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2020/02/01

三州奇談卷之二 三湖の秋月

三州奇談 卷二

 

     三湖の秋月

 范蠡(はんれい)は五湖に遊び、楚子は七澤に狩す。定(さだめ)て絕勝の地なるべしといへども、雲烟萬里筆に聞くの外は、往き至るに因(ちな)みなし。此(この)北浦小松の境にも「三湖臺」と云ふ地あり。所謂今江潟・芝山潟・木場潟なり。芝山潟は月津・日末の二村に挾りて、形胡蘆(ころ/ひやうたん)のごとし。動橋(いぶりばし)の川下にして、串村の長橋に下る。今江潟は其の形琴に類し、三面平遠の景にして、後ろの山高からず。須磨の景を移し、眺めおだやかにして美人の面(おも)に似たり。大樣(おほよそ)景は田子・三保に相次ぐなり。木場潟は四面山を圍みて大池のごとし。諏訪・箱根の湖(うみ)に類する成べし。岸は蓴菜(めなは)の名所なり。「蛇淵」に帶刀の脫せん事を恐るゝに、此「蛇淵」に折々小蛇數千集り、甕(かめ)の如くなる。古人是を「蛇塚」と云ふ。蓮の咲く河あり。杜若(かきつばた)多き入江あり。舟を入て杜若の開く音を聞くも亦一興なり。今江の上の山は、三湖を一望に盡して、三所の水月に對する。爰にてや。[やぶちゃん注:句点はママ。]

  峯の月汀まされる光り哉  連歌師 能順

 其頃は、此所連歌度々ありし程に、土俗「連歌山」と云ふ。「王子(わうこ)の宮」と云ふには藤の花多し。山畔又山櫻の列樹をなし、馬場に類せる所もあり。此地は中昔、德山(とくのやま)五兵衞暫く館(たち)を構へて、「龍が馬場」と云しは爰なり。是より小松ヘ一里。今江橋の道は本道、新橋の道は大領野淺井村を過ぐ。彼(かの)淺井畷手(なはて)は、小松の先主丹羽長重、加州二代主利長公の歸陣を襲ふ時、江口三郞左衞門[やぶちゃん注:ここに読点が欲しい。]長(ちやうの)九郞左衞門の殿(しんがり)りに接して鉾(ほこ)を交(まぢ)へし地なり。山代橋の此方(こなた)八田(はつた)三助が伏せし地あり。橋の南の方は、水越縫殿(みづこしぬひどの)・岩田傳左衞門等の立ちこたへし鎗場(やりば)、此邊(このあたり)松のもとは、今に長家(ちやうけ)の英士戰死せし跡とて、墳墓累々として殺氣猶あるに似たり。

[やぶちゃん注:「范蠡」春秋末期の政治家・財政家。越王勾践 (こうせん) に仕え、越が呉王夫差に敗北した後、越の再建に努力し、ついに呉を破って(紀元前四七三年)「会稽の恥」を雪ぎ、勾践を五覇の一人にさせた。後、勾践を嫌って一族と斉に移り、鴟夷子皮 (しいしひ) と名乗り、大富豪となった。やがて斉の宰相となったものの、まもなく去って陶 (山東省) に移り、陶朱公と称して巨万の富を得たと伝えられている。

「五湖」呉に属した現在の江蘇省南部と浙江省北部の境界にある太湖(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の古名。その景観の美しさで知られる。なお、画題に「范蠡泛湖(はんこ)」があり、これは范蠡が西施を船に乗せて、自ら棹さして五湖に浮べて連れ行くさまを描くという。これは実は呉が敗れた後、范蠡が政略のために夫差に差し出した彼女を守るために逃がそうとするシーンである。榎本博康氏の「セカンドライフ列伝 第15回 范蠡(はんれい)」の「第二の人生:越との決別」に、

   《引用開始》

 斉に勝利すると、勾践は得意の絶頂であった。そこに范蠡は恐れを感じた。会稽の恥辱以来の22年間は一体何だったのだろうかとも。それに彼は帰ってきた西施を守りきれなかった。勾践の新しい正室や後宮の女たちの猛烈な嫉妬の対象となり、刺客が差し向けられる事態であった。さらに勾践には西施を守る気などさらさらなかった、彼女なしには呉の滅亡は達成できなかったというのに。そこで范蠡は彼女を范家屯に匿ったが、今度は呉の残党から狙われるようになった。そこで西の楚に逃がそうとした。夜陰に乗じて軽舟で五湖を渡るのである。そこを呉の残党が西施と知って襲って来た。西施は自ら広大な五湖の、湖底に沈んだのである。20年近い夫差の荒淫に耐え、40歳でも美貌と知性に溢れ、そしてどんなことにも折れなかった心に、深い傷を負ったままに。

   《引用終了》

いや、一説によれば、西施は勾践の夫人たちや人民らから、美女ゆえの傾国の危きにより、無惨にも生きたまま皮袋に入れられ、長江へ投げ捨てられたとも言われているのである。ああ! まさに……象潟(きさかた)や雨に西施がねぶの花……(『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』を参照)ではないか……

「楚子」これは楚の歴代君主の中でも最高の名君とされて「春秋五覇」の一人に数えられる荘王(?~紀元前五九一年/在位:紀元前六一四年~紀元前五九一年)のことであろう。「春秋左氏伝」で彼をこう呼称している。

「七澤」楚にあった雲夢(古代の長江流域の、特に洞庭湖を中心とした広大な湿原地帯の古名)などの七つの沼沢の命数とされる。

「今江潟」石川県南西部の小松市にあった潟。以下の二つの潟とともに「加賀三湖」と称されたが、昭和四三(一九六八)年に全面干拓され、拓栄町となって複合農地となり現存しないStanford Digital Repository」のこちらで明治期の干拓前の加賀三湖の位置が確認出来るので、現在の地図と比較されたい。

「芝山潟」石川県南部の加賀市北部にある潟湖。加賀三湖の中で最大面積を誇ったが、第二次世界大戦中から干拓が進められ、日本海への放水路が完成、今江潟が消失した昭和四十三年までに三・四平方キロが造成された。現在残るのは一・七七平方キロのみである。湖岸の片山津温泉が知られる。

「木場潟」小松市内のここあり、加賀三湖中、唯一、干拓されずに調整池として残されている。面積一・一三平方キロ、水深二メートル、湖周六・四キロ。

「月津」石川県小松市月津町(つきづまち)。現在は柴山潟に接していないが、地図で見れば、西方部が「干拓町」となっているのが確認出来る。「Stanford Digital Repository」のこちらで見ると、南西岸や潟中央の島も含めて月津村であったことが判る。

「日末」小松市日末(ひずえ)町。現在の柴山潟からは三キロ以上東北に離れているが、往時、日末地区が潟畔であったことを(というより消失した今江潟との間にあった「御崎村」の中の大きな集落であったことが判る)、やはり「Stanford Digital Repository」のこちらで確認されたい。

「動橋」既出既注

「串村の長橋」現在の石川県小松市串町の、恐らくは「Stanford Digital Repository」の旧地図との対照から見て、この中央の県道百四十五号の橋ではないかと推測する。

「蓴菜(めなは)」読みは国書刊行会本の原本のカタカナ・ルビに従った。スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi

『「蛇淵」に帶刀の脫せん事を恐るゝに』ちょっと意味が躓く。まず読みが「じゃぶち」か「へびぶち」かも判らぬ。資料もないし、「近世奇談全集」もルビしない。国書刊行会本はここが『蛇淵に帯刀の脱せん事を恐る。』と切ってあり、これだと、『この「蛇淵」へは帯刀(この場合、武士のそれではなく、庶民も含めてで、彼等の場合は有意に長めの鉈(マチューテ様のもの)のようなものをイメージした方がしっくりくると思う)せずに行くことを皆、恐れる。』で、以下、何故ならば、と繋げて読んで腑に落ちるからである。

「杜若(かきつばた)」読みは「近世奇談全集」に従った。単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata。但し、私は古人がこう漢字表記し、こう訓じたしても同種に限定比定することを躊躇する気持ちがある。彼らがアヤメ属ノハナショウブ変種ハナショウブ Iris ensata var. spontanea をちゃんと区別していた可能性に疑問があるからである。ただ、ここはそれが多く生えるのを潟の入り江としているので、湿地には滅多に植生しないアヤメ属アヤメ Iris sanguinea は除外してよい。

「杜若の開く音を聞くも亦一興なり」無論、音などしない。風狂として洒落て言ったのである。

「今江の上の山、三湖を一望に盡して」小松市今江町附近だと、木場潟の対岸の丘陵部(グーグル・マップ・データ航空写真)となろう。202023日:削除・追記】T氏より情報を戴いた。国立国会図書館デジタルコレクションの「石川県能美郡誌」の「第十六章 御幸村」の「名跡」の「御幸塚」の項に、

   *

〇御幸塚。御幸塚城中にあり、[やぶちゃん注:中略。]一面今江潟の洋々たるあり、柴山潟も亦遙に松林疎々たる間に隱見す、四望窮りなく、一眸凡て詩趣ならざるなし、故に又た三湖臺の名あり、或は曰く、此地は古墳の遺なり。その外貌意見して瓢形なると[やぶちゃん注:以下略。]

    *

とあってここに「御幸塚」の往時の写真が載るのだが、見るからに古墳であり、台形であることが判る。さすれば「三湖臺」の呼称が腑に落ちるのである。

「峯の月汀まされる光り哉」「連歌師 能順」句は不詳だが、上大路能順(かみおおじのうじゅん 寛永五(一六二八)年~宝永三(一七〇七)年)は江戸前期の連歌師。京都北野天満宮の宮仕(みやじ:掃除などの雑役に従事した下級の社僧)。明暦三(一六五七)年に加賀金沢藩主前田氏に招かれ、小松桟(かけはし)天神社別当職(梅林院)となった。天和三(一六八三)年創建の北野学堂の初代宗匠を務めた。号は脩竹斎・観明軒。句集に「聯玉集」。

「王子(わうこ)の宮」読みは国書刊行会本に拠る。よく判らぬが、或いは現在の小松市上本折町にある多太(たた)神社のことか。「石川県神社庁」公式サイトの同神社の解説に(「ただ」とする記載もあるが、こちらの表記に従った)、『当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。社縁起によると』、六『世紀初め、武烈天皇』五『年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ平安時代初期には延喜式内社に列している』。寛弘五(一〇〇八)年に『舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した』。寿永二(一一八三)年の源平合戦の際には、『木曽義仲が本社に詣で斉藤実盛の兜鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願した。室町時代初めの応永』二一(一四一四)年には』『時衆第』十四『世大空上人が実盛の兜を供養された』。それ『以来』、『歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いている。大正元年に本殿後方から発掘された』八千五百余枚に『及ぶ古銭は、室町中期の』十五『世紀初めに埋納されたもので、当時の本社の活動と勢力の大きさを示すものである』。慶長五(一六〇〇)年には『小松城主丹羽長重が古曽部入善を』召し出して、『三男の右京に社家を守らせ、舟津村領にて』五丁八反二百四十三歩を『寄進されたことが記録にある、加賀三代藩主前田利常は寛永』一七(一六四〇)年に『社地を寄進し』、慶安二(一六四九)年の制札では『能美郡全体の総社に制定し』、『能美郡惣中として神社の保護と修理にあたるべきことを決めている』。また、元禄二(一六八九)年には松尾芭蕉が「奥の細道」旅の途次、『本社に詣で実盛の兜によせて感慨の句を捧げている、歴代の加賀藩主及び爲政者はいたく本社を崇敬し神領や数々の社宝を奉納になった』とある。芭蕉は元禄二年七月二十五日(グレゴリオ暦一六八九年九月八日)にここを訪れ、名句、

 むざんやな甲の下のきりぎりす

を詠じた。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす』を参照されたい。202023日:削除・追記】T氏よりメールを戴き、私の比定したものとは全く別な神社であることが判明した。「石川県能美郡誌」(国立国会図書館デジタルコレクション)の「第十六章 御幸村」のここの記載によれば、現在(明治一二(一八七九)年九月)は今江春日神社と呼ばれており、最初は「王子宮春日大明神」と称して「連歌山」の麓に祭ったとし、明治になり、春日神社、その後、今江春日神社と改めたとある。次のページのポイント落ちの参考文献資料引用の中に、

   *

〔寶永誌〕

一同村の内おこしの宮と云社有、又御ヲヽコフともあり、神体[やぶちゃん注:ママ。]、春日の由、古皇子御下向の節、春日大明神供奉に付、則氏神と崇敬すといへり、

   *

とあり、また、サイト「異形の郷土史」の「小松今江村端」に享和二(一八〇二)年(大正一三(一九二四)年補修)の非常に鮮明な「今江古城之圖」があり、そこに王子宮(鄕社今江春神社)が描かれてある。小松市今江町のここにある今江春日神社であった。「石川県神社庁」の同神社の解説にも『王子(おおこ)さんと言われている。花山法皇の自画像を祀り、王子宮春日明神と称したと伝えられ、明治維新後』、『春日社と称した』とする。

「德山五兵衞」サイト「tokuyama.net」の「3.江戸の幕臣徳山氏」の冒頭の『徳山五兵衛則秀―「とくのやま」と称す』に、織田家に仕えた『徳山一族の中で、歴史上最も波乱に満ちた生涯を送ったのは、貞孝』(同サイトの「2.清和源氏土岐氏族徳山氏」の後半を参照されたい)『の子五兵衛則秀であり、徳山一族を語るのに最大級の人物です。則秀は、幕臣徳山氏の初代であるのみならず、苗字の読みや家紋も改めるなど、影響力の大きな人物です。(家伝に、「はじめ『とこのやま』と称せしを、則秀がときより『とくのやま』と唱う。」とあります。)』。『五兵衛則秀は、織田信長に従い、浅井、朝倉討伐や長篠合戦などに参加、その後柴田勝家の与力となって加賀の攻略に加わり』、天正四(一五七六)年、『御幸塚城(石川県小松市)を陥し、信長から御幸塚城主に任命されます。次いで、小松城に移った後』(ここら辺りが本篇の言うところであろうと思われる)、天正八年の『加賀平定後は松任』四『万石の領主となります。その後も、則秀は娘婿佐久間玄蕃盛政との縁もあり、柴田勝家配下として能登、越中方面で戦っています。天正』十年六月の「本能寺の変」の『際には、魚津城(富山県魚津市)攻略に参加していました』。『本能寺の変の後も則秀は柴田勝家に従っています』。翌天正十一年の「賤ヶ岳の合戦」にも『柴田側として参加、有名な大岩山砦の奇襲にも先鋒として活躍し、「賤ヶ岳合戦図屏風」にもその姿が描かれています。賤ヶ岳の合戦は秀吉の迅速な帰還と前田利家の戦場離脱により柴田側は敗戦。則秀は秀吉に降り、高野山に蟄居しますが、後に出て丹羽長秀に仕えて』八『千石を得、次いで前田利家に仕えます。前田利家の死後』、慶長五(一六〇〇)年に『徳川家康に召し出され、以後』、『幕臣となっています』。『五兵衛則秀は「徳山村史」に「勇邁にして機智策謀にたけ、隠忍長久の人生観を持ち」とあるように、魅力的な人物であったようです。勇敢なだけでなく、御幸塚城攻略では調略を廻らして城将を内応させるなど戦略面でも有能だったようで、戦国の世を生き抜いています。また、家康公の生涯や思想、人柄に似通うものが多かったのでしょう、晩年には家康公の御噺衆に列し、本領美濃徳山及び更木』五『千石を賜り、厚遇を受けています』という人物である。

「是より小松へ一里」不審。この起点が分からない。この数値に見合うのは、句の前に示された小松市今江町でここから旧小松城下までなら、直線で一里相当となる。

「今江橋」現在のものは国道三百五号が渡るここだが、明治期には架橋されていない。架橋があるのは、消失した今江潟へつながるここの橋である。そばに前川船番所跡がある。

「新橋」不詳。位置的にはズバリ、前の前者がそれに当たるのだが? ないものはそれとは言えぬ。江戸時代にはあったのかも知れない。202023日:削除・追記】T氏のご指摘。先に示した『サイト「異形の郷土史」の「小松今江村端」に享和二(一八〇二)年(大正一三(一九二四)年補修)の「今江古城之圖」を見ると、図の左に二カ所番所が書かれています。例の「石川県能美郡誌」の「第十六章 御幸村」の「名跡」の「○御番所」の項に、

(前略)今江村大橋詰(御幸村字今江御幸橋東西詰金戶雄次郎敷地内)及同村新橋(同村同字新橋詰中橋佐平敷地内)にあり、(以下略)

とあることから、この「新橋」は「前川」にかかる現在の北陸本線のすぐ西の橋(今江春日神社の東を走る道)と比定することが出来ます』とあった。この中央の橋であろう。

「新橋の道は大領野淺井村を過ぐ」「大領野」は現在の小松市の大領町(だいりょうまち)から南浅井町一帯(リンク先の西に前者はある)「淺井」はその東北に接する北浅井町ととっておく。202023日:削除・追記】T氏曰く、此の「大領野」は現在の大領中町であると限定される。例の「石川県能美郡誌」の「第十六章 御幸村」の「名跡」のここに、○大領野。今の大領中の西南一帶の地を、往昔は大領野といひ、松樹生茂りて晝尙暗く、僅に今江に通ずるに過ぎざりき、(以下略)

とあることによる。

「淺井畷手」石川県小松市大領町に浅井畷古戦場がある。ここは「北陸の関ケ原の戦い」とも言うべき「浅井畷(あさいなわて)の戦い」の戦跡で、これは本文に出る通り、北陸に於ける「加州二代主」前田「利長」(利家の嫡男:東軍)と「丹羽長重」(織田氏家臣丹羽長秀の嫡男:西軍)の戦いが行われたところである。ウィキの「浅井畷の戦い」によれば、慶長三(一五九八)年の『豊臣秀吉の死後、次の天下人の座をめぐって徳川家康が台頭する』が、『これに対して、豊臣氏擁護の立場から、豊臣氏五奉行の一人である石田三成や大谷吉継らが』慶長五(一六〇〇)年、『会津征伐に向かった徳川家康ら東軍に対して、敢然と挙兵した』。『前田利長は豊臣氏五大老の一人で、前田利家の嫡男であったが、利家の死後、生母の芳春院(まつ)を人質として江戸に差し出していた経緯から、東軍に与した。一方、西軍の大谷吉継は前田利長の動きを封じるため、越前や加賀南部における諸大名に対して勧誘工作を行なった。その結果、越前の諸大名の多くが、西軍に与した』。『吉継の勧誘工作は成功』し、『これにより、西軍は一戦も交えることなく、越前と加賀南部の諸大名を味方につけることに成功した』。『これに対して、前田利長は加賀以南の諸大名が全て敵となったことに危機感を抱き、加賀南部や越前を制圧すべく』、二万五千人を率いて慶長五(一六〇〇)年七月二十六日、『西軍に与した丹羽長重が守る小松城を包囲攻撃した。小松城の守備兵は長重以下、およそ』三千『名ほどに過ぎなかったが、小松城は「北陸無双ノ城郭」(「小松軍記」より)とまで賞賛されるほどの堅城であった。このため、兵力で優位にありながら、前田軍は城を落とすことができなかった。利長はこのため、小松城にわずかな押さえの兵を残して、西軍の山口宗永が守る大聖寺城に向かった。そして』八月二日に『包囲攻撃を開始した』。『守る山口軍の兵力はおよそ』二千『人ほどに過ぎず』、二『万以上の前田軍の前に遂に敗れて、山口宗永・修弘親子は自害した』。『一方、大谷吉継は伏見城攻防戦など、上方にとどまっていたため、しばらくは北陸に対する軍事行動を起こすことができなかったが』、八月三日に『入って越前敦賀に入り、北陸方面に対する軍事行動を起こした。しかし、吉継の率いる兵力はおよそ』六千『人ほどに過ぎなかった』。『吉継は前田軍に対して、「上杉景勝が越後を制圧して加賀をうかがっている」・「西軍が伏見城を落とした」・「西軍が上方を全て制圧した」・「大谷吉継が越前北部に援軍に向かっている」・「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している」など、虚虚実実の流言を流し』、『この流言に前田利長は動揺した』。『さらに吉継は、西軍挙兵のときに捕らえていた中川光重(利長の妹婿)を半ば脅迫して、利長宛に偽書を作成させ、それを前田利長のもとへ届けさせた』りした。『これら一連の吉継の謀略から、利長は自分の留守中に居城の金沢城が吉継に海路から襲われることを恐れ』、八月八日、『利長は軍勢を金沢に戻すことにしたのであ』った。『しかし、撤退するためには問題があった。前田利長は加賀南部に攻め入るに当たって、小松城を攻め落とせず、わずかな押さえの兵を残して大聖寺に進軍していた』『ため、撤退途中に丹羽軍が前田軍を追撃する可能性があったのである。利長はできるだけ隠密裏に撤退を行なおうとしたが』、二万五千『人もの大軍勢の動きを隠密裏にすることなどは不可能だった。丹羽長重は前田軍の金沢撤退を知って、軍勢を率いて小松城から出撃した』(以下が「浅井畷の戦い」)。『小松城の周囲には泥沼や深田が広がっている。その中を、幾筋かの畷(縄手)が走っている。畷とは縄のように細い筋になっている道のことであるが、小松城の東方に浅井畷という畷があった。長重はこの浅井畷で兵を率いて前田軍を待ち伏せした』。八月九日、『前田軍が浅井畷を通ったとき、待ち伏せしていた江口正吉ら丹羽軍が攻撃した。畷のために道幅が狭く、大軍としての威力を発揮することができない。このため、前田軍は被害を受けたが、前田軍の武将・長連龍』(ちょうのつらたつ 天文一五(一五四六)年~元和五(一六一九)年:本文に出る前田撤退軍の殿(しんがり)を務めた「長九郞左衞門」のことである)や『山崎長徳らの活躍もあって丹羽軍を撃退し、何とか金沢に撤退することができたのであ』った。八月末、『利長は家康の命令を受けて美濃に進出するべく再び行動を起こ』した。『丹羽長重は利長に降伏を申し入れたが、遂に関ヶ原本戦には間に合わ』ず、『更にこの時、先の戦いには参加していた利長の弟の前田利政は、居城である七尾城に篭ったまま動かず、東軍には加わらなかった』。『利政はかねてより西軍への参加を主張していたとも言われ』、『また、西軍が自分の妻子を人質に取ったことを知って出陣を躊躇したもので』、『西軍に加わる意思はなかったとする説もある』。『しかし、北陸における西軍の奮戦は報われ』ず、九月十五日の『本戦で西軍が壊滅したことから、越前・加賀南部の諸大名は東軍に降伏を余儀なくされ、丹羽長重や前田利政をはじめ多くの諸大名は、家康によって改易されてしまったのである』とある。長々と引いた理由は、この後で登場する「江口三郞左衞門」が実に百五十年前の先祖のことを思いやって慙愧の念に堪えず、歯噛みするシーンを是非とも十全に理解して貰いたいと思ったからである。

「江口三郞左衞門」「石川県史 第二編」の「第四節 大聖寺淺井畷二役」のここここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)に丹羽長重の将の名として出る。以下の段落に登場する人物の先祖であるから、特に注意されたい。

「山代橋」不詳。

「八田三助」先の「石川県史 第二編」の「第四節 大聖寺淺井畷二役」のここ(二行目)に長連龍の家臣で「浅井畷の戦い」で山代橋に赴こうとしたところを江口らの丹羽勢に襲われて戦死した旨の記載があるから、この「伏せし地」(伏せて隠れていたの意のようにとってしまうが)というのは、討ち死にした場所の謂いであるように思われる。

「水越縫殿」前注のリンクの同じ個所(後ろから二行目)に帰城した利長が十二日に『水越縫殿助』らに対して『感狀及び刀劍黃金を贈』ったとあるので、彼は戦死していない。

「岩田傳左衞門」長の家来に岩田姓は複数いるが、「石川県史 第二編」の索引を見るに、前々注のリンクの同じ個所(最終行)に「水越縫殿」とともに褒賞を貰った『岩田盛弘』の通称が「傳左衞門」のようであるから、彼も助かっている

「長家」長連龍の家来。

「墳墓累々として殺氣猶あるに似たり」ウィキの「浅井畷の戦い」に、『浅井畷の戦いでは前田軍の最後尾を務めた長連龍の部下』九『人が戦死したと云われており、古戦場にはその』九『人の武将の』供養のための『石塔が建てられている』。『それぞれの石塔の向きや配置は不規則であり、それは戦死した』それぞれの『武将が倒れた方向に向けて建てられたためと伝えられている』とある。以下、九名の武将とその供養塔と関係データのリストが載る。]

 寶曆の頃從僕少々つれし武士、山中(やまなか)へ湯治して歸るとて、此所へ廻(まは)りて念頃に尋らるゝ。里人しかじかのよしかたり、其頃金澤の老中村井豐後公任官の頃なりし故、其事を語りしに、彼(かの)武士泪(なみだ)をこぼし、

「我は奧州二本松城主に仕(つかへ)る江口三郞左衞門と云ふ者なり。先祖が戰功の地を思ひて、事の序に北國を經て下るなり。其村井氏・長氏にも我等が先祖武功の劣れることは非ざれども、我は小身の主(あるじ)に仕るが爲今斯(かく)の如し。彼(かの)人々は幸福にして大國の主に仕へ、果報目出度く、朝散大夫(てうさんだいぶ)の官を得らるゝ事羨し」

と齒がみして歸りけるとにや。

[やぶちゃん注:「寶曆」一七五一年~一七六四年。

「二本松城主」現在の福島県二本松市郭内にある別名霞ヶ城。この当時は二本松藩六代藩主丹羽高庸(にわたかやす 享保一五(一七三〇)年~明和二(一七六六)年)の居城(藩庁)。

「村井豐後公」加賀藩年寄で加賀八家村井家第六代当主であった村井長竪(ながかた 元禄一〇(一六九七)年~宝暦七(一七五七)年)。父は加賀藩大年寄前田孝行であったが(五男)、加賀藩年寄村井親長に養子に入った官位は従五位下・豊後守。本姓は平氏(桓武平氏)。宝永七(一七一〇)年に村井親長の養子となり、正徳元(一七一一)年、養父の死去により家督と知行一万六千五百石を相続、年寄として藩主前田吉徳(よしのり:第五代)・宗辰(むねとき)・重煕(しげひろ)・重靖(しげのぶ)の四代に仕えた。寛延元(一七四八)年には吉徳の六男八十五郎を養子としたが、同年、八十五郎の生母真如院が前藩主生母の毒殺未遂の容疑で禁固処分となり、寛延二(一七四九)年年に死去し、長堅は八十五郎との養子縁組を解消、代わって吉徳の七男健次郎(前田重教)を養子とする約束を交わすが、宝暦三(一七五三)年、健次郎が藩主重靖の後継者となったため、養子縁組の約束を解消、宝暦四(一七五四)年に実兄前田孝資(たかすけ)の三男長穹(ながたか)を養子とした。宝暦五(一七五五)年に従五位下・豊後守に叙任されている。宝暦七(一七五七)年一月四日に没した。享年六十一。家督は養子の長穹が相続した(以上はウィキの「村井長竪」に拠る)。この事蹟から考えて、ここのシークエンスは以下の歯噛みの謂いから見て、宝暦五年から宝暦七年の間であると考えてよいように思われる。

「朝散大夫」従五位下の唐名。江戸時代には家門大名の内、傍流で知行の少ない家・譜代大名・十万石に満たない外様大名・大身の旗本は皆、従五位下に叙せられ、主に大名・有力旗本乃至は御三家・御三卿及び家門筆頭の福井藩の家老及び加賀藩の家老本多氏や、長州藩の支族吉川氏が岩国藩として立藩を認められた際などに叙せられている。特に加賀藩の本多氏は位階のみの散位(内外の官司に執掌を持たないで位階のみを持つ者)であったため、「従五位様」「従五位殿」と他称された、とウィキの「従五位」とある。因みに、明治維新後はこの従五位下以上の者が「貴族」として扱われた。]

 此大領野の中(うち)、松の一群(むら)高き所あり。丹羽氏の母堂を火葬せし灰塚なり。此所に希有(けう)なる木魂(こだま)あり。東北の間に向ふて呼ぶ時は、暫くして前後二度に答(こたへ)をなす。いづくの處にか響くなるべき。近くこたへ來るなり。勢州の「鸚鵡(あうむ)石」、江州八幡にも「あうむ石」あり。皆石に當りて細くこたふ。此大領野は松原にして原野なり。いかなる故と云ふ事を知らず。强ひて名つけば、「あうむ野」共(とも)云ふべきにや。此邊(このあたり)に「蛇形の松原」あり。いづれも白根に對して秋月の景最もよき所なり。

[やぶちゃん注:「丹羽氏の母堂を火葬せし灰塚」現存しない模様。

「勢州の」「鸚鵡石」ウィキの「鸚鵡石」によれば、これは『その石にむかって声や音を発すると、オウムのようにその声や音のまねをするとされる石で』、『その原理は、山彦に似る』とあって、その中でも有名なものとして『霊元天皇』(在位:寛文三(一六八七)年~貞享四(一六八七)年)。諱は識仁(さとひと)。称号は高貴宮(あてのみや)。『の叡覧に供したという』『三重県志摩市磯部町恵利原』(いそべちょうえりはら)『にある鸚鵡岩(おうむいわ)』(伊勢志摩国立公園内)を挙げてある。ここ。幅百二十七メートル、高さ三十一メートルの『一枚岩で、「語り場」で声を発したり、備え付けの拍子木を打つと、約』五十メートル『離れた「聞き場」にいる人には』、『あたかも岩から音が発されているように聞こえる』。『地質学的には秩父層群のチャートでできている』ことや、『岩のある和合山の南に』『構造線が通っていると推定されている』ことがその反響増幅現象を起こしている一因らしい。『岩の頂上には展望台が設けられ、磯部町の田園風景が楽しめる』とある。複数の動画を見ると、岩の壁面にかなり複雑な貫入部が多数見られ、複数回の反射や回析現象を通して聴こえてくるものと推理される(動画もあるが、現象とロケーションの性質上から臨場感・意外感が残念ながら感じられないのでリンクさせない)。

「江州八幡」「あうむ石」【2020年2月3日改稿】T氏よりお教え頂いた。滋賀県高島市音羽の「オウム岩」である。サイト「YAMAP」のこちらの上から十五枚目に写真がある。但し、ここのページには反響現象のことは書かれていない。

「蛇形の松原」不詳。]

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