三州奇談卷之二 篠原の古墳 (公開後翌日に謡曲「実盛」を読んで注を大幅に改稿した)
篠原の古墳
多田八幡は小松の上口町はづれなり。木曾義仲寄附とて、實盛の甲冑(かつちう)、錦の直垂(ひたたれ)の切(きれ)、上指(うはざし)の鏑矢(かぶらや)など籠(こ)め物あり。
[やぶちゃん注:「多田八幡」現在の小松市上本折町にある多太(たた)神社(グーグル・マップ・データ)。「石川県神社庁」公式サイトの同神社の解説に(「ただ」とする記載もあるが、こちらの表記に従った)、『当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。社縁起によると』、六『世紀初め、武烈天皇』五『年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ』、『平安時代初期には延喜式内社に列している』。寛弘五(一〇〇八)年に『舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した』。寿永二(一一八三)年の源平合戦の際には、『木曽義仲が本社に詣で斉藤実盛の兜鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願した。室町時代初めの応永』二一(一四一四)年には』『時衆第』十四『世大空上人が実盛の兜を供養された』。それ『以来』、『歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いている。大正元年に本殿後方から発掘された』八千五百余枚に『及ぶ古銭は、室町中期の』十五『世紀初めに埋納されたもので、当時の本社の活動と勢力の大きさを示すものである』。慶長五(一六〇〇)年には『小松城主丹羽長重が古曽部入善を』召し出して、『三男の右京に社家を守らせ、舟津村領にて』五丁八反二百四十三歩を『寄進されたことが記録にある、加賀三代藩主前田利常は寛永』一七(一六四〇)年に『社地を寄進し』、慶安二(一六四九)年の制札では『能美郡全体の総社に制定し』、『能美郡惣中として神社の保護と修理にあたるべきことを決めている』。また、元禄二(一六八九)年には松尾芭蕉が「奥の細道」旅の途次、『本社に詣で実盛の兜によせて感慨の句を捧げている、歴代の加賀藩主及び爲政者はいたく本社を崇敬し』、『神領や数々の社宝を奉納になった』とある。
「木曾義仲寄附」木曽義仲が願状を添えて実盛の遺品を奉納したと伝えられている。
「實盛の甲冑」同神社に現存する。サイト「南加賀周遊」の「実盛物語」を見られたい(画像あり)。高さ十五・二センチ、鉢廻り七十一・二センチ、総体廻り百三十九・四センチ、重さ四・四キログラムの気品のある兜で、中央には八幡大菩薩の神号がある。芭蕉も「奥の細道」で、
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齋藤別當眞盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に屬せし時、義朝公より給はらせ給ふとかや。げにも平士のものにあらず、目庇(まびさし)より吹返(ふきかへ)しまで、菊から艸のほりもの、金をちりばめ、龍頭(りゆうづ)に鍬形打つたり。
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と仔細に描写している。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす』を見られたい。なお、そちらで斎藤実盛の注も附してあるので、そちらを参照されたい。ここでは省く。
「錦の直垂の切」現存するようである。平宗盛に許された錦の直垂の袖の切れらしい。
「上指の鏑矢」「上差(うはざ)しの矢」の一つ。胡簶(やなぐい)や箙(えびら)などに盛った矢の上に別形式の矢を一筋又は二筋差し添えて飾ったものを指す。例えば、実戦用の征矢(そや)を盛った場合は、そこに飛び出させて狩矢(かりや)である狩股(かりまた)の鏃(やじり)をつけた鏑矢を用いた。
「籠め物」所謂、秘蔵品の謂いであろう。]
あなむざんかぶとの下のきりぎりす はせを
此吟、爰なり。實(げ)にも千古の悲淚たるべし。
[やぶちゃん注:芭蕉は元禄二年七月二十五日(グレゴリオ暦一六八九年九月八日)にここを訪れ、名句、
むざんやな甲の下のきりぎりす
を詠じた。詳しくは私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす』を参照されたいが、本句には以下の二種の異形があるが、本篇に引用のそれは孰れとも合致しない。蕉門を継ぐ伊勢派の麦水にしてどうしたことだろう?
あなむざんや甲の下のきりぎりす
あなむざんやな甲の下のきりぎりす
而して私は実は完全破格の最後の最後の一句を断然支持するものである。]
其後伊勢の凉菟も、
會稽(くわいけい)の錦のきれや五月雨(さつきあめ)
と聞へし錦の切は、菊江の織ものにして、五百年の古をしたふ。
[やぶちゃん注:「凉菟」既出既注であるが、再掲しておく。芭蕉晩年の門人で、麦雀や麦水の属した伊勢派俳諧の創始者である岩田凉菟(いわたりょうと 万治二(一六五九)年~享保二(一七一七)年)。伊勢山田の生まれ。本名は正致(「まさむね」か)。通称は権七郎。別号に団友・団友斎・神風館三世。北越・九州・中国各地に旅して勢力を広げた。編著「皮籠摺 (かわごずれ)」(元禄一二(一六九九)年・江戸で板行・榎本其角序)・「山中集」(宝永元(一七〇四)年)などがある。しばしば俳諧関連でお世話になる個人サイト「私の旅日記~お気に入り写真館~」の「岩田涼菟」で目ぼしい句と事績が判る。
「會稽(くわいけい)の錦のきれ」一つは「故郷に錦を飾る」(司馬遷の「史記」の「項羽本紀」に記される項羽の言葉「富貴不歸故鄕、如衣繡夜行、誰知之者」(富貴にして故鄕に歸らざるは、繡(にしき)を衣(き)て夜行くがごとし。誰(たれ)か之れを知らんや)がもととされる)を掛けてある。これは彼が近くの越前の出身であり、永く斎藤氏が本拠としたその地に近いことにあり、世阿弥作の謡曲「実盛」のコーダの直前に以下のように出るのを踏まえたもので、一見、不審にしか思えぬ唐突な「會稽」もやはりそこに出たのを引いたものである。
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〔シテ クセ〕 また實盛が 錦の直垂を着ること 私(わたくし)ならぬ望みなり 實盛 都を出でし時 宗盛公に申すやう 古鄕(こきやう)へは錦を着て 歸るといへる本文(ほんもん)あり 實盛生國は 越前の者にて候ひしが 近年御領(ごりやう)に付けられて 武藏の長井に 居住(きよじふ)つかまつり候ひき このたび北國(ほつこく)に 罷り下だりて候はば 定めて討死つかまつるべし 老後の思ひ出これに過ぎじ ご免あれと望みしかば 赤地の錦の 直垂を下(くだ)し給はりぬ
〔シテ〕 しかれば古歌にも紅葉葉を
〔地〕 分けつつ行けば錦着て 家(いへ)に歸ると 人や見るらんと詠みしも この本文の心なり さればいにしへの 朱買臣(しゆばいしん)は 錦の袂を 會稽山にひるがへし 今の實盛は 名を北國の巷(ちまた)に揚げ 隱れなかりし弓取りの 名は末代にありあけの 月の夜すがら 懺悔(さんげ)物語り申さん
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「本文」漢籍に記されて典拠ある文句を指す語で、「古歌にも」平安中期天暦一一(九五七)年頃)に成立した「後撰和歌集」の「巻第七 秋下」の詠み人知らずの一首(四〇四番)。この歌自体が項羽のそれを意識して詠まれたものである。「朱買臣」(?~紀元前一一五年)は前漢の武帝の官僚。蘇州の人。同郷の厳助の推薦によって武帝に仕え、侍中に進んだ。後に東越平定の策を献じ、故郷であった会稽の太守となって錦を着て帰った(「漢書」第六十四巻「朱買臣伝」)。将軍韓説とともにこれを討伐した。主爵都尉から九卿に上った。御史大夫張湯の罪状を告発して自殺させたが、自分も誅された。因みに、彼は若い時に薪を背負って読書に耽り、当時の妻はそれに愛想をつかして離縁したが、後に故郷に錦を飾った彼を見て、恥じて自殺したとされる。]
錦の切は蜀江に織物にして、五百年の古(いにしへ)をしたひ、目のあたり平家の繁華を感ず。
[やぶちゃん注:「錦の切は蜀江に織物にして」蜀江錦とは、嘗て中国の蜀で作られた織物のことで、日本には天平年間に輸入された。現在も法隆寺の遺品の中に見られ、模様は連続した幾何模様が多く、八角形と四角形を組み合わせた形がその典型である。日本に渡ると、名物裂(ぎれ)として茶道の世界などで珍重され、後に国内でもその模様を模した織物を作るようになった。格子・襷・亀甲などの組み合わせに花・七宝などの文様が配されたもので帯地などによく用いられる、としばしばお世話になるサイト「きもの大全」のこちらにあった。しかし、言っておくと、蜀と会稽は場違いで全く結びつかない。されば、前の句の解釈の糧(にするつもりで筆者は書いているとしか思えぬが)には全くならぬ。
「五百年の古」起点を本作の成立時期である宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃(推定)とすると、五百年前は一二五〇年(建長二年)前後となる。鎌倉中期となり、時期がおかしい。斎藤実盛の死は寿永二(一一八三)年六月一日で、五百七十八年から五百八十九年前であるから、「六百年の古」である。ただ、これは芭蕉の句作時に立ち戻っての感慨であって、それならば、ぴったり「五百年」前なのである。しかし、凉菟の句を掲げてしまった後にこんなことを言うのは私は瑕疵と思う。それらをみんな外して芭蕉の句にこの添え字を附したなら、すんなり読めたのにと思う。伊勢派へのサーヴィスが仇となってギクシャクしているように私は感ずる。]
戰死の篠原は、社頭の向う水を隔て二十餘町、古墳嚴然として、今に遊行上人必ず爰に必ず法會あり。享保十四年酉[やぶちゃん注:己酉(つちのととり)。一七二九年。]二月二日、遊行上人此所にて、【此前後、遊行上人詩歌多しといへども略す。眞阿は實盛の法名なり。】、
篠原墳上一忠臣 武勇功名何沒ㇾ塵
我祖化緣幾千歲 眞阿成佛古今新
と聞へし。金澤芦中町本淨寺、行合て和す。【芦中町は地黃煎町なり。本名は淨專寺町なり。富樫の代久保の橋の間淨專寺と云寺有と云々。】
白髮染成一老臣 高名粉骨反魂塵
春風有ㇾ恨篠原塚 五百余年人口新
[やぶちゃん注:「余」はママ。
「戰死の篠原」斎藤実盛は寿永二年六月一日(一一八三年六月二十二日)に加賀国篠原(現在の石川県加賀市旧篠原町で実盛塚が建つ)で戦死した。二つの漢詩を自然流で訓読しておく。
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篠原 墳上 一忠臣
武勇 功名 何ぞ塵(ちり)と沒せんや
我が祖 化緣(げえん)して幾千歲
眞阿 成佛 古今(ここん)に新たなり
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白髮 染め成す 一老臣
高名 粉骨 反魂(はんごん)の塵
春風 恨み有り 篠原の塚
五百余年 人口に新たなり
*
「我が祖」は時宗の開祖一遍上人、「化緣」は衆生を教化する因縁と、衆生の教化されるべき因縁の双方向を指す。「反魂」は死者を呼び戻す術のことで、「人口に新たなり」とは今も人の口に上ぼる精誠の実盛への讃嘆のことであろう。
「眞阿は實盛の法名なり」「謡蹟めぐり」のサイトの「実盛」には、実盛の死後二百七年後の康応二(一三九〇)年(後掲するが、このクレジットは誤り)、時宗総本山(私の家の近くの相模藤沢の清浄光寺(しょうじょうこうじ)。通称で遊行寺)第十四世遊行上人太空がこの地へ来った折り、実盛の亡霊が現われ、上人の回向を受けて妄執をはらし、上人が実盛に「真阿」という法名を与えられたと伝えており、以来、歴代の遊行上人が加賀路を巡錫の節には必ず立ち寄って此の塚に回向されたと伝承され、謡曲「実盛」はこの伝説に基づいて作られたものである、とあった。但し、遊行寺の公式サイトでは、このエピソードを応永二一(一四一四)年としており、「銕仙会 能楽事典」の「実盛」でも、『ちょうど世阿弥が活躍していた時期にあたる応永21年(1414)の5月11日、真言宗の高僧であり、室町幕府の政策顧問もつとめていた醍醐寺三宝院(さんぽういん)の僧 満済(まんさい)は、日記に次のように書き留めています。「斎藤別当実盛の幽霊が、加賀国の篠原に出現して遊行上人に出逢い、念仏を授かったという噂だ。去る3月11日のことらしい。(…)これが事実だとすれば、世にもまれなできごとである」。このように、実盛の幽霊が出たという噂が当時京都で広まっており、世阿弥はその趣向を取り入れて本作を書いたと考えられています』とあるので、こちらが正しい。
「金澤芦中町本淨寺」恐らくは現在石川県金沢市泉にある浄土真宗大谷派の本浄寺であろう。
「行合て和す」先の実盛の亡魂との交感を指すのであろう。
「地黃煎町」「ぢわうせんまち(じおうせんまち)」。「金沢市」公式サイトのこちらに、『藩政初期、泉野新村から発達した町で、地黄という薬草を採取して地黄煎という飴薬を売り出したことから、この名がついた』とあり、文政四(一八二一)年に『一町として町立てされた』とある。
「淨專寺町」不詳。かほく市にこの名の寺ならあるが。
「富樫の代久保の橋」不詳。]
髮洗ふ池は今は此中(うち)にして、そこと定めがたし。
[やぶちゃん注:実盛の首級の染めた髪を洗って落とした池。]
或人春雪の道を傳ひて、此所に逍遙して、
池水に足袋すゝがして梅の花
とたはふれける。根芹(ねぜり)洗ふを翁の白髮に似たればとて、
「埋れ木の其梢か」
と尋けるに、
「是は約束のありて賣るのにてはなし」
と答へけるとぞ。
[やぶちゃん注:このある人の話というのも、謡曲「実盛」の前シテが、実盛の首級の染めた白髪を洗ったとされる池畔で消えるシークエンスをもとにした話のようであるが、戯れに作った句が如何にも臭いやな句である。根芹を洗っている人物がどのような人物かも示されていないのも大いに不満である(根芹の白さを「翁の白髮」に喩えたもので、洗っているのは爺さんではない。寧ろ私は若い農婦をイメージしたいが、以下のシークエンスをもとにしている話となれば、やはり老人でなくてはなるまい)。「埋れ木の其梢か」というのは、その中入の直前の以下に基づく。
*
〔シテ〕 「いやさればこそその實盛は このおん前なる池水(いけみづ)にて鬢髭(びんひげ)をも洗はれしとなり さればその執心殘りけるか 今もこのあたりの人には幻(まぼろし)のごとく見ゆると申し候
〔ワキ〕 「さて今も見え候か
〔シテ〕 深山木(みやまぎ)のその梢(こずゑ)とは見えざりし 櫻は花に顯れたる 老木(おいき)をそれと御覽ぜよ
〔ワキ〕 不思議やさては實盛の 昔を聞きつる物語り 人の上ぞと思ひしに[やぶちゃん注:別人のことかと思うたが。] 身の上なりけるふしぎさよ 「さてはおことは實盛の その幽靈にてましますか
〔シテ〕 「われ實盛の幽靈なるが 魂(こん)は冥途にありながら 魄(はく)はこの世に留(とど)まりて
〔ワキ〕 なほ執心の闇浮(えんぶ)の世に
〔シテ〕 「二百餘歲の程は經れども
〔ワキ〕 浮かみもやらで篠原の
〔シテ〕 池のあだ波よるとなく[やぶちゃん注:「寄る」と「夜」を掛ける。]
〔ワキ〕 晝とも分(わ)かで心の闇の
〔シテ〕 夢ともなく
〔ワキ〕 現(うつつ)ともなき
〔シテ〕 思ひをのみ
〔上ゲ歌〕篠原の草葉の霜の翁さび
〔地〕 草葉の霜の翁さび[やぶちゃん注:「置き」と「翁」を掛ける。] 人な咎めそ假初めに 現はれ出でたる實盛が 名を漏らし給ふなよ 亡き世語りも恥かしとて おん前を立ち去りて 行くかと見れば篠原の 池のほとりにて姿は 幻となりて失せにけり 幻となりて失せにけり
*
勘所となる「深山木のその梢とは見えざりし 櫻は花に顯れたる 老木をそれと御覽ぜよ」とは、『深山の木は花を咲かすことのなければ、桜木とは判りませぬ。かくもここに現われましたる老人を、そのような老いた古木とお察し下され』の謂いで、これは「詞花和歌集」の「巻第一 春」に載る、源三位頼政の「題不知」の一首(一七番)、『深山木のそのこずゑともみえざりしさくらは花にあらはれにけり』に基づく。桜を梅に転じてある。本篇で「埋もれ木」(本来は地中に埋まった樹木が炭化して化石のようになったものを指すが、転じて「世間から見捨てられて顧みられない人の境遇」の喩えでもある)に変えたのは実盛死後の六百年の歳月を意識したからであろう。オチは意味深長にも見えるが、芭蕉の「奥の細道」的な実景変換、単なる俗への対称のモンタージュに過ぎぬか。或いは実盛の霊に捧げるものという匂わせか。ともかくも風情もへったくれもない凡俳の作り話としか私には思えない。]
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