譚海 卷之三 本願寺卽位の料を獻ず
本願寺卽位の料を獻ず
○後柏原院の御時、戰鬪打つゞき、既に御卽位の禮行るべき樣なかりしに、本願寺より御卽位料として三千貫の鏡を獻ぜしに付て、御卽位の禮調へられ、此賞に仍(よつ)て門跡の號を賜り、大僧正に任ぜられたりとぞ。是より代々本願寺相襲(さうしふ)して、門跡と稱する事に成(なり)たりとぞ。又一度は御卽位料毛利家より奉りける事有といへり。
[やぶちゃん注:「後柏原院」後柏原天皇(寛正五(一四六四)年~大永六(一五二六)年/在位:明応九(一五〇〇)年~没まで)。彼は明応九(一五〇〇)年十月二十五日に後土御門天皇の崩御を受けて践祚した。しかし、「応仁の乱」(応仁元(一四六七)年に発生し、文明九(一四七八)年まで約十一年間に亙って継続した)後の混乱のため、朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は二十六年に及んだが、即位の礼を挙げるまで実に二十一年を待たなくてはならなかった。第十一代将軍足利義澄が参議中将昇任のために朝廷に献金し、それを天皇の即位の礼の費用に当てることを検討したが、管領細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王とは認められない。儀式を挙げなくても、私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など、無駄なことである」と反対し、群臣も同意したため、この献金は沙汰止みとなり、期待される主要な献金元であるはずの室町幕府や守護大名も逼迫していたため、資金はなかなか集まらなかった。費用調達のため、朝廷の儀式を中止するなど、経費節約をし、幕府や本願寺九世実如(長禄二(一四五八)年~大永五(一五二五)年:蓮如の五男)の献金を合わせることで、即位二十二年目の大永元(一五二一)年三月二十二日、漸く即位の礼を執り行うことが出来た。但し、この時も、直前に将軍足利義稙(よしたに:第十代将軍の再任)が管領細川高国と対立して京都から出奔して、開催が危ぶまれた。だが、義稙の出奔に激怒した天皇は即位の礼を強行、警固の責を果たした細川高国による義稙放逐と足利義晴擁立に同意を与えることとなった、とウィキの「後柏原天皇」にある。]
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