三州奇談卷之三 乞食の信施
乞食の信施
「死して亡びざるは命永し」とは外典(げてん)の祕語(ひご)、浮屠(ふと)の無量壽願海も同じ酢(さく)の舌音(したおと)ならん。
[やぶちゃん注:「死して亡びざるは命永し」「老子」の第三十三章。
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知人者智。自知者明。勝人者力。自勝者强。知足者富。强行者志有。不失其所者久。死而不亡者壽。
(人を知る者は「智」なり、自ら知る者は「明(めい)」なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は强し。足(た)ることを知る者は富めり。强(つと)めて行ふ者は志(こころざし)有り。其の所を失(たが)へざる者は久し。死して亡びざる者は壽(いのちなが)し。)
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道家思想を好む私は、これは「無為自然の絶対の不可知の宇宙的絶対原理に従って下らぬ人為を確実に遠ざければ、たとえ肉体が滅んでも精神的な大切な霊は永く滅びることはない」の謂いであると考えている。
「外典」仏典ではない教え。
「浮屠」ここは仏でも如来の意であろう。
「無量壽願海」阿弥陀や釈迦の広大無辺な海の如き大慈大悲による衆生済度の既に成就された誓願のことと私はとる。
「酢」応答すること。響き。]
江沼郡勅使村願成寺は、昔寬和の法皇自生山觀世音に苦行の頃、一條帝(いちじやうのみかど)より藤原範家朝臣(あそん)を以て、法皇の巡禮調度を送り給ふ舊跡にて、村を勅使村と云ひ、御(お)かり屋を密院と云ふ。文明年中に一變して一向宗となる。今の願成寺是なり。
[やぶちゃん注:「勅使村」石川県加賀市勅使町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「願成寺」現在の勅使町にあるのは、浄土真宗の東西分裂によって分立した、浄土真宗本願寺派荻生園願成寺で、現在は洗心寺と改称している。一方の別な願成寺の方は真宗大谷派で、以前は沼郡荻生村(現在の大聖寺荻生町)にあったものが、本願寺分裂により、ずっと西の加賀市大聖寺鍛冶町に願成寺そのままの名で現存する
「寬和の法皇」花山天皇(安和元(九六八)年~寛弘五(一〇〇八)年/在位:永観二(九八四)年~寛和二(九八六)年)のこと。「那谷の秋風」で詳細に既注した。寛和二年六月二十二日(九八六年(ユリウス暦)八月五日(グレゴリオ暦換算七月三十一日)に僅か二年足らず、しかも数え十九歳で宮中を出て、剃髪し、仏門に入って退位したことから、かく呼ぶ。ウィキの「勅使村」に、『かつてこの地に、花山法皇』や、彼の後を継いで即位した『一条天皇の勅使』『の滞在する』(ここで言う「御かり(假)屋」=御旅所)『が在ったということが、村名の由来とされている』。『古墳が多い所であり、狐山古墳、丸山横穴古墳、花山法皇の御陵であるといわれる法皇山横穴古墳などがある』とある。
「藤原範家」不詳。国書刊行会本は『藤原範永』とするが、時代が違う。一つ、個人ブログ「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」の『北陸道各所に残る 「義経記」 ⇒加賀藩の記録 【三州奇談】 に記載される『大盗賊 熊坂長範伝承』と義経の奥州行き!!』の中に『「加賀市史」記載の「河合系藤原氏系図」には、「河合」と言う一族が見られる。「赤丸浅井神社」に【「一条天皇」が勅使「川原左京」を遣わされて二本の勅使桜を御手植えされた】と伝承されるが、この時の「左京大夫」は「藤原道長」で在り、【白河天皇はこの庄園を京都の上賀茂神社に寄進された。】と伝わる』とある。これに従うなら、この「藤原範家」は=「川原左京」=「左京大夫」=「藤原道長」ということになるが、これは流石に私は信じ難い。「加能郷土辞彙」の「勅使」には、『江沼郡那谷に屬する部落。江沼志稿に、花山天皇の勅使河原右京の居蹟が勅使村と河原村との間に在るとし、一說にそれを河原四郞左衞門ともするが、それは地名に基づく傳說であらう。大日本地名辭典には、古への勅旨田のあつた所なるべく、勅使の地名諸國に在るもの皆同例であるとしてゐる』とあるのは非常に腑に落ちる。いや、この人物が実在するということであれば、御教授を乞うものである。
「文明年中」一四六九年~一四八七年。]
寶曆巳年は祖師親鸞上人の五百回の法會なりと、願成寺に限らず、所々の寺庵、佛前に莊嚴(しやうごん)を飾ることなりし。十宗(じつしゆう)の敎へも登れば同じ月ながら、分けて流(ながれ)は此宗の北の海山多くして、はや四五年以前よりも、賤(しづ)がふせや・桶の折戶にも、坊主を請じ知識を招きて、一花一香の心許(ばかり)も報恩を勤めざるものはなし。
[やぶちゃん注:「寶曆巳年」一七六一年。親鸞は弘長二年十一月二十八日(西暦一二六三年一月中)入滅している。
「十宗」南都六宗・平安二宗・鎌倉二宗の総称。俱舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・律・法相(ほっそう)・三論・華厳・天台・真言・禅・浄土の十宗派。但し、これらの発祥が同じ月であるというのは私は初耳である。識者の御教授を乞う。
「桶の折戶」古い桶材を用いて作った粗末な扉の謂いか。]
能美郡湊村に乞食ありて、いつの頃よりか手取川の邊(ほとり)に小屋二つ三つ並べ、夏は元より夕顏棚の下凉み、冬も裸に汐木(しほき)を拾ひ、圍ひ船を楯として白根の吹(ふき)おろしを防ぎける。三人行く時は是にも一人の師あり。
[やぶちゃん注:「能美郡湊村」白山市湊町。]
此中の加兵衞と云ふ者は、江沼郡の百姓にて、日照(ひでり)の年の作り倒れながら、此願成寺旦那にて信心なるに勸められ、殘る三人も、いつとなく貪る心のひまひまに口唱するこそやさしけれ。取分(とりわけ)此二三年開祖の大會を遂げられ、沓(くつ)など命を限り作りて鳥目を貯へ、長月(ながつき)[やぶちゃん注:陰暦九月。]の末
「願成寺の法會に參らん」
と、爾々(しかじか)のよし云ひて、此中間として報恩の法施鳥目八貫文、菰(こも)に包てぞ上りける。御坊も、渠(かれ)が不相應の信施の感じ、ねんごろに勤行あり。日暮るれば庭前にまろ寢して、晨朝(しんてう)も參詣して歡喜して歸ける。
其翌日は廿八日
「御命日なれば」
と、加兵衞が小屋へ打より、繩下げの棚に灯をともし、片言交りの偈(げ)を唱へ、枯芦折りくべ、茶をわし、佛恩を悅ぶ。
[やぶちゃん注:「繩下げの棚」繩で天井から吊り下げた粗末な棚の仏壇。]
たそがれ時、八旬許[やぶちゃん注:八十歲ほど。]の老僧、此小屋へ立ち入り、
「我は願成寺の住僧なり、『きのふ法施感心の餘り、行て敎化すべし』とのしめしに依て來(きた)れり」
と、菰の上に安座して、矢立取出して白紙に六字の名號を書きて垣(かき)[やぶちゃん注:粗末な板壁。]に挾み、棚に向ひて讀經念頃(ねんごろ)に、猶安心(あんじん)の敎化をなし、一睡一臥もなさゞるに、芦の簀(す)の子に早や曉の鷄(とり)、鐘鳴りて、御僧は衣のちりを打拂ひ、
「又重(かさね)て」
と暇乞(いとまごひ)して立給へば、加兵衞は只落淚にくれ、
「せめて我々御見送り」
と云ふ間に、はや遙向ひへ步み給ひし。
此(この)折から、大聖寺の福田町堀切や太兵衞と云ふ者、其曉方(あかつきがた)本吉より立出で、此道を通りしが、湊村の方にあたりり怪しき雲たなびきけり。
「ふしぎや、紫雲と云ふ物にこそ」
と、暫く彳み居たるに、乞食小屋より老僧一人立出で上の道へ步み給ふ。
其跡に付きて行きぬれば、えならぬ薰りして、何となく心中もすみわたるやうに覺えて、
「扨もふしぎ」
と彼僧の跡をしたひ行く。
太兵衞が一僕も、
「此香を聞きたり」
とぞ。
既にして敕使村願成寺の境内へ入り給ふ。
續いて立入り、まづ御堂を拜し、同宿の僧を尋ね、
「是へ只今入り給ふ老僧は何と申す」
と問へば、
「今朝(けさ)より誰(たれ)も寺中へは入る者なし。昨日までは法會ありし。今朝よりは此寺に坊主の出入曾てなし」
と云はるゝに怪しきことに思ひ、道々の樣子を語り怪しみ居(ゐ)る所へ、湊村より乞食四五人來て、
「夕べの御伴僧樣身に餘り有り難し、恐(おをれ)ながら御禮として參詣仕り候」
とて、一封の鳥目を出(いだ)し、
「さてふしぎは夕べの御伴僧樣、常々見馴れぬ御方と申し、今朝御出立の跡に、宵に書き下されし六字の名號、白紙にてありし故、何れも不審はれ難く侯。あはれ其儘名號になして下され侯へ」
と語れば、住持の僧も、傍(かたはら)に聞居(ききゐ)たる堀切屋主從も手を打ちてふしぎがり、非人へも右の事物語り、
「是全く聖人の奇特正しく、往還の現證にこそ有難けれ」
と、一座皆身を投打ちて落淚し、普(あまね)く報謝の應念を運びしなり。
[やぶちゃん注:これは凄い!! 親鸞の霊が下賤の真心の籠った法施に応ずるために、かの「往還回向」にやってきたのだ! こんな話は私は読んだことがない!!! 感動した!!! 名号が白紙なのは不可思議光であるからに他ならぬ! 厳か過ぎて、注を附すことさえ憚られる(私は思想家としての親鸞を激しく尊崇している。往還回向とは何か判らぬ御仁は御自分でお調べあれ)!!! 悪しからず!]
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