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2020/02/04

三州奇談卷之二 釜谷の桃花

 

    釜谷の桃花

 千代にひく小松の城下は、加州三代利常公の隱居の地にして、町賑ひ人豐かに、致景も江山程よく、平遠の眺望最も佳境なり。所は絹を織りて世を渡る。故に女工の輩出も多し。殊に色よき婦女に非ざれば、織りける絹に艷少なしとにや。故に此織婦共、遊び日休日每には必ず近隣の花に遊び、紅葉にめで、纔[やぶちゃん注:「わづか」。]の見物にも出遊ぶ。遊人又是を見に出る故、さもなき事に群集せるも土地の習ひなり。

[やぶちゃん注:「利常」加賀藩第二代藩主前田利常(文禄二(一五九四)年~万治元(一六五八)年:享年六十六)。藩祖前田利家の四男。慶長五(一六〇〇)年九月、「関ヶ原の戦い」の直前の「浅井畷の戦い」の後、西軍敗北のため東軍に講和を望んだ小松城の丹羽長重の人質となっている。この人質としての小松城内での抑留されていた時、長重が利常に自ら梨を剥き与えたことがあり、利常は晩年まで梨を食べる度にこの思い出を話したという逸話が残る。同年、跡継ぎのいなかった長兄利長の養子となり、名を利光とし、徳川秀忠の娘珠姫を妻に迎えた(この時珠姫はわずか三歳であった)。徳川将軍家の娘を娶ったことは、利常にとってもその後の前田家にとっても非常に重要な意味を持つことになった。慶長一〇(一六〇五)年六月、利長は隠居し、利常が家督を継いで第二代藩主となった。その後、寛永一六(一六三九)年六月に嫡男光高に家督を譲るとともに、次男利次に富山藩十万石を、三男利治に大聖寺藩七万石を分封し、二十万石を自らの養老領として、小松に隠居した。この隠居の際、家光は制止したが、利常は聞かずに隠居届を出して隠居したという。支藩の創設と近江の飛び地により、加賀藩は公称高百二万五千石となった。八条宮別業(桂離宮)の造営に尽力したのを機に、京風文化の移入にも努め、後に「加賀ルネサンス」と呼ばれる華麗な金沢文化を開花させた。しかし、正保二(一六四五)年四月に光高が急死し、跡を継いだ綱紀が三歳と未だ幼かったことから、六月に将軍家光からの命令で綱紀の後見人として藩政を補佐した。利常は実質の治世の間、常に徳川将軍家の強い警戒に晒されながらも、それを巧みにかわして、百二十万石に及ぶ家領を保った。内政において優れた治績を上げ、治水や農政事業(十村制・改作法)などを行い、「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの盤石の態勢を築いた。また、御細工所を設立するなど、美術・工芸・芸能等の産業や文化を積極的に保護・奨励した。一方で、綱紀の養育のために戦国時代の生き残りを綱紀の近くに侍らせて、尚武の気風を吹き込んだ。また、綱紀の正室には将軍家光の信頼の厚い幕府重鎮保科正之の娘摩須姫を迎えるなど、徳川家との関係改善に努めたと、ウィキの「前田利常」にある。

「所は絹を織りて世を渡る」「石川県能美郡誌」(国立国会図書館デジタルコレクション)の「小松町」の「產業」の第一に「製絹」が挙がっている。それによれば、濫觴は不明ながら、慶長三(一五九八)年に小松城の丹羽長秀の旗印の地布を製して献上したと伝え、前注に見る通り、利常の産業奨励策で発展したことが記されてある。]

 寶曆三年の事とかや。彌生三日は人の遊ぶ日なり。其の日、殊に空もの長閑(のど)けくて、人々そこ爰(ここ)と誘ひ步きけるうち、釜谷(かまたに)といへる所は小松の東南五町餘を隔てゝ山入の地、大野・花坂へ行く道なり。釜谷神社は、則(すなはち)吳服の神躰にて、女工紡績を守り給ふ神なれば、多く此社へ詣づ。况や其邊りに吉竹と云村あり。猿を廻して世を渡る故に、此社頭へ猿を呼び來りて、今樣に拍子をとり、踊りつ舞ふ。色も鄙(ひな)めきながら又莊觀なり。猿は初め諸國より求めて敎へて、可ならざる者は直ぐに此宮に放つ。故に捨猿も又多し。是等の興ある地故、女子の輩殊に毛氈すき間もなく敷詰めけり。けふは猶更桃花は爰かしこに開き、藤も櫻も梢を爭ひ、菜種・山吹も村里をめぐり、暖氣郁々(いくいく)たれば、日あたりに扇を隔て、初めて魚賞してうたひうかれ行(ゆき)ぬ。

[やぶちゃん注:「寶曆三年」一七五三年。加賀藩第七代藩主前田重煕(しげひろ)の治世であるが、彼はこのシークエンスの一か月後の宝暦三年四月八日に二十五歳の若さで死去し、跡は異母弟の重靖が継いだ。この少し前、延享五(一七四八)年に発生した、所謂、「加賀騒動」(六代藩主前田吉徳に登用された大槻伝蔵ら改革派と、家老前田直躬(なおみ)ら門閥重臣との対立に端を発し、吉徳の死後、七代宗辰の急死や江戸上屋敷における毒物投入事件などが起こり、吉徳の側室真如院と大槻らによる家督相続に絡む陰謀とされ、大槻一派は死に追いやられた事件)で藩中は混乱が続いていた。

「釜谷」石川県小松市吉竹町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の東端附近と推定される。

「東南五町餘」五町ではおかしい。小松城跡から計測すると、この地区は直線でも四キロ以上離れている。国書刊行会本では『五十余町』(五キロ半)で腑に落ちる。

「大野・花坂」石川県小松市花坂町が吉竹町南東に接し、そのさらに南東に大野町がある。

「釜谷神社は、則(すなはち)吳服の神躰にて、女工紡績を守り給ふ神なれば、多く此社へ詣づ」これは吉竹町の南東部にある幡生(はたさや)神社である。「石川県神社庁」の同神社の解説に、祭神を幡生神・稲倉魂命・大田神・伊弉諾尊・伊弉冊尊・菊理媛神とし、『釜谷さんと呼ばれている。延喜式内社。養老』二(七一八)年、『泰澄の創建にかかり、天平宝宇』二(七五八)『年、淳仁天皇が本社に国幣を捧げられてより、爾来』三百六十『年間、奉幣の儀が行われた。文治』五(一一八九)年に『富樫泰家が深く崇敬して神領を寄進し、社殿堂塔を再建した。前田利常が幡生の総社・呉服明神・加賀絹の守護神として、深く崇敬したので、小松の機織業の参拝が多くなった』とある。

「是等の興ある地故、女子の輩殊に毛氈すき間もなく敷詰めけり」は国書刊行会本では『是等の興ある地故、女子の輩殊に多く往くなれば、是がために少年の蕩子又来りて、路傍の草の上、毛氈透間もなく敷つめけり』となっている。]

 社より山入五丁許り[やぶちゃん注:五百四十六メートル。]に、大きなる池あり[やぶちゃん注:複数、現存する。現在のそれは調整池であるが、この中央のものが以下の「瀧」から、それらしくは見える。]。此水瀧となりて下り落つ。其瀧迄うかれて人もゆけども、此瀧を上りて上の塘(つつみ)の春草には行く人も希なりしが、其日、小松細工町[やぶちゃん注:小松市細工町がある。]と云ふ所の靑年の男三人連にて、桃花を尋て此社へ詣で、道々の芝の上にまどひせる婦女に戲れて、且(かつ)酒を被(あほ)り、早歌口に任せて唱へ、左りに步み右にたどり、千鳥足して行き行きする程に、彼瀧の元まで來りければ、漸々(やうやう)日は西に傾き、多く道のべの毛氈をはらひ、辨當を仕舞ひ、椀・箸の類ひを流に投込みて、人々呼はり廻はして、歸路に趣くべき頃になりしに、彼三人は猶酒に任せて瀧を上り、うへの池のつゝみへ來りけるに、此のつゝみの上に二十五六歲許りなる女子、人の内儀と見えてこうとうに[やぶちゃん注:「高頭」か。]髮ゆひ、衣裝もさも取繕ひたるに、十八九の女工と見えしを、供と覺しく一人具して、此池のつゝみに靑き敷物を廣げ、辨當取散らし、且つ多く草を摘みたる躰(てい)なるに、此三人を見て物を取隱すやうなり。

 若者共、

「扨は恥らへる躰なり」

と、彌(いよいよ)彼敷物の上ににじり上りて、詞を懸け、

「狼籍御免あるべし」

と腰の小筒(ささえ)取出して、

「主人へは恐るべし、侍女へは苦しからじ。路傍の花誰(た)れか一枝の興をとがめん」

と云へば、女曰く、

「我、侍女にあらず、詞をな賤しめ給ひそ。然共(しかれども)春風咎むべきことやあらん、しかも人間の興もだすべきにあらず」

[やぶちゃん注:「もだす」ここは「無視する」の意。]

と終に盃をうけて、

「秋月三峽の色あり」

と微笑して、是より酒たけなはにぞ廻(めぐ)る。

 少年の曰く、

「われ主人と云ひたる人は、扨は同胞(はらから)なるか。」

 女頷づく。

 少年の者則(すなはち)うたうて[やぶちゃん注:ママ。「歌ふて」。]、

「梅を命の春さへも。」

 主人曰く、

「曲(きよく)長きこを止(やめ)よ、歸路道々相和すべし。日も早海邊の松にかゝるものを」

とて、一つの器を取隱(とりかく)す。

 一少年戲れて是を引こぼしけるに、草にて搗(つき)たる團子なれば、則(すなはち)取りて喰はんとす。

 二女押しとゞめて曰く、

「是は我輩密(ひそか)に貯ふるものなり。人の喰ふべき物に非ず。」

 少年いよいよ戲れて、留(とむ)る手を無理に引離し、つゞけて二枚を喰ふ。

 女子いためる色ありて曰く、

「終に此子あやまつ」

と。

 其中一少年、酒をかふむること多からざる者あり。女子が數語を聞くに、人間を以て別物とするに似たり。

 日暮るゝに隨ひて顏色光りあり。眼中もすごく見えけるまゝ、俄に形を改め手をつき、暇(いとま)を乞ひて二子を携へて立去る。

 一人は猶酒にふけりて、

「二女子を伴はん」

と云けれども、

「道にてこそ待ため」

と無理に連歸りける。

 麓ははや日くらうして、女子の類ひは皆歸りて、無賴(ぶらい)の男のみ猶未だ殘りたり。人々に語りて聞合すに、

「元來小松は廣からざる所なれば、端々の人のあらかたに指折(ゆびをり)盡せども、左(さ)あるべき女子(をなご)も覺へず。且(かつ)供もなくてさる年若き姊妹の來り遊ぶべきにも非ず。いか樣(さま)待ちて見よ」

とて、亥の刻[やぶちゃん注:午後十時前後。]近く迄見合せ共(ども)終に來らず。

「此道外に出づべき道にもあらぬに、いかなる所の婦女にや」

と、訝り歸りけるが、小松の町へ入りてこそ、先の草餅を喰(く)ひし一少年、頻(しきり)に腹痛し、忽ち狂人の如く大聲上げて叫び廻り、

「餅は返すぞ餅は返すぞ」

と呼はりしが、暫くして七竅(しちけう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「しちきょう」。人間の顔にある七つの穴。口・両眼・両耳・両鼻孔。]より水夥敷(おびただしく)出で、其夜終に死(しに)けり。

 其頃は老猿の所爲の樣に云ひけるが、いかなることにやあらん。此外にも此如(かくのごとき)こと聞(きこえ)し。

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