三州奇談卷之二 再生受ㇾ刑
再生受ㇾ刑
金澤高道町(たかみちまち)に、蒔繪師次郞兵衞と云ひし者あり。元は越中高岡の者なり。其親は、ともかくもしける者の子なりしが、不斗(ふと)若年の頃より博奕(ばくち)を好みて、親にも近隣にもうとまれて、金澤の奉公を望み出でしが、よき便宜ありて、塗師が家に弟子分と云ふものにぞありつきにき。生れ賤しからざる者故、主人も憐れみ、十二里を隔てゝ上りたる者なれども、生國同じ事にむつび近付く者多く、程なく世帶を持ちし。
[やぶちゃん注:標題は「再生して刑を受く」と訓じておく。「再生」というのは最後の最後に驚愕の過去の事実が語られるところで、初めて明らかにされる。
「高道町」現在の金沢市山の上町・東山二丁目・森山一丁目。この付近(グーグル・マップ・データ)。0808cho氏のブログ「旧町名をさがす会(金澤編)」のこちらに拠った。
「十二里」は約四十七キロ。平面実測でも三十八キロは有にあり、途中の倶梨伽羅越えを考えれば、この数値は正しい。
「生國同じ事にむつび近付く者多く」当時、越中(富山)から加賀へ出稼ぎに出て来るものが多かったことが判る。]
然れども、底心に惡意ありける者にや、博奕或は人をたぶらかすことは止まず。
され共巧(たくみ)に能くいひぬけて世を渡りけるが、惡緣にや其隣の割場付小遣(わりばつきこづかひ)何某の妻に密通して、わりなく通ひけるが、折節給分の銀を會所(くわいしよ)より此小遣何某請取り來り、則(すなはち)其銀を女房に預け、五六里許遠き所へ一二日の逗留とて出で行きし。
[やぶちゃん注:「割場付小遣」森下徹氏の論文(研究ノート)「加賀藩割場と足軽・小者」に、『加賀藩には、割揚とよばれる、藩直属の足軽・小者を管轄する機関があった』(PDF)とある。その詳しい職務はリンク先を読まれたいが、その「割場」に所属した下級の使用人のことであろう。
「會所」江戸時代は諸藩の行政や財政上の役所・町役人・村役人の事務所、また商取引や金融関係の事務所にこの名がつけられたが、特に金沢町奉行の役場を「會所」と呼んだことが、「稿本金沢市史 風俗編第一」(昭和二(一九二七)年~昭和八(一九三三)年・国立国会図書館デジタルコレクション)のこちらに記されてあった。]
妻は留守を悅びて、頓(やが)て彼(かの)忍び男を招きしに、次郞兵衞忽ち來り、いつよりも睦敷(むつまじく)打圍(うちかこ)みて、
「扨主(ある)じの預け置し給銀を我に與ヘよ。『人に盜まれたり』と答へんには、後難(こうなん)あるべからず。其上、此銀を元手として、一二夜のうちに博奕に仕合(しあは)すれば、銀を返し置くなれば別事(べつじ)あるべからず」
と云ひけるに、流石(さすが)女氣(をんなぎ)の斯迄(かくまで)の惡事には堪へざりしを、色々とすかしけれども、女云ひけるは、
「情(じやう)にひかれて不義をなしぬるは、遁(のが)るゝ方なき惡事なれども、をさなひより語らひし人の、千々(ちぢ)に思ひ當り給へる給銀なれば、一年(ひととせ)の骨(ほね)を盜まんは、何と情によるとももだし難し」
[やぶちゃん注:「千々に思ひ當り給へる」散々に辛苦を重ねなさってやっと得た。
「一年の骨」一年の骨折り。
「もだし難し」背くわけにはゆかない。]
と受けがはざりければ、次郞兵衞怒りを起し、
「斯迄わけて云ふに隨はざる女、捨ておかば此程ほどの事共(ことども)夫にかたり我を罪してん。よしや是迄の緣思ひ知れ」
[やぶちゃん注:「わけて云ふに」ちゃんと判るように仔細に分けて説明したのに。]
と脇差を拔き脊中へ突當て、
「いかに我詞に隨ふまじきか」
と云へば、女曰く、
「いかに責め給ふ共、かゝる不義の事はせじ。今聲を立ざるものは、君を思ふ故なり。與へざる物は先(まづ)夫の恩を忘れざればなり。早く殺して銀を取去(とりさ)らるべし」
と云ひけるに、情なくも刺殺(さしころ)して、銀を奪ひて立隱れける。
夜明けてあたりより見付け、夫(をつと)へも人を馳せて、公邊(こうへん)此盜賊の事殊に御吟味强く、彼(かの)次郞兵衞何かに付け疑ひ懸り、頓て召捕(めしとら)はれ、數度の責(せめ)に白狀して罪に落ちければ、
「次郞兵衞生國越中の者なり」
とて、下鄕百ケ坂(しもがうももがさか)と云ふ山にて磔(はりつけ)の刑にぞ行はれける。
[やぶちゃん注:「公邊」公儀。ここは加賀藩藩方の意。
「下鄕百ケ坂」石川県金沢市百坂町。ここはかつては河北郡坂井村で、坂井村は明治二二(一八八九)年の町村制施行で神谷内村・柳橋村・横枕村・法光寺村・百坂村・金市新保村・新保荒屋村・福久村の区域をもって発足している。原地域の東半分は丘陵上になっているから、その辺りか。]
其頃は未だ高岡なる親の生きてありしに、此見物の群集に紛れて密(ひそか)に窺ひけるが、何やらん獨りつぶやき、淚にむせばれたるを、かたへの人々問ひ寄りしに、ざんげとて語られける。
[やぶちゃん注:「ざんげ」はママ。一般には江戸時代は「懺悔(懺悔)」は「さんげ」と頭は清音で読むのが普通であった。]
「我は今磔にある次郞兵衞が親なるが、某も元は金澤通ひして商(あきなひ)せる者なり。或時此桃が坂に磔の刑ありしを見物に行く人の多かりし。此(この)次郞兵衞が親の某(それがし)も、折から道通りがけにて、共に立寄りて是を見物しけるに、一身寒き事水を以てそゝぐが如し。いかに思ひ直せども止まざりしが、其夜高岡に歸りて女房に語りけるに、是も
『何となく寒し』
とて振(ふる)ひ付きしが、其時妻身持(みもち)になりて、終に此次郞兵衞を產み落せしなり。色よき[やぶちゃん注:見栄えのよい。]兒(こ)なりしかども、其事を思へば心安からず、とかく寒む氣(け)の止まざりしも、けふの場に懸るべき業(ごふ)にやありけん。『眞如隨緣(しんによずゐえん)の波は立盡(たちつく)さず』といへども、同じくは九品蓮臺(くほんれんだい)の緣を結びて、此娑婆の執着こそ逃(のが)れたきなれ。目前に再生の業人(ごふにん)を產んで、猶未だ斑(まだら)なる髮をおしみ、剃捨(そりす)つる心の起らざるは、扨も扨も罪業淺ましき」
と老の齒ぐきに淚を嚙みしめてぞ聞へけること、皆緣によるといへども、かゝることも又ためしなきや。
[やぶちゃん注:「眞如隨緣」絶対不変である真如(仏法の真理)が、縁に応じて種々の現われ方をすること。
「九品蓮臺」極楽浄土にある蓮の葉で出来た台。往生すればその上に生まれ出ずるという。その往生の仕方には下品下生(げぼんげじょう)から各上・中・下で上品上生までの九等の階位がある。
「かゝることも又ためしなきや」「それにしても……ここまで奇体な因果応報の例もまた……これ、あるものなのだろうか?」という反語的疑問の謂いであろう。私も多くの怪奇談・因縁物を読んできたが、こうした思いも寄らぬ現世応報譚は珍しい部類に属する(普通の作り物の仏教説話譚なら、最後にこの次郎兵衛親の前世の因縁辺りを開陳して説いて論理的辻褄を合わせるところだが、それがないからこそ本篇には驚愕のリアリズムが逆に発生すると言える。特に最後のコーダを、親が涙を歯茎に噛み締めるアップで終わらせている辺りは強烈である。但し、落ち着いて考えると、こういた構成全体は、残酷性の強い浄瑠璃のある種のパターンとよく似ていることに気はつく)。また、誠意を示した割場小遣の妻を平然と刺し殺す次郎兵衛の全き極悪性も極めつけに際立っており(これも浄瑠璃の悪党にしばしば見られる)、読み終えた後に、何時までも何とも言えぬ救い難い不快な憂愁が立ち罩めるというのも珍しい。]
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