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2020/02/24

三州奇談卷之三 鞍岳の墜棺

    鞍岳の墜棺

 鞍岳(くらがたけ)は金城の西南にして、高雄山の峯つゞきなり。近鄕の高山奇靈の地、絕頂に池ありて暑天にも渴せず。次の池は大きなる堤にして、山彥に奇怪あり。蓴菜(ねなは)の名所にして、夏日遊人多き所なり。

[やぶちゃん注:標題は「くらがたけのおちくわん」と読んでおく。なお、本篇は既に「柴田宵曲 續妖異博物館 空を飛ぶ話(4)」の注で電子化しているが、今回は底本が異なる。

「鞍岳」現在の石川県金沢市倉ケ嶽(山頂付近は白山市との市境に近い)のにある倉ヶ岳(標高五百六十五メートル。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「金城の西南」とあるが、ほぼ南である。

「高雄山」ほぼ北五キロメートルほど離れた石川県金沢市高尾町の高尾城跡のある丘陵部。

「絕頂に池ありて暑天にも渴せず。次の池は大きなる堤」上記の地図上でも判る通り、倉ヶ岳山頂直近の岩場の東には「大池」がある。しかし、この記述では頂上にまず小さな池があって、「次の池」というのが、この有意に大きな「大池」であると読める。そこで国土地理院図で拡大してみると、山頂から東北に少しなだらかに下った近くに小さな池が現認出来た。

「蓴菜(めなは)」読みは「三湖の秋月」に出た原写本の読みを使用した。国書刊行会本は『じゆんさい』と振るが、これは編者によるもので採らない。スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi。]

 是(これ)昔富樫次郞政親布市(ぬのいち)の館(たち)を離れ、高雄の城に籠りて一揆に敵す。智勇用ひ盡すといへども、寡(か)は衆(しゆう)に敵し難く、終に詰(つめ)の丸なる此(この)鞍ケ嶽の山上に乘上(のりあが)り、敵洲崎和泉入道慶覺が家臣水卷小助と馬上ながら組みて、兩馬終に此池に沈む。其後(そののち)、此池に朱塗の鞍ありて、往々水上に浮ぶ。「是此池の主なり」と云ふ。人恐れて水に入らず。

[やぶちゃん注:「富樫次郞政親」(康正元(一四五五)年?~長享二(一四八八)年)は、室町後期の武将。富樫氏二十一代当主にして加賀国守護。『富樫成春の子として』生まれ、『父同様、室町幕府』第八代将軍『足利義政より偏諱を受けて政親と名乗』った。長禄二(一四五八)年、『加賀北半国守護に任じられた赤松政則から加賀北部を取り戻すため、家臣団に擁されて奪回に尽力した。応仁元』(一四六七)年に「応仁の乱」が『勃発すると』、『細川勝元方の東軍に与した。ところが、弟』『幸千代が山名宗全方である西軍に与して敵対したため、政親は家督をめぐって弟と争う羽目となり、文明』五(一四七三)年に『真宗高田派門徒や甲斐敏光と結んだ幸千代に敗れて加賀を追われた。しかし』、『浄土真宗本願寺派門徒などの援助』や『加賀国内における武士団の支持を得て、幸千代を加賀から追い出し』、『再び当主の座に就いた』。『しかし、この奪回において本願寺門徒の力を知った政親が次第に本願寺門徒とそれに繋がる国人を統率しようと企てたため、本願寺門徒と国人』『が互いに結びつく』結果となり、『政親は』第九代将軍『足利義尚による』「鈎の陣」(六角高頼討伐)に『従軍していたが、急遽』、『帰国』した。しかし長享二(一四八八)年、『石川郡高尾城を攻められ、これを抑えられずに自害した(加賀一向一揆)』。『家督は大叔父』『泰高が継いだが、加賀の実質的な支配権を握ることはできなかった。以後』、天正八(一五八〇)年に織田信長に敗れるまでの九十年もの間、『加賀は』「百姓の持ちたる国」と『呼ばれる状況となった』とある。この終焉の地である高尾城(当時は「たこじょう/たこうじょう」と呼ばれたらしい)は先に「高雄山」で示した。なお、彼は高尾城を捨てて南下し、鞍ヶ嶽城に入って、この大池(現在のそれは農業用用水として完全な堤を有する)で討ち死にしたという伝承も確かに存在する。

現在、石川県白山市布市があるが、古くは現在のその東方の野々市市の一部をも含む広域が「布市」であったらしい(サイト「地名の由来」の「野々市」に拠る)。

「洲崎和泉入道慶覺」富田景周氏の「越登賀三州志 その1 注釈c」というページに「洲崎泉入道慶覚坊」について書かれてある。『一揆の俗人武士だが、彼には間違った説が非常に多い。あるいは和泉守と書き、あるいは鏡覚と書く。賊の首領ということで是正する必要もないというが、私(富田景周)はその履歴をここに記す』。『慶覚坊は近江の出身で洲崎兵庫といい、蓮如の弟子となる。河北郡松根に館を構え、森下・柳橋・小坂・大樋(全て現金沢市浅野川以北の北国街道沿い)まで押領したと言われており』、天文一九(一五五〇)年の『史料にある』。『また、石川郡米泉に住んで、西泉・泉野の』三『泉(現金沢市犀川以南、伏見川流域周辺)を領地とし、金沢御坊とされる本源寺と威勢を争い、その故に自ら「泉入道」と僭称した。それを後世の人が「和泉守」と記すのは間違いである』。『高尾城の落城後、自分の道場を米泉に構え、蓮如から授かった行基作の阿弥陀如来像を安置した』。『慶覚坊の墓は、今(江戸時代)でもなお米泉にある。また慶覚坊は、今の金沢百姓町(現金沢市幸町)慶覚寺』(現存する)『の開祖である。米泉の道場を数十年の後、寛永年間』(一六二四年~一六四五年)『に百姓町へ移したとされる』。『慈雲寺本に、加賀国石川郡米泉村に住み、泉野郷を領地として、後に金沢御坊の本源寺と威勢を争う。あるいは、河北郡大樋・小坂・柳橋・森下まで兵庫の押領地と言われる』。『考えるに、泉入道とは彼が泉野郷を領したために自ら僭称したものを後世の人が誤って和泉守などとしたもので、笑ってしまう、とある』とある。

「水卷小助」不詳。]

 此池鶴來村の金劔宮(きんけんぐう)「砥(と)の池」に水通ず。故に糠(ぬか)を蒔きて見るに、必ず數里の山谷を隔てゝうかみ出づと云ふ。

 實(げ)にも山上の古池臨むも恐しげなるに、金澤の俠士行きて水に入る者あり。然共(しかれども)底を盡して歸る者なかりしに、山王屋市郞左衞門と云ふ者よく底をさがしけるに、折懸灯籠(をりかけどうろう)に灯をともしてありしを見たり。

「池底に灯のあるべき事なし」

と不審して歸りしが、程なく家に死したりと云ふ。是も怪異の池故なるべし。

[やぶちゃん注:『鶴來村の金劔宮(きんけんぐう)「砥(と)の池」』前の「白山の梟怪」に既出既注。実際、金劔宮は倉ヶ岳の南西の山麓直下にある

「折懸灯籠」お盆の魂祭に用いる手作りの灯籠。細く削った竹二本を交差させて折り曲げ、四角のへぎ板の四すみに刺し立てて、その周囲に白い紙を張ったもの。参照した「精選版日本国語大辞典」に図がある。

「山王屋市郞左衞門」不詳。]

 元文年中、金澤に廣瀨何某といへる鷹匠あり。同輩四五人をいざなひて此邊に至りしに、頃は六月の夕立雲此峰におほひ、咫尺(しせき)の間も闇夜の如く、雨盆を傾くるが如く降來りしかば、或古木の本(もと)に隱れて晴行く空を待ちけるに、忽ち闇雲の中一塊の風筋ありて、

「りう」

と響きけるが、何かは知らず此池水へ

「どう」

と落(おつ)る物あり。暫くして雨晴れ退(の)きければ、今の響きを怪みて池上を見やりたるに、新しき棺桶ひとつ浮びありしかば、岸に引寄せ打明けて見たるに、死骸はなし。

「さるにてもいかなる事ぞ」

と、空しく興盡(つき)て金澤へ歸りしに、廣岡町の竹屋次郞兵衞と云ひし者は、其日屋根をふきて居(ゐ)たりしに、是(これ)も其頃くらき雲の一通り懸りし程に、

「ふしぎなり」

と振仰向(ふりあふぎむ)きしに、裸躰(らたい)の男一人引提(ひつさ)げられたる如く、雲中を叫び行きたるを見たりしと云ふ。

 是又同(おなじ)刻限なり。

 「火車」出現も目(ま)のあたりにや。

「此(この)つゞき硫黃山(いわうやま)の池にも、何れの年かゝる怪ありける」

と咄(はなし)人口(じんこう)にあり。

 去れば中院僧都、少しの執念により死して魔道に生じ、慶圓大德(だいとこ)に逢ひて問答し、彼(か)の大德の威を崇め敬ひければ、大德の曰く、

「貴僧魔界に落ちて何を以て所作(しよさ)とする。」

僧都の曰く、

「我徒數千人只(ただ)人の臨終を窺(うかが)ひ、變異を以て災害をなす。しかも碩師(せきし)宿德の人少しも慢心あれば、殊更に以て窺ひ易し」

と云ひけるとかや。

 實(げ)にも少しの慢心も恐るべき事にこそ。况や英雄功ならずして無念の死をなす。魔魅に落ちて殘魂の怪をなすも又怪(あやし)むべからず。

[やぶちゃん注:「元文」一七三六年~一七四一年。

「廣岡町」石川県金沢市広岡町。現在の金沢駅直近。

「竹屋次郞兵衞」不詳。

『「火車」出現も目(ま)のあたりにや』火車は本邦の妖怪。ウィキの「火車」によれば、『悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる』。『葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、伝承地は特定されておらず、全国に事例がある』。『正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又が正体だともいう』。『昔話「猫檀家」などでも火車の話があり、播磨国(現・兵庫県)でも山崎町(現・宍粟市)牧谷の「火車婆」に類話がある』。『火車から亡骸を守る方法として、山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡、富士河口湖町)で火車が住むといわれる付近の寺では、葬式を』二『回に分けて行い、最初の葬式には棺桶に石を詰めておき、火車に亡骸を奪われるのを防ぐこともあったという』。『愛媛県八幡浜市では、棺の上に髪剃を置くと』、『火車に亡骸を奪われずに済むという』。『宮崎県東臼杵郡西郷村(現・美郷町)では、出棺の前に「バクには食わせん」または「火車には食わせん」と』二『回唱えるという』。『岡山県阿哲郡熊谷村(現・新見市)では、妙八(和楽器)を叩くと火車を避けられるという』とあって以下に「古典に登場する火車」を要約して載せる。本篇の棺桶と空飛ぶ阿鼻叫喚する亡者(?)という空間を隔てた同時刻の出現の組み合わせから、『これら二つの事実は実は死体を奪う「火車」の出現したのを目の当たりにしたものだったのだろうか?』と言っているわけである。ただ、どうも私の認識している「火車」はそれとは異なる。私のそれは火を灯した「片輪車」の怪異が「火車」に相応しいからなのである。そもそも上記の妖怪、名前の「火」も「車」も具体的な実像と全く繋がっていないことが大いに不満なのである。私の「片輪車」の電子化した例は沢山あるのだが、まずは挿絵入りの「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」を嚆矢としてよかろう。多くは炎を上げる一輪(いちりん)の車が転がってくるのだ。しかもその軸受中央には恐ろしい生きた首(男の場合や女の場合がある)が一つついており、車輪は概ね人体の一部を引っ張っていたり、それを覗いてしまった者の子などの体を捥ぎ取ってゆくのである。ややほっとするタイプに改変されているものが、「諸國里人談卷之二 片輪車」である。「柴田宵曲 續妖異博物館 不思議な車」がこうした怪車の怪奇談を上手く集成している。そこにも「平家物語」の清盛の悪夢として挙がっているが、もう一つ別な悲惨な「火車」のイメージがある。所謂、地獄の責め苦としての「火車」で、「諸國百物語卷之五 二 二桝をつかいて火車にとられし事」がそれだ。私はともかく、死体を盗んで食う「火車」という妖怪にこの名を冠するのは間違っていると思って譲らない人間なのである。

「此(この)つゞき硫黃山」不詳。現行の山岳地図を見ても見出せない。前に出た医王山(いおうぜん)では倉ヶ岳や高尾山からは東北に離れ過ぎていて峰続きとはちょっと言い難い。しかし、既に前の「金莖の溪草」で検証した通り、山頂付近に「竜神池」があることはある。

「中院僧都、少しの執念により死して魔道に生じ、慶圓大德に逢ひて問答し」この「慶圓」は鎌倉初期に神仏両部思想を確立し、三輪神道の創始者とされる法相・真言僧慶円(けいえん/きょうえん 保延六(一一四〇)年~貞応二(一二二三)年)。別名を「三輪上人」とも言う。ウィキの「慶円」によれば、『九州豊前国の大伴氏につながる菊地家の出身。上賀茂神社の神宮寺を建てていることから』、『鴨氏(三輪氏)との深い関わりがあるものと考えられる』。建長五(一二五三)年に『書かれた「三輪上人行状記」に、三輪上人(慶円)は、惣持寺の本尊・快慶作』の『薬師如来の開眼導師を解脱上人貞慶に依頼され行ったとあるように貞慶解脱上人とは無二の親友であった』。『法相学を学び』、後に『東密広沢流を学び、また、金剛王院流も修学した。三輪別所(のち平等寺)を創建』し、建保五(一二一七)年に東寺・仁和寺と『ともに京都三弘法の』一つである『神光院を上賀茂神社北西に開創して』おり、『上賀茂神社(京都市北区)でも奉られ』たとある。そこに出た「三輪上人行状記」というのは読んだことがないが、苅米一志氏の論文『「三輪上人行状」の形成と構造』(『就実大学史学論集』(第三十二号二〇一八年三月発行・こちらでPDFでダウン・ロード可能)という論文を読むに、ここに書かれている内容は、その「三輪上人行状記」の第二部に当たるパートが元であることが判る。同論文の『三、「行状」の構造と論理』の『(1)「行状」の構造』の部分に、

   《引用開始》

第二部は、病魔である高僧との対話と灌頂を記したもので、第二段の阿曽宇陀源二入道[やぶちゃん注:「あそうだげんじにゅうどう」か?]子息・尭信房の病魔(中院某僧都の霊)との対話、第三段の多武峰方等房の病魔(覚鑁[やぶちゃん注:「かくばん」。]の霊)との対話、第十四段の大和国泊瀬河党[やぶちゃん注:「はつせがわとう」と読んでおく。]息女の病魔(良源の霊)との対話から成る。慶円は、病者と対話し、憑依した主体(魔道に堕ちた歴代の高僧。中院某僧都・慈恵大師良源など)から名乗りを引き出した上で、印信の伝授、灌頂などにより彼らを魔道から解放している。それと引き換えに脱魔道の確約を得て、慶円自身が堕魔道・脱魔道の審級者となる過程が述べられている。

   《引用終了》

この『魔道に堕ちた』『高僧』『中院某僧都』というのが、この「中院僧都」と判明する。

「碩師」大学者。

「英雄功ならずして無念の死をなす。魔魅に落ちて殘魂の怪をなす」ここに至って筆者はこの棺桶と空中を飛ぶ亡者(?)怪異の首魁を討死にして大池に沈んだ富樫政親が魔魅となって起こしているのだと断じていることが判る。]

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