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2020/02/08

三州奇談卷之二 安宅の石像

 
    安宅の石像

 加州安宅(あたか)の濱は、往古よりの名跡、「越の高濱」と云ふは爰(ここ)なり。中古の海道三湖の水戶(みなと)にして、舟持の家多し。濱は黑石・白石を分ちて、世に安宅石(あたかいし)といふ。辨慶が越えし新關の跡は何れの地にや。二つ堂は砂濱に社燈明(あき)らけく、鳥井はいくつか砂に吹埋(ふきうも)れて、笠木許(ばか)り見る物多し。大洋に對し、白根の景甚だ高く見て尤(もつとも)好景なり。浮柳(うきやなぎ)より日末道の靑松は靑海に對し、白日は白砂に映じて一望潔よし。此地靈多し。湊(みなと)には「スベリ」と云ふ魚あり。春の末(すゑ)湊へ登る。此村松露・防風尤も多し。遊人興ずるによき所なり。

[やぶちゃん注:「安宅」石川県小松市安宅町(あたかまち)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「安宅町」によれば、『この地名は、この地が「異国人が来襲した海岸」という意味からなる「寇が浦」(あだがうら)に由来するとされている』とある。

「三湖」既出既注

「水戶(みなと)」水の出入り口。内海と外海の境をなしている狭いところ。また、大河の河口。

「安宅石」砂岩の一種である「オルソクォーツァイト」(orthoquartzite)、和名「正珪岩(せいけいがん)」か。粒が粗く、九十%以上が球形に近い形に円磨された石英からなる岩石のこと。参照した「岩石鉱物詳解図鑑」のこちらによれば、『しばしば、オルソクォーツァイトとクォーツァイトquartzite(珪岩、けいがん)が区別されずに呼ばれることもあるが、クォーツァイトquartziteは変成したチャートや円磨されていない石英質な砂岩とその変成岩なども含んでおり、「ほとんどが石英からなる岩石」の総称である』とし、『日本列島のようなプレート沈み込み帯では、各々の河川の長さが比較的短く流域面積が小さいため、オルソクォーツァイトは形成されない』。『オルソクォーツァイトは、日本列島のようなプレート沈み込み帯ではほとんど産出しないが、アメリカ、オーストラリア、アフリカなどの大陸では広く分布する』とある。この付近の浜辺ではこの安宅石ばかりでなく、水晶・瑪瑙(めのう:玉髄)・碧玉(へきぎょく)・オパールなど石英系(クォーツ)の小石も少なからず採取できることは蒐集家の間ではよく知られている。個人ブログ「No Photo No Life」の「安宅関石」に採取した石の画像とともに、荒巻孚(まこと)著「生きている渚・海岸の科学」(昭和四七(一九七二)年三省堂刊)に載る馬で浜の砂礫を運び出していた当時の古い写真(キャプション『砂礫の採取(石川県小松市付近の海岸、骨材として使用される)』)が添えられてある。

「辨慶が越えし新關の跡」「安宅の関」当時の守護富樫氏が設けたと言われている関所。現在のそれはここウィキの「安宅の関」によれば、義経の北行逃走の途中とされる「如意の渡し」(私が住んでいた高岡市伏木にあったという説が有力)での『エピソードを元にした、源義経が武蔵坊弁慶らとともに奥州藤原氏の本拠地平泉を目指して通りかかり弁慶が偽りの勧進帳を読み義経だと見破りはしたものの』、関守『富樫泰家の同情で通過出来たという』能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」で有名だが、「義経記」では「安宅の渡」、「八雲御抄」では「安宅橋」という『記述があるのみで、安宅関と記載のあるもの』は実は能の「安宅」『のみで、ここに関所があったかどうかの歴史的な実在性は疑問視されている』。『現在は』正保四(一六四七)年(本書よりも前)に移転してきた『安宅住吉神社境内に位置』し、昭和一四(一九三九)年に『「安宅の関跡」として石川県史跡に指定』は『されている』。

「二つ堂」現在、その「安宅の関所跡」として史跡指定がされている場所の名が「二堂山(ふたつどうやま)」である。『小松市ホームページ「小松市の文化財」』の「「安宅の関跡」PDF)によれば(写真あり)、二堂山は『海を見下ろす松林の丘であり、ここには「安宅関址」の石碑や、義経・富樫を祀る関の宮、弁慶衣かけの松があるほか、弁慶・富樫・義経の三体の銅像が建てられている』とある。写真を見ると「関の宮」というのは、並んだ木製の祠であるが、但し、台石などから見て、近代に再建されたもののようである。しかし、古く子の原型があったとすれば、「砂濱に社燈明(あき)らけく」というのがそれを指すとしてもおかしくはないように思う。また、単純に前注に出た現在の安宅住吉神社の燈明としても問題ない。というより、「石川県能美郡誌」(大正一二(一九二三)年刊・国立国会図書館デジタルコレクション)の「第十四章 安宅町」の「安宅住吉神社」の条を見ると、本篇の後の部分で、「二ツ堂の神主、靈夢に依りて石像を海中より感得し、海士を入れて終に其所を尋ね、網を手筋に結はへ引上げ侍りし」とあるのが安宅住吉神社の相殿に祀られてある少彦名命のことであることが判り、また、この辺りではこの神社を二宮住吉大明神と呼んでいたことが記されあるからには、「二堂」は二堂山頂上(と言っても同神社公式サイトによれば海抜十五メートル)に鎮座している安宅住吉神社の別称ととるのが自然であるようにさえ思われるのである。

「鳥井はいくつか砂に吹埋(ふきうも)れて、笠木許(ばか)り見る物多し」これは神社が荒廃しているのではなく、古い鳥居が砂丘に埋もれている景色を叙述したものであろう。

「浮柳」石川県小松市浮柳町(うきやなぎまち)。次注も必ず参照されたい。

「日末」小松市日末(ひずえ)町「Stanford Digital Repository」のこちらでも浮柳ともども往時の状態(焼失した今江潟が両地区の中央東部分あったのである)を確認されたい。

「スベリ」不詳。但し、スズキ目ネズッポ亜目ネズッポ科ネズッポ属ネズミゴチRepomucenus richardsonii のことを金沢では「すべごち」と異称しているのを「石川県魚類方言集」(石川県水産試験場発行・PDF)に見出した。私は俄然、これと信ずる。ネズミゴチは異名として「ノドクサリ」「ヌメリゴチ」「ネバリゴチ」などを持ち、「リ」が含まれること、私の住んだ富山ではキス釣りの外道にこれがよく釣れ、強力な粘りのある体液を表皮から出すことを知っているが、それは確かに「スベリ」と呼んでしっくりくるからである。しかも、本文の叙述は春の末にこの砂浜海岸の梯川(かけはしがわ)河口付近へ上がってくる魚だと言っているのであるが、まさにネズミゴチは春から夏にかけて、海底から砂浜海岸のごく浅い所にもやって来るのである。しかも、食えない不味い魚なら、こんなことは記さない。美味いから書くのだ。鰓に棘もある厄介な魚だが、天ぷらにすると絶品なのだ。

「松露」菌界ディカリア亜界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロ属ショウロ Rhizopogon roseolus 。二針葉のマツ属 Pinus の樹林で見出され、それらの細根に、典型的な外生菌根を形成して生活する。安全且つ美味な食用茸の一つとして古くから珍重されてきたが、発見が容易でなく、希少価値が高い。さらに現代ではマツ林の管理不足による環境悪化に伴って産出量も激減し、市場には出回ることは極めて稀れになっている。栽培の試みもあるが、未だ商業的成功には至っていない。詳しくは参照したウィキの「ショウロ」を見られたい。

「防風」ロケーションから、セリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis である。食用として新芽を軽く茹でて酢味噌和えにしたり、天麩羅や刺身のツマ等に利用される。なお、狭義の漢方の生薬に使われる「防風」はセリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricate で、中国原産で別属で植物学的にも薬用としても無関係である。]

 寶曆六七年の頃、異國の山崩るゝことありとて、此沖へ大き成る橋流れ懸りし。其外松の類(たぐひ)材木の類多く打ちよせて、此邊(あたり)の浦邊德付(とくづき)たる里多し。此安宅殊に多かりし。流れよるによき所にや、折々に色々の奇事あり。

[やぶちゃん注:「寶曆六七年」一七五六年から一七五八年二月七日まで。

「異國」加賀国以外の国。

「德付(とくづき)たる」それらの材木を売って儲けた。]

 寶曆十年八月、流れよりたる箱あり。内に死したる人三人ありき。世には「うつぼ舟」と云ひふらしける。其實は大船の小箱にして、九尺四方厚木を以てたゝみ、鉸(かすがひ)[やぶちゃん注:「鎹」。]の上へも白土(はくど)しつくひにて堅めたる物也。大船(おほふね)風難に及ぶの時は、主人たる人及び水を得ざる人は、此箱に打込(うちこみ)て天命に任すこととぞ。大波の中忽ち岸に寄らざれば、顚倒(てんだう)して人は死すれども、骸(むくろ)許(ばかり)は何(いづ)くへなりとも流れよることとなん。此人々いかなる高貴の人にかおはすらんなれども、死の緣(えにし)定(さだめ)なき他鄕の土に埋(うづも)れぬる、哀(あはれ)と云べし。久敷(ひさしく)郡代よりも尋られしかども、夫(それ)と知るべき便(たより)もなかりしにや。此安宅の濱に埋(うづ)め、箱はこぼちて、無き人の供養の爲とて、其邊りの橋板(はしいた)にぞ用られける。三人の塚には大法會ありて、諸宗會葬して有難き追福のみ有し。然共(しかれども)海上の終命迷ひの念慮深きにや、又耶蘇(やそ)・西蕃(せいばん)の人にて佛法に會はざるか、墓より夜々火もえ出(いづ)ることありき。

[やぶちゃん注:「寶曆十年八月」一七六〇年九月九日~十月八日。

「うつぼ舟」虚舟(うつろぶね)とも呼ぶ、日本各地の海辺に伝承される、時に密閉型の小船。よく知られた実話体のものとしては江戸後期の随筆アンソロジーで滝沢解(曲亭馬琴)編になる「兎園小説」(文政八(一八二五)年成立)の琴嶺舎(馬琴の子息滝沢興継)が書いた「うつろ舟の蛮女」がある。私の古いオリジナル古文授業案集「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の冒頭の「【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!」(高校国語古文の授業用なので新字)を読まれたい。「兎園小説」は同年、滝沢解・山崎美成を主導者として、屋代弘賢・関思亮・西原好和ら計十二名の好事家によって、江戸や諸国の奇事異聞を持ち寄る「兎園会」と称する月一回の寄合いが持たれ、その文稿が回覧されたが、その集大成が本書である。三百話に近い怪談奇談が語られ、当時の人々の風俗史を語る上でも貴重な資料と言える。

「鉸(かすがひ)」鎹(現代仮名遣:かすがい)。金属製で「コ」の字の形状をしており、尖った先端部が離れた端に二つある釘。両端をつなぎ合わせる木材にそれぞれ打ち込んで繋ぎとめるために用いる。

「白土(はくど)しつくひ」「白土」は漆喰(しっくい)と同義なので一語としてとっておく。その音は「石灰」の唐音に基づくもので、「漆喰」という漢字は当て字である。従って「しつくひ」とするのは誤りである。漆喰は壁・天井などに使用される塗料で、消石灰に海藻のフノリ(紅色植物門真正紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属 Gloiopeltis。私の大好物でほぼ毎日のように食している)や粘土などを練り合わせたもの。

「水を得ざる人」波に浚われなかった乗組員や客。

「打込て」飛び込んで。

「顚倒(てんだう)して」波に激しく揉まれて逆転を繰り返し。

「久敷(ひさしく)郡代よりも尋られしかども」かなり長い間、郡代からもこの遺体の三人について身元を訊ねる触書(ふれがき)が出されていたが。

「夫(それ)と知るべき便(たより)もなかりしにや」これといってはっきりと死者を同定出来る申し出もなかったからであろうか。

「無き人の供養の爲とて、其邊りの橋板(はしいた)にぞ用られける」こういう民俗習慣があったことはちょっと違和感がある。人馬に踏まれる橋板を供養と見做すことは私には出来ないからである。ただ、これがまた祟るとも思われはしないのだが。

「耶蘇」キリスト教徒。

「西蕃」大陸に於いて、中国から見て西域(せいいき)に住んでいる野蛮な種族を総体的に示す蔑称。西戎。ゾロアスター教・イスラム教・チベット仏教(これは正統な仏教であるが、かつてはラマ教と呼ばれて誤って長く異端視されており、この「西蕃」の中にはチベット族も含まれていた)その他を信仰する者たち。]

 寶曆十二壬午(みづのえうま/じんご)五月二ツ堂の神主、靈夢に依りて石像を海中より感得し、海士(あま)を入れて終に其所を尋ね、網を手筋に結はへ引上げ侍りし。高さ三尺六寸、形ち舟に類す。石の中に佛像に似たる物あり。公儀へは少彥名命(すくなびこなのみこと)とこたへ、別家に安置す。

「本體は藥師如來にして、靈驗奇特多し」

とて、五月廿日より八月十日迄、九十日が間披露ありて、三州の緇素(しそ)笠(かさ)の端(は)引きも引(ひき)らず參詣あり。末世の不思議と云ふべし。

[やぶちゃん注:「寶曆十二壬午五月」一七六二年。グレゴリオ暦では旧暦五月一日は六月二十二日。

「二ツ堂の神主」前に注した通り、安宅住吉神社の神主。【2020年2月9日:追記】同神社公式サイトのこちらの「年中行事」の七月に「十一日祭」として『相殿に祀る少彦名命をお祀り致します』とある。但し、非常に気になることがある。それはT氏よりご指摘があったのだが、安宅住吉神社のすぐ近く(南東約五百メートル)には、別に少名彦名神社という神社が存在するのである(ヤフー地図)。「石川県能美郡誌」の「第十四章 安宅の名跡の項」の同神社の記載があり(以下はわざわざT氏が電子化して下さったものを画像を見ながら加工した)、

   *

○少彥名社。安宅川の南岸なる俗稱宮田屋地方の松林中に在り、當社の縁起に因るに、古へ安宅の海中三里餘の沖に神體あることは屢傳稱せらる〻所なりき、寶暦十二年六月[やぶちゃん注:ママ。]坊九屋七平といふ者、辨天山上に蹲踞して魚族の來遊を待ちつ〻ありしに、夢中忽ち神靈の現はる〻ものあり、告て曰く、吾れ衆生の病苦を除かんが爲に、古より此處に鎭座せしが、星霜推し遷りて桑田碧海となり、今や波浪の底に沈めり、然るに當浦の住吉大神は海上鎭護の神なるが、我を誘ひて其の誓願を果し給はんとせり、汝等須らく力を盡して我を出現せしめよと、七平卽ち人に語りて海底を探りしに、果して花崗石の神體、長け一尺許[やぶちゃん注:ここでの大きさは本篇に出るものより、遙かに小さいが、後に見る通り、最初に引き上げられた実物は本篇に出るそれほぼ同じ(四寸小さい)大きさである。また、少名彦名命は元来が極小の身体ではある。]なるを得たり、是に於て社殿を營みて之を祀る、明治の初年神寶を鏡とすぺきを命せらる〻に及び、此の神體は神職の倉庫に藏めたりしが、明治十九年坊丸屋の姻戚長野與三郞は、其所有地なる宮田屋地方が開墾せられて漸く一部落を形成するに至りしを以て、產土神とせんとの宿願を起し、明治三十一年其子與平の時に至りて獨力社殿を建築せり、
[やぶちゃん注:以下ポイント落ちで全体が一字下げ。]
〔少彥名社緣起〕
抑加賀國能美郡安宅に垂迹まします住吉大明神人末社少彥名命と奉稱は、いともかしこき御神とて、德化利生の廣大なる事、日本記神代卷に詳し、今此所に鎭座ありし來由は、安宅崎三里沖、深さ二十四尋[やぶちゃん注:二十八メートル前後。]の海底より現まします事、幾千代萬歳とも其數をしらず、或時風波靜にして海水淸めるに、漁浦の船を浮めて彼海底を見れば、奇哉神像のおはしましける所顯然たり、雖然[やぶちゃん注:「しかりといへども」。]數十丈の水底なれば、引上擧げむとするに便なくして、空しく雪霜を積むこと久し、時哉[やぶちゃん注:「かな」。]寶曆十二年水無月の寒をいとひつゝ、午時に睡眠せしに、予[やぶちゃん注:「われ」か。前文の坊丸屋七平ととっておく。]に頻りの夢想あり、怪しく思ひつゝ、疑らくは雜夢ならんと、等閑にし置ぬ、又來る夜再び三度、全身に汗して、心魂的當の眞夢と覺ゆ。其告に曰、吾衆生の疾患をはじめ.都て[やぶちゃん注:「すべて」。]災害を解除得させんの爲、遠きむかしより此土地に住むこと久し、しかれどもものは變易ならひにて、鎭座せし島すらも、いつしか海水溢[やぶちゃん注:「あふれ」。]みちて.底のもくづにかくれぬ、汝奉仕の本宮住吉の大神は、功德異國までも聞えて蒼海をこえ、波濤の上を渡る船の難なく、楫取水主[やぶちゃん注:「かこ」。]のあやまちもあらで、世を安穩に渡れとこそ、日夜朝暮無間斷[やぶちゃん注:「かんだんなく」。]あはれみ給へども、蒼生[やぶちゃん注:「さうせい」。人民。]の犯しけん、樣々に歎しき[やぶちゃん注:「なげかはしき」。]事もあれば、天の御蔭日の御蔭とかくれましまし、救ひ給はん御誓ふかく、鹽の八百會[やぶちゃん注:「しほのやほあひ」。潮流が四方から集まり合する所。]を分け入底筒男の因[やぶちゃん注:「ちなみ」。]も外ならで、いとねもごろにわれも誘れ[やぶちゃん注:「さそはれ」。]、誠に力をあはせ、心を一つにしたまへば、いそのかみふり行[やぶちゃん注:「ゆく」。]年の回りかはりて、當時は二堂の上の方、錢山といへる所の下一町沖に寄り來れり、故に浦人を語らひ、此月五日十一日二十八日のうちに[やぶちゃん注:何らかの吉日を神は指摘しているようだ。]、陸地へ遷座あらせよかし、吾は利民安國の爲なれば、雨露の凌[やぶちゃん注:「しのぎ」。]に一宇を建、境内繁茂の瑞垣に、松柏のいつもかはらぬ常盤木を植、信心偈仰あらぱ、願ひによりて恩顧を施すべしと、宣ひ終りて夢うちさめぬ、奇瑞といふはおろか、筆舌の及ぷ所にあらず.依て示現を庶民に早く告まく欲すれども、うきふししげき業にうち紛れて過行しに.度重ればあらはるゝとや、彼阿漕が浦のふることも例ありれぱ.祕置[やぶちゃん注:「ひめおく」。]くも本意ならず、此浦の長たる人に、密に語りしを、知四の道理[やぶちゃん注:「ちしのことわり」。たとえ二人だけの密事でも必ず他に漏れることをいう語。後漢の楊震が荊州刺史に赴任する折り、人から金十斤を贈られ、「暮夜知る者無し」と慫慂した際、震は「天知り、地知り、我知り、子(相手)知る」と答えてそれを受けなかった故事に基づく。]や顯れけん、いつとなく里中に充滿り[やぶちゃん注:「みちみたり」。]、扨可止事[やぶちゃん注:「やむべきこと」。やらずにおくこと。]ならねぱ、衆人を催しつゝ一葉に棹さして、彼海上に漕ぎ行、歡[やぶちゃん注:「よろこび」。]の音[やぶちゃん注:「こゑ」と当て訓しておく。]一同に、そこよ爰よと尋ぬれども、折から北風強く、逆まく波に水底曇り、これぞと思ふ神姿もあらぎりける、かくては示現を空しくするに似むり、唯一心不亂神にまかするより外はあらじと、本宮に立もどり、再拜ぬかづき.前記の三日の日取のうち、御鬮[やぶちゃん注:「みくじ」。]うかがひしに、十一日にあがり紿はんと示敎[やぶちゃん注:「しめしをしへ」。]給ふ、實や[やぶちゃん注:「げにや」。]西の海槞が原[やぶちゃん注:不詳。「まどがはら」「ろうがはら」で沿岸海域に名らしい。]にて、三つの瀨のうち.中津瀨にして御秡せさせ給ふ理にも叶[やぶちゃん注:「かなひ」。]、今又みかの原、わきてめでたき十一日との御告は希代の事也.其日も既に待得て遷幸の事いそがにしきに.海水淸[やぶちゃん注:「きよく」。]わたり、深さ四尋半[やぶちゃん注:七~八メートル。]の底に、丑寅に向はせ、日月の輝給ふに映じます惣形[やぶちゃん注:「さうぎやう」、。全体の形。]三尺二寸、御正體[やぶちゃん注:「みしやうたい」。]一尺、細面體[やぶちゃん注:「ほそおもてのてい」と訓じておく。]の殊勝成[やぶちゃん注:「なる」。]はたとふるにものなし、蓋[やぶちゃん注:「けだし」。]丑寅は艮位[やぶちゃん注:「こんゐ」。]にて、陰陽始終の門深き物語り事あらんか、凡[やぶちゃん注:「およそ」。]人覺りがたし、于■[やぶちゃん注:二行全二字の割注のようだが、判読出来ない。]此度は御敎の儘に奉遷幸[やぶちゃん注:「遷幸奉り」。]、假に藁造りの一宇を營、當社[やぶちゃん注:安宅住吉神社。]の末社と奉祟りぬ[やぶちゃん注:「あがめたてまつりぬ」。]、願はくば宮殿を改[やぶちゃん注:「あらため」]造りて春秋の額[やぶちゃん注:末永き年月に亙って祀ることを言っている。]厚く祈らば.末世の衆生海上の難ものがれ、疾患の災もたち所に救ひ給はん、倩[やぶちゃん注:「つらつら」。]おもんみれば、此所を安宅といふ字義も、安はやすし、宅は家也.人の住居定む、しかれば兩神の神慮に應ぜし浦なれぽ、萬民やすく住よしの訓疑べからず、能[やぶちゃん注:「よく」。]おもひふかく崇よ[やぶちゃん注:「あがまへよ」。]と爾[やぶちゃん注:「しか」。]いふ、午六月[やぶちゃん注:宝暦十二年は壬午。]

   *

T氏は『明治に個人が建立安置した「少彦名社」を二ページ使って書いているのは、日置謙』(本底本の校訂者でもある)『氏の郷土史家の見識でしょう』と述べておられる。また、『堀麦水は寶曆十一年から十三年は小松に居たようなので(「加能郷土辞彙」の堀麦水の項)、実物の「少彥名命」=「本體は藥師如來」を拝観したのでしょうか?』とも述べておられる(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)。これを読むに、どう考えても本篇の話と同一としか思われない。上記でも安宅住吉神社を本社と言っており、現存する少名彦名神社こそが、本来の海中から得られた神体の正統なルーツを真に伝えるものであったととってよいように思われる。

「網を手筋に結はへ」網を掛けてそれに縄を結わえ、その繩を手で引いて。

「三尺六寸」一メートル八センチ。

「緇素(しそ)」「緇」は「黒」、「素」は「白」で、黒衣を着けた僧と白い衣を着た俗人で「僧俗」の意。

「引きも引らず」国書刊行会本は『引(ひき)も切らず』でその方がよい。

「末世の不思議と云ふべし」ここには筆者の強力な皮肉があると私は読む。安宅住吉神社の神主は霊夢による神託を受けたと称して、この奇体な石を海士に命じて探させ、海中から引き揚げ、それについて「公儀へは少彥名命とこたへ、別家に安置」(現在、同神社の主祭神は住吉三神(底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命・上筒男命(うわつつのおのみこと))で相殿神として別雷神(わけいかづちのかみ)と少彦名命を祀る)しておきながら、公儀に報告したのとは異なり、口も乾かぬ僅か数日後には(開帳の「五月廿日」から推定)少彦名命ではなくして「本體は藥師如來にして、靈驗奇特多し」と宣伝し、実に九十日間の披露で北越三州から引きも切らず僧俗が蝟集して大儲けしたというのである。因みに、この怪しげな像影の如きものを持った石を、突如、薬師如来と比定して喧伝したことが唐突に聴こえるであろうが、当時は神仏習合であるから問題なく、しかも本地垂迹説では主祭神の一人である上筒之男命は薬師如来を本地とすると考えられたことによるのである(因みに中筒之男神は阿弥陀如来、表筒之男神は大日如来を本地とする)。以上に示した如何にも怪しげな話とその展開仕儀は、如何にも「末世の」、末法の世の救い難い社僧のやりそうな「摩訶不思議」な呆れた似非霊験譚大儲け話ということになるのではあるまいか?]

 其砌、彼三人の流れよりし塚の邊り白沙の濱の中に夕顏生出(おひい)で、一夜忽ち大なる實三つ迄出來(いでき)たり。

「彼水箱(みづばこ)に死する人の感應、成佛のしるしにや。」

「此石像も故鄕(ふるさと)の氏神の寄來り給ふにや」

など、里人は云ける。

[やぶちゃん注:ユウガオ(スミレ目ウリ科ユウガオ属ユウガオ変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida)の大きな実が一夜で成る(それはあり得ないから確かに霊験である)ことを、「かの日本人でなく仏教徒でもない異邦の人々の霊が仏教の正法(しょうぼう)に感応して成仏した証しではないか?」と考えた里人の方が社僧よりも遙かに素朴で誠実ではないか。或いは「此石像も故鄕の氏神の寄來り給ふにや」とは、「彼等異国の人々の信仰する神が遙々海を越えてこの三人の死者を迎える、救うためにこの海岸に寄り来たりなさったのではないか?」という謂いである。私はこれらの里人の言葉にすこぶる共感するのである(但し、以下で筆者は怪異を示してそれをやんわり推定否定するわけだが)。

 然共、彼の天草(あまくさ)の枯木に花咲ける類(たぐひ)にて、取はやしゝは死者の了簡と違(たが)けるにや。

[やぶちゃん注:「天草の枯木に花咲ける」かの「島原の乱」(寛永一四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日~寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)の前兆とされた事実や予言に基づく謂い家木裕隆氏の論文「島原の乱でただ一人生き残った男・絵師山田右衛門作(えもさく)の生涯」PDF)の『天草四郎の出現を予言した「末鑑(すえかがみ)の書」』の章に(太字下線は私が附した)

   《引用開始》

『耶蘇天誅記』はママコス上人(マルコス・フェラァロ神父と考えられる)が慶長十七年(一六一二)のキリシタン禁教令で追放される時、『末鑑の書』という予言書を残したと伝えています。その内容を略記すると次のようになります。

「今から二十五年の後に十六歳の神の子が現われる。その子は学ばずして諸道に通じ、何一つ出来ないことはない。その時東西の雲は真赤に焼け、地には時ならぬ花が咲く。国中で山野が鳴動し、民家も草木も焼け果てる。人々は首にクルスをかけ野山に白旗がなびき、仏教・神道はキリスト教に呑み込まれ、天帝はあまねく万民を救うであろう。」

結末の部分を除いてはこの予言はよく当っております。乱の起る寛永十四年(一六三七)は予言書が慶長十七年(一六一二)に作られたとすればまさしく二十五年後となります。乱の起る直前の寛永十三〜十四年はひどい旱魃で朝焼け、夕焼けが異常であったと伝えられています。日照りで葉を振い落した桜などの木が秋に時ならぬ花を咲かすのはよくあることです。山野鳴動……以下はまさに天草・島原の乱の光景を表しております。

   《引用終了》

とある。また、坂口安吾の「島原の乱雑記」(昭和一六(一九四一)年九月発行『現代文學』第四巻第八号)にも(全集(新字)を持っているが、引用は発表年代から「青空文庫」のものを恣意的に正字化して示し、太字下線は私が附した

   *

 切支丹の陰謀は、主として、天草に行はれてゐた。小西の舊臣、天草甚兵衞を中心に、浪人どもを謀主とし、甚兵衞の子、四郞を天人に祭りあげて事を起さうといふのである。彼等はまづひとつの傳說をつくりあげて愚民の間に流布させた。それは、今から二十六年前(といへば、家康の切支丹禁令のことであらう)天草郡三津浦に居住の伴天連(ばてれん)を追放のとき、末鑑(すえかがみ)といふ一卷の書物を殘して行つた。時節到來の時、取出して世に廣めよ、と言ふのである。その書物によると「向年より五々の曆數に及んで日域に一人の善童出生し不習に諸道に達し顯然たるべし、然(しかる)に東西雲燒し枯木不時の花咲(さき)諸人の頭にクルスを立(たて)海へ野山に白旗たなびき天地震動せば萬民天主を尊(とうとぶ)時至るべきや」云々。丁度、源右衞門といふ村民の庭に紫藤の枯木から花が咲き、それも紫の咲くべき木に白が咲いた、さういふ事實にあてはまるやうに作つた傳說であつた。

   *

本「三州奇談」の優れているところは、極めて冷徹な考察にある。則ち、ユウガオの実が三つ突如三人の塚の近くに出現したのは、たまたま気づかぬうちに普通に実が育ったのであり、「一夜」というのは誤認であり、三人の死者とは関係がないと示唆した内容であり(「天草の枯木に花咲ける」は普通に自然現象(天草の場合は異常気象による狂い咲き)として理解出来ることを広義に指している)、前の里人たちの意見は死者たち霊の思い(遺恨)とは甚だ異なったものであったのではなかったか? として以下の怪異を語るのである。]

 其頃小松の濱田[やぶちゃん注:現在の小松市浜田町。]と云所の人、安宅へ用の事ありて、風雨烈しき夜、提灯を簑の下に隱し、只一人野くれの[やぶちゃん注:「野暮(のぐれ)の」。]細道を、しかも星さへ見えぬ闇夜にたどり行きける。元來近隣にて祭角力(まつりすまふ)の名にも呼ばるゝ躰(てい)の者なり、道も常に行通ふ所なれば、一點の臆心(おくしん)もなく、そゞろ鼻歌にて過ぎけるに、遙か向ひより『松明(たいまつ)か』と覺へて、燈火(ともしび)連(つらな)り來りければ、

「かゝる風雨の夜我のみにもあらざりけり。扨は安宅の者なるべし。誰にやあらん」

と、近付く儘に其燈の本(もと)を見れば、二三人連(づれ)と見へし。

 提灯と松明と打合ふ程にふり仰向(あふむ)き、顏を見合せけるに、面(おもて)皆鬼(おに)の類(るゐ)の者なり。

 一角生じて靑面(せいめん)なる者先へ見えしまゝ、

「はつ」

と低向(うつむ)し内に、二三人の鬼形(きぎやう)の者風の過ぐるが如く、一步の足音もなく行違ひぬ。

 彼者正氣は失はざれども、面色は草の葉の如く、腰さへ身ふるひて漸々(やうやう)に安宅へ走り着きけるに、主(あるじ)顏色の死灰(しはい)の如くなるに驚き、樣子を尋けるにぞ、斯くは云ひし。

 是等若(もし)彼(かの)三人にやあらん。箱より出だす時、先に他の浦に着きて盜めりと覺えて、衣類は剝ぎてなし。顏は打損じて、毛髮ぬけ、鼻ひしけ[やぶちゃん注:ひしげ。]、眼(まなこ)打寄りてひとつにもなる體(てい)なりし。いぶせき事にぞありし。其後も度々法會・流灌頂(ながれくわんぢやう)等ありし。其後はあやしみたへぬ。

[やぶちゃん注:本怪談部の傑出している点は、これら三人は日本人ではない異国の者であるらしいという設定にある。江戸時代の怪奇談集で南蛮人(広義)が霊となって出現するというケースはまず類がないからである。しかも、本篇全体が巧みに「三」という数字で連関されてあるということである。――「三湖」――異人の死者「三人」――「二ツ堂」=安宅住吉神社の祭神は住吉「三」神であること――石の高さ「三尺」――「三州」――「三」つの「夕顏」の実生――「三」人と思しき鬼形の者……非常によく書かれた特異な実話怪談と言えるのである。

「小松の濱田」現在の小松市浜田町。安宅の南東二キロ半ほど。

「腰さへ」国書刊行会本は「腰なへ」。そちらがよい

「ひしけ」「拉(ひし)げ」。押し潰れており。

「眼打寄りてひとつにもなる體(て)なりし」眼球が腐って溶け流れ出て一つ眼のように顔の真ん中にあった、というのであろう。

「いぶせき」不快な。

「流灌頂」(現代仮名遣:ながれかんじょう)布帛の幡(はた)又は塔婆を川や海に流して功徳を回向する法会。特に水死者・難産で死んだ婦人及び無縁仏などの供養のために行なわれるが、本来は魚類などを救うために行なったものである。水死者に対する施餓鬼供養と同じである。その祭壇は「小泉八雲 海のほとりにて(大谷正信訳)」にある挿絵を見られたい。]

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