののいち地域事典」の「富樫のふるさと」にも、天文四(一五四〇)年に『鏑木永政(かぶらきえいせい[やぶちゃん注:清音表記となっている。])の子頼信が代ってこの地を治めるようにな』ったとある。

「前田孫四郞」藩祖利家嫡男で加賀藩初代藩主となった前田利長(永禄五(一五六二)年~慶長一九(一六一四)年)の通称。

「金城」金沢。]

 其地に素園と云ふ尼、萬法一心と云ふ事を、

  百生や蔓一すじの心より   千 代 尼

と聞へぬ。德はかならず隣あり。此地尙雅婦人(がふじん)多しと聞けど、之を略す。

[やぶちゃん注:「素園」「千代尼」加賀千代女(元禄一六(一七〇三)年~安永四(一七七五)年)。この松任の表具屋の娘として生まれた。十一、二歳の頃、奉公した本吉の北潟屋主人岸弥左衛門(俳号は半睡で後に大睡と変えた。「水嶋の水獸」で既注)から俳諧を学んだ。十七の時、北陸巡遊中の各務支考に見い出され、一躍、中央の俳壇にも知られるようになった。さらに享保一二(一七二七)年には支考の門人仙石廬元坊の来訪をうけて「松任短歌行」をものしている享年七十三歳。千代女・千代尼は通称で、素園は号。

「百生や蔓一すじの心より」「すじ」はママ。「百生(ひやくなり)や蔓(つる)一(ひと)すぢの心(こころ)より」。本浄高治氏のブログ「歴史散歩とサイエンスの話題」のこちらによれば(自筆句の屏風写真あり)、この句は『天台宗の観法の一つ』で、『一念の心に三千の諸法を具す』という心を『詠み込』んだもので、彼女が二十五歳の頃、『永平寺へ参拝したとき、禅師からの「三界唯心」句作の頼み』と学んだこと『による』句とされ、『千代女が最も好きな作品と言われてい』るとある。「百生」と『いうのは、ひょうたんが一本のつるに、大小さまざまな実を付けること』で、所謂『千成瓢箪』のこと。『千代女は、百生といわれる、数多くのひょうたん一つ一つを見れば、大きさ、形はさまざまである。そのことから、つる一すじの心から、鬼も生まれ、仏も生まれる。心が何よりも大切である、と詠み込んでいる』とある。屏風の句には「三界唯心」の『前書』があり(画像が小さく読めない)、これは『欲界、色界、無色界の三界に存在するものは全て心によって認識されるもので、心を離れては何も存在しない、という』意であるとされるから、ここの「萬法一心」も同義である。また、『署名の号(ごう)が千代尼となっているのは』、宝暦四(一七五四)年に五十二歳で『剃髪して尼になっていた』ことにより、『その時から、素園(そえん)とも名乗っ』たとある。]

 寶曆十二年の春、ふしぎなる姦惡の事あり。松任にては人も敬ひ町役をも勤る人、何某やとやらん、油をしめ種を商ふありし。

[やぶちゃん注:「寶曆十二年」一七六二年。

「油をしめ種を商ふ」「油を絞め、種を商ふ」で菜種等の油を搾って売ったり、その種を売る商売をするの謂いか?]

 其家の内儀、娘二人、下女一人、下男一人を具して、人の招(まねき)によりて、金城の城下へ行れける。纔(わづ)か三里の道ながら、女出立(いでたち)の何くれと夜をこめては拵へながら、漸(やうや)く晝少し前ならんに步行(ありき)よりぞ出られける。道にて、馬方ども五六人立並び咄しけるに行逢ふは、皆近き邊りの者、此家へ出入する者、又は其家よりも出たる者も有し程に、何かと打物語りせしうちに、一人の馬士(まご)下女と戲れけるを、内儀・娘ことなう打腹立(うちはらだち)て、はづかしめ叱られけるを、却つて互に詞(ことば)論(ろん)のやうになり行きし[やぶちゃん注:激しい言い争いとなってしまった。]。元來馬士共其日は夥しく酒を吞み、醉居たりし故にや、心太くいかめしく詈(ののし)り合ひしが、

「さらば斯せんにいかゞしつべき」

とて、下女を打かづきてかたへの山道へ走り行く。

 人々あはてとゞめんとするを、馬士六人して内儀・娘二人共に引かゝへ引かゝへ、山道の方へ走り込む。

 一僕の怒りけるをとらへて、田の中へ見へぬ許りに押こみ、彼の四人の女抱きたはふれ、山の傍(かたはら)にて白晝に姦婬する狼籍、古今に聞えず。

 下女は漸く振切りて逃げのがれたりしとかや。

 内儀・娘はいかなる惡緣にや、終に巫山雲雨(ふざんうんう)の情懷を遂げ、鬼と一車に乘れる心地なりし。

[やぶちゃん注:「巫山雲雨」本来は「男女が夢の中で結ばれること・「男女が情を交わすこと」で宋玉の「高唐賦」にある楚の懐王が昼寝の夢の中で巫山の神女と契ったという故事による成句。しかしここは強姦されたことを指す。]

 其内に一僕起いでけれども、一人の力さゝへ難ければ、大にさけびて松任へ走り觸れ呼はりけるにぞ、此家の親類など走り來たりけれども、此間路遠ければ、馬士共心足りぬと、いづくともなく逃れける。

 其跡へ大勢寄來りて、土まぶれなる内儀・娘など起し、漸く駕籠にのせて、人目防ぎて歸られぬ。

 往還といひ、白晝といひ、隱すべきにあらざれば、金澤の奉行所へ訴へけるに、馬士共皆見知りたる上なれば、遁(のが)るべきやうなく、六人共召捕(めしとら)れ、「溢(あぶ)れ者晝强盜」と名付けて禁牢仰付られぬ。

 扨も松任の商家の内儀も娘も死なざりしを悔めども、今更詮方なし。近隣一族より見舞悔みの挨拶も詞なきものなりし。近隣皆

「笑止笑止」

と歎きしに、其筋向ひなる家の老翁一人、曾て悔みも云はず。人來り尋れば、

「因緣なり。遁(のが)るべからず」

とのみ云し。其故を尋ぬれども云はず。

 今年は寶曆十三年もはや事納り、浮名も例の七十五日に流れて、娘共も夫々(それぞれ)緣付たれば、彼(かの)老翁に

「折を得て咄し給へ」

と云に、老翁曰く、

「我はあの家へは古へより通ひて、悉く其事を知れり。今の内儀は家の娘にして、亭主は外より貰ひたる聟なり。此娘二三歲の頃より、其家の乳母なる者娘を抱きて小便をやるに、必ず馬屋の中、馬草の上ヘさせける。戲れに云けるは、

『馬よ、よくねぶるべし。此御子の小便ぞや、頓(やが)て嫁にやるぞ』

と云ひし。口癖よからざることに思ひしも、何事なくて年を經けるに、度々の事故(ことゆゑ)、我(われ)だに耳に障りて、折々馬の躰(てい)を見るに、頭(かしら)をうなだれ、目をすゑて、先(まづ)小便の懸りし草より喰ひける。

『昔桑蠶(くはご)のはじまりし故事も聞置(ききお)しものを』

と、折折は心を付けて叱りける。

[やぶちゃん注:「桑蠶(くはご)のはじまりし故事」中国でも日本でも馬の皮と融合した少女が蚕に変じてこの世に絹を齎したとされる蚕馬(さんば)伝説がある。蚕(カイコガの幼虫)は四度脱皮するが、頭部の形状(とくに後期齢)と斑紋が実際にシミュラクラで馬に似て見える。私の「柳田國男 うつぼ舟の話 三」の私の注で日中の伝承(多くは中国伝来とするが、私は一種の平行神話であると考えている)をみっちりと解説しているので参照されたい。]

 然共(しかれども)何の障りもなく、彼娘も内儀となり、又娘を二人姊妹設けられし。其詞は猶殘りて、今の乳母迄も云ひける。

 此馬、年老(としおい)て此馬屋のうちに死にける。

 其夜、今の狼籍せし馬士は、其頃未だ前髮[やぶちゃん注:元服前。町方でも概ね数え十五で元服した。]にて、此家に遣はれ居けるが、其夜は臺所に休み居しが、一聲

『あつ』

と云けるに、人々驚き搖起(ゆりおこ)すに、

『何も覺えず』

と云ふ。

『夢にても見たるならん』

など云ひしに、其あけの日、馬屋を見れば、彼老馬は落ちて[やぶちゃん注:倒れて。]死ゐける。

 我れ是を聞しより、密(ひそか)に心に記す。

 然るに此馬士の姦惡をなせし。其上に委(くはし)く心を付けて聞くに、内儀・娘共に引抱きて行くさま、甚だ怪し。此道は末に幅一丈許の用水をとる川あり。是を越ゆるとて、襟もとを脇に挾みて一足に躍り越えける。今思ひ合(あは)すに、只馬の所行の如し。

[やぶちゃん注:「甚だ怪し」国書刊行会本では『其』(それ)『はやし』とある。この方が後との繋がりからだと甚だ腑に落ちる。

「襟もとを脇に挾みて一足に躍り越えける」ここも国書刊行会本では

『襟もとを口にくはへ脇にはさみて一足におどり越(こへ)ける』

(「おどり」「こへ」の仮名遣はママ)とあり、やはりこちらの方が馬の仕草に似て見えて、らしい。

 其後に若き者共、

『馬士が人を抱きてさへ飛し川なり』

とて、飛んでみんと走り懸れども、一丈許も深き切岸なれば飛ぶ人なし。此馬追共は、日頃足筋こわく、中々飛得る者にあらず。

[やぶちゃん注:「こわく」「強健ではあるが、筋が固く、柔軟でないので」の謂いととっておく。]

 扨は彌々(いよいよ)物の付きてかく不道の心は發(おこ)りし或るべし。是に付けても善業(ぜんげふ)を得る人も、まゝ聞けること多し。目のあたり惡因にちなみて、鬼畜の業を得る人もまゝ聞ける事多し。

[やぶちゃん注:「善業」反対に、よい因果によって幸運を授かること。] 

 「隔ㇾ生則忘(せいをへだつればすなはちわすれず)」とは云ひながら、又一念五百生(しやう)、誓念(せいねん)無量劫(むりやうこう)なれば、只々忘れまじきは、後世(ごぜ)の一大事のみ」

と咳(しはぶ)きがちにぞ聞えける。

[やぶちゃん注:「隔ㇾ生則忘」音で「キヤクシヤウソクマウ(キャクショウソクモウ)」。人がこの世に生まれ変わる際に前世のことはその一切を忘れ去るということ。

「一念五百生、誓念無量劫」一瞬、心か正法を念ずれば、それは五百年に相当し、ゆるぎない誓約に基づく正念とならば、それは無限に力を持ち続けるの意であろう。]

2020/02/19

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 忘れがたき人人 二

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。「忘れがたき人人 一」はこちら

 學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、本パート全二十二首は総て恋歌で、『いずれも啄木が教鞭をとった函館区立弥生尋常小学校の同僚の女教師橘智恵子(戸籍チエ)を詠めるものである』井上伸興氏の「啄木と三人の女性」に三回に分けて橘智恵子についての記載がある。井上氏の記載その他によれば、彼女は札幌郊外の農園主の娘として明治二二(一八八九)年に生まれ(啄木より三歳年下)で、明治三九(一九〇六)年三月二十七日に北海道庁立札幌高等女学校補修科を修了、同日附で弥生尋常小学校の訓導となった。啄木は翌明治四十年六月十一日に同校の代用教員となった。後の明治四三(一九一〇)年、智恵子は牧場主北村謹(きん)と結婚したが(このデータはサイト「asahi.com」の「愛の旅人」の「石川啄木と橘智恵子」に拠った)、大正一一(一九二二)年十一月、産褥熱で三十四歳の若さで死去したとある。井上氏は『啄木が智恵子に会って直接話したのは二度しかない。一度目は、彼が函館の大火で札幌に移転することを決めて、大竹校長に退職願を提出するため、同家を訪問した際、偶然その席に智恵子もいたのである』とされる一方で、彼女との関係は『啄木の片恋などとは断定できないのであって、この二人は相思相愛であったと見るのが正しい判断であると私は考えている』と述べておられる。同ページでは他に先に出た「芸者小奴」(三回分割)と妻「石川節子」(全二十六回)も載る。]

 

   

 

いつなりけむ

夢(ゆめ)にふと聽(き)きてうれしかりし

その聲(こゑ)もあはれ長(なが)く聽(き)かざり

 

 いつなりけむ

 夢にふと聽きてうれしかりし

 その聲もあはれ長く聽かざり

 

 

頰(ほ)の寒(さむ)き

流離(りうりの旅(たび)の人(ひと)として

路問(みちと)ふほどのこと言(い)ひしのみ


 頰の寒き

 流離の旅の人として

 路問ふほどのこと言ひしのみ

 

 

さりげなく言(い)ひし言葉(ことば)は

さりげなく君(きみ)も聽(き)きつらむ

それだけのこと

 

 さりげなく言ひし言葉は

 さりげなく君も聽きつらむ

 それだけのこと

 

 

ひややかに淸(きよ)き大理石(なめいし)に

春(はる)の日(ひ)の靜(しづ)かに照(て)るは

かかる思(おも)ひならむ

 

 ひややかに淸き大理石に

 春の日の靜かに照るは

 かかる思ひならむ

 

 

世(よ)の中(なか)の明(あか)るさのみを吸(す)ふごとき

黑(くろ)き瞳(ひとみ)の

今(いま)も目(め)にあり

 

 世の中の明るさのみを吸ふごとき

 黑き瞳の

 今も目にあり

 

 

かの時(とき)に言(い)ひそびれたる

大切(たいせつ)の言葉(ことば)は今(いま)も

胸(むね)にのこれど

 

 かの時に言ひそびれたる

 大切の言葉は今も

 胸にのこれど

 

 

眞白(ましろ)なるランプの笠(かさ)の

瑕(きず)のごと

流(りうり)離の記憶(きおく)消(け)しがたきかな

 

 眞白なるランプの笠の

 瑕のごと

 流離の記憶消しがたきかな

[やぶちゃん注:これは単独で読めば、啄木の「流離」の孤独な境涯を詠んだだけに見えるが、岩城氏は前掲書で、『北海道流浪時代の忘れ得ぬ女性』(無論、橘智恵子を指す)『の思い出を、「眞白なるランプの笠の瑕のごと」とたとえている』と評釈されておられる。]

 

 

凾館(はこだて)のかの燒跡(やけあと)を去(さ)りし夜(よ)の

こころ殘(のこ)りを

今(いま)も殘(のこ)しつ

 

 凾館のかの燒跡を去りし夜の

 こころ殘りを

 今も殘しつ

[やぶちゃん注:この函館大火は明治四〇(一九〇七)年八月二十五日のもの。「函館市」公式サイトの「函館の大火史(説明)」によれば、午後十時二十分頃、東川(ひがしかわ)町にあった石鹸製造所から出火(洋燈の転落によるという説がある)し、『非常に強い東風と飛火により』、『各所に延焼したため,消防活動が思うようにならず,火勢は拡大して』二十町に及ぶその『一部を焼失し』、翌二十六日午前九時二十五分に『ようやく鎮火した』とあり、被害は罹災面積四十万坪・焼失戸数一万二千三百九十戸・死者八名・負傷者一千『名に達した』とある。岩城氏の前掲書によれば、この時、『啄木一家は焼失を免れたが、勤務先の弥生小学校も、また遊軍記者となって入社したばかりの函館日日新聞社も焼失、結局』、『代用教員であった彼は九月十一日』に同校『校長に辞表を提出し、家族を残したまま九月十三日の夜』、『函館を去ったのである。「こころ残り」は橘智恵子に対する未練。九月十二日の日記に「橘女史を訪ふて相語る二時間余。我が心は今いと静かにして、然も云ひ難き楽しみを覚ゆ」とある』とある。]

 

 

人(ひと)がいふ

鬢(びん)のほつれのめでたさを

物書(ものか)く時(とき)の君(きみ)に見(み)たりし

 

 人がいふ

 鬢のほつれのめでたさを

 物書く時の君に見たりし

 

 

馬鈴薯(ばれいしよ)の花咲(はなさ)く頃(ころ)と

なれりけり

君(きみ)もこの花(はな)を好(す)きたまふらむ

 

 馬鈴薯の花咲く頃と

 なれりけり

 君もこの花を好きたまふらむ

[やぶちゃん注:ジャガイモの開花期は啄木の代用教員採用時期と合致する。]

 

 

山(やま)の子(こ)の

山(やま)を思(おも)ふがごとくにも

かなしき時(とき)は君(きみ)を思(おも)へり

 

 山の子の

 山を思ふがごとくにも

 かなしき時は君を思へり

 

 

忘(わす)れをれば

ひよつとした事(こと)が思(おも)ひ出(で)の種(たね)にまたなる

忘(わす)れかねつも


 忘れをれば

 ひよつとした事が思ひ出の種にまたなる

 忘れかねつも

 

 

病(や)むと聞(き)き

癒(い)えしと聞(き)きて

四百里(しひやくり)のこなたに我(われ)はうつつなかりし



 病むと聞き

 癒えしと聞きて

 四百里のこなたに我はうつつなかりし 

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『橘智恵子は、明治四十二年の春、急性肋膜炎のため二か月ほど入院、そのため』当時の『勤務先の札幌女子高等学校小学校を明治四十二年二月十五日付で退職している』(啄木はこの当時は既に東京にあった)。『啄木は二月二十日』、『智恵子の母より彼女が急性肋膜炎で入院した旨』の『通知を受け、二十二日付で長文の見舞いを出している。また智恵子より三月二十六日に退院したという葉書を四月七日に受け取っている』とある。井上伸興氏の「啄木と三人の女性」の「橘智恵子 ⑵」も参照されたい。]

 

 

君(きみ)に似(に)し姿(すがた)を街(まち)に見(み)る時(とき)の

こころ躍(をど)りを

あはれと思(おも)へ

 

 君に似し姿を街に見る時の

 こころ躍りを

 あはれと思へ

[やぶちゃん注:後の芥川龍之介の「侏儒の言葉」の「徴候」の二条目、

   *

 又戀愛の徴候の一つは彼女に似た顏を發見することに極度に鋭敏になることである。

   *

を想起させる。『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 徴候(二章)』を参照されたい。]

 

 

かの聲(こゑ)を最一度(もいちど)聽(き)かば

すつきりと

胸(むね)や霽(は)れむと今朝(けさ)も思(おも)へる

 

 かの聲を最一度聽かば

 すつきりと

 胸や霽れむと今朝も思へる

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書の評釈に、明治四二(一九〇九)年『四月九日のローマ字日記にも、「智恵子さん! なんといい名前だろう! あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり! さわやかな声! 二人の話をしたのはたった二度だ。一度は大竹校長の家で、予が解職願いを持って行った時、一度は谷地頭の、あのエビ色の窓かけのかかった窓のある部屋で――そうだ、予が『あこがれ』を持って行った時だ。どちらも函館でのことだ。/ああ! 別れてからもう二十ヵ月になる!」とある』とある。]

 

 

いそがしき生活(くらし)のなかの

時折(ときをり)のこの物(もの)おもひ

誰(たれ)のためぞも

 

 いそがしき生活のなかの

 時折のこの物おもひ

 誰のためぞも

 

 

しみじみと

物(もの)うち語(かた)る友(とも)もあれ

君(きみ)のことなど語(かた)り出(い)でなむ

 

 しみじみと

 物うち語る友もあれ

 君のことなど語り出でなむ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年五月十七日附『東京毎日新聞』で、『「君のことなど」五首中の一首。この歌がうたわれた五月、橘智恵子は良縁を得て北海道岩見沢市郊外の空知(そらち)郡北村第二区の北村牧場に嫁いだ。新郎は兄橘儀七の友人で北村謹という若き牧場主であった』とある。]

 

 

死(し)ぬまでに一度(いちど)會(あ)はむと

言(い)ひやらば

君(きみ)もかすかにうなづくらむか

 

 死ぬまでに一度會はむと

 言ひやらば

 君もかすかにうなづくらむか

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『この一首の解答として明治四十二年四月二十四日の啄木のローマ字日記にある智恵子の手紙が参考になろう。それには「札幌の橘智恵子さんから……『函館にてお目にかかりしは僅かの間に候いしがお忘れもなくお手紙……お嬉しく』――と書いてある。『この頃は外を散歩する位に相成り候』と書いてある。『昔偲ばれ候』と書いてある。そして『お暇あらば葉書なりとも――』と書いてある。」とある』とある。]

 

 

時(とき)として

君(きみ)を思(おも)へば

安(やす)かりし心(こころ)にはかに騷(さわ)ぐかなしさ

 

 時として

 君を思へば

 安かりし心にはかに騷ぐかなしさ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『四十二年四月九日のローマ字日記にも「人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから会いたい!」と書いている』とある。]

 

 

わかれ來(き)て年(とし)を重(かさ)ねて

年(とし)ごとに戀(こひ)しくなれる

君(きみ)にしあるかな

 

 わかれ來て年を重ねて

 年ごとに戀しくなれる

 君にしあるかな

 

 

石狩(いしかり)の都(みやこ)の外(そと)の

君(きみ)が家(いへ)

林檎(りんご)の花(はな)の散(ち)りてやあらむ

 

 石狩の都の外の

 君が家

 林檎の花の散りてやあらむ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、初出は『文章世界』明治四三(一九一〇)年十一月号とあり、以下、『橘智恵子の実家は北海道札幌郡札幌村十四番地にあった。父橘仁は越中富山の射水郡長慶寺村の庄屋の次男で、津田梅子の父仙の経営する学農社の出身』で、『明治十六』(一八八三)年に『北海道に渡り』、『札幌村で林檎園を営んでいた。母のイツは尾州刈谷藩の家老矢野貞胤の三女で東京府師範学校の出身、渡道後も札幌師範学校付属小学校等に教鞭をとった。父の仁は果樹園芸に生涯をかけ、明治三十八年十一月北海道果樹協会主催の大規模な果実品評会で、彼が出品した林檎「柳玉」が最高賞をとった』とある。なお、ここのみ、岩城氏の「鑑賞」の総てを引用させて戴いた。]

 

 

長(なが)き文(ふみ)

三年(みとせ)のうちに三度(みたび)來(き)ぬ

我(われ)の書(か)きしは四度(よたび)にかあらむ

 

 長き文

 三年のうちに三度來ぬ

 我の書きしは四度にかあらむ

[やぶちゃん注:本歌を以って「忘れがたき人人 二」は終わり、「忘れがたき人人」も終わっている。岩城氏は前掲書で、本「忘れがたき人人 二」について、『これらの作品が作られた期間』、『啄木と智恵子の音信はとぎれ、彼女の結婚さえ知らなかった。したがってこれらの作品は』、『実在の智恵子の動静とは無縁に成立していることがわかる。そこに清新な抒情が形成され、ひたすら思慕の情を抒情する美しい二十二首の作品群が生まれたのである』と記しておられる。]

2020/02/18

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 忘れがたき人人 一

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。……正直……この数週間……自分の誕生日さえも含めて……嬉しいことは一つもなく痙攣的に厭なことしかなかった……今も憂鬱であり……今後も恐らくはそうであろう……ともかくも……これをアップするためだけに今日は頑張った……とだけ言っておく…………

 

     忘れがたき人人

 

    

 

潮(しほ)かをる北(きた)の濱邊(はまべ)の

砂山(すなやま)のかの濱薔薇(はまばら)よ

今年(ことし)も咲(さ)けるや

 

 潮かをる北の濱邊の

 砂山のかの濱薔薇よ

 今年も咲けるや

[やぶちゃん注:學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、やはりロケーションは啄木が愛した北海道函館市大森町の大森海岸(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の砂山である。

「濱薔薇」バラ目バラ科バラ属 Eurosa 亜属 Cinnamomeae 節ハマナス Rosa rugosa の異名の一つ。漢字表記では「浜茄子」「浜梨」の他、漢名「玫瑰」もよく用いられる。初夏から夏季中に赤い花(稀に白花)を咲かせる。]

 

 

たのみつる年(とし)の若(わか)さを數(かぞ)へみて

指(ゆび)を見(み)つめて

旅(たび)がいやになりき

 

 たのみつる年の若さを數へみて

 指を見つめて

 旅がいやになりき

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年五月九日附『東京朝日新聞』。初出形は、

 たのみつる我の若さも漸くにたのみ少なし旅がいやになりぬ

で、『この初出歌から』、『たのみの少ない「我が若さ」が旅』(転々とする彷徨生活)『がいやになった原因であることがわかる。この年』(発表時)『啄木二十五歳。』(数え)『北海道へ渡ったのはその三年前の二十二歳のことである』とある。]

 

 

三度(さんど)ほど

汽車(きしや)の窓(まど)よりながめたる町(まち)の名(な)なども

したしかりけり

 

 三度ほど

 汽車の窓よりながめたる町の名なども

 

 したしかりけり

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『渡道の途中』、『汽車の窓より眺めた東北本線の沿線の町の回想。今井泰子氏も「歌の配置された位置からみえ、この『町の名』は好摩(こうま)以北の東北線沿線の町。啄木には四十年の北海道移住以前に二度』『の渡道経験がある』(「二度」とは明治三七(一九〇四)年秋と明治三九(一九〇六)年春のこと)」と述べている、とある。]

 

 

凾館(はこだて)の床屋(とこや)の弟子(でし)を

おもひ出(い)でぬ

耳(みみ)剃(そ)らせるがこころよかりし

 

 凾館の床屋の弟子を

 おもひ出でぬ

 耳剃らせるがこころよかりし

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、宮崎郁雨氏の「函館の砂――啄木の歌と私と」によれば、函館山の麓の現在の函館市谷地頭町(やちがしらちょう)にあった小室理髪店であるとある。個人的に私は下句が体感的に非常によく判る。そんな快感を私も中学・高校時代に高岡市伏木の理髪店で味わい、それを楽しみにしていたものだった。因みにトリビアとして言っておくと、北海道では行政区画名の「~町」は道南の北海道茅部(かやべ)郡森町(もりまち)の一箇所だけが「まち」と読み、他は総て「ちょう」と読む。]

 

 

わがあとを追(お)ひ來(き)て

知(し)れる人(ひと)もなき

邊土(へんど)に住(す)みし母(はは)と妻(つま)かな

 

 わがあとを追ひ來て

 知れる人もなき

 邊土に住みし母と妻かな

[やぶちゃん注:啄木は明治四〇(一九〇七)年五月四日に渋民村を妹光子を連れて離れ、新天地を求めて五月五日に函館に到着(この時は母は渋民の知人宅へ、妻子は盛岡の実家に寄せさせた。なお、次の歌はその時の津軽海峡上での追懐である)、短歌雑誌『紅苜蓿(べにまごやし)』(宮崎大四郎(後の啄木上京時には啄木の家族を託され、自宅の貸家に居住させている。「函館市文化・スポーツ振興財団」公式サイト内の宮崎の事蹟に拠った)主宰・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)発行)編集者・函館商業会議所の臨時雇いを経て、同年六月十一日に函館区立弥生尋常小学校の代用教員となれたことから、七月七日に妻子が渡道、八月四日には啄木が迎えに行った母も加わって、一家五人の生活となった。]

 

 

 

船(ふね)に醉(ゑ)ひてやさしくなれる

いもうとの眼(め)見(み)ゆ

津輕(つがる)の海(うみ)を思(おも)へば

 

 船に醉ひてやさしくなれる

 いもうとの眼見ゆ

 津輕の海を思へば

 

 

目(め)を閉(と)ぢて

傷心(しやうしん)の句を誦してゐし

友(とも)の手紙(てがみ)のおどけ悲(かな)しも

 

 目を閉ぢて

 傷心の句を誦してゐし

 友の手紙のおどけ悲しも

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『以下三首いずれも』青森県八戸生まれの『函館郵便局に勤務する苜蓿社同人岩崎白鯨(はくげい)(本名正(ただし))を歌えるもの。啄木と同年齢の歌才に秀でた人物であった』とある。白鯨の歌を見たいと思ったが、ネット上には見当たらない。]

 

 

をさなき時

橋の欄干に糞塗りし

話も友はかなしみてしき

 

 をさなき時

 橋の欄干に糞塗りし

 話も友はかなしみてしき

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『白鯨は郷里の青森県八戸の中学校に在学中』、『裁判所判事であった父親が死んだため、中学校を退学し、以後』、『一家の支柱となって働いたが、生活は貧しく志を得ぬ不遇の日』を送っていたとある。]

 

 

おそらくは生涯(しやうがい)妻(つま)をむかへじと

わらひし友(とも)よ

今(いま)もめとらず

 

 おそらくは生涯妻をむかへじと

 わらひし友よ

 今もめとらず

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書には、『白鯨は大正三』(一九一四)『年九月五日肺結核のため結婚することなく函館で死んだ。享年二十九歳である』とある(確かに啄木と同年である)のだが、サイト「啄木の息」の『「石川啄木を語る会」第二回』の目良卓氏の講演記録によれば、詩・短歌に『すぐれた才能を持ち、『明星』『スバル』等にたくさんの作品を発表している。晩年』、『気が狂って亡くなるが、啄木の詩に影響を与えた』とあった。]

 

 

あはれかの

眼鏡(めがね)の緣(ふち)をさびしげに光(ひか)らせてゐし

女敎師(をんなけうし)よ

 

 あはれかの

 眼鏡の緣をさびしげに光らせてゐし

 女敎師よ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『モデルは函館時代』の『啄木が勤務した弥生(やよい)尋常小学校の代用教員高橋すゑ(結婚後高田姓)で、宮崎郁雨も「何処となく色っぽい感じのする美しい顔と、それによく似つく金縁の眼鏡が印象的」』であった『と語っている』とある。]

 

 

友(とも)われに飯(めし)を與(あた)へき

その友(とも)に背(そむ)きし我(われ)の

性(さが)のかなしさ

 

 友われに飯を與へき

 その友に背きし我の

 性のかなしさ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『友は渡道時』、『世話になった松岡蕗堂(ろどう)、沢田天峯(てんぽう)、吉野白村(はくそん)らをさす』とある。前に示したサイト「啄木の息」の『「石川啄木を語る会」第二回』の目良卓氏の講演記録に「吉野章三(白村)」として、当時二十七歳で、『短歌に優れたセンスを持ち』、『『明星』で活躍した。吉野の素直な歌が、啄木の歌を美文調から平易な言葉へと変えていったのではないか』とある。]

 

 

凾館(はこだて)の靑柳町(あをやぎちやう)こそかなしけれ

友(とも)の戀歌(こひうた)

矢(や)ぐるまの花(はな)

 

 凾館の靑柳町こそかなしけれ

 友の戀歌

 矢ぐるまの花

[やぶちゃん注:「靑柳町」明治四〇(一九〇七)年、函館に来て二ヶ月後、妻子を迎えて住んだ現在の函館市青柳町のここ。]

 

 

ふるさとの

麥(むぎ)のかをりを懷(なつ)かしむ

女(をんな)の眉(まゆ)にこころひかれき

 

 ふるさとの

 麥のかをりを懷かしむ

 女の眉にこころひかれき

 

 

あたらしき洋書(ようしよ)の紙(かみ)の

香(か)をかぎて

一途(いちづ)に金(かね)を欲(ほ)しと思(おも)ひしが

 

 あたらしき洋書の紙の

 香をかぎて

 一途に金を欲しと思ひしが

 

 

しらなみの寄(よ)せて騷(さわ)げる

凾館(はこだて)の大森濱(おほもりはま)に

思(おも)ひしことども

 

 しらなみの寄せて騷げる

 凾館の大森濱に

 思ひしことども

 

 

朝(あさ)な朝(あさ)な

支那(しな)の俗歌(ぞくか)をうたひ出(い)づる

まくら時計(どけい)を愛(め)でしかなしみ

 

 朝な朝な

 支那の俗歌をうたひ出づる

 まくら時計を愛でしかなしみ

[やぶちゃん注:オルゴール附きの枕元におく置時計であろう。]

 

 

漂泊(へうはく)の愁(うれ)ひを敍(じよ)して成(な)らざりし

草稿(さうかう)の字(じ)の

讀(よみ)みがたさかな

 

 漂泊の愁ひを敍して成らざりし

 草稿の字の

 讀みがたさかな

[やぶちゃん注:初出は岩城氏の前掲書に『スバル』明治四三(一九一〇)年十一月号とある。

「漂泊の愁ひを敍して成らざりし」「草稿」とは、同じく岩城氏のそれによれば、『函館青柳町時代』(明治四〇(一九〇七)年七月から九月上旬)に『執筆された未完の小説「漂泊」などを念頭において作られたものであろう。このほか』『中絶』した『原稿には「札幌」「菊池君」「北海の三部」などがある』とある。「漂泊」は『紅苜蓿』明治四十年七月号に「㈠」が発表されただけで、「㈡」から「㈣」は未発表で未完の函館を舞台とした小説。「札幌」は明治四十一年八月稿の実体験を擬した未完小説、「菊池君」も明治四十一年五月稿の「札幌」と同じような体裁の未完小説で、「北海の三部」は明治四十一年五月六日起稿で未完の評論的随想である。]

 

 

いくたびか死(し)なむとしては

死(し)なざりし

わが來(こ)しかたのをかしく悲(かな)し

 

 いくたびか死なむとしては

 死なざりし

 わが來しかたのをかしく悲し

[やぶちゃん注:自殺願望の告白。岩城氏前掲書によれば、この『東京時代に書いた「彼の日記の一節」と題する断片にも自殺を暗示するくだりがあるので、啄木は函館時代から東京時代にかけてたえず死の誘惑にかられていたことがわかる』とある。「彼の日記の一節」小説の構想メモ風のもので大半が英語表記で、登場人物のイニシャルや英語の詩のようなパラグラフと作品内ロケーションかと思われる地図のみの破片であるが、冒頭に、

   *

 人は唯才のある、氣の輕い愉快な男とみられてゐて、突然自殺した男の遺した日記の一節――

   *

とのみ、日本語で書かれてある(引用は筑摩版全集第三巻をもとに漢字を正字化して示した)のを岩城氏は指しているのであろう。]

 

 

凾館(はこだて)の臥牛(ぐわぎう)の山(やま)の半腹(はんぷく)の

碑(ひ)の漢詩(からうた)も

なかば忘(わす)れぬ

 

 凾館の臥牛の山の半腹の

 碑の漢詩も

 なかば忘れぬ

[やぶちゃん注:「臥牛の山」が寝そべったような山様による函館山(標高三百三十四メートル・周囲約九キロメートル)の別名。

「碑」戊辰戦争の特に箱館戦争に於ける旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑「碧血碑」(へきけつひ)。函館山に明治八(一八七五)年五月に建立されたもの。土方歳三や中島三郎助などを始めとする約八百名の戦死者を弔うもの。ウィキの「碧血碑」によれば、「碧血」とは「荘子」の「外物篇」にある「萇弘(ちやうこう)は蜀に死す。其の血を藏すること三年にして、化して碧と爲(な)る」(萇弘死于蜀、藏其血三年而化爲碧)から『来ており、忠義を貫いて死んだ者の流した血は、三年経てば地中で宝石の碧玉と化すという伝説にちなむ』(萇弘は周の楽官であったが、主君を諌めて追放され、郷里の蜀に戻った後、自刃した。蜀の民が哀れに思い、その血を器に入れておいたところ、三年後、それが美しい碧玉になったという故事で、そこから「極めて強い忠誠心」「碧血丹心」(へきけつたんしん)という成句が生まれた。「碧」は「青」、「丹心」は「真心」の意)。高さ約六メートルで、『碑石は伊豆産の石を使い、東京霊岸島で造り、海路運搬された』。『碑石の文字は大鳥圭介』(元幕臣で教育者・外交官)『のものだと言われるが定かではない』。『碧血碑の裏側には「明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志」との文字が刻まれている。これは、「明治辰巳、実に此事有り、石を山上に立てて以て厥の志を表す」と読』む。「厥の」は指示語で「その」。明治二年己巳(つちのとみ)年(一八六九)年。但し、明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)までは本邦では旧暦が使用された)は『箱館戦争で五稜郭の旧幕府軍が降伏し』(明治二年五月十八日(一八六九年六月二十七日))『戊辰戦争が終結した年であるが、建立当時でも』、『そうした経緯に具体的に触れることがはばかられていたことが推測される表現となっている』。『箱館・五稜郭の防衛戦で、賊軍とされた旧幕府軍戦死者の遺体は戦闘終結後も埋葬が許されず、斃れた場所に腐敗するまま放置された。哀れに思った箱館の侠客柳川熊吉は遺体を回収して埋葬しようとした。実行寺住職・松尾日隆、大工棟梁・大岡助右衛門と相談し、子分たちに遺体を回収させ、実行寺・称名寺・浄玄寺に仮埋葬した。柳川熊吉は』安政三(一八五六)年に『江戸から箱館へ渡り、請負(人材派遣)業を営み、五稜郭築造工事の際には労働者の供給に貢献した人物』で、『榎本武揚ら幕臣とも交流を持っていた』。『賊軍の慰霊を行ってはならないとの明治政府からの命令に反した熊吉は追及を受けたが、熊吉の堂々とした態度に官吏は埋葬を黙認したという。また、新政府軍の薩摩藩士・田島圭蔵は、「これからの日本のために、こういう男を死なせてはならない」と考え、熊吉への打ち首を取り止めさせ、熊吉は無罪釈放となった』。二年後の明治四年、『熊吉は函館山の土地を買い、そこに箱館戦争戦死者を実行寺より改葬した』。明治七(一八七四)年八月十八日になって、やっと『明治政府が正式に賊軍の汚名を負った者の祭祀を許可すると、箱館戦争の生き残りである榎本武揚、大鳥圭介らが熊吉と協力して』、明治八年五月に『この碧血碑を建立した』という経緯がある。『晩年の熊吉は、碧血碑の傍で余生を過ごしながら、大正』二(一九一三)年、八十九歳で『生涯を閉じた。同年、熊吉』八十八『歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、碧血碑の側に碑を建てている』。『現代においては、箱館五稜郭祭などに際して碑前で慰霊祭が行われている』とある。但し、ここでは漢詩と言っているので、この碑文の文字ではなく、その「碧血碑」の前にある、小さな碑、

のそれを指す。この碑は明治初期の外交官で、後の元老院議官・貴族院議員などを歷任した官僚宮本小一(こいち(おかず)  天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年:号は鴨北(こうほく))が明治三四(一九〇一)年八月に本碑を訪れた際に詠じた七絶で、

 戰骨全收海勢移

 紛華誰復記當時

 鯨風鰐雨凾山夕

 宿草茫々碧血碑

である。訓読は幾つかのものがネットに掲げられてあるが、納得出来ない部分があるので、自然流で示すと、

 戰骨 全(すべ)て收め 海勢 移る

 紛華 誰(たれ)か復た當時を記(しる)せん

 鯨風 鰐雨(がくう) 凾山(かんざん)の夕べ

 宿草 茫々たり 碧血の碑

「海勢」は社会情勢の換喩であろう。「紛華」華麗な詩文。文華。「鰐雨」吹き荒ぶ雨。「宿草」冬には地上部位が枯れて地下部分が休眠状態で越冬し、春に再び生長開花する多年草。「道南ブロック博物館施設等連絡協議会」公式サイト内のこちらで画像が見られる。]

 

 

むやむやと

口(くち)の中(なか)にてたふとげの事(こと)を呟(つぶや)く

乞食(こじき)もありき

 

 むやむやと

 口の中にてたふとげの事を呟く

 乞食もありき

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『この歌は明治末年から大正にかけて函館市内を徘徊した乞食万平(本名矢野万平)を歌ったもの。啄木はこの乞食に関心をもち、函館大火後』(明治四〇(一九〇七)年八月二十五日)『友人の大島経男に宛てた明治四十年八月二十九日の書簡にもこの万平の消息を記している』とある。当該書簡の追伸で啄木が万平の棲み処かであるが臥竜窟が焼け、見舞いに行ったところ、焼け跡から何やらん拾っていた、とある。焼け出された乞食を見舞う詩人とは正統に風狂ではないか。]

 

 

とるに足(た)らぬ男(をこと)と思(おも)へと言(い)ふごとく

山(やま)に入(い)りにき

神(かみ)のごとき友(とも)

 

 とるに足らぬ男と思へと言ふごとく

 山に入りにき

 神のごとき友

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『函館時代交友のあった苜蓿社主筆大島経男を歌えるもの。大島は流人(るじん)または野百合と称し、啄木が渡道した当時』、『私立靖和(せいわ)女学校の国語教師をしていたが、教え子石田松江との恋愛結婚の破綻から教職を辞し、郷里の北海道日高国(ひだかのくに)静内(しずない)の山中に隠棲してしまった。「神のごとき友」というのは』、『この大島の出所進退があまりにも自己にきびしく、敬虔なクリスチャンにふさわしい態度であったので』、『かく歌ったのである』とある。サイト「啄木の息」の『「石川啄木を語る会」第二回』の目良卓氏の講演記録によれば、大島は『啄木が生涯』に於いて『「先生」と呼んだ』『二人』の内の一人で、『一人は森鴎外、もう一人が大嶋だった。わずか数カ月の触れ合いだが大きな影響を持った』とある(ここでは「大島」ではなく「大嶋」とある)。]

 

 

卷煙草(まきたばこ)口(くち)にくはへて

浪(なみ)あらき

磯(いそ)の夜霧(よぎり)に立(た)ちし女(をんな)よ

 

 卷煙草口にくはへて

 浪あらき

 磯の夜霧に立ちし女よ

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、ロケーションは大森海岸で、明治四三(一九一〇)年六月十三日本郷発信の岩崎正宛書簡の中で、如何にもこのシチュエーションらしい追懐を述べている(筑摩版全集第七巻の書簡を参考に漢字を正字化して示した)。

   *

僕が海といふものと親しんだのは、実に靑柳町の九十日間だけであつた。嵐のあとの濡砂の上を步いたこともあつた。塩水に身を浸してもみた。秋近い瓦斯(ガス)が深く海面を罩めて[やぶちゃん注:「こめて」。]、ガスの灰色の中から白浪の崩れて來るのを眺めながら、卷煙草を吸ふ女の背後から近づいて來るのを感じたこともあつた。

   *

岩城氏は続けて、『モデルは万歳という芸者で松岡蕗堂のなじみであった』とされる。(蕗堂は前の注で既出)。]

 

 

演習(えんしふ)のひまにわざわざ

汽車(きしやに乘(の)りて

訪(と)ひ來(き)し友(とも)とのめる酒(さけ)かな

 

 演習のひまにわざわざ

 汽車に乘りて

 訪ひ來し友とのめる酒かな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、訪ねに来てくれた「友」は苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)同人の歌人宮崎郁雨(明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年:啄木より一つ年上)で、『郁雨は当時』、『勤務召集で見習士官として旭川の連隊にあったが、機動演習ので江別(えべつ)まで来たとき、小樽に移住した』(明治四〇(一九〇七)年九月二十七日)『啄木の身を案じて』同『年十月十二日』、『小樽花園町に啄木夫妻を訪ね』て呉れた折りの追懐である。本書冒頭の自序で献辞されており、既注であるが、簡単に再掲しておくと、郁雨は雅号。本名は大四郎。明治四十年五月に啄木が函館に移って出逢った啄木の妻節子の妹の夫。この時は軍人であったが、啄木の死後、家業の味噌醤油醸造業を継いだ。啄木の生前から啄木一家を物心両面に亙って支え、死後(実は、その直前に妻節子に対する不倫の猜疑を啄木からかけられて絶交されてしまっていた(既注)のは不幸な出来事であった)も彼の顕彰に努めた。詳しい事蹟はウィキの「宮崎郁雨」を見られたい。続く二首も彼を詠んだもの。]

 

 

大川(おほかは)の水(みづ)の面(おもて)を見(み)るごとに

郁雨(いくう)よ

君(き)のなやみを思(おも)ふ

 

 大川の水の面を見るごとに

 郁雨よ

 君のなやみを思ふ

[やぶちゃん注:これは恐らく郁雨が啄木の妻節子の妹堀合ふき子と結婚する以前の彼の憂愁を、遠い東京で一人暮らしをしている啄木が遙かに時間を遡って追想したものである。

「大川」隅田川。]

 

 

智慧(ちゑ)とその深(ふか)き慈悲(じひ)とを

もちあぐみ

爲(な)すこともなく友(とも)は遊(あそ)べり

 

 智慧とその深き慈悲とを

 もちあぐみ

 爲すこともなく友は遊べり

 

 

こころざし得(え)ぬ人人(ひとびと)の

あつまりて酒(さけ)のむ場所(ばしよ)が

我(わ)が家(いへ)なりしかな

 

 こころざし得ぬ人人の

 あつまりて酒のむ場所が

 我が家なりしかな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、函館青柳町時代の追想歌で、「人々」は苜蓿社同人らとされる。]

 

 

かなしめば高く笑ひき

酒をもて

悶を解すといふ年上の友

 

 かなしめば高(たか)く笑(わら)ひき

 酒(さけ)をもて

 悶(もん)を解(げ)すといふ年上(としうへ)の友(とも)

[やぶちゃん注:

「悶を解す」憂いを銷(け)す。]

 

 

若(わか)くして

數人(すにん)の父(ちち)となりし友(とも)

子(こ)なきがごとく醉(ゑ)へばうたひき

 

 若くして

 數人の父となりし友

 子なきがごとく醉へばうたひき

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、モデルは吉野白村(章三)。彼の『妻ていは函館区立宝高等小学校訓導で、いわゆる共稼ぎであったが、長男真一、母きよの、弟喜代志、友八、妹きよ、ときよの八人家族であったから経済的には苦しかった。この一首は当時二十七歳の白村にたくさんの子がいたという意味ではなく、家族の事情から若くして一家の支柱となり四人の弟妹を扶養して、その父親代わりとなって働かねばならないこの友人の不幸な境遇を歌ったものである』とある。「国立国会図書館」公式サイト内の「レファレンス協同データベース」のこちらによれば、彼は『宮城県柴田郡舟岡村出身』で、明治一四(一八八一)年生まれで啄木より五歳年長で、大正七(一九一八)年胸部疾患で享年三十八歳で亡くなった。『啄木が函館に来て初めて出逢った文学人であり、函館東川小学校の教員をしていた。苜蓿社の主要メンバーの』一人で、『啄木は函館滞在時は白村と度々逢っていたほか、釧路にやってきてからも白村を釧路に呼ぼうと考えていたなど、白村の人柄を大変気に入っていた。それは啄木が釧路に滞在していた間には叶わず、白村は』明治四一(一九〇八)年八月十七日に『函館東川小学校から釧路天寧小学校』『校長として赴任』したものの、その前年に『啄木は既に上京して』しまっていた。『校長として赴任したが、実際は生活が苦しく』、『後に退職し、釧路運輸事務局に勤め』、『生涯をそこで務め』て当地で没した、とある。]

 

 

さりげなき高(たか)き笑(わら)ひが

酒(さけ)とともに

我(わ)が膓(はらわた)に沁(し)みにけらしな

 

 さりげなき高き笑ひが

 酒とともに

 我が膓に沁みにけらしな

 

 

呿呻(あくび)嚙(か)み

夜汽車(おぎしや)の窓(まど)に別(わか)れたる

別(わか)れが今(いま)は物足(ものた)らぬかな

 

 呿呻嚙み

 夜汽車の窓に別れたる

 別れが今は物足らぬかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、明治四〇(一九〇七)年九月十三日の追懐。全集年譜(同岩城氏編)によれば、弥生小学校代用教員を辞した彼は、日刊紙『北門(ほくもん)新報』に校正係として就職するため、函館を去って札幌に向かった。]

 

 

雨(あめ)に濡(ぬ)れし夜汽車(よぎしや)の窓(まど)に

映(うつ)りたる

山間(やまあひ)の町(まち)のともしびの色(いろ)

 

 雨に濡れし夜汽車の窓に

 映りたる

 山間の町のともしびの色

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、前の歌と同日のもので、函館と小樽間の車窓景の追懐とする。年譜によれば、啄木は翌日に小樽で途中下車し、姉夫妻山本千三郎とトラの家を訪ねている。以下の二首も同じ。]

 

 

雨(あめ)つよく降(ふ)る夜(よ)の汽車(きしや)の

たえまなく雫(しづく)流(なが)るる

窓硝子(まどカラス)かな

 

 雨つよく降る夜の汽車の

 たえまなく雫流るる

 窓硝子かな

 

 

眞夜中(まよなか)の

倶知安驛(くちあんえき)に下(お)りゆきし

女(をんな)の鬢(びん)の古(ふる)き痍(きず)あと

 

 眞夜中の

 倶知安驛に下りゆきし

 女の鬢の古き痍あと

[やぶちゃん注:「倶知安驛」現在の北海道虻田郡倶知安町にある函館本線倶知安駅(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。この三年前の明治三七(一九〇四)年十月に北海道鉄道(初代。現在の函館本線)の駅として開設されたばかりの駅であった。なお、「くっちゃん」という地名由来は諸説あって不明であるが、それらがウィキの「倶知安町」に掲げられてあるので見られたい。]

 

 

札幌に

かの秋われの持てゆきし

しかして今も持てるかなしみ

 

 札幌(さつぽろ)に

 かの秋(あき)われの持(も)てゆきし

 しかして今(いま)も持(も)てるかなしみ

 

 

アカシヤの街(まち)にポプラに

秋(あき)の風(かぜ)

吹(ふ)くがかなしと日記(にき)に殘(のこ)れり

 

 アカシヤの街にポプラに

 秋の風

 吹くがかなしと日記に殘れり

[やぶちゃん注:年譜によれば、実は札幌の『北門新報』での勤務は九月十六日から二十七日と短く、この十七日には辞職して小樽日報社へ赴任している。即ち、札幌滞在(到着は九月十四日)は僅か十四日間であった。

「アカシヤ」マメ目マメ科マメ亜科ハリエンジュ(針槐)属ハリエンジュ Robinia pseudoacacia。別名「ニセアカシア」で北アメリカ原産。日本には明治六(一八七三)年に導入された。熱帯・温帯產の種群である真正のマメ科ネムノキ亜科アカシア属 Acacia とは全くの別種であり、こちらは日本では関東以北では栽培が困難である種群が多く、北海道のものは総て前者とされる。

「ポプラ」ヨーロッパ原産キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属ヨーロッパクロポプラ Populus nigra。別名をヨーロッパクロヤマナラシとも呼ぶ。日本にはやはり明治中期に移入され、特に北海道に多く植えられた。]

 

 

しんとして幅廣(はばひろ)き街(まち)の

秋(あき)の夜(よ)の

玉蜀黍(たうもろこし)の燒(や)くるにほひよ

 

 しんとして幅廣き街の

 秋の夜の

 玉蜀黍の燒くるにほひよ

 

 

わが宿(やど)の姉(あね)と妹(いもと)のいさかひに

初夜(しよや)過(す)ぎゆきし

札幌(さつぽろ)の雨(あめ)

 

 わが宿の姉と妹のいさかひに

 初夜過ぎゆきし

 札幌の雨

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、この時の宿は『札幌市北七条四丁目四番地の田中サトという未亡人の下宿屋で』、この姉妹は『十八歳になる姉のヒサと十二歳になる妹英(ひで)である』とある。ここで現在の札幌駅のごく直近である。]

 

 

石狩(いしかり)の美國(びくに)といへる停車場(ていしやば)の

栅(さく)に乾(ほ)してありし

赤(あか)き布片(きれ)かな

 

 石狩の美國といへる停車場の

 栅に乾してありし

 赤き布片かな

[やぶちゃん注:「美國」岩城氏前掲書に、これは「美唄(びばい)」或いは「美瑛(びえい)」の『記憶の誤りであろう』とされ、『美国という地名は石狩地方にはなく』、『後志(しりべし)地方にある』(北海道積丹郡積丹町大字美国(びくに)町)『が、明治四十』(一九〇七)『年当時はもとより現在に至る』まで『駅はない』(しかも方角が全くおかしい)。『したがって』、『この歌は第一句の「石狩の」から考えて啄木が釧路赴任』(小樽日報社内の内紛で事務長に暴力を振るわれ、怒った啄木は明治四十年十二月二十一日に退社し、翌明治四十一年一月、釧路新聞社に入社し、同月十九日に単身赴任で小樽を出発、翌二十日に釧路に着いている)『の途中に通』った『美唄駅か美瑛駅と考えたい』とある。当時、札幌から釧路に行くには函館本線をさらに北上して旭川まで行き、そこから十勝線(現在の富良野線)で南東へ下って行くという大きく北に迂回するルートしかなかった。

「赤き布片」所謂「赤ゲット」であろう。サイト「AKARENGA」のこちらに、『明治初期、政府は軍隊用にイギリスから赤い毛布を大量に輸入します。毛布はその後』、『民間に払い下げられ、さまざまな形で利用されました。「赤いブランケット」から通称「赤ゲット」と呼ばれ、赤地に数本の黒い筋を入れたものが多く、旭川や札幌などの呉服店で売られたほか、農村漁村では行商が販売しました』。『当時はそのまま身にまとうほか』、外套に『仕立てたり、脚絆(きゃはん)や手袋を作ったり、端切れはツマゴ(ワラ製の深靴)をはくときに足に巻くなど、人びとの生活に浸透していきます。明治』二十〜三十『年代には東北や北海道からこれを着て上京する人が多かったため、赤ゲットが「田舎者」とか「おのぼりさん」の代名詞になったほどです』とあり、写真もある。元軍隊用であったとは知らなかった。]

 

 

かなしきは小樽(をたる)の町(まち)よ

歌(うた)ふことなき人人(ひとびと)の

聲(こゑ)の荒(あら)さよ

 

 かなしきは小樽の町よ

 歌ふことなき人人の

 聲の荒さよ

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書を参考にすると、これは啄木の「明治四十年丁未日誌」の十二月二十七日に、当時、親交のあった啄木をして「快男児」と言わしめたという、『函館日日新聞』主筆斎藤大硯(たいけん 明治三(一八七〇)年~昭和六(一九三一)年:本名は哲郎。啄木より十六年上。「函館市文化・スポーツ振興財団」公式サイトのこちらを参照されたい)が訪れた際の談話が素材とある。以下にその日の日記の冒頭を示す(例の仕儀で正字化した)。

   *

十二月二十七日

 大硯君來り談ず。君も浪人なり、予も浪人なり、共に之天が下に墳墓の地を見出さざる不遇の浪人なり。二人よく世を觀る、大いに罵りて哄笑屋を搖がさむとす。「歌はざる小樽人」とは此日大硯君が下したる小樽人の頌辭なり。淵明は酒に隱れき、我等は哄笑に隱れむとするか。世を罵るは軈て[やぶちゃん注:「やがて」。]自らを罵るものならざらむや。

   *

「頌辭」(しようじ(しょうじ))は通常は功績を褒め讃える言葉であるが、ここは多分にアイロニカルでもある。]

 

 

泣(な)くがごと首(くび)ふるはせて

手(て)の相(さう)を見(み)せよといひし

易者(えきしや)もありき

 

 泣くがごと首ふるはせて

 手の相を見せよといひし

 易者もありき

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書に、『啄木が小樽時代』に『間借した花園町』(ここ)『十四番地の』煎餅屋の『二階には』、襖『一枚へだてて天口堂海老名(えびな)又一郎という易者が住んでいた』とある(彼の名は日記にも登場する)。とすれば、このシークエンスは戸外の辻占ではない可能性が高い。]

 

 

いささかの錢借(ぜにか)りてゆきし

わが友(とも)の

後姿(うしろすがた)の肩(かた)の雪(ゆき)かな

 

 いささかの錢借りてゆきし

 わが友の

 後姿の肩の雪かな

[やぶちゃん注:かの借金の達人啄木に金を借りるというのは凄い。いや、寧ろ、その友の後ろ姿の寂寥に借金だらけの自身の後ろ姿を投影していると読むのが正しかろう。]

 

 

世(よ)わたりの拙(つたな)きことを

ひそかにも

誇(ほこ)りとしたる我(われ)にやはあらぬ

 

 世わたりの拙きことを

 ひそかにも

 誇りとしたる我にやはあらぬ

[やぶちゃん注:最後は否定形の反語で、強い肯定である。]

 

 

汝(な)が瘦(や)せしからだはすべて

謀叛氣(むほんぎ)のかたまりなりと

いはれてしこと

 

 汝が瘦せしからだはすべて

 謀叛氣のかたまりなりと

 いはれてしこと

[やぶちゃん注:ただ読むと啄木の自虐的な感懐のように見えるが、岩城氏の前掲書を見ると、全く違う。これは小樽日報社内での内紛の前期を素材としたもので、歌われたのは排斥(啄木は排斥派)されて辞任に追い込まれた主筆の岩泉江東(泰)とその一派に対する辛口評であるらしい。沢田信太郎氏の「啄木散華―北海同時代の回顧録―」の「二」がそれを詳細に伝えている。なお、後の社内紛争の展開で啄木が辞任する至る部分は、同じ沢田氏のそれの「三」に詳しいので、そちらも参照されたい。]

 

 

かの年(とし)のかの新聞(しんぶん)の

初雪(はつゆき)の記事(きじ)を書(か)きしは

我(われ)なりしかな

 

 かの年のかの新聞の

 初雪の記事を書きしは

 我なりしかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、これは明治四〇(一九〇七)年十月二十七日附『小樽日報』第六号に啄木が書いた記事「昨朝の初雪」であるとされる。筑摩版全集第八巻所収の「小樽のかたみ」パートにある当該記事を参考に、例の仕儀で示す。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   *

 

 昨朝の初雪

 

 名にし負ふ蝦夷(えぞ)が島根の紅葉時(もみぢどき)も老(ふ)け初めて、朝な朝なに顏洗ふ水の冷たさ、井戸端に散り布(し)く落葉に霜重くて、於古發(おこばち)川の濁水もどうやら流れゆく秋の聲爽かになりし此頃の天候、一昨日(をとゝひ)よりメツキリと寒さ募りて、冬衣(ふゆぎ)の仕度出來ぬ人は肩をすぼめて水鼻垂らす不風流も演じけらし。寒い寒いと喞(かこ)ちながら寢入りし其夜は明けて、雪が雪がと子供の騷ぐ聲に目をさませる。昨日の朝楊子くはへて障子綱目に開け見れば、成程白いものチラチラと街ゆく人の背を打ちて、黑綾の被布(コート)に焦茶の肩掛(シヨール)昨日よりは殊更目に立ちて見えぬ。道路にはまだ流石に積る程でもなけれど、四方(よも)の山々は紅葉と雪のだんだら染、内地では見られぬ景色と見惚(みと)れしが、由來風流は寒いものと寢卷姿の襟を押へて逃げ込み、斑(まだ)らの雪に兎の足跡追ふて今朝獵夫(かりうど)の山路に入りつらむなど想ひつづけぬ。編輯局も昨日よりは筆の暇々大火鉢の傍賑はひて、晝頃の大霙(おほみぞれ)に窓の目貼りを建議したる人もありし。

   *]

 

 

椅子いす)をもて我(われ)を擊(う)たむと身構(みがま)へし

かの友(とも)の醉(ゑ)ひも

今(いま)は醒(さ)めつらむ

 

 椅子をもて我を擊たむと身構へし

 かの友の醉ひも

 今は醒めつらむ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、以下五首は先にも注した、啄木が小樽日報社を辞任する動機となった、同社事務長小林(後に中野姓となる)寅吉との諍(いさか)いを歌ったものとする。「福島民友新聞社」の「ふくしまの舞台」のこちらによれば、彼は会津出身とある。それによれば、彼は後、憲政会の衆議院議員を経て、晩年、会津の『法用寺の住職となった』とある。]

 

 

負(ま)けたるも我(われ)にてありき

あらそひの因(もと)も我(われ)なりしと

今(いま)は思(おも)へり

 

 負けたるも我にてありき

 あらそひの因も我なりしと

 今は思へり

[やぶちゃん注:確かに、新谷保人氏のサイト「人間像ライブラリー」のこちら(「小樽の街を歩こう 第十回」(『短大図書館だより』二〇〇一年十二月号)の記事によれば、直接の原因は啄木の側に非があるようである。『無断欠勤していた』啄木が『夕方』になってから『社に出て』来たのを『事務長』の彼が『見とがめ』、『口論になり、激怒した事務長が』彼を『殴ってしまった』とあるからである。]

 

毆(なぐ)らむといふに

毆(なぐ)れとつめよせし

昔(むかし)の我(われ)のいとほしきかな

 

 毆らむといふに

 毆れとつめよせし

 昔の我のいとほしきかな

 

 

汝(なれ)三度(さんど)

この咽喉(のど)に劍(けん)を擬(ぎ)したりと

彼(かれ)告別(こくべつ)の辭(じ)に言(い)へりけり

 

 汝三度

 この咽喉に劍を擬したりと

 彼告別の辭に言へりけり

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『従来この歌は』紛争の前期に辞任した『主筆の岩泉江東を詠めるものとされているが、歌集の順序からいってやはり小林寅吉を歌えるものであろう。小林は東京専門学校の出身で、以前に啄木の義兄山本千三郎の下で小樽駅助役をしていたので、啄木がなにかにつけて』、『義兄のもとの部下といった態度で接したので』、『反感をかったのである』とある。因みに、前の歌の評釈で岩城氏は『小林事務長もまもなく』この暴力事件の『責任をとって辞任し、明治四十一』(一九〇八)『年六月』、『北海道庁衛生部の警部となった』とあるから、ここは当時既に東京にあった啄木が人伝てにその告別の挨拶の話を聴いたものと思われる。]

 

あらそひて

いたく憎(にく)みて別(わか)れたる

友(とも)をなつかしく思(おも)ふ日(ひ)も來(き)ぬ

 

 あらそひて

 いたく憎みて別れたる

 友をなつかしく思ふ日も來ぬ

 

 

あはれかの眉(まゆ)の秀(ひい)でし少年(せうねん)よ

弟(おとうおと)と呼(よ)べば

はつかに笑(ゑ)みしが

 

 あはれかの眉の秀でし少年よ

 弟と呼べば

 はつかに笑みしが

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『小樽時代交遊のあった文学少年高田紅果(こうか)(本名治作)を歌えるもの。紅果が啄木を訪ねてその指導を受けたのは十七歳のときで、短い期間であったが』、『啄木に接したことは生涯の思い出になった』とある。]

 

 

わが妻(つま)に着物(きもの)縫(ぬ)はせし友(とも)ありし

冬(ふゆ)早(はや)く來(く)る

植民地(しよくみんち)かな

 

 わが妻に着物縫はせし友ありし

 冬早く來る

 植民地かな

[やぶちゃん注:「植民地」北海道(小樽)のことを指す。]

 

 

平手(ひらて)もて

吹雪(ふぶき)にぬれし顏(かほ)を拭(ふ)く

友(とも)共產(きようさん)を主義(しゆぎ)とせりけり

 

 平手もて

 吹雪にぬれし顏を拭く

 友共產を主義とせりけり

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『北門新報』の『記者小国露堂(ろど)(本名善平)を歌ったものであろう。小国は』同日報の『創刊にあたって啄木を推挙した』とある。]

 

 

酒(さけ)のめば鬼(おに)のごとくに靑(あを)かりし

大(おほ)いなる顏(かほ)よ

かなしき顏(かほ)よ

 

 酒のめば鬼のごとくに靑かりし

 大いなる顏よ

 かなしき顏よ

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、前に出た『函館日日新聞』主筆であった斎藤大硯であろうとされる。啄木が「快男児」と呼んだというに相応しい。次の一首も大硯を詠んだものとされる。]

 

 

樺太(からふと)に入(い)りて

新(あたら)しき宗敎(さいうけう)を創(はじ)めむといふ

友(とも)なりしかな

 

 樺太に入りて

 新しき宗敎を創めむといふ

 友なりしかな

[やぶちゃん注:斎藤大硯を詠んだもの。先に示した「函館市文化・スポーツ振興財団」公式サイトのこちらによれば、函館の『大火で、新聞社を焼失した大硯は小樽に移り、すでに小樽に来ていた啄木と旧交をあたため』た。『かつて北方経営を夢見ていた大硯は、浪々の身を小樽で過ごしているうちに、樺太に理想郷を開拓しようと、樺太庁長官を宿に訪ねるというほどの情熱家でもあった』が、『「函館日日新聞」の再刊に際して帰函し、その後は社会事業に』携わり、『函館学生会を設けて進学生を援助し、教育会、図書館、函館慈恵院などにも尽力し、函館慈恵院の主事から常務理事を務めた』とある。]

 

 

治(をさ)まれる世(よ)の事無(ことな)さに

飽(あ)きたりといひし頃(ころ)こそ

かなしかりけれ

 

 治まれる世の事無さに

 飽きたりといひし頃こそ

 かなしかりけれ

 

 

共同(きようどう)の藥屋(くすりや)開(ひら)き

儲(まう)けむといふ友(とも)なりき

詐欺(さぎ)せしといふ

 

 共同の藥屋開き

 儲けむといふ友なりき

 詐欺せしといふ

 

 

あをじろき頰(ほほ)に淚(なみだ)を光(ひか)らせて

死(し)をば語(かた)りき

若(わか)き商人(あきびと)

 

 あをじろき頰に淚を光らせて

 死をば語りき

 若き商人

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『小樽時代』、先に詠まれた『紅果と』ともに『啄木の指導を受けた文学少年藤田武治(たけじ)(本名南洋)を歌えるもの。当時』、『藤田は市内の雑貨問屋浜名商会に店員見習として勤務していた』とされ、これは啄木の日記により、明治四〇(一九〇七)年十二月二十二日の夜の啄木の部屋でのシチュエーションであるとある。そこで啄木は人生の在り方を訊ねる彼に『大に個人主義を說』いたと記している。]

 

 

子(こ)を負(お)ひて

雪(ゆき)の吹(ふ)き入(い)る停車場(ていしやば)に

われ見送(みおく)りし妻(つま)の眉(まゆ)かな

 

 子を負ひて

 雪の吹き入る停車場に

 われ見送りし妻の眉かな

[やぶちゃん注:これは岩城氏の前掲書によれば、先に注した釧路への単身赴任の当日の景。明治四一(一九〇八)年一月十九日。]

 

 

敵(てき)として憎(にく)みし友(とも)と

やや長(なが)く手(て)をば握(にぎ)りき

わかれといふに

 

 敵として憎みし友と

 やや長く手をば握りき

 わかれといふに

[やぶちゃん注:相手は小林寅吉と考えられている。但し、「福島民友新聞社」の「ふくしまの舞台」のこちらによれば、国際啄木学会評議員三留昭男氏の話として、中野(旧姓小林)寅吉は『「反骨、実直な努力力行型の熱血漢」』であったとし、『その熱血漢を』時間経た後、『啄木は情感を込めて歌った。ただ』、『三留さんは、別れの握手は啄木が複雑な胸中を再構成したフィクションと』断定されておられるそうだ。しかし、そうだろうか? この歌をここに挟み込むというのは、虚構としては唐突に過ぎる気がする。意想外に寅吉が駅頭に秘かに見送りに来たのを見つけた啄木が、思わず走り寄って、別れの握手を交わしたとしてそれは決して不思議ではない。いや、寧ろ直情径行の熱血漢であると同時に、「直き心」の持ち主であったように思われる寅吉にして、これは十分にあり得ることである。でなくて、一連の歌で寅吉を終始「友」と呼ばうはずはないと私は思うのである。さればこそこれをフィクションと片付けるのには強い抵抗を覚えるのである。]

 

 

ゆるぎ出(い)づる汽車(きしや)の窓(まど)より

人先(ひとさき)に顏(かほ)を引(ひ)きしも

負(ま)けざらむため

 

 ゆるぎ出づる汽車の窓より

 人先に顏を引きしも

 負けざらむため

 

 

みぞれ降(ふ)る

石狩(いしかり)の野(の)の汽車(きしや)に讀(よ)みし

ツルゲエネフの物語(ものがたり)かな

 

 みぞれ降る

 石狩の野の汽車に讀みし

 ツルゲエネフの物語かな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『小樽出発後』、『札幌をへて岩見沢』(ここ。ここで啄木は途中下車して姉トラの家に一泊している。当時、義兄山本千太郎は岩見沢駅駅長をしていたのであった)『に至る旅行中の思い出を詠めるもの』とある。

「ツルゲエネフの物語」私の偏愛するイワン・セルゲーエヴィチ・トゥルゲーネフ(Ивáн Сергéевич Тургéнев/ラテン文字転写:Ivan Sergeevich Turgenev 一八一八年~一八八三年)の、中でも「猟人日記」(Записки охотника)であって欲しいと感ずる。私は自身のサイト「鬼火」の「心朽窩新館」で「猟人日記」中の十二篇と彼の「散文詩」全篇の邦訳を電子化注している。また、ブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」でも多数の邦訳を公開している。]

 

 

わが去(さ)れる後(のち)の噂(うはさ)を

おもひやる旅出(たびで)はかなし

死(し)ににゆくごと

 

 わが去れる後の噂を

 おもひやる旅出はかなし

 死ににゆくごと

 

 

わかれ來(き)てふと瞬(またた)けば

ゆくりなく

つめたきものの頰(ほほ)をつたへり

 

 わかれ來てふと瞬けば

 ゆくりなく

 つめたきものの頰をつたへり

 

 

忘(わす)れ來(き)し煙草(たばこ)を思(おも)ふ

ゆけどゆけど

山(やま)なほ遠(とほ)き雪(ゆき)の野(の)の汽車(きしや)

 

 忘れ來し煙草を思ふ

 ゆけどゆけど

 山なほ遠き雪の野の汽車

 

 

うす紅(あか)く雪(ゆき)に流(なが)れて

入日影(いりひかげ)

曠野(あらの)の汽車(きしや)の窓(まど)を照(てら)せり

 

 うす紅く雪に流れて

 入日影

 曠野の汽車の窓を照せり

 

 

腹(はら)すこし痛み(いた)出(い)でしを

しのびつつ

長路(ちやうろ)の汽車(きしや)にのむ煙草(たばこ)かな

 

 腹すこし痛み出でしを

 しのびつつ

 長路の汽車にのむ煙草かな

 

 

乘合(のりあひ)の砲兵士官(ほうへいしくわん)の

劍(けん)の鞘(さや)

がちやりと鳴(な)るに思(おも)ひやぶれき

 

 乘合の砲兵士官の

 劍の鞘

 がちやりと鳴るに思ひやぶれき

 

 

名(な)のみ知(し)りて緣(えん)もゆかりもなき土地(とち)の

宿屋(やどや)安(やす)けし

我(わ)が家(いへ)のごと

 

 名のみ知りて緣もゆかりもなき土地の

 宿屋安けし

 我が家のごと

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『啄木は一月二十日午後三時十五分旭川に下車。駅前の宮越屋に投宿し』、札幌から釧路へ戻る、これから啄木が勤務することとなる『釧路新聞』社長白石義郎(次の歌で注する)と合流し、『翌二十一日午前六時半の旭川発一番の釧路行に乗った』とある。現在の旭川市宮下八丁目の「西武」のB館エレベーター入口近くの外の植込に「石川啄木宿泊の地」の表示板が建っている。サイト「啄木の息」の「啄木文学散歩 北海道:岩見沢~旭川 5」を参照されたい。]

 

 

伴(つれ)なりしかの代議士(だいぎし)の

口(くち)あける靑(あを)き寐顏(ねがほ)を

かなしと思(おも)ひき

 

 伴なりしかの代議士の

 口あける靑き寐顏を

 かなしと思ひき

[やぶちゃん注:釧路行の車内の景。

「代議士」『小樽日報』と『釧路新聞』の社長であった白石義郎(しらいしよしろう/しろいしよしお 文久元(一八六一)年~大正四(一九一五)年)。この当時は「代議士」ではなかったが、これ以前の明治三一(一八九八)年三月の第五回衆議院議員総選挙で福島県第三区から出馬して当選していたこと(後、第一次大隈内閣の北海道庁長官杉田定一の要請を受け釧路支庁長から初代釧路町長に就任し、北海道会議員などを務めた)と、本歌集「一握の砂」刊行の二年前の明治四一(一九〇八)年五月(啄木上京直後)の第十回総選挙で北海道庁根室外三支庁管内から出馬して当選し、立憲政友会に所属、衆議院議員を通算二期務めたことから、かく呼んだものである。彼は明治四〇(一九〇七)年に『小樽日報』を創刊(但し、半年後に廃刊)、同紙の初期には啄木と野口雨情が記者を務めており、啄木を『釧路新聞に移籍』させ、実質上の編集長(名目は主任)に任じたのも彼であった。以上はウィキの「白石義郎」と全集年譜に拠った。]

 

 

今夜こそ思ふ存分泣いてみむと

泊りし宿屋の

茶のぬるさかな

 

 今夜こそ思ふ存分泣いてみむと

 泊りし宿屋の

 茶のぬるさかな

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、ここを前後させて旭川の宮越屋とし、意想外に『十畳間に白石社長と共に寝』ることとなり、遂に思いを果たせなかった『やるせなさを、「宿屋の茶のぬるさ」に託して』詠んだものと解しておられる。]

 

 

水蒸氣(すゐじようき)

列車(れつしや)の窓(まど)に花(はな)のごと凍(い)てしを染(そ)むる

あかつきの色(いろ)

 

 水蒸氣

 列車の窓に花のごと凍てしを染むる

 あかつきの色

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『以下四首旭川駅出発後』、『下富良野(しもふらの)から空知川の岸辺に沿うて上る車窓の光景を歌ったもの』とされ(この付近)、明治四一(一九〇八)年一月二十一日の啄木の日記冒頭にも(同前の仕儀を施した)、

   *

                於釧路

午前六時半、白石氏と共に釧路行一番の旭川發に乘つた。程なくして枯林の中から旭日が赤々と上つた。空知川の岸に添うて上る。此邊が所謂最も北海道的な所だ。

   *

次の一首以降、暫く車中からの景を詠じたものが続く。]

 

 

ごおと鳴(な)る凩(こがらし)のあと

乾(かわ)きたる雪(ゆき)舞(ま)ひ立(た)ちて

林(はやし)を包(つつ)めり

 

 ごおと鳴る凩のあと

 乾きたる雪舞ひ立ちて

 林を包めり

 

 

空知川(そらちがは)雪(ゆき)に埋(うも)れて

鳥(とり)も見(み)えず

岸邊(きしべ)の林(はやし)に人(ひと)ひとりゐき

 

 空知川雪に埋れて

 鳥も見えず

 岸邊の林に人ひとりゐき

[やぶちゃん注:私の好きな作家國木田獨步の先行する小説「空知川の岸邊」(明治三五(一九〇二)年作)を想起させる(リンク先は「青空文庫」。但し、新字旧仮名)。]

 

 

寂寞(せきばく)を敵(てき)とし友(とも)とし

雪(ゆき)のなかに

長(なが)き一生(いつしやう)を送(おく)る人(ひと)もあり

 

 寂寞を敵とし友とし

 雪のなかに

 長き一生を送る人もあり

 

 

いたく汽車(きしや)に疲(つか)れて猶(なほ)も

きれぎれに思(おも)ふは

我(われ)のいとしさなりき

 

 いたく汽車に疲れて猶も

 きれぎれに思ふは

 我のいとしさなりき

 

 

うたふごと驛(えき)の名(な)呼(よ)びし

柔和(にうわ)なる

若(わか)き驛夫(えきふ)の眼(め)をも忘(わす)れず

 

 うたふごと驛の名呼びし

 柔和なる

 若き驛夫の眼をも忘れず

 

 

雪(ゆき)のなか

處處(しよしよ)に屋根(やね)見(み)えて

煙突(えんとつ)の煙(けむり)うすくも空(そら)にまよへり

 

 雪のなか

 處處に屋根見えて

 煙突の煙うすくも空にまよへり

 

 

遠(とほ)くより

笛(ふえ)ながながとひびかせて

汽車(きしや)今(いま)とある森林(しんりん)に入(い)る

 

 遠くより

 笛ながながとひびかせて

 汽車今とある森林に入る

 

 

何事(なにごと)も思(おも)ふことなく

日一日(ひいちにち)

汽車(きしや)のひびきに心(こころ)まかせぬ

 

 何事も思ふことなく

 日一日

 汽車のひびきに心まかせぬ

 

 

さいはての驛(えき)に下(お)り立(た)ち

雪(ゆき)あかり

さびしき町(まち)にあゆみ入(い)りにき

 

 さいはての驛に下り立ち

 雪あかり

 さびしき町にあゆみ入りにき

[やぶちゃん注:先に示した明治四一(一九〇八)年一月二十一日の啄木の日記の、省略した後半を見ると。釧路着は夜午後九時半で、午前零時過ぎまで、町長や道会議員と小宴となったことが記されてある。]

 

 

しらしらと氷(こほり)かがやき

千鳥(ちどり)なく

釧路(くしろ)の海(うみ)の冬(ふゆ)の月(つき)かな

 

 しらしらと氷かがやき

 千鳥なく

 釧路の海の冬の月かな

[やぶちゃん注:「千鳥」はチドリ目チドリ亜目チドリ科チドリ属コチドリ Charadrius dubius か。日本最小のチドリ類の一種で、黄色いアイリングが目立つ。「バードウォッチングパラダイス ひがし北海道 釧路」のこちらを見られたい。鳴き声はYouTube Shinji kawamura氏の「コチドリの親子」がよい(北海道ではなく、季節ももっと後)。さて、岩城氏は前掲書の評釈中で、この歌は『一般に』は『きびしい冬の釧路の海岸を歌った叙景歌として知られているが、渡り鳥の千鳥がこの釧路を訪れるのは、毎年三月中旬より四月上旬にかけてである』(上記最初のリンク先では見られる時期としては四月以降で三月はついていないが、飛来のプレととれば問題ない。後の「よりそひて/深夜の雪の中に立つ/女の右手のあたたかさかな」の私の注に引いた啄木の日記を見よ。千鳥が鳴いている。北海道ならば「三月」を「冬」と呼んでも違和感はない)。『したがってこの一首は』、その『時期の海岸を詠める歌と考えてよい』とされる。実は啄木の釧路滞在は、短かく(上司であった主筆日景安太郎に対する不満と東京での作家活動への憧れに由る)、これまた、二ヶ月半後の四月五日には函館に戻り、同月二十四日には宮崎郁雨の厚意に縋って、家族を函館に残したまま、海路で上京しているから、こ「千鳥なく」釧路の景は殆んど釧路生活最後の頃に措定出来る。]

 

 

こほりたるインクの罎(びん)を

火(ひ)に翳(かざ)し

淚(なみだ)ながれぬともしびの下(もと)

 

 こほりたるインクの罎を

 火に翳し

 淚ながれぬともしびの下

 

 

顏(かほ)とこゑ

それのみ昔(むかし)變(かは)らざる友(とも)にも會(あ)ひき

國(くに)の果(はて)にて

 

 顏とこゑ

 それのみ昔に變らざる友にも會ひき

 國の果にて

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『「友」は啄木が』嘗て『神田養精館(ようせいかん)という下宿屋で一緒だった佐藤衣川(いせん)(本名巌(いわお))で』、『釧路新聞』の『三面の記者をしていた』とある人物とする。但し、岩城氏はそれを明治三八(一九〇五)年の秋のことと指定されるのであるが、その年は節子との婚姻後、盛岡を離れていない模様でおかしい。同氏の編に成る全集年譜では、それは一年前の明治三十七年の十一月のことである(『神田区駿河台袋町八養精館』とある。入居は十一月八日、そこから牛込区に転居したのが十一月二十八日であるから、佐藤との邂逅はその閉区間となる)。

 

 

あはれかの國(くに)のはてにて

酒(さけ)のみき

かなしみの滓(をり)を啜(すす)るごとくに

 

 あはれかの國のはてにて

 酒のみき

 かなしみの滓を啜るごとくに

 

 

酒(さけ)のめば悲(かな)しみ一時(いちじ)に湧(わ)き來(く)るを

寐(ね)て夢(ゆめ)みぬを

うれしとはせし

 

 酒のめば悲しみ一時に湧き來るを

 寐て夢みぬを

 うれしとはせし

 

 

出(だ)しぬけの女(をんな)の笑(わら)ひ

身(み)に沁(し)みき

厨(くりや)に酒(さけ)の凍(こほ)る眞夜中(まよなか)

 

 出しぬけの女の笑ひ

 身に沁みき

 厨に酒の凍る眞夜中

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書は『釧路の料亭での真夜中の出来事』とする。]

 

 

わが醉(ゑ)ひに心(こころ)いためて

うたはざる女(をんな)ありしが

いかになれるや

 

 わが醉ひに心いためて

 うたはざる女ありしが

 いかになれるや

[やぶちゃん注:岩城は前掲書で、啄木は『釧路新聞』に「紅筆(べにふで)だより」と題する釧路の『花柳界の艶種(つやだし)を連載し、その取材と』『称して料亭に出入りしてい』た。最初は『芸者小静を贔屓としていたが、やがてその関心は「釧路粋界の花形小奴、市子」に移り、特に十九歳の小奴』(こやっこ:本名は近江ジン)『を愛して』、連日、料亭に繰り出していたらしい。『この一首はこれらの芸者の一人を歌ったものである』とされる。]

 

 

小奴(こやつこ)といひし女(をんな)の

やはらかき

耳朶(みみたぼ)なども忘(わす)れがたかり

 

 小奴といひし女の

 やはらかき

 耳朶なども忘れがたかり

 

 

よりそひて

深夜(しんや)の雪(ゆき)の中(なか)に立(た)つ

女(をんな)の右手(めて)のあたたかさかな

 

 よりそひて

 深夜の雪の中に立つ

女の右手のあたたかさかな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、明治四十一年三月二十日の日記から、同日の午前零時半頃で、相手は送って行く小奴である。日記より例の仕儀で引く。この時はまだ、既に啄木は釧路を離れる決心をしていないことが判る。

   *

何かは知らず身體がフラフラする。高足駄を穿いて、雪路の惡さ。手を取り合つて、埠頭の邊の濱に出た[やぶちゃん注:知人(しりと)海岸附近]。月が淡又明かに、雲間から照す。雪の上に引上げた小舟の緣に凭れて二人は海を見た。少しく浪が立つて居る。ザザーンと云ふ浪の音。幽かに千鳥の聲を聴く。ウソ寒い風が潮の香を吹いて耳を掠める。[やぶちゃん注:一段落分中略。]

 月の影に波の音。噫[やぶちゃん注:「ああ」。]忘られぬ港の景色であつた。〝妹になれ〟と自分は云つた。〝なります〟と小奴は無造作に答へた。〝何日までも忘れないで頂戴、ネ〟と云つて舷[やぶちゃん注:「ふなばた」。]を離れた。步きながら、妻子が遠からず來る事を話した所が、非常に喜んで、來たら必ず遊びにゆくから仲よくさして吳れと云つた。郵便局前まで來て別れた。[やぶちゃん注:後略。]

   *

別な歌の評釈に彼女の経歴が記されてあり、それによれば、明治二三(一八九〇)年函館生まれ(啄木より四つ年下)。『十勝国大津の伯父坪松太郎の養女となって坪ジンと名乗ったが、伯父が死んだため』、『帯広の函館屋という小料理屋にあずけられ芸事を覚えた。その後釧路の近江屋旅館に再婚した母ヨリを慕ってこの地に来て、鶤寅(しゃもとら)という料亭の専属となり』、『自前で左褄をとり』、『十九歳のとき』、『啄木を知った』とある。また、彼女は『昭和四十』(一九六五)『年二月十七日』、『東京都南多摩郡多摩町の老人ホーム一望荘で』亡くなった。『享年七十六歳。「六十路(むそぢ)過ぎ十九の春をしみじみと君が歌集に残る思出」の歌がある。法名甚深院釈尼京泉』ともあった。]

 

 

死(し)にたくはないかと言(い)へば

これ見(み)よと

咽喉(のど)の痍(きず)を見(み)せし女(をんな)かな

 

 死にたくはないかと言へば

 これ見よと

 咽喉の痍を見せし女かな

 

 

藝事(げいごと)も顏(かほ)も

かれより優(すぐ)れたる

女(をんな)あしざまに我(われ)を言(い)へりとか

 

 藝事も顏も

 かれより優れたる

 女あしざまに我を言へりとか

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『小奴の思い出によると「かれ」は小奴』自身で、『「かれより優れたる女」は』小奴の『姉芸者の小蝶(本名甲斐谷しも)で小奴と同じ料亭鶤寅(しゃもとら)の専属芸者。評判の芸者だった。「女あしざまに我を言へり」とある』ものの、『実際は小奴と啄木が親しくなりすぎるのを心配した忠告のようで、明治四十一年三月二十日の啄木日記にも、「〝小蝶姐さんがネ、石川さんには奥様も子供さんもあるし、又、行末豪く[やぶちゃん注:「えらく」。]なる人なんだから、惚る[やぶちゃん注:「ほれる」。]のは構わないけれども、失敬しては可けないツて私に云つたの。〟」という小奴の言葉がある』とある。]

 

 

舞(ま)へといへば立(た)ちて舞(ま)ひにき

おのづから

惡酒(あくしゆ)の醉(ゑ)ひにたふるるまでも

 

 舞へといへば立ちて舞ひにき

 おのづから

 惡酒の醉ひにたふるるまでも

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、次の二首と合わせて、これは小奴の啄木に対する純情な愛の姿を、り代わって詠んだものとされるようである。]

 

 

死(し)ぬばかり我(わ)が醉(ゑ)ふをまちて

いろいろの

かなしきことを囁(ささや)きし人(ひと)

 

 死ぬばかり我が醉ふをまちて

 いろいろの

 かなしきことを囁きし人

 

 

いかにせしと言(い)へば

あをじろき醉(ゑ)ひざめの

面(おもて)に强(し)ひて笑(ゑ)みをつくりき

 

 いかにせしと言へば

 あをじろき醉ひざめの

 面に强ひて笑みをつくりき

 

 

かなしきは

かの白玉(しらたま)のごとくなる腕(うで)に殘(のこ)せし

キスの痕(あと)かな

 

 かなしきは

 かの白玉のごとくなる腕に殘せし

 キスの痕かな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『小奴の思い出によると、ある日酔客が彼女に「キス」をさせよと乱暴な振舞いをしてその腕に歯形を残したが、啄木はこれを見て「ずいぶん乱暴なことをする人もあるものだ。」と憤慨したという』とある。]

 

 

醉(ゑ)ひてわがうつむく時(とき)も

水(みづ)ほしと眼(め)ひらく時(とき)も

呼(よ)びし名(な)なりけり

 

 醉ひてわがうつむく時も

 水ほしと眼ひらく時も

 呼びし名なりけり

[やぶちゃん注:無論、モデルは小奴。]

 

 

火(ひ)をしたふ蟲(むし)のごとくに

ともしびの明(あか)るき家(いへ)に

かよひ慣(な)れにき

 

 火をしたふ蟲のごとくに

 ともしびの明るき家に

 かよひ慣れにき

 

 

きしきしと寒(さむ)さに踏(ふ)めば板(いた)軋(きし)む

かへりの廊下(らうか)の

不意(ふい)のくちづけ

 

 きしきしと寒さに踏めば板軋む

 かへりの廊下の

 不意のくちづけ

[やぶちゃん注:モデルは小奴と思われる。以下も同じ。]

 

 

その膝(ひざ)に枕(まくら)しつつも

我(わ)がこころ

思(おも)ひしはみな我(われ)のことなり

 

 その膝に枕しつつも

 我がこころ

 思ひしはみな我のことなり

 

 

さらさらと氷の屑が

波に鳴る

磯の月夜のゆきかへりかな

 

 さらさらと氷(こほり)の屑(くづ)が

 波(なみ)に鳴(な)る

 磯(いそ)の月夜(つきよ)のゆきかへりかな

 

 

死(し)にしとかこのごろ聞(き)きぬ

戀(こひ)がたき

才(さい)あまりある男(をとこ)なりしが

 

 死にしとかこのごろ聞きぬ

 戀がたき

 才あまりある男なりしが

[やぶちゃん注:この一首について岩城氏は前掲書で、『北海道時代の追想歌の中に収められているが、その作歌時期』である明治四二(一九〇九)年四月二十二日か二十三日と、『初出時』(『スバル』明治四十二年五月号)『から考えて、盛岡中学校時代の同級生で』、英語学習グループ『ユニオン会の会員であった小野弘吉を歌ったものと推定される。小野は七高を』経て、『東京帝国大学農科に学んだが、卒業論文を書くために帰郷し、岩手県九戸郡江刈村に旅行中、急性腹膜炎で四十一年二月二十一日、二十五歳の若さで死んだ。啄木は同年三月四日の日記にこの友の死を悼んでいる』とあるが、全集では確認出来ない。]

 

 

十年(ととせ)まへに作(つく)りしといふ漢詩(からうた)を

醉(ゑ)へば唱(とな)へき

旅(たび)に老(お)いし友(とも)

 

 十年まへに作りしといふ漢詩を

 醉へば唱へき

 旅に老いし友

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『釧路時代交遊のあった「北東新報」の記者菊池武治を歌ったもの。菊池は鷲南(しゅうなん)、啄木の小說「菊池君」のモデルで、啄木日記にも「年将に四十、盛岡の生れで、恐ろしい許りの髯面、」と書いている。啄木は釧路退去の直前の三月二十六日の夜』、『この友人と酒盃を傾け』、『互いに漢詩を詠じているが、啄木は菊池の志を得ぬ流転の生活に、事故に通じる悲しみを見てこのように歌ったのである』と評しておられる。]

 

 

 

吸(す)ふごとに

鼻(はな)がぴたりと凍(こほ)りつく

寒(さむ)き空氣(くうき)を吸(す)ひたくなりぬ

 

 吸ふごとに

 鼻がぴたりと凍りつく

 寒き空氣を吸ひたくなりぬ

 

 

波(なみ)もなき二月(にぐわつ)の灣(わん)に

白塗(しりぬり)の

外國船(ぐわいこくせん)が低(ひく)く浮(う)かべり

 

 波もなき二月の灣に

 白塗の

 外國船が低く浮かべり

[やぶちゃん注:釧路港の景であろう。]

 

 

三味線(さみせん)の絃(いと)のきれしを

火事(くわじ)のごと騷(さわ)ぐ子(こ)ありき

大雪(おほゆき)の夜(よ)に

 

 三味線の絃のきれしを

 火事のごと騷ぐ子ありき

 大雪の夜に

[やぶちゃん注:騒ぐのは喜びから。岩城氏前掲書に、この芸妓は鹿島屋の市子で、『啄木の「紅筆だより」に「一昨五日の晩の事例の市ちやん三味線の一の弦を切らしたので縁起がよいと許り躍り上つて喜び」とある』とある。]

 

 

神(かみ)のごと

遠(とほ)く姿(すがた)をあらはせる

阿寒(あかん)の山(やま)の雪(ゆき)のあけぼの

 

 神のごと

 遠く姿をあらはせる

 阿寒の山の雪のあけぼの

[やぶちゃん注:「阿寒の山」雌阿寒岳(めあかんだけ)。標高千四百九十九メートル。少し離れて雄阿寒岳(標高千三百七十一メートル)があるが一般に「阿寒岳」と称した場合は、前者の雌阿寒岳を指すことが多い。釧路市街から北西に聳える。]

 

 

郷里(くに)にゐて

身投(みな)げせしことありといふ

女(をんな)の三味(さみ)にうたへるゆふべ

 

 郷里にゐて

 身投げせしことありといふ

 女の三味にうたへるゆふべ

[やぶちゃん注:身投げした経験を語っているのは、三味線を弾く芸妓自身の経験談である。]

 

 

葡萄色(えびいろ)の

古(ふる)き手帳(てちやう)にのこりたる

かの會合(あいびき)の時(とき)と處(ところ)かな

 

 葡萄色の

 古き手帳にのこりたる

 かの會合の時と處かな

[やぶちゃん注:「かの會合」は釧路花柳界での一齣。]

 

よごれたる足袋穿(たびは)く時(とき)の

氣味(きみ)わるき思(おも)ひに似(に)たる

思出(おもひで)もあり

 

 よごれたる足袋穿く時の

 氣味わるき思ひに似たる

 思出もあり

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『啄木の小説「病院の窓」』(明治四一(一九〇八)年五月脱稿の小説であるが、未発表)『の梅野看護婦のモデルとなった、釧路協立笠井病院の薬局助手梅川ミサホを歌えるもの。啄木日記によると』、『梅川は啄木を慕っていうようであ』ったが、『啄木は彼女との交渉を避けてこれを近づけなかった。この一首は』、その彼女『との「気味わるき」思い出を歌ったものである』とされる。]

 

 

わが室(へや)に女(をんな)泣(な)きしを

小說(せうせつ)のなかの事(こと)かと

おもひ出(い)づる日(ひ)

 

 わが室に女泣きしを

 小說のなかの事かと

 おもひ出づる日

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『「わが室」は釧路区北州崎町一丁目の関という下宿の一室。この部屋で泣いた女は』前の歌に出た『梅川ミサホ。「小説のなかの事かと」は明治四十一年三月二十一日の啄木日記にある、夜半の小奴と梅川の恋のさやあてめいた事件をいうのであろう』とある。なかなかスリリングな出来事であるが、こういう事実に私はあまり興味がないので(こういう現場に居合わせたくないので)特に私は電子化したいとは思わぬ。筑摩版全集第五巻(昭和五三(一九七八)年刊)の二百三十五ページ以下を参照されたい。]

 

 

浪淘沙(らうたうさ)

ながくも聲(こゑ)をふるはせて

うたふがごとき旅(たび)なりしかな

 

 浪淘沙

 ながくも聲をふるはせて

 うたふがごとき旅なりしかな

[やぶちゃん注:「浪淘沙」岩城氏の前掲書に、『「浪淘沙」は浪淘沙詞の意で』楽府(がふ)題である、長『江辺の商人の妻が遠く家郷を離れた夫を憶うの情を述べた唐詩で、劉禹錫(りゅううしゃく)や白楽天の詩が有名であるが、啄木が親しんだのはおそらく白楽天であろう』とされる。白居易のそれは以下と思われる。

   *

 

 浪淘沙 六首

 

白浪茫茫與海連 平沙浩浩四無邊

暮去朝來淘不住 遂令東海變桑田

 

海底飛塵終有日 山頭化石豈無時

誰道小郞抛小婦 船頭一去沒囘期

 

借問江潮與海水 何似君情與妾心

相恨不如潮有信 相思始覺海非深

 

靑草湖中萬里程 黃梅雨里一人行

愁見灘頭夜泊處 風飜暗浪打船聲

 

隨波逐浪到天涯 遷客西還有幾家

却到帝都重富貴 請君莫忘浪淘沙

 

一泊沙來一泊去 一重浪滅一重生

相攪相淘無歇日 會敎東海一時平

 

   *

所持する複数の白楽天の詩集にも載らないので、概ね意味は分かるつもりだが、訓読は控える。]

2020/02/17

三州奇談卷之二 水嶋の水獸

 

     水嶋の水獸

 本吉(もとよし)世尊院は眞言の靈場、此奥には若椎(じやくすゐ)と云ひ、俳門に執心し、此地に鼻祖はせを翁の發句を埋めて塚を築き、「雨の萩」と云ふ。此因みにより、其寺へは折には行通ひける。

[やぶちゃん注:「水嶋の水獸」この「水嶋」は地名のように見えるが、「水島」という地名は出るが、この得体の知れない「水獸」が出現するのは、少なくともこのシークエンスの中では「水島」でさえない。以下、読み進めると判るが、その出現の様態が「水」の中の塊り、「嶋」のような存在であるから、ここはそうした意味で標題を設けたと私は理解している。2020219日:削除・追記】T氏より本篇への修正情報を多量に頂戴した。この「水嶋」は、「ADEAC」の「石川県立図書館/大型絵図・石川県史」の「加賀国四郡絵図」(正保国絵図)で見ると(ほぼ図の中央で拡大すると、赤く塗られた「田子島村」の、手取川の北(図では左側)の分流の沿って「水嶋村」が存在し、『江戸時代中期では内陸というより、川沿いの村の認識で』あると、ご指摘戴いた。T氏曰く、『「石川県石川郡誌」(国立国会図書館デジタルコレクション)の「第二十章 比樂島村」(前者)のこちら(後者)によれば、「水嶋村=水島村」は、後者に、

   *

○區劃。本村は水島、源兵衛島、福永、上安田、出合島、番田の六區より成る。

   *

とあり、前者のリンク部分には、

   *

○灌漑。耕地は總て手取川七ケ用水の一なる中島用水の區域に屬し、出合島區に於て同新砂川用水區域に屬する土地二町歩餘あるに過ぎず。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とあります。現在の石川県白山市水島町はここですが、旧「水嶋村」は旧分流「手取川」=「中島渠」(これは後の注で氏の追加考証を追記した)を越えて「山田先出村」、もう一つ「手取川」を越えると、「山田村」があることになります』とのことであった。

「本吉世尊院」いろいろ調べてみると、この寺(真言宗)は、もとは現在の石川県白山市美川南町(みかわみなみまち)にある藤塚神社の境内にあったが、明治の廃仏毀釈により、そこから東の現在の白山市長屋町に移転していることが判り、しかもこの付近(少なくとも藤塚神社の辺りまで)が本吉という広域地名であったろうことは、両者の中間点に北直近に白山市美川本吉町があることから推察出来る。2020219日:改稿・追記】T氏より世尊院の変遷と、塚が現存することを教えられたので削除・追記する。「本吉世尊院」は「石川県石川郡誌」の「第十七章 美川町」(国立国会図書館デジタルコレクション)の「第十七章 美川町」の寺院の項に(太字は下線は私が附した)、

   *

○賢聖坊。眞言宗にして子安山と號す。[やぶちゃん注:中略。]寬文二年[やぶちゃん注:一六六二年]四月僧眞海高野山を出で〻買い廻國し、元吉寺を世尊寺と改め、又山王權現の別當を兼ねたりき。然るに維新の際世尊院を廢せられ、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とあること、また、同書の「本吉」という地名については、「第十七章 美川町」の「行政」の項に(同前)、

   *

○町名。[やぶちゃん注:前略。]元吉寺も荒廢せり。降りて明應八年[やぶちゃん注:一四九九年。]藤塚、羽左場の二邑を合して一邑となし、舊寺號を取りて元吉(モトヨシ)と稱し、加賀四港の一となりしが、河口變遷につれ、舟楫の便を得、次第に繁榮して承應元年[やぶちゃん注:一六五二年。]佳字を取りて本吉町と稱するに至る。[やぶちゃん注:中略。]明治二年[やぶちゃん注:一八六九年。]能美郡湊村を合し、兩郡の各々一字を取り美川町と命名し、舊本吉町を北郷、湊村を南郷と唱へ來りしも、同四年復び分離し本吉町のみを美川町と稱せり。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とあった。

 また、塚に就いては、同じく「石川県石川郡誌」の「第十七章 美川町」のこちらから、

   *

○雨の萩塚。元祿二年[やぶちゃん注:一六八九年。]芭蕉翁、曾良、北枝二人を率ゐて、世尊院に杖を曳きし時、「ぬれて行く人もをかしや雨の萩」の句あり、是を以て寛保三年霜月[やぶちゃん注:一七四三年であるが、中旬以降は翌年。]當町の俳人大睡の子若樵その門前に碑を立て〻之を刻し、又「撫てし子の風雅の肌やかへり花」の自句を記せり。その碑、後に淨願寺の境内に移し、今尙存せり。

   *

とあって、しかも白山市美川南町に浄願寺(浄土真宗)は現存し、碑も残っていることが確認出来た。詳しくはこちらのページで確認されたいが(碑画像あり)、ここで気になったのは、「石川県石川郡誌」の方の表記や人物関係で、まず、「若樵」は卯尾若推(うおじゃくすい ?~寛延二(一七四九)年)が正しい。例えばサイト「千代女の里俳句館」のこちらに、『加賀國本吉の人。支考門』。『半睡(のち大睡)と千代女は長く親交』とあること、その後に岸大睡(きしだいすい 貞享元(一六八四)年~安永五 (一七七五) 年:享年九十二歳)が掲げられてあって、『加賀本吉の人。幼年期の千代女の師として知られる。本吉藤塚社東田圃に三葉庵を結』んだとあるから、大睡は若推の父ではないと思われる。また、碑に添えた若推の句は、

 撫てしる風雅の肌やかへり花

となっている。悩ましいことに、こちらの北陸の句碑一覧では、

 推てしる風雅の肌やかへり花

となっている。私の印象では「撫(なで)て知る」であろうという気はするものの、現地の識者の方に確認をお願いしたい気が強くする。

「若椎」サイト「長良川画廊アーカイブズ」の「Web書画ミュージアム」の加賀千代女のページの解説中に、享保一二(一七二七)年に各務支考の門人であった美濃の廬元坊里紅が千代女を訪ねた際、千代女の「晝顔の行儀に夜は瘦(やせ)にけり」を『立句に千代女、里紅、大睡、若椎による四吟歌仙が成り、「松任短歌行」と題し』、『里紅の紀行集『桃の首途』に収められ』たとあることから、俳人として確認出来た。

「雨の萩」芭蕉の「奥の細道」に載る句、

 ぬれて行(ゆく)や人もおかしき雨の萩

に因む名。元禄二年七月二十六日(グレゴリオ暦一六八九年九月九日)、小松滞在中の芭蕉が堤八郎右衛門歓水(「觀水」は連歌の雅号で、俳号は享子)の屋敷に招かれて連句五十韻を興行した。その発句。詳しくは私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 68 ぬれて行くや人もおかしき雨の萩』を参照されたい。調べてみると、先の美川本吉町の南に接して手取川を隔てた左岸に広くある現在の白山市湊町の中に、現在、この句の句碑があるという。]

 此院の人、ある時に語られけるは、

 寶曆六七八年の三とせ許(ばかり)は、手取川の水溢れ、宮竹新村・山田先出(せんだん)・三反田(さんたんだ)・一ツ屋村・土室(つちむろ)・田子島(たごじま)・與九郞島(よくらうじま)・出合島(であひじま)・舟場島(ふなばじま)・水島(みづしま)、皆川堤を押流し、水切れ込みて、人家夥敷(おびただしく)流沒して、川ぞひの村々は地をかへ、居をうつしたる所も多し。本吉は地高きにより、曾て水難には預らざれども、川中に當るが故に、水盛んの頃見渡し侍れば、只海中の一島の如くぞ覺え侍る。此川は白山より出で、年每に洪水のありといへども、海へ落(おつ)る所速(すみや)かなれば、水の滯るべき所なし。水害をなす事はある間敷(まじき)所なり。しかるに此三年の洪水不審と云ふべし。

[やぶちゃん注:後が面倒になるので段落頭の鍵括弧は外した。私は基本、本文の総て終わりまでが、この院の人の語り本文ととるものである。

「寶曆六七八年」一七五六~一七五八年。

「宮竹新村」これ以下の地名は、現在の石川県能美郡宮竹町に含まれる手取川沿い(概ね右岸)の地名とその後背部(北側)の白山市の一部、或いは手取川左岸の能美市の一部も含まれるものと私は考える(以下参照。但し、以下の地名は現在の行政区画地名であり、必ずしも本書の筆者が認識する場所とは完全に合致するとは言えない)。因みに、この「宮竹新村」は石川県能美郡宮竹町の東部にあった村で、ここに書かれた地名の内、最も上流に当たるものかと思われ、また、実は対岸にも能美市宮竹町の名を見出せる。また、以下に見る通り、現在は河川流路からかなり離れた内陸側も挙げられていることから、手取川の氾濫原(少なくとも北の右岸川)は恐ろしく広かったものと考えられる。2020219日:削除・追記】T氏より情報をいただいた。手取川右岸の「宮竹新村」の明治以降の變遷は、ウィキの「中島村(石川県能美郡)」に、

明治二二(一八八九)年四月一日 町村制の施行により、三反田村・宮竹新村及び灯台笹村の一部(藤蔵島)の区域をもって発足。

明治四〇(一九〇七)年八月五日 草深村・砂川村と合併して川北村が発足。同日中島村廃止。

とあった。

「山田先出(せんだん)」読みは国書刊行会本の筆写されたカタカナに拠った。「禁制奇談全集」では『山田・先田』とする(ルビなし)。現在、能美郡川北町字(あざ)山田先出(やまだせんでん)を見出せるので、漢字と地名は底本の通りでよい。以下、本文で振った読みは現地名を採用し、歴史的仮名遣で示したものである。2020219日:追記】T氏より。ここは手取川右岸で、明治以降の變遷は、

明治二二(一八八九)年四月一日 町村制の施行により、土室村・山田先出村・一ツ屋村の区域をもって発足。草深村 (石川県)になる。

明治四〇(一九〇七)年八月五日 中島村・砂川村と合併して川北村が発足。同日、草深村廃止。

ウィキの「草深村 (石川県)」に拠る)とのことである。

「三反田」前記の上流に接して川北町字三反田(さんたんだ)が現存する。

「一ツ屋村」先出の内陸側に川北町字壱ツ屋(ひとつや)がある。

「土室」概ね以上の地区のさらに内陸側に川北町字土室(つちむろ)がある。

「田子島」川北町字田子島

「與九郞島」川北町字与九郎島

「出合島」やや内陸側に現在の白山市出合島町がある。

「舟場島」能美郡川北町字舟場島

「水島」やや内陸側に白山市水島町がある。]

 是に就て、我少々思ひ當る事あり。此川上中島の間は、皆、川渫普請(かはざらひふしん)の所にて、蛇籠(じやかご)を以て川堤を築き、鳥足(とりあし)といふ物を入れ、水を一所へ落し、田作を廣げることなり。

[やぶちゃん注:「中島」現在、能美郡内の手取川上流に能美郡川北町字中島がある。2020219日:追記】T氏より以下の情報を戴いた。

   《引用開始》

 地名由来は、ここが川北町字三反田、川北町字藤蔵に挟まれた地域であることによりますが、悩ましいところがあり、まず、能美郡川北町字中島は明治以降の地名(村落名)で江戸時代に遡れません。しかし、「三州地理志稿」巻之四の「加賀之國 第四 石川郡」の「山川」には「中島渠」が記載されています。

   *

中島渠[T氏注:以下割註。])【在石川能美分界、大慶寺渠下出手取川、至土室村北割爲岐、歷出合島水島、至本吉新村復入手取川、北岐歷福留源兵衞島西米光村至蓮池村入海、】

   *

と記載があります。加賀藩の国絵図がこちらで公開されており、「加賀国四郡絵図(正保国絵図)」「加賀国高都合并郡色分目録(元禄国絵図)」がありますが、特に「正保国絵図」では手取川の北(図の左)に、もう一つ「手取川」と書かれた分流が記載され、能美郡湊村と石川郡本吉村の少し上流で再度一本の手取川になっています。「元禄国絵図」でも、手取川の名称記載はありませんが、本来の手取川の北に分流が描かれています。されば、「中島渠」は「加賀国四郡絵図」及び「加賀国高都合并郡色分目録」の手取川の北(図の左)の分流を指しいているようです。

   《引用終了》

このT氏の情報は後に出る「中島の中川堤」を解読する一つの鍵ともなっているように思われる。

「蛇籠」竹で粗く円筒形に編んだ籠に石を詰めたもの。河川の水流制御や護岸などに用いる。

「鳥足」不詳。鳥の足のように先端が三つに割れている竹筒様のものを、分かれた方を流れに入れ、一本になっている反対側を灌漑しようとする場所に固定して流水を制御するものか? 識者の御教授を乞う。2020219日:削除・追記】T氏より以下の情報を戴いた。「砺波正倉 砺波市の文化をデジタルで楽しむウエブサイト」の「7-2庄川改修工事」に「川倉(鳥足)(『庄川町史 上』)」として、

   《引用開始》

三本の丸太を三角錐形に組み合わせて作ったもの。中に石を入れて重しとし、上流に向けて川の中に設置する。急を要するときや流れのゆるいところに利用された。個数を丸太でつなぎ、その間にムシロを張り水を止める。

   《引用終了》

図もある。

 然るに、中島の中川堤のもとに、死牛と覺えて水中に脊をさらせるもの久しくありけり。或は「大木の朽ちたるなり」と云ひ、又は「苔むしたる石なり」抔(など)云ひて、人々沙汰しける。水練の者近寄て、撫廻し見るといへども、荒波の中なれば久敷(ひさしく)も見がたし]。只黑き皮のみ手に障(さ)はりて、頭もなく目もなし。兩方へ枝の如き物二三本の出居(いでゐ)る躰(てい)なり。大かたは「枯木の根ならん」と云ふ。其邊り山田村も近ければ、「牛にてやあらん」とさがしけれども、牛とも見えがたければ、其後は或は鍬にてたゝき、竹にて突くなどすれども、只

「ばんばん」

と云ひて鍬も入らず、又木石の如くにもあらず、何樣(いかさま)生類の皮とは見えける。

[やぶちゃん注:「中島の中川堤」「中川堤」とは固有名詞ではなく、川の中洲のことを言っているのではないか? 現在の同地区でも手取川の中に有意な長さの中洲がある。2020219日:削除・追記】前の「中島」の追記注を参照されたい。

「久敷(ひさしく)も見がたし」落ち着いて観察も出来ない。

「障はりて」「觸(さは)りて」かとも思うが、有意な手応えを奇妙な「障(さは)る」ような感じ(抵抗があること)と言ったとしてもおかしくはない。

「山田村」先の「山田先出」ととっておく。他には周辺に独立した山田の地名を見いだせない。「牛」でかく言うということは、或いはこの「山田村」が洪水に襲われても、村として有意に常に存続し続けることが出来た集落であったことを示唆するものであろう。2020219日:削除・改稿・追記】T氏より、『先の「山田先出」の本村である「石川県能美市山田町」ではないでしょうか。字山田先出の手取川を挟んで向かいです』とあった。ここ(手取川左岸)

「ばんばん」は叩いた時の物理的な音のオノマトペイアであって、鳴き声ではない。]

 其後、其里の若者、能く水の少なき日にあたり、例の黑皮の如きもの邊りに寄りつどひ、一鍬づゝ打ちこみ見けれども、何れも刄もたゝず。

「とても生(しやう)はなきものと見へたり」

と云つつ、皆々岸に休らひ、たばこ吞みけるうち、折しも此川へは椰子の實とて、一かゝへ許なる木の實流れ下ることあり。是は白山の谷間に生ふると云へり。上は毛生へたる皮也。其中に興瞎のごとき實あり。是に白き油滿ちて、是を吸ふに甘し。故に土人折には拾ひ取るなり。此椰子の實黑きものの前六尺ばかりに流れ來(きた)る時、枝の如くなる手を差(さし)のべて、椰子の實を引きかゝへ、目口もなき所へ中の實を押あてしが、忽ち白き油を吸盡(すひつく)して、又手を放してからを流しやりける。

 是を見たる百姓共あきれ果て、

「扨は生ある物なり。打殺して見ばや」

と皆々立騷ぎけれども、鍬の刄も立ざりければ、急度(きつと)心付き[やぶちゃん注:素早く思いついて。]、藁に火を付けて黑き皮の上に置きけるに、人々煙草を投懸(なげかけ)投懸して、火を發しけるに、[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここにさらに『久敷(ひさしく)してじらじらとあぶらくさき臭しけるに、』と続いてある。この方がリアリズムがある。]

「爰ぞや」

とて鍬をふり上げてしたゝかに打ちけるに、焼けたゞれたる跡ある故に、一寸許ばかりも切(きれ)こみ、黑き血少し流出づると見えしが、忽ち大地も覆るが如く、

「どうどう」

と響きけるが、今迄水渇してありし川へ、俄に水かさ一丈許もや、大波立ちて洪水出來(いできた)る。

 遙に水上に見へけるまゝ、百姓ども大に驚き、逸足(いちあし)出(いだ)して逃(にげ)けるに、彼(かの)黑き死牛(しぎう)のごとき者に水懸るとひとしく、

「ころころ」

とまろぶやうに見えけるが、幾重の堤皆一同に崩れ立ちて、水はこの方(かた)へ流れける。

 百姓どもは逃げのびてふり返り見るに、洪水は百姓を追懸(おひかく)る如く、道もなき方へ流れ來る樣に覺えけるとぞ。

 夫(それ)よりして水方々にあふれ、久敷(ひさしく)此邊(このあたり)、洪水の難にかゝれり。

 いか樣此者のまろび行くと見えたる所は、忽ち淵とぞ成りにける。

 土堤を損ひしことなれば、隨分隱しけれども、密かに此咄を聞て、其後(そののち)夜每に水面を窺ふに、何やらん黑き脊の者行くと見ゆる方(かた)は、每日淵と成り水難止まず。

 いにしへに聞し「天吳」とやいふ者ならん。目鼻もなくして、よく川堤を破るなど聞きし。とかく人力の支ふべきに非ず。佛智力(ぶつちりき)にこそ百姓の苦海(くがい)は助かれ。「或漂流巨海龍魚諸鬼類波浪不ㇾ能ㇾ沒」の誓(ちかひ)なれば、とかく觀音の大悲にこそ、人民の水難は遁(のが)れ得べけれと、家每朝川に向ひて百ヶ日が間(あひだ)「普門品」を誦しけるに、其の故にもありけん、又時節にや侍らん、或夜(あるよ)闇の中にうす赤きやうなる夜(よ)のありしに、其黑き者水上(みなかみ)へ水中を行くやうに見えけるが、其後水落ちて、路は今の往還とぞなりし。

 俗說に「水熊(みづぐま)の出たる」と云ふは、是なり。いかさま白山の谷の深淵に住むものなるべし。此者去つて後、終に水難はなかりしと聞へぬ。

[やぶちゃん注:2020219日:追記】T氏より感想を頂戴した。『「然るに、中島の中川堤……」以下の段落で最も恐怖するのは、「幾重の堤皆一同に崩れ立ちて、水はこの方(かた)へ流れける。」の部分ではないでしょうか? 「中川堤」(場所不明)ですが、あくまで「堤」で中州のような、耕作地でも宅地でもないところでは無い様に思います(「壊れたね!!」としか言いようのない場所)。ネット上の『手取川の「霞堤」が土木学会の平成24年度「選奨土木遺産」に認定されました』に「3.“島”集落と村囲堤」の項目があり、

   《引用開始》

 “島”集落とは手取川扇状地内に見られる集落の形態で、その名のとおり広がる水田の中に島が一列状に浮かび上がる集落群を呼称します。これは、扇状地内の微地形を活用したもので、氾濫に被害を受けないよう、僅かながらも存在する高台に集まり住まいを築いたことに由来します。現在でも、川沿いには「田子島」「舟場島」「出会島」「与九郎島」などの“島”を冠した地名が残っています。

 村囲堤とは、氾濫による被害をさらに回避するため、集落周辺に盛土を築き、強い流れにも耐えられるよう手取川から、あるいは開墾によって出てきた石によって補強された一種の堤防です。堤防とはいえ当時の図をみると、河川堤防のように洪水を溢れさせないようにするというより、「集落に向かわないよう受け流す」よう配置されているのが特徴です。

   《引用終了》

この「村囲堤」が崩れて、「夫(それ)よりして水方々にあふれ、久敷(ひさしく)此邊(このあたり)、洪水の難にかゝれり。」最悪の結果を述べているようです』。同感で、しかもここに至って「島」「堤」の実態が明確になった。 本篇の最初の追加注のT氏のそれも参照されたい。T氏に深く感謝します!!!

「椰子の實」叙述から正真正銘の椰子の実を言っていることが判る。日本海に対馬海流に乗って椰子の実が流れてくることは事実ある。しかし、この手取川のこの位置に、上流から流れてくるというのは、ちょっと説明がつかない。さればこそ怪奇談とも言えるのではあろう。

「天吳」中国古代の幻想的地誌書「山海経」(全十八巻。作者・成立年未詳(聖王禹 () が治水の際に部下の伯益の協力を得て編んだとされるが仮託に過ぎない)。戦国時代の資料も含まれるが、前漢以降の成立と推定されている。洛陽を中心に地理・山脈・河川や物産・風俗の他、神話・伝説・異獣幻獣の記載がてんこ盛り)などに出る幻獣。サイト「プロメテウス」の「天呉:水伯とも言われる人面虎体の水神」に異様に詳しい。それによれば、『天呉は古代中国神話伝説中の水神で』、『その見た目は人面で虎の体をして』おり、『この見た目は呉人に狩猟生活と密接に関係があると言われており、呉人は虎を百腕の王としてい』『た。また』、『秦の時代前後まで』、『虎に似た虞と言う動物が生きており』、『この動物が天呉のモデルとなったと考えられてい』るとし、『天呉あるいは天虞は先秦時代と秦漢時代の文献によくみられており、騶虞』(すうぐ)『とも言われ』『た。虞と言う漢字に代表されている神で』、「山海経」の「海内北経」には、「『林氏国に珍奇な野獣がおり、大きさは虎位で体には五彩の模様があり、尾は身体ほどの長さであった。名を騶吾と言い、乗ると一日千里を駆けた』」とあり、同じ「山海経」の「大荒東経」には、『「神人があり、八つの頭部がありすべて人面で、虎の体に十条の尾があり、名を天呉と言った」』『という記述もあ』る。『古代の呉人は虞もしくは騶虞という名の動物をトーテム崇拝しており、次第に神格化されて行き天呉となったと考えられ』るとある。また、『天呉は開明獣であるとも考えられて』いるとされ、『開明獣は崑崙山を守る神獣であり肩吾(陸吾)の事であるとも言われて』おり、『天呉と開明獣や肩吾は』「山海経」に『記載が見られる神であるとともに』、『人面で虎の体と言う見た目が共通して』おり、特に『開明獣は人の頭が九つあり』、『天呉は八つですので非常によく似てい』と述べておられる。

「或漂流巨海龍魚諸鬼類波浪不ㇾ能ㇾ沒」「法華経」の「觀世音菩薩普門品」の初めの方にある部分を一節のように繋げたもの。正しくは、

 或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼觀音力 波浪不能沒

(わくひょうるこうかい りゅうぎょしょきなん ねんぴかんのんりき はろうふのうもつ:現代仮名遣)

と通常は音読みするのが当たり前であって訓読などはしないが、返り点に従って無理矢理読もうなら、

「或いは巨海に漂流し 龍・魚・諸鬼が類(るい)にあふとも 波浪に沒する能はず。」

であろうか。訳そうなら、

「或いは巨海(苦海・苦界)に漂ひ流されて、龍や異魚やもろもろの鬼神からの恐るべき災難に遇っても、かの観音菩薩の広大無辺な大慈大悲の力を念ずれば、波浪に沈むことは決してない。」

というところか。]

2020/02/15

三州奇談卷之二 淫女渡ㇾ水

 

    淫女渡ㇾ水

 鶴來(つるぎ)の里はしら山權現の麓にて、酒家尤も多し。加賀の名酒と稱する所なり。昔は「劍」と云ひしも、美酒を出す所なれば、相公綱紀公の御時より、白鶴飛來(きた)るの字を以て、「鶴來」とは改め給ふ。白根川の大流數里を流れ、荒波巖にほとばしりて、見るに肝消ゆるが如し。此邊(このあたり)には「和佐谷(わさだに)の渡し」、「燈臺笹(とだしの)の渡し」とて、岩頭より綱を引渡し、是にすがりて往來の人を渡す舟あり。然共(しかれども)在鄕通ひの小道なれば、危(あやふ)き事も多き所なり。此川末(かわすゑ)は「手取川の渡し」に至り、川幅一里に及ぶ。誠に大井・天龍といへども及ぶことなし。直に「湊の浦」に流れ出(いだ)す故に、漁梁(ぎよりやう)[やぶちゃん注:川漁の簗(やな)。]又多し。

[やぶちゃん注:標題は「淫女(いんじよ)水を渡る」。しかし私は孰れの彼女をも「淫女」とは思わない。

「鶴來(つるぎ)の里」現在の石川県白山市鶴来本町周辺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「相公綱紀公」加賀藩第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)。

「白根川」現在の鶴来の東を貫流する手取川の流域異名か。

「和佐谷(わさだに)の渡し」現在の石川県能美市和佐谷町(わさだにまち)は鶴来本町の手取川を隔てた対岸の南直近で北を手取川が流れる。ここのどこかであろう。

「燈臺笹(とだしの)の渡し」国書刊行会本の筆写原本はカタカナで『トタシノ』と振る。現在の能美市灯台笹町(とだしのまち)。鶴来本町の手取川を隔てた対岸の西直近で北をやはり手取川が流れる。ここのどこかであろう。地名については、「テレビ金沢」公式サイト内のこちらに、『山の上に、手取川の渡し船のための常夜灯があり、川原には笹の茂みがあったことから』とあった。

「手取川の渡し」現在の能美郡川北町木呂場(ころば)にあった。この付近。現在の川幅は五百メートルもないが、当時は氾濫原を合わせて非常に広かったことが判る。芭蕉が、「奥の細道」で詠んだ、

 あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風

と詠んだのがこの渡しであったとされ、現在、「芭蕉の渡し」と呼ばれ、その碑が手取川右岸のやや内陸側にある。「公益社団法人石川県観光連盟」公式サイト内のこちらを参照されたい。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 63 金沢 あかあかと日は難面もあきの風』もどうぞ。

「湊の浦」現在の手取川河口付近であろう。鍵括弧で括ったが、固有名詞ではないかも知れない。]

 此川そひの里に「あつき」と云ふあり。

[やぶちゃん注:「あつき」国書刊行会本は『あきつね』として編者傍注で『(秋常)』とし、「近世奇談全集」では『あつねき』とする。現在、能美市秋常町(あきつねまち)があるので、「あきつね」が現行の地名からは正しいことになろうと思う。

 善兵衞と云ふは祭角力(まつりすまふ)にも名高き强力(がうりき)の者なり。或秋くれの月なき夜に、鮭梁(さけやな)の邊りを盜み打(うち)にせんとて、網をさげて此川添を窺ひ行きしに、不思議や水の行廻(ゆきめぐ)りたる所に、

「ひたひた」

と物の音する。

『何樣(なにさま)川獺の魚を追ひて來るにや。何にもせよ得物なれ』

と、彼(か)のアハウチと云ふ重き網を

「ざぶ」

と打込みしに、何やらん重きもの

「ひた」

と取付きたり。

[やぶちゃん注:「梁」河川の両岸又は片岸から、列状に杭や石などを敷設し、水流を堰き止め、それで誘導されてきた魚類の流路を塞いで捕獲する漁具・仕掛けのこと。

「アハウチ」如何なる網かは不詳。この名では現存しない模様である。錘のついた放ち網のこととは思われる。]

 引上げて見るに、眞白に見へけるまゝ、怪しみてよく見れば、女の白きひとへを着たるが、髮は亂れて藻くづの如く流れながら、彼(かの)網を力(ちから)に這上(はひあが)る。よの常の者ならんには、肝を失ひ逃げもはつ[やぶちゃん注:「果つ」。]べきなれども、聞ゆる强氣(がうき)の善兵衞なれば、ちつともさはがず、

「何者ぞ、名乘れ」

と云ひけるに、女は水を多く吹返し、暫く胸を押下(おしさ)げ、

「嬉しや、御蔭にて岸に上り侍りぬ、かまへて沙汰し給ふな」

と行過んとす。

[やぶちゃん注:「かまへて」は呼応の副詞で「決して私に対して何もなさいますな」の意。]

「あやしや、何ものなれば闇夜といひ、女の身にて、かゝる大河を越えて何國(いづく)へか行く。やわか人間にはあらじ。我が力の程をこゝろみん爲か」

[やぶちゃん注:「やわか」副詞「やわ」+係助詞「か」。よもや。まさか。ここは呼応の副詞の用法で、強い反語の意を含んだ打消推量。]

とて、

「とかく引(ひき)くゝりて、夜の明る迄置(おく)べし」

と云ふに驚き、

「曾て別の者にも非ず、只ゆるして通し給へ。」

[やぶちゃん注:「曾て」副詞で、下に打消の語を伴って「今まで一度も~ない」の意。ここは「決して」の意の強調形。]

 善兵衞は

「なのらずば通さじ」

と云ふ。

女今は詮方なく、

「我は鶴來の何某(なにがし)の家に遺はるゝ婢女(はしため)なり。川向(かはむかひ)の里に馴染(なじみ)の男ありて、よなよな通ひ侍る。人の見咎めん事を恐れ、渡し舟にも乘侯はず。ぬば玉の闇を悅び、あやしの業(わざ)も只一筋のわすれ難き戀路に心亂れて、渡し場に人なき折を考へ、「とだしのわたし」[やぶちゃん注:前に出た「燈臺笹(とたしの)の渡し」であろう。]綱に取つき、さゝがにの糸あやぶく[やぶちゃん注:ママ。]も手ぐり手ぐり每夜行通ひ侍る。今宵はことに篠の露の深く、手すべりて繩を取はづし、水に落ちて是(ここ)迄流れて侍る。もはや夜も更行き候へば、ゆるしておはせ」

とて、末は男の名も名乘(なのり)たるに、思ひ合(あひ)ぬる事もあり。

「扨は其人か」

と、則ち放しやりぬ。

「女の一念の扨も」

と、又がたりに聞えけるを、[やぶちゃん注:ここでこの話を聴いている筆者の現在時制のシチュエーションに転換している。]傍の人の引取て咄しけるは、

「是は享保十五六年[やぶちゃん注:一七三〇年~一七三一年。]の頃にやと覺ゆ。我(われ)京へ月每に通ひける時聞し事なり。是も同日の[やぶちゃん注:同様の。]談ならん。

 江州草津[やぶちゃん注:滋賀県草津市附近。大津の琵琶湖南端の東対岸。]の宿の留(と)め女[やぶちゃん注:宿場の宿屋の客引き女。]、大津に馴染たる男ありて、夜ごと夜ごとに通ひける。初めの程は怪しまざりしが、每夜の事なれば男もふしぎ立(たつ)て、草津にて彼女の仕る家のもとへ行通ふ者に、此婢女が事を密(ひそか)に聞せけるに、

『夜は四つ[やぶちゃん注:午後十時頃。]迄仕舞ひて部屋に入り、明は七つ[やぶちゃん注:午前四時頃。]に起て飯をたき、いつの夜も暇(いとま)乞ふて出る姿は見ず』

と聞えける儘、男あやしみて、又の夜も女の來りけるに、

『かほど迄深切にかたらふ中ぞ、今迄の事打明(うちあか)し給へ。夜每に六里の道を通ふことふしんなり』

[やぶちゃん注:「六里の道」実測で考えると、大津と言っても唐崎辺りから、現在の草津の北辺の唐崎辺りからでないと、陸路は六里にはならない。位置的も泳ぎ渡るとなれば、その辺りではある。現行で直線で以下の大津市二本松が草津市八橋附近までの当該距離となる。]

といぶかりければ、女

『いたう恥かし』

と云ひ兼けれども、せちに責問(せめと)ひければ、

『何をか今は隱し侍らん。「矢ばせの渡し」は五十町に侍れば、これをおよぎ越し通ひ侍る。くらき夜はいとゞ越よく候。此鬢鏡(びんかがみ)[やぶちゃん注:女性が鬢を映して見るのに使う柄附きの小さな手鏡。]を我が額に結はへて水に臨めば、高觀寺(こうくわんじ)の常夜燈此鏡に寫り水に浮び、三四尺は明らかに侍るを、其光に隨ひておよぎ越し候へば、苦もなく此家(このや)のうしろへ着き侍る』

と語りて歸りぬ。

[やぶちゃん注:「矢ばせの渡し」滋賀県草津市矢橋町の矢橋港の石積突堤址辺りか。]

 男聞きて誠しからず[やぶちゃん注:「本当のことのようには全く思えぬ」の意。]おもひ、且(かつ)女のおそろしき事を思ひ廻らせばうるさくて、あけの日彼(かの)高觀寺へ詣で、幸に寺中の灯ともし僧に年頃なるがありければ、是に云ひ語らひて、其夜一夜湖へ向ふ方の常夜燈に板なる物を當て、明りさゝざる樣にしつらへて歸りぬ。

[やぶちゃん注:「高觀寺」読み不詳。国書刊行会本では『高観音』とする。これは恐らく「こうくわんのん」である。佐賀県唐津市西寺町にある天台宗長等山近松寺(きんしょうじ)。本尊は千手観音である。同寺のウィキによれば(ウィキでは「ごんしょうじ」と読んでいるが、公式サイトではルビを振らないから、「きんしょうじ」でよいのではないかと私は思う)。『近松寺は別名に高観音ともいうが、これは園城寺の観音菩薩の中で一番高いところに所在しているからだという』とあるから、本底本は「こうくわんじ」「こうくわんでら」と読んでいるのであろう。]

 さて試みけるに、いかにや其夜は女も來らず、空しく明(あけ)にける。

 夫(それ)より打捨て置きけれども終に女來らざりければ、草津の知れる人に女の事を尋けるに、草津には『女の行方知れぬ』よしにて、尋求めける最中なれば、大津の男も今は隱し難くて、ありの儘に主人に語りけるにぞ、皆々驚き、水練の者を水に入れて見せけるに、三日目に瀨田の橋[やぶちゃん注:ここ。]のもとへ女の死骸流れ出たり。

『定めて闇夜に水を渡り、灯の光を失ひて溺死せしならん』

と、男もあはれみ恐れて、あたまを丸め、廻國修行に出けるとぞ聞へし。

 女の死骸を引揚げけるに、脇の下に鱗の如き物三枚宛(づつ)有りけるを、其骸(むくろ)見し人の物語りなり。」

 何(いづ)れも人妖(じんえう)と云ふべきにや。

[やぶちゃん注:「脇の下に鱗の如き三枚」が最後の最後の怪談のキモである。]

 

2020/02/14

三州奇談卷之二 禪定石の辨

 

     禪定石の辨

 右に云ふ古寺、爰のみにもあらず。此末(このすゑ)吉野と云所は、古への蕭寺(せうじ)も多く廢頽して、其跡纔(わづか)に殘れり。土俗「九十九谷」と云ひ、雲龍山と云ふ是なり。古老の發句にも、「加賀の吉野には」とあり。櫻の名所なり。

[やぶちゃん注:「右にいふ古寺」前条の「吉松催ㇾ雨」の古寺群或いは廃寺となって地名に「~寺」という名が残った場所の謂い。

「吉野」石川県白山市吉野附近を含む広域(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。前条の地域の山を越えた手取川沿いにあり、中宮温泉や手取峡谷で知られる。ここは旧吉野村を含み、「石川県石川郡誌」(石川県石川郡自治協会著・昭和二(一九五七)年刊・国立国会図書館デジタルコレクション)の「題三十九章 吉野村」の「名蹟」の冒頭の「吉野十勝」の命数に『雲龍山(九十九溪)』(「九十九」は読み不詳だが、「つくも」と読みたい)とあり、そこにはこの「三州奇談」の本篇も引かれてある。

「蕭寺」寺の異称。仏教を信奉した南朝の梁の武帝(本名・蕭衍)が寺を建てた際に自分の姓を寺につけたことに由来する。

『古老の發句にも、「加賀の吉野には」とは』国書刊行会本は「古老」は『古翁』で、本篇では芭蕉のことを指すケース(「那谷の秋風」)があるが、芭蕉の句にこのような句は私は知らないから、単なる土地の古老の発句にの謂いととる。]

 近く原村と云ふは、古へ佛御前(ほとけごぜん)の生れし所、今も佛尼の木像を殘す。靈寶皆百姓の手にあり。此里子を產むことを佛御前の嫌ひ給ふとて、【俗に佛御前孕めりと浮名す。尼大に怒りて一室に籠りて死と云ふ。】[やぶちゃん注:二行割注。]此村に孕む者あれば、由緣由緣に他の村へ引越し、子を產みて後歸る。若し佛が原村より產をすれば、必ず大風吹きて作毛を損ふ。是を「原風」と云ふ。

[やぶちゃん注:「原村」やや北西になるが、以下の仏御前の話(次注参照)からは、加賀国原村、現在の小松市原町でなくてはならない。

「佛御前」ウィキの「仏御前」によれば、仏御前(永暦元(一一六〇)年~治承四(一一八〇)年)は平安末期の白拍子で、『加賀国原村(現:小松市原町)に生まれる。父の白河兵太夫は、原村の五重塔の、京より派遣された塔守である。なお、この五重塔は、花山法皇が那谷寺に参詣した折、原村が、百済より渡来した白狐が化けた僧侶が阿弥陀経を唱えたことから弥陀ヶ原と呼ばれ、原村になったというエピソードと、原村の景観に感動し』、『建立したものである。現在は五重塔址のみが残っている。幼少期から仏教を信心したことから「仏御前」と呼ばれる』。承安四(一一七四)年に『京都に上京し、叔父の白河兵内のもとで白拍子となる。その後、京都で名を挙げ、当時の権力者であった平清盛の屋敷に詰め寄る。その当時は白拍子の妓王が清盛の寵愛を集めていたので追い払われるが、妓王の誘いにより、清盛の前で』、

 君を初めて見る折は

 千代も經ぬべし姫小松

 御前の池なる龜岡に

 鶴こそ群れ居て遊ぶめれ

『と即興で今様を詠み、それを歌って舞を見せ』、『一気に寵愛を集めた。この物語は』「平家物語」第一巻の祇王」に『登場する』。安元三・治承元(一一七七)年に『清盛の元を離れ』、『出家し、自らを報音尼と称して嵯峨野にある往生院(祇王寺)に入寺する。往生院には仏御前の登場により清盛から離れた妓王とその母・妹の妓女がおり、同じく仏門に励んだ。その時点で彼女は清盛の子を身ごもっており、尼寺での出産を憚り』、『故郷の加賀国へ向かう。その途中、白山麓木滑(きなめり)の里において清盛の子を産むが、死産』で、治承二(一一七八)年)には『帰郷し』、二年後に『死去した。その最期については、彼女に魅入られた男の妻たちの嫉妬による殺害説や自殺説など諸説あ』り、『墓所は小松市原町にある』とある。最期の不穏な説から、この山深い地に隠棲した可能性は腑に落ちぬでもない。気になるのは、「石川県石川郡誌」の本篇の引用で、この部分を丸ごとカットしていることであるが、理由は判らない。【同日追記】T氏より、『単純な理由です。「現在の小松市原町」は「石川県能美郡中海村大字原」で石川郡でないからです。「石川県能美郡誌」の「第二十七章 中海村」に「名跡 ○成佛寺跡」の項に(国立国会図書館デジタルコレクション)『「三州奇談」近く原村と云ふは』として当該段落が引用されています』とお教え戴いた。

 且つ「高門橋(かうもんばし)」と云ふあり。千尺[やぶちゃん注:三百三メートル。]の岸、黃葉(もみぢ)𤲿(ゑが)くが如し。萬丈(ばんぢやう)の刎橋(はねばし)あり。水上白山より出でゝ、手取川へ下る。此川中に禪定石と云ふあり。水の上、二丈許[やぶちゃん注:六メートル強。]出(いづ)る大石なり。

 昔白山禪定を望む僧あり。幾度も登り得ずして、怒りて此川に身を投じて死し、此石に變ず。故に年に米一粒だけ川上へ登ると云ふ。實(げ)にも三十年來目角(めかど)を付けて見るに[やぶちゃん注:注意して観察して見ても。]、最早五十間許[やぶちゃん注:約九十一メートル。]も水上(みなかみ)へ登りけると云ふ。

 甚(はなはだ)奇特(きどく)の事に思ひ、其邊りの里人に尋ねけるに、其中に公用に依りて此河渫方普請(かはざらひがたふしん)にたづさはる人ありて、

「都(すべ)ての大石は大川の中にありては必ず上へ上(のぼ)ること定理(じやうり)なり。水勢大石の前の砂をほり流すが爲に、石低き方へずり落ちて、下の方は砂走り出す故、上の方へのみ行くものなり。我れ見ても石二三十間許[やぶちゃん注:約三十七メートルから七十二・メートル半強。]も上りし」

とかたり聞けり。

 實(げ)にも此咄(はなし)理(ことわ)りにこそと思へば、彼(かの)「つれづれ草」に書きける、駒狗(こまいぬ)に上人の感淚いたづらになりし心地して、

「よしなき根問(ねどひ)はしてけり」

と、つぶやきながら、此奇談には留めける。

[やぶちゃん注:『「高門橋(かうもんばし)」と云ふあり』国書刊行会本では橋の名を「かふもり橋」とした後、「あり」の後に割注で『黃門橋、蝙蝠橋とも』と入ることから、かく読んでおいた。「千尺の岸」とあるから、ロケーションを前の吉野谷に戻しているわけである。現在、「黄門橋」があるが、それの後身であろう。「石川県土木部道路建設課」公式サイト内の「黄門橋」で現在の「手取渓谷」の黄門橋からの上流下流の眺望が見られる。

「萬丈の」高い位置にあることの誇張表現。

「刎橋」ウィキの「刎橋」によれば、江戸時代の本邦に存在した架橋形式で、岸の岩盤に穴を開け、刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させ、『その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ね』出『していく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となる』ものであるが、『木造で現存する刎橋はない』とある。【同日追記】「玉川図書館近世史料館」に「平成21年度白山紀行」と題するパンフレットがあり、その中に「吉野邨領十景記行」の絵がコピーされています。「古ル橋」の名で「刎橋」が描かれています」とお教え戴いた。五枚目のページの右に当該の絵があり、『古ル橋ト云長サ十三間[やぶちゃん注:約二十三メートル。]ハカリハ子橋ノ上ヨリ水キハマテ十五間[やぶちゃん注:二十七メートル強。]ハカリアル由』『古ル岩ソヒテ諸木茂リ山川荒シ流レ早シ色藍ノ如ク深シ』『吉谷村白山禅定道ヨリ小坂アリ夫ヨリ古ル橋得江至ル』とある、これだ! 因みに禅定道とは白山信仰の修験道の修行のための定格の登山道のことで複数(私の確認出来た主道は三つ)存在する。

「禪定石」石川県白山市白峰に「百万貫の岩」という巨石が手取川にあるが、黄門橋からは有に三十キロメートル以上も上流であるから違う(話に乗って川を遡ってここまで来たとは流石に思われない。閑話休題。この大岩はサイト「日本の奇岩百景+」のこちらによれば(写真・データあり)、昭和九(一九三四)年七月に起きた手取川大洪水の際に上流の宮谷川より土石流として流出したと考えられているとある新しいものである)。翻って叙述からはこの石は黄門橋のそばになくてはならないが、見当たらない。【同日追記】T氏より、『前記「玉川図書館近世史料館」に「平成21年度白山紀行」のパンフに、吉野十景巡見記」に「飛龍巌」と「白布の滝」が描かれています。今の白山市吉野で滝は「錦ケ滝」があります(多分これが白布瀧です)。google mapで航空写真にすると、手取峡谷の中にそれらしい岩が見えます。(今は名無しです)』としてこれを比定候補としてお教え下さった。サイド・パネルで開くと、岩の高さからも遜色ないが、瀧の下にあるなら、そう筆者は言いそうではある。しかし一つの有力な候補としてここに掲げておく。

「米一粒だけ」米一粒分だけの意。

『「つれづ草」に書きける、駒狗(こまいぬ)に上人の感淚いたづらになりし』「徒然草」第二百三十六段の以下。

   *

 丹波に出雲と云ふ所あり。大社(おほやしろ)を移して、めでたく造れり。志田の某(なにがし)とかや領(し)る所なれば、秋のころ、聖海上人(しやうかいしやうにん)[やぶちゃん注:伝不詳。]、その外も人數多(あまた)誘さそひて、

「いざ給へ、出雲拜みに。かいもちひ召させん。」

[やぶちゃん注:「かいもちひ」「搔い餅」「もちい」は「もちいひ(餅飯)」の音変化で、餅米粉・小麦粉などを捏ねて煮たもの。一説には「そばがき」のこととも。]

とて、具しもて行きたるに、各々拜み、信、起こしたり。

 御前(おまへ)なる獅子・狛犬、背(そむ)きて、うしろ樣(さま)に立ちたりければ、上人、いみじく感じて、

「あな、めでたや。この獅子の立ち樣(やう)、いと珍し。古き故あらん。」

と淚ぐみて、

「いかに殿ばら、殊勝のことは御覽じ咎(とが)めずや。無下(むげ)なり。」

[やぶちゃん注:「さても皆さま、この奇特なる姿勢が目に留まりは致さぬか? 何もお感じにならぬとは、駄目で御座るのう!」の意。]

と言へば、おのおの怪しみて、

「まことに他(た)に異なりけり。」

「都のつとに語らん。」

など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顏したる神官(しんくわん)を呼びて、

「この御社(みやしろ)の獅子の立てられ樣、定めて習ひ[やぶちゃん注:古い口伝。]あることに侍らん。ちと承らばや。」

と言はれければ、

「そのことに候ふ。さがなき童部(わらはべ)どもの仕りける、奇怪に候ふことなり。」

とて、さし寄りて、据ゑ直してければ、上人の感淚、いたづらになりにけり。

   *

「根問(ねどひ)」突っ込んだ問いかけ。]

2020/02/13

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 秋風のこころよさに(全)

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。]

 

    秋風のこころよさに

 

ふるさとの空(そら)遠(とほ)みかも

高(たか)き屋(や)にひとりのぼりて

愁(うれ)ひて下(くだ)る

 

 ふるさとの空遠みかも

 高き屋にひとりのぼりて

 愁ひて下る

[やぶちゃん注:先に言っておくと、「屋」は如何に注するように、「屋根」ではなく、三階建ての下宿の三階の「高い場所にある部屋」の謂いである。恐らくは誤読されていた方は多いと思う。私もそうであった。

「遠みかも」「遠み」は形容詞「とほし」の語幹に原因・理由を表わす接尾語「み」がついたもので、「遠いので」の意の古語。「かも」は終助詞で詠嘆。疑問の係助詞「か」に詠嘆の係助詞「も」がついて一語化したもの。

 さて、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は『明星』明治四一(一九〇八)年十月号で、作歌は同年九月十一日であるが、筑摩版全集年譜(同じく岩城氏編)や日記と照応すると、この五日前の九月六日、啄木は金田一京助の厚意で本郷区森川町一番新坂にあった高台にある「新しい三階建」の「高等下宿」であった蓋平館(がいへいかん)に移っている。九月十一日の日記の中にも(全集底本であるが、漢字を恣意的に正字化した)、

   *

 四時頃からしとしと雨。音もなき秋の雨に、遠くの物の煙つて見える景色は、しめやかに故鄕を思はせた。

  故鄕の空遠みかも高き屋に一人のぼりて愁ひて下る

   *

と本歌を記している。着後は三階の部屋に入った。九月八日の日記の一節に、

   *

九番の室に移る。珍妙な間取の三疊半、稱して三階の穴といふ。眼下一望の甍の谷を隔てて、杳か[やぶちゃん注:「はるか」。]に小石川の高臺に相對してゐる。左手に砲兵工廠の大煙突が三本、斷間なく吐く黑煙が怎やら[やぶちゃん注:「どうやら」。何となく。]勇ましい。晴れた日には富士が眞向に見えると女中が語つた。西に向いてるのだ。

 天に近いから、一碧廓寥[やぶちゃん注:「くわくれう(かくりょう)」。広々として寂しいさま。]として目に廣い。蟲の音が遙か下から聞えて來て、遮るものがないから。秋風がみだりに室に充ちてゐる。

   *

とある。以上が載る筑摩版全集第五巻の丁度、九月十一日の日記始まるところに、その日の午前或いは前の三日間の間に日記に描いたものであろうか、「九号室の眺」という啄木のスケッチが挿入されているので、掲げておく。

 

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左端に砲兵工廠の煙突が描かれおり、或いは右手の彼方に線でピラミッド型に描いてあるピークが或いは富士なのかも知れない。ここは現在東京都文京区本郷六丁目(グーグル・マップ・データ)で、まさに「旧太栄館(石川啄木旧宅・蓋平館別荘跡)」の碑が立つ。――しかし俄然!――私は驚いたのだ! 「砲兵工廠」と出た辺りからうすうす気づいていたのだが、この啄木が描いた景色の、その向こうの高台の中央当たりにこそ、かの夏目漱石の「こゝろ」(大正三(一九一四)年)の「先生」と「K」が下宿することになる、あの家があることになっているからである。《あの家》については、私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」の私の考証を見られたいが、そこで示した「東京府武藏國小石川區小石川表町近傍」の地図を見て戴ければ、この蓋平館別荘が真東の向かいにあることが判然とするはずである(私が「こゝろ」の下宿に推定比定したのはこの付近(現在の文京区小石川二丁目の内)で、そこから六百メートルほど谷(現在の白山通り)を隔てて殆んど真正面に啄木のこの時の下宿があったことになる)。しかも、啄木はこの年の本歌集刊行の前から漱石と親交を持っていた(五ヶ月前の明治四三(一九一〇)年七月一日に胃腸病で入院していた漱石に社用と見舞いを兼ねて訪ね、担当していた「二葉亭全集」についての指導を受けている)。漱石は門弟の森田草平を通じて二度に亙って結核が進行していた啄木に見舞金を届けており、葬儀にも出席して、若き詩人の死を強く惜しんだのである。私の考証では(私の『「こゝろ」マニアックス』を参照されたい)啄木がここへ来た時から十年前の明治一〇(一八九八)年に「先生」はこの軍人の未亡人の素人下宿に移っているから、この景色は殆んど変わっていないと考えてよいと思う。東京大学の近くであるから、別段、偶然とも言えようが(しかも「こゝろ」は創作で「奥さん」と「お孃さん」のいる素人下宿など実在しないのであるが)、私はこの啄木のスケッチにそのロケーションが含まれることに激しく感動したのである。「こゝろ」フリークの私には驚くべき奇縁としか言いようがないのである。

 

 

皎(かう)として玉(たま)をあざむく小人(せうじん)も

秋來(あきく)といふに

物(もの)を思(おも)へり

 

 皎として玉をあざむく小人も

 秋來といふに

 物を思へり

[やぶちゃん注:「皎」白く明るく光って清いこと。

「小人」少年。]

 

 

かなしきは

秋風(あきかぜ)ぞかし

稀(まれ)にのみ湧(わ)きし淚(なみだ)の繁(しじ)に流(なが)るる

 

 かなしきは

 秋風ぞかし

 稀にのみ湧きし淚の繁に流るる

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、初出は明治四一(一九〇八)年十月号『明星』で、歌稿では、

 かなしきは秋風ぞかしけながくも忘れゐし人を思出けり

が初案。

「繁に」「しじに」と読む。「盛んに」の意。]

 

 

靑(あを)に透(す)く

かなしみの玉(たま)に枕(まくら)して

松(まつ)のひびきを夜(よ)もすがら聽(き)く

 

 靑に透く

 かなしみの玉に枕して

 松のひびきを夜もすがら聽く

 

 

神寂(かみさ)びし七山(ななやま)の杉(すぎ)

火(ひ)のごとく染(そ)めて日入(ひい)りぬ

靜(しづ)かなるかな

 

 神寂びし七山の杉

 火のごとく染めて日入りぬ

 靜かなるかな

[やぶちゃん注:「神寂びし」「神さぶ」は「神々(こうごう)しくなる・荘厳(そうごん)に見える」の意。

「七山」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 

そを讀(よ)めば

愁(うれ)ひ知(し)るといふ書(しよ)焚(た)ける

いにしへ人(ひと)の心(こころ)よろしも

 

 そを讀めば

 愁ひ知るといふ書焚ける

 いにしへ人の心よろしも

[やぶちゃん注:始皇帝の焚書を想起した詠。]

 

 

ものなべてうらはかなげに

暮(く)れゆきぬ

とりあつめたる悲(かな)しみの日(ひ)は

 

 ものなべてうらはかなげに

 暮れゆきぬ

 とりあつめたる悲しみの日は

 

 

 

水潦(みづたまり)

暮(く)れゆく空(そら)とくれなゐの紐(ひも)を浮(うか)べぬ

秋雨(あきさめ)の後(のち)

 

 水潦

 暮れゆく空とくれなゐの紐を浮べぬ

 秋雨の後

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で「くれなゐの紐」を水溜まりに浮かんでいる実際の何かから解けて落ちた赤い紐ととっておられるが、私は、岩城氏が引かれる今井泰子氏の解釈『くれないの紐は「夕焼けに染った細い雲」とする解釈も参考になろう』という今井氏の隠喩を支持する。]

 

 

秋立(あきた)つは水(みづ)にかも似(に)る

洗(あら)はれて

思(おも)ひことごと新(あた)しくなる

 

 秋立つは水にかも似る

 洗はれて

 思ひことごと新しくなる

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、作歌は明治四一(一九〇八)年九月十四日から十五日で、初出は同年十月号『明星』である。なお、同年の暦上の立秋は八月八日である。]

 

 

愁(うれ)ひ來(き)て

丘(をか)にのぼれば

名(な)も知(し)らぬ鳥(とり)啄(ついば)めり赤(あか)き茨(ばら)の實(み)

 

 愁ひ來て

 丘にのぼれば

 名も知らぬ鳥啄めり赤き茨の實

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、作歌は明治四十一年八月八日の千駄ケ谷歌会で、初出は同年十月号『明星』である。岩城氏は、『啄木は当時』、『与謝蕪村の句集を愛読しているので、この歌は蕪村の「愁ひつつ岡にのぼれば花いばら」の句を』インスパイアして『作られたものであろう。また、同年七月号の『心の花』に載った北原白秋の』

見るとなく淚ながれぬ

かの小鳥

在ればまた來て、茨(いばら)のなかの紅き實を啄(ついば)み去るを。

あはれまた、

啄み去るを。

『の影響も感じられる』と評されておられる。蕪村の句は推定(尾形仂(つとむ)校注「蕪村俳句集」一九八九年岩波文庫刊)で安永四(一七七五)年四月で、夏の句であり、白秋のそれは、後の詩集「思ひ出」(明治四四(一九一一)年刊。郷里福岡県柳川における幼年時代を追懐した抒情詩集)の「斷章」の八番目に配されたものである。]

 

 

秋(あき)の辻(つぢ)

四(よ)すぢの路(みち)の三(み)すぢへと吹(ふ)きゆく風(かぜ)の

あと見(み)えずかも

 

 秋の辻

 四すぢの路の三すぢへと吹きゆく風の

 あと見えずかも

 

 

秋(あき)の聲(こゑ)まづいち早(はや)く耳(みみ)に入(い)る

かかる性(さが)持(も)つ

かなしむべかり

 

 秋の聲まづいち早く耳に入る

 かかる性持つ

 かなしむべかり

 

 

目(め)になれし山(やま)にはあれど

秋(あき)來(く)れば

神(かみ)や住(す)まむとかしこみて見(み)る

 

 目になれし山にはあれど

 秋來れば

 神や住まむとかしこみて見る

 

 

わが爲(な)さむこと世(よ)に盡(つ)きて

長(なが)き日(ひ)を

かくしもあはれ物(もの)を思(おも)ふか

 

 わが爲さむこと世に盡きて

 長き日を

 かくしもあはれ物を思ふか

 

 

さらさらと雨(あめ)落(お)ち來(きた)り

庭(には)の面(も)の濡(ぬ)れゆくを見(み)て

淚(なみだ)わすれぬ

 

 さらさらと雨落ち來り

 庭の面の濡れゆくを見て

 淚わすれぬ

[やぶちゃん注:最後は「泣くことをふと忘れてしまっていた」というのである。]

 

 

ふるさとの寺(てら)の御廊(みらう)に

踏(ふ)みにける

小櫛(をぐし)の蝶(てふ)を夢(ゆめ)にみしかな

 

 ふるさとの寺の御廊に

 踏みにける

 小櫛の蝶を夢にみしかな

[やぶちゃん注:「寺」父が住職をしていた渋民村の万年山宝徳寺。一歲から九歳(渋民中学校卒業の明治二八(一九八五)年三月)までの閉区間の中の幼少期の追懐であろう。

「小櫛の蝶」岩城氏は前掲書で『故郷の宝徳寺の廊下で、踏んだことのある蝶の模様のついた小さな櫛を夢にみたことであるよ』と訳しておられるが、どうも何か隠れた意味がありそうに思われたので調べたところ、大沢博氏の論文「啄木の短歌創造過程の心理学的研究㈦」(『岩手大学教育学部研究年報』第四十四巻第一号(一九八四年十月発行・PDF)で、この歌を取り上げて(四百二十三番)、

   《引用開始》

宝徳寺の墓地でつい踏んでしまった、少女サダのものとみなした小さな骨片のことを、夢にみたというのであろう。蝶も、鳥と同じように、昔から死者の霊魂の象徴とされてきた動物である。特に少女の霊魂の象徴としてふさわしいものである。

   《引用終了》

とされ、以下、そうした解釈をした証左を以下に述べておられる。この啄木の幼馴染みの三歳年上の少女沼田サダについて、大沢氏は同前の『年報』の先行する第三十六巻(一九七六年発行)の「啄木の作歌動機の心理学的分析」PDF)の中で、この『サダは、宝徳寺再建の功労者、大工沼田末吉の娘で』あったが、『啄木が八歳の時に、ジフテリアのため十一歳で急死した少女である』とされる。ショッキングな解釈ではある。但し、「御廊」を「墓地」とは訳せないし、「小櫛の蝶」を少女サダの遺骨とする換喩を元に復元することは容易ではない。但し、この一首に何らかの秘密が隠されていることはこの歌の確信犯的な夢表現から見ても明らかではある。こちらの記事によると、大沢氏は「石川啄木の秘密」(昭和五二(一九七七)年光文社刊)で既にこのショッキングな解釈を発表されておられ、梗概を纏めたサイト主の記載によれば、『啄木には幼なじみの沼田サタ(通称サダ子)がいたが、啄木八歳のとき』、『彼女は十一歳でジフテリアにかかり死んでしまう』。『啄木が三歳のとき妹光子が生まれて、長姉さだが母に代わって啄木の世話をしたが』、『啄木が六歳のとき姉さだは嫁いでいってしまった』。『それから啄木はサダ子とよく遊んだ。(証言する啄木の年上の女性たち)』(丸括弧内は同書のパートの柱(標題)か)『彼女の姿をひと目見たくて』、『啄木は墓を掘っているところを大人たちに見つけられ』、『厳しく叱られる』。『「いたく錆びしピストル出でぬ砂山の砂を指もて掘りてありしに」』という知られた本「一握の砂」の歌は、実は『幼い啄木が土葬の墓を手で掘っていたら』、『骨が出てきたことを、詠んだのだと大沢先生は説明する』とある。あり、精神分析的な手法を導入することは私は問題ないと思うが、こうした象徴変換をやりだすと、本来の文学鑑賞の領域との共有性や語彙の齟齬が甚だしくなってしまうので、分析手法には賛同するが、その結果として至った《解読》には微妙に留保をしたくなる。但し、その中では、本歌の分析解釈は、それなりに私には受け入れ易い内容であるとは言える。少しでも、墓を掘って骨を出すだの、墓場で露出した骨を踏むだのという匂わせをしたでは、猟奇となって、これはもう夢野久作の「獵奇歌」群の一首と化してしまう(私は個人的にはそれでもよいと思う人種であるが)。されば、「墓地」を「御廊」(この「廊」はふと見間違えれば「廟」にも見え、それならば墓地の謂いとなる)とし、「小さな少女の遺骨の儚い破片」を「小櫛の蝶」とする象徴変換はかなり腑に落ちると私は思うのである。]

 

 

こころみに

いとけなき日(ひ)の我(われ)となり

物言(ものい)ひてみむ人(ひと)あれと思(おも)ふ

 

 こころみに

 いとけなき日の我となり

 物言ひてみむ人あれと思ふ

 

 

はたはたと黍(きび)の葉(は)鳴(な)れる

ふるさとの軒端(のきば)なつかし

秋風(あきかぜ)吹(ふ)けば

 

 はたはたと黍の葉鳴れる

 ふるさとの軒端なつかし

 秋風吹けば

 

 

摩(す)れあへる肩(かた)のひまより

はつかにも見(み)きといふさへ

日記(にき)に殘(のこ)れり

 

 摩れあへる肩のひまより

 はつかにも見きといふさへ

 日記に殘れり

[やぶちゃん注:「はつかにも」僅かにも。]

 

 

風流男(みやびを)は今(いま)も昔(むかし)も

泡雪(あはゆき)の

玉手(たまで)さし捲(ま)く夜(よ)にし老(お)ゆらし

 

 風流男は今も昔も

 泡雪の

 玉手さし捲く夜にし老ゆらし

 

 

かりそめに忘(わす)れても見(み)まし

石(いし)だたみ

春(はる)生(お)ふる草(くさ)に埋(うも)るるがごと

 

 かりそめに忘れても見まし

 石だたみ

 春生ふる草に埋るるがごと

[やぶちゃん注:「かりそめに忘れても見まし」『現在の既婚者である私という事実を忘れて「かりそめに」も恋をしてみたいものだ』の謂いであろう。岩城氏の前掲書によれば、『この一首は当時啄木が短歌を指導していた大分県臼杵(うすき)の文学少女菅原芳子を対象』として『架空の恋を歌ったものであろう』と述べておられる。]

 

 

その昔(むかし)搖籃(ゆりかご)に寢(ね)て

あまたたび夢(ゆめ)みし人(ひと)か

切(せち)になつかし

 

 その昔搖籃に寢て

 あまたたび夢みし人か

 切になつかし

[やぶちゃん注:純化された永遠の恋人として〈母〉像を、現在の掻き毟るような人恋しさに転換して詠んだものである。]

 

 

神無月(かみなづき)

岩手(いはて)の山(やま)の

初雪(はつゆき)の眉(まゆ)にせまりし朝(さ)を思(おも)ひぬ

 

 神無月

 岩手の山の

 初雪の眉にせまりし朝を思ひぬ

 

 

ひでり雨(あめ)さらさら落(お)ちて

前栽(せんざい)の

萩(はぎ)のすこしく亂(みだ)れたるかな

 

 ひでり雨さらさら落ちて

 前栽の

 萩のすこしく亂れたるかな

 

 

秋(あき)の空(そら)廓寥(くわくれう)として影(かげ)もなし

あまりにさびし

烏(からす)など飛(と)べ

 

 秋の空廓寥として影もなし

 あまりにさびし

 烏など飛べ

[やぶちゃん注:「廓寥」広々として寂しいさま。

「烏飛べ」と命じたところに作者の孤独の眼目が愕然と発揮されている。]

 

 

雨後(うご)の月(つき)

ほどよく濡(ぬ)れし屋根瓦(やねがはら)の

そのところどころ光(ひか)るかなしさ

 

 雨後の月

 ほどよく濡れし屋根瓦の

 そのところどころ光るかなしさ

 

 

われ饑(う)ゑてある日(ひ)に

細(ほそ)き尾(を)を掉(ふ)りて

饑(う)ゑて我(われ)を見(み)る犬(いぬ)の面(つら)よし

 

 われ饑ゑてある日に

 細き尾を掉りて

 饑ゑて我を見る犬の面よし

[やぶちゃん注:犬の面が、作者の顔とオーヴァー・ラップするところが、凄絶である。]

 

 

いつしかに

泣(な)くといふこと忘(わす)れたる

我(われ)泣(な)かしむる人(ひと)のあらじか

 

 いつしかに

 泣くといふこと忘れたる

 我泣かしむる人のあらじか

 

 

汪然(わうぜん)として

ああ酒(さけ)のかなしみぞ我(われ)に來(きた)れる

立(た)ちて舞(ま)ひなむ

 

 汪然として

 ああ酒のかなしみぞ我に來れる

 立ちて舞ひなむ

[やぶちゃん注:「汪然」は本来は「水が深く広いさま」であるが、転じて「涙が盛んに流れるさま」を言う。]

 

 

蛼(いとど)鳴(な)く

そのかたはらの石(いし)に踞(きよ)し

泣(な)き笑(わら)ひしてひとり物言(ものい)ふ

 

 蛼鳴く

 そのかたはらの石に踞し

 泣き笑ひしてひとり物言ふ

[やぶちゃん注:「蛼(いとど)」通常、「いとど」は狭義には剣弁亜(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ属カマドウマ Diestrammena apicalis か、その近縁種(七種いる)を指す(ご存じの通り、鳴かない)が、この場合はコオロギの古名である。私の『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信訳) / 「五」の「コホロギ」・「クツワムシ」・「カンタン」』の私の注を参照されるのが手っ取り早い。]

 

 

力(ちから)なく病(や)みし頃(ころ)より

口(くち)すこし開(ひら)きて眠(ねむ)るが

癖(くせ)となりにき

 

 力なく病みし頃より

 口すこし開きて眠るが

 癖となりにき

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、明治四三(一九一〇)年四月二十五日附『東京毎日新聞』初出である。前にも述べたが、啄木が顕在的な結核の罹患症状らしきもの自覚は翌明治四十四年一月末頃とされているから、これを確信犯的な結核の認識と読むことは的を外す。但し、周囲に多数の結核罹患者やそれによる死者がいる中で、何らかの呼吸器症状を既に呈しており、それを「病気」と言っている可能性はある。しかし寧ろこの「病みし」とは精神や心の憂愁感の昂りを指していると読んだ方がよいと私は思う。]

 

 

人(ひと)ひとり得(う)るに過(す)ぎざる事(こと)をもて

大願(たいぎわん)とせし

若(わか)きあやまち

 

 人ひとり得るに過ぎざる事をもて

 大願とせし

 若きあやまち

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、歌稿は、

 人一人うるにすぎざる事をもて大願とするあやまちはよし

であるとされ、『啄木は世上若きあやまちとして非難される早熟な』今の妻節子との『恋愛も、彼自身は生涯これを懐かしみ、是認していたのである』と喝破されておられる。同感である。]

 

 

物(もの)怨(え)ずる

そのやはらかき上目(うはめ)をば

愛(め)づとことさらつれなくせむや

 

 物怨ずる

 そのやはらかき上目をば

 愛づとことさらつれなくせむや

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『うらみごとをいうときの彼女のあのやわらかな上目が可愛らしいと思って、わざとつれなくするのであろうか』と訳しておられる。前歌の続きとして妻節子を詠んだものとまずはとっておく。]

 

 

かくばかり熱き淚は

初戀の日にもありきと

泣く日もまたなし

 

 かくばかり熱き淚は

 初戀の日にもありきと

 泣く日もまたなし

[やぶちゃん注:特にこれを新たな恋の発露ととる必要はない。但し、そうでないと断定も出来ない。岩城氏は前掲書で『主題は秋の憂愁』とされるが、そのような感覚的感懐であると断定も出來はしない。]

 

 

長(なが)く長(なが)く忘(わす)れし友(とも)に

會(あ)ふごとき

よろこびをもて水(みづ)の音(をと)聽(き)く

 

 長く長く忘れし友に

 會ふごとき

 よろこびをもて水の音聽く

 

 

秋(あき)の夜(よ)の

鋼鐵(はがね)の色(いろ)の大空(おほぞら)に

火(ひ)を噴(ふ)く山(やま)もあれなど思(おも)ふ

 

 秋の夜の

 鋼鐵の色の大空に

 火を噴く山もあれなど思ふ

 

 

岩手山(いはてやま)

秋(あき)はふもとの三方(さんぱう)の

野(の)に滿(み)つる蟲(むし)を何(なに)と聽(き)くらむ

 

 岩手山

 秋はふもとの三方の

 野に滿つる蟲を何と聽くらむ

 

 

父(ちち)のごと秋(あき)はいかめし

母(はは)のごと秋(あき)はなつかし

家(いへ)持(も)たぬ兒(こ)に

 

 父のごと秋はいかめし

 母のごと秋はなつかし

 家持たぬ兒に

 

 

秋(あき)來(く)れば

戀(こ)ふる心(こころ)のいとまなさよ

夜(よ)もい寢(ね)がてに雁(かり)多(おほ)く聽(き)く

 

 秋來れば

 戀ふる心のいとまなさよ

 夜もい寢がてに雁多く聽く

 

 

長月(ながつき)も半(なか)ばになりぬ

いつまでか

かくも幼(をさな)く打出(うちい)でずあらむ

 

 長月も半ばになりぬ

 いつまでか

 かくも幼く打出でずあらむ

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、歌稿は、

 長月も半ばになりぬいつまでかかくも幼き戀するものか

であることから、先に示した通り、啄木は当時、短歌を指導していた少女菅原芳子に、『つれずれなるままに恋文を送っている』ことから、『この一首は彼女に対する恋とはいえぬ恋を求める自己をあわれんだ歌である』と評しておられる。この『恋とはいえぬ恋』という謂いには私は留保をしたいとは思う。次の歌も参照。]

 

 

思(おも)ふてふこと言(い)はぬ人(ひと)の

おくり來(こ)し

忘(わす)れな草(ぐさ)もいちじろかりし

 

 思ふてふこと言はぬ人の

 おくり來し

 忘れな草もいちじろかりし

[やぶちゃん注:明白な現存在の相聞歌であり、「おくり來し」相手は、当然の如く、妻節子ではない。]

 

 

秋(あき)の雨(あめ)に逆反(さかせ)りやすき弓(ゆみ)のごと

このごろ

君(きみ)のしたしまぬかな

 

 秋の雨に逆反りやすき弓のごと

 このごろ

 君のしたしまぬかな

[やぶちゃん注:「逆反りやすき弓」私は弓の弓柄(ゆづか:「握(にぎり)」。右手で持つ弦(つる)を支える部分)が、湿気を含んで反りが致命的に逆に戻ってしまうことを言っていると読む。]

 

 

松(まつ)の風(かぜ)夜晝(よひる)ひびきぬ

人訪(ひとと)はぬ山(やま)の祠(ほこら)の

石馬(いしうま)の耳(みみ)に

 

 松の風夜晝ひびきぬ

 人訪はぬ山の祠の

 石馬の耳に

 

 

ほのかなる朽木(くちき)の香(かを)り

そがなかの蕈(たけ)の香(かほ)りに

秋(あき)やや深(ふか)し

 

 ほのかなる朽木の香り

 そがなかの蕈の香りに

 秋やや深し

[やぶちゃん注:「蕈(たけ)」茸(きのこ)。但し、岩城氏前掲書によれば、作歌は明治四二(一九〇二)年四月十一日で、初出は同年五月号の『スバル』であるから、追懐か想像句である。]

 

 

時雨降(しぐれふ)るごとき音(おと)して

木傳(こづた)ひぬ

人(ひと)によく似(に)し森(もり)の猿(さる)ども

 

 時雨降るごとき音して

 木傳ひぬ

 人によく似し森の猿ども

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、明治四十一年九月十二日平野万里炷徹夜会での作。追懐というよりも幻想性がより強い感じが私はする。]

 

 

森(もり)の奧(おく)

遠(とほ)きひびきす

木(き)のうろに臼(うす)ひく侏儒(しゆじゆ)の國(くに)にかも來(き)し

 

 森の奧

 遠きひびきす

 木のうろに臼ひく侏儒の國にかも來し

[やぶちゃん注:前歌と同じく強い幻想性が感じられる。]

 

 

世(よ)のはじめ

まづ森(もり)ありて

半神(はんしん)の人(ひと)そが中に火(ひ)や守(まも)りけむ

 

 世のはじめ

 まづ森ありて

 半神の人そが中に火や守りけむ

[やぶちゃん注:私は「半神」をギリシア神話のパンやサテュロスのような四足獣と人間のハイブリッドの獣人を想起する必要はないと考える(但し、女好きの啄木には彼らは相応しいとは言えようから、排除するものではない)。人と神がある意味でより密接な形であった原始人(それは幻想的には寧ろ「半神」であってよいと思う)の意識に遡った古代幻想である。]

 

 

はてもなく砂(すな)うちつづく

戈壁(ゴビ)の野(の)に住(す)みたまふ神(かみ)は

秋(あき)の神(かみ)かも

 

 はてもなく砂うちつづく

 戈壁の野に住みたまふ神は

 秋の神かも

[やぶちゃん注:「戈壁(ゴビ)」中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠。ゴビ砂漠。「ゴビ」はモンゴル語で「沙漠・乾燥した土地・礫が広がる草原」などを意味する(ここはウィキの「ゴビ砂漠」に拠った)。]

 

 

 

あめつちに

わが悲(かな)しみと月光(げつくわう)と

あまねき秋(あき)の夜(よ)となれりけり

 

 あめつちに

 わが悲しみと月光と

 あまねき秋の夜となれりけり

 

 

うらがなしき

夜(よる)の物(もの)の音(ね)洩(も)れ來(く)るを

拾(ひろ)ふがごとくさまよひ行(ゆ)きぬ

 

 うらがなしき

 夜の物の音洩れ來るを

 拾ふがごとくさまよひ行きぬ

 

 

旅(たび)の子(こ)の

ふるさとに來(き)て眠(ねむ)るがに

げに靜(しづ)かにも冬(ふゆ)の來(き)しかな

 

 旅の子の

 ふるさとに來て眠るがに

 げに靜かにも冬の來しかな

[やぶちゃん注:「がに」接続助詞。願望を受けてその理由を「~が出来るように」の意。]

2020/02/12

三州奇談卷之二 長田の黑坊

 

    長田の黑坊

 普陀落(ふだらく)の圓通閣佛大寺と云ふ靈山あり。此近邊にての異靈の地にして、女人山上する事を禁ず。古ヘより大寺と云ひ傳ふ。今其跡七ケ寺は寺もなく、村名と成れり。所謂佛大寺・金剛寺・溫泉寺・蓮臺寺・立明寺・正蓮寺・五國寺・善光寺也。善光寺は寺屋敷のみありて、村名は岩淵と云ふ。何れの頃の繁昌にや、多く禪林と聞えたり。天正の頃、一向宗の爲に併吞せられたる成べし。

[やぶちゃん注:「圓通閣佛大寺」国書刊行会本は「大」を『陀』と横に補正注するが、従わない。

「佛大寺・金剛寺・溫泉寺・蓮臺寺・立明寺・正蓮寺・五國寺・善光寺也。善光寺は寺屋敷のみありて、村名は岩淵と云ふ」石川県旧能美郡にあった国府村は、ウィキの「国府村(石川県)」によれば(太字下線は私が附した)、昭和三一(一九五六)年に、『和気、寺畠、館、鍋谷、金剛寺、坪野、仏大寺の』七『大字は山上村、久常村(一部)と合併し』て『辰口町』(たつのくちまち)『となり、古府、小野、河田、埴田、上八里、下八里、里川、鵜川、泉寺立明寺の』十『大字は小松市に編入』されたとある。現在の辰口町(グーグル・マップ・データ)は能美市に所属し、町内には辰口温泉があることはある。また、「Stanford Digital Repository」の大日本帝国陸地測量部の昭和八(一九三三)年発行の古地図(実測はもっと古く明治二一(一八八八)年以降か)の「鶴來」を見ると、西端に「立明寺」・「遊泉寺」・「」・「五國寺」があり、少し東の山間に入って「佛大寺」があり、その東北の谷を隔てた先に「金剛寺」の地名を見出せる。また同地図の「小松」の部分を見ると、木場潟の東北に向かった位置に「」がある。「善光寺」改め「岩淵」という村は「鶴來」図の「正連寺」の峰を越えた東に「岩淵」とある。これらを見るに、本文の「溫泉寺」は「遊泉寺」の、「正蓮寺」は「正連寺」のこと(或いは誤記或いはこうも書いたか)である可能性が高いかと考えられる

「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日から行用された)。]

 此東北に長野村あり。爰に住しける人の、今は小松に居を移されし。其先人、未だ長野村に居せる頃、日每に小松へ通はれしが、道に長田川あり。狐狸・川獺の類多き所なれども、此人心剛にして力量もありければ、一つも心にさへず、夜陰といへども行通(ゆきかよ)はれけるに、

「或日長田川にて兼て聞えし黑坊主と云ふ物に逢ひぬ」

と語られし。

 目鼻手足の分るべき物に非ず。計らず

『黑坊主よ』

と思ふと、間もなく

「ずつ」

と延上(のびあが)りけるに、平生逞しき杖を突かれけるが、走りかゝつて

「僧きやつ哉(かな)」

と其杖を以て橫樣(よこざま)

「どう」

となぐられけるが、いか樣(さま)にも毛皮の上にやありけん、人の着物の上をたゝく程に手ごたへして、橫さまに倒れて川の上へ入りにける。

『川獺なんどの所行にや』

とぞ思ひける。此所を逃去り、尾を出(いだ)すべき暇やなかりけん、黑坊のまゝにて、橫へ

「どう」

と水へ落ちて消え失せける。

 是は享保の初め頃や有らんと聞へし。

[やぶちゃん注:「長野村」不詳。「此東北」となると、この中央付近(グーグル・マップ・データ)かと思われるが、ほぼ山林でそれらしい名は見出せない。ただ「爰に住しける人の、今は小松に居を移されし」とあるのからには本作執筆時に既に廃村となった可能性が高い。

「長田川」不詳。読みも不詳。従って標題も「ながた」か「をさだ」か不明。先の推定位置から小松に出るとすれば、大きな川は梯川(かけはしがわ)であるが、異名にこのようなものを見出せない。

「川獺」我々が絶滅させてしまった獺は狐狸同様に人をばかすと考えられていた妖獣であった。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ)(カワウソ)」を見られたい。

「黑坊主」ウィキの「黒坊主」によれば、熊野の民話や本「三州奇談」などに登場し、しぶとく生き残って、『明治時代の東京に』も『現れたという妖怪』とし、『黒い坊主姿の妖怪とされる』。『郵便報知新聞』第六百六十三号(月岡芳年画。リンク先に絵がある)に『神田で女性を襲った黒坊主のことが報じられている』。その『記事によれば、東京都の神田の人家の寝室に毎晩のように現れ、眠っている女性の寝息を吸ったり口を嘗めたりしたとある。その生臭さは病気になるのではと思えるほど到底耐え難いものであったため、我慢できずに親類の家に逃れると、その晩は黒坊主は現れず、もとの家に帰ると』、『やはり黒坊主が現れるという有様だったが、いつしかその話も聞かれなくなったことから、妖怪は消滅してしまったものとみられている』。『この東京の黒坊主の姿は、その名の通り黒い坊主姿とも』、『人間の目にはおぼろげに映るためにはっきりとはわからないともいう』(芳年の絵もそのように絶妙に描かれてある)。『口だけの妖怪ともいい、そのことからのっぺらぼうの一種とする説もある』。『文献によっては東北地方の妖怪とされているが』、『これは民俗学者・藤沢衛彦の『妖怪画談全集』で、前述の『郵便報知新聞』の挿絵が掲載され、その下』の解説文で「奥州の山地」に現れる「夜、人の寝息を吸い、口を甜る黒坊主」といった『記述がされたことによる誤解と指摘されている』。『また、熊野の七川(現・和歌山県)では、山中で人間を襲う真っ黒な怪物を黒坊主と呼び、ある者が出遭った際には背丈が』三『倍ほどに伸び、銃で撃つと』、『そのたび』に『背が伸びて何丈もの怪物と化し、逃げ去るときには飛ぶような速さで逃げ去ったという。同様に背の伸びる妖怪・高坊主の一種とされている』(以下、「三州奇談」の梗概が載る)。『これらのほか、大入道や海坊主などの妖怪の別名として、黒坊主の名が用いられることもある』とある。

『橫へ「どう」と』国書刊行会本はここは『横へとぶと』となっている。

「享保の初め頃」享保は二十一年まであり、一七一六年から一七三六年に相当する。]

2020/02/11

石川啄木日記のスケッチに「こゝろ」の「先生」と「K」の下宿がある!!

石川啄木歌集「一握の砂」の「秋風のこころよさに」パートの冒頭の以下の一首に注をつけようとして、驚くべきことに気がついた!…………


ふるさとの空(そら)遠(とほ)みかも

高(たか)き屋(や)にひとりのぼりて

愁(うれ)ひて下(くだ)る

 

 ふるさとの空遠みかも

 高き屋にひとりのぼりて

 愁ひて下る

さてもこれは、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は『明星』明治四一(一九〇八)年十月号で、作歌は同年九月十一日である。筑摩版全集年譜(同じく岩城氏編)や日記と照応すると、この五日前の九月六日に啄木は金田一京助の厚意で本郷区森川町一番新坂にあった高台にある「新しい三階建」の「高等下宿」であった蓋平館(がいへいかん)に移っている。九月十一日の日記の中にも(筑摩版全集底本であるが、漢字を恣意的に正字化した)、

   *

 四時頃からしとしと雨。音もなき秋の雨に、遠くの物の煙つて見える景色は、しめやかに故鄕を思はせた。

  故鄕の空遠みかも高き屋に一人のぼりて愁ひて下る

   *

と本歌を記している。着後は三階の部屋に入った。九月八日の日記の一節に、

   *

九番の室に移る。珍妙な間取の三疊半、稱して三階の穴といふ。眼下一望の甍の谷を隔てて、杳か[やぶちゃん注:「はるか」。]に小石川の高臺に相對してゐる。左手に砲兵工廠の大煙突が三本、斷間なく吐く黑煙が怎やら[やぶちゃん注:「どうやら」。何となく。]勇ましい。晴れた日には富士が眞向に見えると女中が語つた。西に向いてるのだ。

 天に近いから、一碧廓寥[やぶちゃん注:「くわくれう(かくりょう)」。広々として寂しいさま。]として目に廣い。蟲の音が遙か下から聞えて來て、遮るものがないから。秋風がみだりに室に充ちてゐる。

   *

とある。以上が載る筑摩版全集第五巻の丁度、九月十一日の日記始まるところに、その日の午前或いは前の三日間の間に日記に描いたものであろうか、「九号室の眺」という啄木のスケッチが挿入されているので、掲げておく。

 

Sangainokei

 

左端に砲兵工廠の煙突が描かれおり、右手の彼方に線でピラミッド型に描いてあるピークが、或いは富士なのかも知れない。ここは現在東京都文京区本郷六丁目で、まさに「旧太栄館(石川啄木旧宅・蓋平館別荘跡)」の碑が立つ。

 私はしかし激しく驚いたのだ! 「砲兵工廠」と出た辺りからうすうす気づいていたのだが、この啄木が描いた景色の、その向こうの高台の中央当たりにこそ、かの夏目漱石の「こゝろ」(大正三(一九一四)年発表)の「先生」と「K」が下宿することになる、あの家があることになっているからである。《あの家》については、私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」の私の考証を見られたいが、そこで示した「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」の地図を見て戴ければ、この蓋平館別荘が真東の向かいにあることが判然とするはずである。

 しかも、啄木はこの年の本歌集刊行の前から漱石と親交を持っていた(五ヶ月前の明治四三(一九一〇)年七月一日に胃腸病で入院していた漱石に社用と見舞いを兼ねて訪ね、担当していた「二葉亭全集」についての指導を受けている)。後に漱石は門弟の森田草平を通じて二度に亙って結核が進行していた啄木に見舞金を届けており、葬儀にも出席し、若き詩人の死を強く惜しんだのである。私の考証では(私の『「こゝろ」マニアックス』を参照されたい)啄木がここへ来た時から十年前の明治一〇(一八九八)年に、「先生」はこの軍人の未亡人の素人下宿に移っている設定であるから、この景色は殆んど変わっていないと考えてよいと思う。東京大学の近くであるから、別段、偶然とも言えようが、私はこの啄木のスケッチにそのロケーションが含まれることに激しく感動したのである。「こゝろ」フリークの私には奇縁としか言いようがないのである! 漱石が啄木への秘かにして迂遠なオマージュとしてここを選んだのではないとは、誰も断言は出来ぬと私は思うのである。

 

三州奇談卷之二 八幡の金火

 

    八幡の金火

 小松より金澤迄山越(やまごえ)の道は、中古の本道(ほんだう)にして、今も「上使海道」と唱ふ。小松を一里隔てゝ、八幡(やはた)と云所あり。社は林中にあり。爰も能き竹を出す地なり。「金火(こがねび)の松」とて、道のべに古松獨立せり。數里の遠きよりよく見ゆ。形車蓋(しやがい)のごとし。木の本に立(たち)よれば、三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]許(ばかり)松の中うつろにして、暗ふして知り難し。夜每に是より燐火出づ。土俗「金火」といふ。小松の町中までも來(きた)る。或人「蜘(くも)の火」なりと云ふ。實(げ)にも火に餘焰なく、只火繩の火の如し。下上一二丈ばかりの間を飛行(ひぎやう)す。

[やぶちゃん注:「八幡」小松市八幡(グーグル・マップ・データ)。

「上使海道」旧北陸道の別名。ここで「山越の道」と言い、八幡を出すということは、旧北陸道は、かなり山側を走っていたことが判る。

「社」八幡神社ととっておく。

「金火(こがねび)の松」「近世奇談全集」の読みに従った。]

 又「三谷(さんだん)の火」と云ふあり。是は燐火の大いなうものにて、近づき見れば人形(ひとがた)の者三人、太鼓の如き物一つを中に取籠(とりこ)むる躰(てい)なりと云ふ。都(すべ)て此邊(このあたり)は小松の先主村上周防守迄のときは、此所斬罪場(ざんざいば)にてありけるとかや。「人の血地に入りて鬼燐(きりん)と成る」といへば、如ㇾ此(かくのごとく)の故にや。

[やぶちゃん注:「三谷の火」【2020年2月11日:改稿】読みはT氏の示された「石川県能美郡誌」(国立国会図書館デジタルコレクション)の「第二十五章 苗代村」(旧地図から「のしろむら」と読む)のルビ及び明治四二(一九〇九)年測量の小松地区の地図に拠った。現在、小松市三谷町(さんだにまち)は木場潟の北東岸にあるが、位置がやや南に離れはする。一つ気になることもある。「太鼓の如き物」の部分が「近世奇談全集」では『太郎鼓(たらうつゞみ)』となっていることではある。以下の下りの「太郎丸」という村名とするのがちょっと気になるのである。

「村上周防守」既出既注であるが、再掲しておく。後の越後村上藩初代藩主村上頼勝(?~慶長九(一六〇四)年:別名・義明)。天正一一(一五八三)年に「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に助勢した主君丹羽長秀が、戦後、越前・若狭・加賀南半国(能美郡・江沼郡)を与えられた。これに伴い、能美郡の小松城に家臣であった彼が入って城主となっている。]

 是より小松迄の間に太郞丸・二郞丸と云ふ邑(むら)あり。共に野社(のやしろ)あり。何を祭ることを知らず。人は云ふ、

「古へ一忠臣ありて、二人の公達(きんだち)を供奉(ぐぶ)して此所(このところ)へ落ちけるが、敵の爲にたばかられて、二公子此間に命を落す。家臣大(おほい)に怒りて、此道のべの松の本に自殺す。心火燃えて松を燒く。是(これ)金火の松なり」

と云ふ。然共(しかれども)太郞丸・二郞丸の事跡、何れの國主の公達なることを知らず。猶古老の人に尋ねて重(かさね)て記すべし。

[やぶちゃん注:「太郞丸・二郞丸と云ふ邑あり。共に野社あり」小松市沖町にある沖太郎丸(おきたろうまる)神社である。この神社の「石川県神社庁」の解説に(地図あり。小松市街に近く、八幡の西方二・五キロメートル)、『太郎丸さまと称せられる。往古二人の公達が都より落ちのびてきて、ここで敵に謀殺され、夜毎に金火がでたので、その御霊を祀ったのが太郎丸・次郎丸の宮であるという。他に姉丸宮もあった。後』、『厳之御魂社と称したが』、『更に今の社名に改称。昭和』四四(一九六九)年に、『沖町イ一番地甲より、今の社地に移転と同時に社殿改築』とある。前の「三谷」という地名が私は怪しい気がするのである。何故なら、八幡のことを語って、その間にずっと南に離れた「三谷」の話を挟んで、これまた、この付近に戻って語るというのが、私には聊か不自然に感じられるからである。また、地図を眺めていたら、この沖太郎丸神社の南東直近に現在、三田町という発音の近い町名を見出せた。或いは前段の部分は続いていているものではないのかとも思われてくるのである。【2020年2月11日:削除・追記】T氏よりメールがあり、江戸時代に三田村は存在しないとのことで(こちらに拠る)、また、「三谷」は旧苗代村内(小松南部に及ぶ)にあったから、必ずしも地理的に離れているとは言えなかったことも判明したので上記は線で削除した。

三州奇談卷之二 吉松催ㇾ雨

 
    吉松催ㇾ雨

 五穀寺稻荷社は、小松城内の鎭守にして、由緖ある靈場なり。近年小松町の小兒を粧ひて歌舞妓をなす事はやりて、山王・諏訪・多田八幡交々(こもごも)日限(ひぎり)を願ひて興行あり。其度々町々より幟・造り物、見物の賑ひ暫く花洛をうつすに似たり。

[やぶちゃん注:標題は「吉松(きちまつ)雨を催す」と読んでおく。「きつまつ」「よしまつ」でも別に構わぬ。

「五穀寺稻荷社」現在の小松城跡から東北直近の位置にある小松市大川町にある葭島(よしじま)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「石川県神社庁」の同神社の解説に(総て下線太字は私が附した)、『元、小松城中葭島に鎮座(前田利常公小松城に入る以前より)』し、『前田利常公』が寛永一九(一六四二)年九月、『多田権内奉行に命じて現社地に屋舗社堂護摩堂建立せられ』、『之を拝領し、又宝物什器を拝領する』。正保元(一六四五)年八月、『小松城の守護神稲荷大明神を遷座する。爾来藩主別段大社格に取扱われ、城内士族を氏子として毎年正月に国家安泰、五穀豊穣、商工業繁昌御祈祷を行う。前田利常公と縁極めて深き当社には古くより公の御霊を斎き祀る』とある。「五穀寺」という冠があるが、サイト「まるごと・こまつ・旅ナビ」の同神社の解説に、『現在の宮司さんのご先祖は、もとは能登の石動山天平寺の・高倉坊行蔵院空清(たかくらぼうぎょうぞういんくうせい)で、縁あって加賀藩前田家から金沢の犀川のほとりに土地を与えられて住んでいた。その頃に前田利常公に非常に気に入られたそうだ。その裏付けもきちんとあるとのこと』とあり、寛永一六(一六三九)年に『利常公が小松城に隠居する際、金沢から小松へ招かれ、現在とは違った場所だが、梯川』(かけはしがわ)『のそばに土地を与えられ』、『諸社堂を造営し』て『「五穀寺」と称した。しかし、洪水が起こった時に流され』、『大破してしまったので』、正保元年、『現在の場所に新たに社が建立された。その際に小松城の守護神として葭島に鎮座していた「稲荷大明神」を合祀し、「稲荷社」と称された』とある。詳しい経緯は「石川県能美郡誌」の同神社の解説(国立国会図書館デジタルコレクション)のここにあり、本篇も引かれてある。「五穀寺」を冠するのはこの「三州奇談」のみであるが、当時は神仏習合で元型建立に関わったのが僧であるから腑に落ちる名称と思う。

「山王」現在は小松市本折町にある本折日吉神社であろう。同社は古くは古府町にあって「石部山王総社」「府南山王明神」と呼ばれていた。

「諏訪」小松市大領中町にある諏訪神社か。以下の多太神社の南直近にある。

「多田八幡」既出既注の現在の小松市上本折町にある多太神社

「日限を願ひて」一定の日数で依頼して。

「花洛」花の都。京都。]

 然るに此稻荷に興行する每に、雨降つて興を失ふ。いろいろ日を換へ、或は日限を延ばしすれども、とかく雨天になること幾度といへども同じ。

「何樣(いかさま)寶物に雲龍の香爐あれば、是が爲ならんか」

[やぶちゃん注:「何樣」きっと。]

と、取隱せどもかわらず。或は神前に奉幣をさゝげ、手を盡せども、此芝居さへ始まれば、必ず雨降る。或人思ひ付(つき)て、舞臺の敷板(しきいた)の松の平物(ひらもの)[やぶちゃん注:国書刊行会本では以下『を皆取隠(とりかく)せしに、忽(たちま)ち雨晴れて四五日の興をぞ尽しける。』とあって以下の内容が続いている。その方が判り易い。]は、二口村と云所の神社の地の松なり。幾千年ふると云ひ傳へしも、近年村里困窮して、所々の大樹は伐りて出すにより、此松も賣出しけるを、小松泥町の何某買ひて、此稻荷の社地に預置きけり。

「面平(たひら)かに木厚く、舞臺の用に遺ひて屈强一の物なり」

とて、每度此材木を用ひしに、此松板に日さへ向へば、愁々として雨を催しける。

[やぶちゃん注:「平物」前に「敷板」とあるが、単なる舞台に敷くものだけでなく、歌舞伎の大道具の一つで、平たい板を切り抜いて立木などに見せかける「きりだし」などを「平物」と謂うので、広義の大道具のことととっておく。

「二口村と云所の神社」思うにこれは能美市西二口町にある西二口春日神社ではなかろうか。やや小松からは北に離れるが、同じ旧能美郡内である。

「小松泥町」既出既注。この葭島神社のある小松市大川町の旧名。恐らくは町の北を横切る梯川が洪水で氾濫して泥だらけになることに由来するものと思われる。]

 是に依て二日村に人を遺し問はせけるに、此松を伐りし日も、杣(そま)・木挽(こびき)二人とも、日あらずして物の襲はるゝ樣にて死しけるよし聞へし儘、彌(いよいよ)

「此松の故にこそ」

と、拜殿の傍へぞ引除けゝる。

 昔秦の始皇は、松俄に大木となりて雨を防ぎしと聞し。けふは又雨を降らしけるはいかに。松は兼て鱗甲(りんかふ)ありて、老いて龍に化すと云ふ。

「されば常に雲雨を呼ぶの妙ありけるにや」

と、皆人(みなひと)松の奇特(きどく)を感じける。

[やぶちゃん注:秦の始皇帝の逸話は以下の変形であろう。ブログ「羽田会の部屋」の「松の位の太夫職」から引用させて貰う。始皇帝が『外出した折、にわかに、夕立が降って来ました。あいにくと雨具の用意はありません。しかし、始皇帝は、そばにあった松の木の下で雨宿りをし、濡れずにすんだのです。これに感激した始皇帝は、「感心な松である」と言う事で、その松の木に「五位」と言う、高位な位階を授けたのです』。『そんな逸話から、売れている高級花魁は「何々太夫」となのります。太夫は「五位」です。つまり始皇帝から「五位」の位を授かった「松」と同じです。したがって、高級花魁を「松の位の太夫職」などと評する様になったのです』(後者の部分は面白いトリビアなので添えておいた)。]

2020/02/10

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 煙 二

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。「煙 一」はこちら

 なお、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、本パートの「煙 一」は盛岡中学校時代の回想(全四十七首)を主とし、本「二」は渋民時代の回想を主に収めたもの(全五十四首)である(計全百一首)。]

 

    

 

ふるさとの訛(なまり)なつかし

停車場(ていしやば)の人(ひと)ごみの中(なか)に

そを聽(き)きにゆく

 

 ふるさとの訛なつかし

 停車場の人ごみの中に

 そを聽きにゆく

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年三月二十八日附『東京毎日新聞』。「停車場」は言わずもがなであるが、東北本線の始発駅であった(現在は東京駅に変更された)上野駅である。]

 

 

やまひある獸(けもの)のごとき

わがこころ

ふるさとのこと聞(き)けばおとなし

 

 やまひある獸のごとき

 わがこころ

 ふるさとのこと聞けばおとなし

 

 

ふと思(おも)ふ

ふるさとにゐて日每(ひごと)聽(き)きし雀(すずめ)の鳴(な)くを

三年(みとせ)聽(き)かざり

 

 ふと思ふ

 ふるさとにゐて日每聽きし雀の鳴くを

 三年聽かざり

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、明治四十三年八月十四日附『東京朝日新聞』初出で、作歌は同年八月三日夜から翌日の夜にかけてである。啄木は明治四〇(一九〇七)年五月四日に渋民村を出て以来、一度も帰っていない(この日を以って一家は一度離散し、啄木は妹ミツを連れて函館へ向かった。その後、札幌・小樽・釧路と転々し、明治四十一年四月二十八日、東京に着いた)。いや、実際には啄木は実は死ぬまで故郷盛岡にも渋民にも帰ってはいないのである。即ち、啄木は正真正銘の完璧に悲壮な永遠の故郷喪失者であったのである。言わずもがなであるが、東京で雀の鳴くのは聴こえるが、彼は「ふるさと」(彼の出生地は岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)の父一禎(いってい)が住職であった曹洞宗日照山常光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であったが、父の万年山宝徳寺への住職転出により、翌年四月二十六日に渋民村に一家転住している)で「日每」「聽」いていたあの懐かしい田舎の長閑な感じに「雀の鳴く」のを、もう三年も聴いていないと嘆いているのである。都会生活の殺伐としたどんよりと曇ったモノクロームの景と、何か癇に障る都会の雀の鋭い声が背景に浮かんでくるではないか。]

 

 

亡(な)くなれる師(し)がその昔(むかし)

たまひたる

地理(ちり)の本(ほん)など取(と)りいでて見(み)る

 

 亡くなれる師がその昔

 たまひたる

 地理の本など取りいでて見る

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で渋民尋常小学校時代の追懐とする。渋民時代を注しておくと、明治二四(一八九一)年五月二日満五歳で渋民尋常小学校(渋民村大字渋民第十三地割(愛宕下)。この中央付近か(国土地理院図))に入学、明治二十八年三月に同校を卒業している(満九歳。当時の尋常小学校は修業年限四年であった)。その後、同年四月二日に盛岡高等小学校に入学し、盛岡市仙北組町(この中心付近)にあった母方の伯父工藤常象(つねかた)の家に寄寓した(在学中は保護者を常象が引き受けている)。同校を明治三一(一八九八)年三月に四年に進級するが、四月十八日に百二十八名中十番の好成績で盛岡尋常中学校に合格(同月二十五日に一年級に編入)している。]

 

 

その昔(むかし)

小學校(せうがくかう)の柾屋根(まさやめ)に我(わ)が投(な)げし鞠(まり)

いかにかなりけむ

 

 その昔

 小學校の柾屋根に我が投げし鞠

 いかにかなりけむ

[やぶちゃん注:「柾屋根」台形の木製の薄い杮板(こけらいた)の、厚みのある方を下に重ね重ねにして屋根を葺いたもの。瓦屋根より安価であったが、風に飛ばされたり、腐ったりして、持ちが悪い。柾葺き屋根。]

 

 

ふるさとの

かの路傍(みちばた)のすて石(いし)よ

今年(ことし)も草(くさ)に埋(うづ)もれしらむ

 

 ふるさとの

 かの路傍のすて石よ

 今年も草に埋もれしらむ

 

 

わかれをれば妹(いもと)いとしも

赤(あか)き緖(を)の

下駄(げた)など欲(ほ)しとわめく子(こ)なりし

 

 わかれをれば妹いとしも

 赤き緖の

 下駄など欲しとわめく子なりし

[やぶちゃん注:「妹」ミツ。二つ年下。岩城氏の前掲書によれば本作(初出は明治四三(一九一〇)年八月十六日附『東京朝日新聞』で、作歌は同年八月三日夜から翌日夜)『当時』は『彼女は日本聖公会の夫人教役者(伝道師)をめざして名古屋の聖使女学院に在学していた』とあり、『明治四十三年三月旭川で神学校入学試験に合格し』ていたとある。]

 

 

二日前(ふつかまへ)に山(やま)の繪(ゑ)見(み)しが

今朝(けさ)になりて

にはかに戀(こひ)しふるさとの山(やま)

 

 二日前に山の繪見しが

 今朝になりて

 にはかに戀しふるさとの山

 

 

飴賣(あめうり)のチヤルメラ聽(き)けば

うしなひし

をさなき心(こころ)ひろへるごとし

 

 飴賣のチヤルメラ聽けば

 うしなひし

 をさなき心ひろへるごとし

[やぶちゃん注:「チヤルメラ」ポルトガル語「charamela」(シャラメーラ)。木管楽器の一つ。前面に七つ、背面に一つ指孔 (ゆびあな) があり、先端は朝顔状に開く。「唐人笛」とも呼んだ。ウィキの「チャルメラ」によれば、『明治期には水飴の行商人に主に使用されており、上田敏の詩』「ちやるめら」(詩集「牧羊神」所収。「青空文庫」のこちらで読める)に『登場するのは飴屋を想定したチャルメラである。中華そばで用いられるようになったのは大正期からとされている』とある。]

 

 

 

このごろは

母(はは)も時時(ときどき)ふるさとのことを言(い)ひ出(い)づ

秋(あき)に入(い)れるなり

 

 このごろは

 母も時時ふるさとのことを言ひ出づ

 秋に入れるなり

[やぶちゃん注:これは啄木への書信の中で母がそう記しているというのであろう。]

 

 

それとなく

郷里(くに)のことなど語(かた)り出(い)でて

秋(あき)の夜(よ)に燒(や)く餅(もち)のにほひかな

 

 それとなく

 郷里のことなど語り出でて

 秋の夜に燒く餅のにほひかな

 

 

かにかくに澁民村は戀しかり

おもひでの山

おもひでの川

 

 かにかくに澁民村は戀しかり

 おもひでの山

 おもひでの川

[やぶちゃん注:渋民村(ポイントは現在の岩手県盛岡市渋民渋民)からは真西に岩手県最高峰の岩手山(標高二千三十八メートル)が、真西に独立峰でピラミッド型をした姬神山(千百二十三メートル)が、村の中央を北上川が南に貫流する。]

 

 

田(た)も畑(はた)も賣(う)りて酒(さけ)のみ

ほろびゆくふるさとの人(ひと)に

心寄(こころよ)する日(ひ)

 

 田も畑も賣りて酒のみ

 ほろびゆくふるさとの人に

 心寄する日

 

 

あはれかの我(われ)の敎(をし)へし

子等(こら)もまた

やがてふるさとを棄(す)てて出(い)づるらむ

 

 あはれかの我の敎へし

 子等もまた

 やがてふるさとを棄てて出づるらむ

[やぶちゃん注:啄木は満十九歳の明治三八(一九〇五)年六月四日に放浪をやめて盛岡に帰り、父母・妹光子との同居で節子との新婚生活に入った(一家の扶養は啄木が一身に背負わねばならない形となった)。翌明治三十九年四月十四日より、渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務を始めたが、明治四十年三月中、北海道での新生活を決意し、四月一日に学校に辞表を提出したが、各方面から慰留を勧められた。しかし、四月十九日に高等科の生徒を先導して校長排斥ストライキを敢行、二十一日附で免職となった(校長も転任)。既に述べた通り、五月四日に一家離散となった。彼が渋民で子らを教えたのは僅か一年足らずであった。]

 

 

 

ふるさとを出(い)で來(き)し子等(こら)の

相會(あひあ)ひて

よろこぶにまさるかなしみはなし

 

 ふるさとを出で來し子等の

 相會ひて

 よろこぶにまさるかなしみはなし

 

 

石をもて追はるるごとく

ふるさとを出でしかなしみ

消ゆる時なし

 

 石をもて追はるるごとく

 ふるさとを出でしかなしみ

 消ゆる時なし

[やぶちゃん注:実際に啄木が渋民を去らねばならなくなったのは、彼が懸命に行った父一禎の住職復職運動が無に帰したからであった。私の若い頃の飲み仲間の父親の実家は渋民で、まさに石川一家を「石をもて追」い払った側の一家であったと述懐していたのを思い出す。初出は『スバル』明治四三(一九一〇)年十一月号。]

 

 

やはらかに柳(やなぎ)あをめる

北上(きたかみ)の岸邊(きしべ)目(め)に見(み)ゆ

泣(な)けとごとくに

 

 やはらかに柳あをめる

 北上の岸邊目に見ゆ

 泣けとごとくに

[やぶちゃん注:啄木絶唱の一首である。これ以上の悲痛にして美しい望郷詩は私は、ない、と思う。本歌集初出。]

 

 

ふるさとの

村醫(そんい)の妻(ちゅま)のつつましき櫛卷(くしまき)なども

なつかしきかな

 

 ふるさとの

 村醫の妻のつつましき櫛卷なども

 なつかしきかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『モデルは渋民村の村医瀬川章太郎の妻で美人の評判の高かった瀬川アイ』(明治一六(一八八三)年~大正一三(一九二四)年:啄木より三つ上)『で、この歌の作られたとき』(『スバル』明治四三(一九一〇)年十一月号)『二十八歳であった』とある。追懐だから逆算すると、啄木が見た時は二十五歳以前となる。]

 

 

かの村(むら)の登記所(とうきしよ)に來(き)て

肺病(はいや)みて

間(ま)もなく死(し)にし男(をとこ)もありき

 

 かの村の登記所に來て

 肺病みて

 間もなく死にし男もありき

[やぶちゃん注:「登記所」個人・法人・動産・不動産・物権・債権などの権利や義務を届け出て保護する担当部門。現在の法務局の出張所に相当する。]

 

 

小學(せうがく)の首席(しゆせき)を我(われ)と爭(あらそ)ひし

友(とも)のいとなむ

木賃宿(きちんやど)かな

 

 小學の首席を我と爭ひし

 友のいとなむ

 木賃宿かな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『モデルは渋民村小学校の同級生工藤千代治で』、同級生ではあったが、年齢は『啄木より四歳上。渋民村役場の書記として勤務するかたわら』、『小さい宿屋を経営していた』。彼は『二十二歳で結婚』し、『のちに』村役場の『収入役。助役を』経て、『渋民村村長となった』とある。次の歌も参照。]

 

 

千代治(ちよぢ)等(ら)も長(ちやう)じて戀(こひ)し

子(こ)を擧(あ)げぬ

わが旅(たび)にしてなせしごとくに

 

 千代治等も長じて戀し

 子を擧げぬ

 わが旅にしてなせしごとくに

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『啄木が小学校の旧友の中で特に工藤千代治』のこと『を思い出したのは』、前の歌の「小學の首席を我と爭ひし」ことの思い出の他に、『啄木が小学校二年生の秋まで』は『母親の戸籍に入れられ、「工藤一(くどうはじめ)」と名乗っていたので、特にこの工藤姓の友が懐かしく思い出されたのであろう』と述べておられる。これは全集年譜(これも岩城氏の編)によれば、『曹洞宗の僧籍にある者の』当時の『習慣から』、父『一禎表が表』向き、『妻帯を遠慮して妻の入籍をし』てい『なかった』ことによるものである。これは別段、おかしなことではない。明治中頃までは、浄土真宗以外の僧は世間的には妻帯することへの仏教教学上では、批判がかなり強かった。このことはあまり知られていないと思われるので言い添えておく。]

 

 

ある年(とし)の盆(ぼん)の祭(まつり)に

衣(きぬ)貸(か)さむ踊(をど)れと言(い)ひし

女(をんな)を思(おも)ふ

 

 ある年の盆の祭に

 衣貸さむ踊れと言ひし

 女を思ふ

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年満二十歳の時の、「渋民日記」に(全集に拠ったが、恣意的に漢字を正字化した)、

   *

〇九月二日三日四日は陰曆七月の十四十五十六日、乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]田舍で一年中の最樂時たる盂蘭盆會であつた。盆踊例年の如し。

 予は十四日の晩から十八日の晩まで、五夜つゞけて踊つた。

 踊りが濟んで、曉近い霧の寄せて來る頃、月下の焚火にあたつて、「あゝ疲れた」といふ心地!

   *

と記しているが、或いはこの時のエピソードか。前掲書で岩城氏も評釈でこの部分を引いておられる。或いは手元不如意で晴れ(盆踊りは神聖な「はれ」の時空間である)の綺麗な浴衣がないから踊りに行けぬと、「ある女」の前で啄木は呟いて、その女がかく慫慂したのだったかも知れない。既に妻帯者である啄木(前年五月婚姻)を考えると、アブナい歌ともとれる。日記はバレるから、その辺りを書かなかったのではなかったか? ということは毎夜、外でこっそり着替えていたとすると、ますます怪しくないか?]

 

 

うすのろの兄(あに)と

不具(かたわ)の父(ちち)もてる三太(さんた)はかなし

夜(よる)も書讀(ふみよ)む

 

 うすのろの兄と

 不具の父もてる三太はかなし

 夜も書讀む

 

 

我(われ)と共(とも)に

栗毛(くりげ)の仔馬(こうま)走(はし)らせし

母(はは)の無(な)き子(こ)の盜癖(ぬすみぐせ)かな

 

 我と共に

 栗毛の仔馬走らせし

 母の無き子の盜癖かな

 

 

大形(おほがた)の被布(ひふ)の模樣(もやう)の赤(あか)き花(はな)

今(いま)も目(め)に見(み)ゆ

六歲(むつ)の日(ひ)の戀(こひ)

 

 大形の被布の模樣の赤き花

 今も目に見ゆ

 六歲の日の戀

[やぶちゃん注:「被布」は着物の上に羽織る上着の一種で、江戸末期に茶人や俳人などの風流好みの男性が好んで着用したが、後に女性も着用するようになり、現在の着物用コートの原型であるが、ここは特に少女の晴れ着としてのそれであろう。少女用の「袖なし被布」は七五三にお出かけ用の着物として上着に多く用いられている。参照したウィキの「被布」によれば、『大抵は緋色の綸子が使われており、大人用の被布と違って袖が無く、絹紐で作った菊結びの飾りが打ち合わせ部分の両肩に縫い付けられていることが多い。汚れを防ぐためのものだろうが、十歳未満の少女が着用する場合がほとんどであり、少年や年長の少女が着用する機会は少ない』とある。グーグル画像検索「被布」をリンクさせておく。私も四歳の頃の遠い思い出に、これと全く同じものがあるのだ。]

 

 

その名(な)さへ忘(わす)られし頃(ころ)

飄然(へうぜん)とふるさとに來(き)て

咳(せき)せし男(をとこ)

 

 その名さへ忘られし頃

 飄然とふるさとに來て

 咳せし男

[やぶちゃん注:自己の仮想写像ではなく、そうした人物が渋民村にぶらり帰ってきた過去の実体験と読む。さればこそ、啄木自身とそれがダブって見えて痙攣的な衝撃を与えるのである。]

 

 

意地惡(いぢわる)の大工(だいく)の子(こ)などもかなしかり

戰(いくさ)に出(い)でしが

生(いき)きてかへらず

 

 意地惡の大工の子などもかなしかり

 戰に出でしが

 生きてかへらず

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『日露戦争で戦死した故郷の大工の子の薄幸不遇の生涯に深い同情を寄せた一首。モデルは渋民村の立花宗太郎で、彼は明治九年[やぶちゃん注:一八七六年。]四月一日同村立花茂助の長男として生まれたが、母死亡のため渋民の大工立花喜兵衛の妻の乳で育てられ、やがて喜兵衛の養子となった。しかしその後養家に実子が生まれたため継子いじめを受けて不幸な日々を送った。やがて彼は日露戦争[やぶちゃん注:明治三七(一九〇四)年二月八日から明治三八(一九〇五)年九月五日。]に応召、戦地に向かったが、養父の喜兵衛は村の習慣を破って歓送の催しをせず』、『さびしく宗太郎を出征させ』、『村人を憤らせた。この歌の「意地悪の大工」はこの養父の大工喜兵衛を歌ったものである。宗太郎は明治三十八年一月一日』、『清国盛京省蘇麻保で戦死』し、『再び故郷に帰ることがなかった』とある。岩城氏も指示しておられる通り、「意地惡の養父であった人でなしの「大工」喜兵衛にのみ掛かっていることに注意されたい。恐らくそうではなく読んでいた方も多いのではないか? 私も今日の今日までそう誤読していた。啄木より十歳も年上であるが、啄木は渋民尋常小学校時代に触れ合った記憶があったのであろう。]

 

 

肺(はい)を病(や)む

極道地主(ごくだうぢぬし)の總領(そうりやう)の

よめとりの日(ひ)の春(はる)の雷(らい)かな

 

 肺を病む

 極道地主の總領の

 よめとりの日の春の雷かな

 

 

宗次郎(そじろ)に

おかねが泣(な)きて口說(くど)き居(を)り

大根(だいこん)の花(はな)白(しろ)きゆふぐれ

 

 宗次郎に

 おかねが泣きて口說き居り

 大根の花白きゆふぐれ

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『ある日の故郷の夕暮れ時の光景を』回想して『歌った作品で、第四句に詩的な初夏の情緒が感じられる。モデルは渋民の農業沼田惣次郎夫婦で、通称おかねさんと呼ばれた女房のイチが酒飲みの夫をつかまえて泣きながら処世の苦しみを訴えていたある日の光景を歌ったもの』とある。「宗次郎」「おかね」「口説き」と並べられると、浄瑠璃の一節か一場面かと見紛う。それも啄木は計算済みだったのであろう。]

 

 

小心(せうしん)の役場(やくば)の書記(しよき)の

氣(き)の狂(ふ)れし噂(うわさ)に立(た)てる

ふるさとの秋(あき)

 

 小心の役場の書記の

 氣の狂れし噂に立てる

 ふるさとの秋

 

 

わが從兄(いとこ)

野山(のやま)の獵(かり)に飽(あ)きし後(のち)

酒(さけ)のみ家賣(いへう)り病(や)みて死(し)にしかな

 

 わが從兄

 野山の獵に飽きし後

 酒のみ家賣り病みて死にしかな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、『モデルは啄木が「我が従兄弟」と呼んだ』(ということは実際の従兄弟ではないか)『渋民の秋浜善右衛門』で、『啄木の日記にも「資産ゆたかなる家に生れ、愚かな男でもなかつたが、放漫な若旦那育ちの無意義なる生活と家庭の平和のため、所謂『生命の倦怠疲労』を感じて、酒を呑む、醉ふては乱暴する、脳髄が散漫になる、心臓が狂ふ、かくて彼は三十一の男盛り、人からは笑ひ物にされて、日夜酒びたり。借財がかさむ、」』とあるとする。但し、その日記のクレジットを明三九(一九〇六)年三月十九日とされているものの、当該条を探し得なかったのでそのまま引いた。]

 

 

我(われ)ゆきて手(て)をとれば

泣(な)きてしづまりき

醉(ゑ)ひて荒(あば)れしそのかみの友(とも)

 

 我ゆきて手をとれば

 泣きてしづまりき

 醉ひて荒れしそのかみの友

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、この人物は前の歌の『秋浜善右衛門であろうか』とされる。]

 

 

酒(さけ)のめば

刀(かたな)をぬきて妻(つま)を逐(お)ふ敎師(けうし)もありき

村(むら)を逐(お)はれき

 

 酒のめば

 刀をぬきて妻を逐ふ敎師もありき

 村を逐はれき

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『モデルは渋民小学校校長相馬徳次郎。酒を飲んで刀を抜いて妻を追いまわすなど教育者にふさわしくない奇行があったため』、『啄木たちの排斥を受け、明治三十七』(一九〇四)『年三月三十一日付で隣村の滝沢村立篠木尋常高等小学校長に耘出したが、翌年の三月八日死亡した。自殺であるといわれる』とある。全集年譜では、同年三月十七日に啄木が岩手県視学平野喜平宛で彼の排斥に就いての親書を送付している。]

 

 

年(とし)ごとに肺病(はいびやう)やみの殖(ふ)えてゆく

村(むら)に迎(むか)へし

若(わか)き醫者(いしや)かな

 

 年ごとに肺病やみの殖えてゆく

 村に迎へし

 若き醫者かな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書に、『モデルは明治三十五年』(一九〇二年)に『渋民に移住』して、『瀬川医院を開業した瀬川彦太郎』(明治七(一八七四)年~昭和二(一九二七)年)で、渋民に来た『当時』は『二十九歳である』とある。]

 

 

ほたる狩(がり)

川(かは)にゆかむといふ我(われ)を

山路(やまぢ)にさそふ人(ひと)にてありき

 

 ほたる狩

 川にゆかむといふ我を

 山路にさそふ人にてありき

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『故郷の忘れがたい女性の一人を歌ったもの。モデルは渋民生まれの佐々木もと』(明治二三(一八九〇)年~昭和五五(一九八〇)年)で、『啄木の明治四十二』(一九〇九)『年ローマ字日記にも「――我が『螢の女』いそ子も今は医者の弟の妻になって弘前(ひろさき)にいるという。」とある。彼女は』日記『当時二十歳』で、前の歌に詠まれた『医師瀬川彦太郎の弟貞治と結婚して好摩』(現在の岩手県盛岡市好摩(こうま)。グーグル・マップ・データ。渋民から少し北方)『にいた。いそ子はいたこ(巫女)からつけてもらった通称』とある。]

 

 

 

馬鈴薯(ばれいしよ)のうす紫(むらさき)の花(はな)に降(ふ)る

雨(あめ)を思(おも)へり

都(みやこ)の雨(あめ)に

 

 馬鈴薯のうす紫の花に降る

 雨を思へり

 都の雨に

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、初出は『スバル』明治四三(一九一〇)年十一月号であるが、『降り続く都会の』秋『雨に憂鬱になった作者が、ふと故郷の梅雨を思い出し、馬鈴薯のうす紫の花に降る雨にその郷愁を託したもの』と評釈しておられる。ジャガイモの花は白・紫・薄紫などさまざまな色がある。収穫まで百日が目安で、春と秋の年に二回の栽培が可能であるが、東北地方では春に植え付けたものは梅雨少し前に咲くようである。]

 

 

あはれ我(わ)がノスタルジヤは

金(きん)のごと

心(こころ)に照(て)れり淸(きよ)くしみらに

 

 あはれ我がノスタルジヤは

 金のごと

 心に照れり淸くしみらに

[やぶちゃん注:「ノスタルジヤ」(英語「nostalgia」はギリシャ語由来で、ラテン文字転写では「nostos」(return home:故郷へ帰る)と「algos」(pain:痛み)の合成語で、古くは「懐郷病」、即ち、「故郷を想うことによる死に至る重い郷愁感情」のニュアンスがあった。私の偏愛する映像詩人アンドレイ・タルコフスキイ(Андрей Тарковский 一九三二年~一九八六年)は、その「ノスタルジア」(Nostalghia:一九八三年にイタリアで製作したイタリア・ソ連合作映画)について(配給元「フランス映画社」のチラシ解説より引用・訳者不詳)、

   *

 詩とはなんでしょうか? それは世界について思考し、説明しようとする深く独特の方法です。ある人間が他の人間の近くを通りすぎる。他人をながめながら、実は見ていない人がいるが、反対に、ながめて、通りすぎて、そして突然微笑む人もいる。他人が自分なかにある共通する強い感覚をもたらしたからです。

 今日、詩で生きることはできません。詩集が出版されるまで数ヶ月も数年もかかるのに、社会は詩人の必要性を感じなくなった。芸術とて同様です。こうした「狂人」がいなくなれば、次は自分が消失する番だということを忘れたがっているようです。

 ノスタルギアはロシア語では、死に至る病の感覚を含んでいます。別な人間が抱く苦悩に強烈に自己同一する感覚です。

   *

と述べている(私の「Андрей Тарковский 断章」より)。

「しみらに」「繁(しみ)みらに」。副詞でひまなく連続して。一日中。「しめらに」とも言い、万葉以来の古語。「学研全訳古語辞典」によれば、「夜はすがらに」に対して、常に「昼はしみらに」の形で使う、とある。]

 

 

友(とも)として遊(あそ)ぶものなき

性惡(しやうわる)の巡査(じゆんさ)の子等(こら)も

あはれなりけり

 

 友として遊ぶものなき

 性惡の巡査の子等も

 あはれなりけり

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『モデルは渋民村巡査高橋隼之助の長男精一と次男等』(ひとし)『であろう。高橋等はのちに友松家へ養子に行き医師となった。父親の隼之前は福島県田村郡三春町の出身で』、『渋民には明治二十一年』(一八八八年)『より二十六年まで勤務した。侍気質の剛腹な人物であったが、酒好きで』、『福島県人特有の頑固な性格であったので』、『村人に恐れられたといわれる。この歌の「性悪」は「巡査の子」ではなく「巡査」にかかる修飾語であろう』とされる。私もそう思う。]

 

 

閑古鳥(かんこどり)

鳴(な)く日(ひ)となれば起(おこ)るてふ

友(とも)のやまひのいかになりけむ

 

 閑古鳥

 鳴く日となれば起るてふ

 友のやまひのいかになりけむ

[やぶちゃん注:「閑古鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus の別名。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり) (カッコウ)」を参照されたい。岩城氏は前掲書で、『雑木林に囲まれた万年山宝徳寺で育った啄木にとって、閑古鳥の声は故郷の象徴である。故郷を回想するにあたって彼はまず春より夏にかけて鳴く閑古鳥のことを思い出し、同時に季節の変わり目に出る友の持病のことを思ってこのように歌ったのである』と評釈しておられる。]

 

 

わが思(おも)ふこと

おほかたは正(ただ)しかり

ふるさとのたより着(つ)ける朝(あした)は

 

 わが思ふこと

 おほかたは正しかり

 ふるさとのたより着ける朝は

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『今井泰子氏は「おほかたは正しかり」を大方は正しかったと訳し、朝故郷からの手紙を読んで、「平常自分が故郷に関して思う悲しい推測が『おほかたは正し』いことを確かめ心を暗くする。」と解釈しているが、私はこの一首を故郷からの懐かしい便りが着いた朝は、とかく都会生活に疲れて正常を欠くわが心もなごみ、ほぼ正しい思考となるの意に解釈したい』と述べておられ、私も岩城氏に解釈を支持する。]

 

 

今日(けふ)聞(き)けば

かの幸(さち)うすきやもめ人(びと)

きたなき戀(こひ)に身(み)を入(い)るるてふ

 

 今日聞けば

かの幸うすきやもめ人

きたなき戀に身を入るるてふ

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『初出は歌集「一握の砂」。「今日」は明治四十二』(一九〇八)『年五月二日』とされ、『「幸うすきやもめ人」は啄木の妻節子の女学校時代の親友金谷信子』であるとされる。『彼女はある男と婚約、数か月同棲したが』、『その後』、『婚約を解消して渋民小学校に勤務し、独身の和久井校長と恋愛した。その後』、『退職して和久井と結婚、生涯幸福に暮らした。しかし村人の中にはこの恋愛を「きたなき恋」としてあしざまに噂する者が多かった。上京してきた村の助役の息子の岩本実からこの噂を聞いた啄木は、妻の友人の身の上を案じ』、『村人の噂を信じこのように歌ったのである』と述べておられる。]

 

 

わがために

なやめる魂(たま)をしづめよと

讚美歌(さんびか)うたふ人(ひと)ありしかな

 

 わがために

 なやめる魂をしづめよと

 讚美歌うたふ人ありしかな

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『以下四首』は『渋民小学校の上野さめ子訓導』(明治一六(一八八三)年~昭和三九(一九六四)年:啄木より三つ年上)『を歌えるもの。上野女教師は敬虔なクリスチャンであった』とされる。]

 

 

あはれかの男(をとこ)のごときたましひよ

今(いま)は何處(いづこ)に

何(なに)を思(おも)ふや

 

 あはれかの男のごときたましひよ

 今は何處に

 何を思ふや

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『啄木はこの上野さめ子を渋民時代の日記に、「渋民の小天地に於て、『新婦人』の典型を示してくれた人である。真に立派な、男優りな、見識の高い、信仰の厚い人であつた。」と書いている。「今は何処に何を思ふや」と歌ったとき、さめ子は京都大学文学部哲学科出身のクリスチャン滝浦文弥と結婚して、夫の勤務先和歌山市内に幸福な新生活を送っていた』とされる。よかった。]

 

 

わが庭(には)の白(しろ)き躑躅(つつじ)を

薄月(うすづき)の夜(よ)に

折(を)りゆきしことな忘(わす)れそ

 

 わが庭の白き躑躅を

 薄月の夜に

 折りゆきしことな忘れそ

 

 

わが村(むら)に

初(はじ)めてイエス・クリストの道(みち)を說(と)きたる

若(わか)き女(をんな)かな

 

 わが村に

 初めてイエス・クリストの道を說きたる

 若き女かな

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『上野さめ子』『は明治三十七年』(一九〇四年)『の春岩手師範学校女子部を卒業、訓導として渋民尋常高等小学校に赴任、村人に信仰の道を説いた』と記しておられる。]

 

 

霧(きり)ふかき好摩(かうま)の原(はら)の

停車場(ていしやば)の

朝(あさ)の蟲(むし)こそすずろなりけれ

 

 霧ふかき好摩の原の

 停車場の

 朝の蟲こそすずろなりけれ

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、『現在』、『東北本線には渋民駅ができているが、啄木の時代は盛岡に出るにも東京に行くにも好摩の駅から乗らなければならなかった。したがって「好摩の原の停車場」は故郷への関門としてなによりもまず心に浮かぶ忘れがたい思い出の場所であったのである』と記しておられる。好摩の位置は既注。]

 

 

汽車(きしや)の窓(まど)

はるかに北(きた)にふるさとの山(やま)見(み)え來(く)れば

襟(えり)を正(ただ)すも

 

 汽車の窓

 はるかに北にふるさとの山見え來れば

 襟を正すも

 

 

ふるさとの土(つち)をわが踏(ふ)めば

何(なに)がなしに足(あし)輕(かる)くなり

心(こころ)重(おも)れり

 

 ふるさとの土をわが踏めば

 何がなしに足輕くなり

 心重れり

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『初出は歌集「一握の砂」。作歌明治四十三』(一九一〇)『年八月二十八日』で、『盛岡での生活に行き詰まった啄木一家は、明治三十九』(一九〇六)『年の春』、『再び居を渋民村に移した。しかし父親が宝徳寺の住職を罷免されて退去した村に帰ることは』、『白眼と嘲笑と憐惘の中に生活をすることを意味し、住みなれた故郷の禅房を前に、古びた農家の一室に寄寓する啄木の心は重かった。この一首は懐かしい故郷に帰った喜びと、そうした復雑な心境を示すものである』と評しておられる。]

 

 

ふるさとに入(い)りて先(ま)づ心傷(こころいた)むかな

道(みち)廣(ひろ)くなり

橋(はし)もあたらし

 

 ふるさとに入りて先づ心傷むかな

 道廣くなり

 橋もあたらし

 

 

見もしらぬ女敎師(をんなけうし)が

そのかみの

わが學舍(がくしや)の窓(まど)に立(た)てるかな

 

 見もしらぬ女敎師が

 そのかみの

 わが學舍の窓に立てるかな

 

 

かの家(いへ)のかの窓(まど)にこそ

春(はる)の夜(よ)を

秀子(ひでこ)とともに蛙(かはづ)聽(き)きけれ

 

 かの家のかの窓にこそ

 春の夜を

 秀子とともに蛙聽きけれ

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば『故郷における若い女教師との別離の思い出を歌ったもの。「秀子」は啄木が渋民小学校代用教員時代、上野さめ子の後任として赴任してきた堀田秀子訓導』(明治一八(一八八五)年~昭和三九(一九六四)年:啄木より一つ年上)『である。啄木と彼女との関係は同僚の教師としての交際にとどまり、その期間も秀子が着任した明治三十九年九月二十九日から、啄木が北海道へ去った五月四日までの約半年間にすぎないが、啄木日記に書かれた彼女についての記事は、思慕にも似た感情がほのかに感じられる。この一首は啄木が故郷を去るにあたって』、『別れのため』、『秀子の家を訪れた夜の光景を歌ったもので、その背景は明治四十年五月三日の啄木日記に詳しい』とある。全集の「明治四十丁未歳日誌」より当該部分を例の仕儀で電子化する。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 夜ひとり堀田女史を訪ふ。雨時々落し來ぬ。程近き田に蛙の聲いと繁し。あはれ、この室にしてこの人と相對し、恁く[やぶちゃん注:「かく」]相語ること、恐らくはこれ最後ならむと思へば、何となく胸ふさがりて、所思多く、豫は多く語るを得ざりき。友も亦多く語らざりき。誠に、逢ふは別るゝの初めならむ。しかれども、別るゝは必ずしも逢ふの初めならざらむ。予は切に運命を思へり。

 胸を拱ぎて[やぶちゃん注:「こまねぎて」。]蛙の聲をきく。この聲は、予をして幼き時を思出さしめき。又、行方の測りがたきを想ひ𢌞さしめき。さながらこれ一種生命の音樂也。

 人、心のそよげる時、樂しき事を思ひ、心の動かず鎭まれる時、必ず哀しき事を思ふ。喜びを思ふて心嚴かなるはなく、哀しきを思ふて心浮き立つことなし。悲哀は常に嚴肅也。噫[やぶちゃん注:「ああ」。]、淚は決して安價なるものにあらざりき。

 思出長かるべき夜、家にかへりてよりも予は尚さまざまの思に驅られたり。

   *]

 

 

そのかみの神童(しんどう)の名(な)の

かなしさよ

ふるさとに來(き)て泣(な)くはそのこと

 

 そのかみの神童の名の

 かなしさよ

 ふるさとに來て泣くはそのこと

 

 

ふるさとの停車場路(ていしやばみち)の

川(かは)ばたの

胡桃(くるみ)の下(した)に小石(こいし)拾(ひろ)へり

 

 ふるさとの停車場路の

 川ばたの

 胡桃の下に小石拾へり

[やぶちゃん注:「停車場路」の「停車場」は先に注した好摩であろう。]

 

 

ふるさとの山(やま)に向(むか)ひて

言(い)ふことなし

ふるさとの山(やま)はありがたきかな

 

 ふるさとの山に向ひて

 言ふことなし

 ふるさとの山はありがたきかな

[やぶちゃん注:前に徴して「山」の主体は岩手山と姫神山であろう。]

2020/02/09

三州奇談卷之二 篠原の古墳 (公開後翌日に謡曲「実盛」を読んで注を大幅に改稿した)

 

     篠原の古墳 

 多田八幡は小松の上口町はづれなり。木曾義仲寄附とて、實盛の甲冑(かつちう)、錦の直垂(ひたたれ)の切(きれ)、上指(うはざし)の鏑矢(かぶらや)など籠(こ)め物あり。

[やぶちゃん注:「多田八幡」現在の小松市上本折町にある多太(たた)神社(グーグル・マップ・データ)。「石川県神社庁」公式サイトの同神社の解説に(「ただ」とする記載もあるが、こちらの表記に従った)、『当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。社縁起によると』、六『世紀初め、武烈天皇』五『年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ』、『平安時代初期には延喜式内社に列している』。寛弘五(一〇〇八)年に『舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した』。寿永二(一一八三)年の源平合戦の際には、『木曽義仲が本社に詣で斉藤実盛の兜鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願した。室町時代初めの応永』二一(一四一四)年には』『時衆第』十四『世大空上人が実盛の兜を供養された』。それ『以来』、『歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いている。大正元年に本殿後方から発掘された』八千五百余枚に『及ぶ古銭は、室町中期の』十五『世紀初めに埋納されたもので、当時の本社の活動と勢力の大きさを示すものである』。慶長五(一六〇〇)年には『小松城主丹羽長重が古曽部入善を』召し出して、『三男の右京に社家を守らせ、舟津村領にて』五丁八反二百四十三歩を『寄進されたことが記録にある、加賀三代藩主前田利常は寛永』一七(一六四〇)年に『社地を寄進し』、慶安二(一六四九)年の制札では『能美郡全体の総社に制定し』、『能美郡惣中として神社の保護と修理にあたるべきことを決めている』。また、元禄二(一六八九)年には松尾芭蕉が「奥の細道」旅の途次、『本社に詣で実盛の兜によせて感慨の句を捧げている、歴代の加賀藩主及び爲政者はいたく本社を崇敬し』、『神領や数々の社宝を奉納になった』とある。

「木曾義仲寄附」木曽義仲が願状を添えて実盛の遺品を奉納したと伝えられている。

「實盛の甲冑」同神社に現存する。サイト「南加賀周遊」の「実盛物語」を見られたい(画像あり)。高さ十五・二センチ、鉢廻り七十一・二センチ、総体廻り百三十九・四センチ、重さ四・四キログラムの気品のある兜で、中央には八幡大菩薩の神号がある。芭蕉も「奥の細道」で、

   *

齋藤別當眞盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に屬せし時、義朝公より給はらせ給ふとかや。げにも平士のものにあらず、目庇(まびさし)より吹返(ふきかへ)しまで、菊から艸のほりもの、金をちりばめ、龍頭(りゆうづ)に鍬形打つたり。

   *

と仔細に描写している。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす』を見られたい。なお、そちらで斎藤実盛の注も附してあるので、そちらを参照されたい。ここでは省く。

「錦の直垂の切」現存するようである。平宗盛に許された錦の直垂の袖の切れらしい。

「上指の鏑矢」「上差(うはざ)しの矢」の一つ。胡簶(やなぐい)や箙(えびら)などに盛った矢の上に別形式の矢を一筋又は二筋差し添えて飾ったものを指す。例えば、実戦用の征矢(そや)を盛った場合は、そこに飛び出させて狩矢(かりや)である狩股(かりまた)の鏃(やじり)をつけた鏑矢を用いた。

「籠め物」所謂、秘蔵品の謂いであろう。]

  あなむざんかぶとの下のきりぎりす  はせを

 此吟、爰なり。實(げ)にも千古の悲淚たるべし。

[やぶちゃん注:芭蕉は元禄二年七月二十五日(グレゴリオ暦一六八九年九月八日)にここを訪れ、名句、

 むざんやな甲の下のきりぎりす

を詠じた。詳しくは私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす』を参照されたいが、本句には以下の二種の異形があるが、本篇に引用のそれは孰れとも合致しない。蕉門を継ぐ伊勢派の麦水にしてどうしたことだろう?

 あなむざんや甲の下のきりぎりす

 あなむざんやな甲の下のきりぎりす

而して私は実は完全破格の最後の最後の一句を断然支持するものである。]

 其後伊勢の凉菟も、

  會稽(くわいけい)の錦のきれや五月雨(さつきあめ)

と聞へし錦の切は、菊江の織ものにして、五百年の古をしたふ。

[やぶちゃん注:「凉菟」既出既注であるが、再掲しておく。芭蕉晩年の門人で、麦雀や麦水の属した伊勢派俳諧の創始者である岩田凉菟(いわたりょうと 万治二(一六五九)年~享保二(一七一七)年)。伊勢山田の生まれ。本名は正致(「まさむね」か)。通称は権七郎。別号に団友・団友斎・神風館三世。北越・九州・中国各地に旅して勢力を広げた。編著「皮籠摺 (かわごずれ)(元禄一二(一六九九)年・江戸で板行・榎本其角序)・「山中集」(宝永元(一七〇四)年)などがある。しばしば俳諧関連でお世話になる個人サイト「私の旅日記~お気に入り写真館~」の「岩田涼菟」で目ぼしい句と事績が判る。

「會稽(くわいけい)の錦のきれ」一つは「故郷に錦を飾る」(司馬遷の「史記」の「項羽本紀」に記される項羽の言葉「富貴不歸故鄕、如衣繡夜行、誰知之者」(富貴にして故鄕に歸らざるは、繡(にしき)を衣(き)て夜行くがごとし。誰(たれ)か之れを知らんや)がもととされる)を掛けてある。これは彼が近くの越前の出身であり、永く斎藤氏が本拠としたその地に近いことにあり、世阿弥作の謡曲「実盛」のコーダの直前に以下のように出るのを踏まえたもので、一見、不審にしか思えぬ唐突な「會稽」もやはりそこに出たのを引いたものである。

   *

シテ クセ〕 また實盛が 錦の直垂を着ること 私(わたくし)ならぬ望みなり 實盛 都を出でし時 宗盛公に申すやう 古鄕(こきやう)へは錦を着て 歸るといへる本文(ほんもん)あり 實盛生國は 越前の者にて候ひしが 近年御領(ごりやう)に付けられて 武藏の長井に 居住(きよじふ)つかまつり候ひき このたび北國(ほつこく)に 罷り下だりて候はば 定めて討死つかまつるべし 老後の思ひ出これに過ぎじ ご免あれと望みしかば 赤地の錦の 直垂を下(くだ)し給はりぬ

シテ〕 しかれば古歌にも紅葉葉を

〔地〕 分けつつ行けば錦着て 家(いへ)に歸ると 人や見るらんと詠みしも この本文の心なり さればいにしへの 朱買臣(しゆばいしん)は 錦の袂を 會稽山にひるがへし 今の實盛は 名を北國の巷(ちまた)に揚げ 隱れなかりし弓取りの 名は末代にありあけの 月の夜すがら 懺悔(さんげ)物語り申さん

   *

「本文」漢籍に記されて典拠ある文句を指す語で、「古歌にも」平安中期天暦一一(九五七)年頃)に成立した「後撰和歌集」の「巻第七 秋下」の詠み人知らずの一首(四〇四番)。この歌自体が項羽のそれを意識して詠まれたものである。「朱買臣」(?~紀元前一一五年)は前漢の武帝の官僚。蘇州の人。同郷の厳助の推薦によって武帝に仕え、侍中に進んだ。後に東越平定の策を献じ、故郷であった会稽の太守となって錦を着て帰った(「漢書」第六十四巻「朱買臣伝」)。将軍韓説とともにこれを討伐した。主爵都尉から九卿に上った。御史大夫張湯の罪状を告発して自殺させたが、自分も誅された。因みに、彼は若い時に薪を背負って読書に耽り、当時の妻はそれに愛想をつかして離縁したが、後に故郷に錦を飾った彼を見て、恥じて自殺したとされる。]

 錦の切は蜀江に織物にして、五百年の古(いにしへ)をしたひ、目のあたり平家の繁華を感ず。

[やぶちゃん注:「錦の切は蜀江に織物にして」蜀江錦とは、嘗て中国の蜀で作られた織物のことで、日本には天平年間に輸入された。現在も法隆寺の遺品の中に見られ、模様は連続した幾何模様が多く、八角形と四角形を組み合わせた形がその典型である。日本に渡ると、名物裂(ぎれ)として茶道の世界などで珍重され、後に国内でもその模様を模した織物を作るようになった。格子・襷・亀甲などの組み合わせに花・七宝などの文様が配されたもので帯地などによく用いられる、としばしばお世話になるサイト「きもの大全」のこちらにあった。しかし、言っておくと、蜀と会稽は場違いで全く結びつかない。されば、前の句の解釈の糧(にするつもりで筆者は書いているとしか思えぬが)には全くならぬ。

「五百年の古」起点を本作の成立時期である宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃(推定)とすると、五百年前は一二五〇年(建長二年)前後となる。鎌倉中期となり、時期がおかしい。斎藤実盛の死は寿永二(一一八三)年六月一日で、五百七十八年から五百八十九年前であるから、「六百年の古」である。ただ、これは芭蕉の句作時に立ち戻っての感慨であって、それならば、ぴったり「五百年」前なのである。しかし、凉菟の句を掲げてしまった後にこんなことを言うのは私は瑕疵と思う。それらをみんな外して芭蕉の句にこの添え字を附したなら、すんなり読めたのにと思う。伊勢派へのサーヴィスが仇となってギクシャクしているように私は感ずる。]

 戰死の篠原は、社頭の向う水を隔て二十餘町、古墳嚴然として、今に遊行上人必ず爰に必ず法會あり。享保十四年酉[やぶちゃん注:己酉(つちのととり)。一七二九年。]二月二日、遊行上人此所にて、【此前後、遊行上人詩歌多しといへども略す。眞阿は實盛の法名なり。】、

  篠原墳上一忠臣   武勇功名何沒ㇾ塵

  我祖化緣幾千歲   眞阿成佛古今新

と聞へし。金澤芦中町本淨寺、行合て和す。【芦中町は地黃煎町なり。本名は淨專寺町なり。富樫の代久保の橋の間淨專寺と云寺有と云々。】

  白髮染成一老臣   高名粉骨反魂塵

  春風有ㇾ恨篠原塚  五百余年人口新

[やぶちゃん注:「余」はママ。

「戰死の篠原」斎藤実盛は寿永二年六月一日(一一八三年六月二十二日)に加賀国篠原(現在の石川県加賀市旧篠原町で実盛塚が建つ)で戦死した。二つの漢詩を自然流で訓読しておく。

   *

 篠原 墳上 一忠臣

 武勇 功名 何ぞ塵(ちり)と沒せんや

 我が祖 化緣(げえん)して幾千歲

 眞阿 成佛 古今(ここん)に新たなり

   *

 白髮 染め成す 一老臣

 高名 粉骨 反魂(はんごん)の塵

 春風 恨み有り 篠原の塚

 五百余年 人口に新たなり

   *

「我が祖」は時宗の開祖一遍上人、「化緣」は衆生を教化する因縁と、衆生の教化されるべき因縁の双方向を指す。「反魂」は死者を呼び戻す術のことで、「人口に新たなり」とは今も人の口に上ぼる精誠の実盛への讃嘆のことであろう。

「眞阿は實盛の法名なり」「謡蹟めぐり」のサイトの「実盛」には、実盛の死後二百七年後の康応二(一三九〇)年(後掲するが、このクレジットは誤り)、時宗総本山(私の家の近くの相模藤沢の清浄光寺(しょうじょうこうじ)。通称で遊行寺)第十四世遊行上人太空がこの地へ来った折り、実盛の亡霊が現われ、上人の回向を受けて妄執をはらし、上人が実盛に「真阿」という法名を与えられたと伝えており、以来、歴代の遊行上人が加賀路を巡錫の節には必ず立ち寄って此の塚に回向されたと伝承され、謡曲「実盛」はこの伝説に基づいて作られたものである、とあった。但し、遊行寺の公式サイトでは、このエピソードを応永二一(一四一四)年としており、「銕仙会 能楽事典」の「実盛」でも、『ちょうど世阿弥が活躍していた時期にあたる応永21年(1414)の5月11日、真言宗の高僧であり、室町幕府の政策顧問もつとめていた醍醐寺三宝院(さんぽういん)の僧 満済(まんさい)は、日記に次のように書き留めています。「斎藤別当実盛の幽霊が、加賀国の篠原に出現して遊行上人に出逢い、念仏を授かったという噂だ。去る3月11日のことらしい。(…)これが事実だとすれば、世にもまれなできごとである」。このように、実盛の幽霊が出たという噂が当時京都で広まっており、世阿弥はその趣向を取り入れて本作を書いたと考えられています』とあるので、こちらが正しい。

 

「金澤芦中町本淨寺」恐らくは現在石川県金沢市泉にある浄土真宗大谷派の本浄寺であろう。

「行合て和す」先の実盛の亡魂との交感を指すのであろう。

「地黃煎町」「ぢわうせんまち(じおうせんまち)」。「金沢市」公式サイトのこちらに、『藩政初期、泉野新村から発達した町で、地黄という薬草を採取して地黄煎という飴薬を売り出したことから、この名がついた』とあり、文政四(一八二一)年に『一町として町立てされた』とある。

「淨專寺町」不詳。かほく市にこの名の寺ならあるが。

「富樫の代久保の橋」不詳。]

 髮洗ふ池は今は此中(うち)にして、そこと定めがたし。

[やぶちゃん注:実盛の首級の染めた髪を洗って落とした池。]

 或人春雪の道を傳ひて、此所に逍遙して、

  池水に足袋すゝがして梅の花

とたはふれける。根芹(ねぜり)洗ふを翁の白髮に似たればとて、

「埋れ木の其梢か」

と尋けるに、

「是は約束のありて賣るのにてはなし」

と答へけるとぞ。

[やぶちゃん注:このある人の話というのも、謡曲「実盛」の前シテが、実盛の首級の染めた白髪を洗ったとされる池畔で消えるシークエンスをもとにした話のようであるが、戯れに作った句が如何にも臭いやな句である。根芹を洗っている人物がどのような人物かも示されていないのも大いに不満である(根芹の白さを「翁の白髮」に喩えたもので、洗っているのは爺さんではない。寧ろ私は若い農婦をイメージしたいが、以下のシークエンスをもとにしている話となれば、やはり老人でなくてはなるまい)。「埋れ木の其梢か」というのは、その中入の直前の以下に基づく。

   *

〔シテ〕 「いやさればこそその實盛は このおん前なる池水(いけみづ)にて鬢髭(びんひげ)をも洗はれしとなり さればその執心殘りけるか 今もこのあたりの人には幻(まぼろし)のごとく見ゆると申し候

〔ワキ〕 「さて今も見え候か

〔シテ〕 深山木(みやまぎ)のその梢(こずゑ)とは見えざりし 櫻は花に顯れたる 老木(おいき)をそれと御覽ぜよ

〔ワキ〕 不思議やさては實盛の 昔を聞きつる物語り 人の上ぞと思ひしに[やぶちゃん注:別人のことかと思うたが。] 身の上なりけるふしぎさよ 「さてはおことは實盛の その幽靈にてましますか

〔シテ〕 「われ實盛の幽靈なるが 魂(こん)は冥途にありながら 魄(はく)はこの世に留(とど)まりて

〔ワキ〕 なほ執心の闇浮(えんぶ)の世に

〔シテ〕 「二百餘歲の程は經れども

〔ワキ〕 浮かみもやらで篠原の

〔シテ〕 池のあだ波よるとなく[やぶちゃん注:「寄る」と「夜」を掛ける。]

〔ワキ〕 晝とも分(わ)かで心の闇の

〔シテ〕 夢ともなく

〔ワキ〕 現(うつつ)ともなき

〔シテ〕 思ひをのみ

〔上ゲ歌〕篠原の草葉の霜の翁さび
〔地〕  草葉の霜の翁さび[やぶちゃん注:「置き」と「翁」を掛ける。] 人な咎めそ假初めに 現はれ出でたる實盛が 名を漏らし給ふなよ 亡き世語りも恥かしとて おん前を立ち去りて 行くかと見れば篠原の 池のほとりにて姿は 幻となりて失せにけり 幻となりて失せにけり

   *

勘所となる「深山木のその梢とは見えざりし 櫻は花に顯れたる 老木をそれと御覽ぜよ」とは、『深山の木は花を咲かすことのなければ、桜木とは判りませぬ。かくもここに現われましたる老人を、そのような老いた古木とお察し下され』の謂いで、これは「詞花和歌集」の「巻第一 春」に載る、源三位頼政の「題不知」の一首(一七番)、『深山木のそのこずゑともみえざりしさくらは花にあらはれにけり』に基づく。桜を梅に転じてある。本篇で「埋もれ木」(本来は地中に埋まった樹木が炭化して化石のようになったものを指すが、転じて「世間から見捨てられて顧みられない人の境遇」の喩えでもある)に変えたのは実盛死後の六百年の歳月を意識したからであろう。オチは意味深長にも見えるが、芭蕉の「奥の細道」的な実景変換、単なる俗への対称のモンタージュに過ぎぬか。或いは実盛の霊に捧げるものという匂わせか。ともかくも風情もへったくれもない凡俳の作り話としか私には思えない。]

 

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 煙 一

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。

 なお、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、本パートの「一」は盛岡中学校時代の回想(全四十七首)を主とし、「二」は渋民時代の回想を主に収めたもの(全五十四首)である。(計全百一首)。]

 

 

    

 

病(やまひ)のごと

思鄕(しきやう)のこころ湧(わ)く日(ひ)なり

目(め)にあをぞらの煙(けむり)かなしも

 

 病のごと

 思鄕のこころ湧く日なり

 目にあをぞらの煙かなしも

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年十一月号『スバル』。]

 

 

己(おの)が名(な)をほのかに呼(よ)びて

淚(なみだ)せし

十四(じふし)の春(はる)にかへる術(すべ)なし

 

 己が名をほのかに呼びて

 淚せし

 十四の春にかへる術なし

[やぶちゃん注:明治四三(一九一〇)年の作として満二十四、この「十四」は数えであるから明治三二(一八九九)年相当となる。岩手県盛岡尋常中学校一年次末から二年次(四月一日附けで校名が岩手県盛岡中学校に変更された)に当たる。この年、啄木は後に妻となる堀合節子(啄木より八ヶ月遅れの同年(明治一九(一八八六)年十月)生まれ)と知り合っている。節子はこの年の三月二十四日に盛岡高等小学校を卒業し、四月一日に私立盛岡女学校二年に編入学している。]

 

 

靑空(あをぞら)に消(き)えゆく煙(けむり)

さびしくも消(き)えゆく煙(けむり)

われにし似(に)るか

 

 靑空に消えゆく煙

 さびしくも消えゆく煙

 われにし似るか

 

 

かの旅(たび)の汽車(きしや)の車掌(しやしやう)が

ゆくりなくも

我(わ)が中學(ちゆうがく)の友(とも)なりしかな

 

 かの旅の汽車の車掌が

 ゆくりなくも

 我が中學の友なりしかな

 

 

ほとばしる喞筒(ポンプ)の水(みづ)の

心地(ここち)よさよ

しばしは若(わか)きこころもて見(み)る

 

 ほとばしる喞筒の水の

 心地よさよ

 しばしは若きこころもて見る

[やぶちゃん注:「喞筒」「pump」の当て字。「喞」(音「ショク・ソク」)の字には「集(すだ)く・虫が集まって鳴く」と「かこつ・不平を言って嘆く」以外に「水を注ぐ」の意がある。手押しポンプ式の井戸のシチュエーションと私はとる。]

 

 

師(し)も友(とも)も知(し)らで責(せ)めにき

謎(なぞ)に似(に)る

わが學業(がくげふ)のおこたりの因(もと)

 

 師も友も知らで責めにき

 謎に似る

 わが學業のおこたりの因

[やぶちゃん注:これはその怠業の原因は実は師や友ばかりではなく、誰にも、即ち、啄木自身にも全くの「謎」のようなものであったというのであろう。近年の研究で啄木は低血糖症状を持っていたとされるが、返す当てもない多額の借金を絶え間なく重ねたこと、過剰なまでの女色癖、それに比して妻節子への異様な嫉妬心の発動、そしてこれら短歌群に見られるようなハイ・テンションとネガティヴなどん底の極端な回帰性を示す感情曲線を見るに、所謂、慢性的なかなり重い双極性障害(躁鬱病)が疑われるように私は思う。但し、啄木は小学校時代の卒業時は学業・行状・認定総てが五段階評定の最高位の「善」(盛岡仁王尋常小学校)で、中学校(岩手県で最初の中学校として設立された岩手県尋常盛岡中学校。途中で「尋常」を外して改名)入学試験は百二十八名中十番、第一年次修了成績は学年百三十一名中二十五番、二年次は百四十名中四十六番の好成績者であったから、そこまで以前、満十四歳頃以前に遡る内容ではない。但し、その後、教員の欠員と、学校内の教師支配による陰湿な雰囲気に対してそれを刷新すべきとする三年生と四年生が、授業ボイコットとストライキに発展、それに啄木も参加しており(三月一日附で県知事裁決による教員に大異動が発令されて同校校長・職員定員二十八名の内、校長以下実に二十四名が休職・転任・依願退職となっている。生徒側は首謀者とされた三年の及川八楼が諭旨退学で、完全な生徒側の勝利となった)、そのためでもあろうか、三年次は百三十五名中八十六番、四年次は百十九名中八十二番と急降下し、しかもこの四年次の学年末試験で不正行為を行ったとして譴責処分を受け、しかも五年次第一学期の成績も甚だ悪く、校則に照らすと、五年次を修了出来ずに落第する恐れが極めて高い状態にあった。その結果でもあろう、五年次の明治三五(一九〇二)年十月十七日、「家事上の都合により」を理由として退学願を提出し、受理された(この十月三十一日に上京した)経緯があるから(太字部の主たる事実は筑摩版全集筑摩書房「石川啄木全集」の「第八巻 啄木研究」(昭和五四(一九七九)年刊)の岩城之徳(ゆきのり)氏の「伝記的年譜」に拠った)、この一首はその閉区間のことととれるので、さすれば、この「おこたりの因」は実は「謎」ではなく、極めて明白な原因――学校組織への激しい不信感や、彼が行ったとされる不正行為への自己嫌悪、或いはそれが無実の濡れ衣であったとすればそれへの激しい怒り――が見てとれると言えるのである。

 

 

敎室(けうしつ)の窓(まど)より遁(に)げて

ただ一人(ひとり)

かの城址(しろあと)に寢(ね)に行(ゆ)きしかな

 

 敎室の窓より遁げて

 ただ一人

 かの城址に寢に行きしかな

[やぶちゃん注:「かの城址」前注も参照されたいが、追懐内の過去時制は盛岡中学校の四~五年次(満十五~十六歳)の頃のこととなる。同中学校は現在の盛岡第一高等学校の前身ではあるが、校舎の位置が全く異なり、当時は現在の盛岡市内丸、即ち、旧盛岡城の城跡内か辺縁にあった。]

 

 

不來方(こずかた)のお城(しろ)の草(くさ)に寢(ね)ころびて

空(そら)に吸(す)はれし

十五(じふご)の心(こころ)

 

 不來方のお城の草に寢ころびて

 空に吸はれし

 十五の心

[やぶちゃん注:「不來方(こずかた)」現在の岩手県盛岡市を指す言葉ウィキの「不来方」によれば、『「盛岡」が都市名として使われ始めた時期については諸説あるが、「不来方」は、少なくとも』五百七十『の間』、存在し続けている『由緒ある名であることから、現在』も『盛岡の雅称として使われることがある』。『南部氏による開府当時、居城名も「不来方城」』(現在の盛岡城のこと)『であり、この時、都市名として「盛岡」という地名は存在しなかった』。『伝承によれば、かつてこの地には「羅刹」』(らせつ)『と呼ばれる鬼がいて、人里を荒らしまわっていた。このことに困っていた里人たちが、三ツ石(盛岡市に現存する「三ツ石神社」)の神に祈願したところ、鬼は神によって捕らえられた。この時、鬼が二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残した。これが「岩手郡」、のちに岩手へと連なる地名の由来である。また、「二度と来ない方向」の意味で、一帯に「不来方」の名が付されたと伝えられている』。『また』これを祝祭して『「さぁさぁ踊れ」と人々が囃し、奉納した踊りが、「さんさ踊り」だとされ、現在でも盛岡の夏の風物詩として受け継がれている』。『不来方の改名は、三戸城下から進出した時の南部藩主南部利直が』、『この名を「心悪しき文字」と忌み嫌ったためと伝えられる。後に「森ヶ岡」次いで「盛岡」が城下町の名として用いられるまで、当地は「不来方」の名で呼ばれたと伝えられる。これは「永福寺」所在地の裏山が「森ヶ岡」と呼ばれたことに関わると見られる』。『永福寺の山号は、現在「宝珠盛岡山」である。「盛岡」は、江戸時代後期の元禄期、当時の南部藩主・南部重信と、盛岡城の鬼門を鎮護する真言密教寺院、永福寺・第四十二世清珊法印との連歌によって生まれたと伝えられる』。

 幾春も華の惠の露やこれ

   寶の珠の盛る岡山

『城下町として「盛岡」の名が定着、後に藩名そのものも「南部」から「盛岡」へ改められ』、『町名として「不来方」が残ること』も『無かった』とある。また、『現在の盛岡市中心部は「岩手郡仁王郷不来方」』(いわてのこおりにおうごうこずかた)『に相当する。その名は南北朝期には既に古文書に記されており、「陸奥話紀」の記載では、清原武則の甥・橘頼為が領主となっていたのが「逆志方」』で、これは「不来方」であるとされる。『南部氏は蒲生氏郷らの勧めでこの地への築城を決めたという』。但し、『一般に、南部氏が築いた盛岡城の別名が「不来方城」と解されているが、厳密には両者は別の城である』。永享一一(一四三九)年に『福士氏が城代として定着し、「不来方殿」と呼ばれたのが「不来方城」の始まりであり、「不来方城」を基礎に拡大して南部氏が築いたものが、後の「盛岡城」である』。『現在の岩手医科大学附属病院の北辺(盛岡市本町通)には、不来方町の石碑が残っている』;とある。

「十五」数えであるから明治三三(一九〇〇)年、盛岡中学校三年次に当たる。これが前の想定と齟齬するというのは当たらない。追懐はそこで止まらねばならない必要はないからである。寧ろ、ここで城跡で寝転んで空を見上げている、未だ成績のよかった聡明な少年啄木の面影は、寧ろ透明に幸福な追想として無限に美しいではないか。]

 

 

かなしみといはばいふべき

物(もの)の味(あぢ)

我(われ)の嘗(な)めしはあまりに早(はや)かり

 

 かなしみといはばいふべき

 物の味

 我の嘗めしはあまりに早かり

[やぶちゃん注:あくまで漠然としている。「あまりに早」い時期に「我」は「物の味」を「嘗め」た、それは確かな人生「かなしみ」の具体な対象現象であったというのである。前後の歌の追懐時制からジャンプすることなく考えるなら、私はこれが上京以前の盛岡中学校時代の追想でなくてはならないととる。さすれば、答えはすこぶる容易であるように思われる。それは――若い男の人生に於ける、ある大いなる「かなしみ」に何時か繋がるところの、ある「物」(対象現象)の持っている独特の「味」わい――である。恋愛である。筑摩書房版全集年譜を見ると、盛岡中学四年次である明治三四(一九〇一)年(満十五歳)の条の最後に、『この年堀合節子との恋愛が急速に進んだ』とある。『急速に』は意味深長である。

 

 

晴(はれ)れし空(そら)仰(あふ)げばいつも

口笛(くちぶえ)を吹(ふ)きたくなりて

吹(ふ)きてあそびき

 

 晴れし空仰げばいつも

 口笛を吹きたくなりて

 吹きてあそびき

 

 

夜(よる)寢(ね)ても口笛(くちぶえ)吹(ふ)きぬ

口笛(くちぶえ)は

十五(じふご)の我(われ)の歌(うた)にしありけり

 

 夜寢ても口笛吹きぬ

 口笛は

 十五の我の歌にしありけり

 

 

よく叱(しか)る師(し)ありき

髯(ひげ)の似(に)たるより山羊(やぎ)と名(な)づけて

口眞似(くちまね)もしき

 

 よく叱る師ありき

 髯の似たるより山羊と名づけて

 口眞似もしき

 

 

われと共(とも)に

小鳥(ことり)に石(いし)を投(な)げて遊(あそ)ぶ

後備大尉(こうびたいゐ)の子(こ)もありしかな

 

 われと共に

 小鳥に石を投げて遊ぶ

 後備大尉の子もありしかな

[やぶちゃん注:「後備大尉」後備役(こうびえき)の大尉。旧陸海軍で現役定限年齢に達した者又は予備役(現役を終わった軍人が一定期間服する兵役。平常は市民生活を送るが、非常時には召集されて軍務に服するもの)を終えた者が服したさらなる追加兵役。昭和一六(一九四一)年に廃止されて予備役に吸収されている。]

 

 

城址(しろあと)の

石(いし)に腰掛(こしか)け

禁制(きんせい)の木(こ)の實(み)をひとり味(あぢは)はひしこと

 

 城址の

 石に腰掛け

 禁制の木の實をひとり味はひしこと

[やぶちゃん注:「禁制の木の實」は無論、譬喩である。岩城氏前掲書によれば、『友人の小笠原謙吉宛ての』後の『明治三十九』(一九〇六)『年一月十八日の書簡の一節に、「早く十四歲の頃より続けられし小生と節子との恋愛は、」とあるので、すでにこの年盛岡女学校二年の堀合節子と恋愛関係あったことがわかる』とある。]

 

 

その後(のち)に我(われ)を捨(す)てし友(とも)も

あの頃(ころ)はともに書讀(ふみよ)み

ともに遊(あそ)びき

 

 その後に我を捨てし友も

 あの頃はともに書讀み

 ともに遊びき

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、この友というのは、『中学三年生のとき啄木の提唱で結成された英語の勉強会』「ユニオン会」の仲間を指すとされる。『メンバーは啄木と同級生』『五名』であったが、後、『結婚前後の啄木の行動を非難して彼等は交友を絶った』とある。]

 

 

學校(がくかう)の圖書庫(としよぐら)の裏(うら)の秋(あき)の草(くさ)

黃(き)なる花(はな)咲(さ)きし

今(いま)も名(な)知(し)らず

 

 學校の圖書庫の裏の秋の草

 黃なる花咲きし

 今も名知らず

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、この花を『「きれんげ」「こがねばな」と呼ばれる「都草」のことであろう』とされる。マメ目マメ科マメ亜科ミヤコグサ連ミヤコグサ属ミヤコグサ Lotus japonicusグーグル画像検索「Lotus japonicusをリンクさせておく。]

 

 

花散(はなち)れば

先(ま)づ人(ひと)さきに白(しろ)の服着(ふくき)て家出(いへい)づる

我(われ)にてありしか

 

 花散れば

 先づ人さきに白の服着て家出づる

 我にてありしか

[やぶちゃん注:初夏の訪れには誰よりも真っ先に白い夏服を着て家を出て闊歩する私であったよ、の意。]

 

 

今(いま)は亡(な)き姉(あね)の戀人(こひびと)のおとうとと

なかよくせしを

かなしと思(おも)ふ

 

 今は亡き姉の戀人のおとうとと

 なかよくせしを

 かなしと思ふ

[やぶちゃん注:「今は亡き姉」長姉サダ(婚姻後は田村姓)。啄木より十歳年上。明治三九(一九〇六)年二月二十五日肺結核のために三十歳で逝去した。岩城氏前掲書によれば、「姉の戀人」は渋民村の駐在所の巡査であった高橋隼之助(はやのすけ)で、『その弟はのちに医師となった友松等(ひとし)で啄木の小学校時代の同級生である』とある。]

 

 

夏休(なつやす)み果(は)ててそのまま

かへり來(こ)ぬ

若(わか)き英語(えいご)の敎師(けうし)もありき

 

 夏休み果ててそのまま

 かへり來ぬ

 若き英語の敎師もありき

[やぶちゃん注:「來(こ)ぬ」打消しである。

岩城氏前掲書によれば、この教師は『盛岡中学校助教諭美濃部三郎であろう。彼は明治三十二』(一八九九)『年十二月十六日盛岡中学校に就職し』たが、理由は不明だが、僅か二年足らず後の『三十四年九月二十六日付で依願退職となった。三十四年九月といえば啄木の夏休みの終わった直後のこと』であるとある。]

 

 

ストライキ思(おも)ひ出(い)でても

今(いま)は早(は)や我(わ)が血(ち)躍(をど)らず

ひそかに淋(さび)し

 

 ストライキ思ひ出でても

 今は早や我が血躍らず

 ひそかに淋し

 

 

盛岡(もりをか)の中學校(ちゆうがくかう)の

露臺(バルコン)の

欄干(てすり)に最一度(もいちど)我(われ)を倚(よ)らしめ

 

 盛岡の中學校の

 露臺の

 欄干に最一度我を倚らしめ

[やぶちゃん注:「露臺(バルコン)」フランス語“balcon”。英語は“balcony”。]

 

 

神有(かみあ)りと言(い)ひ張(は)る友(とも)を

說(と)きふせし

かの路傍(みちばた)の栗(くり)の樹(き)の下(した)

 

 神有りと言ひ張る友を

 說きふせし

 かの路傍の栗の樹の下

 

 

西風(にしかぜ)に

内丸大路(うちまるおほぢ)の櫻(さくら)の葉(は)

かさこそ散(ち)るを踏(ふ)みてあそびき

 

 西風に

 内丸大路の櫻の葉

 かさこそ散るを踏みてあそびき

[やぶちゃん注:現在の盛岡城跡公園の北から盛岡市内を貫通する「大通り」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があってそれかと思ったりするが、サイト「Stanford Digital Repository」の明治二十年代の盛岡の地図を見ると、公園の西側は広大な農学校の敷地であって、この通りは存在しないから、恐らくは城跡北西のかどを上がった現在の県道一号から二号に下って盛岡駅に行くルートがそれであろうか。因みに、その県道一号沿いの岩手県盛岡市中央通には「啄木新婚の家」がある。]

 

 

そのかみの愛讀(あいどく)の書(しよ)よ

大方(おほかた)は

今(いま)は流行(はや)らずなりにけるかな

 

 そのかみの愛讀の書よ

 大方は

 今は流行らずなりにけるかな

 

 

石(いし)ひとつ

坂(さか)をくだるがごとくにも

我(われ)けふの日(ひ)に到(いた)り着(つ)きたる

 

 石ひとつ

 坂をくだるがごとくにも

 我けふの日に到り着きたる

 

 

愁(うれ)ひある少年(せうねん)の眼(め)に羨(うらや)みき

小鳥(ことり)の飛(と)ぶを

飛(と)びてうたふを

 

 愁ひある少年の眼に羨みき

 小鳥の飛ぶを

 飛びてうたふを

 

 

解剖(ふわけ)せし

蚯蚓(みみづ)のいのちもかなしかり

かの校庭(かうてい)の木栅(もくさく)の下(もと)

 

 解剖せし

 蚯蚓のいのちもかなしかり

 かの校庭の木栅の下

 

 

かぎりなき知識(ちしき)の欲(よく)に燃(も)ゆる眼(め)を

姉(あね)は傷(いた)みき

人戀(ひとこ)ふるかと

 

 かぎりなき知識の欲に燃ゆる眼を

 姉は傷みき

 人戀ふるかと

[やぶちゃん注:「姉」はやはり長姉サダ。彼女は明治二四(一八九一)年(啄木五歳)十月二十一日に田村末吉(翌年に名を「叶(かのう)」と改名)と結婚した。岩城氏前掲書によれば、『啄木は中学時代の後半』、『この姉夫妻の家に世話になり、四年』次と五年次『は知識欲に渇して、手あたり次第に本をよみながら、独り高く恃していたので、その燃えるような真剣な目を』「人戀ふるかと」『心配したのであろう』とある。いや、彼女は誤ってはいない。既に述べたように、この時期、節子と恋愛関係も急速に進んでいたからである。]

 

 

蘇峯(そほう)の書(しよ)を我(われ)に薦(すす)めし友(とも)早(はや)く

校(かう)を退(しりぞ)きぬ

まづしさのため

 

 蘇峯の書を我に薦めし友早く

 校を退きぬ

 まづしさのため

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『「友」は啄木の同級生古木巌。啄木はこの友人と中学四年のとき』、『回覧雑誌「三日月」を編集した。「せいの低い口の達者な文学青年で、徳富蘇峰の文体を真似た文章を書いた」(伊藤圭一郎『人間啄木』岩手日報社、昭和』三四(一九五九)年刊)『といわれる。明治三十五』(一九〇二)『年の秋盛岡中学校退学後』、『岩手郡太田村尋常小学校の代用教員となり、明治三十七年十二月』、『日本鉄道株式会社に就職。翌年七月』に『東北本線の車掌となった』とある。

「蘇峯」ジャーナリストで歴史家・評論家であった徳富蘇峰(文久三(一八六三)年~昭和三二(一九五七)年)。『國民新聞』を主宰し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全百巻の膨大な史書「近世日本国民史」を著したことで知られる。本名は猪一郎(いいちろう)。小説家徳冨蘆花の実兄。]

 

 

おどけたる手(て)つきをかしと

我(われ)のみはいつも笑(わら)ひき

博學(はくがく)の師(し)を

 

 おどけたる手つきをかしと

 我のみはいつも笑ひき

 博學の師を

 

 

自(し)が才(さい)に身(み)をあやまちし人(ひと)のこと

かたりきかせし

師(し)もありしかな

 

 自が才に身をあやまちし人のこと

 かたりきかせし

 師もありしかな

[やぶちゃん注:石川啄木自身が、結局、この轍を踏んだと言える。

「自(し)」「其(し)」で「自分」の意の反照代名詞(自称・対称・他称の別に拘わらず、「彼(私・あなた)は自分(おのれ)の愚かさに気付いた」の「自分」「おのれ」などのように、その動作が動作主自身に返ってくることを表わす代名詞)の一つ。平安の昔からある古語である。]

 

 

そのかみの學校一(がつかういち)のなまけ者(もの)

今(いま)は眞面目(まじめ)に

はたらきて居(を)り

 

 そのかみの學校一のなまけ者

 今は眞面目に

 はたらきて居り

[やぶちゃん注:全集年譜によれば、最終的に退学することとなる(明治三十五十月二十七日附)、盛岡中学校五年次一学期成績報告書では修身・作文・代数・図画の四教科で成績不成立、課目中の英語訳解・英文法・歴史・動物が不合格点であり、出席時数百四時間に対し、欠席時数は実にその倍の二百七時間もあった。文字通り、「學校一のなまけ者」であったと言える。]

 

 

田舍(ゐなか)めく旅(たび)の姿(すがた)を

三日(みか)ばかり都(みやこ)に曝(さら)し

かへる友(とも)かな

 

 田舍めく旅の姿を

 三日ばかり都に曝し

 かへる友かな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年三月二十八日附『東京朝日新聞』。「友」の『モデルは啄木の中学時代の友人で「岩手毎日新聞」の編集長岡山儀七(ぎひち)(不衣(ふい))といわれる。岡山は』この時、『新聞社主催の東京遊覧団体を連れて三日ばかり上京したが、この歌はこの時の儀七を詠』んだものとされているらしい。発表日辺りの啄木はといえば、担当していた「二葉亭全集」第一巻の校正が終わった頃に当たっている。]

 

 

茨島(ばらしま)の松(まつ)の並木(なみき)の街道(かいだう)を

われと行(ゆ)きし少女(をとめ)

才(さい)をたのみき

 

 茨島の松の並木の街道を

 われと行きし少女

 才をたのみき

[やぶちゃん注:「茨島(ばらしま)」は現在の地名として地図上で探すのが非常に困難だが、「Stanford Digital Repository」のこちらで、盛岡の北の「くりやがは」(厨川)の東北本線の駅を探し、そこを少し線路上で北上すると、道路が交差する部分を見出せ(「種馬育成所」の東)、そこに「茨(バラ)島」の地名を見出せる。他にも「茨島」の旧地名があるようでもあるが、恐らく現在の岩手県盛岡市下厨川鍋屋敷のここで間違いないと思われる。何故なら、この部分、現在、新幹線が下を走り、それを「盛岡市厨川茨島(ばらしま)跨線橋」と呼んでいるからで、「岩手県」公式サイト内の「都市計画課」が作成したと思われる「いわての残したい景観」の「盛岡市厨川茨島跨線橋附近から見る4号線北方の景観」の解説に(下線太字は私が附した)、『盛岡から北上する国道には、昔から道の左右に赤松、ケヤキその他の広葉樹の大緑木がトンネルの様に路上を覆っていて、まるで市街地をはずれると突然原生林の中に導び』かれたかの『ような気分にさ』せ『られる、全国でもまれに見る素晴らしい景観、環境でした。現在は開発に依り虫食い状に緑の景観が破壊された部分もありますが、まだまだ充分価値ある景観として守り、また愛していきたいものです』。平成一七(二〇〇五)年には『国土交通省岩手河川国道事務所などにより、この区間の松並木の愛称が「巣子の松街道」と決まりました』とあり、本歌のロケーションと一致するからである。]

 

 

眼(め)を病(や)みて黑(くろ)き眼鏡(めがね)をかけし頃(ころ)

その頃(ころ)よ

一人(ひとり)泣(な)くをおぼえし

 

 眼を病みて黑き眼鏡をかけし頃

 その頃よ

 一人泣くをおぼえし

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、友人『宮崎郁雨の思い出によると』、『中学校を退学した直後の啄木は「くろめもんつ」と呼ばれ』てい『たという。黒眼鏡の紋付姿の男の意』という。但し、この時期に彼が眼疾患を患っていたことは年譜などには見られない。]

 

 

わがこころ

けふもひそかに泣(な)かむとす

友(とも)みな己(おも)が道(みち)をあゆめり

 

 わがこころ

 けふもひそかに泣かむとす

 友みな己が道をあゆめり

 

 

先(さき)んじて戀(こひ)のあまさと

かなしさを知(し)りし我(われ)なり

先(さき)んじて老(お)ゆ

 

 先んじて戀のあまさと

 かなしさを知りし我なり

 先んじて老ゆ

[やぶちゃん注:本書出版時、啄木は満二十四歳。私の偏愛する中唐の鬼才李賀の「長安有男兒 二十心已朽」(長安に男兒有り 二十にして心已に朽ちたり:「贈陳商」)を想起させる。]

 

 

興(きよう)來(きた)れば

友(とも)なみだ垂(た)れ手(て)を揮(と)りて

醉漢(ゑひどれ)のごとくなりて語(かた)りき

 

 興來れば

 友なみだ垂れ手を揮りて

 醉漢のごとくなりて語りき

[やぶちゃん注:前掲書で岩城氏はこのモデルを金田一京助とされ、『金田一氏もその思い出』「回想の石川啄木」昭和四二(一九六七)年八木書店刊]『の中でこの歌が同氏を歌った作品であることを認めている』とある。]

 

 

人(ひと)ごみの中(なか)をわけ來(く)る

わが友(とも)の

むかしながらの太(ふと)き杖(つゑ)かな

 

 人ごみの中をわけ來る

 わが友の

 むかしながらの太き杖かな

 

 

 

見(み)よげなる年賀(ねんが)の文(ふみ)を書(か)く人(ひと)と

おもひ過(すぎ)ぎにき

三年(みとせ)ばかりは

 

 見よげなる年賀の文を書く人と

 おもひ過ぎにき

 三年ばかりは

 

 

夢(ゆめ)さめてふつと悲(かな)しむ

わが眠(ねむ)り

昔(むかし)のごとく安(やす)からぬかな

 

 夢さめてふつと悲しむ

 わが眠り

 昔のごとく安からぬかな

 

 

そのむかし秀才(しうさい)の名(な)の高(たか)かりし

友(とも)牢(らう)にあり

秋(あき)のかぜ吹(ふ)く

 

 そのむかし秀才の名の高かりし

 友牢にあり

 秋のかぜ吹く

 

 

近眼(ちかめ)にて

おどけし歌(うた)をよみ出(い)でし

茂雄(しげを)の戀(こひ)もかなしかりしか

 

 近眼にて

 おどけし歌をよみ出でし

 茂雄の戀もかなしかりしか

[やぶちゃん注:前掲書で岩城氏は、『盛岡中学時代』、『一級下の文学仲間で、後年』、『産婦人科医として活躍した小林茂雄を歌』ったものとし、「茂雄の戀もかなしかりしか」というのは、『啄木の妹光子に寄せた初恋である』と明言されてある。]

 

 

わが妻(つま)のむかしの願(ねが)ひ

音樂(おんがく)のことにかかりき

今(いま)はうたはず

 

 わが妻のむかしの願ひ

 音樂のことにかかりき

 今はうたはず

[やぶちゃん注:「音樂のことにかかりき」音楽に関わることに携わることであった。]

 

 

友(とも)はみな或日(あるひ)四方(しはう)に散(ち)り行(ゆ)きぬ

その後(のち)八年(やとせ)

名擧(なあ)げしもなし

 

 友はみな或日四方に散り行きぬ

 その後八年

 名擧げしもなし

 

 

わが戀(こひ)を

はじめて友(とも)にうち明(あ)けし夜(よる)のことなど

思(おも)ひ出(い)づる日(ひ)

 

 わが戀を

 はじめて友にうち明けし夜のことなど

 思ひ出づる日

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、節子との恋愛は『十四歳ころより始』まった『初恋で』、それを『友に打ち明けたのは』、『その翌年の中学三年生のときであろう』と述べておられる。明治三三(一九〇〇)年四月から翌年三月までとなり、年譜ではその明治四十三年中に二人の関係は親密になったとされる。]

 

 

 

絲(いと)きれし紙鳶(たこ)のごとくに

若(わか)き日(ひ)の心(こころ)かろくも

とびさりしかな

 

 絲きれし紙鳶のごとくに

若き日の心かろくも

とびさりしかな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、初出は明治四一(一九〇八)年十一月三日附『岩手日報』。]

2020/02/08

三州奇談卷之二 安宅の石像

 
    安宅の石像

 加州安宅(あたか)の濱は、往古よりの名跡、「越の高濱」と云ふは爰(ここ)なり。中古の海道三湖の水戶(みなと)にして、舟持の家多し。濱は黑石・白石を分ちて、世に安宅石(あたかいし)といふ。辨慶が越えし新關の跡は何れの地にや。二つ堂は砂濱に社燈明(あき)らけく、鳥井はいくつか砂に吹埋(ふきうも)れて、笠木許(ばか)り見る物多し。大洋に對し、白根の景甚だ高く見て尤(もつとも)好景なり。浮柳(うきやなぎ)より日末道の靑松は靑海に對し、白日は白砂に映じて一望潔よし。此地靈多し。湊(みなと)には「スベリ」と云ふ魚あり。春の末(すゑ)湊へ登る。此村松露・防風尤も多し。遊人興ずるによき所なり。

[やぶちゃん注:「安宅」石川県小松市安宅町(あたかまち)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「安宅町」によれば、『この地名は、この地が「異国人が来襲した海岸」という意味からなる「寇が浦」(あだがうら)に由来するとされている』とある。

「三湖」既出既注

「水戶(みなと)」水の出入り口。内海と外海の境をなしている狭いところ。また、大河の河口。

「安宅石」砂岩の一種である「オルソクォーツァイト」(orthoquartzite)、和名「正珪岩(せいけいがん)」か。粒が粗く、九十%以上が球形に近い形に円磨された石英からなる岩石のこと。参照した「岩石鉱物詳解図鑑」のこちらによれば、『しばしば、オルソクォーツァイトとクォーツァイトquartzite(珪岩、けいがん)が区別されずに呼ばれることもあるが、クォーツァイトquartziteは変成したチャートや円磨されていない石英質な砂岩とその変成岩なども含んでおり、「ほとんどが石英からなる岩石」の総称である』とし、『日本列島のようなプレート沈み込み帯では、各々の河川の長さが比較的短く流域面積が小さいため、オルソクォーツァイトは形成されない』。『オルソクォーツァイトは、日本列島のようなプレート沈み込み帯ではほとんど産出しないが、アメリカ、オーストラリア、アフリカなどの大陸では広く分布する』とある。この付近の浜辺ではこの安宅石ばかりでなく、水晶・瑪瑙(めのう:玉髄)・碧玉(へきぎょく)・オパールなど石英系(クォーツ)の小石も少なからず採取できることは蒐集家の間ではよく知られている。個人ブログ「No Photo No Life」の「安宅関石」に採取した石の画像とともに、荒巻孚(まこと)著「生きている渚・海岸の科学」(昭和四七(一九七二)年三省堂刊)に載る馬で浜の砂礫を運び出していた当時の古い写真(キャプション『砂礫の採取(石川県小松市付近の海岸、骨材として使用される)』)が添えられてある。

「辨慶が越えし新關の跡」「安宅の関」当時の守護富樫氏が設けたと言われている関所。現在のそれはここウィキの「安宅の関」によれば、義経の北行逃走の途中とされる「如意の渡し」(私が住んでいた高岡市伏木にあったという説が有力)での『エピソードを元にした、源義経が武蔵坊弁慶らとともに奥州藤原氏の本拠地平泉を目指して通りかかり弁慶が偽りの勧進帳を読み義経だと見破りはしたものの』、関守『富樫泰家の同情で通過出来たという』能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」で有名だが、「義経記」では「安宅の渡」、「八雲御抄」では「安宅橋」という『記述があるのみで、安宅関と記載のあるもの』は実は能の「安宅」『のみで、ここに関所があったかどうかの歴史的な実在性は疑問視されている』。『現在は』正保四(一六四七)年(本書よりも前)に移転してきた『安宅住吉神社境内に位置』し、昭和一四(一九三九)年に『「安宅の関跡」として石川県史跡に指定』は『されている』。

「二つ堂」現在、その「安宅の関所跡」として史跡指定がされている場所の名が「二堂山(ふたつどうやま)」である。『小松市ホームページ「小松市の文化財」』の「「安宅の関跡」PDF)によれば(写真あり)、二堂山は『海を見下ろす松林の丘であり、ここには「安宅関址」の石碑や、義経・富樫を祀る関の宮、弁慶衣かけの松があるほか、弁慶・富樫・義経の三体の銅像が建てられている』とある。写真を見ると「関の宮」というのは、並んだ木製の祠であるが、但し、台石などから見て、近代に再建されたもののようである。しかし、古く子の原型があったとすれば、「砂濱に社燈明(あき)らけく」というのがそれを指すとしてもおかしくはないように思う。また、単純に前注に出た現在の安宅住吉神社の燈明としても問題ない。というより、「石川県能美郡誌」(大正一二(一九二三)年刊・国立国会図書館デジタルコレクション)の「第十四章 安宅町」の「安宅住吉神社」の条を見ると、本篇の後の部分で、「二ツ堂の神主、靈夢に依りて石像を海中より感得し、海士を入れて終に其所を尋ね、網を手筋に結はへ引上げ侍りし」とあるのが安宅住吉神社の相殿に祀られてある少彦名命のことであることが判り、また、この辺りではこの神社を二宮住吉大明神と呼んでいたことが記されあるからには、「二堂」は二堂山頂上(と言っても同神社公式サイトによれば海抜十五メートル)に鎮座している安宅住吉神社の別称ととるのが自然であるようにさえ思われるのである。

「鳥井はいくつか砂に吹埋(ふきうも)れて、笠木許(ばか)り見る物多し」これは神社が荒廃しているのではなく、古い鳥居が砂丘に埋もれている景色を叙述したものであろう。

「浮柳」石川県小松市浮柳町(うきやなぎまち)。次注も必ず参照されたい。

「日末」小松市日末(ひずえ)町「Stanford Digital Repository」のこちらでも浮柳ともども往時の状態(焼失した今江潟が両地区の中央東部分あったのである)を確認されたい。

「スベリ」不詳。但し、スズキ目ネズッポ亜目ネズッポ科ネズッポ属ネズミゴチRepomucenus richardsonii のことを金沢では「すべごち」と異称しているのを「石川県魚類方言集」(石川県水産試験場発行・PDF)に見出した。私は俄然、これと信ずる。ネズミゴチは異名として「ノドクサリ」「ヌメリゴチ」「ネバリゴチ」などを持ち、「リ」が含まれること、私の住んだ富山ではキス釣りの外道にこれがよく釣れ、強力な粘りのある体液を表皮から出すことを知っているが、それは確かに「スベリ」と呼んでしっくりくるからである。しかも、本文の叙述は春の末にこの砂浜海岸の梯川(かけはしがわ)河口付近へ上がってくる魚だと言っているのであるが、まさにネズミゴチは春から夏にかけて、海底から砂浜海岸のごく浅い所にもやって来るのである。しかも、食えない不味い魚なら、こんなことは記さない。美味いから書くのだ。鰓に棘もある厄介な魚だが、天ぷらにすると絶品なのだ。

「松露」菌界ディカリア亜界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロ属ショウロ Rhizopogon roseolus 。二針葉のマツ属 Pinus の樹林で見出され、それらの細根に、典型的な外生菌根を形成して生活する。安全且つ美味な食用茸の一つとして古くから珍重されてきたが、発見が容易でなく、希少価値が高い。さらに現代ではマツ林の管理不足による環境悪化に伴って産出量も激減し、市場には出回ることは極めて稀れになっている。栽培の試みもあるが、未だ商業的成功には至っていない。詳しくは参照したウィキの「ショウロ」を見られたい。

「防風」ロケーションから、セリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis である。食用として新芽を軽く茹でて酢味噌和えにしたり、天麩羅や刺身のツマ等に利用される。なお、狭義の漢方の生薬に使われる「防風」はセリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricate で、中国原産で別属で植物学的にも薬用としても無関係である。]

 寶曆六七年の頃、異國の山崩るゝことありとて、此沖へ大き成る橋流れ懸りし。其外松の類(たぐひ)材木の類多く打ちよせて、此邊(あたり)の浦邊德付(とくづき)たる里多し。此安宅殊に多かりし。流れよるによき所にや、折々に色々の奇事あり。

[やぶちゃん注:「寶曆六七年」一七五六年から一七五八年二月七日まで。

「異國」加賀国以外の国。

「德付(とくづき)たる」それらの材木を売って儲けた。]

 寶曆十年八月、流れよりたる箱あり。内に死したる人三人ありき。世には「うつぼ舟」と云ひふらしける。其實は大船の小箱にして、九尺四方厚木を以てたゝみ、鉸(かすがひ)[やぶちゃん注:「鎹」。]の上へも白土(はくど)しつくひにて堅めたる物也。大船(おほふね)風難に及ぶの時は、主人たる人及び水を得ざる人は、此箱に打込(うちこみ)て天命に任すこととぞ。大波の中忽ち岸に寄らざれば、顚倒(てんだう)して人は死すれども、骸(むくろ)許(ばかり)は何(いづ)くへなりとも流れよることとなん。此人々いかなる高貴の人にかおはすらんなれども、死の緣(えにし)定(さだめ)なき他鄕の土に埋(うづも)れぬる、哀(あはれ)と云べし。久敷(ひさしく)郡代よりも尋られしかども、夫(それ)と知るべき便(たより)もなかりしにや。此安宅の濱に埋(うづ)め、箱はこぼちて、無き人の供養の爲とて、其邊りの橋板(はしいた)にぞ用られける。三人の塚には大法會ありて、諸宗會葬して有難き追福のみ有し。然共(しかれども)海上の終命迷ひの念慮深きにや、又耶蘇(やそ)・西蕃(せいばん)の人にて佛法に會はざるか、墓より夜々火もえ出(いづ)ることありき。

[やぶちゃん注:「寶曆十年八月」一七六〇年九月九日~十月八日。

「うつぼ舟」虚舟(うつろぶね)とも呼ぶ、日本各地の海辺に伝承される、時に密閉型の小船。よく知られた実話体のものとしては江戸後期の随筆アンソロジーで滝沢解(曲亭馬琴)編になる「兎園小説」(文政八(一八二五)年成立)の琴嶺舎(馬琴の子息滝沢興継)が書いた「うつろ舟の蛮女」がある。私の古いオリジナル古文授業案集「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の冒頭の「【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!」(高校国語古文の授業用なので新字)を読まれたい。「兎園小説」は同年、滝沢解・山崎美成を主導者として、屋代弘賢・関思亮・西原好和ら計十二名の好事家によって、江戸や諸国の奇事異聞を持ち寄る「兎園会」と称する月一回の寄合いが持たれ、その文稿が回覧されたが、その集大成が本書である。三百話に近い怪談奇談が語られ、当時の人々の風俗史を語る上でも貴重な資料と言える。

「鉸(かすがひ)」鎹(現代仮名遣:かすがい)。金属製で「コ」の字の形状をしており、尖った先端部が離れた端に二つある釘。両端をつなぎ合わせる木材にそれぞれ打ち込んで繋ぎとめるために用いる。

「白土(はくど)しつくひ」「白土」は漆喰(しっくい)と同義なので一語としてとっておく。その音は「石灰」の唐音に基づくもので、「漆喰」という漢字は当て字である。従って「しつくひ」とするのは誤りである。漆喰は壁・天井などに使用される塗料で、消石灰に海藻のフノリ(紅色植物門真正紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属 Gloiopeltis。私の大好物でほぼ毎日のように食している)や粘土などを練り合わせたもの。

「水を得ざる人」波に浚われなかった乗組員や客。

「打込て」飛び込んで。

「顚倒(てんだう)して」波に激しく揉まれて逆転を繰り返し。

「久敷(ひさしく)郡代よりも尋られしかども」かなり長い間、郡代からもこの遺体の三人について身元を訊ねる触書(ふれがき)が出されていたが。

「夫(それ)と知るべき便(たより)もなかりしにや」これといってはっきりと死者を同定出来る申し出もなかったからであろうか。

「無き人の供養の爲とて、其邊りの橋板(はしいた)にぞ用られける」こういう民俗習慣があったことはちょっと違和感がある。人馬に踏まれる橋板を供養と見做すことは私には出来ないからである。ただ、これがまた祟るとも思われはしないのだが。

「耶蘇」キリスト教徒。

「西蕃」大陸に於いて、中国から見て西域(せいいき)に住んでいる野蛮な種族を総体的に示す蔑称。西戎。ゾロアスター教・イスラム教・チベット仏教(これは正統な仏教であるが、かつてはラマ教と呼ばれて誤って長く異端視されており、この「西蕃」の中にはチベット族も含まれていた)その他を信仰する者たち。]

 寶曆十二壬午(みづのえうま/じんご)五月二ツ堂の神主、靈夢に依りて石像を海中より感得し、海士(あま)を入れて終に其所を尋ね、網を手筋に結はへ引上げ侍りし。高さ三尺六寸、形ち舟に類す。石の中に佛像に似たる物あり。公儀へは少彥名命(すくなびこなのみこと)とこたへ、別家に安置す。

「本體は藥師如來にして、靈驗奇特多し」

とて、五月廿日より八月十日迄、九十日が間披露ありて、三州の緇素(しそ)笠(かさ)の端(は)引きも引(ひき)らず參詣あり。末世の不思議と云ふべし。

[やぶちゃん注:「寶曆十二壬午五月」一七六二年。グレゴリオ暦では旧暦五月一日は六月二十二日。

「二ツ堂の神主」前に注した通り、安宅住吉神社の神主。【2020年2月9日:追記】同神社公式サイトのこちらの「年中行事」の七月に「十一日祭」として『相殿に祀る少彦名命をお祀り致します』とある。但し、非常に気になることがある。それはT氏よりご指摘があったのだが、安宅住吉神社のすぐ近く(南東約五百メートル)には、別に少名彦名神社という神社が存在するのである(ヤフー地図)。「石川県能美郡誌」の「第十四章 安宅の名跡の項」の同神社の記載があり(以下はわざわざT氏が電子化して下さったものを画像を見ながら加工した)、

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○少彥名社。安宅川の南岸なる俗稱宮田屋地方の松林中に在り、當社の縁起に因るに、古へ安宅の海中三里餘の沖に神體あることは屢傳稱せらる〻所なりき、寶暦十二年六月[やぶちゃん注:ママ。]坊九屋七平といふ者、辨天山上に蹲踞して魚族の來遊を待ちつ〻ありしに、夢中忽ち神靈の現はる〻ものあり、告て曰く、吾れ衆生の病苦を除かんが爲に、古より此處に鎭座せしが、星霜推し遷りて桑田碧海となり、今や波浪の底に沈めり、然るに當浦の住吉大神は海上鎭護の神なるが、我を誘ひて其の誓願を果し給はんとせり、汝等須らく力を盡して我を出現せしめよと、七平卽ち人に語りて海底を探りしに、果して花崗石の神體、長け一尺許[やぶちゃん注:ここでの大きさは本篇に出るものより、遙かに小さいが、後に見る通り、最初に引き上げられた実物は本篇に出るそれほぼ同じ(四寸小さい)大きさである。また、少名彦名命は元来が極小の身体ではある。]なるを得たり、是に於て社殿を營みて之を祀る、明治の初年神寶を鏡とすぺきを命せらる〻に及び、此の神體は神職の倉庫に藏めたりしが、明治十九年坊丸屋の姻戚長野與三郞は、其所有地なる宮田屋地方が開墾せられて漸く一部落を形成するに至りしを以て、產土神とせんとの宿願を起し、明治三十一年其子與平の時に至りて獨力社殿を建築せり、
[やぶちゃん注:以下ポイント落ちで全体が一字下げ。]
〔少彥名社緣起〕
抑加賀國能美郡安宅に垂迹まします住吉大明神人末社少彥名命と奉稱は、いともかしこき御神とて、德化利生の廣大なる事、日本記神代卷に詳し、今此所に鎭座ありし來由は、安宅崎三里沖、深さ二十四尋[やぶちゃん注:二十八メートル前後。]の海底より現まします事、幾千代萬歳とも其數をしらず、或時風波靜にして海水淸めるに、漁浦の船を浮めて彼海底を見れば、奇哉神像のおはしましける所顯然たり、雖然[やぶちゃん注:「しかりといへども」。]數十丈の水底なれば、引上擧げむとするに便なくして、空しく雪霜を積むこと久し、時哉[やぶちゃん注:「かな」。]寶曆十二年水無月の寒をいとひつゝ、午時に睡眠せしに、予[やぶちゃん注:「われ」か。前文の坊丸屋七平ととっておく。]に頻りの夢想あり、怪しく思ひつゝ、疑らくは雜夢ならんと、等閑にし置ぬ、又來る夜再び三度、全身に汗して、心魂的當の眞夢と覺ゆ。其告に曰、吾衆生の疾患をはじめ.都て[やぶちゃん注:「すべて」。]災害を解除得させんの爲、遠きむかしより此土地に住むこと久し、しかれどもものは變易ならひにて、鎭座せし島すらも、いつしか海水溢[やぶちゃん注:「あふれ」。]みちて.底のもくづにかくれぬ、汝奉仕の本宮住吉の大神は、功德異國までも聞えて蒼海をこえ、波濤の上を渡る船の難なく、楫取水主[やぶちゃん注:「かこ」。]のあやまちもあらで、世を安穩に渡れとこそ、日夜朝暮無間斷[やぶちゃん注:「かんだんなく」。]あはれみ給へども、蒼生[やぶちゃん注:「さうせい」。人民。]の犯しけん、樣々に歎しき[やぶちゃん注:「なげかはしき」。]事もあれば、天の御蔭日の御蔭とかくれましまし、救ひ給はん御誓ふかく、鹽の八百會[やぶちゃん注:「しほのやほあひ」。潮流が四方から集まり合する所。]を分け入底筒男の因[やぶちゃん注:「ちなみ」。]も外ならで、いとねもごろにわれも誘れ[やぶちゃん注:「さそはれ」。]、誠に力をあはせ、心を一つにしたまへば、いそのかみふり行[やぶちゃん注:「ゆく」。]年の回りかはりて、當時は二堂の上の方、錢山といへる所の下一町沖に寄り來れり、故に浦人を語らひ、此月五日十一日二十八日のうちに[やぶちゃん注:何らかの吉日を神は指摘しているようだ。]、陸地へ遷座あらせよかし、吾は利民安國の爲なれば、雨露の凌[やぶちゃん注:「しのぎ」。]に一宇を建、境内繁茂の瑞垣に、松柏のいつもかはらぬ常盤木を植、信心偈仰あらぱ、願ひによりて恩顧を施すべしと、宣ひ終りて夢うちさめぬ、奇瑞といふはおろか、筆舌の及ぷ所にあらず.依て示現を庶民に早く告まく欲すれども、うきふししげき業にうち紛れて過行しに.度重ればあらはるゝとや、彼阿漕が浦のふることも例ありれぱ.祕置[やぶちゃん注:「ひめおく」。]くも本意ならず、此浦の長たる人に、密に語りしを、知四の道理[やぶちゃん注:「ちしのことわり」。たとえ二人だけの密事でも必ず他に漏れることをいう語。後漢の楊震が荊州刺史に赴任する折り、人から金十斤を贈られ、「暮夜知る者無し」と慫慂した際、震は「天知り、地知り、我知り、子(相手)知る」と答えてそれを受けなかった故事に基づく。]や顯れけん、いつとなく里中に充滿り[やぶちゃん注:「みちみたり」。]、扨可止事[やぶちゃん注:「やむべきこと」。やらずにおくこと。]ならねぱ、衆人を催しつゝ一葉に棹さして、彼海上に漕ぎ行、歡[やぶちゃん注:「よろこび」。]の音[やぶちゃん注:「こゑ」と当て訓しておく。]一同に、そこよ爰よと尋ぬれども、折から北風強く、逆まく波に水底曇り、これぞと思ふ神姿もあらぎりける、かくては示現を空しくするに似むり、唯一心不亂神にまかするより外はあらじと、本宮に立もどり、再拜ぬかづき.前記の三日の日取のうち、御鬮[やぶちゃん注:「みくじ」。]うかがひしに、十一日にあがり紿はんと示敎[やぶちゃん注:「しめしをしへ」。]給ふ、實や[やぶちゃん注:「げにや」。]西の海槞が原[やぶちゃん注:不詳。「まどがはら」「ろうがはら」で沿岸海域に名らしい。]にて、三つの瀨のうち.中津瀨にして御秡せさせ給ふ理にも叶[やぶちゃん注:「かなひ」。]、今又みかの原、わきてめでたき十一日との御告は希代の事也.其日も既に待得て遷幸の事いそがにしきに.海水淸[やぶちゃん注:「きよく」。]わたり、深さ四尋半[やぶちゃん注:七~八メートル。]の底に、丑寅に向はせ、日月の輝給ふに映じます惣形[やぶちゃん注:「さうぎやう」、。全体の形。]三尺二寸、御正體[やぶちゃん注:「みしやうたい」。]一尺、細面體[やぶちゃん注:「ほそおもてのてい」と訓じておく。]の殊勝成[やぶちゃん注:「なる」。]はたとふるにものなし、蓋[やぶちゃん注:「けだし」。]丑寅は艮位[やぶちゃん注:「こんゐ」。]にて、陰陽始終の門深き物語り事あらんか、凡[やぶちゃん注:「およそ」。]人覺りがたし、于■[やぶちゃん注:二行全二字の割注のようだが、判読出来ない。]此度は御敎の儘に奉遷幸[やぶちゃん注:「遷幸奉り」。]、假に藁造りの一宇を營、當社[やぶちゃん注:安宅住吉神社。]の末社と奉祟りぬ[やぶちゃん注:「あがめたてまつりぬ」。]、願はくば宮殿を改[やぶちゃん注:「あらため」]造りて春秋の額[やぶちゃん注:末永き年月に亙って祀ることを言っている。]厚く祈らば.末世の衆生海上の難ものがれ、疾患の災もたち所に救ひ給はん、倩[やぶちゃん注:「つらつら」。]おもんみれば、此所を安宅といふ字義も、安はやすし、宅は家也.人の住居定む、しかれば兩神の神慮に應ぜし浦なれぽ、萬民やすく住よしの訓疑べからず、能[やぶちゃん注:「よく」。]おもひふかく崇よ[やぶちゃん注:「あがまへよ」。]と爾[やぶちゃん注:「しか」。]いふ、午六月[やぶちゃん注:宝暦十二年は壬午。]

   *

T氏は『明治に個人が建立安置した「少彦名社」を二ページ使って書いているのは、日置謙』(本底本の校訂者でもある)『氏の郷土史家の見識でしょう』と述べておられる。また、『堀麦水は寶曆十一年から十三年は小松に居たようなので(「加能郷土辞彙」の堀麦水の項)、実物の「少彥名命」=「本體は藥師如來」を拝観したのでしょうか?』とも述べておられる(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)。これを読むに、どう考えても本篇の話と同一としか思われない。上記でも安宅住吉神社を本社と言っており、現存する少名彦名神社こそが、本来の海中から得られた神体の正統なルーツを真に伝えるものであったととってよいように思われる。

「網を手筋に結はへ」網を掛けてそれに縄を結わえ、その繩を手で引いて。

「三尺六寸」一メートル八センチ。

「緇素(しそ)」「緇」は「黒」、「素」は「白」で、黒衣を着けた僧と白い衣を着た俗人で「僧俗」の意。

「引きも引らず」国書刊行会本は『引(ひき)も切らず』でその方がよい。

「末世の不思議と云ふべし」ここには筆者の強力な皮肉があると私は読む。安宅住吉神社の神主は霊夢による神託を受けたと称して、この奇体な石を海士に命じて探させ、海中から引き揚げ、それについて「公儀へは少彥名命とこたへ、別家に安置」(現在、同神社の主祭神は住吉三神(底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命・上筒男命(うわつつのおのみこと))で相殿神として別雷神(わけいかづちのかみ)と少彦名命を祀る)しておきながら、公儀に報告したのとは異なり、口も乾かぬ僅か数日後には(開帳の「五月廿日」から推定)少彦名命ではなくして「本體は藥師如來にして、靈驗奇特多し」と宣伝し、実に九十日間の披露で北越三州から引きも切らず僧俗が蝟集して大儲けしたというのである。因みに、この怪しげな像影の如きものを持った石を、突如、薬師如来と比定して喧伝したことが唐突に聴こえるであろうが、当時は神仏習合であるから問題なく、しかも本地垂迹説では主祭神の一人である上筒之男命は薬師如来を本地とすると考えられたことによるのである(因みに中筒之男神は阿弥陀如来、表筒之男神は大日如来を本地とする)。以上に示した如何にも怪しげな話とその展開仕儀は、如何にも「末世の」、末法の世の救い難い社僧のやりそうな「摩訶不思議」な呆れた似非霊験譚大儲け話ということになるのではあるまいか?]

 其砌、彼三人の流れよりし塚の邊り白沙の濱の中に夕顏生出(おひい)で、一夜忽ち大なる實三つ迄出來(いでき)たり。

「彼水箱(みづばこ)に死する人の感應、成佛のしるしにや。」

「此石像も故鄕(ふるさと)の氏神の寄來り給ふにや」

など、里人は云ける。

[やぶちゃん注:ユウガオ(スミレ目ウリ科ユウガオ属ユウガオ変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida)の大きな実が一夜で成る(それはあり得ないから確かに霊験である)ことを、「かの日本人でなく仏教徒でもない異邦の人々の霊が仏教の正法(しょうぼう)に感応して成仏した証しではないか?」と考えた里人の方が社僧よりも遙かに素朴で誠実ではないか。或いは「此石像も故鄕の氏神の寄來り給ふにや」とは、「彼等異国の人々の信仰する神が遙々海を越えてこの三人の死者を迎える、救うためにこの海岸に寄り来たりなさったのではないか?」という謂いである。私はこれらの里人の言葉にすこぶる共感するのである(但し、以下で筆者は怪異を示してそれをやんわり推定否定するわけだが)。

 然共、彼の天草(あまくさ)の枯木に花咲ける類(たぐひ)にて、取はやしゝは死者の了簡と違(たが)けるにや。

[やぶちゃん注:「天草の枯木に花咲ける」かの「島原の乱」(寛永一四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日~寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)の前兆とされた事実や予言に基づく謂い家木裕隆氏の論文「島原の乱でただ一人生き残った男・絵師山田右衛門作(えもさく)の生涯」PDF)の『天草四郎の出現を予言した「末鑑(すえかがみ)の書」』の章に(太字下線は私が附した)

   《引用開始》

『耶蘇天誅記』はママコス上人(マルコス・フェラァロ神父と考えられる)が慶長十七年(一六一二)のキリシタン禁教令で追放される時、『末鑑の書』という予言書を残したと伝えています。その内容を略記すると次のようになります。

「今から二十五年の後に十六歳の神の子が現われる。その子は学ばずして諸道に通じ、何一つ出来ないことはない。その時東西の雲は真赤に焼け、地には時ならぬ花が咲く。国中で山野が鳴動し、民家も草木も焼け果てる。人々は首にクルスをかけ野山に白旗がなびき、仏教・神道はキリスト教に呑み込まれ、天帝はあまねく万民を救うであろう。」

結末の部分を除いてはこの予言はよく当っております。乱の起る寛永十四年(一六三七)は予言書が慶長十七年(一六一二)に作られたとすればまさしく二十五年後となります。乱の起る直前の寛永十三〜十四年はひどい旱魃で朝焼け、夕焼けが異常であったと伝えられています。日照りで葉を振い落した桜などの木が秋に時ならぬ花を咲かすのはよくあることです。山野鳴動……以下はまさに天草・島原の乱の光景を表しております。

   《引用終了》

とある。また、坂口安吾の「島原の乱雑記」(昭和一六(一九四一)年九月発行『現代文學』第四巻第八号)にも(全集(新字)を持っているが、引用は発表年代から「青空文庫」のものを恣意的に正字化して示し、太字下線は私が附した

   *

 切支丹の陰謀は、主として、天草に行はれてゐた。小西の舊臣、天草甚兵衞を中心に、浪人どもを謀主とし、甚兵衞の子、四郞を天人に祭りあげて事を起さうといふのである。彼等はまづひとつの傳說をつくりあげて愚民の間に流布させた。それは、今から二十六年前(といへば、家康の切支丹禁令のことであらう)天草郡三津浦に居住の伴天連(ばてれん)を追放のとき、末鑑(すえかがみ)といふ一卷の書物を殘して行つた。時節到來の時、取出して世に廣めよ、と言ふのである。その書物によると「向年より五々の曆數に及んで日域に一人の善童出生し不習に諸道に達し顯然たるべし、然(しかる)に東西雲燒し枯木不時の花咲(さき)諸人の頭にクルスを立(たて)海へ野山に白旗たなびき天地震動せば萬民天主を尊(とうとぶ)時至るべきや」云々。丁度、源右衞門といふ村民の庭に紫藤の枯木から花が咲き、それも紫の咲くべき木に白が咲いた、さういふ事實にあてはまるやうに作つた傳說であつた。

   *

本「三州奇談」の優れているところは、極めて冷徹な考察にある。則ち、ユウガオの実が三つ突如三人の塚の近くに出現したのは、たまたま気づかぬうちに普通に実が育ったのであり、「一夜」というのは誤認であり、三人の死者とは関係がないと示唆した内容であり(「天草の枯木に花咲ける」は普通に自然現象(天草の場合は異常気象による狂い咲き)として理解出来ることを広義に指している)、前の里人たちの意見は死者たち霊の思い(遺恨)とは甚だ異なったものであったのではなかったか? として以下の怪異を語るのである。]

 其頃小松の濱田[やぶちゃん注:現在の小松市浜田町。]と云所の人、安宅へ用の事ありて、風雨烈しき夜、提灯を簑の下に隱し、只一人野くれの[やぶちゃん注:「野暮(のぐれ)の」。]細道を、しかも星さへ見えぬ闇夜にたどり行きける。元來近隣にて祭角力(まつりすまふ)の名にも呼ばるゝ躰(てい)の者なり、道も常に行通ふ所なれば、一點の臆心(おくしん)もなく、そゞろ鼻歌にて過ぎけるに、遙か向ひより『松明(たいまつ)か』と覺へて、燈火(ともしび)連(つらな)り來りければ、

「かゝる風雨の夜我のみにもあらざりけり。扨は安宅の者なるべし。誰にやあらん」

と、近付く儘に其燈の本(もと)を見れば、二三人連(づれ)と見へし。

 提灯と松明と打合ふ程にふり仰向(あふむ)き、顏を見合せけるに、面(おもて)、皆、鬼(おに)の類(るい)の者なり。

 一角生じて靑面(せいめん)なる者、先へ見えしまゝ、

「はつ」

と低向(うつむ)し内に、二三人の鬼形(きぎやう)の者、風の過ぐるが如く、一步の足音もなく行違ひぬ。

 彼者正氣は失はざれども、面色は草の葉の如く、腰さへ身ふるひて漸々(やうやう)に安宅へ走り着きけるに、主(あるじ)顏色の死灰(しはい)の如くなるに驚き、樣子を尋けるにぞ、斯くは云ひし。

 是等若(もし)彼(かの)三人にやあらん。箱より出だす時、先に他の浦に着きて盜めりと覺えて、衣類は剝ぎてなし。顏は打損じて、毛髮ぬけ、鼻ひしけ[やぶちゃん注:ひしげ。]、眼(まなこ)打寄りてひとつにもなる體(てい)なりし。いぶせき事にぞありし。其後も度々法會・流灌頂(ながれくわんぢやう)等ありし。其後はあやしみたへぬ。

[やぶちゃん注:本怪談部の傑出している点は、これら三人は日本人ではない異国の者であるらしいという設定にある。江戸時代の怪奇談集で南蛮人(広義)が霊となって出現するというケースはまず類がないからである。しかも、本篇全体が巧みに「三」という数字で連関されてあるということである。――「三湖」――異人の死者「三人」――「二ツ堂」=安宅住吉神社の祭神は住吉「三」神であること――石の高さ「三尺」――「三州」――「三」つの「夕顏」の実生――「三」人と思しき鬼形の者……非常によく書かれた特異な実話怪談と言えるのである。

「小松の濱田」現在の小松市浜田町。安宅の南東二キロ半ほど。

「腰さへ」国書刊行会本は「腰なへ」。そちらがよい

「ひしけ」「拉(ひし)げ」。押し潰れており。

「眼打寄りてひとつにもなる體(て)なりし」眼球が腐って溶け流れ出て一つ眼のように顔の真ん中にあった、というのであろう。

「いぶせき」不快な。

「流灌頂」(現代仮名遣:ながれかんじょう)布帛の幡(はた)又は塔婆を川や海に流して功徳を回向する法会。特に水死者・難産で死んだ婦人及び無縁仏などの供養のために行なわれるが、本来は魚類などを救うために行なったものである。水死者に対する施餓鬼供養と同じである。その祭壇は「小泉八雲 海のほとりにて(大谷正信訳)」にある挿絵を見られたい。]

2020/02/07

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)

 

[やぶちゃん注:石川啄木(明治一九(一八八六)年二月二十日~明治四五(一九一二)年四月十三日:岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)生まれ)の第一歌集「一握の砂」の初版は、明治四三(一九一〇)年十二月一日、東京京橋区南伝馬町の東雲堂書店より刊行された。総歌数五百五十一首。定価六十銭。啄木満二十四歳。

 啄木はこの前年の明治四十二年三月一日に朝日新聞社校正係として就職、同十一月より「二葉亭全集」の校正の補助に携わっていたが、主担当者の退社に伴い、この明治四十三年四月より彼が主担当となっていた。また、その後の同年九月には『東京朝日新聞』に「朝日歌壇」が設けられ、啄木がその選者に抜擢されている(彼による選歌は翌明治四十四年二月二十八日までの八十二回、投稿者百八十三名、総歌数五百六十八首に及んだ)。なお、この明治年六月五日に所謂「大逆事件」報道(幸徳秋水の拘引報道は六月三日。幸徳ら被告二十六名の大審院特別刑事部の大逆罪公判開始の決定は刊行の前月十一月九日で、第一回公判は刊行九日後の十二月十日であった)に激しい衝撃を受け、社会主義への強い関心を示した。プライベートでは刊行二ヶ月前の十月四日に妻節子(明治一九(一八八六)年十月十四日~大正二(一九一三)年:南岩手郡上田村に岩手郡役所に勤務する士族堀合忠操(ちゅうそう)の長女として生まれる。盛岡女学校卒。盛岡女学校在学中に啄木と知り合い、明治三八(一九〇五)年五月に結婚した。故郷を追われた夫とともに函館・小樽・東京と移り住む。啄木の素質は彼女との恋愛によって目覚め、輝きを増したとも言われる。啄木没年の翌年、大正二(一九一三)年五月五日に同じく結核で逝去した。満二十六歳の若さであった)が長男真一を生んだが、同月二十七日に亡くなっている(死因不明。啄木の日記によれば『生れて虛弱』とはある。以下の自序参照)。この年の文芸面では短歌活動が主であったが、五月下旬から六月上旬にかけて小説「我等の一団と彼」を執筆、文芸評論・社会評論にも手を染めている(以上の事蹟は所持する筑摩書房「石川啄木全集」の「第八巻 啄木研究」(昭和五四(一九七九)年刊)の岩城之徳(ゆきのり)氏の「伝記的年譜」他を参照した。以下の注でもそれを用いている)。

 現行、「一握の砂」の電子テクストは新字旧仮名のものが圧倒的に多いこと、底本が初版に拠るものが少ないことから、本仕儀をまず始動することとした(ブログ・カテゴリ「石川啄木」を新設)。底本は「国文学研究資料館」の「電子資料館 近代文献情報データベースポータル」内「近代書誌・近代画像データベース」にある「高知市民図書館」の「近森文庫」所蔵にかかる「一握の砂」初版を視認した。但し、加工データとして、非常に古くに公開されている「バージニア大学図書館」(University of Virginia Library)の「日本語テキスト・イニシアティヴ」(Japanese Text Initiative)のこちらの「一握の砂」(日本語正字正仮名表記)を使用させて戴いた。心より御礼申し上げる。但し、ここのテクストは初版底本と照らし合わせても、冒頭の啄木の序の頭の「函館」が「凾館」となっていたり、初版の最初に掲げられてある藪野椋十(むくじゅう)の序文がカットされているなど、かなり問題があり、読みが一切附されていないのも問題で、一部の本文には明白な誤植も有意に複数あり、実に十八年間も放置されたまま(二〇〇二年に保存した時のものと対照したが、現在も修正されていない)である)。さればこそ私の仕儀が決して屋上屋になることはないと感ずるものである。また、筑摩書房「石川啄木全集」の「第一巻 歌集」(昭和五三(一九七八)年刊)の本文と校合し、不審な部分には注記を加えた。

 なお、底本本文の短歌群は総ルビなのであるが、これは如何にも読み難いので、まず、総てに読みを表示したものを掲げた後に一行空けて一字下げで読みを排除したものを示すこととした。漢字は極力可能な限り、底本のものを再現するつもりであるが、例えば啄木の「琢」の字などは正字の最後の一画の入ったものは電子化出来ないので、完璧とは言えないことはお断りしておく。主に若い読者に必要かと感じた表現や語句に禁欲的に注を附した。なお、向後も啄木の作品を電子化するためにブログ・カテゴリ「石川啄木」を創始したことを言い添えておく。

 或いは、「何を今さら啄木を」とお感じになる方もあるやも知れぬが、私の父方の祖父藪野種雄(東邦電力名古屋発電所技師。昭和九(一九三四)年八月十四日結核により名古屋にて逝去。享年四十一。彼の遺稿「落葉籠」は私のサイトのこちらで電子化してある)の最後の病床には「石川啄木歌集」(「一握の砂」「悲しき玩具」カップリング版・昭和七(一九三二)年九月一日紅玉堂書店(東京)発行)があった。それを私は譲り受けて、今、目の前にある。末期の祖父が啄木の孰れの歌に胸うたれたかは判らないけれども、それに想い致しつつ、私は電子化をしたいのである。因みに、私は大の短歌嫌いであるが、啄木だけは例外で、中学一年の時に「一握の砂」「悲しき玩具」を読み、激しく心打たれた。筑摩版全集も私が教員になって初めて買った全集の中の一つであった。【二〇二〇年二月六日始動 藪野直史】]

 

一握の砂

 

石川啄木著

 

[やぶちゃん注:表紙。孰れも右から左へ手書き記載。中央に絵。名取春仙(明治一九(一八八六)年二月七日~昭和三五(一九六〇)年三月三十日)画。名取は『東京朝日新聞』に連載された二葉亭四迷の小説「平凡」の挿絵を描いたことが縁となり、明治四二(一九〇九)年に同社に入社、大正二(一九一三)年の退社まで、夏目漱石の「虞美人草」・「三四郎」・「それから」・「明暗」などの挿絵でジャーナリズムに認められ、以降、多くの挿絵を描いた。他にも森田草平「煤煙」、長塚節「土」、島崎藤村「春」、泉鏡花「白鷺」などの名作のそれも手掛けた。彼は妻の繁子とともに青山の高徳寺境内の名取家の墓前にて服毒自殺している(以上はウィキの「名取春仙」に拠る)。彼は啄木とほぼ同期で、年も同じ同僚であったのである。]

 

 一握の砂   石川啄木著

 

[やぶちゃん注:。書名は大ぶりのゴシック太字。]

 

   一   握   の   砂

 

    石 川 啄 木 著

 

     東 雲 堂 版

 

[やぶちゃん注:。総て右から左書き。]

 

 

世の中には途法も無い仁(じん)もあるものぢや、歌集の序を書けとある、人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢや。ああでも無い、かうでも無い、とひねつた末が此んなことに立至るのぢやらう。此の途法も無い處が卽ち新の新たる極意かも知れん。

定めしひねくれた歌を詠んであるぢやらうと思ひながら手當り次第に繰り展げた處が、

 

   高きより飛び下りるごとき心もて

   この一生を

   終るすべなきか

 

此ア面白い、ふン此の刹那の心を常住に持することが出來たら、至極ぢや。面白い處に氣が着いたものぢや、面白く言ひまはしたものぢや。

 

   非凡なる人のごとくにふるまへる

   後のさびしさは

   何にかたぐへむ

 

いや斯ういふ事は俺等の半生にしこたま有つた。此のさびしさを一生覺えずに過す人が、所謂當節の成功家ぢや。

 

   何處やらに澤山の人が爭ひて

   鬮引くごとし

   われも引きたし

 

何にしろ大混雜のおしあひへしあひで、鬮引の場に入るだけでも一難儀ぢやのに、やつとの思ひに引いたところで大槪は空鬮(からくじ)ぢや。

 

   何がなしにさびしくなれば

   出てあるく男となりて

   三月にもなれり

 

   とある日に

   酒をのみたくてならぬごとく

   今日われ切に金を欲りせり

 

   怒る時

   かならずひとつ鉢を割り

   九百九十九割りて死なまし

 

   腕拱みて

   このごろ思ふ

   大いなる敵目の前に躍り出でよと

 

   目の前の菓子皿などを

   かりかりと嚙みてみたくなりぬ

   もどかしきかな

 

   鏡とり

   能ふかぎりのさまざまの顏をしてみぬ

   泣き飽きし時

 

   こころよく

   我にはたらく仕事あれ

   それを仕遂げて死なむと思ふ

 

   よごれたる足袋穿く時の

   氣味わるき思ひに似たる

   思出もあり

 

さうぢや、そんなことがある、斯ういふ樣な想ひは、俺にもある。二三十年もかけはなれた此の著者と此の讀者との間にすら共通の感ぢやから、定めし總ての人にもあるのぢやらう。然る處俺等聞及んだ昔から今までの歌に、斯んな事をすなほに、ずばりと、大膽に率直に詠んだ歌といふものは一向に之れ無い。一寸開けて見てこれぢや、もつと面白い歌が此の集中に滿ちて居るに違ひない。そもそも、歌は人の心を種として言葉の手品を使ふものとのみ合點して居た拙者は、斯ういふ種も仕掛も無い誰にも承知の出來る歌も亦當節新發明に爲つて居たかと、くれぐれも感心仕る。新派といふものを途法もないものと感ちがひ致居りたる段、全く拙者のひねくれより起りたることと懺悔に及び候也。

 

       犬の年の大水後

            藪 野 椋 十

 

[やぶちゃん注:末尾の添え辞と署名はもっと下にあるが、ブラウザの不具合を考え、引き上げた(以下、同様の仕儀を施した箇所がある)。「新派」明治中期、主に「古今和歌集」に拠ったところの旧来の和歌の一派「御歌所(おうたどころ)派」が「旧派」和歌と称された一方、華々しく登場した若き精鋭与謝野鉄幹と正岡子規のそれらが「新派」短歌として、短歌革新運動の最たる存在として位置付けられていた。

「拱みて」「くみて」。

「犬の年の大水後」本書が刊行された明治四三(一九一〇)年は庚戌(かのえいぬ)で、この年の八月十日の「早川の大洪水」(豪雨により川が決壊、宮城野では三十六棟の家屋と水田の三分の二が流出、箱根湯本では三枚橋とその近くの線路が流出、その後再建されたが、線路は対岸側に移設された。塔ノ沢温泉では老舗旅館の福住楼が客室もろとも押し流され、歌舞伎作家の川尻宝岑夫妻ら宿泊客が死亡している。ここはウィキの「早川」に拠った)に代表されるように、大雨による、東海道全域に亙った降雨・洪水被害が発生した。

「藪野椋十」(やぶのむくじゅう)は当時の啄木の上司であった渋川玄耳(げんじ 明治五(一八七二)年~大正一五(一九二六)年)の完全なペン・ネーム(よく聞かれるので断っておくが、私の藪野家とは何の関係もない)。ジャーナリストで随筆家・俳人。佐賀県生まれ。本名は渋川柳次郎。ウィキの「渋川玄耳」によれば、『長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し』、現在の『福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務』した。この『熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。漱石が英国留学で不在時には、池松迂巷らと紫溟吟社を支え、機関紙『銀杏』を創刊。熊本の俳句文化の基礎づくりに貢献』した。『日露戦争で従軍法務官として満州に出征した際、東京朝日新聞特派員の弓削田精一』(ペンネーム「秋江」。二葉亭四迷と交友があり、「二葉亭全集」の編集も担当した)『と親しくなり、東京朝日新聞に現地ルポを寄稿するようになる。それらの文章は『従軍三年』という書物にまとめられ』て『評判を呼』び、『弓削田の推薦で熊本出身の池辺三山主筆に請われ』、明治四〇(一九〇七)年三月に『東京朝日新聞へ入社。「辣腕社会部長」として斬新なアイディアを次々に出し、記事の口語体化や、社会面の一新、家庭欄の充実を図』った。『「取材法」や「記者養成システム」を』導入して『現在につながる』手法を『革新』していった。『熊本時代の知己であった夏目漱石を社員として東京朝日新聞へ招くことに尽力し、石川啄木を抜擢して『朝日歌壇』を創設』したのも彼であった。明治四三(一九一〇)年に『中央大学に新聞研究科が設置された際、会社の同僚で親友でもある杉村楚人冠とともに、「中央大学学員」として同研究科の講師を務めた』。『名社会部長として「新聞制作の近代化に不朽の足跡」を残すも、性格的に狷介なところがあり、頼みの池辺三山も不祥事の引責で辞め、社内で孤立』し、『自身の離婚問題なども重なり』、大正元(一九一二)年十一月、『東京朝日新聞を退社』、『以後はフリーランスとなり、文筆活動で生計を立てる(フリージャーナリストの先駆けとも言われている)。しかし、晩年は貧苦と病気により、寂しいものであった』とある。]

 

 

函館なる郁雨宮崎大四郎君

同國の友文學士花明金田一京助君

この集を兩君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを兩君の前に示しつくしたるものの如し。從つて兩君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。

また一本をとりて亡兒眞一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の藥餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。

              著   者

 

[やぶちゃん注:石川啄木の自序。底本では全体が四字下げ。

「郁雨宮崎大四郎」宮崎郁雨(いくう 明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年)は歌人。郁雨は雅号。大四郎が本名。明治四〇(一九〇七)年五月に啄木が函館に移って出逢った啄木の妻節子の妹の夫。啄木の生前から啄木一家を物心両面に亙って支え、死後も彼の顕彰に努めた。詳しい事蹟はウィキの「宮崎郁雨」を見られたいが、そこにある通り、啄木の死の前年の明治四四(一九一一)年九月、『郁雨が節子に送った無記名の手紙に「君一人の写真を撮って送ってくれ」とあったのを』啄木が『読み、これを妻の不貞と採った』彼『は節子に離縁を申し渡すと共に、郁雨と絶交』(但し、亡くなるまで節子との離婚は成立していない)している。

「花明金田一京助」(明治一五(一八八二)年~昭和四六(一九七一)年)は同じ岩手出身の友人(盛岡高等小学校(現在の下橋中学校)・盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)以来の先輩の友人であり、啄木の死まで親交が続いた。啄木より四つ年上)の言語学者で、アイヌ語研究の本格的創始者として知られる。「花明」(くわめい(かめい))は雅号で、若い頃から和歌を作り、与謝野鉄幹の『明星』の同人となっていた。法名も「寿徳院殿徹言花明大居士」である。啄木は明治四一(一九〇八)年四月に単身、上京するが、ウィキの「金田一京助」によれば、上京早々(初めは鉄幹の新詩社に滞在)の五月四日、『中学で一学年上だった金田一京助の』好意で彼のいた『本郷区菊坂町赤心館に止宿』している。その後、『生計のため』に『小説を売り込』んだが、『成功せず』、『逼迫した生活の中』(以下は先の年譜で確認した)、同年六月二十三日から二十五日にかけて「東海の小島」「たはむれに母を背負ひて」「己が名をほのかに」などの、後に広く知れ渡る歌が作られ、この時に書かれた百十四首を、翌月の『明星』に「石破集」に発表している。詳しい事蹟はウィキの「金田一京助」を見られたい。

「この集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき」逝去の翌日の十月二十九日。

 以下の附記は、上記の自序の裏、本文開始(左)の右ページに全体が八字下げで記されてある。]

 

 

明治四十一年夏以後の作一千餘首中より五百五十一首を拔きてこの集に收む。集中五章、感興の來由するところ相邇きをたづねて假にわかてるのみ。「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の記念なり。

 

 

[やぶちゃん注:「相邇き」「あひちかき」。「相近き」に同じい。

 以下、枠入りの目次。上部の横枠内に右から左に「目次」。但し、リーダとページ数は略した。「手套」は「てぶくろ」。]

 

目  次

 

我を愛する歌

秋風のこころよさに

忘れがたき人人

手套を脫ぐ時

 

 

    我を愛する歌

 

 

東海(とうかい)の小島(こじま)の磯(いそ)の白砂(しらすな)に

われ泣(な)きぬれて

蟹(かに)とたはむる

 

 東海の小島の磯の白砂に

 われ泣きぬれて

 蟹とたはむる

[やぶちゃん注:「東海の小島の磯」は広義の日本の海辺の意。「白砂」とあるから「磯」は岩礁性海岸ではなく、広義の「海岸」の意で、ここは無論、砂浜海岸である。學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、このロケーションは『函館の大森海岸を念頭において作ったものであろう』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。一連の砂山や砂浜歌群も概ねここが回顧された舞台と考えてよい。同書によれば、初出は明治四一(一九〇八)年七月号『明星』である。] 

 

頰(ほ)につたふ

なみだのごはず

一握(いちあく)の砂(すな)を示(しめ)しし人(ひと)を忘(わす)れず

 

 頰につたふ

 なみだのごはず

 一握の砂を示しし人を忘れず

 

 

大海(たいかい)にむかひて一人(ひとり)

七八日(ななやうか)

泣(な)きなむとすと家(いへ)を出(い)でにき

 

 大海にむかひて一人

 七八日

 泣きなむとすと家を出でにき

 

 

いたく錆(さ)びしピストル出(い)でぬ

砂山(すなやま)の

砂(すな)を指(ゆび)もて掘(ほ)りてありしに

 

 いたく錆びしピストル出でぬ

 砂山の

 砂を指もて掘りてありしに

 

 

ひと夜(よ)さに嵐(あらし)來(きた)りて築(きづ)きたる

この砂山(すなやま)は

何(なん)の墓(はか)ぞも

 ひと夜さに嵐來りて築きたる

 この砂山は

 何の墓ぞも

[やぶちゃん注:「夜さ」「夜去(よさ)り」の略。「去り」は「来る」の意の古語。夜。私は中学・高校を富山県で過ごしたが、現地では今も「夜」を「よさり」と呼ぶ。]

 

 

砂山(すなやま)の砂(すな)に腹這(はらば)ひ

初戀(はつこひ)の

いたみを遠(とほ)くおもひ(い)出づる日(ひ)

 

 砂山の砂に腹這ひ

 初戀の

 いたみを遠くおもひ出づる日

 

 

砂山(すなやま)の裾(すそ)によこたはる流木(りうぼく)に

あたり見(み)まはし

物言(ものい)ひてみる

 

 砂山の裾によこたはる流木に

 あたり見まはし

 物言ひてみる

 

 

いのちなき砂(すな)のかなしさよ

さらさらと

握(にぎ)れば指(ゆび)のあひだより落(お)つ

 

 いのちなき砂のかなしさよ

 さらさらと

 握れば指のあひだより落つ

 

 

しつとりと

なみだを吸(す)へる砂(すな)の玉(たま)

なみだは重(おも)きものにしあるかな

 

 しつとりと

 なみだを吸へる砂の玉

 なみだは重きものにしあるかな

 

大といふ字を百あまり

砂に書き

死ぬことをやめて歸り來れり

 

 大(だい)といふ字(じ)を百(ひやく)あまり

 砂(すな)に書(か)き

 死(し)ぬことをやめて歸(かへ)り來(きた)れり

 

 

目(め)さまして猶(なほ)起(お)き出(い)でぬ兒(こ)の癖(くせ)は

かなしき癖(くせ)ぞ

母(はは)よ咎(とが)むな

 

 目さまして猶起き出でぬ兒の癖は

 かなしき癖ぞ

 母よ咎むな

 

 

ひと塊(くれ)の土(つち)に涎(よだれ)し

泣(な)く母(はは)の肖顏(にがほ)つくりぬ

かなしくもあるか

 

 ひと塊の土に涎し

 泣く母の肖顏つくりぬ

 かなしくもあるか

[やぶちゃん注:現在(二十代前半或いはそれよりも少し前の追懐)の涎(唾(つば))を滴らせて土くれを捏(こ)ねて柔らかくし、そこに自分の母の似顔絵を泥絵として描いたのである。ヌーヴェル・ヴァーグの一シークエンスのように鮮烈である。]

 

 

燈影(ほかげ)なき室(しつ)に我(われ)あり

父(ちち)と母(はは)

壁(かべ)のなかより杖(つゑ)つきて出(い)づ

 

 燈影なき室に我あり

 父と母

 壁のなかより杖つきて出づ

[やぶちゃん注:父と母は健在である(母は啄木の死の直前に亡くなった)。啄木の父石川一禎(いってい 嘉永三(一八五〇)年~昭和二(一九二七)年)は曹洞宗の僧であったが、宗費滞納(百十三円余り)のため、曹洞宗宗務院から住職罷免処分を受け、明治三八(一九〇五)三月二日、渋民村(現在の盛岡市渋民)の万年山宝徳寺を一家で退去しなくてはならなくなった。啄木らは村内の別な場所に転居し、後、啄木は渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務する一方、父の復職運動を行ったが、父自身が精神的な弱さから家出し、明治四十年三月にそれも無に帰し、啄木は函館移住を決意することになる。啄木十九から二十一歳の、人生の一大転機となった出来事であった。母カツは弘化四(一八四七)年生まれで、明治四五(一九一二)年三月七日没(結核)で、啄木の死(同年四月十三日。満二十六歳)の一か月前であった。カツと妻節子とはしばしばぶつかったようである。石川啄木についての恐るべき強力な近藤典彦氏のブログ『近藤典彦「石川啄木伝」』の本歌の評釈によれば、本歌は先に記した明治四一(一九〇八)年六月二十五日の夜に作られた一群に含まれるもので、全集の日記の当日の記載によれば、『頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だこの日の夜の二時までに百四十一首作つた。父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら』と記されてあり、近藤氏は『その最初の歌が』この一首であるとされ、

   《引用開始》

上記「四十首」中に

津軽の海その南北と都とに別れて泣ける父と母と子

という歌がありますが、当時父一禎は青森県野辺地の寺で食べらせてもらっています。母は北海道函館で嫁節子・孫京子とともに宮崎郁雨の世話になっています。自分は東京で小説を書けなくて絶望的になっています。

そんな日々の東京本郷の下宿の一部屋に、明かりを消してひとり居ると幻想が浮かびます。津軽海峡をはさんで向き合う野辺地と函館に暮らす父と母が、ますます老いて杖をつき、長男の自分を頼って歩いてくるのです、壁の中から。

   《引用終了》

と近藤氏は解説しておられる。なお、ここに限らず、リンク先では「一握の砂」の全歌が緻密に解説・評釈されてあり、検証は他の追従を許さぬ凄いものである。必見必読である! ただ、私はあくまで表現で私が気になったこと、語句として私が確かに躓いたことを、ある意味、極めて愚鈍な私のレベルで注しているだけである。ただ、勘所として、どうしても必要と思われる場合は、積極的に近藤氏の見解を掲げたく思っている。]

 

 

たはむれに母(はは)を背負(せお)ひて

そのあまり輕(かろ)きに泣(な)きて

三步(さんぽ)あゆまず

 

 たはむれに母を背負ひて

 そのあまり輕きに泣きて

 三步あゆまず

[やぶちゃん注:既出の學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、初出は明治四一(一九〇八)年七月号『明星』。その解説によれば、当時の啄木は上京したものの、『創作生活に失敗し』『函館の老母や妻子を呼び寄せることができず』、『煩悶の日々を送』る中で詠んだ全くの『仮構にすぎぬが』、『作者の』複雑した『悲しみが一首の基底となっている』とある。私は「たはむれ」ではなく、確かに母を背負った(「母を背負う」)。そうしてそれを確かに覚悟した(「母を確かに背負って行こう」)。しかしその四ヶ月半後に母は亡くなったのだった(「聖子テレジアは天国に召されました 直史ルカ記」)。

 

 

飄然(へうぜん)と家(いへ)を出(い)でては

飄然(へうぜん)と歸(かへ)りし癖(くせ)よ

友(とも)はわらへど

 

 飄然と家を出でては

 飄然と歸りし癖よ

 友はわらへど

 

 

ふるさとの父(ちち)の咳(せき)する度(たび)に斯(か)く

咳(せき)の出(い)づるや

病(や)めばはかなし

 

 ふるさとの父の咳する度に斯く

 咳の出づるや

 病めばはかなし

 

 

わが泣(な)くを少女等(をとめら)きかば

病犬(やまいぬ)の

月(つき)に吠(ほ)ゆるに似(に)たりといふらむ

 

 わが泣くを少女等きかば

 病犬の

 月に吠ゆるに似たりといふらむ

[やぶちゃん注:容易に連想されるであろう萩原朔太郎の第一詩集「月に吠える」の刊行は大正六(一九一七)年で本作品集の七年後のことである。同詩集の標題の由来詩篇である『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 悲しい月夜』(私の電子化注。後も同じ)を見ると、朔太郎の意識の中には確実にこの啄木の一首が影響を与えていると私は感ずる。岩城氏も前掲書の本歌の評釈で、同詩集の「序」で朔太郎が『月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は靑白い幽靈のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。』の部分を示され、『月に吠ゆる犬が「病犬」であることを示しているので、この啄木の歌の影響下にこの書名がつけられたと考えられる』と述べておられる。]

 

 

何處(いづく)やらむかすかに蟲(むし)のなくごとき

こころ細(ぼそ)さを

今日(けふ)もおぼゆる

 

 何處やらむかすかに蟲のなくごとき

 こころ細さを

 今日もおぼゆる

 

 

いと暗(くら)き

穴(あな)に心(こゝろ)を(す)吸はれゆくごとく思(おも)ひて

つかれて眠(ねむ)る

 

 いと暗き

 穴に心を吸はれゆくごとく思ひて

 つかれて眠る

[やぶちゃん注:「こゝろ」はママ。底本ではこの繰り返し記号は特異点である。]

 

 

こころよく

我(われ)にはたらく仕事(しごと)あれ

それを仕遂(しと)げて死(し)なむと思(おも)ふ

 

 こころよく

 我にはたらく仕事あれ

 それを仕遂げて死なむと思ふ

 

 

こみ合(あ)へる電車(でんしや)の隅(すみ)に

ちぢこまる

ゆふべゆふべの我(われ)のいとしさ

 

 こみ合へる電車の隅に

 ちぢこまる

 ゆふべゆふべの我のいとしさ

 

淺草(あさくさ)の夜(よ)のにぎはひに

まぎれ入(い)り

まぎれ出(い)で來(き)しさびしき心(こころ)

 

 淺草の夜のにぎはひに

 まぎれ入り

 まぎれ出で來しさびしき心

 

 

愛犬(あいけん)の耳(みみ)斬(き)りてみぬ

あはれこれも

物(もの)に倦(う)みたる心(こころ)にかあらむ

 

 愛犬の耳斬りてみぬ

 あはれこれも

 物に倦みたる心にかあらむ

[やぶちゃん注:後の梶井基次郎の「愛撫」(昭和五(一九三〇)年五月稿)の猫の耳を強く想起させる。]

 

 

鏡(かがみ)とり

能(あた)ふかぎりのさまざまの顏(かほ)をしてみぬ

泣(な)き飽(あ)きし時(とき)

 

 鏡とり

 能ふかぎりのさまざまの顏をしてみぬ

 泣き飽きし時

 

 

なみだなみだ

不思議(ふしぎ)なるかな

それをもて洗(あら)へば心(こころ)戲(おど)けたくなれり

 

 なみだなみだ

 不思議なるかな

 それをもて洗へば心戲けたくなれり

 

 

呆(あき)れたる母(はは)の言葉(ことば)に

氣(き)がつけば

茶碗(ちやわん)を箸(はし)もて敲(たた)きてありき

 

 呆れたる母の言葉に

 氣がつけば

 茶碗を箸もて敲きてありき

 

 

草(くさ)に臥(ね)て

おもふことなし

わが額(ぬか)に糞(ふん)して鳥(とり)は空(そら)に遊(あそ)べり

 

 草に臥て

 おもふことなし

 わが額に糞して鳥は空に遊べり

 

 

わが髭(ひげ)の

下向(したむ)く癖(くせ)がいきどほろし

このごろ憎(にく)き男(をとこ)に似(に)たれば

 

 わが髭の

 下向く癖がいきどほろし

 このごろ憎き男に似たれば

 

 

森(もり)の奧(おく)より銃聲(じうせい)聞(きこ)ゆ

あはれあはれ

自(みづか)ら死(し)ぬる音(おと)のよろしさ

 

 森の奧より銃聲聞ゆ

 あはれあはれ

 自ら死ぬる音のよろしさ

[やぶちゃん注:ルビ「じうせい」はママ。「銃」は歴史的仮名遣は「じゆう」でよい。]

 

 

大木(たいぼく)の幹(みき)に耳(みみ)あて

小半日(こはんにち)

堅(かた)き皮(かは)をばむしりてありき

 

 大木の幹に耳あて

 小半日

 堅き皮をばむしりてありき

[やぶちゃん注:「小半日」半日近く。岩城氏前掲書によれば、初出(『スバル』明治四二(一九〇九)年五月号)は「小半晌(とき)」である。推敲よし。]

 

 

「さばかりの事(こと)に死(し)ぬるや」

「さばかりの事(こと)に生(い)くるや」

止(よ)せ止(よ)せ問答(もんだふ)

 

 「さばかりの事に死ぬるや」

 「さばかりの事に生くるや」

 止せ止せ問答

 

 

まれにある

この平(たひら)なる心(こころ)には

時計(とけい)の鳴るもおもしろく聽(き)く

 

 まれにある

 この平なる心には

 時計の鳴るもおもしろく聽く

 

 

ふと深(ふか)き怖(おそ)れを覺(おぼ)え

ぢつとして

やがて靜(しづ)かに臍(ほそ)をまさぐる

 

 ふと深き怖れを覺え

 ぢつとして

 やがて靜かに臍をまさぐる

[やぶちゃん注:「臍(ほそ)」古くは「ほぞ」ではなく清音であったので問題ない。筑摩版全集もルビは『ほそ』である。ネットを見ると勝手に「ほぞ」にしているテクストが有意に見られる。誤りである。

 

 

高山(たかやま)のいただきに登(のぼ)り

なにがなしに帽子(ばうし)をふりて

下(くだ)り來(き)しかな

 

 高山のいただきに登り

 なにがなしに帽子をふりて

 下り來しかな

 

 

何處(どこ)やらに澤山(たくさん)の人(ひと)があらそひて

鬮引(くじひ)くごとし

われも引(ひ)きたし

 

 何處やらに澤山の人があらそひて

 鬮引くごとし

 われも引きたし

 

怒(いか)る時(とき)

かならずひとつ鉢(はち)を割(わ)り

九百九十九(くひやくくじふ)割(わ)りて死(し)なまし

 

 怒る時

 かならずひとつ鉢を割り

 九百九十九割りて死なまし

 

 

いつも逢(あ)ふ電車(でんしや)の中(なか)の小男(こをとこ)の

稜(かど)ある眼(まなこ)

このごろ氣(き)になる

 

 いつも逢ふ電車の中の小男の

 稜ある眼

 このごろ氣になる

 

 

鏡屋(かがみや)の前(まへ)に來(き)て

ふと驚(おどろ)きぬ

見(み)すぼらしげに步(あゆ)むものかも

 

 鏡屋の前に來て

 ふと驚きぬ

 見すぼらしげに步むものかも

 

 

何(なに)となく汽車(きしや)に乘(の)りたく思(おも)ひしのみ

汽車(きしや)を下(お)りしに

ゆくところなし

 

 何となく汽車に乘りたく思ひしのみ

 汽車を下りしに

 ゆくところなし

 

 

空家(あきや)に入(い)り

煙草(たばこ)のみたることありき

あはれただ一人(ひとり)居(ゐ)たきばかりに

 

 空家に入り

 煙草のみたることありき

 あはれただ一人居たきばかりに

 

 

何(なに)がなしに

さびしくなれば出(で)てあるく男(をこと)となりて

三月(みつき)にもなれり

 

 何がなしに

 さびしくなれば出てあるく男となりて

 三月にもなれり

 

 

やはらかに積(つも)れる雪(ゆき)に

熱(ほ)てる頰(ほ)を埋(うづ)むるごとき

戀(こひ)してみたし

 

 やはらかに積れる雪に

熱てる頰を埋むるごとき

戀してみたし

 

かなしきは

飽(あ)くなき利己(りこ)の一念(いちねん)を

持(も)てあましたる男(をとこ)にありけり

 

 かなしきは

 飽くなき利己の一念を

 持てあましたる男にありけり

 

 

手(て)も足(あし)も

室(へや)いつぱいに投(な)げ出(だ)して

やがて靜(しづ)かに起(お)きかへるかな

 

 手も足も

 室いつぱいに投げ出して

 やがて靜かに起きかへるかな

 

 

百年(ももとせ)の長(なが)き眠(ねむ)りの覺(さ)めしごと

呿呻(あくび)してまし

思(おも)ふことなしに

 

 百年の長き眠りの覺めしごと

 呿呻してまし

 思ふことなしに

[やぶちゃん注:「呿呻(あくび)」「呿」(音「キャ・キョ・コ」など)は「口を開く」「欠伸(あくび)をする」で、「呻」(音「シン」)は「うめく・うなる」の意で、この二字で「あくび」と読むのは必ずしも特異な用法ではない。]

 

 

腕(うで)拱(く)みて

このごろ思(もも)ふ

大(おほ)いなる敵(てき)目(め)の前(まえ)に躍(をど)り出(い)でよと

 

 腕拱みて

 このごろ思ふ

 大いなる敵目の前に躍り出でよと

[やぶちゃん注:「拱」の字は一般には「拱(こまね)く」と訓じて、フラットな意味で「両手を胸元で組み合わせる」で本来は中国の礼式の動作であった。但し、後に専ら「手出しせずに、或いは手出し出来ずに、ただ何もせずに傍観している」の意で「手を拱いているばかり」のように用いることが殆んどになった。しかし、ここは本来のフラットな意味であり、毅然とした超然たるポーズであることは言うまでもない。]

 

 

手(て)が白(しろ)く

且(か)つ大(だい)なりき

非凡(ひぼん)なる人(ひと)といはるる男(をとこ)に會(あ)ひしに

 

 手が白く

 且つ大なりき

 非凡なる人といはるる男に會ひしに

[やぶちゃん注:前景書で岩城氏はモデルとして一般には、東京市長であった尾崎咢堂や高村光太郎などが挙げられているが、『この歌が啄木が朝日新聞社に就職した直後の明治四十二年』(一九〇九年)『四月二十一日ないし二十三日の作であるので、これは啄木を校正係に採用した「朝日」の名編集長佐藤北江(真一)』(ほっこう:明治元(一八六九)年~大正三(一九一四)年)『であろう。彼が佐藤にはじめて会ったのは同年二月二日である』とある。]

 

こころよく

人(ひと)を讃(ほめ)めてみたくなりにけり

利己(りこ)の心(こころ)に倦(う)めるさびしさ

 

 こころよく

 人を讃めてみたくなりにけり

 利己の心に倦めるさびしさ

 

 

雨(あめ)降(ふ)れば

わが家(いへ)の人(ひと)誰(たれ)も誰(たれ)も沈(しづ)める顏(かほ)す

雨(あめ)霽(は)れよかし

 

 雨降れば

 わが家の人誰も誰も沈める顏す

 雨霽れよかし

 

 

高(たか)きより飛(と)びおりるごとき心(こころ)もて

この一生(いつしやう)を

終(をは)るすべなきか

 

 高きより飛びおりるごとき心もて

 この一生を

 終るすべなきか

 

 

この日頃(ひごろ)

ひそかに胸(むね)にやどりたる悔(くい)あり

われを笑(わら)はしめざり

 

 この日頃

 ひそかに胸にやどりたる悔あり

 われを笑はしめざり

 

 

へつらひを聞(き)けば

腹立(はらた)つわがこころ

あまりに我(われ)を知(し)るがかなしき

 

 へつらひを聞けば

 腹立つわがこころ

 あまりに我を知るがかなしき

 

 

知(し)らぬ家(いへ)たたき起(おこ)して

遁(に)げ來(く)るがおもしろかりし

昔(むかし)の戀(こひ)しさ

 

 知らぬ家たたき起して

 遁げ來るがおもしろかりし

 昔の戀しさ

 

 

非凡なる人のごとくにふるまへる

後のさびしさは

何にかたぐへむ

 

 非凡(ひぼん)なる人(ひと)のごとくにふるまへる

 後(のち)のさびしさは

 何(なに)にかたぐへむ

 

 

大(おほ)いなる彼(かれ)の身體(からだ)が

憎(にく)かりき

その前(まへ)にゆきて物(もの)を言(い)ふ時(とき)

 

 大いなる彼の身體が

 憎かりき

 その前にゆきて物を言ふ時

[やぶちゃん注:啄木は身長一メートル五十八センチ、体重四十五キロで小兵であった。岩城氏の前掲書の評釈には吉田孤羊の「啄木短歌の背景」(昭和四〇(一九六五)年洋々社刊)で吉田氏が『このモデルは東京朝日新聞主筆の池辺三山(吉太郎)であると述べている。三山は西郷隆盛を思わす巨体であった』とある。]

 

 

實務(じつむ)には役(やく)に立(た)たざるうた人(びと)と

我(われ)を見(み)る人(ひと)に

金(かね)借(か)りにけり

 

 實務には役に立たざるうた人と

 我を見る人に

 金借りにけり

 

 

遠(とほ)くより笛(ふゑ)の音(ね)きこゆ

うなだれてある故(ゆゑ)やらむ

なみだ流(なが)るる

 

 遠くより笛の音きこゆ

 うなだれてある故やらむ

 なみだ流るる

 

 

それもよしこれもよしとてある人(ひと)の

その氣(き)がるさを

欲(ほ)しくなりたり

 

 それもよしこれもよしとてある人の

 その氣がるさを

 欲しくなりたり

 

 

死(し)ぬことを

持藥(ぢやく)をのむがごとくにも我(われ)はおもへり

心(こころ)いためば

 

 死ぬことを

 持藥をのむがごとくにも我はおもへり

 心いためば

[やぶちゃん注:「持藥」用心のために何時も持っている常備薬。]

 

 

路傍(みちばた)に犬(いぬ)ながながと呿呻(あくび)しぬ

われも眞似(まね)しぬ

うらやましさに

 

 路傍に犬ながながと呿呻しぬ

 われも眞似しぬ

 うらやましさに

 

 

眞劍(しんけん)になりて竹(たて)もて犬(いぬ)を擊(う)つ

小兒(せうに)の顏(かほ)を

よしと思(おも)へり

 

 眞劍になりて竹もて犬を擊つ

 小兒の顏を

 よしと思へり

 

ダイナモの

重(おも)き唸(うな)りのここちよさよ

あはれこのごとく物(もの)を言(い)はまし

 

 ダイナモの

 重き唸りのここちよさよ

 あはれこのごとく物を言はまし

[やぶちゃん注:「ダイナモ」dynamo。発電機。]

 

 

剽輕(へうきん)の性(さが)なりし友(とも)の死顏(しにがほ)の

靑(あを)き疲(つか)れが

いまも目(め)にあり

 

 剽輕の性なりし友の死顏の

 靑き疲れが

 いまも目にあり

[やぶちゃん注:『近藤典彦「石川啄木伝」』のこちらによれば、初出は『東京朝日新聞』の明治四三(一九一〇)年五月二十六日で初出形は、

剽輕の性なりし友の死顏の靑き疲勞(つかれ)が長く目にあり

であるとされ、『この「友」については管見の限り』、『誰もふれていませんが、考えられる人は』一『人しかいません』。「渋民日記」の明治三九(一九〇六)年『「八月中」の終わりにある次の記述中の「沼田千太郎」で』あるとされる。『予は十一歳(?)の頃死んだ母方の伯父の棺に入つた死を見た外には死人を見た事がない。その時は小児の時の事だから、種々の空想を刺戟された外には別に深くも考へなかつた。今度、三十二で死んだ友人沼田千太郎の死後一時間許りのところを見て、数日の間忘るることが出来なかつた』。『生前かるがるしく滑稽に振る舞っていた友の死顔には、今や隠しようもなく生きていた時の疲れが浮き出ていた』とされ、『啄木もまた日常の振る舞いの陰に潜めている、自分自身の生きる辛さや悲しさを思ってい』るのだと記され、『啄木は『一握の砂』の歌の半分を創出し』、明治四三(一九一〇)年十月四日から十六日に『おいて、全日記を読み返し活用したのであり、『これは『一握の砂』創造の』一『源泉として確実で重要な事実で』あったが、『最近もう一つの時期にも日記が歌の源泉になったと推定して』おり、『それは短歌に啄木調を確立した』同年四月・五月のことで、この『歌もその一例と言え』ると述べておられる。沼田千太郎氏については詳しい事蹟は判らないので、ここまでとしておく。

「剽輕」現代仮名遣「ひょうきん」「剽」も「軽い」の意で、「軽」の「キン」は唐音。気軽でおどけた感じのすること。]

 

 

氣(き)の變(かは)る人(ひと)に仕(つか)へて

つくづくと

わが世(よ)がいやになりにけるかな

 

 氣の變る人に仕へて

 つくづくと

 わが世がいやになりにけるかな

 

 

龍(りよう)のごとくむなしき空(そら)に躍(をど)り出(い)でて

消(き)えゆく煙(けむり)

見(み)れば飽(あ)かなく

 

 龍のごとくむなしき空に躍り出でて

 消えゆく煙

 見れば飽かなく

 

 

こころよき疲(つか)れなるかな

息(いき)もつかず

仕事(しごと)をしたる後(のち)のこの疲(つか)れ

 

 こころよき疲れなるかな

 息もつかず

 仕事をしたる後のこの疲れ

 

 

空寢入(そらねいり)生呿呻(なまあくび)など

なぜするや

思(おも)ふこと人(ひと)にさとらせぬため

 

 空寢入生呿呻など

 なぜするや

 思ふこと人にさとらせぬため

[やぶちゃん注:「空寢入(そらねいり)」狸寝入り。「生呿呻(なまあくび)」は普通は眠気がないのに出る欠伸(あくび)を指すが、ここは歌意から意識的に欠伸をわざとすることを指している。]

 

 

箸(はし)止(と)めてふつと思(おも)ひぬ

やうやくに

世(よ)のならはしに慣(な)れにけるかな

 

 箸止めてふつと思ひぬ

 やうやくに

 世のならはしに慣れにけるかな

 

 

朝(あさ)はやく

婚期(こんき)を過(す)ぎし妹(いもうと)の

戀文(こいぶみ)めける文(ふみ)を讀(よ)めりけり

 

 朝はやく

 婚期を過ぎし妹の

 戀文めける文を讀めりけり

[やぶちゃん注:「妹」ミツ(明治二一(一八八八)年~昭和四三(一九六八)年:通称は光子)。啄木より二つ年下。明治四〇(一九〇七)年に小樽のメソジスト教会で洗礼を受け、後、日本聖公会の婦人伝道師養成学校である兵庫県芦屋市の聖使女学院(啄木の年譜では明治四三(一九一〇)年時に既に在学している)を卒業し、北海道札幌市・福岡県久留米市・東京都江東区深川や奈良県など、各地で伝道師として活動した。啄木の死後十年後の大正一一(一九二二)年に、聖公会の司祭三浦清一と結婚した。ウィキの「三浦ミツ」を参照されたい。]

 

 

しつとりと

水(みづ)を吸(す)ひたる海綿(かいめん)の

重(おも)さに似(に)たる心地(ここち)おぼゆる

 

 しつとりと

 水を吸ひたる海綿の

 重さに似たる心地おぼゆる

 

 

死(し)ね死(し)ねと己(おのれ)を怒(いか)り

もだしたる

心(こころ)の底(そこ)の暗(くら)きむなしさ

 

 死ね死ねと己を怒り

 もだしたる

 心の底の暗きむなしさ

 

 

けものめく顏(かほ)あり口(くち)をあけたてす

とのみ見(み)てゐぬ

人(ひと)の語(かた)るを

 

 けものめく顏あり口をあけたてす

 とのみ見てゐぬ

 人の語るを

 

 

親(おや)と子(こ)と

はなればなれの心(こころ)もて靜(しづ)かに對(むか)ふ

氣(き)まづきや何(な)ぞ

 

 親と子と

 はなればなれの心もて靜かに對ふ

 氣まづきや何ぞ

[やぶちゃん注:近藤典彦氏のブログ『近藤典彦「石川啄木伝」』の本歌の評釈によれば、この一首の初出は明治四三(一九一〇)年四月七日の『東京朝日新聞』で、

 親と子とはなればなれの心もて食卓に就く気拙かりけり

が初出形であるとある。漠然と私は「親」は父一禎(いってい)であろうと考えていたが、それを厳密に立証されておられる。]

 

 

かの船(ふね)の

かの航海(かうかい)の船客(せんかく)の一人(ひとり)にてありき

死(し)にかねたるは

 かの船の

 かの航海の船客の一人にてありき

 死にかねたるは

 

 

目(め)の前(まへ)の菓子皿(くわしざら)などを

かりかりと嚙(か)みてみたくなりぬ

もどかしきかな

 

 目の前の菓子皿などを

 かりかりと嚙みてみたくなりぬ

 もどかしきかな

 

 

よく笑(わら)ふ若(わか)き男(をとこ)の

死(し)にたらば

すこしはこの世(よ)のさびしくもなれ

 

 よく笑ふ若き男の

 死にたらば

 すこしはこの世のさびしくもなれ

 

 

何がなしに

息きれるまで驅け出してみたくなりたり

草原などを

 

 何がなしに

 息きれるまで驅け出してみたくなりたり

 草原などを

[やぶちゃん注:一読、後の鬼才宮澤賢治を想起させる。]

 

 

あたらしき背廣(せびろ)など着(き)て

旅(たび)をせむ

しかく今年(ことし)も思(おも)ひ過(す)ぎたる

 

 あたらしき背廣など着て

 旅をせむ

 しかく今年も思ひ過ぎたる

[やぶちゃん注:「しかく」「斯(しか)く」。そのように。]

 

 

ことさらに燈火(ともしび)を消(け)して

まぢまぢと思(おも)ひてゐしは

わけもなきこと

 

 ことさらに燈火を消して

 まぢまぢと思ひてゐしは

 わけもなきこと

 

淺草(あさくさ)の凌雲閣(りようんかく)のいただきに

腕組(うでく)みし日(ひ)の

長(なが)き日記(にき)かな

 

 淺草の凌雲閣のいただきに

 腕組みし日の

 長き日記かな

[やぶちゃん注:「凌雲閣」現在の東京都台東区浅草公園にあった煉瓦造十二階建ての高層展望塔。本書刊行の二十年前の明治二三(一八九〇)年に建設され、東京名所となったが、後の大正一二(一九二三)年の関東大震災で半壊し、撤去された。通称「十二階」。]

 

 

尋常(じんじやう)のおどけならむや

ナイフ持(も)ち死(し)ぬまねをする

その顏(かほ)その顏(かほ)

 

 尋常のおどけならむや

 ナイフ持ち死ぬまねをする

 その顏その顏

[やぶちゃん注:次の歌も合わせて実景ではなく、啄木自身の自棄的幻想と読む。但し、岩城氏の評釈は金田一京助との類似エピソードを記す。]

 

 

こそこその話(はなし)がやがて高(たか)くなり

ピストル鳴(な)りて

人生(じんせい)終(をは)る

 

 こそこその話がやがて高くなり

 ピストル鳴りて

 人生終る

 

 

時(とき)ありて

子供(こども)のやうにたはむれす

戀(こひ)ある人(ひと)のなさぬ業(わざ)かな

 

 時ありて

 子供のやうにたはむれす

 戀ある人のなさぬ業かな

 

 

 

とかくして家(いへ)を出(い)づれば

日光(につくわう)のあたたかさあり

息(いき)ふかく吸(す)ふ

 

 とかくして家を出づれば

 日光のあたたかさあり

 息ふかく吸ふ

 

 

つかれたる牛(うし)のよだれは

たらたらと

千萬年(せんまんねん)も盡(つ)きざるごとし

 

 つかれたる牛のよだれは

 たらたらと

 千萬年も盡きざるごとし

 

 

路傍(みちばたの切石(きりいし)の上(うへ)に

腕拱(うでく)みて

空(そら)を見上(みあぐ)ぐる男(をとこ)ありたり

 

 路傍の切石の上に

 腕拱みて

 空を見上ぐる男ありたり

 

 

何(なに)やらむ

穩(おだや)かならぬ目付(めつき)して

鶴嘴(つりはし)を打(う)つ群(む)を見(み)てゐる

 

 何やらむ

穩かならぬ目付して

鶴嘴を打つ群を見てゐる

 

 

心(こころ)より今日(けふ)は逃(に)げ去(さ)れり

病(やまひ)ある獸(けもの)のごとき

不平(ふへい)逃(に)げ去れり

 

 心より今日は逃げ去れり

 病ある獸のごとき

 不平逃げ去れりげ

 

 

おほどかの心(こころ)來(きた)れり

あるくにも

腹(はら)に力(ちから)のたまるがごとし

 

 おほどかの心來れり

 あるくにも

 腹に力のたまるがごとし

 

 

ただひとり泣(な)かまほしさに

來(き)て寢(ね)たる

宿屋(やどや)の夜具(やぐ)のこころよさかな

 

 ただひとり泣かまほしさに

 來て寢たる

 宿屋の夜具のこころよさかな

 

 

友(とも)よさは

乞食(こじき)の卑(いや)しさ厭(いと)ふなかれ

餓(う)ゑたる時(とき)は我(われ)も爾(しか)りき

 

 友よさは

 乞食の卑しさ厭ふなかれ

 餓ゑたる時は我も爾りき

[やぶちゃん注:「よ」は呼びかけの感動詞で、「さは」「然(さ)は」で、副詞の「そうんな風には」の謂いと採る。]

 

 

新(あたら)しきインクのにほひ

栓(せん)拔(ぬ)けば

餓(う)ゑたる腹(はら)に沁(し)むがかなしも

 

 新しきインクのにほひ

 栓拔けば

 餓ゑたる腹に沁むがかなしも

 

 

かなしきは

喉(のど)のかわきをこらへつつ

夜寒(よざむ)の夜具(やぐ)にちぢこまる時(とき)

 

 かなしきは

 喉のかわきをこらへつつ

 夜寒の夜具にちぢこまる時

 

 

一度(いちど)でも我(われ)に頭(あたま)を下(さ)げさせし

人(ひと)みな死(し)ねと

いのりてしこと

 

 一度でも我に頭を下げさせし

 人みな死ねと

 いのりてしこと

[やぶちゃん注:「てし」は文法的には厳しい。強意の副助詞で「まさに祈ってのことさ!」の意が一番腑には落ちる。過去の助動詞では「て」が致命的におかしい。]

 

 

我(われ)に似(に)し友(とも)の二人(ふたり)よ

一人(ひとり)は死(し)に

一人(ひおり)は牢(らう)を出(い)でて今(いま)病(や)む

 

 我に似し友の二人よ

 一人は死に

 一人は牢を出でて今病む

[やぶちゃん注:近藤典彦氏の『近藤典彦「石川啄木伝」』では、この二人を盛岡中学時代の友人であった、小野弘吉と宮永佐吉に同定されておられる。]

 

あまりある才を抱きて

妻のため

おもひわづらふ友をかなしむ

 

 あまりある才を抱きて

 妻のため

 おもひわづらふ友をかなしむ

[やぶちゃん注:近藤典彦氏の『近藤典彦「石川啄木伝」』では、この人物を啄木が敬愛していた友人の国語教師大島経男であるとする。]

 

 

打明(うちあけ)けて語(かた)りて

何(なに)か損(そん)をせしごとく思(おも)ひて

友(とも)とわかれぬ

 

 打明けて語りて

 何か損をせしごとく思ひて

 友とわかれぬ

[やぶちゃん注:この「何か損をせしごとく思ひて」は意識の流れのブレイクを表わした上手い改行と思う。]

 

 

どんよりと

くもれる空(そら)を見(み)てゐしに

人(ひと)を殺(ころ)したくなりにけるかな

 

 どんよりと

 くもれる空を見てゐしに

 人を殺したくなりにけるかな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、明治四三(一九一〇)年十二月号初出である。私が十二の夏、痛烈に惹かれた一首である。]

 

人並(ひとなみ)の才(さい)に過(す)ぎざる

わが友(とも)の

深(ふか)き不平(ふへい)もあはれなるかな

 

 人並の才に過ぎざる

 わが友の

 深き不平もあはれなるかな

 

 

誰(たれ)が見(み)てもとりどころなき男(をこと)來(き)て

威張(ゐば)りて歸(かへ)りぬ

かなしくもあるか

 

 誰が見てもとりどころなき男來て

 威張りて歸りぬ

 かなしくもあるか

 

 

はたらけど

はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)樂(らく)にならざり

ぢつと手(て)を見(み)る

 

 はたらけど

 はたらけど猶わが生活樂にならざり

 ぢつと手を見る

[やぶちゃん注:恐らく、啄木の一首で最も人口に膾炙した一首であろうが、これは事実に於いては啄木の実際の境涯を表象するものとは、今は私は全く思わない。しかし、詠んだが勝ちであることは言うまでもない。]

 

 

何(なに)もかも行末(ゆくすゑ)の事(こと)みゆるごとき

このかなしみは

拭(ぬぐ)ひあへずも

 

 何もかも行末の事みゆるごとき

このかなしみは

拭ひあへずも

 

 

とある日(ひ)に

酒(さけ)をのみたくてならぬごとく

今日(けふ)われ切(せつ)に金(かね)を欲(ほ)りせり

 

 とある日に

 酒をのみたくてならぬごとく

 今日われ切に金を欲りせり

 

 

水晶(すいしやう)の玉(たま)をよろこびもてあそぶ

わがこの心(こころ)

何(なに)の心(こころ)ぞ

 

 水晶の玉をよろこびもてあそぶ

 わがこの心

 何の心ぞ

 

 

事(こと)もなく

且(か)つこころよく肥(こ)えてゆく

わがこのごろの物足(ものた)らぬかな

 

 事もなく

 且つこころよく肥えてゆく

 わがこのごろの物足らぬかな

 

 

大(おほ)いなる水晶(すゐしやう)の玉(たま)を

ひとつ欲(ほ)し

それにむかひて物(もの)を思(おも)はむ

 

 大いなる水晶の玉を

 ひとつ欲し

 それにむかひて物を思はむ

 

 

うぬ惚(ぼ)るる友(とも)に

合槌(あひづち)うちてゐぬ

施與(ほどこし)をするごとき心(こころ)に

 

 うぬ惚るる友に

 合槌うちてゐぬ

 施與をするごとき心に

 

 

ある朝(あさ)のかなしき夢(ゆめ)のさめぎはに

鼻(はな)に入(い)り來(き)し

味噌(みそ)を煮(に)る香(か)よ

 

 ある朝のかなしき夢のさめぎはに

 鼻に入り來し

 味噌を煮る香よ

 

 

こつこつと空地(あきち)に石(いし)をきざむ音(おと)

耳(みみ)につき來(き)ぬ

家(いへ)に入(い)るまで

 

 こつこつと空地に石をきざむ音

 耳につき來ぬ

 家に入るまで

[やぶちゃん注:私はこの一首を読むと、フランツ・カフカの「審判」のエンディングを想起するのを常としている。

 

 

何(なに)がなしに

頭(あたま)のなかに崖(がけ)ありて

日每(ひごと)に土(つち)のくづるるごとし

 

 何がなしに

 頭のなかに崖ありて

 日每に土のくづるるごとし

 

 

遠方(ゑんぱう)に電話(でんわ)の鈴(りん)の鳴(な)るごとく

今日(けふ)も耳鳴(みみな)る

かなしき日(ひ)かな

 

 遠方に電話の鈴の鳴るごとく

 今日も耳鳴る

 かなしき日かな

[やぶちゃん注:これはまさに今の私の左耳の確かな実際の激烈な絶え間なき地獄である。]

 

 

垢(あか)じみし袷(あはせ)の襟(えり)よ

かなしくも

ふるさとの胡桃(くるみ)燒(や)くるにほひす

 

 垢じみし袷の襟よ

 かなしくも

 ふるさとの胡桃燒くるにほひす

 

 

死(し)にたくてならぬ時(とき)あり

はばかりに人目(ひとめ)を避(さ)けて

怖(こは)き顏(かほ)する

 

 死にたくてならぬ時あり

 はばかりに人目を避けて

 怖き顏する

[やぶちゃん注:「はばかり」便所。恐らく、こうした馬鹿馬鹿しい注が、向後、必要になるであろう。]

 

 

一隊(いつたい)の兵(へい)を見送(みおく)りて

かなしかり

何(なん)ぞ彼等(かれら)のうれひ無(な)げなる

 

 一隊の兵を見送りて

 かなしかり

 何ぞ彼等のうれひ無げなる

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによれば、作歌は明治四三(一九一〇)年八月三日夜から翌四日の夜で、初出は『東京朝日新聞』の同年八月十四日とある。この月の二十九日、日本は大韓帝国を併合して統治下に置く「韓国併合」を行い、朝鮮半島を領有化している。]

 

 

邦人(くにびと)の顏(かほ)たへがたく卑(いや)しげに

目(め)にうつる日(ひ)なり

家(いへ)にこもらむ

 

 邦人の顏たへがたく卑しげに

 目にうつる日なり

 家にこもらむ

[やぶちゃん注:「邦人(くにびと)」という表現から前歌の詩想や背景との密接な関連が推定される。近藤典彦「石川啄木伝」のこちら(以下、数回に亙る)を見ると、やはりそうした解釈をなさっておられる。是非、読まれたい。なお、本歌の初出は『スバル』明四三(一九一〇)年十一月号で、創作は同年十月四日から十六日と示されある。]

 

 

この次(つぎ)の休日(やすみ)に一日(いちにち)寢(ね)てみむと

思(おも)ひすごしぬ

三年(みとせ)このかた

 

 この次の休日に一日寢てみむと

 思ひすごしぬ

 三年このかた

 

 

或(あ)る時(とき)のわれのこころを

燒(や)きたての

麺麭(ぱん)に似(に)たりと思(おも)ひけるかな

 

 或る時のわれのこころを

 燒きたての

 麺麭に似たりと思ひけるかな

 

 

たんたらたらたんたらたらと

雨滴(あまだれ)が

痛(いた)むあたまにひびくかなしさ

 

 たんたらたらたんたらたらと

 雨滴が

 痛むあたまにひびくかなしさ

 

 

ある日(ひ)のこと

室(へや)の障子(しやうじ)をはりかへぬ

その日(ひ)はそれにて心(こころ)なごみき

 

 ある日のこと

 室の障子をはりかへぬ

 その日はそれにて心なごみき

 

 

かうしては居(ゐ)られずと思(おも)ひ

立(た)ちにしが

戶外(おもて)に馬(うま)の嘶(いなな)きしまで

 

 かうしては居られずと思ひ

 立ちにしが

 戶外に馬の嘶きしまで

[やぶちゃん注:歌意は単純に、外を通った馬の嘶きを異様な何かの事態・天災と聴き誤って、思わず『こうしていられないぞ!』と感じて立ち上がったと、自身を諧謔しているように一見読めるが、この「嘶き」は日本全土に広がった大陸侵略への軍靴の音の凶兆の表象のように私には読める。]

 

 

氣(き)ぬけして廊下(らうか)に立(た)ちぬ

あららかに扉(とびら)を推(お)せしに

すぐ開(あ)きしかば

 

 氣ぬけして廊下に立ちぬ

 あららかに扉を推せしに

 すぐ開きしかば

[やぶちゃん注:前歌とは内的な感覚上の組み歌のように思われる(但し、シチュエーションが同一だというのではない)。ただ「廊下」という表現が、この歌のロケーションは自宅ではないように思われる。近藤典彦「石川啄木伝」では、こちらで、『「扉」がドア式である。喜之床』(きのとこ)の二『階つまり今借りている部屋の出入口はドア式ではあるまい。ドア式で若い男が「あららかに」推さないと開かないような出入口では』、『老母や』四『歳未満の京子』(明治三九(一九〇六)年十二月二十九日生まれの啄木の長女)『は生活できないだろうから。職場東京朝日新聞社の日常使う編集室のドアがそんなに固いはずはなかろう。偉い記者たちもたくさん出入りするのである。ガタピシドアであるとは思えない』。『この「扉」=ドアのある部屋は、節子が出産のために入っている東大病院の病室であろうと思われる』。『それだと』、『ドアの調子が今一つ分からなくても不自然ではない。おそらく入室するとき、ドアが固かったのではなかろうか。でなければ前回出るときに固かったか』。『<訳>気抜けして病院の廊下に立ってしまった。このドアは固いと思い込んで、体重をかけて荒っぽく推したところ、すっと開いてしまったので。』とある。なお、本歌は「一握の砂」初出で、作歌時期は明四三(一九一〇)年の十月四日から十六日とある。既に注した通り、長男真一は十月四日生まれである(同月二十七日死亡)。]

 

 

ぢつとして

黑(くろ)はた赤(あか)のインク吸(す)ひ

堅(かた)くかわける海綿(かいめん)を見(み)る

 

 ぢつとして

 黑はた赤のインク吸ひ

 堅くかわける海綿を見る

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらでは、驚くべき注意深さで、この一首の極めて具体的な状況を解析しておられる。是非読まれたい。

「はた」副詞。動作・状態が短時間に変わるさま。]

 

誰(たれ)が見(み)ても

われをなつかしくなるごとき

長(なが)き手紙(てがみ)を書(か)きたき夕(ゆふべ)

 

 誰が見ても

 われをなつかしくなるごとき

 長き手紙を書きたき夕

 

 

うすみどり

飮(の)めば身體(からだ)が水(みづ)のごと透(す)きとほるてふ

藥(くすり)はなきか

 

 うすみどり

 飮めば身體が水のごと透きとほるてふ

 藥はなきか

[やぶちゃん注:私は結核の不快症状を背景に考えていたが、啄木の顕在的な結核の罹患症状らしきものは明治四四(一九一一)年一月末頃に自覚されているようで、近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによると、本歌の初出は『スバル』の明四三(一九一〇)年十一月号で、作歌時期は同年十月四日から十六日とあり、時期が前で、合わない。私のそれは思い込みであることが判った。而して、近藤氏はそこで、上田博氏のこの歌の評釈から、これは『透明人間願望の歌であ』り、かのHG・ウェルズのSF小説「透明人間」(Invisible Man:一八九七年刊)に触発されたもという見解を示しておられる。但し、近藤氏は『まだ邦訳されてはいないまでも、透明な人間の物語がイギリスで読まれている、くらいのことを啄木は耳にしていたかも知れ』ないとされる。ウィキの「石川啄木」によれば、彼は、この二年前の明治四十二年四月十三日、『「老いたる母から悲しき手紙がきた」、「今日は社を休むことにした」、「貸本屋が来たけれど、六銭の金がなかった。そして。『空中戦争』という本を借りて読んだ」と日記に』記しており、『次にその書物からイメージを喚起した詩らしき記述がある。これについては桑原武夫による「予言的に見たというのは空襲の歌がありますね」との評価がある。『空中戦争』はHG・ウェルズの作品『宇宙戦争』を翻案したもので』一九〇九年三月に出版されている』とあって、啄木がウェルズのSF小説に関心を持っていたことが判る。立ち戻って、さらに近藤氏は、木股知史氏の評釈を引かれ、『透明になることは、<見られる自己>を消滅させるという願いを意味し』、『この歌では、他者のまなざしからの自由を希求している。『うすみどり』と『透きとほる』が呼応して、空想にふさわしい軽く明るいイメージを作っている』とあり、訳されて、『うすみどりで、それを飲むと身体が水のように透きとおるという薬はないものか。あればしばしの間透明人間を楽しめるのだが』とされており、すこぶる腑に落ちた。]

 

 

いつも睨(にら)むランプに飽(あ)きて

三日(みか)ばかり

蠟燭(らふそく)の火(ひ)にしたしめるかな

 

 いつも睨むランプに飽きて

 三日ばかり

 蠟燭の火にしたしめるかな

 

 

人間(にんげん)のつかはぬ言葉(ことば)

ひよつとして

われのみ知(し)れるごとく思(おも)ふ日(ひ)

 

 人間のつかはぬ言葉

 ひよつとして

 われのみ知れるごとく思ふ日

 

 

あたらしき心(こころ)もとめて

名(な)も知(し)れぬ

街(まち)など今日(けふ)もさまよひて來(き)ぬ

 

 あたらしき心もとめて

 名も知れぬ

 街など今日もさまよひて來ぬ

 

 

友(とも)がみなわれよりえらく見(み)ゆる日(ひ)よ

花(はな)を買(か)ひ來(き)て

妻(つま)としたしむ

 

 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ

 花を買ひ來て

 妻としたしむ

 

 

何(なに)すれば

此處(ここ)に我(われ)ありや

時(とき)にかく打驚(うちおどろ)きて室(へや)を眺(なが)むる

 

 何すれば

 此處に我ありや

 時にかく打驚きて室を眺むる

 

 

人(ひと)ありて電車(でんしや)のなかに唾(つば)を吐(は)く

それにも

心(こころ)いたまむとしき

 

 人ありて電車のなかに唾を吐く

 それにも

 心いたまむとしき

 

 

夜明(よあ)けまであそびてくらす場所(ばしよ)が欲(ほ)し

家(いへ)をおもへば

こころ冷(つめ)たし

 

 夜明けまであそびてくらす場所が欲し

 家をおもへば

 こころ冷たし

 

 

人(ひと)みなが家(いへ)を持(も)つてふかなしみよ

墓(はか)に入(い)るごとく

かへりて眠(ねむ)る

 

 人みなが家を持つてふかなしみよ

 墓に入るごとく

 かへりて眠る

 

 

何(なに)かひとつ不思議(ふしぎ)を示(しめ)し

人(ひと)みなのおどろくひまに

消(きえ)えむと思(おも)ふ

 

 何かひとつ不思議を示し

 人みなのおどろくひまに

 消えむと思ふ

 

 

人(ひと)といふ人(ひと)のこころに

一人(ひとり)づつ囚人(しうじん)がゐて

うめくかなしさ

 

 人といふ人のこころに

 一人づつ囚人がゐて

 うめくかなしさ

 

 

叱(しか)られて

わつと泣(な)き出(だ)す子供心(こどもごころ)

その心(こころ)にもなりてみたきかな

 

 叱られて

 わつと泣き出す子供心

 その心にもなりてみたきかな

 

 

盗(ぬす)むてふことさへ惡(あ)しと思(おも)ひえぬ

心(こころ)はかなし

かくれ家(が)もなし

 

 盗むてふことさへ惡しと思ひえぬ

 心はかなし

 かくれ家もなし

 

 

放(はな)たれし女(をんな)のごときかなしみを

よわき男(をとこ)の

感(かん)ずる日(ひ)なり

 

 放たれし女のごときかなしみを

 よわき男の

 感ずる日なり

[やぶちゃん注:「放たれし女のごとき」旧日本の(今もその亡霊はしっかりいるが)束縛され差別されてきた女性の内から出現した、男と同様に個人として覚醒して解放された女性像のような存在が持つところの。]

 

 

庭石(にはいし)に

はたと時計(とけい)をなげうてる

昔(むかし)のわれの怒(いか)りいとしも

 

 庭石に

 はたと時計をなげうてる

 昔のわれの怒りいとしも

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによると、本「一握の砂」初出、作歌は明四三(一九一〇)年九月九日夜で、『「昔」住んだ「庭石」のある家といえば』、渋谷村の『宝徳寺か盛岡市加賀野磧町の家(結婚後まもなく移り住んだ)であろう。「いとし」は「かわいい」の意味であるから、思い出は宝徳寺時代の、それも少年期のものであろう』とされ、この『「時計」は目覚まし時計であろうとされた上で、『「昔のわれ」は何に対して怒ったのであろう。家族に対してか。時計そのものに対してか。自分自身に対してか。どうも見当がつかない。はっり言えるのはその怒りが個人的なものだったということである』。『「昔のわれの怒り」の裏側にある「現在のわれの怒り」は作歌が』上記の通り『であるから』、『歴史的社会的なものであ』り、『「現在のわれの怒り」はまさに「韓国併合と時代閉塞の現状」への怒りなのである。表現の自由への狂気じみた弾圧の嵐の今、怒りは鬱屈せざるを得ない』と記しておられる。]

 

 

顏(かほ)あかめ怒(いか)りしことが

あくる日(ひ)は

さほどにもなきをさびしがるかな

 

 顏あかめ怒りしことが

 あくる日は

 さほどにもなきをさびしがるかな

 

 

いらだてる心(こころ)よ汝(なれ)はかなしかり

いざいざ

すこし呿呻(あくび)などせむ

 

 いらだてる心よ汝はかなしかり

 いざいざ

 すこし呿呻などせむ

 

 

女(をんな)あり

わがいひつけに背(そむ)かじと心(こころ)を碎(くだ)く

見(み)ればかなしも

 

 女あり

 わがいひつけに背かじと心を碎く

 見ればかなしも

 

 

ふがひなき

わが日(ひ)の本(もと)の女等(をんなら)を

秋雨(あきさめ)の夜(よ)にののしりしかな

 

 ふがひなき

 わが日の本の女等を

 秋雨の夜にののしりしかな

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらが、明晰に本歌の背景と作者の怒りを分析しておられる。是非、読まれたい。]

 

 

男(をこと)とうまれ男(をとこ)と交(まじ)り

負(ま)けてをり

かるがゆゑにや秋(あき)が身(み)に沁(し)む

 

 男とうまれ男と交り

 負けてをり

 かるがゆゑにや秋が身に沁む

 

 

わが抱(いだ)く思想(しそう)はすべて

金(かね)なきに因(いん)するごとし

秋(あき)の風(かぜ)吹(ふ)く

 

 わが抱く思想はすべて

 金なきに因するごとし

 秋の風吹く

 

 

くだらない小說(せうせつ)を書(か)きてよろこべる

男(をとこ)憐(あは)れなり

初秋(はつあき)の風(かぜ)

 

 くだらない小說を書きてよろこべる

 男憐れなり

 初秋の風

[やぶちゃん注:「くだらない小說」近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによれば、作歌は明治四三(一九一〇)年九月九日夜で、初出は『創作』同年十月号とされ、この「くだらない小說」とは啄木の「我等の一團と彼」(同年五月下旬から六月上旬にかけて執筆された)を指すとされる。現在、同小説は高く評価されている。「青空文庫」のこちらで読める(正字正仮名)。近藤氏の引用された加藤周一氏と井上ひさし氏のの評価を読まれたい。]

 

秋(あき)の風(かぜ)

今日(けふ)よりは彼(か)のふやけたる男(をとこ)に

口(くち)を利(き)かじと思(おも)ふ

 

 秋の風

 今日よりは彼のふやけたる男に

 口を利かじと思ふ

 

 

はても見(み)えぬ

眞直(ますぐ)の街(まち)をあゆむごとき

こころを今日(けふ)は持(も)ちえたるかな

 

 はても見えぬ

 眞直の街をあゆむごとき

 こころを今日は持ちえたるかな

 

 

何事(なにごと)も思(おも)ふことなく

いそがしく

暮(くら)らせし一日(ひとひ)を忘(わす)れじと思(おも)ふ

 

 何事も思ふことなく

 いそがしく

 暮らせし一日を忘れじと思ふ

 

 

何事(なにごと)も金金(かねかね)とわらひ

すこし經(へ)て

またも俄(には)かに不平(ふへい)つのり來(く)

 

 何事も金金とわらひ

 すこし經て

 またも俄かに不平つのり來

 

 

誰(た)そ我(われ)に

ピストルにても擊(う)てよかし

伊藤(いとう)のごとく死(し)にて見(み)せなむ

 

 誰そ我に

 ピストルにても擊てよかし

 伊藤のごとく死にて見せなむ

[やぶちゃん注:前年の明治四二(一九〇九)年十月二十六日、元韓国統監(同年六月辞任)であった伊藤博文はロシアの財務大臣と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うために訪れたハルビン駅頭で、大韓帝国の民族運動家安重根(アン・ジュングン)によって射殺された。近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによれば、作歌は明治四十三年九月九日夜で、初出は『創作』同年十月号とある。本歌の解釈は二回に亙る近藤氏の評釈を読まれたい。下句が英雄的人物としての伊藤(私は彼のことを全くそう思わないが)讃美であることが判る。]

 

 

やとばかり

桂首相(かつらしゆしやう)に手(て)とられし夢(ゆめ)みて覺(さ)めぬ

秋(あき)の夜(よ)の二時(にじ)

 

 やとばかり

 桂首相に手とられし夢みて覺めぬ

 秋の夜の二時

[やぶちゃん注:近藤典彦「石川啄木伝」のこちらによれば、作歌は前歌と同じ明治四三(一九一〇)年九月九日夜。初出も同前である。そこで近藤氏は『いきなり強い力で桂首相に腕をつかまれた。びっくりして目が覚めた。秋の夜の』二『時だった。(「強権」との闘いを呼びかける文章を書いたばかりだからだろうか。強権政治の親玉が怖い目をして夢に現れたのだった。)』と訳しておられる。

 以下は私の印象であるが、「やとばかり」に緊迫は感じられるが、短歌という性質上、強烈なインパクトを表現しきれてはいない。特に前の伊藤博文のそれと並べられると、逆にソフトな誤った印象を与える。私は啄木が本作の「我を愛する歌」の掉尾にこれを持ってきたのは決して成功しているとは言えない気がしている。大方の御叱正を俟つ。

「桂首相」桂太郎(弘化四(一八四八)年~大正二(一九一三)年)は元長州(萩)藩士。明治三一(一八九八)年の第三次伊藤博文内閣で陸軍大臣に就任し、同年、大将に昇進、軍備拡張政策を推進して藩閥の一員として政党勢力と対立した。明治三十四年に首相となり日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)を指導、その際、原敬と五度会談し、戦後の西園寺公望への政権委譲を条件に立憲政友会の支持を得た。しかし、「ポーツマス講和条約」に対する国民の不満が「日比谷焼き打ち事件」という形で顕在化する中で退陣、西園寺と交代した。明治四十一年に成立した第二次桂内閣では、日露戦争後の困難な財政再建を図るとともに、満州での勢力範囲を「第二次日露協約」により確定し、明治四十三年に韓国を併合した。また、社会政策である工場法を制定する一方で、「大逆事件」に代表される社会主義者への弾圧を行った。後、第三次桂内閣を組織したが、詔勅を乱発したため、非立憲との批判が高まり、自らも政党を作るべく立憲同志会創設を宣言したが、護憲運動が民衆暴動と化し、大正二(一九一三)年二月にわずか五十三日で総辞職した。その後、新政党の勢力拡大を図っている最中に病死した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

2020/02/05

梅崎春生 山伏兵長

 

[やぶちゃん注:昭和二九(一九五四)年十一月号『文芸』に初出され、後の単行本『侵入者』(昭和三二(一九五七)年四月角川書店刊)に所収された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第一巻を用いた。

 「佐鎮」は「さちん」で日本帝国海軍佐世保鎮守府のこと。]

 

   山伏兵長

 

 終戦八月十五日の翌々日あたりから、佐鎮や各部隊からくる暗号電報が、徐々に変調のおもむきを呈してきた。いっぺん打ち出した命令や通告を、あわてて次電で訂正取消してきたり、中には某部隊発の、詔勅にしたがわず断乎(だんこ)抗戦を続ける、というような勇ましいのもあったりして、壕内の暗号室にとじこもっていても、各処の混乱ぶりがまざまざと感じられた。それに暗号兵や電信兵の気分もいろいろ動揺していると見え、暗号作製や発信受信にあやまりが多く、翻訳に骨が折れる。電報量も八月十五日前よりは増加しているので、私たちはやけにいそがしかった。いそがしかったけれども、終戦以前のような気分の重苦しさがなく、電文のひとつひとつがこちらの生活や将来に密着していて、暗号室の当直に立つのがむしろたのしいようなものであった。そんなある日、暗号士が私たち暗号関係者をみんな集めて、晴号文の内容を他の科の兵隊に絶対に知らせてはいけないと、厳重な訓示をした。部隊の人心が動揺混乱するのをおそれたのだろう。私たちの部隊は桜島にあり、言わば世間から孤絶していたから、それまでは(それ以後も)ほとんど混乱することはなかった。他の部隊では、将校や下士官を兵隊がふくろ叩きにしたという例もあったらしいが、私たちのところではそんなことはなかったようだ。兵隊の大部分が三十以上から四十前後の老兵だったせいもある。不平不満は大いにあるが、どうせ帰れるのだから強いてことをおこすこともなかろう、というのが老兵一般に共通した気持のようであった。

 とにかくそういう具合にして、八月十五日以後の各地の状況やニュースを知っているものは、私たち暗号員だけで、設営の一般老兵は言うに及ばず、電信の兵隊ですら何も知らされていないということになっている。電信兵がとりあつかうのは、晴号符字をつらねた電文だけで、それだけでは内容が判らない。だから電信の下士官たちも、何やかやと私たちにニュースを探ろうと近づいてくる。当然の人情だ。しかし私たちは一応はニュースの口外は禁止ということになっていた。

 電信科に永井という名の、若い二等兵曹がいた。志願兵上りの二曹だから、歳も二十ぐらいだ。大体現役の下士官というのは、一生を海軍で過ごそうと志してきたのが大部分であるから、終戦によってもっともショックを受けた階層のひとつがこの連中だと言える。応召の連中は海軍がなくなっても元の職業に戻れるが、この連中はそういうわけには行かない。軍隊の解散によって生活の基盤がごっそりと奪われてしまうのだ。(兵学校出の職業軍人も勿論(もちろん)そうだが、これには私はほとんど接触がなかった)だから敗戦によって、彼等は内心大いに動揺し、いらだっていた。不安が彼等の言動を粗野にさせている傾向があった。私をつかまえて、お前なんか東京に戻れば会社の課長だろう、などと正面から厭味を言うやつもいて、もちろん私は戻っても会社の課長であるわけはなかったが、とにかくそんな具合で終戦のよろこびを表情に出すことを極度に押える必要があった。そういう連中のなかにあって、永井二曹はさほどいらだちもせず、言動もふだんと変化がないように見えた。ひとつには歳が若い故もあつたのだろう。二十という年齢は、人生の出発点みたいなもので、まだ何にでもツブシがきく。その永井二曹が、夜の当直から戻ってきた私を居住区の壕の入口でつかまえて、小声でそっと聞いた。

「村上二曹。アメリカ軍が上陸して来たら、日本の軍隊は一体どうなるんだね?」

「武装解除ということになっているよ」と私は割に気軽に答えた。口外禁止のことは知っているが実際にはほとんど守られてはいず、それに私の判断でも、そんなことをひたかくすことは無意味に思われたからだ。永井二曹はあまり動揺していないようだから、打明けても差支えなかろう。そう思ったせいでもある。すると永井はちょっと憂欝そうな顔をして言った。

「電報にそうあるのかね?」

「そうだよ」と私は言った。「いいじゃないか。永井兵曹なんかまだ若いんだし」

 会話はそれだけで切れた。私は壕に入り寝台に横になってすぐ眠った。

 そして翌日の夕方のことだ。私が居住区を出て何気なく暗号室に入って行くと、山伏兵長という日頃無口な暗号科の兵長が、顔をまっかにして当直の兵隊にがんがんと怒鳴りつけている。兵隊は皆ちぢみ上っていた。

「この中に軍機を外に洩らしたやつがいる!」山伏兵長は太い棍棒(こんぼう)で地面をたたきつけた。兵隊はシュンとしている。「日本軍が武装解除されると、しゃべった奴はどこにいる!」

 そして入ってきた私の顔を見ると、更(さら)に力をこめて地面をたたき、一段と声をはり上げた。

「しゃべった奴はどこにいる!」

 私はぎくりとした。まさしくそれは私に違いないと思ったからだ。しかしさり気ない顔をして、そこらに腰をおろし、聞き耳を立てていると、少しずつ事情が判ってきた。武装解除のことがもう壕掘り設営の老兵たちにも伝わっていて、その一人がさっきこの通信料の壕に、ほんとかどうかと訊(たず)ねにやってきたのだと言う。武装解除という言葉を、武器を捨てて解散という風に解釈せず、捕虜みたいに米軍の前に一列に並んで武器をもぎ取られる、という具合に解釈したらしいのだ。

「軍機を漏洩(ろうえい)した奴は、おれが今でもぶちのめしてやる。上官であろうと何であろうと、おれはそいつをぶちのめしてやるぞ!」そう怒鳴って山伏兵長は、気のせいか私の方をじろりとにらみつけたようであつた。私はぎくりとしたが、そのまま黙って腰をおろしていた。戦争が済んで間もなく復員出来るというのに、まずいことになったな。そんなことを思いながら身体を硬くして、暗号綴りをめくっていた。

 二等兵曹が兵長ごときをおそれるなんて、おかしいと思うかも知れないが、これには多少の事情がある。私は下士官候補の速成教育を受けてなった二等兵曹だし、山伏兵長は現役徴集から一歩一歩上ってきた兵長だ。海軍のメシを食った数は、向うの方がはるかに多いのだ。軍隊では階級よりもむしろメシの数を重視する傾きがある。山伏は陰気な性格の男で、一応は私を下士官として立てているようだが、内心では何を考えているのか判らない。それに悪いことには、その七箇月ほど前、私は山伏と同じ部隊で五日間一緒にメシを食ったことがある。しかもその時私はまだ一等水兵で、山伏は上等水兵であつた。わずか五日間であるが、私ははっきりと彼より下級の兵隊として勤務し、そして一度彼から殴られたことさえあるのだ。

 山伏は志願兵でなく、徴集兵で、満二十歳に召集されたわけだ。徴集兵というやつは一般的に、志願兵に対してある強いコンプレックスを持っているものだ。彼等が二等兵として入団してきた時、同年輩の志願兵はもうたいてい上水か兵長になっていて、同年兵の志願兵と言えば十五歳か十六歳の乳くさい少年たちである。その年齢関係が彼等のコンプレックスの原因の一つになつていて、そのために徴集兵たちは総体的に折れ曲った気分の者が多かった。その中でも山伏はもっとも無口で陰気な性格の男であつた。先天的に陰気な性根に、そういう後天的要素が加わって、こんな無口な蟹(かに)みたいな男が出来上ったものらしい。

 その部隊で、壕掘りの設営力が足りないまま、暗号当直の暇をひっぱり出され、モッコかつぎをやったことがある。そして一水の私は山伏上水と組んで、せっせとモッコをかついだが、なんだかこの男と組むと棺桶でもかついでいるような気分になったものだ。泥を運んでいるような気が全然しない。だから力が入らないままだらだらやっていると、山伏上水がとたんに怒り出して、私を壕の一番奥に連れ込んだ。

「貴様、一体やる気があるのかないのか!」そしていきなり山伏は私の頰を、拳固(げんこ)でしたたかなぐりつけた。「貴様が力を入れないと、重味が全部俺の方にかかってくるじゃないか!」

 山伏の言い分も当然だから、私も素直に頭を下げてあやまったが、それからもう彼と組むのは止めにした。私だけでなく、皆彼と組むのは何となく厭がつていたようだ。それから二三日して山伏上水は単身どこかに転勤して行ったのだが。

 そして私が下士官候補の教育を終えて、この桜島の部隊にやってくると、山伏が兵長としてここの暗号科に勤務していたのだ。彼は一目見て私を思い出したらしい。しかし彼は黙っていた。黙って特別に表情を動かさなかった。だから私も黙っていた。モッコかつぎを一緒にやったことなど、一切話題に出さなかった。無用の刺戟をあたえては損だからだ。年齢はもちろん私の方が山伏よりはるか上だが、かつて私は彼の下級者だったし、そいつが今は飛び越して上級者になっている。愉快であるわけがない。そして山伏は勤務以外のことに関しては、私と何も話したがらない風であつた。だから私は居住区でほとんど彼と口をきいたことがない。その山伏兵長が今、憤怒を顔いっぱいにみなぎらせ、棍棒で地面をたたきながら怒鳴っている。

「え? 何とか言わんか。一体誰が軍の機密を漏洩した!」

 向うの方の電信室はカチャカチャと電鍵の音がひびいているが、暗号室の方は山伏兵長の怒声だけで、皆はシュンと首をすくめて沈黙している。私も具合が悪いまま、暗号綴りを無意味にめくりながら、時に横目で山伏兵長の様子をそっとうかがっていた。あの永井兵曹というやつは何とおしゃべりな男だろう。それにしても、山伏兵長よ、そんなに気ちがいみたいに激怒することはないではないか。お前だって軍隊は好きじゃなかったんだろう。蟹(かに)みたいな性格になるまで辛抱せねばならなかったんじゃないか。敗けたら武装解除はあたりまえの話だ。それにあらゆるニュースは、もう敗けたからには暗号科の独占ではなく、すべての兵隊はそれを知る権利があるのだ。武装解除を洩らしたこの俺をぶちのめして、一体お前に何のトクがあるのか。

「しゃべった奴は、とっとと出て来い。逃げかくれすると、承知せんぞっ!」

「もういいじゃないか。山伏兵長」電信の下士官が向うの方から大声でたしなめた。「あんまりガミガミ怒鳴るのはよせ」

 私は山伏の顔を見た。山伏は私の顔を見て、にらむような眼付になった。そして何か言い出そうとしたらしいが、突然顔をくしゃくしゃに歪め、梶棒を地面にごろりと放り投げ、急ぎ足でとっとっと壕を出て行った。くしゃくしゃになった瞬間、涙が山伏の眼にきらりと光ったのを私は見た。こういう爆発的な激怒や涙が、彼のどんな気持の折れ曲りから出てきたのか、それがまた更にどんなに折れ曲って行ったのか、あるいは治癒したのか、私は判らなかつた。今でもよく判らないし、またうまく想像も出来ない。私は地面にころがった梶棒を拾い上げ、壕の外に出て、力まかせにそれを谷底に投げ込んでやった。棍棒は急斜面をごろんごろんところがつて直ぐに谷底に見えなくなった。機密漏洩の件はそのままでうやむやになってしまったのだ。

 

三州奇談卷之二 泥龜の怨念

 

    泥龜の怨念

 此泥町(どろまち)といふは、「懸橋(かけはし)」といふにつゞき、小松の城の外堀にして、町の兩側共に、後ろは並木六十間[やぶちゃん注:百九メートル。]ならび、老龍の吟ずるが如く、風常に蕭然たり。此松を「旗松」と云ひ、先年其城に戰鬪の時は、此松に必ず旗を結びて、擬兵の計略をなす。故に今に其名ありと云ふ。此堀泥深くして、夏日杜若(かきつばた)などの水草兩溝に滿つ。もと水濕の地、水濁り蚊多し。夏の内は蚊帳(かや)を放れては夜話すること能はず。故に樗庵(ちよあん)[やぶちゃん注:既に述べた通り、筆者堀麦水の別号。]に別に「蚊帳遊說」[やぶちゃん注:不詳。現存しないか。]と云一小册あり。別に見るべし。

[やぶちゃん注:「泥町」前話参照。

「懸橋」旧泥町、現在の小松市大川町の北を東西に流れる川は、現在、梯川(かけはしがわ)と呼ばれる。ウィキの「梯川」によれば、この川は『古くは大川と呼ばれたが、前田利常が小松城に入城したのち』、寛永一七(一六四〇)年に『既にあった』舟橋(ふなはし:河川の中に並べた船の上に板を敷いて造る仮設橋のこと)を、『より堅固な橋に架け替えた。この橋は川の増水の時に橋板を増し、平水の時には橋板を減らし、洪水を予見した時には橋板を外し』、『舟の流出を防ぐ仕組みを取っていたため、「かけ橋」(梯)と名付けられた。のちに川も橋の名前を取り、「梯川」と呼ばれた』とある。

「六十間」百九メートル。

「樗庵」既に述べた通り、筆者堀麦水の別号。

「蚊帳遊說」不詳。現存しないか。]

 此間の溝の中に一長鼈(いつちやうべつ)あり。時として浮(うか)び出で、久敷(ひさしく)頭をあげて四方を見る。其首牛のごとし。沈みかくるゝ時、浪動かず。全く音なし。一年に必ず一二度は出ると云ふ。異物なるべし。

[やぶちゃん注:「長鼈」大きなスッポン。カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。最大甲長は三十八・五センチメートルで、ごく稀に六十センチメートルまで成長する個体もいる。博物誌は私の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類  寺島良安」の「鼈」を参照されたい。江戸時代には好んで食用とされたが、スッポンの怪は多い。例えば私の「北越奇談 巻之五 怪談 其五(すっぽん怪)」を見られたい。]

 其頃、大阪より商用の事に付(つき)て來合せたる者云ひしは、

「鼈(すつぽん)の怪あやしむべからず。大阪・京共に近年鼈を喰(く)ふことはやりて、魚を商ふ人多く鼈を扱ふ。今は泥龜(すつぽん)汁許(ばかり)を賣りて世を過ぐる者又多し。近國の鼈を取盡して價貴(たか)く、百里の遠きよりも來ることなり。其扱ふ家には、大きなる籠、或は穴藏へ入れて貯ふ。是を求(もとむ)る人來(きた)る時は、足音に殺氣を知りて、泥龜ども我一(われいち)と下へ潜り入る。時々違はず妙なり。一年(ひととせ)[やぶちゃん注:ある時。]、大坂西堀の鼈のみ取扱ふ人、跡つぎは家の娘にして、聟を取りて世を渡し、一人(ひとり)樂に過ぎられけるに、其死相恐るべし、只泥龜に似たり。隱居にて夜中息絕へたるを、娘も聟も知らず。朝見舞ひて伺ふに、裸になり、緣の下へ這入り、手足を以て土を掘り、其中に平臥(へいぐわ)して死し居(ゐ)られける。其家には是にも心付(こころづか)ずや、さても渡世の悲しきにやと、爪彈(つまはじき)して憎みけれども、今に泥龜を取扱ふ。我も是よりぞすつぽん汁は思ひ留(と)まりぬ。此地にも必ず泥龜にはあたり給ふな」

と云ひし。

[やぶちゃん注:この「大阪より商用の事に付て來合せたる者云ひしは」以下の台詞がどこまでなのかがやや問題であるが、私は以上のように判断した。なお、国書刊行会本は「云ひしは」の後に鍵括弧を附しながら、その〈鍵括弧閉じる〉の部分がどこにも存在せず、最後の『此地にも「必ず泥龜にはあたり給ふな」と云(いひ)し』の部分に鍵括弧を附していて、書式上の不備がある。私はそれをこの商用で来合わせた男の最後の訓戒的忠告として、その人物の直接話法の中に組み入れたわけである。但し、商用で来合わせた男の台詞を、「今に泥龜を取扱ふ。」までとして、最後を筆者の添えたもの(その場合、『此地にも「必ず泥龜にはあたり給ふな」』という鍵括弧挿入は有効となる)ととることは、語句の不備は生ずるが、可能ではある。

「大坂西堀の鼈のみ取扱ふ人、跡つぎは家の娘にして」国書刊行会本はここは、『大坂西堀には、魚店の亭主隠居して別家に住(すま)れける。尤も其家、此泥亀のみ取あつかふ。跡つぎは……』となっていて、シチュエーションの前説としては、その方が丁寧でよい。

「其中に平臥して死し居られける。其家には是にも心付(こころづか)ずや」国書刊行会本は『其中(そのなか)に平臥して死居(しにゐ)られける。近隣の見聞(みき)ける物[やぶちゃん注:『(者)』と編者による傍注がある。]、爪はじきして平生を憎みけれども、其家には……』となっており、以下とのジョイントから言うとその方がスムースではある。

 

三州奇談卷之二 狐知誤字

 

    狐知誤字

 小松泥町(どろまち)西照寺と云門徒寺あり。今の先に住持を傳入(でんにふ)と云ふ。篤實にして法義にも深く安心し、意も剛なる人なりしが、小松の西北に大島・高坂とてつゞきたる里あり。高坂には國初(くにはじめ)より人をたぶらかす野干(やかん)ありて、「高坂狐」とて人も知りたる所也。大島は過半此西照寺の檀家なりしが、或時大島の貧家の人身まかりし時に、傳入頓(やが)て弔(とむらひ)に行かれ、何かと取繕ひ歸られける。元來在家のことなれば、法名も此住持持任せに賴みける程に、筆を取りて書付て歸られける。一字書違へられしを、住持も心付かず、在家には猶よむべき人もなく、心もつかで打過ける程に、此西照寺の卵塔の間にものあり。小夜更ては、西照寺の居間の窓先に來り、悲愁の聲纔(わづか)に聞えて去る。二三夜も如ㇾ此(かくのごとく)なれば、寺中の人誰々も云傳へて氣味惡く、住持に「かく」と云けるに、住持聞きて、

「さらば樣子を見るべし」

と、其夜居間にありて、彼の愁々の聲の者を待たれけるに、折節住持は前夜近隣へ碁會ありて、夜をふかされければ、此夜は殊の外ねぶたく、柱に寄り懸り居られけるに、夜九つ過[やぶちゃん注:午前零時過ぎ。]と思ふ頃に、又例の影のごとくなるものうれふる聲して近付き來(きた)る。既に居間の窓へ近付きし時、住持

「きつ」

と見られけるに、此ほど葬送してける大島の何某の亡者にまぎるべきもものなりけるに、住持

「何故に來たぞ」

と尋られければ、亡者かすかなる聲にて、

「我は則ち大島の何某が幽靈にて候。法名の文字一字書違ひ侍るがまどひとなりて、浮(うか)みがたく候。則(すなはち)法名の紙も取參り侯なり。是を御覽じて書き直しあたへ給はるべし」

と云ふ。

 住持

『いかさまにも書き損じける事もあるべし。然共(しかれども)亡者の持來(もちきた)るべき樣(やう)はなし。其事を匡(ただ)し見ん』

とは思はれしかども、昨夜の疲れにてねぶけ甚しく、柱にもたれながら高いびきして寢入られければ、亡者も種々に歎きうつたへけれども、とかく住持のねぶり覺めず。終に熟睡せられし程に、此幽靈も眠りの伽(とぎ)は成りがたくやありけん、いつとなく消え失せぬ。

[やぶちゃん注:標題は「狐、誤字を知る」。

「小松泥町西照寺」石川県小松市大川町の旧名で(恐らくは町の北を横切る梯川(かけはしがわ)が洪水で氾濫して泥だらけになることに由来するものと思われる)、寺は浄土真宗大谷派の古刹で、蓮如の弟子教明の開基になる弓波山西照寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「今の先に住持を」現在の住持の前の住持を。

「傳入」不詳。国書刊行会本は『転入』とするが、編者も「伝」の誤りであろうと脇注する。

「大島」小松市大島町

「高坂」上の小松市大島町の北に接して能美市高坂町がある。

「卵塔」本来は禅宗の僧の墓石の形態を指す。宋で高僧の墓塔とし流行したものが鎌倉時代に禅僧によって持ち込まれた。塔身上部が楕円の卵形に似ており、また、継ぎ目(縫い目)が無いことから「卵塔」「無縫塔」と呼ばれている(厳密には卵形の仏塔を台石の上に置いただけのものを「卵塔」、台石の上に有意に明らかに有意な大きさ・高さを持った蓮弁や柱を載せたものを「無縫塔」と呼ぶ)。但し、伝来以降、他宗派の僧の墓塔としても好まれるようになった。]

 曉に住持起出で、

「いかにも彼亡者の來るなり。我正さんと思ひしが、夜睡魔におかされて空しく打過ぎたり。今宵は必ずためし見ん」

とて待たれけるに、又其夜子の刻[やぶちゃん注:午前零時。]計(ばかり)に、例のごとく愁々たる聲聞えて、窓の元へ近寄り來(きた)る。

 住持、窓の元にして彼亡者に問はれけるには、

「言(こと)夜前のごとくならば、必ず證據あるべし。持來れるやいかに。」

彼(かの)亡靈細き手して、彼(かの)法名の紙に書けるものを指出(さしいだ)して、悲泣してなげき恨む。

 住持は法名を曾て見ず。

 彼亡者の腕首を

「丁(ちやう)」

と握られけるに、細く冷たく、只金鐵(きんてつ)を握るがごとし。

 住持、聲を上げ、

「怪しむべし怪しむべし」

と云はれければ、亡者曰く、

「曾て怪(あやし)き事に非ず。其書物(かきもの)を見給ふべし。和尙の染筆に紛れあるべからず。又六道四生(ろくだうししやう)の間のことに於ては、我(われ)粗々(ほぼ)經來(へきた)ることなれば、恐(おそれ)ながら物語いたしてん。座を改めて尋給ふべきにや」

[やぶちゃん注:「六道四生」六道のどこかに胎生・卵生・湿生・化生の四つの生まれ方の孰れかをとって生まれ変わること。「六趣四生」とも呼ぶ。既にして私はそれを「粗々(ほぼ)」「經來る」、則ち、「実際に経験して参りましたので、その実体験をお話し致したく」というのである。]

と云ひけるに、傳入、彼(かの)法名の紙には少しも眼を付けず、大に罵りて云れけるは、

「法名を書ける紙は葬家(さうか)に殘り、又野送りの時も佛前の机に張置きたり。得(う)れば得(え)つべき物なり。書違へあるまじき物にも非ず。我怪しむ所は汝が手なり。既に死骸は火葬にして、郊外一片の夜半の烟となしたるに、此手全く物ありて支體(したい)[やぶちゃん注:肢体。]を供ふ。是必ず別物なるべし。六道四生の理(ことわり)、汝が詞を待つによしなし。夜中相爭はんは、其證を見るに據所(よりどころ)なし。不肖ながら翌日迄是に居(ゐ)らるべし。法名の我が誤を謝して、亡者の迷(まよひ)を晴らし得さすべし。又今我が握りし腕首に於ては、百千の鬼畜をして一時に來らむとも放すべからず。無言にして心靜(こころしづか)に待たるべし」

と。

 一心に腕をにぎりて居られける。

 亡者、始めの程は僧法を以てはづかしめ、或は恨み或はかこち、種々になげきしかども、最早丑の時[やぶちゃん注:午前二時。]過ぎて、寅の一天[やぶちゃん注:「一天」は「一點(点)」で一時を四等分した最初の区切り。午前三時から午前三時半。]に及びければ、しきりに手を振放さんともがきけれども、傳入は只靜(しづか)に手を捕へて居られける。

 後には臭氣(くさきかざ)の息を吹き、鬼形(きぎやう)の面(おもて)を出(いだ)しなど、樣々働きけれども、聞ゆる大力に

「丁」

と握られたれば、詮方なくて後には大きなる狐となりて淚をこぼし、のがれ歸るべきことを願ひければ、住持初めて寺中の人々を呼起(よびおこ)し、庭に下(さが)り居(ゐ)させて、

「是見玉へ別の物にもあらず。かくあらんとは思へども、各(おのおの)の疑(うたがひ)を散じさせん爲にこそかくはとらへ侍る。各(おのおの)安心の上は、物の命取べきにもあらず、放ちあけすべし。又何ぞにばけ來りなば、此上もなき一興なるべし」

と、手を放して助けかへされける。

 此剛氣にや恐れけん、再び怪異はなかりける。

 法名は、實(げ)に住持の書かれし紙にてぞありける。野邊に落散(おちちり)たるを拾ひてやありけん。

 文字いかにもあやまりありけるとぞ。

 

三州奇談卷之二 寶甕紀譚(「寶甕之辨」含む)

 

    寶甕紀譚

 小松九龍橋の邊りに、北野屋と云ふ材木を商ふ人あり。[やぶちゃん注:国書刊行会本ではここに以下の文が入っている。『此(この)家に珍器有(あり)。其(その)形は鼈(すつぽん)のごとく成もたひ也。』。「もたひ」は水や酒を入れる甕(かめ)のこと。]此家の先人常に云ひけるは、

「此川の上(かみ)に物あり、是を得ば富むべし」

と折にふれ語られし。

[やぶちゃん注:「小松九龍橋」「那谷の秋風」に既出既注。「九龍橋」は橋及び川の名であもある。知人の助力もあり、強力な考証で現在ある橋としての九龍橋も完全同定してある。

 其人空しくなりて十年許(ばかり)もや後大水出で、橋落ち岸かけ、水は家をひたすことありしに、其水も落ちて後、獨り舟に棹して此川をさかのぼることありしに、とある片岸崩れたる中、土地よりは一丈許下にや侍らん、怪しき物見へし。不ㇾ許(はからず)先人の辭(ことば)を思ひやりて、舟を寄せて是を見るに甕なり。不思議に思ひ取りて、歸り、水をたゝふるに、鏘然(しやうぜん)として響あり。夜中此器物置き替る故に、ぬけ去(さら)ん事を恐れて、箱を拵へて寶物と號して是を守る。

[やぶちゃん注:「鏘然」ここは水の音がさらさらと玉か鈴のように美しく聞こえるさま。

「置き替る」人が動かさないのにそのある位置を変える。]

 其家の老婦人あり。夜每に此器と物がたりをなすと云ひて、外へ出でざる事數年なりし。皆、

「心のまどへるより如ㇾ此(かくのごとく)にや」

といへども、此器の性(しやう)を知るものなし。小松御城番の誰々へも、事の序(ついで)に捧ぐといへども、何の故たるも不ㇾ知(しれず)とて返さる。如ㇾ此事年久し。

[やぶちゃん注:「外へ出でざる事數年なりし」老婦人が主語であり、甕と会話することも異常であるが、何年も家から出ないというのは足が不自由でないのなら、強い幻聴を伴う統合失調症や鬱に偏位した双極性障害などの精神疾患が疑われる。]

 寶曆十二年[やぶちゃん注:一七六二年。]の頃、此鄕(さと)のかたはらに樗庵(ちよあん)と云ふ酒狂人來り居れり。是を招きて

「性を識らば名を付給へ」

と云ふ。

 此人醉裡辭せずして一見して則(すなはち)性を云ふ。號して「寶甕(はうやう/たからがめ)」と云ふ。其座に人あり、其事を密(ひそか)に笑ふ。是が爲に「寶甕の辨」を贅言なれども記す。

[やぶちゃん注:「樗庵」本作品集冒頭の私の注を見られたいが、これは何を隠そう書いている麦水自身の号の一つである。

 以下、底本では独立項の扱いであるが(底本の「卷之二」の目録でも独立している)、これは内容から見ても本篇の一部として組み入れのが適切と考える(国書刊行会本では全体が二字下げで本篇に続いている)同巻の目録には載らない)ので、以下に続ける。前を一行空けた。]

 

    寶甕之辨

 主人曰ふ。

「昔年水涯に棹さして、岩の崩るゝこと數丈の所を見るに、地下一丈餘に此物あり。取歸りて家に納めて寶物とす。是を得んとする前に應(おう)あり。得て後靈(れい)あり[やぶちゃん注:国書刊行会本では『異あり』。]。或は人語をなすが如く、或は動搖するが如し。是(これ)氣の前[やぶちゃん注:「気の持ちよう」で「気の迷い」の意。]よりにやあらんと思ふ。夫(それ)是(これ)何等の器にや。」

[やぶちゃん注:「應」ここは発見に至る前のある種の予兆があったことを言うが、前文にはそれらしきものはない。ただ、そも大水の出た後に、何故に北野屋の主人が一人で九龍橋川の上流に漕ぎ遡ったのかが不思議であるから、そのこと自体を指しているとすれば、腑に落ちる。

「靈あり」超自然な現象。具体には独りでに甕が動くことであり、老婦人が甕と語り、引き籠りとなることを指す。]

客曰く、

「是、陶器也。甚だ知り易し。此性は南蠻國產の物なり。蓋ありて『かめぶた』と云ふ、茶家者流(ちやかしやりう)珍翫とす。

 此甕内に刻み目あり。此目外に有あるものは「繩すだれ手」と云ふ。又一奇品なり。是は其瓶の身なる物なり。

[やぶちゃん注:「繩すだれ手」茶道の水指(茶道の点前に於いて茶釜に水を足したり、茶碗や茶筅を洗う水を蓄えておくための器)の一種に「縄簾(なわすだれ)」がある。サイト「茶道」の「南蛮縄簾水指」に(蓋附きの実物の画像あり)、『南蛮物の一で、胴部に縦または斜めに平行な櫛目が密に施された櫛描文(くしがきもん)があるものを』称し、『縄簾は、櫛状の道具で縄をいく筋も垂らしてすだれとした縄簾を思わせる文様をつけているところからこの名があると』される。『縄簾は、代表的な形状として、平底の太い円筒形で、蓋を括り付けるためか』、『口廻りが絞るように削り取られて』おり、この『縄簾は、安南(ベトナム)北部で作られたものとされ、鉄分の多い細やかな土で、全面が茶色一色に焼き上がり景色のない物が多く、水指や建水』(けんすい:茶碗を清めたり温めたりした際に使った湯や水を捨てるために使う容器)『などに見立てられ』るとあり、『縄簾は、櫛目が横に波状に入っているものは別に「横縄」(よこなわ)とも』呼び、「茶道筌蹄」には『「縄簾、横縄、竪縄」とあ』るとある。]

 往昔加藤氏此土味を考へて、備前に燒物を始むるに、備前摺鉢なども是より起る。

[やぶちゃん注:「往昔」これ以降、何度も出てくる語句であるが、読みは確定し難い。音は「わうじやく」であるが、当て訓で「そのかみ」或いは「むかし」とも読めるからである。私は一貫して「そのかみ」と読むことにしている。

「加藤氏」不詳。但し、現在の備前焼の名工の中に加藤姓の方はいる。]

 思ふに天文・永祿[やぶちゃん注:一五三二年~一五七〇年。途中に弘治を挟む。]の頃、南蠻船加州・越州の湊に來(きた)る事多し。舟中の物を絹帛に替て歸ると云ふ。其砌、かゝる物や渡りしならん。是必ず舟中の雜器ならん。

 水中[やぶちゃん注:国書刊行会本は『土中』でそれが正しい。]に沈む事も又あやしむべからず。北國の風塵、天正[やぶちゃん注:一五七三年~一五九三年。]の頃迄は國に定むる主なし。京都將軍威令弱くして、遠國へ政制行はれず。大は小を兼ね、强は弱を吞みで天下大に亂る。加州の地、此邊(あたり)よりは富樫の一族、或は林・井上、又鏑木・高畠、其外一向宗の徒、一城一城に霸として交戰止む時なし。町里の如きも、家は燒拂ひ、藏はあばき捨つる故に、人民手足を置きがたく、輕(かろ)き財寶は腰にまとひ、米豆は肩にのせ、山に隱れ、谷にさまよふ。其捨て難く、又携へ難き雜具に至りては、印をして土に埋み、亂靜りて又本土に還り住し、印の所を掘出し、家產を復す。然共(しかれども)百家の内三四家ならでは歸り來らず。其餘は亂國に流離して行く所をしらず。故に埋(うづ)もれて久敷(ひさしく)知らず。數百年を經て掘出(ほりいだ)す物有あり。或は狐狸の類(たぐひ)是を護して、彼所謂『椀家具を借す塚』ともなり、或は錢を干す鼠の隱れ里もともなり來れり。是等皆かゝる類なるべし。」

[やぶちゃん注:「富樫」藤原利仁(芥川龍之介の「芋粥」の彼)に始まるとされる氏族で、室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名。

「林」加賀林氏。藤原利仁の子である藤原叙用(のぶもち:斉藤叙用とも)の流れを汲む斎藤氏の傍系。富樫氏とは同族。

「井上」能登国にも前記の齋藤氏族が広がり(能登齋藤氏は齋藤則高の末裔とされ、 太田・堀・石黒・河崎・藤井・富木の諸氏を分出している)、能登の守護畠山氏の被官の中に井上氏を見出せるが、それか。サイト「家系家族史 家族のルーツ」の「石川県のご先祖調べ」に拠った。

「鏑木」前注のリンク先に戦国後期に一向宗門徒の一揆衆が加賀国を席巻したとし、同一揆

衆は『本願寺坊官の下間氏が指導者に立ち、鏑木・洲崎・安吉・河合・石黒・笠間・宇津呂・山本・高橋・越智・窪田・安井・黒瀬・坪坂・杉浦・七里・亀田などの国人・地侍が味方し』たとある、鏑木か。

「高畠」同前で、『能登で勢力を拡大した氏族に畠山七人衆』があり、『鹿島郡には、武部氏、酒井氏、高畠氏が』あるとある、それか。

「椀家具を借す塚」椀貸伝説である。池・沼・塚・洞穴などで、膳椀を頼めば、貸してくれるとする伝説譚。全国に広く分布しており、椀を貸してくれるのはそうした場所の主(ぬし)である山姥 ・大蛇・狐狸・河童などとされ、不心得者が借りた椀を返さなかったために以後は貸して貰えなくなったという話が概ね後付けされてある。この伝説の由来については、大きく二説があり、木地屋 (きじや) と呼ばれた椀作りの工人との沈黙交易の歴史が説話化されたとする説と、古代の遺跡からの土器の出土の謎を説明しようとするところから生じたとする説である(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』(以下、十七回分割)に詳しいが、柳田國男は民俗学の独立性を固辞するために強引に以上の二説の孰れをも嫌っている

「錢を干す鼠の隱れ里」「フジパン」公式サイト内の「民話の部屋」の山形県の伝承とする「ネズミの金干し」を読まれたい。]

 傍に人あり難じて曰く、

「客は兼て鑑察家の名あり、此器今いくばくの價かあらん。」

客云ふ、

「價あるべからず。此甕ふたあらば、茶人等ホウロクに用ひん。又此器外に筋ありて形小さき時は、水指に用ふべし。左ある時は價貴(たか)し。今此器は其用ひん處を知らず。只夏日に水をたゞへ[やぶちゃん注:ママ。国書刊行会本は『たゝへ』。]、石菖(せきしやう)・水蕉(すゐせう)の類を植うべきや。其用ふる所に思ひよることなければ、其價あることを知らず。」

[やぶちゃん注:「ホウロク」焙烙(「ほうらく」とも)。低温で焼かれた素焼きの土鍋の一種。形は底が平たく縁が低い。茶道では茶葉を炒ったり蒸したりするのに用いる。

「石菖」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus

「水蕉」単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目サトイモ科ミズバショウ属ミズバショウ Lysichiton camtschatcensis を想起してしまうが、高山帯植生で、鉢植えなど思いもよらぬので、恐らくは単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシ(擬宝珠)属 Hosta の一種であろうと私は思う。]

傍の人笑つて曰く、

「客の云ふ所の如きは、寶物に非ず。只蠻舶の雜具なり。然るを客此器を寶甕と號(なづ)く。是諂(へつら)ふものに非ずや。」

客曰く、

「吾子(ごし)は其一を知つて其二を知らず。寶に數品あり。其中にも人手より人手に傳はる物は用なき物は寶に非ず。吾子が今云ふ所なり。神手(しんしゆ)より人手(じんしゆ)に傳はるものは、無用の物を寶とす。爰に一人の農民有らん[やぶちゃん注:「と、しよう」で、以下、短い事実あった例え話である。]。古佛を掘出(ほりいだ)さんに、是を洗ひ淸めて藁屋にうつすときは、人五里七里を遠しとせずして來り拜む。近く此里にありし例(ためし)なり。又斯(かく)の如き佛を京都寺町に求め來(きた)れば、万躰(まんたい)といへども人來らず。是(これ)人手より得る物は賤(いやし)く、神の手より得るものは尊きなり。爰に嶺上の松あらん。其木立削りなせる如く、其枝葉はさみ作るがごとし。風雷にも碎かれず、霜雪にも破れず。是(これ)山中に神ありて護(まも)ることのある故なり。人若(も)し猥(みだり)に觸れ侵せば必(かならず)たゝる。近く此地にあり。吾子が知る所のごとし。此土中器を埋みて、數百歲缺けず朽ちず。是又地中に神ありて護るによる。而して因緣ある人の爲に出づ。今猶此器にも神ありて護るも又計るべからず。人語のごときをなし、動搖の如きも、必ず護る神あればまり。氣迷(きのまよひ)[やぶちゃん注:当て訓した。ここ国書刊行会本は『気の前』で、前の「氣の前」の意味もこの校訂から類推したものである。]とのみ思ふべからず。かゝる時には、木石といふとも猶尊むべし。况や此器、其用(そのよう)物をうけ入るゝの具なり。是福器にあらずして何ぞ。夫(それ)寶貨は皆『貝』にしたがふ[やぶちゃん注:「貝」の字を字素に含む。]。是地中に有て甲(かふ)堅し。貝に類して用あり。寶と云はずして、何とかいはん。」

 傍の人うなづく。

 客則(すなはち)寶甕を押直し祝して曰く。

「我(われ)辭器の眞にあたらずんば、器我を罵(ののし)るべし。其詞、眞にあたらば我に一盃の酒をあたふべし。」

 主人、時に酒を持出(もちいいづ)る。

 客自贊して曰く、

「我(わが)詞眞にあたれり、我詞眞にあたれり」

と。酒を酌みて大(おほい)に醉ひ、寶甕に辭して歸ると云ふ。

 

2020/02/04

ブログ1320000アクセス突破記念 ラフカディオ・ハーン 茶樹の緣起 (落合貞三郞譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Tradition of the Tea-Plant”)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第五話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。一部の「!」「?」の後に特異的に字空けを施した。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで「沙門品」)ので、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 なお、またしても、本篇の本文前(原本のここの左ページ)にある以下の引用は省略されている(平井氏もやはりカットしている)。

   * 

SANG A CHINESE HEART FOURTEEN HUNDRED YEARS AGO : — 

   There is Somebody of whom I am thinking.

   Far away there is Somebody of whom I am thinking.

   A hundred leagues of mountains lie between us ; —

   Yet the same Moon shines upon us, and the passing Wind breathes upon us both. 

   *

無力乍ら、訳すと、

   * 

一千百年の昔に中国人の心を詠んだ歌――

    私が想っている誰かが、いる。

    遠くに私の想っている誰かが、いる。

    私たちの間には百もの山々が横たわっている――

    それでも、同じ月の光が私たちを照らし、同じ風の息が私たち双方を、吹き抜けてゆくのだ。 

   *

機械計算すると、本書刊行時から千百年前は四八〇年で南北朝時代の北魏と南斉に相当する。この時代より少しだけ前なら、二人の大詩人がいる。陶淵明(三六五年~四二七年)と謝霊運(れいうん 三八五年~四三三年)である。しかし、二人以外でも、今のところ、この英訳でピンとくる詩篇は浮かばない。識者の御教授を乞う。

 なお、本電子化注は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが百三十二万アクセスを突破した記念として公開する。【202024日 藪野直史】]

 

   茶樹の緣起

 

   『目の慾を節制するは善、

    耳の慾を節制するは善、

    鼻孔の慾を節制するは善、

    舌の慾を節制するは善、

    體の慾を節制するは善、

    言語の慾を節制するは善、

    すべての…………は善』

[やぶちゃん注:所謂「六根清浄」である。「六根」は目・耳・鼻・舌・身・意(心的作用のこと)の各感覚器官の機序によって生ずる欲望や執着、即ち「迷い」を指し、それを断ち切って、穢れのない清い心身になること。これは恐らくは「法句経(ほっくきょう)」の「沙門品(しゃもんほん)第二十五」からであろう。「法句経」はパーリ語で「ダンマパダ」と称し、仏典の一つで、様々なテクストから仏陀の真理の言葉だけを取り出し、短い詩節の形で伝えた韻文のみからなる経典である。語義は「ダンマ」(「真理(法)」)+「パダ」(「言葉」)。編纂者は古代インドの僧であった法救(Dharmatrāta)と考えられており、パーリ語仏典の中では最もポピュラーな経典の一つで、現存経典の内、最古の経典とされる。但し、かなり古いテクストであるものの、釈迦の時代からはかなり隔たった時代に編纂されたものと考えられている(以上の「法句経」についてはウィキの「法句経」に拠った)。以下に、ウィキソースの「國譯法句經」から第三百六十節と第三百六十一節を引いてみる(読みは一部に留めて、少し操作を加えた。以下同じ)。

   *

眼を以つて自(みづか)ら攝(せつ)するは善(よ)く、耳を以つて自ら攝するは善し、鼻によりて攝するは善く、舌の上に自ら攝するは善し。

身に於いて攝するは善く、語(ことば)に於いて攝するは善し、意を以つて攝するは善く、一切處(いつさいしよ)に攝するは善し。一切處に攝する所ある比丘は諸(もろもろ)の苦痛より脫(のが)る。

   *

なお、最後に示すハーンの解説から、彼はフェルナン・フゥー(Fernand Hû 生没年未詳)によるフランス語訳をもとにしている。英文ウィキソースのこちらに彼のフランス語訳の「法句経」(Le Dhammapada)があり、この冒頭部がそれに相当する。]

 

 またしても誘惑の兀鷹[やぶちゃん注:「はげたか」。]は、彼の冥想の最高空まで翔け上がつてきて、彼の靈魂を下へ、下へと曳きむろし、よろめきつ〻、胸騷ぎしつ〻、迷妄幻覺の浮世へ歸つて行かせた。またしても思ひ出は、有毒な花の香りのやうに、彼の心をふらふらさせた。しかし彼は支那へ行く逍中、カシ市註十二を返る際、ただ瞬間かの巫女を見たのであつた。廣大なる支那の人々は佛法を渴望する事、恰も日に焦げた野原が慈雨を慕ふ如くであつた。彼女が彼を呼び止めて、彼の托鉢の中へ少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の布施を落としてくれた時、實際彼は扇子を彼の面前に揚げて眼を蔽つたのであつたが、したも充分敏速ではなかつた。して、其罪過の罰は千里の距離にも、彼につき纏ひつ〻、世界大敎主の言葉を傳へんとしてきた異國にまでも、彼の跡を追つかけたのであつた。呪はれたる美! たしかに正しき者を滅ぼすため、誘惑者中の最大誘惑者なる、惡魔(マラ)自身が作つたものに相違ない。賢くも薄伽婆(バガヴアツト)はその弟子を戒めてゐる。『爾曹[やぶちゃん注:「じさう(じそう)」対等或いはそれ以下の二人称複数形。汝ら。お前たち。]禁慾者註十三、女は觀るべきものに非らず。爾曹若し女に逢ふことあらば、爾曹眼を注ぐ事なく、貴き決心を把持して、語を交ふること勿れ。また須らく心中に微唱して云ふべし。「我は禁慾者なり。濁世[やぶちゃん注:「ぢよくせ(じょくせ)」。]の汚染を免る〻こと、蓮花の溝溜に開くと雖も猶ほその葉を

 

註十二 カシ市――聖都ビナーリズの古名。神々の創設に係かるものと信ぜられてゐる。また「世界の蓮華」とも呼ばれてゐる。パース氏は「古代並びに近代印度に於ける一切宗派のゼルーサレム」と稱した。今猶ほ二千の寺刹、五十萬の偶像を有する。セリングス氏著「印度の聖都」參照。

註十三 禁慾者 Çramana ――一切諸感覺を克服した人。この名目の興味ある歷史については、佛國[やぶちゃん注:フランス。]學者ブールヌーフ氏著「印度佛敎史序說」參照。

[やぶちゃん注:「カシ市」「聖都ビナーリズ」原文“Kasí”、注原文は“Kasí (or Varanasi).—Ancient name of Benares, the "Sacred City”。古代インドの王国波羅奈国(はならこく:サンスクリット語「ワーラーナシ」の漢音写。別名を「カーシー国」)。マガダ国の西、コーサラ国の北にあり、現在のインド北部のワーラーナシ(グーグル・マップ・データ)を中心とした地方をいう。釈尊が成道(じょうどう)後、この国の鹿野苑(サールナート) で初めて五人の比丘に説法をしたことで知られ、アショーカ王がこれを記念して二石柱を建立している。

「惡魔(マラ)」“Mara”。釈迦が悟りを開く禅定に入った時に、瞑想を妨げるために現れたとされる魔神。ヒンドゥー教の愛の神カーマと結び付けられ、別名「カーマ」又は「カーママーラ」として一体で概念されることがある。

「薄伽婆(バガヴアツト)」“Bhagavat”。サンスクリットでヒンドゥー教の「神」の意。ヒンドゥー教聖典の一つ「バガヴァッド・ギーター」(「ギーター」は「詩」の意)がよく知られる。]

 

汚さざるが如くせざるべたらず』それから、また新たに恐ろしい意味を以て、彼の記憶に浮かんだのは、訓誡第二十三条であつた――

 『一切煩惱の中、最も强きは形姿の煩惱なり。幸にしてこの慾情は無比なり。若し他にか〻るものあらんか、正道に入ること能はざらん』

[やぶちゃん注:重訳であるために、齟齬があるが、これは恐らく後漢の頃、インド僧迦葉摩騰(かしょうまとう)と後漢の訳経僧で中国に仏教を伝えた最初の僧とされる竺法蘭(じくほうらん)が訳した仏教最初の漢訳経典とされる「四十二章経(しじゅうにしょうぎょう)」が元かと思われる。ウィキの「四十二章経」によれば、『本経の序文に、明帝が大月氏に使者を派遣して写経させたとする記述があるほか、後漢桓帝の延熹』九(一六六)年の『襄楷の上奏文中に本経との類似が見られ、後漢末から三国時代』『には成立していたものと推定させられるが、伝世の経の内容は、南朝の南斉から梁にかけて成立したとされる』。『但し、仏教伝来当初の、後世のような訳場列位に見られるような仏典漢訳システムが全く確立していなかった状況を考えると、後漢当時の漢訳仏典は、後世の首尾一貫した経典とは異なり、外来の僧徒によって説かれた内容が、中国人の奉仏者たちによって箇条書きの形式で記録され、現在見られる『四十二章経』のような形式で伝存していたものということは、十分考えられる』とあるものである。但し、以上の内容は国立国会図書館デジタルコレクションの「仏説四十二章経」(梶宝順和訳明治二四(一八九一)年刊)を見るに、「第二十三条」ではなく、次の「第二十四章」の内容である

「これのみが特異点で特に強烈な煩悩である。幸いにしてこの欲情はそれに比肩する煩悩が存在しない。もし他に同等のレベルの煩悩があったとしたなら、人は正道に入ることは到底、不可能であろう」の意。]

 實際、このやうに形姿の迷ひに惱まされてゐながら、どうして彼は一夜と一日を天晴れ不斷の冥想に過ごすといふ誓願を完うし得るだらうか。既に夜は始まらんとす! 屹度、靈魂の病、精神の昂奮には祈りの外に療法はない。夕陽は迅速に消えつ〻あつた。彼は祈らうと努力した――

 『南無蓮華寶玉!

 『龜がその甲の中へ四肢を引込める如く、祝福されたる佛よ、願はくは一切私の感覺を全然冥想の中へ撤退させ玉はんことを。

 『南無蓮華寶玉!

 『長く人住まざる家の壞れ屋根に、降雨の侵入する如く、冥想の住まざる靈魂へは、情慾侵入し來たらん。

 『南無蓮華寶玉!

 『一切の粘泥は沈澱しで靜止せる水の如くに、敎主よ、わが靈を純潔ならしめ玉へ。野鳥が太陽の通路を追はんがため沼澤から立ち上がる如くに、敎主よ、われに濁世の上に立ちあがる强き力を與へ玉へ。

 『南無蓮華寶玉!

 『晝は日輝き、夜は月輝く。武士は武具を着けて輝き、禁慾者はまた冥想の中に輝く。さはれ、佛陀は晝も夜も絕え間なく世界を照らして、常住不變に燦然と輝く。

 『南無蓮華寶玉!

 『願はくはわれをして、大覺者よ、この世の森の猿となつて、愚痴の果實の追求捕捉のため永久に輾轉[やぶちゃん注:「てんてん」。巡り移ること。]上下することを止めしめ玉へ。一切を纏繞[やぶちゃん注:「てんぜう(てんじょう)」。纏(まと)いつくこと。絡まりつくこと。]する煩惱の植物は、その生長すること蛇の絡む如く速かに、林中に攀援莖[やぶちゃん注:「つたかづら」と当て訓しておく。]の伸び行く如く廣大なり。

 『南無蓮華寶玉!

 悲しいかな、彼の祈願懇禱は無効であつた、貴い經文の神祕な意味――蓮華の意味、寶玉の意味――は文句から既に發散してしまつてゐた。して、その文句の單調空疎なる吐露は、今や彼を誘惑し懊惱[やぶちゃん注:「あうなう(おうのう)」。悩み悶えること。]せしめた思ひ出を、更にますます危險にも明白ならしむるに過ぎなかた。あはれ、かの女の耳を飾つてゐた寶玉! いかなる蓮華の蕾も、肉を折り重ねた花に、滴るばかりの金剛石の火をつけたる優美にまさることは出來ない! 再び彼にはそれが見えた。またその先きには、褐色の美果の如くに甘味津々たる頰の曲線が見えた。訓誡第二百八十四節は眞理を穿つてゐる――

 『女の方へ心を曳かる〻慾情の蔓は、その量微量小根と雖も、これを心裡より拔き捨てざる限り、その心は則ち束縛の中にあるべし』

[やぶちゃん注:これも訳には一致しない部分が多いものの、恐らくはやはり「法句経」からかと思われる。ウィキソースの「國譯法句經」の二百八十四節は、『男子(なんし)の女子(によし)に對する煩惱、些しにても斷たれざる所あらば、彼(かれ)の心は尙ほ囚はる、乳(にう)を貪る犢(こうし)の母牛(ぼぎう)に於けるが如くに』である。ハーンが参照したフェルナン・フゥーのフランス語訳では、ここ。]

 それから、束縛に關して、同書第三百四十五節がまた彼の念頭を衝いた――

 『繩の束縛には何等の力あることなし。また木の桎梏にも、乃至鐡の桎梏にも力あることなし。これよりも更に一層强力なるは、寶玉を飾れる、女の耳環を懸想するととなり』

[やぶちゃん注:同じく「法句経」の「國譯法句經」の三百四十五節は『鐵や、木や、又は草にて作(な)れるものは、賢者(けいしや)は之れを牢(かた)き縛(ばく)と稱せず、珠環(しゆくわん)と、妻子との欲は貪著(とんぢやく)する所ところ强し』である。ハーンが参照したフェルナン・フゥーのフランス語訳では、ここ。]

 『全知の喬答摩(ゴータマ)!』と彼は叫んだ。「全見の敎主! 汝の敎訓の慰藉のいかに多方面に亙つてゐること! 流石に人情に對する理解の驚くべきこと! これは矢張り汝の受け玉ひし誘惑の一つであつたのか――かの大地は戰車の如く搖れ、太陽より太陽へ、世界より世界へ、宇宙より宇宙へ、永遠より永遠へと、神聖なる振動が傳つた夜、惡魔によつて汝の面前に配置された無數の迷妄の一つであつたのか』

[やぶちゃん注:「喬答摩(ゴータマ)」“Gotama” 釈迦の姓名。サンスクリット語の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ(現代のラテン文字表記:Gautama Śiddhārtha)、パーリ語の発音に基づいてゴータマ・シッダッタ(同前:Gotama Siddhattha)、漢訳では「瞿曇悉達多(くどんしっだった)」であるが、姓は漢訳ではこの「喬答摩」(けうたふみ(きょうとうみ))もある。]

 あはれ、かの女の耳の寶玉! 其幻影は去らなかつた。否、それが彼の心眼の前に徘徊する度每に、それは一層溫かい生氣を帶び、一層懷かしさうな眼眸[やぶちゃん注:「まなざし」と当て訓しておく。]を示し、一層美しい姿を呈して、彼の力が弱くなつてくるにつれて、ますます强くなるやうに見えた。彼は鹿のそれのやうな、大きな、淸く澄んだ、柔かくて黑い眼を見た。黑い頭髮の中の眞珠と、石竹色の口に含んだ眞珠、花の如き接吻に渦卷く脣を見た。それから甘美で異樣な、催眠的の薰り――若い香、女の香――が、彼の感覺に浮かんでくるやうに思はれた。立ち上がつて、斷乎たる決心を以て、再び彼は貴い呪文を唱へ、また『無常の章』の物語を誦した――

 『天を眺め地を眺めては、爾曹須らく言ふべし。「天地は永久なる能はず」と。山を眺め川を眺めては、爾曹須らく言ふべし。「山川は永久なる能はず」と。外物の形容とその生長を見ては、爾曹須らく言ふべし。「これ永久なる能はず」と』

[やぶちゃん注:「石竹色」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis の代表的な花の色のような淡紅色。ピンクにほぼ同じ。原文も“pink”である。

「眞珠」皓歯の換喩。

「無常の章」原文“Chapter of Impermanency”。平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「茶の木縁起」では『無常品(ほん)』とある。「発句経」の「北伝」には「無常品第一」があるが、その中の「所行非常。謂興衰法。夫生輒死。此滅爲樂」(所行は非常なり。謂はく、興衰の法なり。夫れ生ずれば輒(すなは)ち死ぶ。此れ、滅するを樂と爲す。:「涅槃経」の偈「諸行無常。是生滅法。生滅滅已、寂滅爲樂」の「諸行無常偈」がよく知られる)の意訳か。「無常品」は他の経典にもあるが、ここに書かれた内容と一致するものは見出せなかった。]

 しかし、またいかに甘美なる幻影迷妄だらう! 壯大なる太陽の幻迷、影を投ずる山々の幻迷、無定形にして、したも多樣を極むる水の幻迷、それから、またかの幻迷――否、否、何といふ不敬虔なる空想! 忌まはしい女! しかし、それでも何故に彼はたの女を詛ふ[やぶちゃん注:「のろふ」、]べきだらうか。かの女は嘗て一囘たりとも禁慾者の呪詛に値することをしただらうか。それは決してなかつた。ただかの女の姿、かの女の思ひ出、かの女の美しい幻影、それが忌まはしい幻影なのだ。かの女は何でもない。迷妄が愚弄、夢と影、虛榮、懊惱など、さまざまの迷妄を生むのだ。過失と罪は彼自身に、彼の敎に對する反抗的精神に、彼の制御されざる思ひ出に存する。心は水の如く動き易く、蒸氣の如く觸れ難いけれども、しかも意志によつては馴致され、叡智の戰車に繫ぐことが出來る。また幸福を得るためには、是非ともさうせねばならぬ。そこで彼は經文の難有い語句を誦した――

 『一切の諸相はただ假相のみ』この大眞理を充分に悟れば、誰でも一切の苦惱から解脫することが出來る。これは淸淨の道である。

 『一切の諸相には實在性あること莫し』この大眞理を充分に悟れば、誰でも一切の苦惱から解脫することが出來る。この道こそは……

 

 

 かの女の姿もまた實在でなく、眞實でなく、ただ迷妄だらうか。ただし迷妄の中では最も美しいものだ。かの女は彼に施濟[やぶちゃん注:「ほどこし」と当て訓しておく。]を與へた! 施與者の功德もまた迷妄であつたか――その功德は施與者のたをやかな指の美の如くに迷妄であつたか。たしかに阿毘達磨註十四には透徹

 

註十四 阿毘達磨(アビダルマ)――佛敎の哲學。佛敎の哲學は三大門に分たれ、その最高のものが阿毘達磨である。スペンス・ハーデー氏「佛敎提要」によれば、これは佛陀にして始めて悟得される。――(阿毘達磨は論の四つの一に屬し、對法又は無比法と譯せらる。――譯者)

[やぶちゃん注:「阿毘達磨(アビダルマ)」原文は“Book of the Way of the Law”。サンスクリット語ラテン文字転写は「Abhidharma」、漢音写は別に「阿毘曇(あびどん)」「毘曇(びどん)」もある。仏教の教説の思想体系(広義には研究及びそれらの解説書・注釈書を含む)を指す。他に「大法」或いは単に「論」とも漢訳する。

「三大門」仏の説いた「経」・仏の定めた「律」・教義を検討した「論」。

「スペンス・ハーデー」イギリスの仏教学者ロバート・スペンス・ハーディ(Robert Spence Hardy 一八〇三年~一八六八年)「佛敎提要」(Manual of Buddhism)は一八六〇年刊。

「論の四つ」六足論・婆沙論・倶舎論・順正理論か。]

 

了解し得られぬ神祕がある!……かの女が施してくれたのは、象の形の印せる金貨であつた――實際、佛陀に捧げた諸王の贈物が迷妄でなはつたと同樣だ。胸にも金を帯びてゐたが、かの女の皮膚の金色こそ更に一層美したつた。絹の帶と、狹い胸甲[やぶちゃん注:“breast-corslet”。胸当て。]の間に露はれた彼の女の若い腰は、つやつやしく、また弓の如くしなやかであつた。彼の女の聲に含める銀音が、彼の女の踝[やぶちゃん注:「くるぶし」。]に帶ぴた月の如きパガルの銀飾よりも豐艷な音を發したし、何よりもかも女の微笑!――小さな齒は、かの女の口の芳ばしき花[やぶちゃん注:隠喩。]の中に並らべる蕊[やぶちゃん注:「しべ」。]であつた。

 

註十五 パガル――印度婦人が平常着けてゐる環である。中空で、數個の金屬片が入つてゐるから、足を動かすとき響く。

[やぶちゃん注:“pagals”。インド製品の販売サイトの「インドにおけるバングルの存在」の「バングル」というのがそれらしい。但し、現行のそれは腕輪である。しかも、幾つも着けるもののようである。]

 

 何といふ意志の薄弱! 何といふ恥辱! 『決心』の强い御者が、よくもかほどに奔放不羈[やぶちゃん注:「ふき」束縛されないこと。]なる空想の群に對して支配力を失つたこと! かくまで意志が弛緩したのは、襲ひ來たらんとする危險、睡眠に陷らんとする危險の徴候だらうか。是等の空想は不思議にも鮮かで、燦然と輝くばかり明白なので、今にも、今にもありありと具體的形態を帶び、不自然な活動を始め、夢の舞臺の上に邪惡な劇を演じさうに見えた。『願はくば汝全覺者』と彼は聲高く叫んだ。『汝の微賤なる弟子を助けて、正悟の覺醒を得しめ玉へ。彼をしてその誓願を成就する力を發見せしめ玉へ。惡魔をして彼に勝つことを得ざらしめ玉へ』かくて彼は醍覺の章の永遠的章句を誦した――

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、心を法に注いでゐる。

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、心を僧に注いでゐる。

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、心を佛に注いでゐる。

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、その心は全き平和の味を知つてゐる。

 『佛陀の弟子は全然且つ永遠に醒覺してゐる。日夜絕え間なく、その心は冥想の深き平安を味つてゐる』

[やぶちゃん注:「醍覺の章の永遠的章句」平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「茶の木縁起」では『広衍品(こうえんほん)』とある。これは「法句経」の「広衍品第二十一」であろう。ウィキソースの「國譯法句經」(対句になっている二百九十六節以下を引く)では(一部の漢字を正字化した)、

   *

瞿曇(くどん)の弟子は常に覺醒せり、彼等の晝夜常に念ずる所は佛(ぶつ)にあり。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、彼等の晝夜常に念ずる所は法にあり。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、彼等の晝夜常に念ずる所は僧にあり。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、彼等の晝夜常に身念に住して。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、其の心晝夜常に不害(ふがい)を樂しみて。

瞿曇の弟子は常に覺醒せり、其の心晝夜常に修習(しゆじふ)を樂しみて。

   *

とあって、そこでは「瞿曇」に注し、『瞿曇又は喬答摩は釋迦族の姓なるが故に、釋尊を時には瞿曇佛と呼びたり』とある。ハーンが参照したフェルナン・フゥーのフランス語訳では、ここ。]

 

 彼の耳に呟きの聲が聞こえた。水の騷ぐ如き、多數の聲の呟きが彼の發聲を不明ならしめた。星は彼の眺めてゐる前で、消え失せて、限りなき空は暗くなつた。一切のものが、見えなく、黑くなつた。太い呟きは深くなつて、寄せくる潮の如き騷音となつた。また地は彼の足もとから沈んで行くやうに思はれた。彼の足は最早、地には觸れないで、一種の超自然的浮力が、彼の身體のあらゆる纎維に行き渡つた。彼は暗黑裡を浮いてゐるやうに感じた。それたら、柔かに、ゆるやかに沈んで行つて、羽の如くに寺の尖塔から墜ちた。これは死といふものだらうか? 否、何故なら、全く不意に、恰も第六不思議力によつて運ばれた如くに、彼は再び光明の中に立つたからである――或る印度の都會の驚くべき街頭に溶びせられた、水蒸氣のやうで、美しい、香ばしい、眠げな光の中であつた。今は呟きの性質が彼に明白にわかつてきた。彼は大きな巡禮の群と一緖になつて動いてゐたのだ。しかしこの群集は彼と同じ信仰のものではなかつた。彼等はその額に猥褻なる神々の汚れた象徴を帶びてゐた! が、彼はその中から脫し得られなかつた。一哩[やぶちゃん注:「マイル」。千六百九メートル。]も幅のある人間の激流は、一枚の葉が恆河[やぶちゃん注:「こうが」、ガンジス川。]の水に流される如く、彼を運んで行つた。そこには行列を隨へた諸王、象に跨つた皇子達、法衣をつけた波羅門僧、それからカビツト註十六とダマーリ註十七を歌はうとして動いてゐる、逸樂的な舞妓の群がゐた。しかし彼等の行先は何處? 彼等は町を出でて、

 

註十六 カビツト――印度の崇敬讃歌の作者が好んで用ひる詩形。常に四句にて成立する。

註十七 ダマーリ――や〻淫蕩的性質を帶びたる一種特別の讃歌。普通印度の祭禮に當つて歌はれる。印度の俗謠と讃歌の簡單にして且つ面白き說明については。ガルサン・ド・タッシー氏著「印度民謠」參照。

[やぶちゃん注:「彼等はその額に猥褻なる神々の汚れた象徴を帶びてゐた」ヒンドゥー教で「ティラカ」「ティラク」(「印」の意)と呼ばれる宗教的な装飾。色や形で信仰する宗派を示す。装飾的な意味合いの強い、同教徒の、夫が存命中の女性が同じく額につける「ビンディー」(「点」の意)とは異なり、聖職者や修行者がつけることが多いが、一般人でもつけることが多い(ここはウィキの「ビンディー」に拠った)。

「カビツト」原文“kabit”。

「ダマーリ」damâri”。

「ガルサン・ド・タッシー」フランスの東洋学者ジョセフ・ヘリオドール・サジェス・ヴェルトゥ・ガルシン・デ・タッシー(Joseph Héliodore Sagesse Vertu Garcin de Tassy 一七九四年~一八七八年)。「印度民謠」(Chants populaires de l'Inde)は一八五四年刊。]

 

榕樹の並木通りを經て、棕櫚の聳立[やぶちゃん注:「しやうりつ(しょうりつ)」。]せる間を下つて、日光の照らせる野へと通つて行つた。しかし何處へ行く?

[やぶちゃん注:「榕樹」バラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa。亜熱帯から熱帯地方に分布する常緑高木。]

 遠い靑靄[やぶちゃん注:「せいあい」。]の如く、彼等の前方に、山のやうな、堂々たる切石の建築が見えた――それは尖塔林立、高く沖天へ裝飾の金波を、散らせる寺院であつた。近づくに從つて形は大きくなり、靑の色合は灰色に変はり、輪郭は日光の中にくつきりと浮かんできた。それから細部が一つ一つ――岩の龜に載つた柱脚の象、柱頭の大きな獰猛なる顏、彫刻帶の中に絡まつてゐる龍蛇の怪物、格子細工を施せる壁龕相列つて𢌞廊をなせる處に、層又層をなす多頭の玄武岩神像、汚らはしき、忌まはしき肉慾の神々の畫などが明かになつた。それから彫刻された神々と牧羊婦註十八が、狂氣じみ群をなし、四肢や胴體が抱き合つたり重なり合つたりして角錐狀の塊團となつて突出せる下に、彫刻の懸崖面に口を開ける寺門――恰も大自在天(シバ)[やぶちゃん注:四文字へのルビ。]の口の如く暗い洞穴のやうな――は、生ける行列の群集を呑み込んだ。

 

註十八 牧羊歸――牧夫の娛や妻。詑哩史那(クリシユナ)は、毘瑟摯(徧照天)[やぶちゃん注:丸括弧のそれは本文。]の第八番目の權化として現はれた後は、牧羊婦達の間で育てられた。詑哩史那が是等の牧羊婦(ゴトビア)との情事が、諸種の宥名なる神祕的著作の主題となつてゐる。イーストック氏其他の人々によつて譯せられた『愛の海(プレム・サガール)』、イツポリト・フオーシユ氏が佛國[やぶちゃん注:ここはフランス語の意。]の散文に譯したベンガル抒情詩人ヂヤヤダバ作の肉感的な「ギータ・ゴピンダ」(エドウヰン・アーノルド氏は、その「印度歌集」に、これを純潔なる英詩に譯してゐる)などがそれだ。ブールターフ氏の未完譯「パガヴァタ・アルナ」、並びにテオドール・パヴイー氏の「詑哩史那とその敎理」參照。[やぶちゃん注:改行はママ。]

この題材は、印度藝術中、數個の最も珍異なる作品に影響を與へてゐる。例へばムーア氏著「印度萬神廟』(一八六一年版)第六十五圖及び第六十六圖參照。詑哩史那と牧羊歸の崇拜に關聯する變愛的神祕については、バート氏著「印度の宗敎」に擧げられてる諸書、ド・タツシー氏著「印度民謠」、及びラメーラス氏著「南方印度俗謠」參照。

[やぶちゃん注:「大自在天(シバ)」原文“Siva”。シヴァ(サンスクリット語の現在のラテン文字転写:Śiva:「吉祥者」の意)はヒンドゥー教の神で、破壊と再生を司る。現代のヒンドゥー教ではブラフマー(宇宙の創造神。仏教に取り入れられて「梵天」となった)・ヴィシュヌ(ベーダ神話では太陽神であるが、後の叙事詩では破壊神シヴァと並んで最高神とされ、慈愛・恩寵を垂れ、生類救済のため十種の形をとって世に現れるとされる。仏陀さえもその化身の一つとする)とともに最も影響力を持つ三柱の主神の中の一柱。ヒンドゥー教の原型であるバラモン教では世界を創造し支配する最高神を「イーシュヴァラ」(Īśvara)と言ったが、これが「シヴァ」の別名となり、仏教で後にバラモンやヒンドゥーの神々が取り入れられた際、「イーシュヴァラ」や異名の「マヘーシュヴァラ」がそれぞれ「自在天」「大自在天」と漢訳され、異名は千以上あるとも言われる。仏教では、シヴァ神と同じく、三目八臂で白牛に乗り、外道(仏教以外)と同様の神像で表現されるが、一方、密教の曼荼羅などにあっては、諸尊の一神としても重要な位置を占め、曼荼羅では男女一対で表され、妃を烏摩妃(うまひ)という。また仏や菩薩の化身という解釈もなされている(以上はウィキの「シヴァ」「大自在天」を参考にした)。

「牧羊歸」原文“Gopia”。英語辞書等の「gopi」に、もとサンスクリット語でヒンドゥー教に於けるヴィシュヌ神学で言う「ゴーピ」で、プラーナ文献(Purana:プラーナム・アーキヤーナム。「古き物語」の意)に登場する、クリシュナ神(ヒンドゥー教神話の神。後にヴィシュヌ神と同一視され、その十大化身の一つともされた。多くの悪鬼を滅ぼし、世を救うための偉業を行ったとされ、多くの彫刻や絵画の題材となっている。原注の「詑哩史那(クリシユナ)」)に仕える牛飼いの乙女。クリシャナ神との関係により、友・召使い・使者の三種類に分類されるといったことが記されてある。

「毘瑟摯(徧照天)」原文“Vishnu”のみ。ヴィシュヌ神。前の前の注の太字部を参照。丸括弧は落合氏が附したものだが、これは「遍照天」であって仏教の天部の神ではなく、三界の内で色界十八天の下位から数えて第九番目、色界第三禅の第三番目の天を指す語であるから、かえってない方がよかろうと私は思う。

「イーストック」イギリスの東洋学者で外交官・保守党議員であったエドワード・バックハウス・イーストウィック(Edward Backhouse Eastwick 一八一四年~一八八三年)。「愛の海(プレム・サガール)」(原題は“The Prema-sâgara; or, Ocean of Love”。「Prema」はサンスクリット語で「神聖なる愛」、「sâgara」は数字の「4」)は一八二三年以前に刊行されており、イギリスの東洋学者にしてヒンドゥー語のスペシャリストであったフレデリック・ピンコット(Frederic Pincott  一八三六年~一八九六年)との共訳である。

「イツポリト・フオーシユ」フランスのインド学者で翻訳家であったイポリット・フォーシュ(Hippolyte Fauche 一七九七年~一八六九年)。

「ベンガル抒情詩人ヂヤヤダバ」名の原文は“Jayadeva”。十二世紀のインドの詩人ジャヤデーヴァ。

「ギータ・ゴピンダ」ジャヤデーヴァが詠じたクリシュナと恋人の女性ラーダーとの愛を書いた叙事詩「ギータ・ゴーヴィンダ」。ヒンドゥー教のバクティ(「最高神への絶対的帰依」)を示す重要な文書とされる。正確な原題は“Le Gita-govinda et le Ritou-Sanhara”(「ギータ・ゴーヴィンダとリトゥ・サンハーラ」。後者は古代インドの詩人(五世紀か)カーリダーサの真作と見做されている六つの季節の変化を描いた抒情詩集)で、フォーシュが一八五〇年に刊行したフランス語初訳本である。

「エドウヰン・アーノルド」エドウィン・アーノルド(Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)はイギリス出身の新聞記者で作家・東洋学者・日本研究家・仏教学者・詩人。ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる人物。『小泉八雲 作品集「骨董」 (正字正仮名)全電子化注始動 / 幽靈瀧の傳說 (田部隆次訳)』で詳しく注をしておいた。後に彼と小泉八雲が逢ったかどうかは微妙である。

「印度歌集」 “Indian Song of Songs”はアーノルドが一八七五年に刊行した「ギータ・ゴーヴィンダ」の翻訳。

「ブールターフ」フランスの東洋学者(インド学者・イラン学者)として、仏教とゾロアスター教を研究したウジェーヌ・ビュルヌフ(Eugène Burnouf  一八〇一年~一八五二年)。

「パガヴァタ・アルナ」原文は“Bhagavata Parana”。バーガヴァタ・プラーナ。書名は正確には“Le Bhâgavata purâa”(「クリシュナ神の物語」の意)ブルヌゥフが第一巻を一八四〇年に、第二巻を一八四四年に、第三巻は一八四七年に翻訳刊行した。未完に終わったが、残る第四巻と第五巻は没後にフランスのインド学者ウジェーヌ・ルイ・オーヴェット・ベノー(Eugène-Louis Hauvette-Besnault 一八二〇年~一八八八年)らによって翻訳されて完結した(因みに本ハーンの作品集は一八八七年年刊である)。

「テオドール・パヴイー」フランスの旅行家で作家・東洋学者であったテオドール・パヴィ(Théodore Pavie 一八一一年~一八九六年)。「詑哩史那とその敎理」"Krichna et sa doctrine"は一八五二年刊。

「ムーア」イギリス人で元東インド会社所属の軍人でインド学者のエドワード・ムーア(Edward Moor  一七七一年~一八四八年)

「印度萬神廟」"The Hindoo Pantheon"「一八六一年版」とあるのは初版は一八一〇年であるから。その「一八六一版」の「第六十五圖及び第六十六圖」が“Internet Archive”のこちらと、こちら見られる。

「バート」フランスの東洋学者オーギュスト・バース(Auguste Barth  一八三四年~一九一六年)。「印度の宗敎」(Les Religions de l'Inde)は一八七九年刊。

De Tassy's "Chants populaires de l'Inde"; and Lamairesse's "Poésies populaires du Sud de l'Inde."

「ド・タツシー氏著印度民謠」本篇で既出既注。

「ラメーラス」エンジニア(橋・道路・灌漑事業などについてインドで従事した)で翻訳家のピエール=ウージューヌ・ラメーラス(Pierre-Eugène Lamairesse 一八一七年~一八九八年)。「南方印度俗謠」 (Poésies populaires du Sud de l'Inde)は一八六七年刊。]

 

 群集の渦卷は彼を内部の廣い處へぐるぐる伴つて行つた。誰も彼の黃色の服を眼に留めるものはなかつた。また彼の存在を注意するものさへゐないやうであつた。高い大きな通廊が交錯して、奇異な彫刻を施せる無數の巨柱は、炬火[やぶちゃん注:「きよか(きょか)」。篝火。松明(たいまつ)。]の黃色な光の背後へ、見分け難い遠方までつづいた。凄いほど肉感的な畸形怪像が、香州靄裡にぬつと現はれた。遠くからは象や、鳥頭鳥翼人體人肢の鳥の形に見えた巨像が、近寄つてみると、趣が變はつて、其意匠の奥妙は、婦人の身體を組み合はせた處にあることが現はれてゐた。或る同一の神がすべての奇怪な譬喩を支配し、絕えず同一の神體又は魔像が彫刻家の手によつて繰返され、恰も獨りで增殖して行くやうに見えた。大きな柱はそのものが象徴、人物、淫蕩の狀を示し、それから、この崇拜の亂痴氣騷ぎの精神は、燭燈の拗れた[やぶちゃん注:「ねじれた」と読んでおく。]眞鍮に、酒杯の歪んだ黃金に、水槽の彫刻せる大理石に、あらゆる器物に活躍橫溢してゐた。

 どれほどの距離を進んできたのか、彼にはわからなかつた。その數限りなき柱の間を經て、その化石せる神々の群を越え、閃めく燈光の列に沿つて下つて行つた旅路こそ、隊商の旅行や、支那への巡禮よりも更に長いやうに思はれた。しかし不意に何と譯がわからなく、墓地のやうな靜寂が襲つてきた。生氣躍如たる大海の潮は、彼の周圍から引き退いて、地下の建物の深淵裡に呑噬[やぶちゃん注:「どんぜい」。「噬」は「かむ」の意。噛んで飲み込むこと。]されてしまつたやうに思はれた。彼は獨り或る見知らぬ土窖[やぶちゃん注:二字で「あなぐら」と当て訓しておく。]の中で、貝殼狀の淺い盤の前にゐるのを發見した。盤の中央には人間の高さよりも低い圓柱があつて、その滑かな球形の絕頂には、花環がまきつけてあつた。上には悉く同形で且つ棕櫚の油を注いだ澤山の燈臺が懸たつてゐた。其他には彫像もなく、祀つた神體も見えなかつた。數知れぬ種類の花が鋪床[やぶちゃん注:二字で「ゆか」と当て訓しておく。]の上に堆積されて、厚い柔かな絨氈の如く滿面を蔽つて、彼が踏む足の下から、その馥郁たる芳精香粹を吐いた。その感覺的で、醉はせるやうな、不淨な匂ひは、彼の腦膸へ透徹滲染した。抵抗し難き倦怠が彼の意志を征服し、彼の身體はがつくり花の上に崩折れた。

 囁きの如く輕やかな跫音が、鈍い踝環[やぶちゃん注:「かくわん(かかん)」と音読みするしかあるまい。]の鳴る音と共に、重げな靜けさの中を通じて[やぶちゃん注:ママ。「通つて」の方がいい。]近づいてきた。突然彼は頸のまはりに、女の腕の微溫な滑らかさが辷る[やぶちゃん注:「すべる」。]のを感じた。あの女、あの女だ! 彼の迷妄、彼の誘惑なのだ。しかし何といふ變形變貌だらう! 超自然的の美、不可思議の魅惑! 彼の頰に接觸した女の頰は、素馨の花瓣の如く纎柔で、彼を見戍つた[やぶちゃん注:「みまもつた」。]双眸は、夜の如く深く、夏の如く美はしかつた。女の花脣[やぶちゃん注:「くわしん(かしん)」と音読みしておく。]はさ〻やいた――

 『あなたは心の盜人です。どんなにあなたを探がしたことでせう! どんなに骨折つて發見したこと! うまい味のものを私は持つてきました――脣と胸、果物と花。渴きをお感じなさる? 私の眼の泉からお飮みなさい。犧牲をお捧げになりたい? 私はあなたの祭壇です。御祈をしたい? 私はあなたの神です!』

 彼等の脣は觸れた。彼女の接吻は、彼の血液の細胞を炎に變化させたやうに思はれた。暫らくは迷妄が凱歌を奏した。惡魔が勝利を占めた!……激した決心の衝動と共に、夢みる人は夜中に目醒めた――支那の空の星の下に。

 

 

 ただ束の間の睡眠の眞似のやうなものであつたが、しかも誓ひを破り、神聖な目的に違背したのであつた! 屈辱と悔恨を感じながらも、斷乎たる決心を以て、禁慾者は彼の帶から鋭利なる小刀を拔き、潔くも兩方の眼瞼を斬り捨てた。彼は祈つた。『全覺の主よ! 汝の弟子はただ肉體が無力薄弱であつたために打負かされました。今や彼はその誓ひを新たにいたしました。食はず飮まずに、こ〻に誓願成就の時まで留まつてゐます』して、僧侶の姿勢――兩足を組んで坐つて、兩手の掌を上に向け、右掌は掌左の上に、左掌は仰向けた足の裏の上にのせて――を取つてから、彼は再び冥想を始めた。

 

 

 東雲紅色を呈し、日が明かるくなつた。太陽は地上のあらゆる影を短くして、またそれを長くし、それから遂に深紅に燃ゆる雲の彼の[やぶちゃん注:「かの」]火葬壇に沒した[やぶちゃん注:西の夕焼けと日没の隠喩。]。夜がきて、きらきらして、また去つた。しかし惡魔は彼に誘惑を演じても無効に了つた。今度は誓願成就、神聖なる目的は遂げられた。

 して、再び太陽は昇つて、光りの笑ひを以て世界を充たした。一切の花はその心を太陽に開いた。鳥は朝拜の火の讃歌を歌つた。深い森は愉悅に震へた。して、平野の上遠く、幾層階の寺院の軒頭と、市の塔の尖頂は、燦々たる輝きに浴し始めた。聖願滿足の念に勇んで、印度の巡禮者は朝暉の中に起き上がつた。彼は兩手を眼にもたげた時に愕然喫驚した[やぶちゃん注:「びつくりした」。]。何事ぞ! 一切は夢であつた? そんな事はない筈だ! が、彼の眼は今は少しの痛みをも感じない。また眼瞼も失つてもゐない。一本の睫毛さへも缺けてゐない。何といふ奇蹟! 彼は斬り捨てて地上に投げた眼瞼を搜索して見たが、駄目であつた。それは不思議にも無くなつてゐた。しかし見よ! 彼が投げ捨てた場所に、二株の驚くべき灌木が生えてゐた。その纎細な葉は、眼瞼の形狀を呈し、雪のやうな蕾は、今しも東方に向つて開かうとしてゐた。

 すると、その偉大なる冥想に於て獲たる[やぶちゃん注:「えたる」。]不可思議力の功德によつて、尊き傳道の僧は、其新たに創られた植物の祕密――その葉の奇特なる功能を知ることができた、しで、彼が法華經を齎した處の國の言葉で、彼はそれを茶と命名し、且つそれに向つて述べた――

 『正しい決心によつて作られ、惠み深く、生命を賦與する、汝うるはしき木よ、汝に祝福あれ! 見よ、汝の盛名は爾來地球の果てまでも擴がるに相違ない。それから、汝の生命の香りは、四方の風によつて、極めて遠い地方へも運ばれるにきまつてゐる。たしかに、今後いつまでも、汝の液汁を飮むものは、疲勞も彼に勝つことができないし、倦怠も襲はないやうな爽快を見出すだらう。また彼は眠氣[やぶちゃん注:「ねむけ」。]の混亂をも、勤行の祈禱の際、假睡[やぶちゃん注:「うたたね」と当て訓しておく。]を欲する念をも感じないだらう。祝福汝にあれ!』

 

 

 して、今猶ほ抹香の霞の如く、世界中から犧牲を捧げる煙のやうに、神聖なる誓の力、敬虔なる敬虔なる贖罪の功德によつて、人間の心氣を爽快にするために作られた茶の心地よき蒸氣が、地上のあらゆる國々から、絕え間なく天へ立ち騰つてゐる。

 

沙門品

 

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[やぶちゃん注:「沙門品」既注の「法句経」の「沙門品第二十五」のこと。 ] 



【ハーンによる「解說」】

 『茶樹の緣起』――私の昔噺は、一八七一年發行『支那事誌』に見えたブレツトシユナイダー氏の簡單なる記事に據つたものである――

 『日本の傳說によると、西曆五百十九年頃に、一人の佛僧が支那へ渡つた。彼の全靈全心を神に獻げん[やぶちゃん注:「ささげん」。]がために、彼は晝も夜も常住不斷、冥想をつづける誓を立てた。精進多年、非常に疲れた擧句、彼は睡眠に陷つた。翌朝目が醒めてから、彼は誓を破つたことを大いに殘念がつて、兩方の眼瞼を切つて、地に投げ捨てた。翌日その處へ歸つて見ると、彼は眼瞼が各〻一本の灌木となつてゐるのを發見した。これがその當時まで未だ知られなかつた茶樹であつた』

 ブレツトシユナイダー氏は、この傳說は支那人には知られてゐないと附言してゐる。しかしもともと佛敎とその一切驚くべき傳說は、支那から日本へ傳つたのであるから、この傳說もまだ[やぶちゃん注:ママ。「また」の誤植か。]支那に[やぶちゃん注:ママ。「また」の誤植か。]淵源を有し、後になつて日本の年代で作り變へられたものと思はれる。私の佛敎經句はフエルナン・ユー氏の譯及びレオン・フヰーア氏の西藏語[やぶちゃん注:「チベットご」。]よりの譯から採つたのである。若し閑暇の際、拙著に一瞥を賜はる東洋學者があれば、彼は私がまた梵語詩人のバーミニー・ヴイラーサからも、一つ二つの思想を藉りてゐることを見出すであらう。

[やぶちゃん注:「沙門品」「沙門果経」(しゃもんかきょう:パーリ語カタカナ音写:サーマンニャパラ・スッタ)か。出家修行者の修行の果報を釈迦が説いた形の経典。戒律(具足戒)を守ることによる果報・止行による果報・観行による果報(六神通)が順を追って説かれた初期仏教の代表的な貴重経典である。

「支那事誌」“Chinese Recorder”。正式には“Chinese Recorder and Missionary Journal” は一八六七年に上海で発行された、英語圏宣教師向けの雑誌。一九四一年に日本当局(この年、上海共同租界が日本軍によって接収されている)によって廃刊させられている。

「ブレツトシユナイダー」恐らくドイツ人の中国学者エミール・ブレットシュナイダー(Emil Bretschneider 一八三三年~一九〇一年)であろう。ウィキの「エミール・ブレットシュナイダー」によれば、現在のラトビア生まれで、『ロシア帝国の外交団の医師として北京などで働き、中国の歴史に関する著作を行った』。『エストニアのドルパート大学で医学を学んだ』後、一八六二年から一八六五年の『間、テヘランのロシア公使館の医師として働いた後、北京のロシア公使館の医師として働いた』。一八六六年に『出版されたヘンリー・ユールの著書『中国および中国への道』("Cathay and the Way Thither")を読んで中国学に興味を持った。北京にいる間にロシアの初期の中国研究者でロシア正教の修道院長、パルラディ・カファロフと知り合い、ロシアの教会伝道組織が集めた中国の歴史や地理や本草学の膨大な書籍のコレクションを閲覧することができた。それまでのヨーロッパにおける中国研究が直接、中国の原著を研究することが少なかったのに対して、ブレットシュナイダーは特に本草書や地理学の中国の書籍を一次資料とする研究を始めた』。一八七〇年に『最初の中国に関する著作、"Fusang- Who discovered America ?"を出版し、 "On the Knowledge Possessed by the Chinese of the Arabs and Arabian Colonies Mentioned in Chinese Books"をロンドンで出版した』。一八七五年に『上海で"Notes on Chinese medieval travellers to the West"を出版し』、一八八一年に『"Early European researches into the flora of China"を出版した。植物学史における先駆的な書籍である』。一八八八年の著書、"Mediaeval researches from Eastern Asiatic Sources : fragments towards the knowledge of the geography and history of Central and Western Asia from the 13th to the 17th century"を出版し、その中で』十二『世紀の耶律楚材や丘長春の旅行記の英訳を行った』。『植物学の分野でも』一八八〇『年から北京に近い山麓に栽培園をつくり、乾燥標本をイギリスのキューガーデンに送った。植物学に関する著書には"On the Study and Value of Chinese Botanical Works" (1870) "Early European Researches into the Flora of China" (1881) "Botanicum Sinicum" (1882)などがあり、全』二『巻の『中国におけるヨーロッパ人の植物発見史』("History of European Botanical Studies in China")もある』とあって、その事蹟(中国の伝承に詳しく、しかも植物学に精通している)から彼の書いたものが本篇の種元であると考えて如何にもしっくりくるからである。

「西曆五百十九年頃」継体天皇十三年で、古墳時代である。

「一人の佛僧が支那へ渡つた」という謂い方は、「日本の傳說によると」という前振りからは、あたかも日本の僧がという誤解を引き起こす恐れがある。日本への公的な伝来は宣化三 (五三八) 年に百済の聖明王が釈迦仏像と経典その他を本邦の朝廷に献上した時が公伝とされる。ただ、六世紀初めから一部の渡来人やその子孫によって仏教は信仰されていたと考えられてはいるから、まんざらおかしくはない。しかし、ハーンの本文を読むと、主人公の僧は日本ではなく、インドの僧で布教のためにインドから中国に入ったという形で設定されており、日本人の僧では各シチュエーションが全く説明不能となってしまうから問題外である(ブレットシュナイダーの原記事でも読めればと思うのだが)。しかも、以上の設定でも、展開に腑に落ちない変な部分が多過ぎる。明らかに既に中国国内にありながら、キー・マンである「女」の姿や僧が徘徊する景色が中国のそれではなく、インドへ逆戻りしているというのが、読んでいて何となっく喉に刺さった魚の骨のようなイラついた違和感を引き起こすのである(私は最終的にそれを降魔が引き起こした幻想世界であるとして読み下して納得はしているが)。これ以上はこの問題を私は特に掘り下げない。さらに言っておくと、本篇は「茶樹の緣起」なわけだが、茶(ツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ Camellia sinensis)は現在、熱帯及び亜熱帯・温帯域で植生する常緑樹であるものの、ウィキの「茶」によれば、『茶の原産地については、四川・雲南説(長江及びメコン川上流)、中国東部から東南部にかけてとの説、いずれも原産地であるという二元説がある』。『中国で喫茶の風習が始まったのは古く、その時期は不明である。原産地に近い四川地方で最も早く普及し、長江沿いに、茶樹栽培に適した江南地方に広がったと考えられる』。『しかし、「茶」という字が成立し全国的に通用するようになったのは唐代になってからであり、それまでは「荼(と)」「茗(めい)」「荈(せん)」「檟(か)」といった文字が当てられていた』。『書籍に現れるものとしては、紀元前』二『世紀(前漢)の『爾雅』に見られる「檟」、または、司馬相如の『凡将篇』に見られる「荈詫(セツタ)」が最初とされる。漢代の『神農本草経』果菜部上品には次のような記述がある』[やぶちゃん注:漢字を恣意的に正字に直したので、引用符を外す。]。

苦菜。一名荼草。一名選。味苦寒。生川谷。治五藏邪氣。厭穀。胃痹。久服安心益氣。聡察少臥。輕身耐老。

『陶弘景は注釈書『本草集注』の中でこれを茶のことと解した。これに対して顔師古は』、「茶に疾病を治癒する薬効は認められない」として『これを批判し、さらに唐代に編纂された『新修本草』も茶は木類であって菜類ではない』、『と陶弘景の説を否定して苦菜を菊の仲間とした。このため、以後、苦菜をキク科やナス科の植物と考えて茶とは別物とする説が通説である。ただし、その一方で宋代の『紹興本草』などでは、苦菜(と考えられたキク科やナス科の植物)に『神農本草経』の記す薬効がないと指摘されているため、陶弘景の説を肯定する見解もある』。『「荼」という字が苦菜ではなく現在の茶を指すと確認できる最初の例は、前漢の王褒が記した「僮約」という文章である。ここでは、使用人(僮)がしなければならない仕事を列挙した中に「荼を烹(に)る」「武陽で荼を買う」という項があるが、王褒の住む益州(現在の四川省広漢市)から』百『キロメートルほど離れた武陽(現在の彭山県、眉山茶の産地)まで買いに行く必要があるのは苦菜ではなく茶であると考えられる』。『この「僮約」には神爵』三年(紀元前五九年)という『日付が付されており、紀元前』一『世紀には既に喫茶の風習があったことが分かる』。『後漢期には茶のことを記した明確な文献はないが、晋代の張載が「芳荼は六清に冠たり/溢味は九区に播(つた)わる/人生苟(も)し安楽せんには/茲(こ)の土(くに)聊(いささ)か娯(たの)しむ可し」という、茶の讃歌といえる詩を残している』。『南北朝時代には南朝で茶が飲まれていた。顧炎武(清初)によれば、南朝の梁代』(五〇二~五五七年)『に既に「荼」から独立した「茶」の文字が現れたというが、字形成立の年代特定は難しく、仮に「茶」の字が生まれたとしても余り頻用されなかったと考えられている』とある。以上の茶の歴史の推定を馬鹿正直に受け止めて、改めて本篇内の時制を敢えて考えるならば――中国で茶の木が、この主人公の僧の両眼の瞼(まぶた)の肉片から誕生したのは、少なくとも紀元前五世紀前後(釈迦存命を上限とするからである)に遡って下限は紀元前一世紀後半以前でなくてはならない――ということとなろう。因みに、日本への茶の伝来は遙かに遅く、明確な伝来時期は不明ながら、一般的には延暦二四(八〇五)年に唐より帰国した最澄が茶の種子を持ち帰り、比叡山山麓の坂本に植えたことに始まると言われているし、空海も茶に親しんだことが、在唐中に求めた典籍を嵯峨天皇に献じた際の奉納表の中に記されてあるという。一説には既に奈良時代に伝来していたとする見解もあるらしい。しかし、その後、遣唐使が廃止されるとともに唐風の習俗が衰え、茶も盛んにはならなかったようである。茶を薬として再興させたのは、栄西が建久二(一一九一)年に南宋から茶の種子や苗木を持ち帰って、その薬効や作法を記した「喫茶養生記」を書いた本邦における臨済宗の開祖とされる栄西(永治元(一一四一)年~建保三(一二一五)年)であった。

「この傳說は支那人には知られてゐないと附言してゐる」私も伝奇・志怪小説のフリークであるが、聴いたことがない。中国の文献でこの話の類話を御存じの方は是非御教授願いたい。

「フエルナン・ユー」原文“Fernand Hû”。フェルナン・ユゥーは生没年未詳であるが、恐らくはフランス人(姓の表記から中国人との混血か?)。既に注で何度も述べたが、英文ウィキソースのこちらに彼のフランス語訳の「法句経」(Le Dhammapada)がある。

「レオン・フヰーア」フランスの言語学者・東洋学者であったヘンリ=レオン・フィアー(Henri-Léon Feer 一八三〇 年~一九〇二年)。

「梵語詩人のバーミニー・ヴイラーサ」原文“Bhâminî-Vilâsa”。不詳。この名で検索で掛かることは掛かるけれども、古いインドの詩人らしいことは判るものの、我、愚鈍にしてここに注を加えるレベルの内容を取得し得ない。識者の御教授を乞う。

「一つ二つの思想」同前により全く不詳。]

譚海 卷之三 本願寺卽位の料を獻ず

本願寺卽位の料を獻ず

○後柏原院の御時、戰鬪打つゞき、既に御卽位の禮行るべき樣なかりしに、本願寺より御卽位料として三千貫の鏡を獻ぜしに付て、御卽位の禮調へられ、此賞に仍(よつ)て門跡の號を賜り、大僧正に任ぜられたりとぞ。是より代々本願寺相襲(さうしふ)して、門跡と稱する事に成(なり)たりとぞ。又一度は御卽位料毛利家より奉りける事有といへり。

[やぶちゃん注:「後柏原院」後柏原天皇(寛正五(一四六四)年~大永六(一五二六)年/在位:明応九(一五〇〇)年~没まで)。彼は明応九(一五〇〇)年十月二十五日に後土御門天皇の崩御を受けて践祚した。しかし、「応仁の乱」(応仁元(一四六七)年に発生し、文明九(一四七八)年まで約十一年間に亙って継続した)後の混乱のため、朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は二十六年に及んだが、即位の礼を挙げるまで実に二十一年を待たなくてはならなかった。第十一代将軍足利義澄が参議中将昇任のために朝廷に献金し、それを天皇の即位の礼の費用に当てることを検討したが、管領細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王とは認められない。儀式を挙げなくても、私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など、無駄なことである」と反対し、群臣も同意したため、この献金は沙汰止みとなり、期待される主要な献金元であるはずの室町幕府や守護大名も逼迫していたため、資金はなかなか集まらなかった。費用調達のため、朝廷の儀式を中止するなど、経費節約をし、幕府や本願寺九世実如(長禄二(一四五八)年~大永五(一五二五)年:蓮如の五男)の献金を合わせることで、即位二十二年目の大永元(一五二一)年三月二十二日、漸く即位の礼を執り行うことが出来た。但し、この時も、直前に将軍足利義稙(よしたに:第十代将軍の再任)が管領細川高国と対立して京都から出奔して、開催が危ぶまれた。だが、義稙の出奔に激怒した天皇は即位の礼を強行、警固の責を果たした細川高国による義稙放逐と足利義晴擁立に同意を与えることとなった、とウィキの「後柏原天皇」にある。]

甲子夜話卷之六 6 いちめ笠の說

 

6-6 いちめ笠の說

古畫に圖せる婦女の、深き笠の頂に隆きところある物を冒れる、多く見ゆ。此をいちめ笠と謂ふと聞けり。後或人の話れるは、今も吉野の奧より、木を用て作れる深き笠を出す。其名をおちめ笠と謂ふ。其故は、亂世に平氏の人落行て、此山中にて製し出せる物なれば、おちめ笠と云となり。然どもこれは後人の附會にして、おちめいちめは語音の轉訛なるべし。吉野に有るは古風の傳はりたるまでのことなるべし。

■やぶちゃんの呟き

「冒れる」「かぶれる」。

「いちめ笠」市女笠。平安以降の代表的な女性用の被り笠。雨の日や旅行には貴人もこれを用いた。初期のものは傾斜が急で深く、頂きに巾子(こじ)と称する有意に突出した部分があるのが特徴であったが、後代になると、次第にそれが浅くなり、膨らんだ形に変っていった。元来は菅(すげ:単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex)を用いた縫い笠と推定されているが、後には黒漆の塗り笠が普通になった。旅行に際しては、笠の縁に「牟子(むし)の垂衣(たれぎぬ)」と呼ぶ苧麻(からむし:双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の薄い垂れ布を下げることもあり、衣服の裾をすぼめて折って、市女笠を被った姿は壺装束として知られている。名は、初め、市に出る物売りの女性が被ったことに由来する(「ブリタニカ国際大百科事典」他に拠る)。ほら、芥川龍之介の「藪の中」で真砂が被っていたやつさ。

「話れるは」「はなされるは」。

「おちめ笠」この呼称は今に伝わっていない模様である。

大和本草卷之十三 魚之下 鯖(さば)

 

鯖 鯖ノ字順和名ニアヲサハト訓ス此魚牙小ナリ故サ

 ハト云サハハ小也能登丹後ノ産ヲ佳品トス脯トナシテ

 遠キニ寄一双ヲ合テ挾ム故ニサハト云漁人其色ヲ

 ウルハシクセントテイハシノ油ヲヌル叓アリヨク洗去ヘシサシ

 サハ油膩ノ物ナリ病人ニ不好皮ヲ去テ可食凡魚鳥

 ノ皮難消化且生痰不可食又有膩処可去之〇

 生肉漁人爲醢又其背腸ヲ醢トス味佳夏秋漁人

 夜コレヲツル漁火千萬海上ニツラナレリ見ル人目ヲ

 驚カス伊勢物語ノ哥ニ晴ル夜ノ星カサハヘノ螢カ

[やぶちゃん注:「サハヘ」はママ。]

 モ我スム里ノ海人ノタク火カトヨメルカコトシ今案本

 草ニ靑魚アリ竹魚アリ靑魚ハ背正靑色トイヘリ竹

 魚ハ骨刺多ク色如竹色鱗下間以朱㸃味如鱖

 魚トイヘルハ是亦サハニヨク合ヘリサハヽ此二物ノ内ナル

 ヘシ〇生サハヽ補虚瘡瘍金瘡中滿食滯アル人不可

 食乾テ油アルハ食氣ヲ滯ラス病人不佳

○やぶちゃんの書き下し文

鯖(さば) 「鯖」の字、順が「和名」に「あをさば」と訓ず。此の魚、牙、小なり。故、「さば」と云ふ。「さ」は「小」なり。能登・丹後の産を佳品とす。脯〔(ほじし)〕となして遠きに寄す。一双を合せて挾む。故に「さば」と云ふ。漁人、其の色をうるはしくせんとて「いはし」の油をぬる叓〔(こと)〕あり。よく洗ひ去るべし。「さしさば」、油膩(〔ゆう〕に)の物なり。病人に好からず。皮を去りて食ふべし。凡そ魚鳥の皮、消化し難く、且つ、痰を生ず。食ふべからず。又、膩〔(あぶら)〕有る処、之れを去るべし。

〇生肉、漁人、醢(ひしほ)と爲し、又、其の背腸(せわた)を醢(ひしほ)とす。味、佳(よ)し。夏秋、漁人、夜、これをつる。漁火千萬、海上につらなれり。見る人、目を驚かす。「伊勢物語」の哥に、

 晴〔(はる)〕る夜の星かさはへの螢かも

    我がすむ里の海人(あま)のたく火か

とよめるがごとし。

今、案ずるに、「本草」に「靑魚」あり、「竹魚」あり。『靑魚は、背、正靑色』といへり。『竹魚は、骨、刺(はり)多く、色、竹色の如し。鱗の下の間、朱を以つて㸃ず。味、「鱖魚」の如し』といへるは、是れ亦、「さば」によく合へり。「さば」は此の二物の内なるべし。

〇生さばは虚を補す。瘡瘍〔(さうやう)〕・金瘡〔(きんさう)〕・中滿・食滯ある人、食ふべからず。乾(ほ)して油あるは食氣を滯らす。病人に佳からず。

[やぶちゃん注:本邦では単に「さば」と呼ぶ場合は、スズキ目サバ科サバサバ亜科属マサバ Scomber japonicus、或いは、サバ属ゴマサバ Scomber australasicus を指す。

『順が「和名」に「あをさば」と訓ず』源順(したごう)の「和名類聚鈔」の「巻十九」の「鱗介部第三十 龍魚類第二百三十六」に、

   *

鯖 崔禹錫(さいうしやく)が「食經(しよくけい)」に云く、『鯖【音「靑」。和名「阿乎佐波(あをさば)」。】味、鹹、毒、無し。口、尖り、背、蒼き者なり』と。

   *

とある。

『此の魚、牙、小なり。故、「さは」と云ふ。「さ」は「小」なり』実際、歯が小さく、「小歯(さば)」や「狭歯(さば)」を有力な語源の一つとはする。

「脯」干物。

『一双を合せて挾む。故に「さは」と云ふ』後に出る「さしさば」で「刺し鯖」のこと。鯖の鱗と内臓を除去し、背開きにしたものを塩漬けにして串に刺したものを言う。二尾を重ねて頭の所に串を刺す。江戸時代の西日本では、お盆の際に欠かせないものの一つであったとされる。これは恐らく、これを生き物の雌雄の合体に擬え、繁栄の祝意を言祝ぐもので、「生魂(いきみたま)」の贈物の一例と考えられる。これも二尾を「狭」(せば)くおくので、その転訛説とするのも有力な語源の一つである。

「いはし」本邦で「いわし」と呼んだ場合は、ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ニシン亜科マイワシ属マイワシ Sardinops melanostictus・ニシン科ウルメイワシ亜科ウルメイワシ属ウルメイワシ Etrumeus teres・ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus の三種を指す。

「油膩」極めて脂っこいこと。

「醢(ひしほ)」塩蔵品・塩辛。

『「伊勢物語」の哥に……』「さはへ」は「かはへ」(かはべ・河邊)が正しい。「伊勢物語」の第八十七段(通称「布引(ぬのびき)の瀧」)の中の一首。全文を示す。

   *

 むかし、男、津の國莵原(むばら)の郡蘆屋の里にしるよしして、行きて住みけり。むかしの歌に、

 蘆の屋の灘(なだ)の鹽燒きいとまなみ

   黃楊(つげ)の小櫛(をぐし)もささず來にけり

とよみけるぞ、この里をよみける。ここをなむ「蘆屋の灘」とはいひける。この男、なま宮仕へしければ、それを賴りにて、衞府(ゑう)佐(すけ)ども集り來にけり。この男の兄(このかみ)も衞府の督(かみ)なりけり。その家の前の海のほとりに遊びありきて、

「いざ、この山の上(かみ)にありといふ布引の瀧、見にのぼらむ。」

と言ひて、のぼりて見るに、その瀧、ものよりことなり。長さ二十丈、廣さ五丈ばかりなる石のおもて、白絹(しらぎぬ)に岩を包めらむやうになむありける。さる瀧の上(かみ)に、藁座(わらうだ)の大きさして、さしいでたる石り。その石のうへに走りかかる水は、小柑子(せうかうじ)・栗の大きさにて、こぼれ落つ。そこなる人に、みな、瀧の歌よます。かの衞府の督、まづよむ。

 わが世をば今日か明日かと待つかひの

   淚の瀧といづれ高けむ

あるじ、次によむ。

 ぬき亂る人こそあるらし白玉の

   まなくも散るか袖のせばきに

とよめりければ、かたへの人、笑ふことにやありけむ、この歌にめでて止みにけり。

 歸り來る道遠くて、うせにし宮内卿もちよしが家の前來るに、日暮れぬ。宿りの方を見やれば、海人(あま)の漁火(いさりび)多く見ゆるに、かのあるじの男、よむ。

 晴るる夜の星か河邊の螢かも

   わが住むかたの海人のたく火か

とよみて、家に歸り來(き)ぬ。

 その夜、南の風吹きて、浪いと高し。

 つとめて、その家のめのこども出でて、浮き海松(みる)の波によせられたる拾ひて、家のうちに持(も)て來ぬ。女方(をむながた)より、その海松を高坏(たかつき)にもりて、柏(かしは)をおほひていだしたる、柏に書けり。

 わたつみのかざしにさすといはふ藻も

  君がためには惜(を)しまざりけり

田舍人の歌にては、あまれりや、たらずや。

   *

注は附さない。ネットを検索すれば解説や現代語訳はごろごろある。

『「本草」に「靑魚」あり、「竹魚」あり……』二種は「本草綱目」の「巻四十四 鱗之三」の部に並んで出るが、「靑魚」は「生江湖間」とし、「竹魚」も「出桂林湘灕諸江中、狀如青魚大」と、孰れも淡水魚の記載としか読めず、現代中国でも「靑魚」は条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinae アオウオ属アオウオ Mylopharyngodon piceus に、「竹魚」はコイラベオ亜 Labeoninae の一種に比定されているものと思われ(例えば中文サイトのこちらを見られたい)、『「さば」によく合へり。「さば」は此の二物の内なるべし』という益軒の孰れかをサバとする同定(根拠は背の色と尖った骨という貧弱なもの)は完全な誤りである。

「鱖魚」スズキ亜目 Percichthyidae 科ケツギョ属ケツギョ Siniperca chuatsi であるが、これも(実は姿は見るからに海産魚っぽいのだが)中国の北方系淡水魚の一種である(中国大陸東部沿岸の黒竜江省(アムール川)から広東省にかけての各水系に分布するが、華南よりも華北に多い)。「大和本草卷之十三 魚之上 鱖魚 (サケ)」の私の冒頭注を見られたい。

「中滿」不詳。下に続いて中くらいの体格での謂いか。

「食滯」暴飲・暴食や消化が悪い物を摂ったことなどにより脾胃に負担がかかっている状態を指す。]

三州奇談卷之二 釜谷の桃花

 

    釜谷の桃花

 千代にひく小松の城下は、加州三代利常公の隱居の地にして、町賑ひ人豐かに、致景も江山程よく、平遠の眺望最も佳境なり。所は絹を織りて世を渡る。故に女工の輩出も多し。殊に色よき婦女に非ざれば、織りける絹に艷少なしとにや。故に此織婦共、遊び日休日每には必ず近隣の花に遊び、紅葉にめで、纔[やぶちゃん注:「わづか」。]の見物にも出遊ぶ。遊人又是を見に出る故、さもなき事に群集せるも土地の習ひなり。

[やぶちゃん注:「利常」加賀藩第二代藩主前田利常(文禄二(一五九四)年~万治元(一六五八)年:享年六十六)。藩祖前田利家の四男。慶長五(一六〇〇)年九月、「関ヶ原の戦い」の直前の「浅井畷の戦い」の後、西軍敗北のため東軍に講和を望んだ小松城の丹羽長重の人質となっている。この人質としての小松城内での抑留されていた時、長重が利常に自ら梨を剥き与えたことがあり、利常は晩年まで梨を食べる度にこの思い出を話したという逸話が残る。同年、跡継ぎのいなかった長兄利長の養子となり、名を利光とし、徳川秀忠の娘珠姫を妻に迎えた(この時珠姫はわずか三歳であった)。徳川将軍家の娘を娶ったことは、利常にとってもその後の前田家にとっても非常に重要な意味を持つことになった。慶長一〇(一六〇五)年六月、利長は隠居し、利常が家督を継いで第二代藩主となった。その後、寛永一六(一六三九)年六月に嫡男光高に家督を譲るとともに、次男利次に富山藩十万石を、三男利治に大聖寺藩七万石を分封し、二十万石を自らの養老領として、小松に隠居した。この隠居の際、家光は制止したが、利常は聞かずに隠居届を出して隠居したという。支藩の創設と近江の飛び地により、加賀藩は公称高百二万五千石となった。八条宮別業(桂離宮)の造営に尽力したのを機に、京風文化の移入にも努め、後に「加賀ルネサンス」と呼ばれる華麗な金沢文化を開花させた。しかし、正保二(一六四五)年四月に光高が急死し、跡を継いだ綱紀が三歳と未だ幼かったことから、六月に将軍家光からの命令で綱紀の後見人として藩政を補佐した。利常は実質の治世の間、常に徳川将軍家の強い警戒に晒されながらも、それを巧みにかわして、百二十万石に及ぶ家領を保った。内政において優れた治績を上げ、治水や農政事業(十村制・改作法)などを行い、「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの盤石の態勢を築いた。また、御細工所を設立するなど、美術・工芸・芸能等の産業や文化を積極的に保護・奨励した。一方で、綱紀の養育のために戦国時代の生き残りを綱紀の近くに侍らせて、尚武の気風を吹き込んだ。また、綱紀の正室には将軍家光の信頼の厚い幕府重鎮保科正之の娘摩須姫を迎えるなど、徳川家との関係改善に努めたと、ウィキの「前田利常」にある。

「所は絹を織りて世を渡る」「石川県能美郡誌」(国立国会図書館デジタルコレクション)の「小松町」の「產業」の第一に「製絹」が挙がっている。それによれば、濫觴は不明ながら、慶長三(一五九八)年に小松城の丹羽長秀の旗印の地布を製して献上したと伝え、前注に見る通り、利常の産業奨励策で発展したことが記されてある。]

 寶曆三年の事とかや。彌生三日は人の遊ぶ日なり。其の日、殊に空もの長閑(のど)けくて、人々そこ爰(ここ)と誘ひ步きけるうち、釜谷(かまたに)といへる所は小松の東南五町餘を隔てゝ山入の地、大野・花坂へ行く道なり。釜谷神社は、則(すなはち)吳服の神躰にて、女工紡績を守り給ふ神なれば、多く此社へ詣づ。况や其邊りに吉竹と云村あり。猿を廻して世を渡る故に、此社頭へ猿を呼び來りて、今樣に拍子をとり、踊りつ舞ふ。色も鄙(ひな)めきながら又莊觀なり。猿は初め諸國より求めて敎へて、可ならざる者は直ぐに此宮に放つ。故に捨猿も又多し。是等の興ある地故、女子の輩殊に毛氈すき間もなく敷詰めけり。けふは猶更桃花は爰かしこに開き、藤も櫻も梢を爭ひ、菜種・山吹も村里をめぐり、暖氣郁々(いくいく)たれば、日あたりに扇を隔て、初めて魚賞してうたひうかれ行(ゆき)ぬ。

[やぶちゃん注:「寶曆三年」一七五三年。加賀藩第七代藩主前田重煕(しげひろ)の治世であるが、彼はこのシークエンスの一か月後の宝暦三年四月八日に二十五歳の若さで死去し、跡は異母弟の重靖が継いだ。この少し前、延享五(一七四八)年に発生した、所謂、「加賀騒動」(六代藩主前田吉徳に登用された大槻伝蔵ら改革派と、家老前田直躬(なおみ)ら門閥重臣との対立に端を発し、吉徳の死後、七代宗辰の急死や江戸上屋敷における毒物投入事件などが起こり、吉徳の側室真如院と大槻らによる家督相続に絡む陰謀とされ、大槻一派は死に追いやられた事件)で藩中は混乱が続いていた。

「釜谷」石川県小松市吉竹町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の東端附近と推定される。

「東南五町餘」五町ではおかしい。小松城跡から計測すると、この地区は直線でも四キロ以上離れている。国書刊行会本では『五十余町』(五キロ半)で腑に落ちる。

「大野・花坂」石川県小松市花坂町が吉竹町南東に接し、そのさらに南東に大野町がある。

「釜谷神社は、則(すなはち)吳服の神躰にて、女工紡績を守り給ふ神なれば、多く此社へ詣づ」これは吉竹町の南東部にある幡生(はたさや)神社である。「石川県神社庁」の同神社の解説に、祭神を幡生神・稲倉魂命・大田神・伊弉諾尊・伊弉冊尊・菊理媛神とし、『釜谷さんと呼ばれている。延喜式内社。養老』二(七一八)年、『泰澄の創建にかかり、天平宝宇』二(七五八)『年、淳仁天皇が本社に国幣を捧げられてより、爾来』三百六十『年間、奉幣の儀が行われた。文治』五(一一八九)年に『富樫泰家が深く崇敬して神領を寄進し、社殿堂塔を再建した。前田利常が幡生の総社・呉服明神・加賀絹の守護神として、深く崇敬したので、小松の機織業の参拝が多くなった』とある。

「是等の興ある地故、女子の輩殊に毛氈すき間もなく敷詰めけり」は国書刊行会本では『是等の興ある地故、女子の輩殊に多く往くなれば、是がために少年の蕩子又来りて、路傍の草の上、毛氈透間もなく敷つめけり』となっている。]

 社より山入五丁許り[やぶちゃん注:五百四十六メートル。]に、大きなる池あり[やぶちゃん注:複数、現存する。現在のそれは調整池であるが、この中央のものが以下の「瀧」から、それらしくは見える。]。此水瀧となりて下り落つ。其瀧迄うかれて人もゆけども、此瀧を上りて上の塘(つつみ)の春草には行く人も希なりしが、其日、小松細工町[やぶちゃん注:小松市細工町がある。]と云ふ所の靑年の男三人連にて、桃花を尋て此社へ詣で、道々の芝の上にまどひせる婦女に戲れて、且(かつ)酒を被(あほ)り、早歌口に任せて唱へ、左りに步み右にたどり、千鳥足して行き行きする程に、彼瀧の元まで來りければ、漸々(やうやう)日は西に傾き、多く道のべの毛氈をはらひ、辨當を仕舞ひ、椀・箸の類ひを流に投込みて、人々呼はり廻はして、歸路に趣くべき頃になりしに、彼三人は猶酒に任せて瀧を上り、うへの池のつゝみへ來りけるに、此のつゝみの上に二十五六歲許りなる女子、人の内儀と見えてこうとうに[やぶちゃん注:「高頭」か。]髮ゆひ、衣裝もさも取繕ひたるに、十八九の女工と見えしを、供と覺しく一人具して、此池のつゝみに靑き敷物を廣げ、辨當取散らし、且つ多く草を摘みたる躰(てい)なるに、此三人を見て物を取隱すやうなり。

 若者共、

「扨は恥らへる躰なり」

と、彌(いよいよ)彼敷物の上ににじり上りて、詞を懸け、

「狼籍御免あるべし」

と腰の小筒(ささえ)取出して、

「主人へは恐るべし、侍女へは苦しからじ。路傍の花誰(た)れか一枝の興をとがめん」

と云へば、女曰く、

「我、侍女にあらず、詞をな賤しめ給ひそ。然共(しかれども)春風咎むべきことやあらん、しかも人間の興もだすべきにあらず」

[やぶちゃん注:「もだす」ここは「無視する」の意。]

と終に盃をうけて、

「秋月三峽の色あり」

と微笑して、是より酒たけなはにぞ廻(めぐ)る。

 少年の曰く、

「われ主人と云ひたる人は、扨は同胞(はらから)なるか。」

 女頷づく。

 少年の者則(すなはち)うたうて[やぶちゃん注:ママ。「歌ふて」。]、

「梅を命の春さへも。」

 主人曰く、

「曲(きよく)長きこを止(やめ)よ、歸路道々相和すべし。日も早海邊の松にかゝるものを」

とて、一つの器を取隱(とりかく)す。

 一少年戲れて是を引こぼしけるに、草にて搗(つき)たる團子なれば、則(すなはち)取りて喰はんとす。

 二女押しとゞめて曰く、

「是は我輩密(ひそか)に貯ふるものなり。人の喰ふべき物に非ず。」

 少年いよいよ戲れて、留(とむ)る手を無理に引離し、つゞけて二枚を喰ふ。

 女子いためる色ありて曰く、

「終に此子あやまつ」

と。

 其中一少年、酒をかふむること多からざる者あり。女子が數語を聞くに、人間を以て別物とするに似たり。

 日暮るゝに隨ひて顏色光りあり。眼中もすごく見えけるまゝ、俄に形を改め手をつき、暇(いとま)を乞ひて二子を携へて立去る。

 一人は猶酒にふけりて、

「二女子を伴はん」

と云けれども、

「道にてこそ待ため」

と無理に連歸りける。

 麓ははや日くらうして、女子の類ひは皆歸りて、無賴(ぶらい)の男のみ猶未だ殘りたり。人々に語りて聞合すに、

「元來小松は廣からざる所なれば、端々の人のあらかたに指折(ゆびをり)盡せども、左(さ)あるべき女子(をなご)も覺へず。且(かつ)供もなくてさる年若き姊妹の來り遊ぶべきにも非ず。いか樣(さま)待ちて見よ」

とて、亥の刻[やぶちゃん注:午後十時前後。]近く迄見合せ共(ども)終に來らず。

「此道外に出づべき道にもあらぬに、いかなる所の婦女にや」

と、訝り歸りけるが、小松の町へ入りてこそ、先の草餅を喰(く)ひし一少年、頻(しきり)に腹痛し、忽ち狂人の如く大聲上げて叫び廻り、

「餅は返すぞ餅は返すぞ」

と呼はりしが、暫くして七竅(しちけう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「しちきょう」。人間の顔にある七つの穴。口・両眼・両耳・両鼻孔。]より水夥敷(おびただしく)出で、其夜終に死(しに)けり。

 其頃は老猿の所爲の樣に云ひけるが、いかなることにやあらん。此外にも此如(かくのごとき)こと聞(きこえ)し。

2020/02/01

三州奇談卷之二 切通の茯苓


    切通の茯苓

 加州能美郡(のみのごほり)今江村は、大聖寺領江沼郡に境して、湖畔に松四五本ありて限(かぎり)とす。此方(こなた)の古城の封疆(どて)を切拔きて通る大道あり。則(すなはち)上口三郡への往還にして、頓(やが)て串と云ふ里ありて、娼婦紫羅の裾をひるがへし、駒下駄の音を揃へて爰迄じゃ送り迎ふる堺なれば、人の行通ひ深夜といへども絕(たえ)ず。

[やぶちゃん注:「茯苓」菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensaウィキの「マツホドによれば、アカマツ(球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora)・クロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii)等のマツ属 Pinus の植物の根に寄生する。『菌核は伐採後』二~三『年経った切り株の地下』十五~三十センチメートルの『根っこに形成される。子実体は寄生した木の周辺に背着生し、細かい管孔が見られるが』(oso(おそ)氏のキノコ図鑑サイト「遅スギル」のこちらで画像で見られる)、『めったには現れず』、『球状の菌核のみが見つかることが多い』。『菌核の外層をほとんど取り除いたものを茯苓(ブクリョウ)と呼び、食用・薬用に利用される。天然ものしかなかった時代は、松の切り株の腐り具合から見当をつけて先の尖った鉄棒を突き刺して地中に埋まっている茯苓を見つける「茯苓突き」と言う特殊な技能が必要だった。中国では昔から栽培されていたようだが』、一九八〇『年代頃よりおがくず培地に発生させた菌糸を種菌として榾木に植え付ける(シイタケなどの木材腐朽菌と同様の)栽培技術が確立され、市場に大量に流通するようになって価格も下がった。現在ではハウス栽培で大量生産されて』おり、『北京では茯苓を餅にしてアンコをくるんだ物が「茯苓餅」または「茯苓夾餅」の名で名物となっている。かつては宮廷でも食された高級菓子で、西太后も好物だったという。現在は北京市内のスーパーでも購入することができる』。『薬用の物では、雲南省に産する「雲苓」と呼ばれる天然品が有名であるが、天然物は希少であるためほとんど見ることはできない』。『日本はほぼ全量を輸入に頼っていたが』、二〇一七年に『石狩市の農業法人が漢方薬メーカーのツムラ(夕張ツムラ)との協力で、日本初となるハウス量産に成功した』とある。『菌核の外層をほとんど取り除いたものは茯苓(ブクリョウ)という生薬(日本薬局方に記載)で、利尿、鎮静作用等があ』り、『多くの漢方方剤に使われ』ている。歴史的仮名遣は「ぶくりやう」。

「今江村」現在の石川県小松市今江町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。木場潟と旧今江潟(既に述べた通り、完全に干拓されて存在しない)の間に当たる。

「古城」木場潟の東方に蓮台寺城跡があるが、位置的に凡そ当時、大道があったとは考えられない。或いは南北朝から安土桃山時代にかけて砦の跡が、この二つの潟の間、能美郡と江沼郡の間にあったものかと考えられる。先の「三湖の秋月」に出た「浅井畷古戦場」の南直近でもあるのである。202023日:改稿・追記】T氏より情報を戴いた。これは現在の小松市今江町にある今江城跡とのことで、「石川県能美郡誌」(大正一二(一九二三)年刊で石川県能美郡編とあるが、「緒言」を見ると、本書底本と同じ日置謙氏が書かれており、編集に参加されておられる)に(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の「第十六章 御幸村の名跡」の「御幸塚城址」(みゆきづかじょうし)に、

   *

〇御幸塚城址。字今江に在り、南は粟津往来に面し、東方に木場潟あり、北今江潟に臨み、湖山の間僅に數百武[やぶちゃん注:「步」の誤りか。]、北陸街道その間を通じ、壘塹の址内外尙辨ずべし、二道の隘吭に當り、一部の要衝に据り、小松城未だ備はらざる以前は、その諸將必要の地たりしこと知るべし。城中に御幸塚あるを以て名く、淺井繩手合戰由來書の如きは、花山天皇の皇子富岡大聖親王が藤原定實と名のり、初めて此城を建てたりとの說を載すれども信じ難し、然るに四百年後の今日に至りては、終に其の俤を存するのみにして、本丸址は之を區有として史蹟の保存に便じ、十株の櫻樹を移植せり、唯南面の塹壕は尙舊形を有し、以て疇昔の形成を窺ふに足る、而して、藩政の時は米廩を置けり、其餘或は崩壞し、桑綠茶靑農人の栽植に忙しきを見るのみ、

   *

とあって、ここには「御幸塚城址圖」も載る。以上とこの図を見るに、本文の「古城の封疆(どて)を切拔きて通る大道あり」というのが、現在の国道十一号に相当するのではないかとも思われ、すこぶる腑に落ちた。T氏が示して下さったのであるが、凡そ当時大道は金沢―小松―大聖寺の越前国の北國街道で、「加賀国四郡絵図」(サイト「ADEAC」の画像。木場潟・今江潟・柴山潟付近を拡大すると街道が判る)を見るに、まさにその辺りにあることが判るのである。また、調べたところ、サイト「古城盛衰記」の「今江城(いまえじょう) (御幸塚城)」に、『市立今江小学校一帯にあった平山城で、周囲に堀があったというが市街化で消滅し、櫓台など雰囲気はあるものの遺構はほとんど見られない』。建武二(一三三五)年に『富樫高家が加賀国の守護職につき、その後』、『築城した。富樫氏が野々市に居館を移すと、一向一揆勢の拠点となった』。天正四(一五七六)年には『織田信長の武将柴田勝家の家臣佐久間盛政に攻略され、盛政が城主とな』り、天正八(一五八〇)年には盛政が『尾山御坊を攻め落し』、『金沢城と称した』。天正一〇(一五八二)年、「本能寺の変」で』『六織田信長が討たれると、再び一向一揆が占領』、天正一三(一五八五)年、『豊臣秀吉に攻められ、落城した。慶長五(一六〇〇)年には、『前田家の一部隊がここに布陣し』、『西軍の丹羽長重と浅井畷で戦った』とあった。

「封疆(どて)」国書刊行会本のカタカナのルビに従った。音は「ホウキヤウ(ホウキョウ)」で「封境」とも書き、文字通り、領土の境の謂いである。

「上口三郡」読みも意味も判らない。「上」を「かみ」と読んでその昔(から)の意ととろうかと思うと「口」が浮く。「上口」で北の出入り口ととると、「三」が浮く。「近世奇談全集」では『上江三郡』で「江」は「江」沼郡としても「三郡」が判らぬ。国書刊行会本では『三都』であるが、これはさすがに校訂者が郡の誤りではないかとする。お手上げ。

「串と云ふ里」現在の石川県小松市串茶屋町202023日:追記】T氏よりご指摘があった。先に示した「石川県能美郡誌」の「第十六章 御幸村」の「名蹟」の「串遊郭」に、

   *

〇串遊廓。此地藩政の時遊女茶屋ありしをもって著れき[やぶちゃん注:「しれき。]、初め前田利常が之を公許せしより、漸く盛大となる、當時藩内他に遊郭なかりしを以て、大聖寺及び金澤等の遠地より來りて遊興するもの多く、天保以前に於ては殷賑を極めたり、然るに水野忠邦が幕府の執政となりて、節儉の令を布きしに及び、や〻衰運に傾きしが如く、次で明治五年解放令出で、各地に貸座敷の許可せらる〻に至りて漸く衰へ、同二十八九年に至りて全く廢絕せり、或は曰く利常の小松に在るや、每年一次那谷寺の觀音に參詣し、その途必ず串茶屋の木下氏に小憩す。因りてその主人に命じて酌婦を置かしむ、これのち遊女屋の起原にして、その盛時には木下、木屋、松屋、小枝屋、高瀨、大新、山屋、駒屋、中屋、分枝屋、東木屋等十數戶の大厦ありきといふ。

   *

とあって、すこぶる腑に落ちた。]

 然れども、此切通しの間には怪異に逢ふ人多し。いつにても夜陰に爰を通れば、遙に人の呼聲聞ゆ。知らぬ人は振返りて見合す事多し。よく知れる人は、

「例の聲ぞ」

と行通る。曾て怪異もなく[やぶちゃん注:この場合は、「それ以外には一度として有意な驚くような怪異を伴う事例はなく、の意。]、又呼ぶ所も知れず。其上、此所(このところ)提灯の火を取ること[やぶちゃん注:火がこれといった理由もなく急に消えてしまうこと。]幾度と云ふことなし。多く雨夜には、此所にて提灯の火消えて、暫く過(すぎ)て又燈(とも)ること元の如し。是は里人

「茯苓(ぶくりやう)の精なり」

と云ふ。

「心を付けて見るに、松の香甚しうして、其後(そののち)提灯の火消ゆる。いかにも茯苓の氣(かざ)あり。茯苓何(いづ)れの所にかあるべき、求め得難し。得ばよき價にも成べき物を」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「氣(かざ)」読みは私のこの漢字の読みの好みに従った。如何にもそのような強い臭いがすることである。本草書ではよく見かける読みなのである。]

 所がら[やぶちゃん注:底本は「所から」。国書刊行会本の表記を採用した。]松を掘ること國の制禁なり。俗に茯苓は松の露下りて千年にして生ずと聞く。然共(しかれども)松にしもかぎらぬことにや。

[やぶちゃん注:「松を掘ること國の制禁」掘れば、松は弱る。松は常緑樹で冬でも葉を落とさず、言わずと知れた不老長寿・相思相愛・繁栄・金運などに関わる縁起の良い木とされ、またその寿命の永いことから、神仏の「依り代(しろ)」ともなる古代からの樹木信仰の対象でもあったから、腑には落ちる。]

 寶曆の中(うち)加州の太守、弓にすべき桑を尋給ふことありて、御領の村々[やぶちゃん注:国書刊行会本では『御領の十村』とあってその下に『大庄屋の事也』と割注がある。]方々尋求むれども、本(もと)一丈[やぶちゃん注:約三メートル。]に及ぶ大樹に非ざれば造り難く、色々求めけるに、越前本保(ほんぼ)と云ふ下(しも)の村に老桑三株ありけるを、小松八日市町鍋屋何某と云ふ者便りを得て、此桑を買得て献じける。其根を掘ける時、茯苓七八十枚を得たり。其内二つを取りて歸り、四つは越前本保に殘せり。其一本吉浦の某(なにがし)盃(さかづき)に作りて愛翫せり。其色黃にして桑の香あり。眞に希有の器なり。

[やぶちゃん注:「寶曆」一七五一年~一七六四年。

「加州の太守」加賀大聖寺藩第五代藩主前田利道。【2020年2月3日削除・追記】T氏より加賀藩藩主では? とご指摘あり。とすると、第七代藩主前田重煕(しげひろ)か(彼は宝暦三(一七五三)年に二十五歳の若さで死去している)、彼の異母弟で第八代藩重靖(しげのぶ)か(しかし彼は宝暦三年五月十八日、重煕の末期養子として家督を継いだものの、数ヶ月後の同年九月二十九日に麻疹の予後悪く十九で病死している)、或いは第九代藩主重教(しげみち:藩主就任時十四歳で四十六まで生きた)である。これらを並べてみると、この「加州の太守」とは最後の重教の可能性が確率的にはすこぶる高いように思われる。

「本一丈に及ぶ大樹」クワの実を食べたことがあっても、『「本」を幹ととっても、バラ目クワ科クワ属 Morus がそんなに高くなるのか?』と訝しむ方もあるかも知れぬが、世界的には大きいものは十五メートルにも達するものもあり、群馬県沼田市に日本最大の桑の巨木「薄根の大クワ」があるが(サイト「LINEトラベルjp」の『日本最大の桑の巨木「薄根の大クワ」群馬県の里山に立つ養蚕の御神木』を見られたい)、幹の周りは五・六メートル、樹高十三・六メートル、推定樹齢は千五百年である。この円周から換算すると、直径は一メートル七八センチにもなる。【2020年2月3日追記】T氏より疑問。『弓にすべき桑とありますが、これ、何故に桑製の弓を欲したのでしょう? 男子誕生で「桑弧蓬矢」を行うこと考えたのでしょう?』とあった。私も疑問であった。「桑弧蓬矢(そうこほうし)」とは、男子が生まれた際に、桑の木で作った弓と蓬(よもぎ)の矢で天地四方を射て、将来の雄飛を祝ったという「礼記」射義にある中国古代の風習に基づくもので、転じて「男子が志を立てること」の意に用いる。ただ、これは前注の藩主を見ると、すこぶる都合が悪い。養子で次期藩主が決まっている通り、前の重煕・重靖には嫡男としての将来を託す男子がいなかった。しかも、重教の長男で第九代藩主となる斉敬(なりたか)は安永七(一七七八)年生まれで、宝暦末から十四後の出生である。寧ろ、男児の出来ぬのを慮って事前に将来生まれるであろう男児のために作り置いて、出生を祈願したものかも知れぬ。

「越前本保」旧越前国丹生(にゅう)郡にあった本保村。現在の福井県越前市本保町附近。「下(しも)の村」不詳。広域村で下村があったか。

「小松八日市町」石川県小松市八日市町

「其一本」「鍋屋何某」が小松に持ち帰った「二つ」の内の一つ。

「盃に作りて愛翫せり」ブクリョウの塊りは直径が約十~三十センチメートル、重さ百グラムから大きいものでは二キログラムにも達するから、作れてもおかしくはない。と騙されそうになるんだが……これ、クワの根っこから出たんでしょ? それってブクリョウじゃないただの根っこなんじゃあ、ねえかぇ?

三州奇談卷之二 三湖の秋月

三州奇談 卷二

 

     三湖の秋月

 范蠡(はんれい)は五湖に遊び、楚子は七澤に狩す。定(さだめ)て絕勝の地なるべしといへども、雲烟萬里筆に聞くの外は、往き至るに因(ちな)みなし。此(この)北浦小松の境にも「三湖臺」と云ふ地あり。所謂今江潟・芝山潟・木場潟なり。芝山潟は月津・日末の二村に挾りて、形胡蘆(ころ/ひやうたん)のごとし。動橋(いぶりばし)の川下にして、串村の長橋に下る。今江潟は其の形琴に類し、三面平遠の景にして、後ろの山高からず。須磨の景を移し、眺めおだやかにして美人の面(おも)に似たり。大樣(おほよそ)景は田子・三保に相次ぐなり。木場潟は四面山を圍みて大池のごとし。諏訪・箱根の湖(うみ)に類する成べし。岸は蓴菜(めなは)の名所なり。「蛇淵」に帶刀の脫せん事を恐るゝに、此「蛇淵」に折々小蛇數千集り、甕(かめ)の如くなる。古人是を「蛇塚」と云ふ。蓮の咲く河あり。杜若(かきつばた)多き入江あり。舟を入て杜若の開く音を聞くも亦一興なり。今江の上の山は、三湖を一望に盡して、三所の水月に對する。爰にてや。[やぶちゃん注:句点はママ。]

  峯の月汀まされる光り哉  連歌師 能順

 其頃は、此所連歌度々ありし程に、土俗「連歌山」と云ふ。「王子(わうこ)の宮」と云ふには藤の花多し。山畔又山櫻の列樹をなし、馬場に類せる所もあり。此地は中昔、德山(とくのやま)五兵衞暫く館(たち)を構へて、「龍が馬場」と云しは爰なり。是より小松ヘ一里。今江橋の道は本道、新橋の道は大領野淺井村を過ぐ。彼(かの)淺井畷手(なはて)は、小松の先主丹羽長重、加州二代主利長公の歸陣を襲ふ時、江口三郞左衞門[やぶちゃん注:ここに読点が欲しい。]長(ちやうの)九郞左衞門の殿(しんがり)りに接して鉾(ほこ)を交(まぢ)へし地なり。山代橋の此方(こなた)八田(はつた)三助が伏せし地あり。橋の南の方は、水越縫殿(みづこしぬひどの)・岩田傳左衞門等の立ちこたへし鎗場(やりば)、此邊(このあたり)松のもとは、今に長家(ちやうけ)の英士戰死せし跡とて、墳墓累々として殺氣猶あるに似たり。

[やぶちゃん注:「范蠡」春秋末期の政治家・財政家。越王勾践 (こうせん) に仕え、越が呉王夫差に敗北した後、越の再建に努力し、ついに呉を破って(紀元前四七三年)「会稽の恥」を雪ぎ、勾践を五覇の一人にさせた。後、勾践を嫌って一族と斉に移り、鴟夷子皮 (しいしひ) と名乗り、大富豪となった。やがて斉の宰相となったものの、まもなく去って陶 (山東省) に移り、陶朱公と称して巨万の富を得たと伝えられている。

「五湖」呉に属した現在の江蘇省南部と浙江省北部の境界にある太湖(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の古名。その景観の美しさで知られる。なお、画題に「范蠡泛湖(はんこ)」があり、これは范蠡が西施を船に乗せて、自ら棹さして五湖に浮べて連れ行くさまを描くという。これは実は呉が敗れた後、范蠡が政略のために夫差に差し出した彼女を守るために逃がそうとするシーンである。榎本博康氏の「セカンドライフ列伝 第15回 范蠡(はんれい)」の「第二の人生:越との決別」に、

   《引用開始》

 斉に勝利すると、勾践は得意の絶頂であった。そこに范蠡は恐れを感じた。会稽の恥辱以来の22年間は一体何だったのだろうかとも。それに彼は帰ってきた西施を守りきれなかった。勾践の新しい正室や後宮の女たちの猛烈な嫉妬の対象となり、刺客が差し向けられる事態であった。さらに勾践には西施を守る気などさらさらなかった、彼女なしには呉の滅亡は達成できなかったというのに。そこで范蠡は彼女を范家屯に匿ったが、今度は呉の残党から狙われるようになった。そこで西の楚に逃がそうとした。夜陰に乗じて軽舟で五湖を渡るのである。そこを呉の残党が西施と知って襲って来た。西施は自ら広大な五湖の、湖底に沈んだのである。20年近い夫差の荒淫に耐え、40歳でも美貌と知性に溢れ、そしてどんなことにも折れなかった心に、深い傷を負ったままに。

   《引用終了》

いや、一説によれば、西施は勾践の夫人たちや人民らから、美女ゆえの傾国の危きにより、無惨にも生きたまま皮袋に入れられ、長江へ投げ捨てられたとも言われているのである。ああ! まさに……象潟(きさかた)や雨に西施がねぶの花……(『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』を参照)ではないか……

「楚子」これは楚の歴代君主の中でも最高の名君とされて「春秋五覇」の一人に数えられる荘王(?~紀元前五九一年/在位:紀元前六一四年~紀元前五九一年)のことであろう。「春秋左氏伝」で彼をこう呼称している。

「七澤」楚にあった雲夢(古代の長江流域の、特に洞庭湖を中心とした広大な湿原地帯の古名)などの七つの沼沢の命数とされる。

「今江潟」石川県南西部の小松市にあった潟。以下の二つの潟とともに「加賀三湖」と称されたが、昭和四三(一九六八)年に全面干拓され、拓栄町となって複合農地となり現存しないStanford Digital Repository」のこちらで明治期の干拓前の加賀三湖の位置が確認出来るので、現在の地図と比較されたい。

「芝山潟」石川県南部の加賀市北部にある潟湖。加賀三湖の中で最大面積を誇ったが、第二次世界大戦中から干拓が進められ、日本海への放水路が完成、今江潟が消失した昭和四十三年までに三・四平方キロが造成された。現在残るのは一・七七平方キロのみである。湖岸の片山津温泉が知られる。

「木場潟」小松市内のここあり、加賀三湖中、唯一、干拓されずに調整池として残されている。面積一・一三平方キロ、水深二メートル、湖周六・四キロ。

「月津」石川県小松市月津町(つきづまち)。現在は柴山潟に接していないが、地図で見れば、西方部が「干拓町」となっているのが確認出来る。「Stanford Digital Repository」のこちらで見ると、南西岸や潟中央の島も含めて月津村であったことが判る。

「日末」小松市日末(ひずえ)町。現在の柴山潟からは三キロ以上東北に離れているが、往時、日末地区が潟畔であったことを(というより消失した今江潟との間にあった「御崎村」の中の大きな集落であったことが判る)、やはり「Stanford Digital Repository」のこちらで確認されたい。

「動橋」既出既注

「串村の長橋」現在の石川県小松市串町の、恐らくは「Stanford Digital Repository」の旧地図との対照から見て、この中央の県道百四十五号の橋ではないかと推測する。

「蓴菜(めなは)」読みは国書刊行会本の原本のカタカナ・ルビに従った。スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi

『「蛇淵」に帶刀の脫せん事を恐るゝに』ちょっと意味が躓く。まず読みが「じゃぶち」か「へびぶち」かも判らぬ。資料もないし、「近世奇談全集」もルビしない。国書刊行会本はここが『蛇淵に帯刀の脱せん事を恐る。』と切ってあり、これだと、『この「蛇淵」へは帯刀(この場合、武士のそれではなく、庶民も含めてで、彼等の場合は有意に長めの鉈(マチューテ様のもの)のようなものをイメージした方がしっくりくると思う)せずに行くことを皆、恐れる。』で、以下、何故ならば、と繋げて読んで腑に落ちるからである。

「杜若(かきつばた)」読みは「近世奇談全集」に従った。単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata。但し、私は古人がこう漢字表記し、こう訓じたしても同種に限定比定することを躊躇する気持ちがある。彼らがアヤメ属ノハナショウブ変種ハナショウブ Iris ensata var. spontanea をちゃんと区別していた可能性に疑問があるからである。ただ、ここはそれが多く生えるのを潟の入り江としているので、湿地には滅多に植生しないアヤメ属アヤメ Iris sanguinea は除外してよい。

「杜若の開く音を聞くも亦一興なり」無論、音などしない。風狂として洒落て言ったのである。

「今江の上の山、三湖を一望に盡して」小松市今江町附近だと、木場潟の対岸の丘陵部(グーグル・マップ・データ航空写真)となろう。202023日:削除・追記】T氏より情報を戴いた。国立国会図書館デジタルコレクションの「石川県能美郡誌」の「第十六章 御幸村」の「名跡」の「御幸塚」の項に、

   *

〇御幸塚。御幸塚城中にあり、[やぶちゃん注:中略。]一面今江潟の洋々たるあり、柴山潟も亦遙に松林疎々たる間に隱見す、四望窮りなく、一眸凡て詩趣ならざるなし、故に又た三湖臺の名あり、或は曰く、此地は古墳の遺なり。その外貌意見して瓢形なると[やぶちゃん注:以下略。]

    *

とあってここに「御幸塚」の往時の写真が載るのだが、見るからに古墳であり、台形であることが判る。さすれば「三湖臺」の呼称が腑に落ちるのである。

「峯の月汀まされる光り哉」「連歌師 能順」句は不詳だが、上大路能順(かみおおじのうじゅん 寛永五(一六二八)年~宝永三(一七〇七)年)は江戸前期の連歌師。京都北野天満宮の宮仕(みやじ:掃除などの雑役に従事した下級の社僧)。明暦三(一六五七)年に加賀金沢藩主前田氏に招かれ、小松桟(かけはし)天神社別当職(梅林院)となった。天和三(一六八三)年創建の北野学堂の初代宗匠を務めた。号は脩竹斎・観明軒。句集に「聯玉集」。

「王子(わうこ)の宮」読みは国書刊行会本に拠る。よく判らぬが、或いは現在の小松市上本折町にある多太(たた)神社のことか。「石川県神社庁」公式サイトの同神社の解説に(「ただ」とする記載もあるが、こちらの表記に従った)、『当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。社縁起によると』、六『世紀初め、武烈天皇』五『年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ平安時代初期には延喜式内社に列している』。寛弘五(一〇〇八)年に『舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した』。寿永二(一一八三)年の源平合戦の際には、『木曽義仲が本社に詣で斉藤実盛の兜鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願した。室町時代初めの応永』二一(一四一四)年には』『時衆第』十四『世大空上人が実盛の兜を供養された』。それ『以来』、『歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いている。大正元年に本殿後方から発掘された』八千五百余枚に『及ぶ古銭は、室町中期の』十五『世紀初めに埋納されたもので、当時の本社の活動と勢力の大きさを示すものである』。慶長五(一六〇〇)年には『小松城主丹羽長重が古曽部入善を』召し出して、『三男の右京に社家を守らせ、舟津村領にて』五丁八反二百四十三歩を『寄進されたことが記録にある、加賀三代藩主前田利常は寛永』一七(一六四〇)年に『社地を寄進し』、慶安二(一六四九)年の制札では『能美郡全体の総社に制定し』、『能美郡惣中として神社の保護と修理にあたるべきことを決めている』。また、元禄二(一六八九)年には松尾芭蕉が「奥の細道」旅の途次、『本社に詣で実盛の兜によせて感慨の句を捧げている、歴代の加賀藩主及び爲政者はいたく本社を崇敬し神領や数々の社宝を奉納になった』とある。芭蕉は元禄二年七月二十五日(グレゴリオ暦一六八九年九月八日)にここを訪れ、名句、

 むざんやな甲の下のきりぎりす

を詠じた。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす』を参照されたい。202023日:削除・追記】T氏よりメールを戴き、私の比定したものとは全く別な神社であることが判明した。「石川県能美郡誌」(国立国会図書館デジタルコレクション)の「第十六章 御幸村」のここの記載によれば、現在(明治一二(一八七九)年九月)は今江春日神社と呼ばれており、最初は「王子宮春日大明神」と称して「連歌山」の麓に祭ったとし、明治になり、春日神社、その後、今江春日神社と改めたとある。次のページのポイント落ちの参考文献資料引用の中に、

   *

〔寶永誌〕

一同村の内おこしの宮と云社有、又御ヲヽコフともあり、神体[やぶちゃん注:ママ。]、春日の由、古皇子御下向の節、春日大明神供奉に付、則氏神と崇敬すといへり、

   *

とあり、また、サイト「異形の郷土史」の「小松今江村端」に享和二(一八〇二)年(大正一三(一九二四)年補修)の非常に鮮明な「今江古城之圖」があり、そこに王子宮(鄕社今江春神社)が描かれてある。小松市今江町のここにある今江春日神社であった。「石川県神社庁」の同神社の解説にも『王子(おおこ)さんと言われている。花山法皇の自画像を祀り、王子宮春日明神と称したと伝えられ、明治維新後』、『春日社と称した』とする。

「德山五兵衞」サイト「tokuyama.net」の「3.江戸の幕臣徳山氏」の冒頭の『徳山五兵衛則秀―「とくのやま」と称す』に、織田家に仕えた『徳山一族の中で、歴史上最も波乱に満ちた生涯を送ったのは、貞孝』(同サイトの「2.清和源氏土岐氏族徳山氏」の後半を参照されたい)『の子五兵衛則秀であり、徳山一族を語るのに最大級の人物です。則秀は、幕臣徳山氏の初代であるのみならず、苗字の読みや家紋も改めるなど、影響力の大きな人物です。(家伝に、「はじめ『とこのやま』と称せしを、則秀がときより『とくのやま』と唱う。」とあります。)』。『五兵衛則秀は、織田信長に従い、浅井、朝倉討伐や長篠合戦などに参加、その後柴田勝家の与力となって加賀の攻略に加わり』、天正四(一五七六)年、『御幸塚城(石川県小松市)を陥し、信長から御幸塚城主に任命されます。次いで、小松城に移った後』(ここら辺りが本篇の言うところであろうと思われる)、天正八年の『加賀平定後は松任』四『万石の領主となります。その後も、則秀は娘婿佐久間玄蕃盛政との縁もあり、柴田勝家配下として能登、越中方面で戦っています。天正』十年六月の「本能寺の変」の『際には、魚津城(富山県魚津市)攻略に参加していました』。『本能寺の変の後も則秀は柴田勝家に従っています』。翌天正十一年の「賤ヶ岳の合戦」にも『柴田側として参加、有名な大岩山砦の奇襲にも先鋒として活躍し、「賤ヶ岳合戦図屏風」にもその姿が描かれています。賤ヶ岳の合戦は秀吉の迅速な帰還と前田利家の戦場離脱により柴田側は敗戦。則秀は秀吉に降り、高野山に蟄居しますが、後に出て丹羽長秀に仕えて』八『千石を得、次いで前田利家に仕えます。前田利家の死後』、慶長五(一六〇〇)年に『徳川家康に召し出され、以後』、『幕臣となっています』。『五兵衛則秀は「徳山村史」に「勇邁にして機智策謀にたけ、隠忍長久の人生観を持ち」とあるように、魅力的な人物であったようです。勇敢なだけでなく、御幸塚城攻略では調略を廻らして城将を内応させるなど戦略面でも有能だったようで、戦国の世を生き抜いています。また、家康公の生涯や思想、人柄に似通うものが多かったのでしょう、晩年には家康公の御噺衆に列し、本領美濃徳山及び更木』五『千石を賜り、厚遇を受けています』という人物である。

「是より小松へ一里」不審。この起点が分からない。この数値に見合うのは、句の前に示された小松市今江町でここから旧小松城下までなら、直線で一里相当となる。

「今江橋」現在のものは国道三百五号が渡るここだが、明治期には架橋されていない。架橋があるのは、消失した今江潟へつながるここの橋である。そばに前川船番所跡がある。

「新橋」不詳。位置的にはズバリ、前の前者がそれに当たるのだが? ないものはそれとは言えぬ。江戸時代にはあったのかも知れない。202023日:削除・追記】T氏のご指摘。先に示した『サイト「異形の郷土史」の「小松今江村端」に享和二(一八〇二)年(大正一三(一九二四)年補修)の「今江古城之圖」を見ると、図の左に二カ所番所が書かれています。例の「石川県能美郡誌」の「第十六章 御幸村」の「名跡」の「○御番所」の項に、

(前略)今江村大橋詰(御幸村字今江御幸橋東西詰金戶雄次郎敷地内)及同村新橋(同村同字新橋詰中橋佐平敷地内)にあり、(以下略)

とあることから、この「新橋」は「前川」にかかる現在の北陸本線のすぐ西の橋(今江春日神社の東を走る道)と比定することが出来ます』とあった。この中央の橋であろう。

「新橋の道は大領野淺井村を過ぐ」「大領野」は現在の小松市の大領町(だいりょうまち)から南浅井町一帯(リンク先の西に前者はある)「淺井」はその東北に接する北浅井町ととっておく。202023日:削除・追記】T氏曰く、此の「大領野」は現在の大領中町であると限定される。例の「石川県能美郡誌」の「第十六章 御幸村」の「名跡」のここに、○大領野。今の大領中の西南一帶の地を、往昔は大領野といひ、松樹生茂りて晝尙暗く、僅に今江に通ずるに過ぎざりき、(以下略)

とあることによる。

「淺井畷手」石川県小松市大領町に浅井畷古戦場がある。ここは「北陸の関ケ原の戦い」とも言うべき「浅井畷(あさいなわて)の戦い」の戦跡で、これは本文に出る通り、北陸に於ける「加州二代主」前田「利長」(利家の嫡男:東軍)と「丹羽長重」(織田氏家臣丹羽長秀の嫡男:西軍)の戦いが行われたところである。ウィキの「浅井畷の戦い」によれば、慶長三(一五九八)年の『豊臣秀吉の死後、次の天下人の座をめぐって徳川家康が台頭する』が、『これに対して、豊臣氏擁護の立場から、豊臣氏五奉行の一人である石田三成や大谷吉継らが』慶長五(一六〇〇)年、『会津征伐に向かった徳川家康ら東軍に対して、敢然と挙兵した』。『前田利長は豊臣氏五大老の一人で、前田利家の嫡男であったが、利家の死後、生母の芳春院(まつ)を人質として江戸に差し出していた経緯から、東軍に与した。一方、西軍の大谷吉継は前田利長の動きを封じるため、越前や加賀南部における諸大名に対して勧誘工作を行なった。その結果、越前の諸大名の多くが、西軍に与した』。『吉継の勧誘工作は成功』し、『これにより、西軍は一戦も交えることなく、越前と加賀南部の諸大名を味方につけることに成功した』。『これに対して、前田利長は加賀以南の諸大名が全て敵となったことに危機感を抱き、加賀南部や越前を制圧すべく』、二万五千人を率いて慶長五(一六〇〇)年七月二十六日、『西軍に与した丹羽長重が守る小松城を包囲攻撃した。小松城の守備兵は長重以下、およそ』三千『名ほどに過ぎなかったが、小松城は「北陸無双ノ城郭」(「小松軍記」より)とまで賞賛されるほどの堅城であった。このため、兵力で優位にありながら、前田軍は城を落とすことができなかった。利長はこのため、小松城にわずかな押さえの兵を残して、西軍の山口宗永が守る大聖寺城に向かった。そして』八月二日に『包囲攻撃を開始した』。『守る山口軍の兵力はおよそ』二千『人ほどに過ぎず』、二『万以上の前田軍の前に遂に敗れて、山口宗永・修弘親子は自害した』。『一方、大谷吉継は伏見城攻防戦など、上方にとどまっていたため、しばらくは北陸に対する軍事行動を起こすことができなかったが』、八月三日に『入って越前敦賀に入り、北陸方面に対する軍事行動を起こした。しかし、吉継の率いる兵力はおよそ』六千『人ほどに過ぎなかった』。『吉継は前田軍に対して、「上杉景勝が越後を制圧して加賀をうかがっている」・「西軍が伏見城を落とした」・「西軍が上方を全て制圧した」・「大谷吉継が越前北部に援軍に向かっている」・「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している」など、虚虚実実の流言を流し』、『この流言に前田利長は動揺した』。『さらに吉継は、西軍挙兵のときに捕らえていた中川光重(利長の妹婿)を半ば脅迫して、利長宛に偽書を作成させ、それを前田利長のもとへ届けさせた』りした。『これら一連の吉継の謀略から、利長は自分の留守中に居城の金沢城が吉継に海路から襲われることを恐れ』、八月八日、『利長は軍勢を金沢に戻すことにしたのであ』った。『しかし、撤退するためには問題があった。前田利長は加賀南部に攻め入るに当たって、小松城を攻め落とせず、わずかな押さえの兵を残して大聖寺に進軍していた』『ため、撤退途中に丹羽軍が前田軍を追撃する可能性があったのである。利長はできるだけ隠密裏に撤退を行なおうとしたが』、二万五千『人もの大軍勢の動きを隠密裏にすることなどは不可能だった。丹羽長重は前田軍の金沢撤退を知って、軍勢を率いて小松城から出撃した』(以下が「浅井畷の戦い」)。『小松城の周囲には泥沼や深田が広がっている。その中を、幾筋かの畷(縄手)が走っている。畷とは縄のように細い筋になっている道のことであるが、小松城の東方に浅井畷という畷があった。長重はこの浅井畷で兵を率いて前田軍を待ち伏せした』。八月九日、『前田軍が浅井畷を通ったとき、待ち伏せしていた江口正吉ら丹羽軍が攻撃した。畷のために道幅が狭く、大軍としての威力を発揮することができない。このため、前田軍は被害を受けたが、前田軍の武将・長連龍』(ちょうのつらたつ 天文一五(一五四六)年~元和五(一六一九)年:本文に出る前田撤退軍の殿(しんがり)を務めた「長九郞左衞門」のことである)や『山崎長徳らの活躍もあって丹羽軍を撃退し、何とか金沢に撤退することができたのであ』った。八月末、『利長は家康の命令を受けて美濃に進出するべく再び行動を起こ』した。『丹羽長重は利長に降伏を申し入れたが、遂に関ヶ原本戦には間に合わ』ず、『更にこの時、先の戦いには参加していた利長の弟の前田利政は、居城である七尾城に篭ったまま動かず、東軍には加わらなかった』。『利政はかねてより西軍への参加を主張していたとも言われ』、『また、西軍が自分の妻子を人質に取ったことを知って出陣を躊躇したもので』、『西軍に加わる意思はなかったとする説もある』。『しかし、北陸における西軍の奮戦は報われ』ず、九月十五日の『本戦で西軍が壊滅したことから、越前・加賀南部の諸大名は東軍に降伏を余儀なくされ、丹羽長重や前田利政をはじめ多くの諸大名は、家康によって改易されてしまったのである』とある。長々と引いた理由は、この後で登場する「江口三郞左衞門」が実に百五十年前の先祖のことを思いやって慙愧の念に堪えず、歯噛みするシーンを是非とも十全に理解して貰いたいと思ったからである。

「江口三郞左衞門」「石川県史 第二編」の「第四節 大聖寺淺井畷二役」のここここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)に丹羽長重の将の名として出る。以下の段落に登場する人物の先祖であるから、特に注意されたい。

「山代橋」不詳。

「八田三助」先の「石川県史 第二編」の「第四節 大聖寺淺井畷二役」のここ(二行目)に長連龍の家臣で「浅井畷の戦い」で山代橋に赴こうとしたところを江口らの丹羽勢に襲われて戦死した旨の記載があるから、この「伏せし地」(伏せて隠れていたの意のようにとってしまうが)というのは、討ち死にした場所の謂いであるように思われる。

「水越縫殿」前注のリンクの同じ個所(後ろから二行目)に帰城した利長が十二日に『水越縫殿助』らに対して『感狀及び刀劍黃金を贈』ったとあるので、彼は戦死していない。

「岩田傳左衞門」長の家来に岩田姓は複数いるが、「石川県史 第二編」の索引を見るに、前々注のリンクの同じ個所(最終行)に「水越縫殿」とともに褒賞を貰った『岩田盛弘』の通称が「傳左衞門」のようであるから、彼も助かっている

「長家」長連龍の家来。

「墳墓累々として殺氣猶あるに似たり」ウィキの「浅井畷の戦い」に、『浅井畷の戦いでは前田軍の最後尾を務めた長連龍の部下』九『人が戦死したと云われており、古戦場にはその』九『人の武将の』供養のための『石塔が建てられている』。『それぞれの石塔の向きや配置は不規則であり、それは戦死した』それぞれの『武将が倒れた方向に向けて建てられたためと伝えられている』とある。以下、九名の武将とその供養塔と関係データのリストが載る。]

 寶曆の頃從僕少々つれし武士、山中(やまなか)へ湯治して歸るとて、此所へ廻(まは)りて念頃に尋らるゝ。里人しかじかのよしかたり、其頃金澤の老中村井豐後公任官の頃なりし故、其事を語りしに、彼(かの)武士泪(なみだ)をこぼし、

「我は奧州二本松城主に仕(つかへ)る江口三郞左衞門と云ふ者なり。先祖が戰功の地を思ひて、事の序に北國を經て下るなり。其村井氏・長氏にも我等が先祖武功の劣れることは非ざれども、我は小身の主(あるじ)に仕るが爲今斯(かく)の如し。彼(かの)人々は幸福にして大國の主に仕へ、果報目出度く、朝散大夫(てうさんだいぶ)の官を得らるゝ事羨し」

と齒がみして歸りけるとにや。

[やぶちゃん注:「寶曆」一七五一年~一七六四年。

「二本松城主」現在の福島県二本松市郭内にある別名霞ヶ城。この当時は二本松藩六代藩主丹羽高庸(にわたかやす 享保一五(一七三〇)年~明和二(一七六六)年)の居城(藩庁)。

「村井豐後公」加賀藩年寄で加賀八家村井家第六代当主であった村井長竪(ながかた 元禄一〇(一六九七)年~宝暦七(一七五七)年)。父は加賀藩大年寄前田孝行であったが(五男)、加賀藩年寄村井親長に養子に入った官位は従五位下・豊後守。本姓は平氏(桓武平氏)。宝永七(一七一〇)年に村井親長の養子となり、正徳元(一七一一)年、養父の死去により家督と知行一万六千五百石を相続、年寄として藩主前田吉徳(よしのり:第五代)・宗辰(むねとき)・重煕(しげひろ)・重靖(しげのぶ)の四代に仕えた。寛延元(一七四八)年には吉徳の六男八十五郎を養子としたが、同年、八十五郎の生母真如院が前藩主生母の毒殺未遂の容疑で禁固処分となり、寛延二(一七四九)年年に死去し、長堅は八十五郎との養子縁組を解消、代わって吉徳の七男健次郎(前田重教)を養子とする約束を交わすが、宝暦三(一七五三)年、健次郎が藩主重靖の後継者となったため、養子縁組の約束を解消、宝暦四(一七五四)年に実兄前田孝資(たかすけ)の三男長穹(ながたか)を養子とした。宝暦五(一七五五)年に従五位下・豊後守に叙任されている。宝暦七(一七五七)年一月四日に没した。享年六十一。家督は養子の長穹が相続した(以上はウィキの「村井長竪」に拠る)。この事蹟から考えて、ここのシークエンスは以下の歯噛みの謂いから見て、宝暦五年から宝暦七年の間であると考えてよいように思われる。

「朝散大夫」従五位下の唐名。江戸時代には家門大名の内、傍流で知行の少ない家・譜代大名・十万石に満たない外様大名・大身の旗本は皆、従五位下に叙せられ、主に大名・有力旗本乃至は御三家・御三卿及び家門筆頭の福井藩の家老及び加賀藩の家老本多氏や、長州藩の支族吉川氏が岩国藩として立藩を認められた際などに叙せられている。特に加賀藩の本多氏は位階のみの散位(内外の官司に執掌を持たないで位階のみを持つ者)であったため、「従五位様」「従五位殿」と他称された、とウィキの「従五位」とある。因みに、明治維新後はこの従五位下以上の者が「貴族」として扱われた。]

 此大領野の中(うち)、松の一群(むら)高き所あり。丹羽氏の母堂を火葬せし灰塚なり。此所に希有(けう)なる木魂(こだま)あり。東北の間に向ふて呼ぶ時は、暫くして前後二度に答(こたへ)をなす。いづくの處にか響くなるべき。近くこたへ來るなり。勢州の「鸚鵡(あうむ)石」、江州八幡にも「あうむ石」あり。皆石に當りて細くこたふ。此大領野は松原にして原野なり。いかなる故と云ふ事を知らず。强ひて名つけば、「あうむ野」共(とも)云ふべきにや。此邊(このあたり)に「蛇形の松原」あり。いづれも白根に對して秋月の景最もよき所なり。

[やぶちゃん注:「丹羽氏の母堂を火葬せし灰塚」現存しない模様。

「勢州の」「鸚鵡石」ウィキの「鸚鵡石」によれば、これは『その石にむかって声や音を発すると、オウムのようにその声や音のまねをするとされる石で』、『その原理は、山彦に似る』とあって、その中でも有名なものとして『霊元天皇』(在位:寛文三(一六八七)年~貞享四(一六八七)年)。諱は識仁(さとひと)。称号は高貴宮(あてのみや)。『の叡覧に供したという』『三重県志摩市磯部町恵利原』(いそべちょうえりはら)『にある鸚鵡岩(おうむいわ)』(伊勢志摩国立公園内)を挙げてある。ここ。幅百二十七メートル、高さ三十一メートルの『一枚岩で、「語り場」で声を発したり、備え付けの拍子木を打つと、約』五十メートル『離れた「聞き場」にいる人には』、『あたかも岩から音が発されているように聞こえる』。『地質学的には秩父層群のチャートでできている』ことや、『岩のある和合山の南に』『構造線が通っていると推定されている』ことがその反響増幅現象を起こしている一因らしい。『岩の頂上には展望台が設けられ、磯部町の田園風景が楽しめる』とある。複数の動画を見ると、岩の壁面にかなり複雑な貫入部が多数見られ、複数回の反射や回析現象を通して聴こえてくるものと推理される(動画もあるが、現象とロケーションの性質上から臨場感・意外感が残念ながら感じられないのでリンクさせない)。

「江州八幡」「あうむ石」【2020年2月3日改稿】T氏よりお教え頂いた。滋賀県高島市音羽の「オウム岩」である。サイト「YAMAP」のこちらの上から十五枚目に写真がある。但し、ここのページには反響現象のことは書かれていない。

「蛇形の松原」不詳。]

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