三州奇談卷之三 霾翁の墨蹟
霾翁の墨蹟
金澤淺野町に山屋藤兵衞とて、東西に駕(かご)を舁(か)きて年を送る者あり。武家に雇はれて江戶へ往き、夫より武州深谷の雇夫(やとひふ)九兵衞と云ふ者と棒組(ぼうぐみ)して、武州總泉寺出(で)の病僧、洛の紫野へ赴くを舁きて、北陸道を經て上りける。
[やぶちゃん注:「霾翁(ばいをう)」と読んでおく。本文にも語られるが、「霾」は正式な漢字で音「バイ・マイ」、訓は「つちふる」。「強い風が土砂を巻き上げて、それを降らせる」或いは「巻き上げられた土砂によって空が曇ること」を謂う。
「金澤淺野町」現在の金沢市昌永町とその南東に接する小橋町附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。個人ブログ「旧町名をさがす会(金澤編)」のこちらに拠る。そこにも記されてあるが、その北に浅野本町ならば現存している。
「山屋藤兵衞」不詳。
「武州總泉寺」国書刊行会本は『武州深谷總泉寺』とするが、現在の深谷には同名の寺はない。似た寺名ならば、埼玉県深谷市境の曹洞宗境井山宝泉寺がある。一方、底本通り、深谷でなく武蔵国というならば、江戸時代に青松寺(せいしょうじ:港区愛宕)・泉岳寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の一つとして知られた浅草橋場(現在の台東区橋場)にあった曹洞宗妙亀山総泉寺がある。この寺は関東大震災で罹災して移転・合併、現在は板橋区小豆沢にある。
「洛の紫野」京都市北区の紫野地区。]
此老僧風姿異相にして、八九旬[やぶちゃん注:八、九十歳に達していること。]の齡(よはひ)なり。頭に物をかぶり、墨の衣を着し、紫の頭陀(ずだ)をかけて、道中泊(とまり)にも
「病(やまひ)に障る」
とて、寢食共に多くは駕の内にて調へける。
言語少く、甚だ異躰(いてい)なれども、金子(きんす)を多く所持して、水の如く遣ひける故、二人の駕舁もまめやかに看病して登りけり。
此僧
「山道を行くには、病氣に障る」
とて、越中より海邊を傳ひ、能州へ廻りて、濱通り黑津舟(くろづふね)に至る。道すがら能く物書きて人に與へけるが、此社の神職齋藤氏にも一書與へける。
[やぶちゃん注:「黑津舟」現在の石川県河北郡内灘町字宮坂にある黒船神社周辺の古地名。バス停にズバリ「黒津船」が同神社の東北近くにある。「宮坂公民館」公式サイトのこちらに「黒津船地内の由来」とあって、『黒津船権現(小浜神社)』(おばまじんじゃ:河北潟から流れ出る森下川を挟んで宮坂神社の対称位置の字大根布(おおねぶ)にある)『に奉仕する人々が門前に集落を作り、小浜神社の魚取部で七軒であった』『が、その後』、『分家などで十三軒となった』。『安政六年』(一八五九年)『には、家数三十三戸で』男百二十一人、女九十九人と『なり、宮坂村とは別に村役人を置いた集落であり、加賀藩前田家の家紋』である『梅鉢の紋を頂いたので、旗印に梅鉢の紋入りの旗を使用し、今も黒津船地内の獅子頭に梅鉢の紋がついている』。『昔は、小浜神社の大祭に三十八ケ村の獅子頭が全部集まった時でも、黒津船の紋入り獅子が』一『番先に神社に上がらないと他の獅子が上がれない習慣が』あった、とある。位置がちょっと不審だったので(ヒントは既に上記リンク先の頭に『宮坂の名前の由来は、昔』、『小浜神社が権現森の傍にあったとき、その坂の前に住んでいた』人々がおり、『お宮の前でおんまえ⇒おみや坂村⇒宮坂村となって行った』というところにあった)、「石川県神社庁」の「小濱神社」の解説を見たところ、天保三(一八三二)年に『黒津船より石川郡五郎島』(ここ)『へ、移転』とあり、さらに明治二二(一八八九)年、『五郎島より現在地大根布へ移転再建し』たとあったので、やっと腑に落ちた。
「齋藤氏」前のリンク先を見れば判るが、現在の小濱神社宮司も齋藤姓である。]
夫より宮腰に寄り、猶浦傳ひして終に越前の橋立に至る。
[やぶちゃん注:「宮腰」石川県金沢市金石の旧地名のそれか。現在、小さな「宮腰緑地」に名が残る。
「越前の橋立」石川県加賀市田尻町浜山に橋立漁港がある。]
人家の腰に駕をおろし、二人の者もたばこたうべて打休らひける。
[やぶちゃん注:「人家の腰」軒下の謂いであろう。]
爰に犬ども多く吠え出で喧し。兼て病僧の忌(いむ)物なれば、二人の駕の者杖を以て頻りに追拂ひけるに、此中(このうち)名犬やありけん。白毛なる狗一疋、一文字に飛來りて駕に飛付(とびつ)き、老僧の咽喉(のど)を喰(くは)へて引出(ひいいだ)しければ、一聲
「あつ」
と叫んで終に死しける。
此時享保二十一年六月下旬なり。
[やぶちゃん注:実に妙なところでクレジットを出しているので、つい突っ込みたくなった。享保二十一年六月は厳密には最早「享保」ではない。享保は二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日)に「元文」に改元されいるからである。同年六月下旬はグレゴリオ暦では七月終わりから八月の頭に当たる。]
二人の雇夫も、里人も大いに驚き、先(まづ)病僧を介抱してけるが、いつの間にか變じけん、古き貉(むじな)の尸(かばね)にてぞありける。
[やぶちゃん注:「貉」はこの場合、後文から見て、ニホンアナグマの異名ではなく、「狸」(ホンドタヌキ)と同義でよいと思う。博物誌としての違いは、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき)(タヌキ・ホンドダヌキ)」と「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな)(アナグマ)」を参照されたい。民俗社会では長く化ける幻獣・妖怪として混同されたり、はたまた区別されたりし続けて、狐同様に人を化かすものと普通に考えられていた。一方で、近代の猟師でさえもアナグマともタヌキとも異なる「ムジナ」なる動物がいると誤認していて、大正一二(一九二三)年に栃木県鹿沼市で発生した「たぬき・むじな事件」(リンク先は同ウィキ)なども起きている。但し、言っておくと、私は個人的には両者は見た目でも生態学的にも混同しようがないほど違うと認識している。]
何れも再び興をさまし、先二人の駕舁を捕へて、
「汝ら共に正躰を顯すべし」
と大勢打圍み叫びけるに、二人の者共樣々に詞を盡し、一人は加州の者、一人は武州の者にて、全く妖僧の同類ならざるを明(あか)し、且(かつ)病僧の始終を語り、漸(やうや)くに命を助かり、扨名主に斷りて死骸を埋(うづ)め、一人の證人を乞ひ請けて武州へ歸りしが、藤兵衞云ふは、
「越前に證人あれば、同道せずとも然るべし」
とて、所の肝煎などより一札を調へ、九藏に渡して殘りける。
[やぶちゃん注:最後の「九藏」は「久兵衞」の誤りであろう(「近世奇談全集」は『久兵衞』と訂してある)。ここは一読よく判らないが、駕籠舁として移動している場合は、国越えや関所は、その乗り手の素性によって通行の可否が決まるのであろうが、ここでは奇体な事件に巻き込まれた上、既に駕籠舁ではなくっている(私は場所から見て、恐らく藤兵衛は、この時点では内心、このまま少し戻って、自分は一人で金沢へ帰ることに決めていたのではないかと考えている。但し、ネタバレになるが、結局、以下で藤兵衛は久兵衛とともに江戸に一緒に戻っている)。しかし、そうなると、藤兵衛に雇われた久兵衛は単独で江戸へそのまま戻らねばならない。となると、手ぶらではいろいろと詮議されるのは必須であることから、初めは越前から経緯と素性を証明する付き添い人が必要だと考えたのだろうと推測した。しかし、「ここから江戸へ付き添いの証人送るのは大変だから、肝煎などが現地越前の証人として経緯・素性を保証する一札をただ認(したた)めて貰えれば、自分も久兵衛もそうした証人は不要だ」と言ったのであろう。なんぼか貰っても、こんな付き添いいっかな御免だわ。しかし、ここも「殘りける」が、何となく座りが悪い。藤兵衛は金沢は近いから、久兵衛を江戸へ立たせて残ったというのならば判る。しかし、次の段落の「二人」は、これまた、藤兵衛と久兵衛でなくてはおかしいわけで、何んとなしに話の展開に時制上の妙なダブりが感じられてしまうのである。]
扨二人の者ははるばる武州の總泉寺へ往きて、始終を斷(ことわ)り、妖憎が遺金(いきん)の餘りを返しける。
和尙對面して、
「さもあらん、此病僧當寺には住みて二百年許(ばかり)、其素性を知者なし。只古老になり、檀家の信施を貯ふること久し。依りて金子數多(あまた)彼が一室にはあり。然るに十日許以前、此僧忽然と來りて申しけるは、
『我今北浦(きたのうら)にして狗の爲に命を損じぬ。願くば般若を修して跡を弔ひ給はるべし』
と云ひて失せぬ。
[やぶちゃん注:「北浦(きたのうら)」は私の勝手な読み。固有名詞ではないと考えたからである。
「般若を修して」「若波羅蜜多心経」を誦して。]
『扨は途中にして卒(しゆつ)しける』
と、則(すなはち)法會をいとなみけるに、扨々不便の事なり。不迷因果の理(ことわり)をさとせば必佛果に至るべし。然らば遺金に心あるべからず」
とて、餘りの金銀を配當して、加賀の藤兵衞と共に金五十兩宛(づつ)分け與ふ。何れも俄に德付きて悅び歸國せり。
然るに加州の藤兵衞は新たに家を建て廣げ、妻子榮耀(えやう)に暮せしが、幾程もなく狂氣と成りて飢死(うゑじに)しける。
深谷九兵衞は江戶へ出で、本鄕に店を出し、布を商ひしが、加賀の藤兵衞が事を聞き、驚きて持佛に妖憎が戒名「北海霾翁(ばいをう)」と云ふ牌を立(たて)て弔ひけるとぞ。
此物語は普(あまね)く人の知れるなるに、則(すなはち)かたへの人
「家こそ其一軸を持傳へたり」
とて出されける。
[やぶちゃん注:「家」国書刊行会本は『我』。]
是をみるに文字正しからず、讀み得難し。此座に先生何某なる人(ひと)是を一覽して、
「誠に手跡人間と遙かに變れり。只(ただ)朱印の文字『䇹藪軒(くんさうけん)』、又一印には『霾翁』とあり。『霾』は『土ふる』とよみながら、全く『雨』・『狸』の文字なり。軒號(けんがう)も『しの竹草むらの軒(のき)』と云へれば、是(これ)古貉なること宜(むべ)なり」
と聞えし。
只黑津舟齋藤丹後守が所持の一軸は、是のみ文字正しく
「松無二古今色一竹有二遠近節一」
と能く讀めるも一興なり。されば和漢狸・貉の人に化して百事を論ぜし例(ためし)少からず。諸嶽山の貉は僧に化して佛敎を論じ、漢の董仲舒と五經を論ぜし老客も是貉なりとかや。巢に居(をり)ては風を避け、穴に所(ところ)しては雨を知る。是皆狸・貉の通力なり。然るにこの古貉は、斯く迄人中(ひとなか)に居(をり)て神通不測なるべきに、纔(わづか)に一狗の爲に命を落すも又一怪のみ。
[やぶちゃん注:「䇹藪軒」の「䇹」は「筍(たけのこ)」及び「篠竹(しのだけ:幹が細く丸く均整のとれた竹で矢柄に用いられる)」の意がある。
「黑津舟齋藤丹後守」先に注した小濱神社の神主。
が所持の一軸は、是のみ文字正しく
「松無二古今色一竹有二遠近節一」訓ずるなら、
松に古今(ここん)の色無く
竹に遠近(をちこち)の節有り
知られた禅語としては、「禅林句集」等にある、
松無古今色 竹有上下節
松に古今の色無く
竹に上下の節あり
である。違わぬものと違うもの、平等と区別に対する認識の禅機を指す。
「董仲舒」(とうちゅうじょ 紀元前一七六年頃~紀元前一〇四年頃)は前漢の大儒。「春秋公羊(くよう)伝」を学んで、武帝の時に文教政策を建言し、儒学を正統な官学と成し、その隆盛を齎した。
「五經を論ぜし老客も是貉なりとかや」私の偏愛する六朝時代の志怪小説で晋の干宝撰の「捜神記」巻十八に載る。私の「耳囊 卷之十 風狸の事」の注で電子化注してあるので読まれたい。]
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