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2020/02/23

三州奇談卷之二 金莖の溪草

    金莖の溪草

 金澤岡島備中公の家中、大平兵左衞門といふに聞きし。

[やぶちゃん注:標題は「きんくきのけいさう」と読んでおく。

「岡島備中公」加賀金沢藩士で重臣の岡島一吉(かずよし 永禄二(一五五九)年~元和五(一六一九)年)を始祖とする岡島家。一吉は十七歳で藩祖前田利家に仕え、「小田原攻め」などで戦功を立て、「大坂冬の陣」では第二代藩主前田利常に従った。

「大平兵左衞門」不詳。]

 瑞龍院利長卿の世の頃にや、小塚何某と云ふ新番の士、公用ありて越中川上の村に在宿せしに、或日、

「醫王山(いわうぜん)の山上に池あり。」

とて、公務のいとま、心晴(こころばら)しがてら、一僕をつれて、此山に登られける。

[やぶちゃん注:「瑞龍院利長卿」加賀藩初代藩主前田利長(永禄五(一五六二)年~慶長一九(一六一四)年)。藩祖前田利家の長男。慶長三(一五九八)年に利家より前田家家督と加賀の金沢領二十六万七千石を譲られた。男子がなかったため、異母弟の利常(利家四男)を養嗣子として迎えて越中国新川郡富山城に慶長一〇(一六〇五)年六月に隠居した。法名は瑞龍院殿聖山英賢大居士。高岡に葬られ、後に利常が菩提寺として瑞龍寺を整備した。私の好きな寺だ。

「醫王山」読みは現行の読みに従った。石川県金沢市と富山県南砺市に跨る標高九百三十九メートルの山塊。白兀山(しらはげやま)・奥医王山・前医王山などの山塊の総称で、最高点は奥医王山。ここ(グーグル・マップ・データ)。養老三(七一九)年に白山を開いた泰澄大師が開山し、薬草が多いことから、唐の育王山に因んで育王仙と名付けたのが始めとされ、三年後の養老六年、元正天皇が大病に罹ったが、泰澄がこの山の薬草を献上したところ、快癒され、帝は大いに喜ばれ、泰澄に神融法師の称号を下賜い、山を「医王山」と命名されたという。他にも薬草が多く、薬師如来(大医王仏)が祭られたことが山名の由来とする説もある(ここは概ねウィキの「医王山」に拠った)。

「池」奥医王山の近く(東北四百メートル下方)に竜神池がある(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイト「YamaReco」のこちらや、サイト「YAMAP」のこちらで写真が見られる。]

 頃は卯月の初めにて、猶、また、山櫻の散(ちり)がてなるも、靑葉の梢に吹交(ふきまぢ)りて、道あたゝかに興ありけるが、山の半腹に至る頃、俄に空くもり、霧大(おほき)に起りて咫尺(しせき)も見分けがたし。終(つひ)に山に登ること、能はず。元の道へ下りけるに、忽ち、道に迷ひて、せんかたなく、足に任せて行きしに、谷水の流るゝ所へ出(いで)しかば、此水に、つきて、山を下る。道々、靑き草、水にひたりて、一枚に見へたり。香(かをり)、甚だ、かふばしかりし程に、是を取りて見れば、皆々、山葵(わさび)にてぞ、ありける。

『幸(さいはひ)。』

と思ひて、僕(しもべ)に數十本取らせて歸りけるが、漸々(やうやう)として宿には歸りけれども、道甚だ難所にして、まろび𢌞(まは)りして、終に山葵を持つ事、能はず。道々、皆、落しけるが、漸々(やうやう)、三本は携へ歸りける。

[やぶちゃん注:「一枚に見へたり」沢全体が巨大な一枚の葉で覆われいるかのように見えたということであろう。]

 宿に歸り、夕飯なんどしたゝむるとて、彼わさびをおろさせけるに、堅うして金(こがね)のごとし。

「ふしぎなり。」

とて、僕(しもべ)、是を主人小塚何某に見せけるに、

「實(げに)も。重(おも)し。」

とて、能く見れば、此わさび、莖も葉も、皆、黃金(わうごん)なり。

 大(おほき)に驚き、其翌日、村中のすくやかなるものをやとひ、彼(かの)澤に尋ね行(ゆか)んと催しけるに、其時の道、心覺えの所をあまねく尋求(たづねもとむ)れども、水筋は似たる所もありけれども、彼(かの)山葵は、曾て、なかりけり。

 此事、捨置(すておき)がたく、訴へければ、國君より、十村を催し、普(あまね)く探し求めさせられけるが、終に、其所、しれず。

「彼わさびは、國君へ捧げ、今、猶、あり。」

と聞(きき)ぬ。

[やぶちゃん注:実は金沢生まれの本邦唯一の真正幻想作家であった泉鏡花(明治六(一八七三)年~昭和一四(一九三九)年:本名は鏡太郎。現在の金沢市下新町(グーグル・マップ・データ)生まれ)は本「三州奇談」の愛読者であった。明治四十三(一九一〇)年九月~十一月に発表した随筆「遠野の奇聞」(柳田國男から寄贈された「遠野物語」(同年十月自費出版)を称揚したもの)の中でも、「遠野物語」の「三三」を掲げ(私は「遠野物語」の正規表現オリジナル注釈版をブログ・カテゴリ「柳田國男」で完遂している)、

   *

……(前略)……曾て茸(きのこ)を採りに入りし者、白望(しろみ)の山奥にて金の桶(をけ)と金の杓(しやく)とを見たり、持ち歸らんとするに極めて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなわは、また來んと思いて樹の皮を白くし栞(しをり)としたりしが、次の日人々と共に行きて之を求めたれど終にその木のありかをも見出し得ずしてやみたり。

 と云ふもの。三州奇談に、人あり、加賀の醫王山(いわうせん)に分入りて、黄金(わうごん)の山葵を拾ひたりと云ふに類(たぐひ)す。類すといへども、恁(かく)の如きは何となく金玉(きんぎよく)の響(ひゞき)あるものなり。敢て穿鑿をなすにはあらず、一部の妄誕(もうたん)のために異靈(いれい)を傷(きずつ)けんことを恐るればなり。

   *

(底本は所持する岩波版「鏡花全集」第廿八巻(一九四二年刊)に拠ったが、読みは一部に留めた。また、前段の引用部は底本では全体が四字下げである)と本篇をちらつかせてある。また、優れた小説「藥草取」(明治三六(一九〇三)年発表)の舞台も、この医王山である。]

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